【寄稿】VEIN
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渡邊世紀監督作品。
登場人物は男(百鬼どんどろ・岡本芳一)と少女(人形)のみ。
台詞は一切語られない。
物語らしい物語はないし、決して「娯楽」として万人に受け入れられるものではないだろう。
しかしそんなことはハナからわかりきったこと。
沈黙劇で知られる劇作家の太田省吾氏はかつて岸田戯曲賞の選評でこんな言葉を述べている。
(〈劇的連関〉が見たい 太田省吾)
舞台という空間はどのような空間なのだろう。たとえば、長靴が一足、舞台の上に置かれているとする。その長靴は、たとえば私の家の玄関の片隅に置かれていたものとは明らかにちがったものである。
〈詩的連関〉という言葉がある。詩の世界では、日常のものごとの連関と異なる連関が可能であり、そこに詩の世界のわたしたちにとっての意味や魅力が生じるのだが、〈劇的連関〉というものもあるのではないだろうか。
舞台の上の長靴は、〈劇的連関〉の中にあり、そこで現実の、たとえば私の家の玄関の片隅にある長靴とはちがったものとなりうる。それは、登場人物についても言えることではないか。
「VAIN-静脈-」に登場する男と女も、確実にこの〈劇的連関〉の中にある。
そして渡邊世紀監督は、その世界観を崩すことなく、二人の関係性を〈映画的連関〉に捉え直すことに成功した。
映画のパンフレットには岡本芳一氏の言葉が記されてあった。
人形は“モノ”であり、観る人の“心”が入る《器》である。だから、人形に念(おもい)は込めない。
ゆえにこの深く静かな感動は実にパーソナルなものである。誰とでも、おいそれと交換したり共有したりできる種類のものではない。
そしてそれは作り手に対しても同様だ。
互いを想いながらも決して救い合うことができない男と少女。「それは自分と人形の関係性も同じこと。だから『VEIN』は冷たく終わりたい。
そうした作り手の意思を超えて、傷ついた男女の行く雪原の向こうに、しかし我々観客は、安易なヒューマニズムとは別のところで、ある種の“希望”すら見いだすことができるだろう。
【2011年4月19日の今井の日記記事から転載(一部修正)】
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