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ありふれた病によるありふれた絶望。考えてみりゃ死を免れる人間などただの一人もいないのだ。そういう意味では、どんな悲劇だってありふれている。
弁証法の過程は、それがめざす何か肯定的な理念から始まる。しかしその努力の過程で、理念そのものが根底から変わってしまう(中略)。なぜなら理念そのものが過程に囚われ、その現実化によって(過剰に)決定されるからだ。(『事件』p194)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) October 28, 2020
既に印刷はできて納品されている。
来月に入ったらぼちぼち宛名書きだ。
昨日は来年のカレンダーを発注した。
もうそんな時期なのだ。何もなさぬまま徒に時間が過ぎていく。
https://note.com/nathankirinoha/n/nf70d66e3dd4b
ストローマン論法(藁人形論法)とは【相手の主張を歪めて引用し、その歪められた主張に対して反論するという誤った論法】という定義が一般的です。 明確な語源は不明ですが、軍事訓練用ダミーや案山子(かかし)が、本物の人間よりも打ち倒しやすいことから、論理の文脈でもそれを示唆する対象として用いられている、と考えられています。
昔よく新宿駅で見かけた。こんなことすら懐かしく思い出される。
が、実在したものであったのかどうか、実在したのであれば、どこで、今どうなっているのかを確かめたくて、当たりをつけてストリートビューで訪ねてみる。
我々がおのれの身体でもって知覚する以上、身体とは自然的な自我ということであり、いわば知覚の主体である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 26, 2020
論理的考察能力の欠如した人間にいくら言葉を尽くして説明したってそもそもムダなことである。せいぜい関わらぬが吉である。
毎日朝晩血圧を測定し、エクセルの表に記録をつけているのだけど、ほとんど必ず一度は「応答していません」によって行動が阻害される。
そのストレスで血圧が上がってしまう。
排便時に力んだり、トイレの中で身体が冷えたりすることで血圧が上がり、また排便することで血圧が下がります。 血圧の急激な変動が心臓に負担をかけ、ふらつきや失神などにつながり怪我をする危険性につながるのです。
みえない関係が みえはじめたとき かれらは深く訣別している 『少年期』 https://t.co/r0LBtIQGFq
— 吉本隆明bot (@T_Yoshimoto) October 25, 2020
破綻した身勝手な論理に基づいて、陳腐なレッテル貼りをしてくるヤツにはうんざりである。
「なぜ生きるのか?」という問いに対して、「それを知るために生きるのだ」という回答が、いちばん優れているようにぼくは思う。きみはなぜ書くのか? それを知るために書くのだ。生きることは書くことへと移行して、きみは同じ構造の中に投げ込まれる。『カイン』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) October 24, 2020
言語体系とは、われわれにとって、無数の思想や物を有限個の記号で表現する事を可能にする嘘のような装置である。なぜなら、それらの記号は人が言おうと思いうるどんな新しいことをも再構成して、それにも、最初に物に命名した時の明証を伝えうるように選定されているものだからである。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 24, 2020
家の中では現状、杖歩行である。この環境下であったなら、わりとどこまででも歩いて行ける気がする。
つまり「脚力」の問題ではないのだ。
そして「段差」も、それを超えることじたいができないのではなく、その際に起こりやすいクローヌスによる「自爆」転倒のリスク、これが問題なのである。
が、なかなか理解されづらい。
明日10月25日は、いわば私の「命日」である。2017年のこの日、1968年から継続してきた私の時間は切断された。それはほとんど死に等しい。ゆえにカギカッコつきの「命日」なのである。
支配欲。もっとも強固な心情の所有者の受ける熱火の鞭である。もっとも残忍な者に加えられるべくしておかれた残忍な辛苦。生きながらの火刑のための暗い炎、大いなる軽蔑を教える教師、都市や国家の顔にも、去るがよい、と説教を浴びせかける。"ニーチェ「ツァラトゥストラ」"
— ニーチェ「ツァラトゥストラ」bot (@Zara__bot) October 23, 2020
妄想に基づく陳腐なオリジナルストーリーに他人を勝手に回収する、そのことが失礼極まりないと言っているのだ。誰も言葉遣いであるとか、語尾だとかなんて問題にしていない。
それがわからぬのだからバカだというのだ。
自由社会は本来、人々の自発的意思にもとづく、論理的な社会なのです。そこに、正義にもとづいた行動のルールがなければ、存立も存続もできない。(ハイエク 新自由主義とは何か)
— ハイエクbot (@hayek306) October 22, 2020
なぜ私は身体を持っているのでしょう。それは、私がそれであるところのこの自我、そして何ものでもないこの自我は、世界にやってくるためには、実際に存在するポジティヴな器官を必要とするからです。それは私が自己の身体と呼んでいるものです。『実存の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 22, 2020
フッサールがその生涯の最後の時期に言ったように、哲学とは時間の秩序を全く脱してしまうような「永遠の真理の学問」と言うより、正確には「環時間的」(omnitemporel)なものについての学、つまり常に妥当するものについての学だと言うべきでしょう。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 21, 2020
眼差しはすべてを語ることができる、とスタンダールは書いている。しかし、眼差しはくり返されない。したがって、眼差しは記号ではない。にもかかわらず、眼差しは意味している。
— 「エクリ」チュール / ǝɹn⊥IᴚʞƎ (@textbot) October 20, 2020
1987年8月28日~30日『「喪失電車(アムネジア・トゥレイン)」』@札幌本多小劇場
1987年9月24日~27日『RICCACHAN 0522』@下北沢駅前劇場
1987年10月23.24日『没落遊園地』@茨戸ハワイランド跡
1988年5月17日~22日『ザ ロスト・ツアー』@百貨劇場
1988年7月6,7日『AQUA大陸』」@札幌芸術の森
1988年10月21日~23日、26日~30日『THE END OF ALEPH』@百貨劇場
1989年9月20日-23日『OKUJO』1@エスタープラザビル屋上(北5西12)
1989年10月25~31日『遊星天幕 百億光年漂流の段』@札幌・マルサ1階
1990年8月31日~9月8日『OYASUMI 1991』@百貨劇場
アトリエの公演が89年1月20-22@百貨劇場だったのだ。
デパートメントシアターアレフ『THE END OF ALEPH』公演が1988年10月21日~23日、26日~30日@百貨劇場。アレフの公演を私は観てないのだが、ほうぼう舎@琴似日食倉庫を観に行った記憶はある。一人で行ったのだったかな?
そして1989年9月20日~23日に『OKUJO』@エスタープラザビル、という流れだ。
手術後しばらくはかなりはっきり半側空間無視の症状があったらしい。それに比べれば今はそうでもないけれども、それでも注意障害は残存している。困ったものだ。他人に迷惑をかけぬよう、できるだけ「関係」を薄めておこう。
人間存在を規定する最も重要な〈自/他〉の関係は、予め確固たるアイデンティティをもつ自我と他者が置かれる関係ではなく、いずれもがその相互性・依存性によって生ずるのではなかったか。東洋哲学でいう依他起性や縁起という考えがこれにあたる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) October 20, 2020
知覚される「あるもの」はいつでも他のものの最中にある。それは常に「野」の一部分をなしている。全く一様な平面で知覚されるべき何ものも提示しないようなものは、どんな知覚の対象とも成り得ない。現実の知覚の構造だけが知覚する事の何たるかを我々に教えることができるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 20, 2020
「独楽は止まると倒れる」という諺は、決してモーレツサラリーマンの粉骨砕身振りを讃えているのではなく、まさにその反対の、日常生活世界のゆとりと愉しみを持つべきだという意味である。勤労自体が苦役ではなく喜びを伴った仕事となるためには日常の偶発性という生命の動きが止まってはならない。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) October 18, 2020
この記者は、1980年代に学術会議が問題になった原因を知らないのか、それとも知っていて書かないのか。共産党員が組織を乗っ取って政治的な決議を連発していたから、直接選挙を学会推薦に改めたのだ。「知への反発」じゃなくて共産党への反発だよ。 https://t.co/FIUn5p1Y9o
— 池田信夫 (@ikedanob) October 18, 2020
哲学は、完成したもののなかでは退屈してしまいます。哲学とは表現することであってみれば、表現されるものとの合一を放棄し、表現されるものの意味を見んがためにそれをおのれから遠ざけることによってのみ、自己を完成するわけです。『哲学をたたえて』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 18, 2020
札幌市の西区から分区して手稲区ができたのは、平成元年=1989年のことなのだなあ。当時、札幌にいたから、よく覚えている。
1989年なんてまだ、つい最近のことと思えてしまう。
ここで〈「了解しましたは失礼」〉というのはむろん、言及先のツイートの内容を要約してある、その意味での“「」”である。 こういう用法はフツーにあるわけだが、〈「」は不味いで〉と、執拗に繰り返すばかりで、何がどうマズいのかを問うても明らかにしない(できない)キテレツでデタラメなバカがいた。関わらぬが吉であるという結論に至った。「了解しましたは失礼」などという、キテレツでデタラメな事を言い出す人事やら採用広報が存在する会社には気をつけよう。 https://t.co/QtfW3GyDbD
— タクラミックス (@takuramix) October 15, 2020
時間はその痕跡を残さずに消える事はできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間の中によこたわる経験としてわれわれの魂の中に積もるのである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) October 15, 2020
徹底した自己相対化能力の欠如と肥大した自己愛により、おのが論理の破綻した陳腐なポエムを価値あるものと信じて疑わぬ。
50を過ぎて、これである。端的にいってオメデタイ。なるほど私にも落ち度はあった。最大のそれはこうである。もっと早くにあんたの曲解癖と異常に肥大した自己愛のありように気づき、関係を絶っておくべきだった。
「レッセフェールとは、魂のない機械力の作用に委ねよ、という意味ではない。それは、社会的分業の中で、各人の好みの協業方法を各人に選択させよという事を意味する。計画とは、政府のみに選択させ、強圧と強制という方法によってその方法を強行させよ、という意味である。」(ミーゼス)
— 自由の至言bot (@hankyou0406) October 13, 2020
仕事の開始を待っている。本来まだ寝ているべきなのだけれども眠れないから、ブログの整理などしつつ。
結局のところどんな社会でも、多種多様な権力関係が社会を横断し、特徴づけ、構成している。このような権力関係は、真理の言説の生産・蓄積・流通・作用なしには、相互に区別されることも、打ち立てられることも、機能することもできないのです。-防衛講義-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) October 13, 2020
『異邦人』の主人公ムルソーは「三〇歳で死んでも七〇歳で死んでも同じことだ」と呟きますが、これは「いくら長く生きても人生は虚しい」というような粗雑なことを言っているのではない。死の間際になれば、過去に生きていた長さは問題にならないという正確な直観を表現している 『時間を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) October 13, 2020
時間は、われわれの<自我>が存在するための条件である。死が訪れる時、個人的な時間も死に、その結果人間の生命は、生きている側にいるものたちの感覚にとって、捉えがたいものとなる。つまり、周りのもの達にとって死者になるのだ。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky タルコフスキー (@TarkovskyJP_bot) October 13, 2020
いかに曲解癖のあるあなたでも曲解しようがないように、ハッキリした言葉をチョイスするためだ。
身体がいつも私の傍にあり、いつも私にとって現存しているという事実は、決してそれが本当に私の前にあることはなく、私の視線の下にその姿を繰り広げることもできず、どこまでも私の全ての知覚の欄外にとどまり、「私と共にある」ということを意味している。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) October 11, 2020
https://seniorguide.jp/article/1019204.html
1位は「悪性新生物(ガン)」でした。2位が「心疾患(心臓)」、3位が「脳血管疾患」、4位が「老衰」、5位が「肺炎」となっています。
2009024917
044-930-5300
2個→1個の変更を電話すること。電話した(10月12日)。
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2020/10/post-6bff6e.html
そのとおり。であるから、言葉の定義が独りよがりでデタラメなバカはもれなく思考も独りよがりで身勝手なのだ。
最初に一人の天才がいて言語をつくり出したというふうには私も信じません。といいますのは、話しはじめる前に知能(インテリジェンス)があったということは考えられないからです。むしろ逆に言葉を学ぶことによって知能というものが生まれてきたと考えるからです。(ハイエク 自然・人類・文明)
— ハイエクbot (@hayek306) October 6, 2020
誤字脱字や言い間違いなど誰も問題にしていない。そんなことは文脈から推測する。構文レベルで文が文がおかしいからその推測も困難で、誤解があったままでは仕事にならないから真意を確認してるのだ。それを、やれ上から目線だとか、くだらない。挙げ句にこちらがささいなミスをあげつらっているという陳腐なストーリーに回収して被害者面しようとする。この濡れ衣。いわば冤罪体質。こういう建設的な会話が成立しない人間とはもう関わらぬと決めた。
昭和62年度共通第1次学力試験(第9回)を実施した(1月24、25日)。 共通第1次学力試験の受験科目が5教科7科目から5教科5科目(4教科4科目以下を課すことも可能)に削減した。 第2次学力試験において受験機会の複数化(A・B日程連続方式)が図られた。 共通第1次学力試験実施前に各大学へ出願(1月12日から19日)することとなり、自己採点方式を廃止した。https://www.dnc.ac.jp/sp/corporation/center_gaiyou/enkaku/history.html
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2020/07/post-74348c.html
ところがだ、半身不随となった今、私は己の肢体の各々の位置を身体図式によってではなく、他人にそうするように目視によって知るのである。「私」がアプリオリに私自身であると言い切れぬと感じる所以である。
https://www.jarm.or.jp/nii/rihanews/No25/RN2518BD.HTM
右半球には視空間認知に関連したもの、および注意の転換や持続に関連したものの少なくとも2つの神経回路が推察されており、右半球障害による臨床症状もこの回路の障害として捉えることができます。また、右半球障害は左半球障害と異なり、症状の責任病巣の局在性がピンポイントでないことが特徴とされています。右半球損傷が関与する症状としては、半側空間無視、病態失認、構成障害、運動維持困難、地誌見当識障害などのある程度特徴を持った症状と、注意障害、せん妄、感情障害などのより高次の症状及び精神症状に分けて考えられます。
不意に気になったライブ、それが行われた会場。
概ねの時期と場所は記憶にあったが確信が持てない。
しかし、演者である甲斐貴之氏のブログ記事によりハッキリした。
そうか、2008年8月のことだったか。あれからもう12年も経ったのだ。、東京都新宿区西新宿にある東放学園映画専門学校地下2階にある撮影・ライブスタジオ。改称して今は「STUDIO Dee」となったらしい。
元は2004年の専門学校東放ミュージックカレッジ開校に伴い、同校地下2階にライブハウスとしてLive Hall CROSSROAD(ライブホール クロスロード)が設置されたが、2010年の東放ミュージックカレッジ閉校・東放学園映画専門学校の本地移転により、撮影も可能なスタジオとしてリニューアルされ改称した。収容キャパは250名。
かつて東京都新宿区歌舞伎町1丁目の新宿ゴールデン街にあったバー「HAVANA MOON」と自販機雑誌『HEAVEN』が共催した日比谷野外音楽堂のコンサート。
左脳のほうは全くOKであった。このことはいくつかの症状上の特徴を生んでいる。左脳がしっかり残っているから、言語中枢は大丈夫である。だから、理屈の上で、麻痺がこうなっていて、筋肉がまだ病み衰えぬ前なら動かしておいて別の神経回路の登場を促して、それを待つといった「作戦」を立てることも出来た。論理性は問題はないのだ。というより、次の理由で、病人の論理性はより明確に研ぎ澄まされたようにさえなる。
なぜなら、右脳が司っている人間的な情動が、右脳の一部の死によって弱まったり、失われたりするからである。右脳をひどくやられると、ヒトはしばしば自分が重大な危機に直面していることに気づかなくなる。ひどく深刻になって泣き出したりする症状の逆が起きるのだ。だから、右脳が適度に弱ると普段は情動に邪魔されて十分発揮されない論理能力が全く邪魔されずに十分に生きることになる。
https://univ-journal.jp/column/202032170/
森岡教授:「ニューロリハビリテーションとは、近年めざましい発達を遂げている脳科学や神経科学を応用したリハビリテーションのことです。これまでの理学療法─いわゆるリハビリの世界は、さまざまな要因で運動機能が低下した人々に対して、物理的な訓練によって関節や筋肉の動きの回復を促すという考え方が主流でした。
しかし、同じリハビリメソッドを適用しても効果が出る人と出ない人がいるのは何故か。もしかしたらリハビリには、損傷された脳や神経の働きが大きく関係しているのではないか─そういった疑問が、ここ20年ほどの脳・神経科学の発展によって、徐々に解き明かされようとしています。つまり、麻ひで運動機能が低下した手足だけでなく、運動の指令塔としての脳のメカニズムを研究し、そこから得られた知見をリハビリに活用することの重要性が示されてきたのです。
けれど現状では、理学・作業療法士あるいは言語聴覚士が最新の知見を学び、研究できる環境が充分にあるとはいえません。また、今後この分野をめざす学生にも、ニューロリハビリテーションの大切さやスキルを学ぶ場が必要です。
いわば脳と身体の関係は、車に例えると双方向に機能するエンジンとタイヤのような関係です。エンジンの司令でタイヤが回転しますが、悪路ではタイヤが走り方を変え、それを脳に伝えて脳が新たな学習をするというわけです。従来のリハビリではタイヤだけをうまく動かそうとしていましたが、エンジンの構造や能力をきちんと知ることで、新たなリハビリの可能性が広がってきたのです。
http://medt00lz.s59.xrea.com/rhx/node2.html
1.2.1 従来型のリハビリの考えかたには問題がある
従来のリハビリテーションは、障害をもった個人が何ができなくなったかということより、 残された能力によって何をなしうるかが重要であるという哲学に基づいて 2いる。
このため、リハビリテーションの目標は「患者が有するすべての能力を最大限に活用する」、 という方向に向けられ、「麻痺した手足を再び動かす」というアプローチはあまり考えられていなかった。
外傷の患者の場合、そもそも動かす手足がなくなってしまったからリハビリテーションを 行うため、こうしたアプローチが主流なのは当然といえば当然であるが、 脳梗塞の患者が再び歩けるようになるためのアプローチとしては、 従来型のリハビリの考えでは不十分な可能性がある。
1.2.2 学習された不使用
野良猫の前足をペンチなどで潰してやる3と、彼らは残った3本足で器用に逃げていく。
動物が何らかの理由で肢の動きが不自由になった場合、当然リハビリをしている暇などない。
この状態でも生き残るためには、"不自由になった肢の存在を急速に忘れること"しかない。 手足を無くした猫のの脳も、3本足になった体に急速に適応していく。 人間も例外ではなく、入院患者が自分のベッドで生活するときには、 麻痺した方の手足はほとんど使わなくなってしまう。
たとえば右手の麻痺を生じた患者さんが歯を磨こうとした場合、右手を出そうとして麻痺に気がつき、 その後に左手を使うかと思うとそうではない。右麻痺で入院した方の多くはすぐに左手を出し、 右手が動かない状況に急速に順応していく。
この働きは、生存競争に生き残っていくには有利な反応ではあるが、 脳梗塞の患者が、再び麻痺した手を動かすにはむしろ邪魔になっているかもしれない。
従来のリハビリテーションは、患者のADLの早期からの拡大を目指す。この方法論では、 装具の使用などにより麻痺側の働きをより減らし、まだ動くほうの手足の動きを鍛えることで、 患者脳の麻痺側への関心はますます低下してしまうことになる。
運動には筋力や体力など動力系(Power)の側面と,スキル
や巧みさなどの制御系(Control)の側面がある。従来のリハ
ビリテーション関連分野では動力系の研究が主であり,制御系
の研究は未開拓であった。その理由は,動力系の要素,たとえ
ば筋力や体力は数値化しやすいのに対し,制御系については定
量化そのものが難しかったことや,制御の側面がほとんどブ
ラックボックスであったことも一因として考えられる。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/rigaku/40/8/40_KJ00009392307/_pdf
http://www.f-seisyukai.jp/pdf/kamoku_nousottyu_01.pdf
科学的なリハビリテーション訓練の重要性が以前より強調されているが,個人差や環境の影響が大きく,エビデンスを作りにくいリハビリテーションは,まだまだ経験に基づいて行われ,施設間でその方法やゴール設定に差があるのが現状である.
旧来のリハビリテーションアプローチは,利き手交換などによる残存機能による代償手段の獲得が中心であり,いったん失われた機能は元に戻らないことを前提としていた.しかし中枢神経の可塑的変化や神経ネットワークの再構築による回復が起きることがニューロサイエンスによる動物実験やニューロイメジングで示されるようになり,脳障害に関するリハビリテーション(ニューロリハビリテーション)は治療としての新しい時代を迎えている
理解できていないというそのことすらも理解できず無根拠な妄想のオリジナルストーリーに他人を回収してきいたふうな口をききたがる、この肥大しすぎて歪んだ自己愛。迷惑である。
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