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哲学

2024年10月12日 (土)

エポケー

https://kotobank.jp/word/%E3%81%88%E3%81%BD%E3%81%91%E3%83%BC-3145403#E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E5.85.A8.E6.9B.B8.28.E3.83.8B.E3.83.83.E3.83.9D.E3.83.8B.E3.82.AB.29

 

エポケーepochē
原語はギリシア語で,「判断中止」の意。古代ギリシアの懐疑論者たちの用語。何一つ確実にして決定的な判断を下すことはできないという懐疑論の立場から,判断を下すことを控える態度をいう。この態度は近世になりデカルトの「方法的懐疑」において,哲学の方法論として積極的な意義が見出された。 E.フッサールはデカルトの精神をくみながら,現象学的方法として,自然的態度によって生じる判断をかっこに入れて排去することを説き,これを現象学的判断中止 phänomenologische Epocheといった。

アーレントと労働

https://magazine.msz.co.jp/recommend/09605-talk202306/#:~:text=%E7%99%BE%E6%9C%A8%20%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AF%E3%80%81%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%86%85%E5%AE%B9%E3%81%A7%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AD%E3%80%82

アーレントは、マルクスを「全部労働にしちゃう」と批判しているんですね。生命維持も、モノをつくるのも、他者とのかかわりも自己実現も全部労働。それはすごく危険だと。まあマルクス側からの言い分はあると思うんですけど…、でも労働と全体主義は結び付いて、関係しているんじゃないか、というのが自分の読みだったんです。…現代人は、労働・仕事・活動を、みんな3つともそれなりに引き受けながらやっていかなきゃならない。アーレントって「活動」が重要で「労働」を軽視したように見られることがありますけど、僕はアーレントって労働も欠かすことができないと考えていると思うんです。仕事もそうだし。むしろその3つのバランスをどうやってとっていくか。それが我々にとっての「活動的生」であって、それが労働に偏りすぎてもいけないし、いっぽうで活動だけになっても危険だというのが、自分なりの考えだったんです。

 

労働、仕事、活動

https://note.com/onsats/n/nfe1af9f6eab8

 

アーレントは、 労働、仕事、活動の3つの基本的な人間の活動力を意味するものを〈活動的生活〉と定義している。  
労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。

 仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が永遠だということによって慰められるものでももない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。
 活動actionとは、物あるいは事柄の介入なしに直接人と人との間で行なわれる唯一の活動力であり、多数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間menであるという事実に対応している。

2024年9月10日 (火)

パノプティコン

https://www.p.u-tokyo.ac.jp/lab/ichikawa/johoka/2003/group1/hajimeni1.htm

 

この施設においては、囚人は他の囚人とたちきられ、常に監視者に姿をさらしているが、自分の方から監視する人間を確認できないようにされている。フーコーは、拘留されている者が<見られている>ことを永続的に自覚する状態をつくりだすところにこのパノプティコンの特徴を見いだしている。このように、監視されていることを内面化させることによって、囚人たちの服従はつくりだされる。
そして、このパノプティコンの「権力の自動化」と呼ばれるシステムが近代の学校にも適用される、とフーコーは述べている。近代の学校システムは、「規律・訓練」という概念によって子どもたちを秩序のなかにはめ込み、学校という一種の権力に自発的に服従する主体をつくりだしてきた、というのである。 もともと、パノプティコンという監獄施設を設計する上で「権力の自動化」システムが考え出されたわけだから、近代学校における「権力の自動化」システムも、その学校建築自体に表れているのではないだろうか。

2024年7月19日 (金)

一般意志、特殊意志、全体意志

https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3629

 

一般意志は普遍的な理想や理性的なものであり、特殊意志は個別の要望や欲求、そして全体意志は、特殊意志の総和という説明だったと思います。人間社会には一般意志と特殊意志とが両方存在していて、特殊意志は例えばサラリーマンとしての利益や、農民としての利益など、立場によって変わってくるものであり、それが集まったのが全体意志。それは当然一般意志とは異なる

2024年7月18日 (木)

間主観性 (かんしゅかんせい)

https://kotobank.jp/word/%E9%96%93%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E6%80%A7-48882

 

intersubjectivity
フッサール現象学の用語で,自我共同体,モナド共同体とも呼ばれる。彼によれば,私にとって存在するものはすべて,その存在の意味を,私自身の意識領域から汲みとるのであるから,〈我在り〉が私の原初的世界にとっての根源的な志向的根拠である。それゆえ彼は,哲学的諸学科のうち本来第1の学科は,独我論的な自我論であるとした。しかしその反面,自然的世界や文化的世界がわれわれ万人に妥当する客観的世界であることもまた自明である。では万人に共通のこの客観性はいかにして構成されうるのか。フッサールによれば〈超越論的われわれ〉として客観的世界を構成するのが間主観性である。さらに彼はこの間主観性についても,自我にとって最初の他者である〈汝〉の構成から出発して,そのような自我共同体が構成されるまでの諸段階を解明しようとした。そのさいに他我認識の根本原理と見なされたのが感情移入の理論である。

2024年7月 2日 (火)

エピクテトス

https://diamond.jp/articles/-/213639

2024年4月23日 (火)

監獄の誕生

2024年4月 3日 (水)

ヒューム

ヒュームの懐疑論

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