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哲学

2025年12月26日 (金)

フーコー

2025年12月20日 (土)

テセウスの船

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9

テセウスの船(テセウスのふね)はパラドックスの一つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。

2025年12月13日 (土)

悲しき熱帯 (レヴィ・ストロース)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%8D%E7%86%B1%E5%B8%AF_(%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9)

 

『悲しき熱帯』(かなしきねったい、 フランス語: Tristes tropiques)は、1955年にフランスで刊行された文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの著書である。1930年代のブラジルの少数民族を訪ねた旅の記録をまとめた紀行文だが、その文章にちりばめられた思想、特に優れた未開社会の分析と、ヨーロッパ中心主義に対する批判により後に本書はセンセーショナルな評価を受け、文化人類学、また構造主義におけるバイブルのひとつとなる。また人文科学にも大きな影響を与えた。終章に「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という有名な一節がある。

また、優れた記録文学としても受容され、20世紀を代表する文学作品のひとつとしてあげられることも多い。フランスの権威ある文学賞のひとつであるゴンクール賞を選考するアカデミー・ゴンクールは「フィクションでないために『悲しき熱帯』を受賞の対象外とされたのは、非常に残念である」との声明を出している[1]。1999年の「ル・モンド20世紀の100冊」では20位。また同年、テレビ番組で行われたアンケートでは、「フランス人の選ぶ20世紀の名作50」でも20位に選ばれている[2]。

2025年11月29日 (土)

差延

https://note.com/ham6344/n/nc89351fb0e37

 

たとえば、ある言葉を使って何かを説明しようとするとき、説明すればするほど、さらに別の言葉が必要になりますよね。
そしてその別の言葉を説明するために、また別の言葉が必要になって……
この連鎖は、どこまで行っても終わることがありません。

こうした“意味の無限の後退”を、デリダは「差延(ディフェランス)」という造語で表現しました。

この言葉には、「異なる(differ)」と「遅れる(defer)」という2つの意味が込められています。

つまり――

「言葉の意味は、他の言葉との差異によってしか現れず、その意味は常にどこかへと先送りされる。」

2025年11月25日 (火)

魯迅のことば

https://todays-list.com/i/+/?id=ucdeBlX3ceef

 

他人の歯や眼を傷つけながら、 報復に反対し、寛容を主張する、 そういう人間には絶対に近づくな。

2025年10月25日 (土)

哲学史

2025年10月19日 (日)

間主観性

https://imidas.jp/genre/detail/L-101-0039.html

広義には、共同的・相互的な形でこそ成立する主観・主体のあり方を指す。この意味では例えば、ヘーゲルが見いだした「我々である我、我である我々」という主体のあり方が一つの典型ともなる。しかしそれを術語として限定的な意味で用いたのは、フッサールである。フッサールは、一方では素朴な実在論を退け、客観的世界の成り立ちを意識の志向性により構成されるものとしたが、他方では、構成的な意識のあり方、つまり「超越論的主観性」が、孤立した主観性として単独に機能するのではなく、超越論的間主観性(transzendentale Intersubjektivitt 独)として複数の主観の共同性において成立すると考えた。
客観的世界の成り立ちを間主観性のうちに見いだすフッサールの思考は、他者経験をめぐる困難を残しつつも、後の現象学的思考や社会思想に大きな影響を与えた。例えばそれは、間主観性を間身体性として捉え直したメルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty 1908~61)の思考や、コミュニケーション的合理性をめぐるハーバーマスの思考などにも批判的に受容されている。しかし他方で、間主観性はいわばそこに回収されえない他者を締め出すことで成立しているのではないかといった疑念もくり返し投げかけられている。

2025年9月 5日 (金)

ルソー

https://tetsugaku-chan.com/entry/Rousseau

2025年6月19日 (木)

合理的思考のできなさ

 

合理的思考とは、前提から筋道を立てて論理的に結論を導く能力です。これができない人は:

 

感情や印象で判断しやすく、論理的整合性に無頓着。

 

誤った因果関係を信じやすい(例:「雨の日に体調が悪い → 雨は毒だ」)。

 

自分に都合のいい情報ばかりを重視(確証バイアス)。

2025年6月18日 (水)

生権力とパターナリズム

【1. フーコーの「生権力」とは】
■ 定義:
フーコーが『性の歴史』などで提起した概念で、「生(life)」そのものを対象にする権力の形態。個人の生命、健康、出産、老化、死に至るまでの身体的・生物学的側面を管理・統治しようとする権力です。

 

■ 特徴:
近代的な権力形態:主権権力(殺すか生かすか)ではなく、「生かすために管理する」権力。

 

二重の作用領域:

 

個体への監視(anatomo-politics):身体を規律化する(例:学校、軍隊、病院)。

 

種族への調整(bio-politics):人口や出生率、健康状態などの管理(例:疫病対策、衛生政策)。

 

【2. パターナリズムとは】
■ 定義:
ラテン語の「pater(父)」に由来し、権力者が被治者を「子ども」と見なし、その意思に反してでも「彼らのため」に介入・統制しようとする態度や政策。

 

■ 例:
強制的なヘルメット着用義務

 

公的健康キャンペーン(タバコ・アルコール制限)

 

強制入院・強制医療

 

■ 批判点:
個人の自律性(autonomy)を侵害する可能性。

 

誰が「善」を決めるのかという倫理的・政治的問題。

 

【3. 両者の共通点と相違点】
項目 生権力(フーコー) パターナリズム
対象 生・身体・人口全体 主に個人
動機 社会的な効率や安全のため 「本人のため」という善意
方法 規範、制度、知識を通じた統治 命令・規制・保護の名のもとに介入
自律との関係 自律を戦略的に誘導する 自律を制限・無効化することもある

 

【4. 関連する現代的文脈】
コロナ対策(ロックダウン、ワクチン義務化など)は、生権力的な管理とパターナリスティックな動機が重なる領域です。

 

「ナッジ」政策(選択を制限せずに行動を誘導する手法)は、生権力がソフト化した形と見なされることもあります。

 

【5. 哲学的・倫理的な交差点】
フーコーはパターナリズムの倫理性を直接論じたわけではありませんが、彼の視点では「善意」や「正義」という名目で個人の自由が組織的に管理されること自体が、権力の非可視的な作用であり危険視されます。

 

一方で、パターナリズムにおける議論は、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に始まり、自由vs保護のジレンマを主眼に置きます。

 

【結論】
生権力とパターナリズムは、どちらも近代国家が個人の「生」に介入する正当性の問題に関わる。

 

ただし、生権力は制度的・構造的な支配の分析概念であり、パターナリズムは主に倫理・法の文脈で問題視される個別的・態度的な問題。

 

両者を区別しつつ、重なり合う部分を見極めることが、現代社会の権力構造を理解する鍵になります。

 

 

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