差異を表明し、他と自分を区別することができるのは人間だけである。人間だけが、渇き、餓え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。(『人間の条件』24)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) January 18, 2023
フロイト以来、西欧的な狂気は一つの非言語となった。狂気は二重の言語(その言葉においてしか存在しない言語、自らの言語をしか言わない言葉)となったからだ。即ち、何も言わない言語活動の母胎となったということだ。話されていることの折れ目、即ち作品の不在となったのだ。-狂気、作品の不在-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) December 25, 2022
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96
人間機械論(にんげんきかいろん)とは、人間を機械に見立てる思想、哲学、思考、立場である。通俗的には、18世紀のフランスの哲学者、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーによる同名の著書によって知られ、その吟味の転換点と捉えられる。
人間を機械に見立てる文脈は古くからあった。古代ギリシアの哲学者エピクロスは、万物を原子の動きと考えた。
近代哲学の祖ルネ・デカルトは、動物を機械に見立てる動物機械論(英語版)者であり、人間の身体も機械に見立てる身体機械論も唱える一方、自己の意識を含む人間の全体を心身二元論から機械とはみなさなかった。啓蒙の時代のフランスの哲学者で医者のラ・メトリーは、人間は機械だと唱えた。1747年に『人間機械論』を刊行。唯物論の有名な本である。科学の進歩に貢献した。
サイバネティックスの創始者ノーバート・ウィーナーが書いた本には、邦訳で『人間機械論』と題されているものがあり(副題の「人間の人間的な利用」が原著の題「The Human Use of Human Beings」に相当する)、20世紀のサイバネティックスやシステム論に大きな影響を与えている。
1.プラトンからデカルトを経てフッサールに至る、根源性という方向。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) December 12, 2022
2.プラトンから聖アウグスティヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史。
このどちらの場合も、明示的にであれ、暗黙の内にであれ、主体の理論が練り上げられずに、背後に残されてしまう。-主体の解釈学-
狂気は野生の状態では見出されません。狂気は社会の中でしか存在しない。狂気はそれを孤立化する感受性の諸形態、それを排除し或いは捕捉する嫌悪の諸形態の外に存在するものではないのです。-狂気は社会の中でしか存在しない-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) November 24, 2022
孤独は、多数性という人間の条件にあまりに矛盾しているので、長時間にわたってはとても耐えられるものではない。孤独が人間を完全に滅ぼしてしまわないためには、善行を目撃する唯一の想像上の証人、神を必要とする。(『人間の条件』10)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) November 23, 2022
幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。世の中には、この錯覚に陥っている人と、陥りたいと願う人と、陥ることができなくてもがいている人と、陥ることをあきらめている人がいる。ただそれだけである。『不幸論』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 7, 2022
わが国に対話が欠けているのは、他者を理解しようとしないからではない。むしろ、他者をあまりにも安易に理解してしまう、正確に言えば理解していると思い込んでしまうからなのです。『「うるさい日本」を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) May 24, 2022
どんなに自分が努力しても、相手が努力してくれるとは限らないとわきまえた上で、生きていくというのが強者。弱者は逆で、自分は努力しないで相手の努力ばかり期待している人です。『生きてるだけでなぜ悪い?』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) May 10, 2022
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