各人が自分と身内のことを第一に考えている限り、保有物、財をめぐる争いが生じる可能性がある。勤労や幸運によって得た財は、他人に力ずくで奪われる恐れがある。しかし、もし「社会」を形成することでそれらの財を増やすことが出来れば、それは各自を「社会」形成へと強く動機づけることになる。
社会のすべての成因が取り決め=黙約を結び、これらの外的な財の保有を固定し、幸運や勤労によって得るものを各人が平和に享受するに任せておく以外に、この目的を達する方法はない。「黙約」は意図的に成される「約束」ではない。同じ行為を反復している内に、そのことの利益に各人が次第に気づくことを通して毛形成される。利益を感じている人たちは、一定の規則に従って、自分の振る舞いを規制するようになる。相手も自分と同じようにふるまうであろうという前提の元で、相手がその材を保有している状態をお互いに認めるようになる。そうやって共通の感覚が形成され、それがお互いに認識されるようになった状態が「黙約」である。(ヒューム)
祖父母の死は、時期的にも子供たちの死の怖れや。 不安の覚醒と重なっていた。蒼ざめて眼を閉じている祖父母の顔。運動会のメダルをとっ てきたといって営めそやしてくれ、成績がたまによかったといって頭を撫でてくれた豊か な祖父の顔、また夜ごと股のあいだに妹をはさんで、温めてくれた祖母の身体の感触。そ れが寝たり起きたりの日々を送っているうちに、或る晩から突然に呼吸が荒くなったよう におもわれ、それ以後日眼覚めることも話すこともなかった。どれほどの苦痛が訪れ、ま たどれほどの無感覚が身体のどの部位を侵していたのか、子供たちにはまったく判らなか った。また身体を横たえたままに、呼吸する機械のように動かないのは、脳のどの部位が 死の打撃を受けつづけているのかも知らなかった。やがてほとんど呼吸も絶えだえになっ てくると、近親たちは綿にひたした水で祖父母の唇を潤した。かわるがわる子供たちも母 の言いつけで昼に綿をもっていった。それが何の意味なのかわからなかったが、別離の印 しだとみなしたのだ。この祖父母の別離(死別)の意味は、謎にみちていた。やがて呼吸 が止まった。その直前と直後とで何が変ったか、子供たちは理解はできなかったのだ。
M・フーコーは、幼時にわたしたちが体験した祖父母の瞑目や、呼吸の停止の内側で起 こっている「死」の位相の領域をはじめて記述してくれたとおもえる。M・フーコーは 『臨床医学の誕生』のなかで、この生体の死の微細な表情を、次のように記している。
これらの語るところは、死に対して生が浸透性を持っている、ということである。 ある病的状態がつづく場合、「死化」によって最初におかされる組織は、いつも栄養 が最も活発なところ(諸粘膜)である。次には諸器官の実質で、末期においては鍵や 腱膜である。こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散して
「 ・・・F13 J-L 、会するというような、か
M・フーコーは、幼時にわたしたちが体験した祖父母の瞑目や、呼吸の停止の内側で見 こっている「死」の位相の領域をはじめて記述してくれたとおもえる。M・フーコー は 『臨床医学の誕生』のなかで、この生体の死の微細な表情を、次のように記している。
これらの語るところは、死に対して生が浸透性を持っている、ということである。 ある病的状態がつづく場合、「死化」によって最初におかされる組織は、いつ栄養がが最も活発なところ(諸粘膜)である。次には諸器官の実質で、末期においては腱や腱膜である。こういう私大であるから、死は多様なものであり
腱膜である。こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散して いるものである。それを起点として時間が停止し、逆転するというような、かの絶対的、特権的時点はない。死は病そのものと同じように、多くのものが集まっている存在在であって、分析によって、時間と空間の中に配分されうるものなのである。少しず つ、あちこちで、結び目の一つ一つが切れ始める。少なくとも主な形においては、
体の生命が停止する。というのは、個人の死のずっと後まで、生命の小さな心がけ で頑張っているのを、今度は極く小さい、部分的な、いくつかの死がおそって、解体 させることになるからである。自然死においては、動物的な生命がまず消える。最初 に感覚の消滅、脳の衰弱、運動の減弱、筋肉の強進、その収縮性の減弱、腸管の準麻 癖、最後に心臓の鼓動の停止。この継続的な、いくつかの死の時間表に、空間的な表 を加えなくてはならない。それは生体の一点から他の点へと連鎖状にもろもろの死を ひきおこす相互作用の表である。これらの死は根本的な三中継所を持っている。つま り心臓と肺と脳である。心臓の死が脳の死をひきおこすのは神経路を経てではなく、
動脈網を介して(脳の生命を維持する運動の停止)、または血管を介して(脳を障害 し、圧迫し、その活動を妨げる黒い血液の運動停止、またはむしろ反対にこの血液の 逆流)行われるのだ、ということを証明することができる。
ブランショが人間の「死」を、人間存在の平等の原則と結びつけたかったように、M/フーコーは生体の「死」を微分的に内在的に領域化する方法によって、「生」と「病い」にたいしてそれらを同一のbq署から別別に照らし出す原理としたかった。
「なあ、おまえ」と語り出したら要注意。「ほんとうにおまえのために迷惑しているぞ」と言うのならわかる。「もうあきれてものが言えない」と言うのならわかる。しかし「おまえ、それじゃ生きていけないぞ」という説教の臭いを発し出したら、そんな奴は蹴飛ばしていいのです。『私の嫌いな10の言葉』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年3月12日
〈人間の消滅〉
「人間」とは、つまり理性的で自由で民主的で個人主義的な「人間」とは絶対普遍の存在ではなく、それもまたひとつの時代の産物にすぎないのではないか。ある時代が過ぎれば、その時代において疑うことのできなかった発想が古びて語られなくなるように、「人間」もまた静かにその在り方を消していく、そうしたものでしかないのではないか。それは一種の救いの言葉でもあるのではないか。
60年代のヨーロッパは近代という壮大なプロジェクトへの『異議申し立て』の時代である。この時代を契機として、エコロジーにせよフェミニズムにせよ、あるいは植民地主義への生産にせよ、近代という「ヨーロッパの理想」に対し、それが含んでいる裏の問題点をはっきりさせるという議論が主流を占めていくことになる。その時代までのヨーロッパは(あるいはそれを導入した日本における思想的文脈は)、いかにしてヨーロッパ的な近代の理念と、それが可能にした民主主義的な政治やそこでのにんっげんの平等性を実現するのかを大きな課題としていた。ところが60年代には、すでにそうした言葉そのものが、実際にはいろいろな難問を孕んでいて、このままではとても先に進まないのではないかというような予感を、多くの人が抱いてしまっていた。(略)こうした思考は、近代が行きつく先に行きついてしまった、そうした感情とともに拡がりをみせていった。60年代のこうした発想が現在につながる「近代的なものの閉塞」という状況につながっていることは、体感的にはだいぶ薄れてしまったかもしれない。しかし理論的にはその問いは、われわれに突き付けられ続けている。近代という理念が、明確に正しいとはいえない状況が発生すると、ひとは自分がどう動いたらいいのかわかりにくくなる。そうした分かりにくさの中に我々はい続けている。そこにフーコーの「人間の消滅」という言葉がうまく調和してしまう。
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