慣れ
退院して4年になる。随意性を欠いたこの身体にも随分慣れた。といっても、入院中と同様に靴下の脱ぎ履きに今でもいちいち苦労している。「慣れた」というのは苦労が解消されたという意味ではなくて、常にそうした不自由さに包まれていることが当たり前になったということだ。
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退院して4年になる。随意性を欠いたこの身体にも随分慣れた。といっても、入院中と同様に靴下の脱ぎ履きに今でもいちいち苦労している。「慣れた」というのは苦労が解消されたという意味ではなくて、常にそうした不自由さに包まれていることが当たり前になったということだ。
これは、換言すれば、現実を現実として成立させるものは、われわれの行動だということだ。われわれ自身が、現実を変革し、現実によって変革されるということだ。
— 花田清輝BOT (@hanada_kiyoteru) January 29, 2022
— ジギット野崎 Taiga Nozaki (@glocker_tanz_jp) January 27, 2022
日本語の曖昧性とはこういうことをいうんだ。といってもどこぞのバカには理解できないだろうが。
私は器具・道具・武器-機械と言おうと思ったのですが、余りにドゥルーズ流でしょう-を作るのです。私は自分の本が一種の道具箱であって欲しいと思っています。他の人々が、その中を探って工具を見つけ出し、それを使って、各々の分野で各々にとって良いと思われることを行えればよいのです。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 29, 2022
監獄は全く何も生産しない。それは[…]循環的な淘汰という全く奇妙な機構です。つまり、社会は人々を監獄に送って淘汰し、監獄は彼らを打ち砕き、押し潰し、物理的に淘汰するのです。-アッティカ刑務所について-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 29, 2022
権力関係は戦略的関係です。つまり、一方が何かするたびに、相手はそれに反対する包囲行動、行為を展開し、それから逃れようと試み、一時的回避をし、攻撃すること自体を支えにします。ですから権力関係の中では、いつ何時であれいかなるものも安定した状態ではないわけです。-ラジオスコピー-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 28, 2022
私がイヤなのは、わかる努力をしようともしない人のところへ、なぜわかっている人が降りていかなくてはいけないのかということです。無知な私にわかるように学者や専門家は話すべきだ――こうした要求を出す人が当然のようにのさばっている状況がある。『人生、しょせん気晴らし』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) January 28, 2022
科学である限りのマルクス主義は、歴史の科学、人類の歴史の科学として、然るべき真理を巡っての拘束作用を持った力学としてあり、その言説は単に過去ばかりでなく人類の未来に対してもある真理の拘束力を波及させるという予言的な科学でもあります。-世界認識の方法-マルクス主義をどう始末するか-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 28, 2022
公的領域とは市民の自由な政治活動の領域であり「アゴラ(公共の広場)」において実現され、私的領域とは家父長が支配する経済活動と家族の領域であり「オイコス(家)」の中で完結する。このような公私区分論は20世紀の政治哲学者であるハンナ・アーレントの議論に大きな影響を与えている。
— 政治思想Bot (@Seiji_shiso) January 28, 2022
2022年1月28日
久しぶりにポメラで書いている。起動が早くて使いやすい。たまに使ってやらないと、壊れそうだし使い方を忘れてしまう。今日はPCのアンインストールをしくじってシステムの復元にえらく時間がかかっている。よけいなことをしたものだ。明日(というか今日)も仕事だというのに、徹夜の勢いだ。
歩行というのが結局のところ、転倒を避けながら支持期底面をズラし、立位のまま重心移動する行為の連続であると、日々これ強く意識させられる。
「滑稽」は「深刻」と対立する概念ではなく、「苦しみ」とも対立する概念ではない。この三概念は同じベクトルをもっている。つまり、あらゆる深刻な苦しみは、――多少正確にものごとを見る能力さえあれば、ただちにわかることであるが――いくぶん滑稽である。『日本人を<半分>降りる』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) January 27, 2022
楽天で購入。
2度目のマンション大規模修繕が終わった。気づけば、住人もずいぶん入れ替わった。
磐石なネット環境を前提として、外出先での「便利」を構築しすぎると足をすくわれるから結局のところノートと鉛筆というような最低限のアナログツールは持っておきたい。
歩行というのが結局のところ、立位による重心移動のために支持期底面をズラしていく行為の連続であると、日々これ強く意識させられる。
すっかりジジイになった今では、25才なんて若いにも程があるとか思っちゃうけど、当時の心境をよくよく思い出してみれば、四捨五入したら30才で、何者でもないことにそろそろ焦りはじめていた。
神奈川県演劇脚本コンクールで奨励賞をもらったのが1997年だから28才のときだし、文化庁舞台芸術創作奨励賞の特別賞をもらったのが2004年だから35才。これでようやく名刺に「劇作家」と記せるようになったのだった。
我が車椅子での移動の目安は1分間に75m。
言葉による意思疎通ができない相手に何かをやめるよう依頼するこちらが間違っているのだ。相手がどう出ようが対抗措置をこちらで講じる必要がある。そうして関係を絶つことだ。
客観的に存在するものが見えていないとしたら、逆に、客観的には存在しないものが見えていることだってあるんじゃないか。そう考えると怖い。
文化の多様性と無根拠性を知っただけでは安直なペシミズムに陥るばかりである。何故私達は、それでも神と真理を求め続けるのだろうか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) January 25, 2022
今思い返すと、大学入学と同時に、モラトリアム終了までのカウントダウンが始まったと感じていた。それが得体の知れぬ焦燥感の正体だったのだろう。
1990年2月に札幌本多小劇場で山の手事情社『STOVE PLAY』を観たらしい。
https://passing-notes.com/column/215699/
北大入試はかつて、総合入試一本でした。北大には元々、学部別入試はありませんでした。
「文Ⅰ系、文Ⅱ系、文Ⅲ系、理Ⅰ、理Ⅱ系、理Ⅲ系、水産類、医学進学課程、歯学進学課程」ごとに入試を行ない、そして北大の1、2年生は全員、教養部に入り、3年生から学部に配属されていました。
私は1987年4月の入学だが、その頃がまさにこれ。私は文Ⅱ系で、2次試験は英数国の3教科だった。学生の多くは経済学部へ移行するが、選択肢としては他に法、教育、文学部行動科学科が用意されていた。その制度がいつ変わったのかは知らない。
はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る
石川啄木『一握の砂』
ドウォーキンの言う「共同体」とは参加者全員による自己統治に正当性の根拠を持ち、自分たちの共同体がどうあるべきであり、いかなる原理に従うべきかを共同で解釈し問い続ける「原理の共同体」である。共同体の各参加者が他の参加者に「平等な尊重と配慮」を払わなければならないのはこのことによる。
— 政治思想Bot (@Seiji_shiso) January 24, 2022
知覚の研究を始めるにあたって、我々は、「感覚」という一見、直接的で明瞭に思われる概念に言語の中で出会う。だがやがてこの概念がおよそ不明瞭な概念であり、古典的な分析が知覚という現象を取り逃がしたのもこの概念を認めたためであることが分かってこよう。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) January 22, 2022
マイノリティを押しつぶす加害性、それにもかかわらずそれに気づかない鈍感さ……ああ、嫌いだ、嫌いだ! こうした人は「いい人」なので、その暴力性を訴えても、何のことかわからない。『私の嫌いな10の人びと』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) January 22, 2022
https://eigobu.jp/magazine/silly-stupid-foolish
「silly」「stupid」「foolish」はどれも「バカ」という訳になってしまいますが、実際には微妙にニュアンスに違いがあります。特に「silly」は親しみを込めて使われることが多く、ネガティブにとらえてしまうと会話に誤解が生まれてしまいます。
そういえば昔、駅前の通りの床屋で髪を切ったことがあるなあと不意に思い出し、ストビで訪ねてみるが、床屋などない。記憶違いか? ストビの設定を2008年まで遡ってみる。あった。やはり。記憶違いじゃなかった。
「猫町」のPV撮影で行ったのは、菅馬場の公園ではなくてここだな、たぶん。己の動線の辻褄が合うし、持分見覚えもある。
「サービスバルコニー」と表記されている部分は奥行きが1メートル以下と浅く、人が何か作業をする場という想定はなく、空調室外機を置くか、なにか物を置く程度の場として設置されています。従って、日当たりのよい場所に設けられることもほとんどありません。しかし、マンションで「物が置ける」というのは大きな利点。窓の庇としての役割や、子どもの落下防止という観点からも、あった方がよい施設の一つです。
もとにある音をきらびやかに聞かせるためにつけて演奏される細かい音符のこと。通常の音符よりも小さい音符で記される。そして、その音の長さはその小節に含まれないため、なるべく速く演奏して、次の音に移らなければならない。
新型コロナウイルス関連で使われているクラスターとは、新型コロナウイルス感染者の集団や集団感染を意味しています。
本来のクラスター(Cluster)の意味は、「群れ、集団、塊」であり、英語圏などではITや天文学などさまざまな分野で使われています。
哲学の言説が自分に無関係な何らかの知に関して行う鍛錬によって、一体何が自分自身の思索の中で変わりうるか、それを探求するのはその言説の当然の権利なのである。-快楽の活用-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 17, 2022
あまりの衝撃に下北沢の駅まで本当に一言も、「ふぅ」とも「あー…」とも言わず歩いた、と妻は書いた。
なるほど言われてみれば覚えている。
こんな身体になってしまって、スズナリでの観劇などもう二度とできそうにないが、31年前のあの感情をトレースしたくて車椅子で、スズナリから下北沢駅まで「歩い」てみたのだ。
芝居やコンサートの体験を後から振り返ってみると、その場に足を運ぶ過程込みで思い出になっている。だから「オンライン」では足らないのだ。
子供の遊戯における「みそっかす」の合理性について考えていた。フーコー「臨床医学の誕生」に記載の文言に絡めて。
哲学の言説が自分に無関係な何らかの知に関して行う鍛錬によって、一体何が自分自身の思索の中で変わりうるか、それを探求するのはその言説の当然の権利なのである。-快楽の活用-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 17, 2022
本来ならば、玄関のドアが油圧ダンパーで閉まってくるのを片手で支えつつ、もう一方の手でドアストッパーを外すところを、「本来」の身体じゃないもんで、〈片手でドアを支えつつつつ〉ができない。
ではどうするか?
文字どおり頭を使うのである。
様々な関係に見出される様々な異なる権力メカニズムの間には、並列・位階的従属・同形性や、技術上の同一性や類似、伝導効果などを見出すことができる。そのような関係性に注目すれば、これら権力メカニズムの全体を論理的な一貫した有効な仕方で踏破することが可能になる。-安全・領土・人口-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 17, 2022
入浴して、自分の身体を洗いながら、いつか何かで読んだ「死体洗い」のバイトってこんな感じだろうかと思う。
ある事象の「社会-経済的」現象としての性質は、その事象それ自体に「客観的」に付着している、といったものではない。そうした性質はむしろ、われわれの認識関心の方向によって制約され、この方向は、われわれが、個々のばあいに、当該の事象にいかなる文化意義を付与するかによって決まる。
— マックス・ヴェーバーbot (@MaxWebr_bot) January 15, 2022
で、一番大きかったのは、病後初の帰省が実現したことだろう。しかも単独でだ。それを可能にしたのはやはり、車椅子が手動から電動に変わったことによる。
前半の1986年1月25・26日までの8年8回は、試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科7科目(理科2科目・社会2科目は選択制)で合計1000点満点、かつ、受験生は自身の共通一次試験の結果を基に全国の国公立大学および産業医科大学の中から1校のみ(1学科のみ)を志願して2次試験(本試験)を1回だけ受験することができるという大学受験制度であった。
後半の1987年1月24・25日からの3年3回は、毎年変更が加えられる変遷期であったが、試験科目が国語・数学・理科・社会・英語の5教科5科目(理科1科目・社会1科目は選択制)で合計800点満点、かつ、受験生は自己の「共通一次試験」の結果を基に、2次試験の日程別にグループ分けされた全国の国公立大学および産業医科大学の中から最大3校(3学科)を志願して2次試験(本試験)を最大3回受験することができるという大学受験制度であった。
車椅子の振動が肘掛けから麻痺側の腕に伝わり、亜脱臼の肩関節に響いて痛みに変わる。
1 目にとめる。存在を知覚する。気づく。「人影を―・めた」「どこにも異常は―・められない」
2 見て、また考えて確かにそうだと判断する。「有罪と―・める」「頭がよいと―・める」
3 正しいとして、また、かまわないとして受け入れる。「自分の非を―・める」「試験に教科書の持ち込みを―・める」
4 能力があると判断する。「世に―・められる」
5 気をつけて見る。じっと見る。
新聞が,扇情的な記事などを使って読者の関心をひき発行部数を伸ばそうとする行為。 1890年代にアメリカのニューヨークで,ピュリッツァー系の『ワールド』紙とハースト系の『ジャーナル』紙が演じた激しい部数拡張競争を表すことばとして用いられた。
昔、知り合いが通ったという俳優養成所で俳優ヴィラというのがあったと思うが、詳細がわからない。
https://okepi.net/gmap/tt/592?AspxAutoDetectCookieSupport=1
既に閉館したらしい。2005年に知り合いの出演する芝居を観に一度だけこの劇場を訪れた。ラフタフの公演だったと記憶する。
富める者が病院に寄付し、貧しい者がそこで医療を受けることによって医学の知識増進に寄与し、結局は富める者にも利益を与えることになる。こういう契約によって患者を教育用に使うという問題は正当化された。これもまた、経済的自由主義の思想の影響とみることができる。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) January 1, 2022
芝居絡みの用事で自転車を走らせていたとき、道に迷って偶然見つけた。
東京都狛江市岩戸北4-20-2
メガネストアー喜多見本店。
https://gakurekirank.com/joshidaigosanke/
・津田塾大学
・東京女子大学
・日本女子大学
過剰な負担がかかるため、健側の膝関節を痛めてしまったようだ。
今月は10日が祝日なので給料が前倒しで振り込まれた。とはいえ、先月、チョンボがあったから、ゆうちょダイレクトで確認してからコンビニへ。金を下ろし、煙草を買う。それから今年初のホームセンターへ。車椅子用トイレが塞がっていたのでフツーの男子便所を使った。何を買ったわけでもないが、エアコンや冷蔵庫を物色したり、ユニットバスの交換に伴うガス給湯器の使い回しについて担当者に質問したり。
どういう想念の連なりかわからぬまま何かを唐突に思い出すってことは誰にでも経験があるだろう。それがさっき私に起こった。しかし何を思いだしたんだか忘れてしまった。「ウイントンマルサリス」? 違う、そうじゃない。それで、「何か」に纏わる印象を手繰り寄せ、どうにかこうにか「何か」の正体を突き止めた。「セロニアスモンク」がそれである。
https://inami.co.jp/inamaga/detail/?contents_type=481&id=1624
涙の分泌は、3種類あり、以下の神経に支配されております。また、涙液メニスカスや排出路は基礎分泌に最適な量を想定されているので、情動性や刺激性の分泌時には、涙液メニスカスにため切れず、涙がこぼれ落ちる場合があります。
基礎分泌 自律神経(交感神経) 眼の保護(潤い、老廃物の排出)や、栄養補給。
情動性分泌 自律神経(副交感神経) 喜怒哀楽などにより涙腺が刺激され、分泌。
刺激性分泌 体性神経(三叉神経) 物理的な刺激により、涙腺が刺激され、分泌。
冬には寒さを言い訳にし、もう少し温かくなったらと、夏には暑さを言い訳にし、もう少し涼しくなったらと、そうして結局「その時」はこないまま時間だけが過ぎていく。
1991.8.3(土)~5(月)
田端 die pratze
作/武藤一郎
演出/加藤昌孝
http://black.zero.jp/gekiken/kiiroiribbon.htm
確かこれを妻と一緒に観に行ったはずだ。
2012年に上演した『ジョマクノギ』の当日パンフに私はこう書いている。
今作の舞台は架空の田舎町ですが、実はモデルとなった場所があります。どこかはあえて明かしませんが、執筆にあたり、一度そこに妻を伴い取材に行きました。滝を見下ろす山頂に城跡があり、そこに先祖の石碑を建て、一族が集ったという話を、今はなき義母から聞いていたのです。
「モデルとなった場所」というのは茨城県の袋田の滝周辺だ。そこへ私(たち)が行ったのはいつのことだったろう? 写真も撮ったはずだけれどもすぐに出てこない。
この戯曲は2009年に名古屋文化振興賞戯曲部門で佳作を受賞しているから、取材旅行はそれより前、2006年とか2007年とかそのあたりだろうという見当はつくのだけど……。
先日、家の中を杖歩行中に突然足が痺れて一歩も動けなくなったことがあるから、ちょっとした外歩きも怖くなってしまった。
確かに、一般に集団から排除されるのは辛いことである。しかし、同じように辛いのは、無理やり集団に留まることを強制されることである。『差別感情の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) January 6, 2022
この度はお問い合わせありがとうございます。
そして大変ご返答遅くなり申し訳ございません。
シャトルバスは車椅子を折り畳んでのご乗車でありましたら可能となっております。
利用したままですとご乗車はできませんのでご理解お願い致します。
宜しくお願い致します。
メールで問い合わせをしたところこのような返答を得た。要するに車椅子での乗降は不可ということだ。
どういうことかの脳科学的考察をする作品。
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私は、絶対主義もケ・セラ・セラの相対主義いずれの場合も、動きが停止することを恐れる。中・高年の人々が「近頃の若者はダメだ」と言い出した時には自分達の世代の価値観が硬直した証拠である。同時に「オジンやオバタリアンはダサイ」と決め付けた途端にヤング文化の絶対化・硬直化が始まっている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) January 5, 2022
2022.1.5 ガスレンジの電池交換をした。単2一本。
EU Taxonomyに原子力もグリーンエネルギーとして分類する法案に東欧も賛成している理由がよくわかる。 https://t.co/Iyuq65BOMI
— 井上リサ (@JPN_LISA) January 5, 2022
しかし「原発=絶対悪」の設定で、事象を単純な善悪の二元論でしか考えられぬ単細胞には、これが理解できないのだろう。
代償運動による行動範囲の再獲得は時の経過のうちで徐々にできたものの、その間、運動機能の回復は1ミリもなく、さらに老いが加わって、コケそうになる頻度が高まった。
正月休み中も、休みの明けた今も朝のルーティーンは基本的に変わらない。トイレを済ませて血圧を測定、エクセルに数値を記録し、薬を飲んで洗顔等々。インスタントのホットコーヒーを飲み、煙草を一服。入院中は、むろん煙草はダメで、自動販売機で缶コーヒーを買うのが唯一の楽しみだったことが、退院からじきに4年になる今も思い出される。
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/gaikoukan/
実はこの外交官の家・旧内田邸は、1910(明治43)年、渋谷区南平台に創建された。 最近まで住まれていた内田定槌のお孫さんにあたる宮入氏より横浜市に寄贈され、1997(平成9)年にこの地へ移築・復原された。(創建時と寸分たがわぬ状態に戻したという意味で「復元」ではなく「復原」とのこと)https://hamarepo.com/story.php?story_id=502
レジストリとは、Windowsや各種ソフトウェアなど パソコンに関する設定情報が保存されているところです。
パソコンが起動して、様々な設定がそのまま保存されているのは、このレジストリに記憶・記録された情報を読み込んでいるからです。
レジストリは通常、ユーザーが直接扱うということはありません。間違った変更を加えたりすると重大な支障が出たりすることもあります。
だけれども、思い出されるのは2018年の入院中の元旦のこと。あれから4年も経ったのに未だに退院しきれていない感じだ。実際、身体の状態はあの頃と変わりないのだ。
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