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書籍・雑誌

2016年6月 7日 (火)

「くださる/いただく」問題

 
以前にも書いた「くださる/いただく」問題。
それに関して参考となる文献(高島俊男『お言葉ですが』)の一部をある方から送って【いただき】/ある方が参考文献の一部を送って【くださり】、私はそれを読んで「そうそう、まさにそういうこと!」と膝を叩いた。
 
その文献の記述に比べ、私の説明はわかりにくいかなあ、ヘタクソだなあ、とも思うけれど、ま、いいや。
中島義道はこんなことをいっている。
〈書くことは他人を巻き込んで自分に向かって語ること、他人の目を通して自分に対して語りかけること、他人に納得させようとするかのような外見を保ちながら、つまり普遍的問題であるかのようなトリックを駆使しながら、じつは自分自身だけに語りかけることである。〉
 
演劇なんかやってるくらいなんで私は常識的な人間ではないし、「正しい」敬語を使いましょうなんて他人に説教するつもりも資格もない。
そうじゃなくて私が問題にしてるのは「主体」だ。行為の主体。
モノカキを名乗る者、とくに社会派を自称する劇作家などが、この「主体」に鈍感なのがどうにも許せない。
そうして「みんな」におもねる通俗的な「善」をなぞって何事かいったふうな顔をする。そういうのを目にすると、私はムカッ腹が立ってしょうがない性癖なのだよ。
今「性癖」? と思ったあなたは辞書を引け。

2015年6月27日 (土)

『ポストモダンの正義論』仲正昌樹

ロールズが『正義論』の中でいう「無知のヴェール」。
これは〈自分と他人の間の相対的な有利/不利についての情報を遮断する〉仮想の装置である。
 
ロールズはこう考えた。
「無知のヴェール」がかかった状態で、各人が「正義」について考察するならば、「私」の利益の視点を離れた誰もが納得できる公正さに基づいて「正義」の合意が得られるハズ。我々には自己中心的なリスク回避の傾向があるから、自分が全体の中でどのあたりに位置しているかわからない状態では「最悪」を避けようとする。結果、それが「弱者」への共感と一致するハズ。
 
ゲームの理論の「囚人のジレンマ」にも通じる心性を活用しようというわけだ。そうして「弱者への共感」を「寄り添う」系のヒトゴトから当事者性=ワガコトに回収する。
しかし前述の通り「無知のヴェール」は“仮想の装置”であって、現実には、そんなものはどこにもありはしない。
これがこの思想の限界だ、と私は思う。
それでも、と著者は言う。
 
『“人間としての自然な情”に直接訴えるのではなく、エゴイスティックな人間のリスク回避傾向を利用する戦略を取ることで、マルクス主義的左派やラディカルな新左翼に見られる“共感”の押しつけを回避しようとしている点は重要である。』

私はこれに共感する。

2015年6月24日 (水)

三浦瑠麗『日本に絶望した人のための政治入門』

つらつら読んでます。まだ途中。
先日、著者が本書のプロモーションで吉田照美のラジオに出てたのを聴きました。吉田は帯の〈安倍政治の急所を衝く!〉に食いついてましたね。その単細胞ぶりに、どん引きしました。

著者は書きます。
『1991年に湾岸戦争が勃発します。(略)日本のリベラルの多くは、紛争の展開や現場の具体的な状況とは違う次元で、とにかく反対を繰り返すという対応しかしませんでした。米国の存在感が圧倒的で、その支配に反対することでそれなりに「かっこうがついた」状況はまだ都合がよかった。正義と不正義の線引きがあいまいになるなかで、一国平和主義は殻に閉じこもった自己中心的な主張にしか映らなくなってしまいます。』

そういや「文学者の反戦声明」なんてのもありましたね。もう消えてるかなと思いつつ、ググったらヒットしました。

http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090703

1991年ていったら私が大学を卒業した年です。バブルの残り香の中にあったあの頃より、今の方が日本を取り巻く国際状況は、より深刻なわけです。理由を書く必要がある? フツーに生きてりゃわかるよね?
ところがわからない人がいるらしい。
ことにゲージツ界隈のお気楽ぶり・甘えんぼさんぶりは、湾岸戦争時と変わらぬどころか、ますますひどい。何が「日本を戦争ができる国にしていいのか」ですか。そもそもあなたのいう「平和」って何ですか? 今、日本は平和なんですか? 北朝鮮による拉致被害者のこととか、どーでもいい? 
少しはモノを考えてくださいよ。ガキじゃねーんだからさ。

2015年6月 2日 (火)

石平『私はなぜ「中国」を捨てたのか』

引き続き、石平氏の著作をつらつら読んでる。
2000年に著者が四川省の実家に帰省し、そこで甥と交わした会話。
ちょっと長いので、会話の文言はそのまま、ニュアンスだけ私が若干補足しつつ、以下に抜粋してみる。 

***

石平(=小平)氏が甥に小遣いをやろうとする。
 

「要らない」
「何だよ、おまえはお金が嫌なのか(と、からかう)」
「いや、違う。だって小平おじさんのお金は、日本人からもらった給料だろう。そんな金、僕は要らない!」
「……」
「小平おじさん、もしね、今度日本がもう一度中国に侵略してきたら、小平おじさんはどうする。帰ってくるの?」
「(冗談半分で)じゃ、日本が攻めてきたら、お前はどうするんだ?」
「僕は戦う。最前線へ行く。小日本を徹底的にやっつけるのだ。実は僕、大学で入党申請書を出した。来年には党に入れるよ」
「……そうか、お前は共産党が好きなのか」
「当然だろう。中国人なら皆、中国共産党が好きじゃないか。党を擁護しているじゃないか。小平おじさんはそうじゃないのか」
「どうして? どうして中国人は皆、共産党のことを好かなければならないのか。共産党はそんなによいものか」
「当たり前だ。当たり前じゃないか。共産党の指導があるから、中国は日本の侵略を防げるんじゃないか。昔、日本侵略軍をやっつけたのは共産党じゃないか。小平おじさんは歴史を忘れたのか」
「そうか。やっぱり歴史か。それでは聞く。今から十一年前、北京で起きた『六・四事件(=天安門事件)』、あれも歴史だけど、君はどう思うのか」
「何ですかそれは。『六・四事件』って、あ、あれですか。思い出した。じゃあはっきりと言います。小平おじさんたちのやっていたことは、間違っています。党と政府の措置は正しかったと思います。僕だけじゃない。大学では皆、そう思っています」
「正しかった?! 丸腰の学生たちを虐殺していったいどこが正しかったのか。政府が罪のない人を銃殺するのは正しいというのか、キミは(と、声を荒らげる)」
「そうだ。正しかった。おじさんたちのやっていたことは、外国勢力の陰謀じゃないか。鎮圧してどこが悪いのだ。殺人といえばね、小平おじさんの居るところ、日本人こそ殺人者じゃないか。南京大虐殺をやったじゃないか、何千万人の中国人を殺したじゃないか。小平おじさんはもう忘れたようだが、僕は忘れませんよ」

***

この甥の言い分が、つまり中国共産党の言う「歴史を直視する」ってやつだ。
日本国内にもこれを積極的に真に受け、反政府活動に利用する頭の悪い自称平和主義者がいる。彼らは閉じたコミュニティ内で互いの善人ぶりを承認しあって気持ちよくなっているようだが、そうした「善人」のマスターベーションが間接的に、あの天安門での「虐殺」の正当化に荷担しているのだと知るべきだ。しかしこの構造が彼らには理解できない。だからバカだというのだ。
ともあれ、この甥は今、30代半ばから後半くらいか。少なからぬ中国のエリート青年が、かように「歴史を直視」しているわけだ。
仮にかの国で共産党の一党独裁が崩壊し、民主化が達成されたとしても、コトはそう簡単じゃないと思う所以だ。

1

2015年5月24日 (日)

篠原常一郎著/筆坂秀世監修『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』

篠原常一郎著/筆坂秀世監修『いますぐ読みたい 日本共産党の謎』という軽めの本を読んでたら、〈フワシイスト〉という造語が出てきた。 『ファシストと「不破」「志位」をもじった冗談ですが、ベテラン秘書の間ではこう言って、理論ばかりで実行力に乏しい党員を茶化してました。』とのこと。 クッソー、うまいこと言われた! 悔しいので、私もひとつ、考えた。 空想的平和主義者(俗にいう「お花畑」)をファンシーをもじって〈フワンシイ〉と呼ぶのは、どうか。

2014年12月16日 (火)

『「みんな」のバカ! 無責任になる構造』仲正昌樹

「デリダの「無限の他者に対する応答可能性=責任」論は、実は、キリスト教文化圏における「告白」を通しての「無限なる神」に対する「責任」という制度を前提にしているのではないか、と「私」には思われる。」

「フーコーに言わせれば、近代的な自律した「主体」というのは、実は、様々な「みんな=社会」の「代表=表象」制度による教化を通して、告白的な責任構造を「内面」化された存在なのである。」

「『私の個人主義』(1914)という有名な講演によって、日本の「みんな」がなかなか理解できない「自由」と「義務」(あるいは「責任」)の一体不可分性を明確に論じたとされる夏目漱石も、両者の媒介項としての「法」的な強制システムの問題を飛ばして、純粋な良心の話にしているきらいがある。」

「「みんなの正義をみんなで守ろう」という形を取るのが日本的な“みんな”の考え方であるのに対して、西欧個人主義というのは、社会的「正義」をいったん可能な限り個人の「権利」に分解したうえで、責任主体としての「個人」にそれぞれの守備範囲内で守らせていこうという思想である」

「そういう責任の分配・限定の仕組みをあまり考えないまま、漱石以来「みんな」が言い続けている「日本人は、自由には社会的責任が伴うことを知らない」という聞いたような台詞を反復してさえいれば、自らの“社会的責任”を果たしたことになると思っている“良心的な言論人”に、「私」は腹が立っている。」

 私はさらに、著者が腹を立てている「良心的な言論人」の、バカ丸出しの言説を無批判に受容し、模倣=反復する「みんな」にも腹を立てている。
彼らは、「俗情との結託」(大西巨人)=通俗性への依拠によって自己正当化し、絶対に他者による検証が不可能な己の「内面」を根拠にモラリストを装う。そうして自分と意見の対立する(気にくわない)相手に対し、この「モラル」でもって一方的に断罪し、これに対する反論は、「モラル」=「みんな」の否定であるという論理のすり替えにより、姑息な自己防御を図るのだ。

2014年12月12日 (金)

ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』

「マスコミは第四の権力」などといったりするが、これは言葉の綾で、そもそも「権力」ってそういうもんじゃない。
じゃあ、どういうもんか?
というわけで、ミシェル・フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』を購入。中古で5千円もした!
「支配」の内面化という〈パノプティコン〉的なテーマは、80年代の俗に言う小劇場ブームの頃に「旬」であったように思う。しかしそのようなものを書いていた作家(あえて名前は出さないが)や、そうした芝居を好んで観ていた世代がその後左旋回し、非常に古くさいマルクス主義的「支配/被支配」の構図にいとも簡単に嵌まっていくのを私(たち)は見てきた。そのことに対する拭いがたい違和感が私にはある。

2014年11月 4日 (火)

『リバース・エッジ』岡崎京子

402460_166212783491300_1000030773_5 地上げされたまま、手つかずの河原のヤブ。半ば忘れられたその土地で登場人物たちが遭遇する「死体」への、奇妙にズレたリアクションが、この作品全体を貫く世界観だ。
この「世界観」を、一旦了解した読者は、ちょっとイカレた登場人物たちの行動も、とりあえず違和感なく受け入れることができるだろう。

とはいえ、最後まで主人公に感情移入して物語を読み進められるとは限らない。
たとえば終盤のシーン、登場人物の一人・吉川こずえが、主人公・ハルナを横目に言う。
「行こ 山田君 アホはほっとこ」
まさに私の主人公に対する気持ちもそんな感じ。唐突に橋の上で涙されても、なんだかなーとシラケてしまう。
むしろ私は、山田君を慕い、文字通り恋に身を焦がす、田島カンナに共感してしまったよ。

2014年11月 3日 (月)

『どうしても嫌いな人 すーちゃんの決心』益田ミリ

ストーリーやエピソードだけを取り出せば、確かにどこかで一度は目にしたことのあるようなありきたりなものなのだが、チョイスされる平易な言葉と、比喩の構造化のセンスによって、凡庸なステレオタイプを免れている。
自分が作者と同世代ということもあるのかもしれないが、あーわかる、わかる、と面白く読んだ。

ところで内田樹による帯の文。
この人選に、どれだけ作者の意向が反映されているのかわからないが、とにかくセンスが悪い。

男って、バカでごめんね。
益田ミリさんの漫画を読んでいると、「男にはデリカシーがない」ということがひしひし伝わってきます。
男性一同になりかわりまして、お詫び申し上げます。

この恐ろしくユーモアセンスに乏しい、しかし書いてる本人にはまったくその自覚がないであろう、まさに「デリカシーのない」文章。何が〈男性一同になりかわりまして、お詫び申し上げます〉だ。お前個人のデリカシーのなさを男一般に敷衍すんなと言いたい。
ひょっとしたら、「どうしても嫌いな人」の典型として、この男が選ばれたのかも知れないな。

 

2014年10月20日 (月)

『ポスト・モダンの左旋回』仲正昌樹

現代の「マニフェスト」を掲げている(元)ポスト・モダニストたちの多くは「政治」に焦りすぎて、「差異」の中に忍び込んでくる「反復」という極めてポスト・モダン的な問題を忘却しているのではないかと思えてしまう。「マニフェスト」を掲げることは、デリダが言うように、自ら進んで「亡霊」に取り憑かれることを意味するはずだが、彼らはそれをどれだけ自覚しているのか?(中略)いったん「ポスト・モダン」「脱構築」「差延」「コミュニケーション不可能性」を通過したはずの「彼ら」には、単に「マニフェスト」をカッコ良く掲げるだけではなく、自分たちがやっていることが、これまで旧左翼がやっていたこととどう違うのか、はっきりと「差異化」させて説明する「応答責任」があるはずだ。この「責任」は極めて重い。

「運動」というのは、自らの「理想」とする社会のイメージと、「現実」の社会の間に差異を感じる諸個人の「連帯」としてその都度、立ち上がってくるはずのものであって、そこから特定の「集合主体」に特化した、“われわれの運動”なるものが出てくるというのは(非弁証法的な)“矛盾”である。「われわれの運動」という言説への執着は、これまでの左翼の歴史が証明してきたように、ほぼ間違いなくセクト主義を生む。何故、「私の運動」と言わないのか?

この10年くらい、漠然と、しかし確かに感じていた同世代人に対する違和感=閉塞感が、古本屋で私にこのタイトルの本を手に取らせたのだった。つまりニューアカ直撃世代でありながら、フランス現代思想などハナからなかったみたいに、マルクス主義的というか、旧態依然とした左翼的言説に簡単に靡いてしまう。この単細胞ぶりはいったいどうしたことか?
本書の初版が2004年。2009年に第2刷。私と同じようなことを感じている人が他にも多くいたのだな。

 

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