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日記・コラム・つぶやき

2016年10月24日 (月)

イヤダカライヤダ

提灯7 それじゃ「神はいない」という者も……
提灯8 その否定する前に……
提灯9 ひとまず自分の神を……
提灯1 認めたことになってしまう。
提灯2 彼は否定するための神を……
提灯3 祀っているじゃないか。
   
***
   
先の芝居の冒頭の一部。百閒『白子』からの引用、脚色。
じゃあ「否定するための神を祀」らないためには、どうしたらいい? 
せいぜい「祀」らないことだ。そうしてその「神」を自分の意志で退けてやるしかないだろう。
なぜなら「否定するための神」を否定するために、やっぱり「否定するための神」を認めている。目を背けることで逆説的に対象を「観」てしまう。
だったらそれこそ百閒みたいに「イヤダカライヤダ」と意思表明すればいい。

2016年10月19日 (水)

発見次第?

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実はこれずっと気になってたんですよ。
たとえばこういう会話がありますね。
「あれ、調べてくれた?」
「今、調べてます」
「急いでよ」
「はい。わかり次第、メールします」
〈わかる〉の連用形+「次第」。
これに倣えば、「発見し次第」じゃないか?
調べてみた。

***

し‐だい【次第】

[接尾]
1 名詞に付いて、その人の意向、またはその事物の事情のいかんによるという意を表す。「あなた―でどうともなる」「この世はすべて金―」
2 動詞の連用形に付いて、その動作が行われるままにという意を表す。「手当たり―に投げつける」「望み―に買い与える」
3 動詞の連用形または動作性の名詞に付いて、その動作がすむと直ちにという意を表す。「満員になり―締め切る」「本が到着―送金する」

***

「発見」が「動作性の名詞」だから「発見次第」でいいのか。
でも、ほんとは、サ変動詞の連用形が「し」だから、「ししだい」って「し」が重なるのがイヤなだけなんじゃないの?

2016年10月17日 (月)

女子力?

http://beauty.yahoo.co.jp/beauty/articles/564398

男性がドキッとするのはふとした瞬間の優しさに触れた時です。

疲れている時に「大丈夫?」と優しい声をかける、外食に行った時に料理を小皿に取り分けるなど、ちょっとした気配りが女性性を感じさせるのです。

また、困っているお年寄りを助けてあげたり、子どもや動物と楽しそうに接したり、 誰にでも分け隔てなく優しさを振りまく姿に男心はときめきます。

こうした女子力が大切なのです。

***

その「女子力」って「女らしさ」と何が違うの?
昔、赤瀬川原平が「老人力」ってことを言いましたね。一般にネガティブな印象の「老化現象」をそう言い換えることで、できごとの解釈をポジティブに反転するという「芸」がそこにはあった。
「女子力」にそういう「芸」って何かあります? 
「らしさ」という言葉に過敏に画一性を嗅ぎ取る日教組的感性が、くだらない言葉狩りをさせた結果に過ぎないんじゃないんですか?

2016年9月27日 (火)

情操教育

「情操教育」というものは、べつに幼少期に〈普遍的〉な価値観を植え付けておけ、というものではなく、むしろそれらが後に自身の手によって相対化され、更新され、〈普遍的〉でもなんでないことが暴かれるのを期待して、施されるべきものではないか、と私は思う。

児童文学的な世界では、オオカミは常に「悪」である。それはそれでいい。だが、オオカミにはオオカミの価値観=世界があるのだと、やがて子供はその成長過程で気づいていく。

そうしたまっとうな知性と感性を前提としてやること。それが、子供を「信じる」ということなんじゃないか。人生にかんする情報量不足からくる〈ピュア〉の側面だけを強調し、妄信的な性善説に基づく放任主義など、ほとんど育児放棄に等しい。

2016年8月 1日 (月)

崇高さ?

「崇高さ」ねえ…。
 
***
 
すう‐こう〔‐カウ〕【崇高】 ...

[名・形動]けだかく尊いこと。また、そのさま。「―な精神」
[派生]すうこうさ[名]
 
***
 
「けだかさ」でよくね?

潔い

いさぎよ・い【潔い】
[形][文]いさぎよ・し[ク]
1 事物・風景などが清らかである。汚れがない。「―・い朝景色に飽かずに見恍 (みと) れている」〈風葉・五反歩〉
2 思い切りがよい。未練がましくない。また、さっぱりとしていて小気味がよい。「―・く身を引く」「―・く戦う」
3 道に反するところがない。潔白である。「―・い態度を貫く」

***

「潔い」で形容詞です。
否定するなら「潔くない」。
「いさぎが悪い」って何ですか? 冗談なの?
それをいうなら「往生際が悪い」です。

2016年7月 3日 (日)

かさじぞう

「かさじぞう」という昔話がある。
大晦日。爺が傘を売りに行く。その金で餅を買おうという算段だ。だが、傘は売れない。帰り道、爺は地蔵を見かける。折しも雪が降ってきた。爺は地蔵に傘をくれてやり、手ぶらで帰宅する。爺から事情を聞いて婆が言う。
「それはよいことをしましたね」
その晩、家に餅+αのご馳走が届けられる。地蔵の恩返し。
ざっとこんな話。

どうやらこの老夫婦はさほど生活に困っているわけでもなさそうだ。餅=贅沢品を手に入れるため、いわば「遊ぶ金ほしさ」で傘を売ろうとしたわけだ。だから、爺が餅の代わりに買って帰った「〈いいことした〉という自己満足」を婆も一緒に消費し、善人の糧とすることができたのだ。

じゃあ仮にこんな設定だったらどうだ。
二人には子供がいて、病に伏している。今日中に薬を飲まなければ命が助からない。しかし薬を買う金がない。
そういう状況で、爺が上記と同じ行動を採ったら、婆は悠長に「それはよいことをしましたね」などと言えるだろうか? 爺のしたことはまるで「世界平和」といいながらDVするみたいなもんじゃないか。もしも私が婆ならそんな爺を許さない。
 
地蔵に傘をくれてやること=絶対善ではないはずだ。
私が爺なら、むしろ地蔵を勝手に質に入れてでも金を作り、薬を手に入れる。そのくらいの「悪行」にはいつでも手を染める覚悟がある。

2016年7月 2日 (土)

感受性

たとえば心理学的なことを語る文脈で「父殺し」といったら、フロイトのエディプスコンプレックスだな、と思うでしょう? 
フロイトなんて知らんがな、って人でも、そうだと言われたら、そうなのか、と思うでしょう? 普通。
「父親を殺すだなんて不道徳だ」だとか「家族の絆」だとか、そんなこといわれても困るんですよ。誰もそんな話はしていない。
 
同じ理屈で「命がけの跳躍」っていったら、マルクスだなって思いませんか? 
これはたぶん高校の教科書に載ってないし、そんなに流通してるフレーズじゃないかもしれないけど、『資本論』の解説本なんかでは必ず出てくる言葉です。
しんぶん赤旗にも解説があります。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-09-20/2008092012_01faq_0.html
 
これを「軽々に〈命がけ〉なんていうもんじゃない。子供が真似したら責任とれるのか?!」とか、いいます?
アホちゃうかと思いますよ。
さらにこうした思考の平面上に「おまえには子供がないからそんなことが言えるんだ!」なんかがあります。
その「思考の平面」は、通俗的な善意で舗装されている。
といったら、どうです?
「善意で舗装されている」って言い回しは一般にサミュエル・ジョンソンの言葉とされる『地獄への道は善意で舗装されている(The road to hell is paved with good intentions)』をメタレベルで召還するでしょう? 平たくいえば、思い出させるでしょう?
 
べつに有名な警句のストックをひけらかしてんじゃないですよ。そんなのは今、ググっただけです。
そうではなくて肝腎なのは「メタレベルで召還するでしょう?」という問い。
ある特定の文脈で発せられる言葉は、それが時代を超えて一般に共有された情報を指し示す。そういう言葉というものの構造の理解。ここを問題にしてるわけです。
言葉は常に既に自分の外側にある。
ほら、この「常に既に」ってなんとなくニューアカくさいわけですよ。ニューアカから遠く離れて。「~から遠く離れって」って当然、ゴダールらの『ベトナムから遠く離れて』のパロディで、今、これを真顔で書いたら恥ずかしいな、という言葉に対する感受性。
 
「一般」を意識するから「個人」の主体があるんですよ。
それは言葉に対する感受性と関係がある。一般/個人
を曖昧にし、それで平気な感受性の鈍さが、主体をゆるゆるにするんです。そしてそのゆるゆる同士が絡まり合って「みんな」という塊を形成し、イデオロギーの下に集うんです。
右だとか左だとかの立ち位置の問題じゃないんですよ。その立ってる「平面」が問題なんです。

2016年6月28日 (火)

バナナ

彼がバナナをリュックに入れて遠足に行くと、友達が「先生! こいつ、バナナを持ってきてます!」
クラスが騒然となる。
先生がやってきて、何故そんなことをしたのかと彼を問い詰める。
「バナナはおやつに入るとばかり思っていたので」
入るわけないじゃなーい、と女子。...

こいつ少しばかり成績がいいと思って調子に乗ってるな、と男子。
「どうして前もって確認しなかったのですか?」
「ごめんなさい」
「退学です」

2016年6月23日 (木)

実感

豊かさの実感がない、とかいいますね。
よくそういうアンケートを見ます。だから現政権の経済政策は「失敗」なんだと。
 
私は1991年に大学を卒業しまして、空前の売り手市場なんていわれ、さしたる苦労もなしに一部上場企業に就職しましたけど「豊かさの実感」なんてありませんでしたよ。
私の感覚がオカシイんでしょうか?
私と同年代のオッサンオバサンらは「実感」してたんすか? 
当時も私の耳に聞こえてきたのは不平不満の声ばかりだった気がするんですけど。

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