「保守」とは「時間をかけて蓄積された制度や慣習を尊重する」という、きわめて常識的な考え方である。
この点で重要なのは、保守主義が一種の「実証主義」だということだ。人間の理性は不完全だから、思いつきの制度設計よりも、長い時間をかけて試行錯誤されてきた仕組みのほうが合理的である可能性が高い。これはエドマンド・バーク以来の伝統的な考え方であり、欧州社会ではかなり共有されている。
ところが日本では、この「経験に基づく合理性」という発想がほとんど理解されていない。かわりに出てくるのが、「とにかく守れ」というスローガンである。しかし「なぜ守るのか」という問いがなければ、それは単なる思考停止だ。著者が指摘するように、これは「保守」ではなく「政治的狂気」に近い。
アメリカとイランの対立は
1953年:アメリカが政権転覆
1979年:反米革命
人質事件
その後の中東対立
という流れです。
イランの多くの人は今でも
「アメリカは民主政権を壊した」
と思っています。
以下の楊井弁護士の法廷リポートから、山上が安倍さんを教団の守護神だと思い込んで殺したという鈴木エイト氏等のストーリーが成り立たないだけでなく、母親の多額の献金が理由で悲惨な子供時代を送り、兄が教団のせいで死んだ、という前提自体が間違っていたことが分かる。https://t.co/kmEAer52cL
— 仲正昌樹 (@nakamas2) December 16, 2025
この手の人たちあるあるだが、手段と目的が倒錯しすぎ。われわれが目的としているのは「平和」で、核保有をどうするかはその目的を達成するための「手段」だ。「非核三原則の堅持」が目的になった時点で「平和」が二の次になっている。このような考え方を持つ人が国会議員の中に多数いることに大変驚く https://t.co/uvnqC8oeki
— リフレ女子 (@antitaxhike) December 20, 2025
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E8%A3%85%E7%BD%AE
「暴力装置」という言葉は、政治学や社会学において国家の物理的強制機能を指す用語[3][4][5][6][7][8]である。公権力が存在しない状態では、各個人や各集団が安全や秩序のためにある程度の暴力(武力、自衛力、治安維持能力)を保有して自力救済を行うことになるが、その結果として個人や集団間での見解や基準の相違、勢力争い、復讐などから様々な抗争が発生する。トマス・ホッブズはこれを「万人の万人に対する闘争」と呼び、社会契約論により王権を正当化した。公権力が個人や集団の武装を解除し、暴力(武力、自衛力、治安維持能力)を独占し一元管理する事によって、秩序が維持される。
他方で権力による暴力の独占は、非武装の個人や集団に対する決定的な支配構造ともなる。このためアナキズムは権力による支配を否定する。ジョン・ロックは人民の政府に対する抵抗権(革命権)を認め、アメリカ合衆国憲法では人民の武装権が記載された。
自由主義を重視する観点からは、公権力、特に暴力装置の使用は抑制的である必要があるとされる。社会学者のマックス・ヴェーバーは「暴力装置」を欠いた状態で、体制を継続的に維持することは不可能だとし、暴力的装置の独占的所有と行使は、近代国家の特質と定義した。近代国家では、物理的強制力の行使は政府にだけ認められ、他の制度や個人は国家が承認する限りにおいてのみその行使が認められるとした[9][2]。
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