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https://www.google.com/maps/@43.0575117,141.3529277,3a,75y,145.96h,97.91t/data=!3m7!1e1!3m5!1sWOuqt8VW6X6Na9bRx245rg!2e0!5s20080501T000000!7i3328!8i1664 2008年5月現在のストビ。札幌駅前通り、狸小路あたり、南3西3の千秋庵ビルが健在だ。
1987年4月に私が札幌に移り住んでまず目についた風景。
5時にトイレに起きた。用を足して再度ベッドに戻ったが、それが許されなかった入院時代のことを思い出す。
https://qr.paps.jp/Ql4lX
2017年4月現在の県立太田高校正面玄関。この時点ではまだ時計がくっついてない。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9A%86%E7%9F%A2/
1 《「嚆」は叫び呼ぶ意》かぶら矢。
2 《昔、中国で戦いを始めるとき、敵陣に向かって1を射たところから》物事のはじまり。最初。「二葉亭の『浮雲』をもって日本近代小説の―とする」
今年も今日を入れてあと4日となった。今年最大のイベントはやはり、11月19日から2泊の群馬への単独帰省だろう。
実家の最寄り駅にエレベーターがなく、車椅子での乗降が不可で大きめの駅で降り、実家の車で迎えに来てもらった。電動車椅子が車に積めるかどうかが問題で、事前にラインでサイズのやりとりなどもしたが、どうにか乗せることができた。
今日は妻が会社の会議で留守番。仕事の宿題の続きと家の掃除。居間に掃除機をかけ、台所のレンジ台の拭き掃除など。
安部公房は「液体人間」を批判したが、それは彼は当時の映画評論家達のようにSF映画を低くみたからでなく、寧ろ高い期待を寄せていたからだ。彼は本作が「空想に十分な飛躍がなされず、最後反原爆という道徳的説教に堕ちた」のを惜しんでる。「空想のもつ現実的な力」についての指摘は今こそ重要だろう pic.twitter.com/mCY8GRhmH2
— どうそく (@madanaizo) December 25, 2021
主題を、単なる道徳的なお説教だと思い込むほど、主題に対する混乱と盲目が支配しているのだ。
ロックによると、立法府は最高権力である立法権力を担当するのだから執行府よりも上位にあり、具体的に彼は立法府を議会・執行府を国王だと想定した。したがってこの主張は「議会は国王よりも上位にある」と読むことが出来る。
— 政治思想Bot (@Seiji_shiso) December 27, 2021
大掃除というほどのことはできないから、気づいたときに身の回りの小さな掃除をちょこちょこと。
今日は一人でショッピングセンターへ。服の買い物。
自力で車椅子を用意して、介助もなしで買い物に行くことが日常的にできているのだから、そういう意味では罹患当初に比べてずいぶん「回復」したといえるわけだ。失われた身体機能は結局1ミリも戻らなかったが。
不随の左手が、車椅子の肘掛けの下に落ちて、車輪のスポークに指が絡まってしまう。しかも半側空間無視の症状によって、そのことにも気づきにくい。そのうち、指切断の事故にでもなるんじゃなかろうかと心配している。
2017年の秋、溝ノ口で救急車に乗せられ、救急隊員が電話で話しているのを聞いていて、病院ならすぐ近くにあるじゃないか、と思ったのを覚えている。
http://www.takatsuhosp.or.jp/
図面をひいて道具や建物を作る、生殖とは必ずしも関係の無いエロティシズムを楽しむ、革命や同類殺しや自殺をする…、このような動物の生み出した文化は、良い意味でも悪い意味でも自然をはみ出した過剰物であり、想像力・想像力の源としてのコトバの存在なしには考えられない。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 24, 2021
昨日で一応の仕事納めだったのだけど、溢れた分を宿題として年末まで片付けていく。
大学共通第1次学力試験(だいがくきょうつうだいいちじがくりょくしけん)とは、1979年1月13・14日から1989年1月14・15日までの11年間11回にわたり、全ての国公立大学および産業医科大学の入学志願者を対象として、全国の各会場で共通の試験問題により一斉に実施された基礎学力試験。「共通一次試験」や「共通一次」とも呼ばれた。実施責任者は、国立大学の共同利用機関であった大学入試センター(現在は独立行政法人)。
文芸誌を大量に処分してしまったから、ちょっと思い出して気になった小説が誰の何という作品だったか判らない。
歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とは程遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 24, 2021
ご飯がとても美味しい店だった。狭くて車椅子ではちょっと入れない感じだったから、訪れないでいる間に閉店してしまった。
https://www.gankagarou.com/show-item/201304aji/
妻と観に行った。懐かしい。
https://tabelog.com/tokyo/A1314/A131405/13060058/dtlrvwlst/
「猫町」公演で北品川へ行っていた頃、何度か訪れた記憶がある大衆食堂。
をもはや着ることができないから、好みの方を変えてしまう。
車椅子の異音と、昨日駆動停止したことをフロンティアの担当者にメール連絡しておいた。
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきとでも言わんばかりに、的外れな俗情との結託の強調を繰り返す。それが論点と無関係であると指摘しても、合理的思考能力が皆無だから理解できない。
による体幹の振動が、亜脱臼の肩に響いてひどく痛む。
廃止されてしまう前に乗っておこうという同級生が結構いたのを覚えている。私は完全にスルーしてた。今思えば、もうちょっと興味を持ってもよかったのになと思う。
たしか青梅市のこの店で、いつだったか、タッカンのジャスミンスカイのライブを観た。
東京都青梅市河辺町1-800
https://tabelog.com/tokyo/A1330/A133003/13031098/
生命のリアリティにたいする私達の信頼と、世界のリアリティにたいする信頼は同じものではない。後者はなによりもまず、死すべき生命の永続性と耐久性よりはるかに優れている世界の永続性と耐久性から生まれるものである。(『人間の条件』16)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) December 21, 2021
何が「問題」とされているのかを理解することなどなく、単にテレビで耳にしたか、せいぜい週刊誌で目にしたポリティクルな響きを纏った単語を自分も口にしてみることで社会派気取り。お気楽なバカである。
大学時代の友人が車の中でよく聴いていた野だろうと思う。私自身はさして思い入れはないはずで、しかし突然、歌詞の一部とそこのメロディが思い出されたのだった。
年賀状の宛名書き。直筆で文字を書くのがひどく骨が折れるので、できれば全部パソコンで済ませたいのだけども、そうもいかなくて。
「可能性に訴える論証」とは「ある言説の出来事(事象)が起こる可能性が存在する」を「ある言説の出来事(事象)が起こる可能性が高い」と混同して結論を導くものです。当然のことながら「可能性の有無」と「可能性の程度」とは異なる概念ですが、詭弁を使うマニピュレーターは、この混同につけこんで、前提を意図的に解釈することで自分にとって好都合な結論を導きます。
https://literacy.agora-web.jp/1031/
ソシュールの記号学解体作業は、まずプラトン、『聖書』以来の「言葉とは物や概念の名前である」という考え方への批判から出発する。即ち言語記号とは「自らに外在する実体を指し示す表象(代行・再現物)ではなく、間主体・共同主観的網目の産物に過ぎない」という指摘がその前段階である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 19, 2021
コンプレックスなどありはしない。強いていうなら、過去の自分との比較において過去の自分の姿に近づきたいとは願う。それがリハビリってもんだろう。他人との比較などどうでもいい。くだらない。
ただ現状をありのまま正確に認識し、それに基づく合理的判断と行動の選択に役立てたいと思うのみだ。
「適応」はその場の環境や条件にうまく「当てはまる」という意味の言葉です。また、性質や習慣を適するように変化させることも「適応」となります。適応と似ている言葉に「適用」がありますが、「適用」は規則や法律に「当てはめて用いる」という意味です。
目の見えにくさと意識の朦朧とする感じが似ていて怖い。
昨夜、風呂で湯船のお湯に浸かったはいいが、脚の調子がよくなかったらしく立ち上がるのに難儀して、浴槽からなかなか出られず怖い思いをした。脚の調子の良し悪しは事前にわかるとは限らない。何か予兆があるわけでもないから気をつけようがない。
半側空間無視とはどちらか左右の空間を認知出来ず、極端に言えば左半分もしくは右半分の空間がなくなってしまっている状態です。
そのため段差があることに気づかずつまずいてしまったり、壁にぶつかってしまうといったことが起こります。
この半側空間無視は基本的に右大脳半球損傷によって起こることが多いです。なぜなら、左大脳半球は右側の空間認知にかかわり、右大脳半球は左側だけでなく右側の空間認知も司っているからです。つまり、左大脳半球が損傷されても、右大脳半球によってある程度カバーができると言うことです。
エクリチュールというテクネーを手にする者は、みずからの思考を外部に、預かり所に委ね託すことができると知って、エクリチュール技術に頼り切るようになる。(『散種』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) December 16, 2021
Microsoft Edge でブラウズ;
リンク:http://del.ly/6694Jvqew
一次情報に基づく判断だというその「判断」が非合理的でデタラメだという話をしているのに、一次情報に基づいている、ということを強調して反論した気になっているバカ。こういうバカとどう付き合えばいいか? こたえは、解なし。付き合ってはいけないのだ。
妻のプリンターとファックス電話機ともに12月分のカード請求で精算。
今年最後の病院。その前に多摩区役所で医療費の領収書の精算。医者では薬をもらうだけかと思ったが、血液検査も。帰りに多摩区役所近くのPAZコーヒーショップへはじめて行った。
物語の構成を思いついた。単なる思いつき=アイデアにすぎず、まだ何も書いていないわけだけれども、ラストシーンが先に決まった。いつか書けるといいなと思う。
12月13日は、今年最後の病院だ。ついでに区役所に行って歯医者の領収書を精算してもらう。天気が崩れないといいが。
資料から数字を拾うというような単純作業ができなくなってしまった。高次脳機能障害ってやつだろう。
のこの時期になるといつも2017年の年末年始に病院から一時帰宅する/しない(できない)で、バタバタしたことを思い出す。ただでさえいっぱいいっぱいの妻に余計な負担をかけた。
2018年4月に退院してからもう3年以上が経つわけでその間に何度かは転倒したことがある。アタリマエのことで、容易に予測できていた。
思えば開頭手術後一週間眠り続け、リハビリ後もテーマは自宅に戻っての生活に復帰できるか否かであったのだ。電車やバスなどの公共交通機関の利用は無理だろうと言われていた。それが電車に乗って、しかも単身で群馬まで帰省できたのだから、上出来と思うべきなのだろう、すでにリハビリはゴールのテープを切っているのだ。
http://kawasaki-beer-bbq.com/
京急川崎キムラヤ
https://www.google.com/maps/@35.6941557,139.6888286,3a,75y,215.17h,91.81t/data=!3m6!1e1!3m4!1stX2mst6pSCLHH5pKfAVpkA!2e0!7i16384!8i8192 文化庁主催『オトカ』の稽古で通った道を新宿駅からストビで復習してみた。2011年だからもう10年も前のことになるのだなあ。
かつて川崎の工場地帯散策をしてたとき、何度か訪れたことがある。意外(といってはあれだけど)なことに蕎麦がとても美味かった。
過去に何度か、自力でやったことはある。実績のあるとないとじゃ大違いではあるけれど、一度できたら次もできるっていうもんではないからなかなか難しいのだ。
新宿へは今年に入ってから一度行っているけれども街の記憶がきちんと更新され、上書き保存されているわけではないらしく、ストビで彷徨うと、そこへ日常的に出入りしていた大昔の記憶を参照していることに気づく。
渋谷区道玄坂2-20-5。以前は、渋谷をほっつき歩いて、ときどき食事に訪れた。ストビの感じだと、今はもうないのかな? 病後、一度も渋谷に行ってないからよくわからない。
川崎市高津区久本3丁目。2021年12月現在、すでに解体されているらしい。入社まもなくに結婚して、この社宅に入居するとかしないとかの話があり、下見に行ったことがあった。もし入居してたらどうなったのだろう、今とは違う人生になっていただろうか、などと今さら思う。
秋の草花の写真を撮りにあそこここにも行きたいあそこにも行きたいなどとやってるうちにすっかり冬になってしまった。
かつて溝の口にあったこの文房具屋を覚えている。舞台美術のプランを考えながらこのあたりをよくふらついていた。
必要のない情報をダラダラとしゃべってしまう人。友達と話をしていても、「で、何が言いたいの?」とよく言われてしまう人、あなたのまわりにもいるのではないでしょうか。
よく行ったものだった。懐かしいな。
亜鉛めっき鋼板のうち、主に建築資材として使われているものの俗称。トタン板、亜鉛鉄板(あえんてっぱん)、亜鉛鍍鉄板(あえんとてっぱん)、亜鉛鍍金鉄板、亜鉛引鉄板、亜鉛引薄鉄板などとも呼ばれ、表面を亜鉛鍍金した薄鉄板のことを指す[2]。亜鉛めっき鋼板は安価で耐食性に優れており、建材や家電製品などに利用されている[3]。屋根[2]、バケツ、じょうろ、ちりとり等の日用品の材料にも用いられる。とたんが亜鉛を鍍金したものであるのに対してブリキは鉄板に錫を鍍金したものである[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9
テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か、という問題(同一性の問題)をさす。
過去のブログ記事を眺め返してみると、2018年10月18日に、退院後初めて一人で電車に乗っている。武蔵溝ノ口へ行ってデニーズでコーヒーを飲んだらしい。そして同月27日に、やはり溝の口で、歌野さん・柳沢さんと面会、食事会という流れだった。
というか、そのための下見だったのかもしれない。
2018年3月に楽天で購入したもよう。
1960年代末に生まれた文学理論。英語reception theoryの訳。ドイツ語圏では受容美学とも称される。ドイツのコンスタンツ大学でH.R.ヤウス,W.イーザーらによって理論化・実践された。読者は〈期待の地平〉を持って作品に接し,読みの過程でこれを修正・訂正すると主張,読書行為の相互作用性を指摘。また,時代によって異なる〈期待の地平〉と個々の作品の間には,新たな解釈・評価が積み重ねられてゆくという観点から,作品と読者の間の〈対話〉という新しい文学史観を提唱。
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%97%E5%AE%B9%E7%90%86%E8%AB%96-842170
https://www.jcp.or.jp/web_download/2020/12/post-673.html
町で共産党のポスターを見かけて気になっていた。「困った人」? それをいうなら「困っている人」ではないのか?
「困っている人」と「困った人」の区別もつかぬとは、困った人である。あるいは、そういう国語力的に困った人に優しい政治を、というメッセージなのだろうか。
一瞥してデタラメだと判る妄想話を即座に退けることを「条件反射」とは言わねえから。
[形動]物事の本質や筋道を深く考えずに、原因と結果などを性急に結びつけてしまうさま。「―な考え方を戒める」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%9F%AD%E7%B5%A1%E7%9A%84/
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