下衆の勘繰り
下衆の勘繰りで、他人の内面をこうと決めつけ、当の本人がそれは違う、真意はこういうことだといっても、肥大して歪んだ自己愛(とにかくきいたふうなことをぬかして悦に入りたい)のために、おのが妄想の物語を手放すことができない、こういうバカとは金輪際関わらぬが吉である。
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下衆の勘繰りで、他人の内面をこうと決めつけ、当の本人がそれは違う、真意はこういうことだといっても、肥大して歪んだ自己愛(とにかくきいたふうなことをぬかして悦に入りたい)のために、おのが妄想の物語を手放すことができない、こういうバカとは金輪際関わらぬが吉である。
1987(昭和62)年、国公立大では初の入試日程別の複数化入試を実施した。特に注目されたのは、国立大A日程グループには西の旧帝大系である名古屋大学・京都大学(法学部はAB)・大阪大学・九州大学が含まれ、Bグループには東の旧帝大系の北海道大学・東北大学・東京大学が含まれる区分けである。この旧帝大系大学に見 る大東西分割の線引きがいわゆる「フォッサ・マグナ分割」 の由来である。なお、その他の大学については旧一期校・二期校時代の発想を踏襲しつつ、AB日程別に配分されたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%A2%E9%9B%AA%E6%99%82%E4%BB%A3
一般的に脳卒中後の機能回復は、発症から約1か月程度はスムーズに回復傾向を示し、その後徐々に回復が緩やかに生じます。その後、発症後3ヶ月程度でおおよその回復が生じ、6ヶ月を超えると劇的な変化が生じなくなると言われています。
この時期に残存した障害が、脳卒中の後遺症といえます。
何ら根拠のない妄想の物語で対象をキャラづけし、そうしてこしらえた「悪」を通俗道徳の棒きれで叩いて「正義」の悦に入る、それを藁人形論法だと言っているのだ。そんなことも理解できず、俗情との結託を強めることが自己正当化に繋がると思っている徹底した論理的思考力の欠如が救いがたいバカだというのである。
この世の虚しさを悟らない人は、その人自身がまさに虚しいのだ。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) March 31, 2021
になって、長距離を楽に移動できるようになったけれども、モーターのついてる分車幅が広くなったことで、マンションエントランスのドアを引き開けながら外に出る等の外出時に必須の動作がしづらくなった。それと、バッテリー切れの不安が常につきまとう。
判断に必要な情報をこちらが問うているにもかかわらず、明らかにせず、自己完結した自称ユーモアで意味不明なはぐらかしをし、徒に他人のリソースを無駄遣いさせておきながら、「思いやり」だとか「優しさ」だとか、通俗的な「善」を口にしたがるバカ。こういうのとは金輪際関わらぬが吉である。
最低限必要とされている情報を公開して、相手の正確な判断を妨げぬこと、それが優しさとか思いやりってものだろう。
ところがだ、おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきと思っているバカは、それを検証不能な「心」の問題にしたがるわけだ。「思いやりのある自分」を口先だけで強調し、そのために平気で藁人形論法を使う。要するにバカな上に卑怯なのだ。こういう人間には関わらぬが吉である。
電動車椅子になってから初。
歯の治療そのものよりも、敷地内に入るところのおざなりな段差プレートをひとりでちゃんと越えられるかが心配。
そもそも構造を理解しない人間にたとえ話をしても無駄。それは構造のコントラストを強めて示す作業だから。
我ながら、これを「歩行」とはとても呼べない。せいぜい立位による移動に過ぎない。
久しぶりにこの記事をポメラを使って書いている。
QRコードにしてスマホで読みとり、ワイファイで投稿。
電動車椅子になってからまだ電車に乗ったことがないから早いうちにトライしてみなきゃ。
「日本の劇」戯曲賞2010(第1回)には賞状が存在しませんので、劇団協議会による受賞決定の文書を掲載しておきます。
http://www.gekidankyo.or.jp/gikyoku/2022/2022_01.html
知覚の異常や感覚の鈍麻など、感覚神経の異常反応を生じる障害を指します。
触覚、痛覚、温度覚、振動覚、位置覚など感覚の鈍麻、痺れや痛み、筋力・統制力の低下を生じる運動感覚の失調や逃避反射の喪失などが出現すること。
【種類】①感覚過敏(hyperesthesia)、②異常感覚(dysesthesia)、③錯感覚(paresthesia)、④神経痛(neuralgia)などの症状を陽性症状と分類します。
また、⑤感覚鈍麻(hypesthesia)、⑥感覚脱失(anesthesia)などの症状を陰性症状と分類します。
【症状】
①感覚過敏(hyperesthesia):周囲の音や匂い、味覚、触覚など外部からの刺激が過剰に感じられ、激しい苦痛を伴って不快に感じられる状態のこと。
②異常感覚(dysesthesia):しびれ・ じんじん・ぴりぴりなどが自発的にみられる感覚のこと。
③錯感覚(paresthesia):異なった感覚 として認識された感覚を指し、触覚を痛み・ぴりぴり感とし て感じることが多い。
④神経痛(neuralgia):人の身体において、さまざまな原因により末梢神経が刺激されることに起因する痛みのこと。
⑤感覚鈍麻(hypesthesia):五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が敏感すぎること。
⑥感覚脱失(anesthesia):五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が鈍感であること。
少なくとも私にとってマトモに会話の成立しない人間と時間を共にするのは苦痛でしかない。だからあんたとは金輪際関わらぬと決めたのだ。
というのは、睡眠のシケモクだよな、なんて思ったりする。
とはいうけれど、今この局面でそこに杖があることで行動が妨げられ、むしろ転倒が誘発されるということがフツーにあるのだ。
脳卒中の後遺症としてみられる運動障害の一つに痙縮(けいしゅく)という症状があります。痙縮とは、意思とは関係なく筋肉の緊張が高まり、手や足が勝手につっぱったり曲がってしまったりしてしまう状態のことです。痙縮では、主に以下のような症状が見られます。
手の指が握ったままで開きづらい(清潔にしにくい)
肘が曲がり伸びづらい(着替えなどしにくい)
足の先が足の裏側の方へ曲がってしまう(歩くと痛い、装具がつけにくい)
https://www.higashi-totsuka.com/clinical_dept/botox/botox-04.html
活動は、言葉によってこそ、人間に理解できるように暴露される。言葉を伴わなくても、外形から理解はされるだろう。しかし、ただ語られる言葉によって、自分を認め、なにをするか、なにをしたか、なにをするつもりであるかを知らせる。(『人間の条件』24)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) March 23, 2021
後遺症から学んだことは、人には努力ではどうにもできないことがあるってことだ。
む(ん) …推量・意志・適当・勧誘・婉曲・仮定の意味をもち、四段型の活用で、
活用語の未然形につく。
https://www.hello-school.net/haroajapa009010.htm
おのが妄想に基づく捏造の物語を補強するために他人の言葉を曲解・矮小化する卑怯者。関わらぬが吉であると結論づけた所以である。
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきという暴力性の無自覚に基づく善人ごっこに付き合ってやる余裕はないんだ。
電動車椅子納入。
人生の終わった状態で余りの生命を生きている。その自分を一人称で呼ぶことが果たして妥当か。
己の見通しの甘さ、考えなしの行動を呪う。
もともと大食漢というわけではないし、もういい年したジジイになったから、「大盛」の謳い文句に魅力を感じない。
世界に「因果関係」は存在しない。あるのは「相関関係」だけで、因果関係は人間が主観的に見出すものだ。この300年前にヒュームの発見した真理を知らない人が、現代でも多い。
— 池田信夫 (@ikedanob) March 17, 2021
転倒その他の事故リスクを増大させる選択をわざわざする意味がない、というただそれだけの話すら理解できないオツムの人間と付き合うこともまた大きなリスクである。だからリスクヘッジとして、関わらぬが吉という結論に至る。
電車で登戸へ、そこから徒歩で病院へ。帰りに矢野口のかつ屋でお弁当を購入。
代償動作(代償運動)とは、本来の動作や運動を行うのに必要な機能以外の機能で補って動作や運動を行うことです。
リハビリテーションの現場において代償動作は、疾患や怪我によって機能が障害され、ある動作や運動が行えなくなった時に、ほかの筋肉の動きで動作を補って行うこと、あるいは、何か道具を利用することや環境を整えることで行えない動作を補完して目的を達成することを指します。
患者の姿勢や動作を評価する際や徒手筋力検査(MMT)を行う際には、代償動作が起こっていないかを確認し、代償動作を促したい動作や運動に修正するということが行われます。
いろんなものがゴミになってしまった。悲しい。
なんでおまえに指図されねばならぬのか。その道理のなさも理解できないバカに指図なんかされたくないのだ。
「他人を思いやることのできる善人であるところの私」という陳腐で自己完結した物語を実感したがる肥大した自己愛の持ち主が、それを充足させるために平気で藁人形論法で他人に根拠なきレッテルを貼りつけ、通俗道徳を盾ににこれを叩いて悦に入るのだ。
自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。(「である」ことと「する」こと)丸山眞男bot
— 丸山眞男bot (@masamaru_bot) March 11, 2021
OT:作業療法士(Occupational Therapist)
PT:理学療法士(Physical Therapist)
https://job-medley.com/tips/detail/893/
介護を必要とする人が介護サービスを利用すると、サービスを提供した事業者は国民健康保険団体連合会(以下「国保連」)に介護給付費を請求します。この介護給付費の支給に関連した一連の業務が、ケアマネジャーがおこなう給付管理です。給付管理でとくに重要となるのが、国保連に提出する「給付管理票」と呼ばれる書類の作成業務です。
https://univ-journal.jp/column/202032170/
ニューロリハビリテーションとは、近年めざましい発達を遂げている脳科学や神経科学を応用したリハビリテーションのことです。これまでの理学療法─いわゆるリハビリの世界は、さまざまな要因で運動機能が低下した人々に対して、物理的な訓練によって関節や筋肉の動きの回復を促すという考え方が主流でした。
しかし、同じリハビリメソッドを適用しても効果が出る人と出ない人がいるのは何故か。もしかしたらリハビリには、損傷された脳や神経の働きが大きく関係しているのではないか─そういった疑問が、ここ20年ほどの脳・神経科学の発展によって、徐々に解き明かされようとしています。つまり、麻ひで運動機能が低下した手足だけでなく、運動の指令塔としての脳のメカニズムを研究し、そこから得られた知見をリハビリに活用することの重要性が示されてきたのです。
けれど現状では、理学・作業療法士あるいは言語聴覚士が最新の知見を学び、研究できる環境が充分にあるとはいえません。また、今後この分野をめざす学生にも、ニューロリハビリテーションの大切さやスキルを学ぶ場が必要です。
杖歩行しているとはいっても、一般的なその概念に照らせば「歩行」とはとても呼べぬ。せいぜい立位による移動である。
もし監獄が危険を産み出すなら、そこからの逃亡は正当かつ当然だ。それは不可欠だ、もし危険人物になることを自ら望まないとしたら。自分のことをわざと追い込んで危険人物にさせようとするような人達に荷担する者など、誰一人としているはずがない。この場合、脱獄とは義務なのだ。-危険、要注意-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 6, 2021
郵便物を投函するため、杖歩行で往復した。
車椅子なしでこれだけの距離を行くのは院後初のこと。
ツイッターの自分分の過去のツイートで、たとえば「東京スカイツリー」というキーワードを含んだツイートを探したい場合は検索スペースで「from:自分のアカウント名 東京スカイツリー」と入れる。なお検索キーワードと演算子の間には必ずスペースを入れること。
Central pattern generatorの略。歩行のリズムを生成する中枢パターン発生器
現在への己れの帰属を問うとは、ある教養やある伝統への己れの帰属を問うことではない。ただ単に一般的な人間の共同体への己れの帰属を問うことでもない。ある種の〈我々〉、即ち自らの現在性によって特徴付けられているような文化的な一総体へと関わるような〈我々〉への己れの帰属を問うことなのだ。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 4, 2021
一人で床屋へいってきた。車椅子のママ散髪してもらえて助かった。懸案だった入口の急な傾斜も店員のヘルプで切り抜けられた。
http://www.rehab.go.jp/ri/event/2008openhouse/undo01.pdf
これまでのリハビリテーションでは麻痺の改善よりも、主に残存機能の強化や代償機能を活用することで、日常生活の制約を軽減することに重点が置かれてきました。 一方、神経科学領域の進展に伴い、中枢神経系は従来考えられていた以上に外界からの刺激に応じて構築的・機能的に再構成する能力(可塑性)があることがわかってきました。そこで近年では、麻痺肢の積極的な使用を促し、運動機能障害の回復を目指した取り組みがなされるようになってきています。
時間は、われわれの<自我>が存在するための条件である。死が訪れる時、個人的な時間も死に、その結果人間の生命は、生きている側にいるものたちの感覚にとって、捉えがたいものとなる。つまり、周りのもの達にとって死者になるのだ。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) March 3, 2021
https://www.kotenbunpou.com/%E5%8A%A9%E5%8B%95%E8%A9%9E/%E3%81%8D-%E3%81%91%E3%82%8A/
[き」の活用:特殊型
基本形/未然形/連用形/終止形/連体形/已然形/命令形/
き / (せ)/ 〇 / き/ し/しか/ 〇 /
「けり」の活用:ラ変型
基本形 /未然形/ 連用形/ 終止形/ 連体形/ 已然形/ 命令形/
けり/ (けら)/ 〇 / けり/ける/ けれ/ 〇
■ 「き・けり」の接続
「き・けり」は、活用語の連用形に付く。
荒唐無稽な夢の内容とそれを語る言葉の構文レベルのデタラメとはまったく別の話である。そんなことも理解できないからバカだというのだ。
主体を問い直すということは、その現実的な破壊、その解体、その破壊、全く別なものへのその転換、こうしたものへと到るような何かを経験することを意味している。-M・フーコーとの対話-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 3, 2021
個人というものを問題にしうるようになったのは、現象学者たちが考えるような、医師-患者間の、一対一の関係確立によるのではない。臨床医学の成立過程はもっと込み入っている。それを明らかにするには、過去において、人々が語ったことを研究せねばならない。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) February 26, 2021
http://medt00lz.s59.xrea.com/rhx/node2.html
従来のリハビリテーションは、障害をもった個人が何ができなくなったかということより、 残された能力によって何をなしうるかが重要であるという哲学に基づいている。このため、リハビリテーションの目標は「患者が有するすべての能力を最大限に活用する」、 という方向に向けられ、「麻痺した手足を再び動かす」というアプローチはあまり考えられていなかった。
これを私自身と呼ぶことはできない感じ
ローカルC→ユーザーフォルダー→ユーザー名フォルダー→→AppDataフォルダー→Localフォルダー→VirtualStoreフォルダー。バックアップしたデータがVirtualStoreフォルダーにあるかもしれない。
また、保存先を変更していないなら、ISO場合は「C:\DVD_VIDEOISO」に「DVD_VIDEO」で、「Image File」としてCディスクに保存される可能性も高い、この情報と更新日時によってファイルを探せるかもしれない。
他人の内面を勝手に決めつけ、そうではないと当の本人が明確に否定しているのにおのが妄想の物語を決して手放そうとしない。挙げ句の果てに、内面を余すことなく言葉にできるなら芥川賞がとれるとかいって「芥川賞おめでとう」とかトンチンカンな皮肉を吐く始末だ。こんなバカには関わっちゃやべえだろう。
「与えてやってる私」という自己愛充足のために、差し出がましい物言いで何の役にも立たぬゴミ情報を他人に押しつけてくるのをやめてくれ。迷惑だ。ここはおまえのゴミ箱じゃない。
権力とは手に入れることができるような、奪って得られるような、分割されるようななにものか、人が保有したり手放したりするようななにものかではない。権力は、無数の点を出発点として、不平等かつ可動的な勝負(ゲーム)の中で行使されるのだ。-知への意志-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) March 1, 2021
学問的意味において理解とは、理知的、論理的レベルの同意であり、定理の証明過程に似た知的行為である。一方芸術的イメージの理解とは、美学的意味における感覚的、あるいはときとして超感覚的レベルでの美の受容である。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) February 28, 2021
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