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コラム

2021年2月22日 (月)

葬儀

2008年の夏、私は義母の葬儀で札幌に行った。
享年77。晩年は常に死の予感と共にあった義母であるが、にもかかわらず、やはり死は唐突に訪れる。苦しまずに逝ったというのが不幸中の幸いであった。
 
葬儀は札幌にある妻の実家近くの斎場で行われた。葬儀屋の担当者がいい人でよかった。むろん「仕事」だから、きっちりお金は取っていくのだけど、こうした儀式は素人にはわからないことが多く心細いから、頼りになってありがたい。
祭壇には、故人が生前受賞した勲七等宝冠賞の賞状が飾られた。棺を斎場に運ぶ前、妻の実家で、納棺師の仕事をはじめて見た。
 

 

以前、私は祖父二人と祖母一人の葬儀に出ているが、私が到着したときには、皆すでに棺に収まっていた。いや、母方の祖父は違ったかも知れない。子供の私は、叔父たちが隣室で納棺する気配を襖を隔てて感じていたような気もする。しかし、なにしろ小学校3年のときの記憶だから、曖昧で自信がない。

2021年2月 5日 (金)

戦線離脱

ひとたび戦線離脱したら、もう簡単には戦えない。 況んや戦線に加わったことのない者をや。

2021年1月 6日 (水)

よい死に方

べつに死にたいと思ってるわけじゃないが、もしも遠くない未来に死が待っているのであれば、せめてよりよい死に方をしたいと望むということだ。

描写

描写というものが単に話の筋の伝達を円滑ににするためのものという認識で、逆に情報の受け手の「時間の停滞」いわば「読みにくさ」を意図してされる可能性など思いもしないし、その、「意味」が理解できないならば、できないでいいから、黙ってここを通り過ぎろ。関わるだけ時間の無駄だ。タルコフスキーとも金井美恵子ともロブグリエとも無関係の人生はあり得る。そういう世界で勝手に生きるがいい。

2021年1月 4日 (月)

関わらぬが吉

ハッキリと告げたはずだ、あんたには関わらぬが吉であるという判断に至ったと。
その理由を今一度述べることはしない。述べたところでまた新たな曲解の材料を与えることにしかならないからだ。

2021年1月 2日 (土)

軽々に

「ナチス」を口にしたがるヤツは私の知る限り例外なくバカである。

陳腐

宮台真司氏の『制服少女たちの選択』が出版されたのが1994年。それから30年近くの時を経た今〈ジャパゆきさん〉的お涙ちょうだいの物語を創作の構想として語り、そんな浪花節がアプリオリに社会正義たると信じて疑わぬ、その時代感覚のなさ、批評性のなさが陳腐だと私は言うのである。もっとも、てにをはもままならぬ自称作家が何を書こうが誰も知ったことではないし、自己満足の遊戯など好きにすりゃあいいのであるが。

2020年12月30日 (水)

過去の栄光

というほどのものではないにせよ、少なくともアイデンティティを支える矜恃たりえる客観的事実があるならば、それにすがって生きるしか、自己同一性の先にわずかな未来が開ける蓋然性がないのだ。もはやそういう余生の中にいる。そういう自覚がある。

今のマンションに

引っ越してきたのが2001年だから、約20年前、カーテンやら家具やらを物色するため、自転車で稲城長沼周辺まで足を伸ばしていたのだな。ストリートビューで稲城長沼駅周辺を「散歩」して見かけた家具屋やら蕎麦屋やらに確かに入った覚えがある。

2020年12月29日 (火)

足手纏い

その意味では、なるほど私は既に余生を過ごしているのだろう。それはまあいいのだが、死体を引き摺っているような具合だから何をするにもひとの足手纏いになってしまう。社会との関係において既に死んだ身体であるのだから、よきタイミングでもう、人生そのものも終わりにしたいものだ。

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