転ばぬ先の杖
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BB%A2%E3%81%B0%E3%81%AC%E5%85%88%E3%81%AE%E6%9D%96/
前もって用心していれば、失敗することがないというたとえ。
たとえとしては、そのとおりなのだろうけど、実際のところ、杖は常に「荷物」になるという側面もあり、時としてむしろ行動を阻害して転倒を誘発することさえあるのだ。
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https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BB%A2%E3%81%B0%E3%81%AC%E5%85%88%E3%81%AE%E6%9D%96/
前もって用心していれば、失敗することがないというたとえ。
たとえとしては、そのとおりなのだろうけど、実際のところ、杖は常に「荷物」になるという側面もあり、時としてむしろ行動を阻害して転倒を誘発することさえあるのだ。
ロールズのリベラリズムは、「自由vs平等」といった二者択一と見なされがちな価値観を可能な限り両立・尊重するべく自然状態・社会契約・自然権などの理論要素を現代的に再構成し、新しい規範的正義論を樹立しリベラルな秩序の擁護とその哲学的基礎づけを目指した。
— 政治思想Bot (@Seiji_shiso) October 30, 2021
お手軽に〈意識の高い私〉を味わいたいという歪んだ自己愛充足の道具に他人を使いたがる無神経な人間とは関わらぬが吉である。無神経であるが故に、他人のリソースを無駄遣いさせているという自覚など露ほどもなく、恩着せがましくおのが動機の純粋性を強調したりする。
お手軽に〈意識の高い私〉を味わいたいという歪んだ自己愛充足の道具に他人を使いたがる、こういう無神経な人間は、無神経であるが故に他人のリソースを無駄に消費しているという自覚が皆無なのだ。
代名詞の一種。事物・場所・方角をさすもの。日本語ではこれ,それ,あれ,どれ,ここ,そこ,あちら,どちらなど。話し手の領域,聞き手の領域,そのどちらにも属さない領域,不特定の領域による使い分けがある。これらの指示代名詞に,この,その,あの,どのなどを含め,語頭の音節に注目して〈コソアド〉言葉と呼ぶこともある。
https://kotobank.jp/word/%E6%8C%87%E7%A4%BA%E4%BB%A3%E5%90%8D%E8%A9%9E-519078
上京して30年になる。上京したばかりの頃にはよく横浜へも、さしたる用事もなしに行ってみたものだった。STスポットへ芝居を観に行ったりもした。しかし今、「横浜」といって思い出されるのは、2017年10月に私が入院し、いわば一命を取り留めながらも死んだあの病院なのだった。
そこで4年前に私が死んだ。
こういうと、ではそのことを今こうして語っている私は何なのかという〈我思う故に我あり〉的疑問が湧く。
なるほどマルセル・デュシャンのいうとおり「死ぬのはいつも他人ばかり」というわけだ。
ならばこう言い換えよう。4年前に彼が死んだ。と。
では、彼とは誰か?
生まれてこの方、一瞬たりとも断絶することなく連続した主体としての〈私〉だ。今の私は〈私〉抜きの私である。〈私〉の残像、それが私だ、というべきかもしれぬ。
どうにも家の中に障害物が多すぎるな。なんとかせねば。
歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とは程遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) October 28, 2021
ワクチン接種が終わったら一度、一人で田舎に帰ってみようと思う。 候補としては11月19~21日くらいかな。
生きながらにして死んだといったら形容矛盾になるだろうか。しかしこんな人生の終わり方があるのだな。
不随の足が痺れて立ち上がることもできなかった。輪をかけて不自由なこういう状態が、普段のまだマシな不自由さの自由を逆照射する。
疎外された労働は、自己活動ないし自由な活動を手段に貶めるのに加えて、人間の類的生活を肉体的生存の手段へと貶めるのだ(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) October 27, 2021
自己嫌悪に固まった人とは、じつは不健全な仕方で自己愛に固まった人でもある。言いかえれば、彼(女)は自分は傷つきたくないという願望が肥大している人です。『ひとを<嫌う>ということ』
— 中島義道bot (@gido_bot) October 27, 2021
一日じゅう、工事の音がすごい。テレビでは、内親王眞子さまご結婚のニュース。
妄想に基づく無根拠な物語を、そうと指摘されることに我慢ならない肥大して歪んだ自己愛。
— 今井一隆 (@imai_kazutaka) October 26, 2021
井筒俊彦〈深層意識の言葉〉=ソシュール=ラカンの「コード化される以前の、絶えず動き戯れる言葉の音のイメージ」=ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉=唯識派の〈アラヤ識〉
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) October 26, 2021
アマゾンでホットカーペットとその専用カバーを追加で翌日購入。
もはや終活としての人生を生きている、その自覚はある。未来もその範疇にある。リソースは極めて限られている。余計なものはできるだけ入れたくない。
終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括を意味する言葉である。
ある思想が非アメリカ的であるとか非イギリス的、非ドイツ的というのは実質的な議論ではないし、またわれわれの同胞のひとりによって考えだされたものであるなら、間違ったあるいは有害な理想のほうがよいということにもならない。(ハイエク 自由の条件)
— ハイエクbot (@hayek306) October 23, 2021
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%8B%9D%E8%B7%AA/
[名](スル)ひざまずいておがむこと。「神前に拝跪する」
㉔自己を絶対化し、あるいは絶対化したものに自己を同定して拝跪を要求し、それに従わない者を鬼畜と規定し、ただただ討伐の対象としても話し合うべき相手とは規定しえない。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) October 20, 2021
結局これが、フィリピンにおける日本軍の運命を決定したといえる。
・金銭コスト
・時間コスト
・認知コスト
・肉体コスト
・心理コスト(ストレス)
https://liffel.com/logical-thinking/cost/#%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E
http://kotowaza-allguide.com/ku/kunshichikayorazu.html
教養があり徳がある者は、自分の行動を慎むものだから、危険なところには近づかないということ。
資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現れ、個々の商品はこの富の成素形態として現れる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) October 19, 2021
ここでは軽犯罪法違反のそれではなく、トイレにおける立位での排尿のこと。
一般的な男子便所の造りを思い浮かべればわかるように、外出先で、これができないと困る局面が多々あって、だから広義の、というか、言葉本来の意味でのリハビリとして、立ち小便の「練習」が必要になってくる。。
バカの肥大した自己愛を充足させてやるために、今さら目新しくもない情報を、彼によって初めて知ったとありがたがってみせねばならぬというのか。そんな無駄な関係コストに己のリソースを奪われるのはまっぴらだというんだ。
https://www.tyojyu.or.jp/net/kenkou-tyoju/undou-kiso/daishodosa-mondai.html
代償動作(代償運動)とは、本来の動作や運動を行うのに必要な機能以外の機能で補って動作や運動を行うことです。
リハビリテーションの現場において代償動作は、疾患や怪我によって機能が障害され、ある動作や運動が行えなくなった時に、ほかの筋肉の動きで動作を補って行うこと、あるいは、何か道具を利用することや環境を整えることで行えない動作を補完して目的を達成することを指します。
なんてことない振動が車椅子の肘掛けから腕に伝わり、亜脱臼の肩で増幅されて激痛が走る。
何に対する言及なのかすら明らかにせず(できず)、俗情との結託を強めて陳腐なポエムでも口走っていれば、おのが善人性が担保されると思っている思考怠慢者(=バカ)。こういうバカとは金輪際関わらぬが吉であるという結論に至ったのである。
言い換えればこういうことだ。私の世界に不要な人間をわざわざ私の世界に置いて無駄な関係コストを負担する余裕はないんだ。
雨が心配だったけれども、冬物の服を買いにショッピングセンターへ行ってきた。なんとかぎりぎり降られずに帰宅できた。
解釈は読み手に委ねられる、とは、言い換えれば,,、どんな誤読も自由であるってことになるかと思うが、このときの「自由」とは、いわば消極的自由であって、公権力によって強制されるされることもない、平たくいえば、バカはバカのまま勝手に生きろってことだ。くだらぬ解釈をしてドヤ顔してれば、バカかこいつと蔑まれることを免れるものではないし、まして独りよがりな曲解が正当化されることなど意味しない。
http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_intersubjectivity.html
◆間主観性と社会的関係
□「現象学による間主観性の分析は、主観と世界の関係の根底に、自他の社会的な関係を見いだすものであり、その意味で、主観性の超越論性を「純粋な」反省の領域からむしろ身体や言語というものに深く媒介させた「事実的な」歴史の領域に移行させる議論であって、ここから真理論と社会批判とが交差するような問題次元、あるいは社会存在論とよばれる問題領域が伐り拓かれることになった」(鷲田[2002:191])
□「世界は、私にとってさまざまに切り分けられて存在している。世界のうちの、あるものごと、たとえば一定の色、特定の音が切り分けられて存在しているとは、そのもの(色、音)・こと(色が見えること、音が聞こえること)が、それぞれに「意味」をもっているということだ。世界は、こうして、さまざまに意味づけられて、私に対して存在している。だが、私は、ただ一人で、世界に、世界のうちのもの・ごとに、意味を与えているわけではない。私は、「私たち」が共有することばをつうじて、いわばその分類の網の目を介して、世界を切り分け、意味づけている。私が世界に「対峙」し、世界のものごとに意味を与えながら生きているときに、私はじぶは「私たち」というかたちで「共に」生きている。「私たち」は「たがいに絡みあい交錯しあいながら」世界を意味づけている。世界はこうして、「私たち」にとって「間主観的」に与えられているのである」(熊野[2002:208])
◆廣松渉
□「廣松渉がその著『世界の共同主観的存在構造』にもとづきながら使った用語であるが、そのもとになった原語は Intersubjektivität であるので、間主観性とも相互主観性とも訳すことができる。日本語のそれぞれのニュアンスの違いによって、Intersubjektivität のもつ3つの次元の違いを区別しようとすることも考えられる。すなわち、(1)主観と主観の間に、主観の意識的・能動的な働き以前に前意識的・受動的に生じる、むしろ「間身体性 intercorporéité」(メルロ=ポンティ、M.)とも呼ぶべき次元を「間主観性」という語で呼び、(2)主観の意識的・能動的な働きにもとづいて、それぞれの動機と理由と目的をもって行われる相互行為ないし実践によって成立する次元を「相互主観性」ないし「相互主体性」という語で呼び、(3)相互行為によって成立したことが物象化あるいは擬人化されて、あたかもひとつの「共同主観 Mitsubjekt」「高次の人格」(フッサール、E.)であるかのように働く次元を「共同主観性」という語で呼ぶ、といった具合である」(浜渦[2012:285])
《「文章軌範」有字集小序から》仕事の出来がよくて遅いよりは、出来はわるくとも速いほうがよい。
「麻痺」というと、「痺」という漢字や〈金銭感覚の麻痺〉等の通俗的使用例の印象から、痺れてうまく動かないくらいに思われがちだがそうじゃない。まるで自分の体じゃないみたいに全然動かないのだから不随という方がしっくりくる。
何気なくこなすようなことを、普通じゃないから、いちいち練習しなけりゃならない。毎日、いわば生きる練習をしてるようなもんだ。
https://www.itsuki-hp.jp/radio/wd
そもそも歩行は,何気なく行っていますが,実に様々な機能がうまく働いて初めて可能になります.すなわち上手に歩くためには,身体の位置を正確に認識してバランスを取りながら足を適切に動かす必要があります.このためにはまず眼からの視覚情報,内耳よりの身体の傾き具合の情報,さらに足の関節の曲がり具合などの深部感覚などをもとにして大脳皮質にあると言われる歩行中枢が足を動かす運動神経に正確かつ適切な情報を与える必要があります.従いまして歩行中枢が脳血管障害や脳腫瘍などで障害されますと歩行失行といって足に麻痺や感覚障害などがないのに歩けないという理解しがたい状態が起こります.
次に脳から脊髄を経て末梢神経となって足の筋肉に刺激を伝えるのが運動神経ですが,これには錐体路と呼ばれる中枢神経系に属する上位運動ニューロンと脊髄から筋肉までの末梢神経である下位運動ニューロンがあります.この運動神経系の障害により足は動かなくなりますが,上位ニューロンの障害では痙性麻痺と言いまして力を入れようとしても足が突っ張って硬直して力が入らない状態になります.そして下位ニューロンの障害では足の筋肉の緊張は低下し筋萎縮がみられます.この運動神経が,歩行には最も影響が大きいようですが,実は運動神経だけでは,ただ単に足を曲げるとか伸ばすといった単純な運動しか出来ませんので,これを補佐する必要があります.その役目を担っているものに錐体外路系と小脳系があります.
この2つの系によって歩行をスムースに行うことが出来るのですが,このうち錐体外路は大脳基底核と言いまして脳の奥深い場所にあり,運動の量,強さ,速さ,などの微妙なコントロールを行ったり,筋肉の緊張の具合をコントロールしております.そして小脳系は耳からの身体の傾きに関する情報や関節からの深部感覚など身体のバランスに関わる情報を統合しており,いわゆる平衡感覚に関係しています.以上が,歩行に関係する神経の役割ですが,これに加えて筋肉や骨,関節なども歩行には大いに関係していることは言うまでもありません.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9
クローヌス(英:clonus)とは筋肉や腱を不意に伸張したときに生じる規則的かつ律動的に筋収縮を反復する運動、間代(かんたい)と訳す。中枢神経性障害においてしばしば併発する。クローヌスが見られる場合は、上位運動ニューロン障害(錐体路障害)があるとされる。
神経学的診断では膝蓋間代、足間代(足クローヌス)を検査することが多いが、特に足クローヌスは錐体路障害がある場合に観察しやすい。アキレス腱が縮んだ状態(足が足関節から下に垂れた状態)から急に足底を上に押し上げる(アキレス腱が伸びた状態にする)と、下腿三頭筋のクローヌスが起こって足部(足首から先の部分)が上がったり下がったりする運動を数回繰り返す。これはアキレス腱の深部腱反射が亢進していることと同じ意義があり、錐体路障害があることを示す。 上位ニューロンの障害(錐体路障害)で出現。筋を急激に伸長させると反射性収縮(深部腱反射)を起こすが、筋の伸張刺激を与え続けた時の反射性収縮が反復する(深部腱反射の亢進)がクローヌスである。
論理的整合性のかけらもない無根拠な妄言の羅列がユーモアだというなら、その自称ユーモアをありがたがる人間とだけ勝手に付き合ってくれ。私は御免被る。
— 今井一隆 (@imai_kazutaka) October 8, 2021
1991年3月に私が札幌からやってきた先は神奈川県川崎市なのだが、これをざっくり「上京」と表現してしまう程度に、2017年の秋に私は「死んだ」のだ。
不動産情報誌などの「徒歩」の基準は一般に分速80m、すなわち時速4.8kmとのことだ。
これに対して我が電動車椅子の最高速度は4.5km/hだから、ずいぶんゆっくりだ。
2019年の死因の順位は昨年と同様,第1位「悪性新生物(腫瘍)」,第2位「心疾患(高血圧性を除く)」,第3位「老衰」,第4位「脳血管疾患」,第5位「肺炎」でした。過去4年間の推移(表)をみてみると,「老衰」が第5位から第3位まで増えているのが一目で分かります。
https://www.taishukan.co.jp/hotai/media/blog/?act=detail&id=270
非合法な犯罪・暴力や、他国からの攻撃に対処するため、法に則った暴力行使が認められた組織・機関。主に警察や軍隊。また、それらを独占的に保持する国家のこと。
[補説]社会学者のウェーバーが国家の本質として位置づけた言葉。
https://kotobank.jp/word/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E8%A3%85%E7%BD%AE-628731
麻痺側の脹ら脛辺りに自爆装置が組み込まれている感じだ。
(1)医学的リハビリテーション (2)職業リハビリテーション (3)社会リハビリテーション (4)教育リハビリテーション (5)リハビリテーション工学(参加支援工学)
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