生なき生
彼は生きていますが、もはや生きているのではありません。彼はすでに死んでいるので、それは生なき生なのです。彼がXなきXという範型にしたがって作り上げている連辞は、単に形式的な可能性であるのみならず、ある日、実際のその瞬間に起こったことにおける可能化の出来事でもあるのです(『滞留』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) December 30, 2020
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彼は生きていますが、もはや生きているのではありません。彼はすでに死んでいるので、それは生なき生なのです。彼がXなきXという範型にしたがって作り上げている連辞は、単に形式的な可能性であるのみならず、ある日、実際のその瞬間に起こったことにおける可能化の出来事でもあるのです(『滞留』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) December 30, 2020
随筆名言集86 百鬼園 世の中に人の来るこそうれしけれ とは云ふもののお前ではなし(内田百間『日本の名随筆 本巻74 客』より)
— 作品社 (@sakuhinsha) June 3, 2010
過去の「栄光」というほどのものではないにせよ、少なくともアイデンティティを支える矜恃たりえる客観的事実があるならば、それにすがって生きるしか、自己同一性の先にわずかな未来が開ける可能性がないのだ。もはやそういう余生の中にいる。そういう自覚がある。
引っ越してきたのが2001年だから、約20年前、カーテンやら家具やらを物色するため、自転車で稲城長沼周辺まで足を伸ばしていたのだな。ストリートビューで稲城長沼駅周辺を「散歩」して見かけた家具屋やら蕎麦屋やらに確かに入った覚えがある。
【可能性(かのうせい)】実現する見込みがあること
【蓋然性(がいぜんせい)】ある程度確かな見込みがあること
「可能性」と「蓋然性」とは、どちらもそうなることが予想される状態にあること・さまを表す語です。
「可能性」は、そうなることの確実性の度合いが高い場合にも低い場合にも用いられます。
したがって、「可能性がある・ない」という表現だけでなく、「可能性が大きい・小さい(高い・低い)」という表現も可能です。
一方、「蓋然性」は、たぶんそうなるだろうと予測される場合に用いられる語です。「必然」と「偶然」の中間に位置するのが「蓋然」です。
つまり、「蓋然性」という語自体が確実性の度合いを限定しているので、「必然」または「偶然」と呼べるような場合にはこの語を用いることができません。
「可能性」はその「ある・なし」や「高い・低い」に言及することができますが、「蓋然性」はあるかないかだけであると理解したほうがわかりやすいと思います。
もっとも、以上のような理解に対しては、「可能性」はpossibilityの意味、「蓋然性」はprobabilityの意味であるととらえて、可能性は有無だけであり、蓋然性は程度を表すとする考え方もあります。
超過死亡率(英:excess mortality rate)とは、特定の母集団の死亡率(死亡者の数)が一時的に増加し、本来想定される死亡率(期待値)の取りうる値(信頼区間)を超過した割合のことである。「死亡率の変動」(英:Mortality displacement)とも言う。
これは通常、熱波、寒波、伝染病、パンデミック(特にインフルエンザのパンデミック)、飢饉、戦争などによって引き起こされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E9%81%8E%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E7%8E%87
自由とは個人の努力にたいする直接的統制を放棄するからこそ、自由社会はもっとも賢明な支配者の頭脳が包含するよりもはるかに多くの知識を利用することができるのである。(自由の条件)
— ハイエクbot (@hayek306) December 29, 2020
盛りの時期を過ぎた残りの生涯。残された人生。「静かに余生を送る」「余生を楽しむ」https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BD%99%E7%94%9F/
足をつけというが、それができれば苦労しないのだ。何をいっているのか。
人間に取って一番大事な物は言葉である。言葉は文字に移す事が出来る。言葉を声でなく現そうとするのが、文字に依る文章であって、文章と云う物は人間の凡ゆる営みの中で一番尊いものである。【口上】
— 内田百閒bot (@Hyakken_Uchida) December 28, 2020
https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjsai/JSAI2019/0/JSAI2019_2J5OS19b03/_pdf/-char/ja
身体図式とは、「自分の身体の姿勢や動きを制御する際に働く無意識のプロセス」と定義される。例えば、「カップを持つ」という行為では、カップの大きさや一を知覚し、自分の身体図式と照合した上で手の形や伸ばす位置を決定している。一方で、身体イメージは「自分自身の身体について意識的に持つ表象」と定義される。これは客観的に想像した自身の姿であり、人間は身体図式からその時々において身体イメージを生成している。
論理的思考ができないから非合理を非合理と理解することもできない。論拠を問うても通俗道徳を盾に信念の強調を繰り返す。端的にいってバカである。そのくせ肥大した自己愛充足のために藁人形論法でマウントをとりたがる、いわば卑怯な捏造体質。バカなだけならまだいいが、バカで卑怯は始末に負えぬ。
https://kekkan-kenko.com/medical/23/
上の血圧が高いのもいけませんが、下の血圧が低いのは、血管が硬くて、血液をため込めなくなっているから、とご理解ください。
CPGはcentral pattern generatorの略語です。頸・腰髄膨大部に存在する歩行、呼吸、咀嚼運動などのリズミックなパターン運動を惹起する神経回路網のことで、脳や感覚入力から独立してパターン運動を誘発するジェネレーターということができます。中枢パターン発生器という日本語訳が使用されることがありますが、定着しておらず‘CPG’が一般的です。
歴史的な背景をお話しますと、CPGの前身となる概念が最初に提唱されたのは1911年のことで、Brownらは除脳ネコの実験から屈筋と伸筋の興奮を交互に引き起こすhalf-centerが脊髄内に存在するという仮説を発表しました。1970年代から、より下等な脊椎動物(ヤツメウナギやイモリなど)を用いた研究が行われ、末梢神経や上位中枢からの入力を遮断した状態でも歩行様運動が誘発されることが明らかになりました。Grillner1)は、上位ニューロンからの単なる神経ネットワークやhalf-center modelとはやや異なり、脊髄内の複数のburst generatorの相互作用によりリズミックな屈筋・伸筋の筋活動が誘発されるというコンセプトを提唱しました。その後、リズム運動を誘発する脊髄内のイオン機構や神経ネットワークの解明がすすみ、これらにまつわる神経機構のことがCPGと称されるようになりました。
CPGがヒトに存在するか否かはしばらく議論の的でしたが、1998年にDimitrijevicら2)は完全対麻痺患者の腰髄膨大部付近を一定の周波数で硬膜外電気刺激を行い、リズミックな歩行様運動を誘発することに成功しました。この事実は、ヒトの脊髄内の神経群が脳から独立してリズミックな運動を惹起しうるという証拠を示したことになります。Yangら3)は、ハーネスで支持された乳児がゆっくり動くトレッドミル上で歩行様の下肢の交互運動を行ったと報告しました。足底や股関節からの感覚入力刺激がCPGを賦活化させたと考えられます。
このような研究を背景に、近年CPGの賦活を介して歩行機能の向上を図るべく、リズミックな運動がリハビリテーションに応用されています。部分免荷トレッドミル訓練やペダリング訓練は歩行不可能でも座位が可能であれば施行可能です。特に前者では脊髄損傷患者で多くのエビデンスが蓄積されました。最近では脳卒中患者、脳性麻痺児でも効果が示されています。
ホモ・カンターンス。谷川俊太郎の詩に「鳥は歌うことを知っている/その為鳥は世界に気づかない」という節があった。人は鳥のように歌わない。その為世界に気づき、世界を作る。ソシュールは「音楽も舞踊も広い意味のコトバであり、これが動物と人間の境界を画する唯一のしるしだ」と考えた。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 27, 2020
一見平和なこの日本には、感受性のファシズムがまかり通っているのだ。感受性の多数派が感受性の少数派を摘発し、密告し、訴追し、火あぶりにするのだ。子供たちは、この掟をよく知っている。よく知っているがゆえに、自分が抹殺されないために誰かを抹殺する。『醜い日本の私』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) December 27, 2020
麻痺した足が振り出せぬのは膝関節の屈伸と足関節の背屈/底屈ができないことによる。その程度の知見は「専門家」の間で当然共有されていると思っていたが実際には、健側の筋力低下という誤ったストーリーに現実が回収されていたのだから、そもそも「回復」など見込めるわけがないのだった。そのくせ「科学」などということを口にしたがるのだから笑わせる。
大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。
— J.L.ボルヘス (@borges_bot) December 26, 2020
"時は帰らない"という言葉はいわゆる、過去は取り戻す事が出来ないという意味においてのみ正しい。各人にとって現在という時々と変化する瞬間の、過ぎ去る事のないリアリティーがまさに過去の中に蓄えられていくとするならば、過去はある意味現在よりもリアルである。
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 26, 2020
実は、過剰なくらい感染対策をしたほうがいい、と主張する専門家もいますが、社会全体の最適解という視点が抜けています。視野が狭い。自殺者も、因果関係が特定できないからコロナの死者数とくらべるべきでない、という発言も結構ありますが、小学生がよく言う“証拠はあるのか? “みたいなこと。どうしたらみんなが幸せになれるかを考える段階で、“証拠がないんだから俺たちは正しい“と逆ギレする人は信用できません。そして、データに基づいて検証することが大事なのに、現時点でデータもないまま、煽っていたほうがいい、などと言うのは、非常にナンセンスです。マスコミが正義を決めてしまうようなことになっていますよね。われわれが正義だからこれでいいんだ、という、やったもん勝ちみたいな論理です」https://news.yahoo.co.jp/articles/ce2f04f04d8ce86dabd5bc726f757c5080ee033e?page=3
井筒俊彦〈深層意識の言葉〉=ソシュール=ラカンの「コード化される以前の、絶えず動き戯れる言葉の音のイメージ」=ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉=唯識派の〈アラヤ識〉
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 25, 2020
https://museum.seiko.co.jp/knowledge/story_03/
この理由として、たとえば7歳と70歳を比べた場合に、7歳児の1年は生涯の7分の1もの長さである一方、70歳にとっての1年は生きてきた内のたった70分の1なので、この比率の違いが、心理学的な時間の評価を決めているという説が一般的です。
加えて、子供は、日々新しい出来事を体験するので、多くの記憶がフレッシュな脳に鮮明に残りますが、大人は、過去と同じような体験を繰り返すばかりなので、脳の海馬がいちいち記憶していなく、気が付いたらすぐに1年経ってしまった、という理由も良くあげられます。
さまざまな点において、自伝の存在というものは、その対象についてかえってなにも知らないことの原因となりうる。(ジョン・スチュアート・ミルとハリエット・テイラー)
— ハイエクbot (@hayek306) December 25, 2020
この言葉は、障害者が障害を持っているというだけで、あるいは持っていることを含みにして、「感動をもらった、励まされた」と言われる場面を表している。そこでは、障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、積極的・前向きに努力する(=障害があってもそれに耐えて・負けずに頑張る)姿がクローズアップされがちである。「清く正しい障害者」が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアで取り上げることがこの「感動ポルノ」とされる。また、紹介されるのは常に身体障害者であり、精神障害者・発達障害者が登場することはほとんどない。
日本においては、2016年8月28日にNHK Eテレが『バリバラ〜障害者情報バラエティー〜』「検証!『障害者×感動』の方程式[6]」で感動ポルノを取り上げ、裏番組に当たる24時間テレビを批判した。
英国BBCは1996年、障害者の「困難に耐えて頑張る」姿ばかりが描写されがちなことに対する抗議運動を受けて「障害者を“勇敢なヒーロー”や“哀れむべき犠牲者”として描くことは侮辱につながる」というガイドラインを制定している[6]。
また、2020年の新型コロナウイルスにおける医療従事者への感謝として「コロナ(ウイルス)と戦う医療従事者の皆さまへお礼のメッセージ(拍手)を送りましょう」と自治体やタレントが音頭を取るケースもあり、「感動ポルノ」「全体主義的」だと批判されるケースもあるという。
掛け布団を捲るのにも足を使わねばならない。こういう些細な〈世界との「関係」〉がことごとく異常なのだ。そうして起き上がろうとすれば肩が置き去りになってしまいそうになる。かように、私自身との「関係」も。
私はただニーチェ主義者なのであり、いくつかの点についてニーチェのテクストでもって-しかし反ニーチェ的なテーゼであっても(それらもやはりニーチェ的なのです!)-云々の分野で何ができるかを、可能な範囲で試している。-道徳への回帰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) December 25, 2020
もっとも私にはほとんど関係ないのだが、思い出されるのは2017年の今頃、入院中の私が年末の一時帰宅をするしないで揉めていたこと。私としては『オトカ』公演の事後処理をするために、自宅に戻らねばという思いがあった。一時帰宅の条件として妻が病院に呼び出され、今思えば何の役にも立たぬ介助の実習をやらされたりした。それで結局、一時帰宅はできず、おまけにスマホがぶっ壊れて正月早々、妻にドコモショップに行ってもらったりして、てんやわんやだったのだった。
今日、ストリートビューで江田駅から病院まで、妻が面会に通った道を辿ってみた。そうして、もう二度と入院はゴメンだという気持ちを新たにするのだった。あんな日々に戻るくらいなら死んだ方がマシだ。
「突然ですが退学します」という歌詞が当時の私にはとてもショッキングだった。
時間はその痕跡を残さずに消える事はできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間の中によこたわる経験としてわれわれの魂の中に積もるのである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 24, 2020
運動障害 の予後 の判定には 上肢を廃用手, 補助手, 実用手 の3段 階 に, 下 肢に関 しては歩行不能, 介助~監視, 独歩 の3段 階 に分類した. 実用手 とは, 利 き手 でハシの動作 ので きる もの,非利 き手で茶 ワンを 持 って食 事動作 の 可能 なもの とした. 補助手 とは, 麻痺側 の上肢 でもって把持 ・保持 できるレベルか ら, 指尖つ まみ把持 の レベル まで とした. 独歩 とは杖 と下肢装具を利用 して他人 の監視や介助 の必要のない もの とした.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/geriatrics1964/16/5/16_5_431/_pdf
子供の頃は、古墳だということも知らず、「はげ山」と呼んで遊び場にしていた。
1987年 前年に中曽根政権の下で決定された改革による新制度で試験が実施される。この改革では、理科・社会の試験を以下のように変更することで、大多数の国公立大学で必須となる科目を「5教科5科目」の800点満点とした。 理科(60分、100点) 物理、化学、生物、地学、理科Iのいずれか1科目 社会(60分、100点) 「倫理、政治・経済」、日本史、世界史、地理、現代社会のいずれか1科目 「現代社会」、「理科I」の2科目は、普通科および理数科の卒業(見込み)生が各教科の中から選択することを禁じた。また、ほとんどの国公立大が、それぞれ設定する受験科目から除外した。 自己採点方式を廃止し、一次試験願書とともに二次試験受験願書も出願する形式にする 一校受験からABグループによる複数受験を認めた。公立大学の一部は別日程とした(ちまたでC日程と呼ばれ、1988年度入試から正式にC日程という名称が採用された) 定員の一部の募集を保留しC日程後に二次募集分として募集する方式を認める 大学の裁量により傾斜配点を行うことができる。 という内容だった。しかしこれにより、 受験科目減少により、大学入試に不要な科目(「現代社会」、「理科I」)を別科目に置き換える高校が続出した。いわゆる高等学校必履修科目未履修問題はこのときからすでに発生していた。「現代社会」と「理科I」はわずか2年で事実上受験科目から外されることになった。 東京大学がBグループであったのに対し、京都大学がAグループであったため、W合格者の多くが東京大学に入学した。翌年、京都大学の文系学部では定員をABグループに分け、その大半をBグループ(法学部は全定員をBグループ)にする方法が取られ、導入翌年から複数受験の足並みは崩れることになった。
美人が老醜を恐れるように、輝かしい青年時代を送った男は干からびた老年時代を恐れるであろうが、もともと干からびた青春しか体験してこなかった私のような男は、老年になっても意外に元気である。『観念的生活』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) December 22, 2020
の支払いをした。
亜脱臼した肩の痛みは象徴的な一つの事例に過ぎない。それ「だけ」が目下の問題というわけでは全然ないのだ。全身が常に違和感の膜で覆われているようである。年末を迎え、この違和感が来年も続きますようにと願う。おかしいようだけれども、この違和感が解消されるのは「死」によってのみであろう。私にとって「生きる」とはつまり、そういうことになってしまったのだ。
要するに自己相対化能力が著しく欠如してるってことなんじゃないかな。誰よりも自分自身に対して「優しい」のである。肥大した自己愛の充足のために他人を平気で利用する、その暴力性になど思いを馳せたこともないのだ。おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきだと思っていやがる。「優しい」人は他人の加害性に関しては恐ろしく敏感である。だが、こういうかたちでたえず他人を裁き他人に暴力を振るっているという自分の加害性に関しては、都合よく鈍感である。『うるさい日本の私』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) December 21, 2020
植物のような 廃疾が ぼくにとどめを刺すかもしれない ぼくが罪を忘れないうちに ぼくの すべてのたたかいは おわるかもしれない 『ぼくが罪を忘れないうちに』 http://t.co/LIpzE8Lu
— 吉本隆明bot (@T_Yoshimoto) January 16, 2012
1 身体障害を伴う回復不能の病。 2 律令制で規定された身体障害・疾病者。残疾より重く、篤疾より軽いもの。癡(ち)・瘂(あ)など。租のほかは免除された。
不規則な生活習慣やストレスなどにより、自律神経のバランスが乱れるために起こる、様々な身体の不調のこと。はっきりした内臓や器官の病変によるものではないため、症状の現れ方もとても不安定です。(『自律神経失調症』というのは公式な病名ではありません。)http://www.minamitohoku.or.jp/up/news/konnichiwa/201104/homeclinic.html
実用手:麻痺はあるものの日常生活に必要な動きは何とか行える状態。 補助手:他方の手の働きを助ける大ざっぱな動きが出来る状態。 廃用手:麻痺が強いために手が全く使えない状態。
…人びとが不足していた物を移入し、余剰な物を送り出すにつれて、ますます生活の支えを国外に頼るようになったとき、必要にせまられて貨幣の使用が案出されたのである(アリストテレス)
— 経済思想bot (@historyofecon) December 17, 2020
古来よりの人間の様々な定義、哲学的人間学の立場から加えられる人間の定義のいずれも、〈信号〉(シグナル)ではなく〈象徴〉(シンボル)を操る動物(アニマル・シンボリクム)、即ちホモ・ロクエンスが前提となる。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 17, 2020
功利性とは、ある対象の性質であって、それによってその対象が、その利益が考慮されている当事者に、利益、便宜、快楽、善、または幸福…を生み出し、または、…危害、苦痛、害悪または不幸が起こることを防止する傾向をもつものを意味する(J・ベンサム)
— 経済思想bot (@historyofecon) December 17, 2020
⑩【山本】ローマ時代からすでにそうなんですよね。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) December 17, 2020
これはちゃんと「デルフィの奴隷解放碑文」として残っていることで正確にわかっているんです。
もっとも契約の仕方は多種多様だったらしいのですが、契約の対象としての神という概念はローマにもあった。
もし空間が無限であるなら、われわれは、空間のいかなる地点にも存在する。もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。
— J.L.ボルヘス (@borges_bot) December 17, 2020
言語や道徳が昔の天才の「発明」であると信じられていた時代もあったが、今では誰でもが、言語や道徳は誰もその結果を予見することも設計することもなかった進化過程の所産であることを認識している。(法と立法と自由)
— ハイエクbot (@hayek306) December 16, 2020
芸術は学問とは違い実践を許容するようなことはない。実験が、作品の完成にいたる過程で、芸術家によって克服される私的な段階ではなく、単なる実験のレベルで止まるならば、芸術の目的事態は達成されないままに終わるだろう。
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 15, 2020
サマリーとは英単語の「summary」から来ていて、日本語にすると、あるものごとの内容の「まとめ」「概要」「要約」などの意味の言葉です。長い文章やデータなどを、集約し短くまとめたもののことを指します。ビジネスシーンにおいて、自分でサマリーを作ることはけっこう多いのではないでしょうか。また「合計」「総計」という意味もあります。https://gakumado.mynavi.jp/freshers/articles/43107
昭和初頭に〈エロ・グロ・ナンセンス〉と呼ばれる社会風潮があった。これは、一般には当時の退廃的サブカルチャー現象を指す名として知られているが、同時に、明治・大正の既成文壇に叛旗を翻した新人作家達が結成した流派の一傾向を指す名でもある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 15, 2020
尾木直樹氏
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) December 14, 2020
経済的な困窮者は政治の力でいくらでも救えます!!議論事態がバカバカしいのです。政府責任棚上げにして命を語るな!!
政治は何でも制御できるという個人の幻想を根拠に何でも政治の責任にするこの手のお気楽評論家の無責任非難こそ弱者の人命を奪っていますhttps://t.co/Fk2ylHqr9W
https://www.courts.go.jp/about/sosiki/gaiyo/index.html
我が国は,正しい裁判を実現するために三審制度,すなわち,第一審,第二審,第三審の三つの審級の裁判所を設けて,当事者が望めば,原則的に3回までの反復審理を受けられるという制度を採用しています。第一審の裁判所の判決に不服のある当事者は,第二審の裁判所に不服申立て(控訴)をすることができ,第二審の裁判所の判決にも不服のある当事者は,更に第三審の裁判所に不服申立て(上告)をすることができます。この審級関係において上位にある裁判所を上級裁判所,下位にある裁判所を下級裁判所と呼び,不服申立ての控訴と上告を併せて上訴といいます。 個々の裁判所は,それぞれ独立して裁判権を行使し,たとえ下級裁判所であっても上級裁判所の指揮監督を受けることはありませんが,下級裁判所の裁判に不服のある当事者から上訴があったときは,上級裁判所は,下級裁判所の裁判の当否を審査する権限を有し,当該事件に関する限り,上級裁判所の判断が下級裁判所の判断より優先し下級裁判所を拘束するのです。このような制度を審級制度と呼んでいます。
高コストで環境を損なう風力発電の最大の欠点は、出力が風まかせで制御不能なため、高コストの蓄電施設あるいは高コストの高規格送電網なしでは、CO2を排出する火力発電所を常に起動させて待機させなければならない点です。この大失敗も、無責任なテレビ世論が創った人災ですhttps://t.co/XNs5xXySux
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) December 13, 2020
まったく同感である。
どのような場合であれ、"過去"はより安定した、揺るぎないものなのだ。"現在"は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていくのだ。そして、みずからの物質的な重量をただその回想の中に見いだすのだ。
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 13, 2020
ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールの示唆した〈深層意識〉の言葉であり、更に古くは、東洋の言語哲学が探究した意識の深層における言葉に近い。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 13, 2020
車椅子が流されるから、水平なドブ板の上を行く。
芸術の作用は、道徳的、精神的ショックと結びついている。その情緒的な論証にたいして冷ややかで、それを信じる事が出来ないものは、放射能線病にかかる危険がある...。気づくことなく地球はパンケーキのように平らであり、三頭の鯨のうえに乗ってると信じる人の穏やかな顔には愚かな微笑みが浮かぶ
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 11, 2020
私の手術は、いわば爆弾処理みたいなものだった。第二の爆発を未然に防ぐことには成功したが、第一の爆発によって失われた命が蘇るわけではないのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E4%BC%9A%E8%B2%BB%E7%94%A8
機会費用(きかいひよう、英: opportunity cost)とは、時間の使用・消費の有益性・効率性にまつわる経済学上の概念であり、複数ある選択肢の内、同一期間中に最大利益を生む選択肢とそれ以外の選択肢との利益の差のこと。最大利益を生む選択肢以外を選択する場合、その本来あり得た利益差の分を取り損ねていることになるので、その潜在的な損失分を他の選択肢を選ぶ上での費用(cost)と表現している。 会計学上では、ある意思決定をしたために行えなかった投資機会のうち、得ることができなかった最大の利益額のことである。[1] 似た概念として、機会損失(opportunity loss)があるが、機会費用(opportunity cost)が「ある選択を実行する」(ことで他の選択が実行できなかった)ことで生じる・生じた架空の費用(cost)・損失(loss)を表現する積極的概念なのに対して、機会損失(opportunity loss)は単に(ある行為を)「実行できなかった・実行し損ねた(やり損ねた)」ことで生じる・生じた架空の損失(loss)を表現する消極的概念であり、ややニュアンスが異なる。 会計学上では、最善の意思決定をしなかったために失った利益額のことである。[1] 法学における類似概念として、逸失利益があるが、こちらも機会費用(opportunity cost)よりは機会損失(opportunity loss)に近い概念である。
俗情との結託を強調すれば、陳腐な浪花節が正当化されると思っている、そんな方法論に無自覚な自称作家の書く芝居になど関わっていられない。
通俗的なステレオタイプにさえ届いていないトンチンカンな認識。
徹底した自己相対化能力の欠如と肥大した自己愛がそれを自覚させない。
そういう自称劇作家が書くという芝居。
そのみっともないバカ丸出しぶりで観客の爆笑を狙うつもりだろうか。
芸術学者や批評家が、文学、音楽、あるいは絵画において、時間がどのように現れるかを研究するとき、彼らが語っているのは<時間を記録する方法>のことである。彼らは芸術のなかで時間が記録されるときに使われる客観的フォルムを研究しているのだ。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 9, 2020
申し訳ないとか、そういうことじゃない。欺瞞はよそう。あんたらの不合理な思考に基づくバカげた振る舞いに加担したくないってことなんだ。ましてその原因になるなど耐えられない。
時間と記憶は溶解しあっている。これらは一枚のコインのふたつの面に似ている。時間がなければ、記憶もまた存在しないという事は、全く明らかである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) December 8, 2020
5W1HとはWho(だれが)When(いつ)、Where(どこで)、What(なにを)、Why(なぜ)、How(どのように)を指し示す言葉です。
論理的思考力を欠き、それ故その自覚もなく、その上恩着せがましい自己愛の肥大した人間の「手助け」など不要である。
冗談を装えば批判されなくて済むとでも思ってるんだろうか。
— 難破船 (@tttnnnggg) July 25, 2020
「優秀なアーリア人種を国家的に繁殖させユダヤ人は絶滅させるべきである」「真面目に返信してくるひとがいるなあ。冗談です。あしからず」 https://t.co/D20Y8FgUY7
自分の意思で坊主頭を「選択」するのと、坊主頭を強制されるのとではまったく意味が違うだろう。坊主頭という形態の「結果」を問題にしてるんじゃない。そんなこともわからないからバカだというんだ。
ストリートビューで40年前の町の面影を探している。
筋肉や腱を不意に伸張したときに生じる規則的かつ律動的に筋収縮を反復する運動、間代(かんたい)と訳す。中枢神経性障害においてしばしば併発する。クローヌスが見られる場合は、上位運動ニューロン障害(錐体路障害)があるとされる。
神経学的診断では膝蓋間代、足間代(足クローヌス)を検査することが多いが、特に足クローヌスは錐体路障害がある場合に観察しやすい。アキレス腱が縮んだ状態(足が足関節から下に垂れた状態)から急に足底を上に押し上げる(アキレス腱が伸びた状態にする)と、下腿三頭筋のクローヌスが起こって足部(足首から先の部分)が上がったり下がったりする運動を数回繰り返す。これはアキレス腱の深部腱反射が亢進していることと同じ意義があり、錐体路障害があることを示す。 上位ニューロンの障害(錐体路障害)で出現。筋を急激に伸長させると反射性収縮(深部腱反射)を起こすが、筋の伸張刺激を与え続けた時の反射性収縮が反復する(深部腱反射の亢進)がクローヌスである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9
https://tabelog.com/tokyo/A1314/A131402/13173439/
「風待ち」の執筆中、取材で田町に行ったとき、偶然見つけて入った喫茶店。もう一度行ってみたいと思ったが、叶わぬままになってしまった。
ただでさえ動かぬ身体が寒さでこわばって、なお動かない。
と言えれば通りもいいが、ちょっと違う。
というのも、ヤツの無根拠な妄想の羅列は「考え」なんて呼べるシロモノじゃないから。妄想に基づく通俗的で陳腐な物語に他人を回収して悦に入る=肥大した自己愛の充足に他人を利用するのはやめてくれ、っていうところか。
目的は一旦実現されると目的であることを止めるものであり、手段の選択を導き正当化する能力を失い組織し生む能力を失う(中略)達成された目的は与件の巨大な武器庫に付け加えられたのである。「工作人」は再びこの武器庫から新しい目的のための手段を自由に選択するのである。(『人間の条件』21)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) December 2, 2020
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%83%BB%E9%A3%9F%E3%81%AE%E7%A5%AD%E5%85%B8
マイルスデイビスの札幌公演、行かなかったのだけれども、さんざんCMが流れていたから、会場が月寒グリーンドームだったというのは記憶にあって、けれど、いつだったかは覚えておらず、気になって調べてみた。
89年か90年という気がしていたが、1988年の『食の祭典』の一環だったのだな。
https://ja.wikipedia.org/wiki/69%E2%98%85TRIBE_%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E6%97%8F
2005年4月12日から2006年9月27日まで毎週水曜 25:58~26:28にフジテレビ(関東ローカル)で放送されていた音楽番組。
当時、火曜深夜に「ヘビメタさん」を観た流れでこの番組を観ていた覚えがある。番組名が判らなかったのだけれど、当時のテレビ欄をヤフオクで入手して確認した。
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