札幌タワレコ
札幌タワレコは、南2西2の富樫ビルに入る前に、南3西4の5番街ビルにあったらしい。
2006年に閉店したシスコレコードは南2西4清水ビルB1階にあったということなので、
私の記憶にあるタワレコは富樫ビルじゃなくて5番街ビルだったのかもしれない。その方がシスコとハシゴしやすいし、たしかにハシゴした記憶があるので。
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札幌タワレコは、南2西2の富樫ビルに入る前に、南3西4の5番街ビルにあったらしい。
2006年に閉店したシスコレコードは南2西4清水ビルB1階にあったということなので、
私の記憶にあるタワレコは富樫ビルじゃなくて5番街ビルだったのかもしれない。その方がシスコとハシゴしやすいし、たしかにハシゴした記憶があるので。
どのような場合であれ、"過去"はより安定した、揺るぎないものなのだ。"現在"は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていくのだ。そして、みずからの物質的な重量をただその回想の中に見いだすのだ。
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) November 29, 2020
「独楽は止まると倒れる」という諺は、決してモーレツサラリーマンの粉骨砕身振りを讃えているのではなく、まさにその反対の、日常生活世界のゆとりと愉しみを持つべきだという意味である。勤労自体が苦役ではなく喜びを伴った仕事となるためには日常の偶発性という生命の動きが止まってはならない。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) November 29, 2020
"時は帰らない"という言葉はいわゆる、過去は取り戻す事が出来ないという意味においてのみ正しい。各人にとって現在という時々と変化する瞬間の、過ぎ去る事のないリアリティーがまさに過去の中に蓄えられていくとするならば、過去はある意味現在よりもリアルである。
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) November 28, 2020
ラカンにとって、欲望する主体が欲望の対象に近づこうとそれから遠ざかろうと、その対象はつねに主体から同じ距離にあるように見える。(中略)どんなに欲望の対象に近づいても、欲望の原因は遠くにあって手が届かないのである。(『ラカン』p132)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) November 28, 2020
https://www.frontier-ph.com/main.cgi?c=2/1/1/2/7:3
説明書:https://www.frontier-ph.com/2/1/1/2/7/res.3/A013_201903_eressyu_web.pdf
リチウムイオンバッテリー
ラベル表示:Li-ion 00
実用登降坂角度:6度
前輪キャスターの直径が6インチだから約15センチ。乗り越えられる段差の限界は15センチの1/3で、5センチということなる。
居留守と云う事は、やって来た相手の顔を立てて、こちらがうそつきになる事に甘んずる挨拶である。来た者に会いたくはないが、いても会いたくないのであって、会わないのはいないからだと云うお膳立てをして迄、相手の顔を立てるに及ばない。【未だか十二年】
— 内田百閒bot (@Hyakken_Uchida) November 27, 2020
<いま・ここ>という場がすべてなのだ。根源的に存在する「私」が<いま・ここ>に開けている特定の刺激状況に過去の意味を付与するのではない。そうではなくて、<いま・ここ>に開けている特定の刺激状況に過去の意味を付与する主体を、そのつど「私」と呼ぶだけなのである。『明るいニヒリズム』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 24, 2020
気圧が変化すると、人間の体はストレスを感じるため、それに抵抗しようとして自律神経が活性化されます。自律神経系には、交感神経と副交感神経があり、交感神経は血管を収縮させ、心拍数を上げて体を興奮させる働きがあります。一方、副交感神経は血管を広げて体をリラックスさせる働きがあります。この交感神経と副交感神経の調整がうまくいかないと、さまざまな体調不良の原因となってしまうのです。https://toyokeizai.net/articles/-/165183
気圧が低くなると、交感神経が優位になり、血圧や心拍数が上がる。
逆に気圧が高くなると交感神経の活動が抑えられ、その結果、リラックスして心拍数が減り、痛みや不安などが少なくなる。
https://bunshun.jp/articles/-/41432
まさにこの1987年に私は大学受験だった。
むろん私は東大も京大も受けていない。A日程が埼玉大、B日程で北大だった。両方に合格して北大に進学した。
https://www.healthliteracy.jp/shinrai/post_1.html
玉石混交の情報が、信頼のおけるものなのか、情報の発信者だけではなく、誰にでも当てはまる情報なのかを判断するには、その情報が、科学的根拠、つまり「科学により実証されている根拠」、に基づいた情報であるかという観点から捉える必要があります。
文化は自然的なものでも人為的なものでもなく、また遺伝学的に伝えられたものでも、合理的に設計されたものでもない。それは学習された行動のルールの伝統である。これらのルールは決して「発明」されてきたものではない。また、行動する個人はこの文化の機能を理解していない。(法と立法と自由)
— ハイエクbot (@hayek306) November 23, 2020
意図的な死によって、言語にとって内的な次元、即ち言語自身による言語の死刑執行、そして自分の屍骸の粉々にされた光輝から出発しての甦りという次元を開きつつ、毎日の言語の中の死ということの突然の空虚こそ、そして直ちに起こる星々の誕生こそ、詩というものの距離を定義している。-ルーセル論-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) November 23, 2020
こういう人間を相手に話すことなど何もない。
肥大した自己愛充足の材料として他人を利用するために、その言葉の曲解と矮小化が繰り返される、と経験から学んだから、せいぜい関わらぬが吉であるという結論に達したのだ。
を推測とは呼ばねえから。それが理解できない者をバカというんだ。
ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉:ソシュールが五段階にわたって行った〈西欧形而上学の記号学〉解体の結果明らかにされた、言語=意識=身体の深層に見出される〈差異〉のこと。表層意識において実体視される〈コード化された差異〉以前の差異。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) November 23, 2020
結論が似ているようでも、統計的な蓋然性を積み上げて導き出されたそれと、単に正常性バイアスの強調によるそれとでは、重みがまったく異なるのだ。
たしか「痕-KON-」公演の時、舞台美術の素材を探しにあちこち歩き回り、この公園脇にあるリサイクルショップを尋ねていったのだった。
ラカンのメリットは、フロイトに残っていた実体論的思考、つまり欲動の〈表象代理〉である無意識の実在性を措定したり、隠された真の意図を直接観察可能な見せかけの外観に対置しかねない発想を、無意識自体を言葉と見做すことによって乗り越えた点に見出される。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) November 22, 2020
群馬県太田市の東本町十字路から太田市役所前交差点の区間は、かつて地上を走っていた東武鉄道伊勢崎線を越える跨線橋であった。伊勢崎線の高架化事業に伴い、2004年5月12日から11月26日までの間、通行止めにして跨線橋を取り壊し、伊勢崎線高架切り替えを待って、11月26日6時より暫定2車線の平面道路として開通、2005年に4車線となった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93407%E5%8F%B7
https://www.e-sogi.com/guide/18033/
死装束とは、故人に着せる装束です。故人に死装束を着せる慣習は古くから続いており、着せ方も通常の着物とは少し違います。また、死装束は着物以外にも多くの装具があり、それぞれに意味があります。 人は死んだあと旅に出ると言われており、多くの装具はその旅のために必要だと考えられています
死装束を着せるタイミングは通常、故人を棺の中へ入れる納棺の前です。
現在では、死装束を故人に着せるのは葬儀社の担当者、または納棺のサービスを専門で行っている方々であることがほとんどで、遺族が直接行うことは少なくなっています。そのため、死装束自体も大抵は葬儀社が用意します。
見かけや表面と、実際・実質とが一致しないたとえ。良品に見せかけたり、宣伝は立派だが、実際には粗悪な品を売るたとえ。羊の頭を看板にかけながら、実際は犬の肉を売る意から。▽「狗」は犬。「羊頭を懸かけて狗肉を売る」の略。
フッサールは、哲学者は「人間性の公僕である」と言いましたが、それは哲学者はその職業からして、人間性というものが成り立つための諸条件、言いかえれば、全ての人が共通な真理に与ることのできるための諸条件を定義し、意識させるように定められている、という事なのです。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 19, 2020
太陽が東から昇り西へ沈む、これが単なる私の主観ではなく客観的事実であるということは地球の自転がどうこうといった「地学」を持ち出すまでもないだろう。
だが、おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきというタイプの人(=自己愛の肥大した)は、こうした客観性というものを己の内に持ち得ない。
身体図式body schemaは、メルロ・ポンティが「習慣的身体」といったように、習慣としての身体の表象と考えてよいものです。身体図式は、私たちが生活においてさまざまな動作をする、生活に必要な道具を使用する、その日々繰り返される身体の感覚的経験や運動的体験の蓄積により、個人の身体の各部位の大きさや運動機能、部位間の関係といったものが組み替え更新され、幼児期から青年期を経て、老年期へと、発達にともなう身体の変化にそって形成されます。 したがって年を隔てて比較すれば、その時々の身体図式は異なりますが、その連続的な変化のなかでは恒常性、安定性が保たれており、私たちが身体を使用するとき、身体の尺度として身体の空間的なイメージを成立させる役割を担っています。 身体像body imageは、その恒常性を保っている身体図式を基盤として構成される身体の実用的な設計図にあたります。身体を意識してはたらかすことが必要な状態において、身体像)が身体図式を基盤に立ち上がります。また道具を使用する場合には、それまで類似の道具を使用した経験から、とりあえずの初期身体像が立ち上がり、実際に手にした道具を使い始めると、使っている道具を身体の延長として取り込み、身体像はダイナミックに、手にしている道具に対応して修正されます。
便宜的に指というが、実のところどこが痛んでいるのか自分でもよくわからないのだ。果たしてこれを自分の身体といえるのだろうか?
シェリングによれば、主体は、理性的な〈言葉〉という媒体として断定される以前には、「存在の無限な欠如」である。それは、自分の外部にある存在の一切を否定する収縮という、暴力的な所作である。(『神話』p184)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) November 18, 2020
自己相対化能力と論理的思考力を著しく欠き、いつまでも的外れな嫌みを垂れ流して恥じないのは無様というしかない。
(「神」の)擬人論的、人格的、あるいはアニミズム的解釈を、つまり多くの人びとがそれによってそのことばにうまく意味を与えている解釈を私は退けている。人間風の、あるいは精神風の行動する存在という考え方は、むしろ、人間風の精神の諸能力についての傲慢な過大評価の産物であるように思われる。
— ハイエクbot (@hayek306) November 18, 2020
• 日本の法律には、「死亡」についての明確な定義はない。 • 「三兆候説」:「呼吸の不可逆的停止」「心臓の不可逆的停止 」「瞳孔拡散(対光反射の消失)」の3つの徴候をもって死亡し たものとする。 • 「脳死説」:「脳幹を含む全脳の不可逆的機能喪失(いわゆる 脳死)」をもって人の死とする。 • 前回、「臓器移植法」によって、「脳死」は「脳幹を含む全脳の 機能の不可逆的停止」と定義されている、と述べた。 • しかし、それは、だからと言って、「脳死は人の死である」と人 の死を定義したものではない。 • 2009年の臓器移植法の改正によって、「脳死は人の死」と定 義されたと理解(誤解)している人が多い。
(「語る」という現象において)話し手は語るに先立って考えるのではない。話す間に考えるのですら無い。語るということが考えることなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 17, 2020
問題なのは、正しい解答が一つしかないことである。多くの場合、「優しさ」を強調する人はその絶対基準を自分のうちにもち、それで他人を断罪するという暴力を平気で行いがちである。『カントの人間学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 17, 2020
「行いがち」というよりむしろそれをするために他人の言葉を曲解/矮小化し、おのが妄想の物語に他人を回収して悦に入りたがるバカを2人ほど実際に知っている。
私はこのコップではない、このテーブルではない、この部屋ではない。私の空虚は任意のものではなく、少なくともその限りにおいては私の無(néant)は埋められ無効にされている。だが実は、私の現在のこの擬似-肯定性はより深い、ないしは二重化された否定でしかないのだ。『問いかけと弁証法』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 16, 2020
「真理とはそれが無くてはある種の生物が生きていけないかもしれない誤謬である」といったのはニーチェであるが、このアフォリズムの力点は、「全ての真理が誤謬」というところにあるのではなく、誤謬であれ何であれ真理なしには「生きられない」というところにおかれている。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) November 16, 2020
怒り或いは愛の仕種は日本人と西欧人とにあって、決して同じではない。もっと正確に言えば仕種の違いは情緒そのものの違いと一致するのである。身体的組織に対して偶然的なのは、単に身振りだけではなくて、状況を迎えそれを生きる仕方そのものも、である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 16, 2020
知覚の異常や感覚の鈍麻など、感覚神経の異常反応を生じる障害を指します。 触覚、痛覚、温度覚、振動覚、位置覚など感覚の鈍麻、痺れや痛み、筋力・統制力の低下を生じる運動感覚の失調や逃避反射の喪失などが出現すること。https://kouzenkai.info/kc-rs/%E3%83%AA%E3%83%8F%E3%83%93%E3%83%AA%E8%B1%86%E7%9F%A5%E8%AD%98%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%BC%BE%E3%80%8C%E6%84%9F%E8%A6%9A%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
魂の不死性は一種の抗体〔反身体〕として作用するのであるが、それは死を歓迎することによって死の恐ろしい幻想を消し去るのだ。(『散種』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) November 14, 2020
http://live-ban.com/shinjuku_h/
歌舞伎町のライブハウス。2007年に二井原実のライブを観に行ったのだった。会場名を思い出せなかったのだが、演者である加藤剛志氏のブログで突き止めた。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E6%82%9F%E6%80%A7/
1 物事を判断・理解する思考力。知性。 2 カント哲学で、理性・感性から区別され、感性的所与を総合的に統一して概念を構成し、対象を認識する能力。 3 ヘーゲル哲学で、弁証法的な具体的思考の能力である理性に対し、有限的、限定的な規定に立ち留まっている抽象的な思考能力。
物はまた、まずもって悟性に対する意味にあるのではなく、身体の視察によって捉えられる一つの構造であって、もし我々が現実的なものを知覚経験の中で我々に現れる通りに記述しようとするなら、我々はそれが人間学的賓辞で蔽われているのに気づく。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 14, 2020
上の画像をクリックするとYouTubeピタパタチャンネルに飛びます。公演動画等を公開しています。チャンネル登録お願いします。
【転載不可】
2017年10月に、主宰で作・演出の私今井が病に倒れ、約半年の入院後、退院して現在は自宅に戻りましたが、重度の後遺症が残り、演劇活動再開の目処が立たない状況です。励ましの言葉も多く頂いていますが、身体機能のいろいろを不可逆的に喪失し、「治る」とか「恢復する」といった種類のものではないため、復帰は相当に困難というのが正直なところです。
2012年の旗揚げから概ね年1回のペースで公演を重ねてきましたが、上記の理由により、ここで活動を休止します。公演を楽しみにしていてくれたお客様にはたいへん申し訳ないのですが、どうかご了承ください。ピタパタの芝居づくりに関わってくれた俳優およびスタッフはそれぞれの活動を継続していますので、彼らを引き続き応援していただけますと幸いです。また、ピタパタの過去作品の戯曲はこちらで公開しています。
ピタパタ主宰 今井一隆
こちらでピタパタの上演台本などを無料公開しています(ダウンロード可能です)ので、どうぞご覧ください。下の画像をクリックしてもリンク先に飛びます。
【使用上のご注意】
公開中(リンク先PDFファイル)の戯曲は、学校のクラブ活動やアマチュア劇団の無料公演、ワークショップの教材としてご使用になる場合、脚本使用料は無料です。使用許可、テキレジの許可等、いずれもご連絡いただく必要ございません。ダウンロードしてご自由にお使いください。
プロ劇団、またはそれに準じる団体(アマチュア劇団の有料公演)でのご使用の際は、必ず事前にメール(このページ左上にございます〈メールを送信〉でお知らせください。使用条件等、詳細について折り返しご連絡差し上げます。なお、脚本使用料の目安は総製作費の5%ですが、相談に応じます。
その他、ご不明な点は、メール(このページ左上にございます〈メールを送信〉)で、あるいはimaikazutaka@nifty.comまでお気軽にお問い合わせください。
私の意識はまず世界に向い、物に向っており、それは何よりも<世界に対する態度>です。<他人意識>という物もまた何よりも、世界に対する一つの行動の仕方です。そうであってこそ初めて私は他人の動作や彼の世界の扱い方の中に<他人>という物を見つけだす事ができるわけです。『幼児の対人関係』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 13, 2020
「文Ⅰ系、文Ⅱ系、文Ⅲ系、理Ⅰ、理Ⅱ系、理Ⅲ系、水産類、医学進学課程、歯学進学課程」ごとに入試を行ない、そして北大の1、2年生は全員、教養部に入り、3年生から学部に配属されていました。
https://passing-notes.com/column/215699/
実際、1987年4月に入学した私は文Ⅱ系から経済学部だった。
ニーチェは偶然と運命とのあいだの揺れを止めようとする。つまり、われわれの眼には偶然に見えるさまざまな事象の背後に「何か意志的なもの」があって、それがすべてを動かしていることを認めるのではなく、すべてがまさに偶然であることをそのまま認めよということ。『後悔と自責の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 13, 2020
を、結局、精神論で乗り越えている状態。ミスが多いだろうことはあらかじめわかっているから、仕事の仕掛を抑制している。つまり手出しを控える。
いつも、失われた何かを取り戻そうとしていた気がする。いわば日々是後悔だ。そしてそれだけが行動の原動力だった。
■山本七平botまとめ/「仮名(かな)が日本を作った」/~漢字文化に圧殺された韓国、圧殺されなかった日本~https://t.co/NqS0dnHFAh
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) November 12, 2020
私の位置の移動はすべて、原則として私の視野の一角に何らかの形で現れ、<見えるもの>の地図に描きこまれる。そして、私の見るすべてのものは、原則として私の射程内にあって、「私がなしうる」ことの地図の上に定位されるのだ。この2つの地図は、いずれも完全なものである。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 12, 2020
もし私が自分は存在すると考えるとすれば、それは「思考」と「存在」とに注がれた客観的思考から結果するのではなく、むしろ私自身がその結びつきであり、それを遂行しているからなのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 12, 2020
「いま」という時間は、物理学には登場してきません。なぜなら、いつもいつも「いま」だからです。同じように、「私」も「永遠」も「無」も、物理学が立ち入ることのできない領域に位置する現象、すなわち自然現象ではないことがわかります。『「死」を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 12, 2020
形容詞に分類される単語はすべて、その活用語尾が「かろ・かっ・く・い・い・けれ」になります。つまり、形容詞の活用のしかたは1種類だけです。 なお、形容詞の活用形は、未然形・連用形・終止形・連体形・仮定形の五つであり、命令形はありません。
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/otabunka48.html
子供の頃、友達と自転車でよく行ったものだ。古墳とは知らずに遊んでいたが。
あのあたりは、森っぽいところはだいたい古墳だったりする。
北8西6のマンションから北大植物園(北3西8)脇を通ってSTV(北1西8)へ。
大学1年の時、深夜というか、明け方に歩いたことがある。今、ストリートビューで追体験してみると、徒歩圏内とはいっても結構な道のりを歩いたワケだなあ。
私は「触覚の与件」を「視覚の言語」に、もしくはこの逆に翻訳するのではない。――私は私の身体の諸部分を一つ一つ集め組み合わせるのではない。この翻訳やこの組合せは、私において一度に決定的に成し遂げられているのであり、実はそれらこそ私の身体そのものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 8, 2020
知覚の異常や感覚の鈍麻など、感覚神経の異常反応を生じる障害を指します。
触覚、痛覚、温度覚、振動覚、位置覚など感覚の鈍麻、痺れや痛み、筋力・統制力の低下を生じる運動感覚の失調や逃避反射の喪失などが出現すること。
【種類】
①感覚過敏(hyperesthesia)、②異常感覚(dysesthesia)、③錯感覚(paresthesia)、④神経痛(neuralgia)などの症状を陽性症状と分類します。
また、⑤感覚鈍麻(hypesthesia)、⑥感覚脱失(anesthesia)などの症状を陰性症状と分類します。
【症状】
①感覚過敏(hyperesthesia):周囲の音や匂い、味覚、触覚など外部からの刺激が過剰に感じられ、激しい苦痛を伴って不快に感じられる状態のこと。
②異常感覚(dysesthesia):しびれ・ じんじん・ぴりぴりなどが自発的にみられる感覚のこと。
③錯感覚(paresthesia):異なった感覚 として認識された感覚を指し、触覚を痛み・ぴりぴり感とし て感じることが多い。
④神経痛(neuralgia):人の身体において、さまざまな原因により末梢神経が刺激されることに起因する痛みのこと。
⑤感覚鈍麻(hypesthesia):五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が敏感すぎること。
⑥感覚脱失(anesthesia):五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が鈍感であること。
「身体像(身体図式)」とはひっきょう私の身体が「世界においてある」(mon corps est au monde)ことを言い表す一つの仕方である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 7, 2020
たとえ頭では男がスカートを穿いて悪いことはないと思っていても、(つまり自分の信念には反していなくとも)不快だと感じてしまうこともある。それゆえ、美学的不快は倫理的不快に吸収されないのである。これは差別問題の要を形成する。『観念的生活』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 7, 2020
デカルトが「考えるためには、存在しなければならない」ということを思い起こさせるとき、彼は明確化しているのであって、基礎づけを行っているのではない。それは、思考を自ら存在せしめる運動の明確化なのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 6, 2020
通称「札予備」。学校法人札幌予備学院が運営していた。2006年4月1日付で河合塾に吸収合併され、事業は「河合塾札幌校」に引き継がれた。そうだったのか。今の今まで知らなかった。
わたくしは保守主義者の反民主主義的な素質にはなんの共感も覚えない。本質的問題と思われるものは、誰が統治するかではなく、政府がなにをなす資格を与えられているかである。(ハイエク 自由の条件)
— ハイエクbot (@hayek306) November 6, 2020
けっして生きている「だけ」ですばらしいことはない。このことは、生命がこの世で最も尊いものだという思想(私はそう思わないのですが)をたとえ承認したとしても、承服しがたい。なぜなら、「最も大切」というのと「それだけでいい」というのとは意味が違うからです。『私の嫌いな10の言葉』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 6, 2020
1987(昭和62)年、国公立大では初の入試日程別の複数化入試を実施した。特に注目されたのは、国立大A日程グループには西の旧帝大系である名古屋大学・京都大学(法学部はAB)・大阪大学・九州大学が含まれ、Bグループには東の旧帝大系の北海道大学・東北大学・東京大学が含まれる区分けである。この旧帝大系大学に見 る大東西分割の線引きがいわゆる「フォッサ・マグナ分割」 の由来である。なお、その他の大学については旧一期校・二期校時代の発想を踏襲しつつ、AB日程別に配分されたのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9E%A2%E9%9B%AA%E6%99%82%E4%BB%A3
それで私は第一志望を北大、いわゆる滑り止めとして埼玉大を受験したのだった。できるものなら北大と東北大を受けたいと思っていたがどちらも同じB日程だったからそれはできなかった。
アンタの肥大して歪んだ自己愛の充足に利用されるのはまっぴらゴメンだと言っているんだ。
「シニフィアン」はソシュールが作った専門用語だが、ラカンはこの語を非常に厳密に用いる。シニフィアンは(…)主体を表象する特徴、しるしである。私を表象するシニフィアンを通して初めて、私は私であり、シニフィアンが私の象徴的アイデンティティを構成しているのである。(『ラカン』p204)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) November 6, 2020
最初に一人の天才がいて言語をつくり出したというふうには私も信じません。といいますのは、話しはじめる前に知能(インテリジェンス)があったということは考えられないからです。むしろ逆に言葉を学ぶことによって知能というものが生まれてきたと考えるからです。(ハイエク 自然・人類・文明)
— ハイエクbot (@hayek306) November 6, 2020
カントは経験を超越した「理性」の立場から従来の自然法論における「理性概念」からの転換を図ったのである。
— 政治思想Bot (@Seiji_shiso) November 6, 2020
心象(イマージュ)というのは、想像上の対象が求める存在の権利の要求、しかも根拠のない要求ということになりましょう。それは<対象の現存>とみなされたがっている<対象の不在>なのであり、<霊魂を呼び喚び出す>というのと同じ意味で<対象を喚び出す>ことなのです。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) November 5, 2020
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。——太宰治「葉」
似たような心境だ。というのも、今月末に電動アシスト車椅子の試乗の予定が入ったので、そこを目指して生きようと思う今日の誕生日である。べつに死のうと思っていたわけではないが。
保守主義者と違うところは、自分自身の神聖な信念がいかに深遠なものであろうと、他人にその信念を強制する資格をもつとは決して考えないことであり、そして自由主義者にとって聖なるものと俗なるものは異なる領分であり、混同されてはならないと考えたことである。(ハイエク 自由の条件)
— ハイエクbot (@hayek306) November 5, 2020
おびただしい人々が芸術家に憧れるのは、私の考えでは、好きなことができるということのほかに、まさに社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方を選べるからなんだ。社会に対する特権的な復讐が許されているということだね。『働くことがイヤな人のための本』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 4, 2020
ホモ・イコノミカス=「経済人」のことですが、それを「経済的目的だけを追求する人びとのこと」と解するのは全く誤りです。そもそも、純粋に経済的な目的といったものは存在しません。人びとは常になんらかの”非経済的”目的のためにかせごうと努力している、というのが真実でしょう。(ハイエク)
— ハイエクbot (@hayek306) November 4, 2020
2世紀から3世紀にかけて活躍した大乗仏教学者のナーガールジュナの『中論』に基づいて般若空観を宣揚した〈中観派〉の考え方は、ソシュールやフロイト=ラカンの思想を先取りしているとさえ思われるほどである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) November 4, 2020
(第9回)(1月24、25日)。 共通第1次学力試験の受験科目が5教科7科目から5教科5科目(4教科4科目以下を課すことも可能)に削減した。 第2次学力試験において受験機会の複数化(A・B日程連続方式)が図られた。 共通第1次学力試験実施前に各大学へ出願(1月12日から19日)することとなり、自己採点方式を廃止した。
血圧は「心臓の心拍数」と「抹消血管の抵抗」によって決まります。
■ 心臓の心拍数が多い
心臓が心拍数が多くなると心臓から流れ出る血液量が多くなり、収縮期血圧(最大血圧)が上がります。
動詞「す(為)」の活用を見てみましょう。
せず (未然形)
したり (連用形)
す。 (終止形)
するとき (連体形)
すれども (已然形)
せよ。 (命令形)
対偶(たいぐう、英: Contraposition)とは、ある命題が成立する場合に、その命題の仮定と結論の両方を否定した命題も成立するという命題同士の関係性の事を言う。 命題「AならばB」に対する「BでないならAでない」という命題。
また誕生日を迎える。1968年生まれだから52才か。「爆弾」を抱えつつ、じゅうぶん生きた。悔いがないなんてことは全然ないけれども。
麻痺側の下肢を真っ直ぐ出さず(出せず)に、外側から振り回すように前に出す ような歩き方のことhttps://note.com/bridgeplusaichi/n/ne6a444edb0cd
【一次情報】
情報源となる独自の情報や公的機関が発表する情報など【二次情報】
人から見聞きした情報や一次情報をもとに編集された情報など【三次情報】
情報源が分からない情報
11月28日までとのこと。
アマゾンの購入履歴に依れば、注文日: 2011年6月7日だそうだ。 それからしばらくはこいつで写真撮影してた。
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