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まず前提となる命題が事実無根の妄想の物語で、
仮にそれが事実であったとしても、そこから結論に至るロジックがまるでデタラメであるという二重のバカ。
日常生活において常に健側に支えとなる物があるわけはないから、横歩きの技術を身につけておくことは大事。
制度としての政治権力の理論は、普通法的な主体の法律上の概念に基づいているが、それに対して統治性の分析(可逆な諸関係の総体としての権力の分析)は、自己の自己への関係によって規定された主体の倫理に基づかなければならない。-主体の解釈学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 30, 2022
今日は午前中に区役所へ行く用事があり、その後に川崎へ移動。地下街で買い物をして帰ってきた。
最近はわりと頻繁にかように一人で電車に乗って出かける。とはいっても、乗車降車の際には駅員さんに介助してもらっている。主に南武線と京王線、小田急線なのだが、いずれも新雪で的確に対応してもらえている。実に助かる。ありがたいことだ。
こういうそれ自体アプリオリに「善」のイメージを纏った言葉を俗情にもたれかかって軽々しく口にするヤツに限って、たいがい「おもいやりのある私」という虚構の自画像を思いやっているだけだったりする。
こういう意味で「思考は言葉でできている」と私は言うのだ。
アンタの身勝手な主観によって歪められ、陳腐な妄想の物語に勝手に登場させられている私の像と、今ここに実在する私とは何の関係もない。そんなことすら理解できないからバカだというのだ。
カントは注意しているのです。我々が追憶的・明示的・予知的な進歩の徴を探し求めるべきなのは、帝国の崩壊だとか確固たるものとして築かれた国家が消滅してしまうような重大な災厄などいった重大な出来事のうちにではなく、むしろ殆ど気づかれないようなものになのだと。-自己と他者の統治-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 24, 2022
https://wakarueconomics.com/%e7%b5%8c%e6%b8%88%e5%ad%a6/post-442
消費者余剰とは、ある財に関して、消費者が支払っても良いと考える金額(支払許容額)からその財の価格を差し引いた金額を表します。
すなわち、消費者余剰というのは、消費者が払っても良いと感じる金額からその商品の価格を差し引いたものであるということから、言わば消費者が得をしたと感じられる程度を示していると捉えることが出来ます。
例えば、ある消費者がりんごに対して500円の価値があると考え、500円までなら支払っても良いと思っているとします。
この場合にりんごが100円で売られており、その消費者が100円で購入したとすると、得られる消費者余剰は500-100=400(円)ということになります。
500円支払っても良いと思っていたりんごを、100円で買えたわけですから、この消費者は400円得をしたと思うはずですよね。
このように、消費者のお得感を数値化したのが消費者余剰というわけです。
エロティシズムはフロイトが考えたような欲動そのものや自然的欲求の中にあるのではなく、これがイメージ化され欲望となったときに生ずる、“言葉の産物”に他ならない。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) March 23, 2022
既に告げたはずである。金輪際関わらぬが吉であるという判断に至ったと。その経緯については再度は説明しない。どれだけ言葉を尽くそうが、むしろそれだけ、肥大して歪んだ自己愛充足のための曲解の材料を与えることにしかならないからだ。
生存一般を限定しているこの存在(神)から生存を開放するために神を殺す、しかしまた生存を、この無限定の存在が消し去っている諸限界に立ち戻らせる(それが供犠だ)ために神を殺す。-侵犯への序言-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 20, 2022
我々は、一見単純な「私」という代名詞の用法の背後に隠れているものを、一つ残らず解放しなくてはならない。主体、この複雑で脆弱なものは、語ることの非常に難しいものですが、それなしでは我々が語ることのできないものなのです。-精神分析の「解放者」、ラカン-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 18, 2022
https://www.arcle.jp/note/2019/0041.html
専門用語辞典では、捉えどころのないものに対して、定義と説明を通して、概念規定を行い、当該の用語が何であり、どういうものであるかを明らかにしなければならない。実際、定義だけでは、それがどういうものであるかを理解することは難しい。そこで、執筆者は、説明のしかたを工夫しなければならない。上述の通り、説明は例示によるものが中心となるが、比喩も例示の一形態である。
「たとえ」をうまく使った説明の例として、記号論における「関係的恣意性」という用語を取り上げてみよう。これは、定義上、「言語記号は、共時的な差異の体系であり、個々の項は他の項に依存しており、しかも、差異の体系としての関係的構造もなんら必然的な根拠を持ち得ない」ということを表す概念である。この定義は正確かもしれないが、一般の読者にとっては、おそらく何のことかよくわからないだろう。そこで、この概念がどういうものであるかを説明する必要がある。丸山圭三郎(1981)は「饅頭と風船」のたとえを使って、この用語の説明を試みている。
『箱の中に入っている饅頭と、同じ大きさの箱の中に押し込められている同じ数の風船をイメージしてみよう。その風船はただの風船ではなく、圧搾空気が入っていると仮定する。さて、饅頭の場合は、その中から1つ取り出して箱の外においても、当然そこには空隙が残されるだけで、箱の中の他の関係は変わらない。…… 圧搾空気をつめた風船の場合は、箱の中でしか、また他の風船との圧力関係においてしか、その大きさはない。もしその中の風船を1つ外に出すと、当然のことながらパンクして存在しなくなってしまう。また、残した穴もそのままではあるはずはなく、緊張関係におかれてひしめき合っていた他の風船が全部ふくれあがってたちまち空隙を埋めてしまう』(p.96)
これは難しい概念をわかりやすく、そして的確に説明するものである。饅頭の箱の場合は、項目の実体的同一性が前提となっているが、風船の箱の場合は、個々の項の実体性というものはもともと存在せず、あるのは隣接項との関係だけである、ということが示されている。さらに、風船の布置関係は共時的であり、なんら必然性は伴わないということが示されている。だから関係のあり方そのものが恣意的である、ということである。
電動車椅子が納入されてちょうど一年である。
現在の政治的・倫理的・社会的・哲学的な課題は、国家及びその諸制度からの個人の解放ではなく、国家とそれに結び付けられた個人化の型から私たちを解放することだ。数世紀に亘って我々に押し付けられてきた個人性の型を拒否することによって、主体性の新たな形式を促進していくことだ。-主体と権力-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 17, 2022
まるで綱渡りでもするみたいに左右に身体を揺らして重心のありかをコントロールし、どうにかこうにかバランスを取りながら、ヨチヨチと歩を進めるしかないのだ。「歩行」と呼ぶにはあまりに拙い。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/meishou/
名勝とは
「文化財保護法」では,「庭園,橋きょうりょう梁,峡谷,海浜,山岳その他名勝地で我が国にとって芸術上又は観賞上価値の高いもの」のうち,重要なものとされています。すぐれた国土美の有様を様々なかたちで表現する名勝は,風致景観の観賞を通じてその価値を発揮する記念物です。主として人間の作意と技術によって造られた人文的なものと,主として天然の営為や素材によって生じてきた自然的なものに大別されます。
著名な風致景観に名所を見いだし,また,名所のすぐれた風致景観に価値を見いだす名勝の特徴は,史跡と天然記念物とに重複して指定されることが多いことにもうかがうことができます。
日本に暮らす人々がそれぞれの土地に紡いできた思いを,名所や風景,庭園に継いでいくのが名勝です。
ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールの示唆した〈深層意識〉の言葉であり、更に古くは、東洋の言語哲学が探究した意識の深層における言葉に近い。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) March 9, 2022
カントの啓蒙についてのテクストと共に、現代性について問う新しい仕方が現れ、浮かび上がります。古代人に対する縦断的な関係でではなく、言説が自分自身の現在性に対して取り結ぶ、矢状的(前から後ろに突き抜ける軸)と呼べる関係、言い換えれば垂直な関係における問い方です。-自己と他者の統治-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 9, 2022
ビンスワンガーの『夢と実存』が夢の中に明らかに浮かび上がらせたのは、実存の運動が実存を病的主観性の内に疎外する心像と、実存が客観的歴史の家で己を完成する表現との決定的な分岐点を見出す根本的瞬間である。-ビンスワンガー『夢と実存』への序論-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 8, 2022
国家とは、その領域内において、正当な物理的暴力行使の独占を要求する共同体である
— マックス・ヴェーバーbot (@MaxWebr_bot) March 8, 2022
• 日本の法律には、「死亡」についての明確な定義はない。
• 「三兆候説」:「呼吸の不可逆的停止」「心臓の不可逆的停止
」「瞳孔拡散(対光反射の消失)」の3つの徴候をもって死亡し
たものとする。
• 「脳死説」:「脳幹を含む全脳の不可逆的機能喪失(いわゆる
脳死)」をもって人の死とする。
• 前回、「臓器移植法」によって、「脳死」は「脳幹を含む全脳の
機能の不可逆的停止」と定義されている、と述べた。
• しかし、それは、だからと言って、「脳死は人の死である」と人
の死を定義したものではない。
• 2009年の臓器移植法の改正によって、「脳死は人の死」と定
義されたと理解(誤解)している人が多い。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/syllab/syllab12/clph2012_08.pdf
外出先で、初めて車椅子から転落した。
https://www.google.co.jp/maps/@35.6274178,139.5415222,3a,75y,75.98h,100.31t/data=!3m7!1e1!3m5!1sOQ562nS6hR9q5mntoDprmg!2e0!5s20090801T000000!7i13312!8i6656
かつて住んでいたアパートのすぐ近所にあった酒屋。野田商店という名前だったのか。
一度も入ったことがなかったけれど存在を覚えている。いつのまになくなったんだろう?
https://www.google.co.jp/maps/@35.6424399,139.5070441,3a,75y,204.73h,84.72t/data=!3m7!1e1!3m5!1sRZytLOCZeqxkLJSf-yBGtA!2e0!5s20090801T000000!7i13312!8i6656
昔、自転車でここまで遠出して古着を物色したりしたのを覚えてる。意外な掘り出し物があったり。
もし監獄が危険を産み出すなら、そこからの逃亡は正当かつ当然だ。それは不可欠だ、もし危険人物になることを自ら望まないとしたら。自分のことをわざと追い込んで危険人物にさせようとするような人達に荷担する者など、誰一人としているはずがない。この場合、脱獄とは義務なのだ。-危険、要注意-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 5, 2022
今日では個性は権力によって完全に制御されており、我々は結局権力によって個性づけられています。言い換えれば、個性化が権力に対抗するものではない、ということです。その反対に、我々の個性、各自の義務的な同一性は、権力の効果であり道具なのです。-狂気、権力の一問題-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 4, 2022
この瞬間をみよ、と私は言葉をつづけた。この瞬間という門から、ひとつの長い永劫の道がうしろに向かって走っている。すなわち、われわれのうしろにはひとつの永劫があるのだ。"ニーチェ「ツァラトゥストラ」"
— ニーチェ「ツァラトゥストラ」bot (@Zara__bot) March 3, 2022
歩き方はもとより、立っているだけでも、身体の使い方が異常だから、いろんなところにおかしな負担がかかり、身体が変形してきた。
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