痛みと違和感は改善することなく相変わらずある。
「慣れてきた」というのはそれらが軽くなったわけではなく、それらに常につきまとわれていることに慣れてきたのだ。
意志とは「思う」こととは別のことなのです。嘘だと思うなら、いま「立ち上がろう」と思ってください。思ったでしょう。でもあなたはただ「思った」だけで立ち上がっておりませんね。では、今度は立ち上がってください。立ち上がりましたね。『哲学の教科書』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) April 15, 2021
ある芸術作品の価値というのは、かなりの程度、それを受容するものに応じて相対的である。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) April 14, 2021
気圧の低いせいだろうか、なんだか今日は一日じゅう、頭がぼうっとしてた。
https://benesse.jp/teikitest/chu/japanese/japanese/c00534.html
一般的に,漢字の熟語は音読みどうし・訓読みどうしを組み合わせて読みます。その例外として重箱読み・湯桶読みというのがあります。
■重箱読み・・・音読み+訓読み
(例)台所(「台(ダイ)」が音読み+「所(どころ)」が訓読み)
職場(ショクば),額縁(ガクぶち),団子(ダンご),本屋(ホンや),残高(ザンだか)など
■湯桶読み・・・訓読み+音読み
(例)高台(「高(たか)」が訓読み+「台(ダイ)」が音読み)
場所(ばショ),見本(みホン),敷金(しきキン),豚肉(ぶたニク),雨具(あまグ)など
妄想の物語を自己完結したオリジナルの文法に依って単語の羅列で表現されても何も伝わらないのだよ、ということを指摘しも、徹底した自己相対化能力の欠如と歪んだ自己愛の肥大により、理解できない、決してその態度は改まらないのだから、永遠に関わらないでくれ。
車椅子用トイレがあるにはあるが、そこに通じる廊下に靴が脱ぎ散らかされていて車椅子では通ることができない。
こんな店には二度と行かないと決め、実際そうしている。妥当なやり方だろう。
先日、区役所へ行ったとき、車椅子でフツーに歩道を「歩い」ていたのだが、その先にはバス停があって、後方からやってきたバスの運転手に「車椅子の人、乗りますか?」と、拡声器で言われたのだった。
声に依る会話でなくとも、バス停に並ぶ、という無言の行為自体がバスに乗るという意思表示(=言葉)であるし、くだんのバスの運転手には私がバス停に向かっているのかもというふうに見えたわけで、それは誤解であったわけだれども、やはりそこに「言葉」を読み取ったわけだ。私は首を横に振って「乗らない」を伝達した。これで「会話」は終了したが、そこに至る無言の会話の数々に、太田省吾の無言劇のことを思ったりしたわけ。
理屈の通じないバカは、後からどんな無理筋な難癖をつけてくるかもわからない(それが無理筋であるということも理解できない)から、そもそも関わらぬが吉である。
どうして、ギリシア人が全体として、たとえばゲルマン人よりも多くの精神を持つに至ったのか、私は知らない。しかし、絶えず思考を続けようとするエネルギー、いかなる中途半端なものにも満足しまいとする良き意志――ここにおけるギリシア的なもの、それ故に特質である。-ギリシア人の祭祀-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) April 11, 2021
今思えば、病院職員の目を盗んで病棟隅の廊下の手すりでこっそりやった自主練が、最も意味ある歩行のリハビリだった。
少なくともおのがCPGの存在を自覚できる場であった。そこには単なる「立位による移動」でなしに「歩行」が残っていたのだ。
というからには、第一の人生ってものがあったわけだ。
そして第二がはじまったのなら、第一は終了したのである。
第一の終了を受容しなけりゃ第二ははじめられない。
しかし自称善人が、所詮は他人事の無責任で通俗的な「前向き」さで、この受容を妨げる。不要な干渉はよしてくれ。迷惑だ。
https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/20/tosin04/03.html
「補てん」「ばん回」「伴りょ」のように,漢語の一部を仮名書きにするいわゆる交ぜ書きは,文脈によっては読み取りにくかったり,語の意味を把握しにくくさせたりすることもある。これは,情報化の問題というより表記の問題として位置付けられるものであるが,ワープロ等の仮名漢字変換により漢字が簡単に打ち出される現在,情報機器の広範な普及という観点からも,検討されるべきであろう。
口だったり顎だったりで、動かぬ左手の代償。
【軽率な概括 hasty generalization】と【過度な単純化 oversimplification】で自分の論調に合致するテキトーなことを言い続ける【確証バイアス confirmation bias】の塊です。公共の電波を使って個人の【自己実現 self-actualization】を追求するのは迷惑なのでやめて下さいhttps://t.co/Zo6NFKBOWJ
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) August 24, 2020
人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。(『人間の条件』20)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 5, 2021
「善人は自分自身の本心に耳を傾けない」。なぜか?自分自身の本心に耳を傾けると、そこには他人を傷つけ自分も傷つくことになる不穏な言語がうごめいていて、身の安泰を脅かされるからである。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道bot (@gido_bot) April 3, 2021
道具は著しく世界的な対象物であるから、基準に用いて全文明を分類することさえできる。(『人間の条件』20)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 1, 2021
2017年10月に大病し、ピタパタの活動休止を余儀なくされて以降はとくに、発信すべき新たな情報もないから、このブログも私個人の備忘録的性格をますます強めているわけだ。
最近のコメント