は昔よく情報誌などで劇団名を目にし、最近ふいに気になったのだけれども、セルフ23の名前を思い出せずにいた。
http://www.self23.com/battleof23/battleof23.html
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000317/p1
まず今までの演劇の系譜論から離れて現代演劇を捉え直すために「関係性の演劇」という概念を提唱したい。「静かな演劇」の流行とか、演劇におけるリアリズムの復権とかいろいろな形で語られており、しかもその評価が分かれているある種の演劇のカテゴリーをこの「関係性」という概念で括れるのではないかと思うからである。
関係性の演劇とは演劇作品のなかで、主に登場人物、あるいは登場する人物の集団の間の関係を提示することで、関係の総体としてのこの世界を描いていこうという演劇の手法である。ここで「関係性」あるいは「関係」という言葉が含有する思想的な背景に触れなければならない。関係という概念は現代思想の重要なターム、実体に対する対立概念である。近代の思想は主体や自意識といったものをある種の実体と考え、重きを置いた。これに対して構造主義や現象学といった現代思想の特色はものごとの関る関係に重点を置いて物事を考える。関係がすべてであり、他者との関係なくして孤立した実体などありえないという考え方である。この世の中のことはすべて、他のこととの関係において我々の前の立ち現れる。これが、関係性の演劇の認識論的前提である。
たとえばテレビドラマなんかでよくある上司に罵倒されるのを耐えるシーン、そうではなしに何気ない日常会話で深く傷つく(発話者にはそのつもりはなく)シーンを関係性の演劇は可能にしたのだ。「耐える」表現は大げさにぷるぷる震えて見せたりではなく、沈黙でただ受け流そうとするのみ、事情を知る「観客」は、その沈黙の向こうに流れる心情を読み取ることができる劇構造になっている。そこで語られる内容「物語」は、意図的に単純化され、ありきたりなものに設定されている。それを、「最後まで聴かなくても想像がつく」だとか、的外れも甚だしい。バカでも想像のつく「ベタ」を意図的に選択しているのだ。ここでは物語内容の観客への伝達が主眼ではないからだ。そんなことすらわかりらずに間」がどうの、テンポがどうの。リアリティがどうのと、きいたふうなことをいうからトンチンカンだというのである。耳を傾ける価値もない。すっこんでろって話だ。
舞台の裏方・大道具さんが、
釘やなぐりなどを入れるために腰にぶら下げている道具袋のことを「ガチ袋」と言います。
マリーナ・アブラモヴィッチ 彼女のパフォーマンスの多くは、ヨシップ・ブロズ・ティトーの共産主義体制からの解放など、社会・政治問題を提起するものである。自己の身体を表現手段にし、時に自身の生理学的限界を超えようとする手法をとる。1974年の「Rythme 5」では、ガソリンを燃やして共産主義の象徴である赤い星を作り、その炎のなかに横たわって政治的メッセージを表現しようとした。その際、酸素不足から意識をなくし、あやうく命を落としかけた。1975年にインスブルックで行った「Thomas Lips」では、自らの腹部に剃刀の刃で切りつけ、その傷で赤い星を描いた。この後、体に数十回にわたって鞭を打ち、十字架をかたどった氷の塊に全裸で横たわり続けた。この時も途中で意識を失い、危険を察知した観客にパフォーマンスを中断させられている。 また、文明という仮面の下に隠れた人間の暗部を浮き彫りにしようともしている。有名なものでは、1974年の実験的パフォーマンス「Rhythm 0」が挙げられる。アブラモヴィッチは観衆の前に身をさらし、観衆に72の道具(口紅、香水、はさみ、ナイフ、鞭、注射器など)を与え、6時間にわたって彼女の体に対して意のままにそれらの道具を使わせた。次第に観衆の自制心が薄れていき、彼女の服を引き裂く、叩く、血を飲むなどの欲動に走り始め、遂には装填した銃を身につけた男が彼女を脅かすまでにいたり、他の観客が止めに入ったほどだった。演者と観衆との係わり合いは、その後も彼女の作品の重要なモチーフのひとつとなっているが、観客にパフォーマンスを全面的にコントロールさせることはこれ以降なくなった[1]。 前述のウライとの二人組みで行ったパフォーマンスシリーズ「Relationworks」では、1988年の「The Great Wall Walk」と称したシリーズ最後の作品が最も話題になった。これは、万里の長城の両端からそれぞれ出発した二人が、3カ月かけて1000キロを歩き続け再会を果たすというものだった。
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