間主観性
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_intersubjectivity.html
◆間主観性と社会的関係
□「現象学による間主観性の分析は、主観と世界の関係の根底に、自他の社会的な関係を見いだすものであり、その意味で、主観性の超越論性を「純粋な」反省の領域からむしろ身体や言語というものに深く媒介させた「事実的な」歴史の領域に移行させる議論であって、ここから真理論と社会批判とが交差するような問題次元、あるいは社会存在論とよばれる問題領域が伐り拓かれることになった」(鷲田[2002:191])
□「世界は、私にとってさまざまに切り分けられて存在している。世界のうちの、あるものごと、たとえば一定の色、特定の音が切り分けられて存在しているとは、そのもの(色、音)・こと(色が見えること、音が聞こえること)が、それぞれに「意味」をもっているということだ。世界は、こうして、さまざまに意味づけられて、私に対して存在している。だが、私は、ただ一人で、世界に、世界のうちのもの・ごとに、意味を与えているわけではない。私は、「私たち」が共有することばをつうじて、いわばその分類の網の目を介して、世界を切り分け、意味づけている。私が世界に「対峙」し、世界のものごとに意味を与えながら生きているときに、私はじぶは「私たち」というかたちで「共に」生きている。「私たち」は「たがいに絡みあい交錯しあいながら」世界を意味づけている。世界はこうして、「私たち」にとって「間主観的」に与えられているのである」(熊野[2002:208])
◆廣松渉
□「廣松渉がその著『世界の共同主観的存在構造』にもとづきながら使った用語であるが、そのもとになった原語は Intersubjektivität であるので、間主観性とも相互主観性とも訳すことができる。日本語のそれぞれのニュアンスの違いによって、Intersubjektivität のもつ3つの次元の違いを区別しようとすることも考えられる。すなわち、(1)主観と主観の間に、主観の意識的・能動的な働き以前に前意識的・受動的に生じる、むしろ「間身体性 intercorporéité」(メルロ=ポンティ、M.)とも呼ぶべき次元を「間主観性」という語で呼び、(2)主観の意識的・能動的な働きにもとづいて、それぞれの動機と理由と目的をもって行われる相互行為ないし実践によって成立する次元を「相互主観性」ないし「相互主体性」という語で呼び、(3)相互行為によって成立したことが物象化あるいは擬人化されて、あたかもひとつの「共同主観 Mitsubjekt」「高次の人格」(フッサール、E.)であるかのように働く次元を「共同主観性」という語で呼ぶ、といった具合である」(浜渦[2012:285])
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