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時間を分節化するのが、病院に薬をもらいに行くスケジュールだったりする。それが9月の初頭にある。その次は12月だろうから、そのように考えるともう気持は年末に傾く。
民衆は偉大だとか、民衆の力を評価せよ、とかいう日本のインテリのポピュリズムほど、滑稽なものはない。自分は民衆の一人だということを一時も考えたことがないのだろうか。自分は偉大だとか、自分のエネルギーを尊重せよとか書きたてる無神経さ!(春曙帖)丸山真男bot
— 丸山眞男bot (@masamaru_bot) August 30, 2020
「神」とは私の内なる、過去、現在、未来にまたがる「おぞましいもの」への恐怖である。あまりのおぞましさに私は、それが嘗てあり、現にあり、未来もあることを必死で否定し、否定することを力一杯叫ばずにはいられない。しかしこれは本心からではない。『聖なる神-わが母-』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) August 30, 2020
ウェブサイトの整理をしていて、受賞作品は受賞のエビデンスとなるサイトへリンクを張った。出演者の所属団体へもリンクを、役者個人がブログを持っていたりすればそこへも。
新たな情報発信をできる状態にはないからせめて、アーカイブとしての質を高めておきたいと思って。
から書斎でPCに向かっている。といっても書き物をするでも、ルーチンのジョブをするでもなくこうしてブログを更新していたりするわけだ。脱臼気味の肩がいよいよワヤで、寝返りを打とうとすると背中に落ちてしまいそうになる。
身体を横にするのに己の身体が邪魔なのだ。
かつて日常的に目にした物が確かにそこに存在することをストリートビューで確認し、過去と現在の繋がりをかろうじて確信できる。
言った言わないの水掛け論を避けるべく文書を残しても、文章の「てにをは」すらままならぬのだから話にならない。
芸術の機能的な使命は、しばしば思われているように、思考を吹き込む事でも、理念を信じ込ませる事でも、用例として仕えることでもない。芸術の目的は人間に死に対する準備をさせる事であり、人間の魂を開拓し、柔軟にし、人間が前に目を向けることを可能にする事にあるのである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) August 28, 2020
書くというのは不思議な作用で、きみが何かのために書くのではないと心の底からわかったらしめたものだ。きみはきみを救うために書くのですらない。きみは、書くことによって救われないことを知っているから書くんだ。きみが救われないことを確認するために、確認しつづけるために書くんだ。『カイン』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 28, 2020
何を根拠にそんなふうに思い上がれるのかと思うけれども、そもそも根拠に基づく論理的思考ってもんができない人なのだから問うても詮無きことなのだった。
ところがだ、片手しか使えぬ身には、たったそれだけのデュアルタスク(=ながら)が、ひどく困難なのである。
ダウンロード - e381abe38184e3819fe381aee981bae794a3e38080201202p.pdf
昭和35年に本町通りに旧観光大門(高さ10m、幅15m)が完成。昭和58年、新観光大門完成とともに旧観光大門は姿を消した。
に文脈がどうこういったところでしょうがない。せいぜい関わらぬが吉である。
誰からも非難されることもない場所で「地球そのものの破滅」などを憂慮してみせることが、倫理的な言語の仮面をかぶった退廃、かぎりない停滞以外の何ものでもないことを明言しておきたい。 『反核異論』 https://t.co/pDDkEchtDs
— 吉本隆明bot (@T_Yoshimoto) August 25, 2020
私は「わかるよ、わかるよ」と擦り寄ってくる輩は大嫌いだ。そうではなくて、「あなたの言いたいのはこういうことですね」と、すべてを相手の枠組みや価値観、諸前提や推論式に従って正確に再現して見せるのだ。これは、強者のみがなしうるカッコいい態度である。『人生に生きる価値はない』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 24, 2020
しかしそれならまだいいのだ。
問題なのはその「わかるよ」が的外れだからそのように指摘してもそれを曲解・矮小化して己の妄想を一向に改めない人間である。やつのしたいことは〈強者のみがなしうるカッコいい態度〉を貪ることで自己愛を充足させたいのであり、決して理解するつもりなどないのだ、そして自己相対化能力の欠如と肥大した自己愛のためにそのことに気づきもしないし指摘されても理解できない。それを端的にバカというのだ。
を夢の中で見かけたのだが、名前が思い出せず、起きてから調べた。
障害受容はできている。不自由に慣れてもきた。しかしそれは不自由を感じなくなってきたのじゃない。不自由さを当然のものと引き受けることに慣れてきたのである。違和感は一日じゅう纏わり付いて一秒たりとも消えない。そしてこの違和感こそが超番となって病前の自分と今の私との同一性を保証するのである。これがきえたらもはや私は私でなくなってしまうだろう。
タブレットから投稿してみる。
久しぶりにタブレットから書き込みしてみる
生まれつき備わった能力や性質ではなく、必要に迫られて生後に獲得した能力のこと
獲得形質は遺伝しない。生物学の常識である。
"時は帰らない"という言葉はいわゆる、過去は取り戻す事が出来ないという意味においてのみ正しい。各人にとって現在という時々と変化する瞬間の、過ぎ去る事のないリアリティーがまさに過去の中に蓄えられていくとするならば、過去はある意味現在よりもリアルである。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) August 21, 2020
約40年前の札幌-苗穂間。この区間内の踏切はすべて有人の手動踏切。踏切の下り方北側に警手の小屋が建っていた・・。 pic.twitter.com/HXPBPjIt7e
— てんぽく(2k) (@Tempoku2000) April 27, 2020
入院はもう二度とゴメンである。あの日々に戻るくらいなら今度こそすっぱり死んだ方がマシだ。
こちらの問いに的確に回答する、その情報開示の態度こそが親切というものだ。
身勝手な妄想に基づく物語に他人を回収し、他人のリソースを無駄遣いして肥大した自己愛の充足に使うことでは決してない。
は昔よく情報誌などで劇団名を目にし、最近ふいに気になったのだけれども、セルフ23の名前を思い出せずにいた。
http://www.self23.com/battleof23/battleof23.html
手術後10日間も意識が戻らなかったのだ。もしもあのまま死んでしまっていれば、厄介な余生を引き受けずとも限りなく安楽死に近かったのに。正直、そう思わずにはいられない。
人類の思考法則とまったく違った法則に従って思考し、その結果、人間的思考の法則をまったく疑わしいものにしてしまうであろうような超人間的存在は、私によって考えられることもありえないということになります。そうした存在を思い描く時、実は私は何も考えていないのです。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 10, 2020
2017年の秋に発病し、この時点で人生が終わった。のだが、死に損なって、人生は余生に入った。あのときすっきり死んでしまった方が楽だったと正直、思わずにいられない。
「諦めたらおしまい」だとか「奇跡は起きる」などの陳腐な精神論に従ってムダに消費するわけにはいかないのだ。
言葉は正真正銘の身振りである。身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。そしてこのことがまさに意思伝達を可能ならしめるものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 5, 2020
コミュニケーション的弱者は、相手を理解するためのわずかな努力も払わない。いかなる他人も、自分の手持ちの狭い枠に閉じ込めようとし、そうすることによって容易に誤解する。あるいは、どうしても入りきれない相手を切り捨て、「わからない」と不平を言う。『人生に生きる価値はない』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 4, 2020
そもそも彼らは「コミュニケーション」の何たるかを知らぬ。せいぜいその場しのぎの愛想の良さ程度にしか思っていないのだ。
病気を境にして、人生は断絶した。
病後にひとつも作品を書けないかもしれぬという焦りがある。
書くためには自己相対化が必要で、それをすればするほど、状況は絶望的であることと己に死期の迫っていることを認識しないわけにはいかぬ。
食事には気をつけたい。
というのも、それが最後の晩餐になる蓋然性がそれなりに高いからだ。何を食ったっていい。「誰と」が問題だ。だから、バカでくだらない人間とは金輪際飯を食いたくない。
漠然とではあるけれども、死期の迫っているのを感じる。
時間と記憶は溶解しあっている。これらは一枚のコインのふたつの面に似ている。時間がなければ、記憶もまた存在しないという事は、全く明らかである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) August 3, 2020
知覚される「あるもの」はいつでも他のものの最中にある。それは常に「野」の一部分をなしている。全く一様な平面で知覚されるべき何ものも提示しないようなものは、どんな知覚の対象とも成り得ない。現実の知覚の構造だけが知覚する事の何たるかを我々に教えることができるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 2, 2020
今日8月1日に長い梅雨が明けたらしい。
文化のもたらす諸悪を否定すべく「自然に還れ」と叫ぶのは、同じ土俵内の不毛なスローガンとなる。その土俵とは“文化/自然という二項対立”を疑わない思考形式という文化主義にほかならないのだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 1, 2020
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