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コラム

2019年8月15日 (木)

中身のない文章風の言葉

という表現を目にした。なるほど言い得て妙だと感心した。

誤解

あるいは曲解に基づいた発言を相手がしていたら即座に「それは違う」と指摘するのがフツーだと思っていたが、それが「病気」だという人間がいることに呆れた次第。関わらぬが吉である。

巧遅は拙速に如かず

https://kotobank.jp/word/巧遅は拙速に如かず-496510

できあがりがいくら立派でも遅いのは、できがまずくても速いのに及ばない。

遅くてできがまずいとなりゃ最悪である。

動機の純粋性

おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきだという傲慢さ。

2019年8月14日 (水)

アドバイス?

「アドバイス」の名の下にされる所詮は他人事の気楽で無責任な干渉(要らぬお節介)。
「教えてやっている私」という自己愛を満たすための遊戯に過ぎぬわけだが、そうした分析を決して許さぬのは、おのが動機の純粋性は無条件で尊重されるべきと思っているからである。
要するにバカで傲慢なのだ。

 

 

 

 

2019年8月13日 (火)

テクスト論

https://kotobank.jp/word/テクスト論-186000

 

文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。ポストモダンの哲学者デリダもほぼ同時期に、自分自身のなかに立ち現れる純粋な「いいたいこと」がまずあって、それが文章として表現される、という考え方を否定している。「いいたいこと」は純粋にそれだけとしてあるのではなく、言葉と不可分に結びついて成り立つと考えるからである。こうしたテクスト論は、フランスのポストモダン思想全体の流れから見ると、文章というものに絶対の真理(著者が真にいいたかったこと)を求める姿勢への批判であり、「形而上学批判」の1つと見ることができる。

 

30年前に隆盛を極めたこうした「読み」すら踏まえずに「内面」だとかどうだとか、恥ずかしげもなくドヤ顔でされる旧態依然とした通俗的文学観の披露になど、馬鹿らしくてとてもじゃないが付き合えない。

 

癒合

入院中はもとより
その前から、一人でいるときはいつだって、妻と「一緒」だった。
良くも悪くも我々は癒合している。

詐術

関わらぬが吉と結論づけた所以である。

2019年8月12日 (月)

可処分時間

が、自分にあとどれだけ残されているのかわからないが、そう多くはないだろう。その時間をできるだけ妻と共有したい。

昔は一人でどこへでも行けたし、何だってできたけど、懐かしく思い出される景色にはいつも妻がいるから。

2019年8月11日 (日)

ありもしない「事実」

を前提として勝手に作り上げた「物語」で、してもいない行動に俗情を盾とした価値判断を下す。その強調によって、「してない」ことが「した」ことになるとでも思っているのか。バカめ。

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