リバーズ・エッジ

River岡崎京子「リバーズ・エッジ」。評価の高い作品で、私も面白く読んだ。
しかしこれを手に取ったきっかけは、「文学界」に掲載された小谷野敦のエッセイで、そこでは次のように批判的に書かれている。「『リバーズ・エッジ』に私が感じた違和感は、まさにこの「子供共同体」を神聖視する観点が、決して付随的なものではなく、本質的なものとして内在していたからだ。いじめがあろうが、軋轢があろうが、この場合は高校生である「子供」は、「大人」には理解できない共同体を構成するものである、という視点である。」
「文学者の〈いじめ〉責任」と題したこのエッセイじたいは、私は興味深く読んだのだが、いざ「リバーズ・エッジ」を読み終えてみると、その批評としては、上記引用箇所の前後を読みあわせても「?」であるといわざるをえない。
地上げされたまま、手つかずの河原のヤブ。半ば忘れられたその土地で遭遇する「死体」への、登場人物たちの奇妙にズレたリアクションが、この作品全体を貫く世界観である。この世界観を一旦了解した読者は、ちょっとイカレた登場人物たちの行動も、とりあえず違和感なく受け入れることができるだろう。
とはいえ、最後まで主人公に感情移入して物語を読み進められるとは限らない。
登場人物の一人・吉川こずえが終盤、主人公・ハルナを横目に言う。「行こ 山田君 アホはほっとこ」まさに私の主人公に対する気持ちもそんな感じ。唐突に橋の上で涙されても、なんだかなーとシラケてしまう。むしろ私は、山田君を慕い、文字通り恋に身を焦がす、田島カンナに感情移入してしまったよ。

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銀星倶楽部

20051217_1ペヨトル工房から出ていた「銀星倶楽部」の6号、ノイズ特集。
ノイズミュージックにかんする資料そのものが、あんまりないようで、今ではかなり貴重らしい。
私はどうして手に入れたのか…、忘れてしまった。

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異邦人

20070929 「きょう、ママンが死んだ」の書き出しが超有名なカミュの「異邦人」。
母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追及したカミュの代表作」と、古本屋で50円で購入した新潮文庫(窪田啓作訳)のカバーに書かれてあるのだけど、あらすじは、まあそうとしても、主人公のムルソーは「通常の論理的な一貫性が失われている男」として描かれているわけではないと思うし、この紹介文から想像する内容と、実際の内容とでは、印象にずいぶん隔たりがある。
それでなんだか期待を裏切られたようで、以前は途中で読むのをやめてしまったのだけれど、改めて読了してみれば、これがたいへん面白い。
「卒業式で泣かないと、冷たい人と言われそう」と歌ったのは斉藤由貴だが、ムルソーは、そんなことには頓着しない。卒業式ではなくて、ママンの葬式で、泣かないのであるが。しかしそれって人格にとって、特別な、決定的な何ごとかであろうか? 「冷たい人」と言う人々(検察、裁判官、陪審員ら)によって、彼は異邦人として葬られる。
カバーの紹介文は、そんな「人々」の視点から書かれたものであると解釈すれば、一応納得がいく。

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杳子・妻隠

20060821 深夜、カーペットに落ちた髪の毛が突然気になりだして、コロコロで掃除する。一度気になりだすと、壁紙の煤けた汚れや、ガラスの指紋、テーブルの上のコップを置いた丸い跡など、ほとんどヌーヴォーロマンの小説の細密描写ばりに気になりだす。
こんな人物を、昔、読んだことがある。そう思い、本棚の奥から古井由吉の「杳子・妻隠」(新潮文庫)を引っ張り出した。
『礼子は濡れ雑巾を片手に、煤けた顔で台所の混沌の真只中に立ってうつむいていた。
「何してるんだ。こんな時間に」
「ええ、戸棚の奥がなんだかカビ臭くて」
 まだそのにおいが残っているみたいに礼子は眉をひそめて、戸棚の前にゆっくりしゃがみこんだ。そして戸棚の中を雑巾で力いっぱいに拭き、手を止めて奥をじっとのぞきこんだ。』(「妻隠」より)
ちなみに「杳子」は「ようこ」、「妻隠」は「つまごみ」と読む。

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軽いめまい

20060513_1 一度だけ、小説家のサイン会というものに行ったことがあり、それが金井美恵子のサイン会で、主催者側としては新刊のエッセイ集の販促も兼ねて(というか、それが目的)いたのだけど、私はそのエッセイ集ではなく、同時にその場で売られていた「噂の娘」という小説を買って、サインの順番待ちの列に並んでいたら、店員が駆けてきて、「新刊のエッセイ集を買わないとサインしません!」と言われ、あやうくケンカになりそうになったのだけど、まもなくそれは店員の認識違いであることがわかり、無事にサインはして貰えたものの、店員は結局謝りもせず、「今回だけは、金井先生の恩情で」みたいな形で、あくまでこちらに非があるような態度を貫き通したのが私には不満で、それはともかく、金井美恵子の小説(どれもセンテンスが長い!)を読むとしばしば、そこに書かれていることから逸脱して、たとえば上に書いたような、記憶の底に眠っていた些細な出来事に思いを馳せている自分に気づくのだ、ちょうど「軽いめまい」の主人公・夏美がマンションの台所で、「水道の水を眺めながら何を考えるのでもなく、ぼうっと放心する心地よさと虚しさ」を感じるように。

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蒸発旅日記

20051113つげ義春の「新版 貧困旅行記」(新潮文庫)の中の「蒸発旅日記」。
語り部である「私」が、産婦人科の看護婦S子と結婚しようと、一方的に決めてはじまるこの「旅」は、途中、出会ったストリッパーM子に再会に行き、しかしM子は散歩に出ていて会えず、「私」がバスに乗ったところで、静かなクライマックスを迎える。
「私は去り難くなりバスの後方へ目をやった。と、そこにM子の姿が目に映った。M子は乳母車を押していた。座長の子供の子守をしながら散歩をしているのだった。まぶしく照り返すアスファルトの道をぼんやりした面持ちで、バスの後方に近付いて来た。(以下、略)」
この続きを読んだ多くの読者の感情は、「感動の涙」なんかに昇華されることはなく、やるせなさとなってとめどなく胸にこみ上げてくるだろう。
同作品は2003年、山田勇男監督により映画化された。

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男たちの円居

20060408古井由吉「男たちの円居」(講談社)。
「円居」は「まどい」と読む。
大辞林 第二版によれば、『〔古くは「まとい」。円(まと)居(ゐ)の意〕(1)まるく居並ぶこと。車座になること。 「若き紳士等は中等室の片隅に―して/金色夜叉(紅葉)」(2)親しい人たちが集まり、語り合ったりして楽しい時間を過ごすこと。団欒(だんらん)。 「ストーブを囲んでの―を楽しむ」』とのこと。
ATOKで変換すると、先頭に「惑い」と出た。無意味な偶然ではないだろう。
初出は「新潮」昭和45年5月号。パソコンはおろかワープロもない時代に書かれたこの作品が、今読んでも、まったく色あせることなく、読者の皮膚に不気味にまとわりつく。
この優れた作家の作品を読むといつも、たとえば何もない空間に、眼差しがぼんやり溶け込んで見えない何かを見、その「何か」を描写する力が、言葉には確かにあるのだ、と再認識させられる。
収録作品は他に「雪の下の蟹」(白描・昭和45年11月)、「子供たちの道」(群像・昭和44年11月)。講談社文芸文庫で入手可能(写真は単行本)。

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夢十夜

漱石の「夢十夜」の第六夜で、運慶が仁王を彫るのを、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出す迄だ」と見物人が言う場面があるが、戯曲を書くという作業もこれに似ていて、すでに書かれたセリフや登場人物のキャラクター、彼らの置かれた状況によって、次の展開が決定される。
そこにはある種の「正解」が存在する。だから作者は、自分の書いたテキストを丹念に読解する必要がある。闇雲にイイタイコトを登場人物に言わせる権利など、作者には、ない。このことに無頓着な、作者の越権行為を、ご都合主義と呼ぶ。
ところで「夢十夜」の主人公は、それならばこの自分にもできるはず、と手当たり次第に木を彫ってみるのだが、むろん素人に上手く彫れるはずもなく、「遂に明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟」り、「それで運慶が今日迄生きている理由も略解った」という結論に達する。
この結びが、めちゃくちゃカッコよくてしびれるのだが、さて、なぜ「それで~解った」のか?
「主人公の気持ち」や文脈の論理的整合性に拘泥する読みをしている限り、「正解」には、永遠に辿り着くことはできないだろう。だってそんなの、夢の住人がすることではないから。

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東京日記

20050705 内田百けん(「けん」は、門構えに月)の「東京日記」であることは間違いないのだ。
堀から出た、牛よりも大きな鰻が、電車通りを這っている。「辺りは真っ暗になって、水面の白光りも消え去り、信号灯の青と赤が、大きな鰻の濡れた胴体をぎらぎらと照らした。」という描写を読んで、私が頭に思い描いたものなのか、はたまた映像化されたものを、テレビで見たのだったか?
いや、挿絵だ。
と思い至り、「文藝別冊[総特集]内田百けん」をひろげて見た。
逆柱いみり氏のイラストがあり、そうそう、これこれ!と、ようやく合点がいった。「花火」、「山東京伝」、「烏」、「支那人」、「疱瘡神」、「白子」、「波止場」、「豹」…しかし肝腎の、「東京日記」のイラストが、ないのである。

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自由とは何か

Jiyuu 「自由とは何か」佐伯啓思著(講談社現代新書)
『普通、われわれは「自由な個人」から出発する。「自由な個人」から出発すれば、国家はそれに対する制約としてしか理解されないだろう。こうして、「権力を行使する国家」に対する「自由な個人」という図式が出てくる。確かにこの図式が妥当する局面もしばしば存在する。しかしより根底にあるものは、「自由な個人」を支える「権力を持った国家」なのである。この後者をとりわけ注意しておきたいのは、「権力」VS.「自由」や、「国家」VS.「個人」という図式はあまりにわかりやすいのに対して、「権力」や「国家」が「自由」や「個人」を支えているという側面はなかなか見えにくいからだ。』

こんな体験を思い出した。
ある芝居の、開場を待つ列で、中年というか初老の男が、若者に話しかけていた。警察は不要である。なぜなら警察が出動することにより、事件は一向になくならないのだから、と。
「キミ、そうは思わないかね?」
「はあ」
男は全共闘世代と思われた。まさに「運動」していた頃の、若い自分自身に語りかける口調だった。
今さら、社会契約論だなんだを引き合いに出すまでもなく、こうした不毛な議論はとうの昔に葬られたものと私は思っていた。だから、こんな青臭いギロンをしているおじさんを見ると、うんざりし、ぐったり疲れてしまうのだ。

著者は、本書の終盤でこう述べる。
『現代の「自由」が「自由」を蝕んでいるといってもよいし、「自由」の領域をいささか矮小化してしまっている、といってもよい。ここに現代の「自由のパラドックス」がある。』
そして、このパラドックスの生じる理由は、
『「自由」という観念に実際上、意味を与えている条件、それを支えている条件に目を向けていないからである。』
「自由」というものが、この現実社会で「自由」として成立するためには、条件がある。当たり前のことだ。にもかかわらず、この現実からことさらに目を逸らし、観念的な「自由」を唱え続けようとする、いわゆるリベラルといわれる政治家や文化人たちの顔を、私は具体的にいく人も思い浮かべることができてしまう。

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スリリング

書斎を整理していたら、「文学界」1997年9月号に掲載された平田オリザのエッセイの中で、こんな文章と出くわした。
「寺山さんの時代にはスキャンダラスであることが即座にスリリングだったわけだが、九○年代においては、それをいかに合法的に組織化していくかの方が、よほどスリリングな行為だと私は考えている。」
「寺山さん」というのは、むろん、寺山修司のことである。
筆者がなぜ、「よほどスリリングな行為だ」と考えているのか、理由は書かれていない。だが、「スキャンダラス」であることを是としていれば、筆者の今の地位はない。

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BANANA FISH

Banana吉田秋生の「BANANA FISH」は、1985年~1994年、別冊少女コミックに連載された長編漫画。
小学館漫画文庫で、全11巻+番外編1巻。本編の1巻から順に読んだ。あたりまえだ。そして2巻の巻末、渡辺えり子(改名前)のエッセイで、早くも主人公のたどる結末を知る。俗にいうネタバレを気にする方は注意されたし。
その「結末」のあり方に、読者の間で賛否があるという。ヒット作の宿命だろう。私はこの終わり方でいいと思う。というか、これがほとんどベストでは? 
けれど、後日談の「光の庭」が、私にはどうも興醒めだった。確かにこれはこれでよくできた話だし、ホロリと泣けもするのだけれど、所詮、登場人物たちからの「もらい泣き」なのだ。主人公アッシュの思い出に涙する特権は、あくまでこの超大作を読み終えた「読者」のものであり、登場人物たちのものではないハズなのに…。

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楢山節考

Narayama 深沢七郎のデビュー作(第1回中央公論新人賞)にして代表作。
いわゆる「姥捨て」の話。息子の辰平が年取った母おりんを山に置いて下りる途中で、かつて母の予言した通りに雪が降る。
「辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降ってきた! と話し合いたかったのである。本当に雪が降ったなあ! と、せめて一言だけ云いたかったのである。」
ここで、私は、うるっときてしまった。
1958年に木下惠介監督、1983年に今村昌平監督により映画化もされている。

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逃げれメロン

Nigere かつて札幌を拠点として活動した劇団、デパートメントシアター・アレフの主宰者、故萬年俊明氏の小説。巻末に、公演記録なども。
こちらのサイト か、紀伊國屋書店札幌本店 でご購入いただける。

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