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2024年10月12日 (土)

過労死の根本原因

https://president.jp/articles/-/66298?page=3

 

資本主義社会において、労働者は二重の意味で「自由」だとマルクスは言います。一つは、奴隷のように鎖につながれて強制労働させられているわけではないという意味での「自由」です。士農工商やカーストのような身分制もない社会では、好きな場所で、好きな仕事に就つくことができるのです。

 

しかし、奴隷や身分制のような不自由から解放された私たちは、同時に生産手段からも「自由(フリー)」になってしまいました。「生産手段フリー」とは、生きていくために必要なものを生産する手立てを持たないということを指します。ここでいう「フリー」という言葉は「束縛されていない」という意味ではなく、何かが「ない」という意味、例えばカフェインフリーやアルコールフリーなどの意味と同じように使われています。

 

この状態は、前章で見た〈コモン〉が「囲い込み」によって解体された帰結です。生産手段から切り離されてしまうと、大半の人々はもう自給自足できず商品を買うしかありません。だから、生きていくには、どうにかしてお金を手に入れなければならない。

 

資本主義社会の労働者は「自由」を売っている
そのためには何かを売る必要がある。けれども普通の人たちが生活のために売ることができるのは、自分自身の労働力しかないのです。資本主義社会の労働者は、奴隷と違って、自分の労働力を「自由」に売ることができます。つまり、労働者と資本家の関係は、労働契約を結ぶまでは基本的に自由・平等で、好きな会社と契約を結ぶことができるわけです。

 

けれども、自由になるのはそこまで。一度、労働力を売ってしまえば、あとはもう奴隷とあまり変わりません。どういうことなのか。
マルクス経済学者の内田義彦よしひこは次のように説いています。

 

労働者は労働力に対する処分権はもつが、労働に対する処分権など全然もっていない。うそだと思ったら職場で労働を自分の自由に処分してごらんなさい。処分されるのはあなた御自身でしょう。〔中略〕労働力に対する処分能力を100%持つということは労働の処分能力を100%失うということと裏表の関係にあります。(『資本論の世界』78頁)
「労働力に対する処分権」とは、自分の労働力を誰に売るかの選択権です。これは常に労働者の手元にあります。しかし誰かに売った途端、労働者は「労働の処分能力」――つまり働き方の自由を、100%失う。契約を結ぶと、その瞬間から労働者は資本家の指示・命令のもとで働かなければなりません。

 

それを無視して好き勝手に働けばクビになるだけですよね。
労働者は自由でもあり「賃金奴隷」でもある
どのように働くかを決めるのも、その労働が生み出す価値を手にするのも資本家。労働の現場には、自由で平等な関係など存在しないのです。だから、労働問題研究の大家である熊沢誠は、「民主主義は工場の門前で立ちすくむ」と喝破かっぱしたのです。そのことがわかっていても、あらゆるものが商品化された社会では、生きていくために労働者は自らの自由を「自発的に」手放さないといけない。そこに実質的な選択肢はありません。

 

だから、マルクスは現代の労働者の置かれた状況を奴隷制に喩え、「賃金奴隷」とも呼んだのです。でも、私たちは自分が「奴隷」だなんて認めたくないですよね。自分は自由な存在だと思いたい(だから市場で好きなモノが買えることが資本主義の素晴らしさとして謳われるわけです)。この気持ちを利用して、資本主義は私たちをギリギリのところまで働かせ続けるのです。

 

もちろん、労働者には、仕事を辞めて劣悪な労働環境から抜け出す「自由」もあります。なのに、なぜ現代のメアリー・アンたちは辞められなかったのか。生活がかかっているし、労働者間にも競争があるので、職場で生き残るために頑張るという面もあるでしょう。でもそれ以上に、マルクスは、ここにも資本主義の魔力があると説いています。

 

労働者を追いつめる“自己責任”という落とし穴
資本主義以前の奴隷は、本人のあずかり知らぬところで売買され、人権も人格も否定されて、家畜のように働かされます。それでも逃げないのは、逃げたら逃げたで酷むごい仕打ちを受けるからです。

 

彼らは恐怖心から嫌々労働していました。しかし奴隷は、最低限の生存保障はされていました。家畜をむやみに殺したりはしないのと同じで、奴隷所有者は奴隷をモノとしてそれなりに大切に扱ったのです。

 

ところが資本主義社会では、誰も生存保障をしてくれません。資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係性からも“フリー”になる――つまり、切り離されてしまうということです。

 

だから、今は何とか生活できていても、体を壊したり、失業したりすれば生活が立ちゆかなくなって、ホームレスになってしまうかもしれない。そんなリスクに常にさらされている労働者はみな「潜在的貧民」だとマルクスは言います。
リーマンショック後の派遣村の活動で有名になった湯浅誠が、日本はセーフティーネットが脆弱ぜいじゃくで、一度仕事を失うと一気に生活保護まで落ちてしまう「すべり台社会」だと名付けたことを思い出していただくといいかもしれません。資本主義社会の労働者は、そんな不安定な環境のなかで自分の労働力という商品だけを頼みに、それをどこに売るかも自分で決めて、必死に生きていかなくてはなりません。ここに「自己責任」という落とし穴があります。
奴隷は、ただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の生活(彼に属してはいないが保障されてはいる)のために労働するのではない。それに対して、自由な労働者は、自らの必要に駆られて労働する。自由な自己決定、すなわち自由の意識や、それと結びついている責任の感情は、自由な労働者を奴隷よりも遥かに優れた労働者にする。(マルクス「直接的生産過程の諸結果」)
労働者を突き動かしているのは、「仕事を失ったら生活できなくなる」という恐怖よりも、「自分で選んで、自発的に働いているのだ」という自負なのです。だからこそ、「職務をまっとうしなくては」という責任感が生じてきます。

 

斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書)斎藤幸平『ゼロからの『資本論』』(NHK出版新書)
実際、就職活動の面接で「なんでも死ぬ気でやります!」と自分の自由を進んで手放した経験のある人は多いのではないでしょうか。最低限の生活を保障されながら嫌々働かされている奴隷との違いは、明らかでしょう。

 

自己責任の感情をもって仕事に取り組む労働者は、無理やり働かされている奴隷よりもよく働くし、いい仕事をします。そして、ミスをしたら自分を責める。理不尽な命令さえも受け入れて、自分を追い詰めてしまうのです。これは資本家にとって、願ってもないことでしょう。“資本家にとって都合のいい”メンタリティを、労働者が自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。政治学者の白井聡さとしは、これを「魂の包摂ほうせつ」と呼んでいます。

 

誰もが「モーレツ社員」を目指してしまう
本来、際限のない価値増殖を追求する資本家の利害・関心と、人間らしい生活を望む労働者の利害・関心は相容あいいれないものです。ところが、自由で自発的な労働者は、資本家が望む労働者像を、あたかも自分が目指すべき姿、人間として優れた姿だと思い込むようになっていく。

 

高度成長期の「モーレツ社員」や、バブル期に流行った栄養ドリンクのキャッチフレーズ「24時間戦えますか」などは、その好例でしょう。資本主義社会では、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されていくことをマルクスは警告していたのです。

 

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