自然全体は我々自身の生の上演であり、もしくは、我々の一種の対話の相手
諸物の間の関係または物の諸局面の間の関係が常に我々の身体によって媒介されている以上、自然全体は我々自身の生の上演であり、もしくは、我々の一種の対話の相手である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 30, 2020
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諸物の間の関係または物の諸局面の間の関係が常に我々の身体によって媒介されている以上、自然全体は我々自身の生の上演であり、もしくは、我々の一種の対話の相手である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 30, 2020
ホモ・カンターンス。谷川俊太郎の詩に「鳥は歌うことを知っている/その為鳥は世界に気づかない」という節があった。人は鳥のように歌わない。その為世界に気づき、世界を作る。ソシュールは「音楽も舞踊も広い意味のコトバであり、これが動物と人間の境界を画する唯一のしるしだ」と考えた。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) July 30, 2020
ソシュールの記号学解体=構築の後段階が目指すものは、ラングの現象面と本質面の区別というよりは、むしろ意識の表層における言葉のあり方から、未だ共同主観化されていない深層意識における言葉の活動へと垂直に下降する試みであった。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) July 30, 2020
「シニフィアン」はソシュールが作った専門用語だが、ラカンはこの語を非常に厳密に用いる。シニフィアンは(…)主体を表象する特徴、しるしである。私を表象するシニフィアンを通して初めて、私は私であり、シニフィアンが私の象徴的アイデンティティを構成しているのである。(『ラカン』p204)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) July 29, 2020
https://costep.open-ed.hokudai.ac.jp/like_hokudai/contents/article/1926/
『1967年から2002年までは、正門すぐ横の北8西5にお店がありました。』
この記述で自分の記憶に自信を持てた。
私が入学したのが1987年、当時、北大南門近くに住んでおり、しばしばこの喫茶店にコーヒーを飲みに行ったものだった。落ち着いた雰囲気ながらも可愛らしさもあり、気に入っていた。
しかし1967年から2002年というと35年間だ。すごい。
残されたメモに依れば、両親が病院へ見舞いに来てくれたのが2017年12月16(土)だった。遠いから来なくていいと言ったけれども今思えばこのときに会えてよかった。次にいつ会えるかわからない。
「ここ」という語は私の身体に対して用いられる場合には、他の位置あるいは外部の座標に対して定められた一つの位置を示すのではない。むしろ基本座標の据付け、身体のある対象への能動的な投錨、課題に向う身体の状況を意味する。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 26, 2020
絵画は世界の模倣ではなく、それ自体が世界なのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 25, 2020
「絵画」を「演劇」に置き換えても成立する文だろう。
誤字脱字など誰も問題にしていないし、そうはっきり言っているのに、そこをわざと無視して、あたかもこちらが取るに足らぬ揚げ足取りをしているという妄想の物語をでっち上げて、なんとかして優位に立ちたがる、この歪に肥大した自己愛。
2020年7月24日、退院後初の床屋へ行った。今まで何度か家で妻にカットしてもらっていたが、床屋に行くのははじめて。近所のスーパー内にある美容院へ。
人間の欲望を充足させるものを一括して財(貨)・サービスという。そのうち、機械や家具などの有形物が財であり、教育や医療などの無形物がサービス(用役)である。
私の身体の全体は、私にとっては、空間の中に並存する諸器官の集まりではない。私は身体を部分に分かたれない姿で所有するのであり、私の肢体の各々の位置を、それらの全てを包括する「身体像(身体図式)」(schéma corporel)によって知るのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 23, 2020
…消費性向と投資誘因とを相互に調整する仕事にともなう政府機能の拡張は…現在の経済様式の全面的な崩壊を回避する唯一の実行可能な手段であると同時に、個人の創意を効果的に機能させる条件であるとして擁護したい(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) July 23, 2020
http://www.rehab.go.jp/ri/event/2008openhouse/undo01.pdf
脊髄損傷や脳血管障害などに起因する運動機能障害に対して、これまでのリハビ リテーションでは麻痺の改善よりも、主に残存機能の強化や代償機能を活用すること で、日常生活の制約を軽減することに重点が置かれてきました。
つまり認識の前提として「治る」とか「回復する」といった種類のモノではなかったわけだ。
自己の身体の世界におけるは、心臓の有機体におけるようなものである。それは、たえず視覚的光景に生命を与え、それを内から活気づけ、養っている。つまり、それと一つのシステムを形作っているのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 22, 2020
こんな身体になってしまった今では考えられないことだけど、昔は小島新田から歩いて千鳥公園、海底トンネルを通って東扇島そして川崎マリエンまでよく行ったもんだった。
脳卒中の後遺症による片マヒのリハビリは従来、マヒのない側を訓練し片手で日常生活を送れるようにするのが主流だった。新手法によりマヒした側の機能をある程度回復できる可能性が出てきた。
〈言語(ラング)〉というものと〈言葉(ランガージュ)〉というものがあるのではない。言葉とはその表層意識において物象化された姿と、深層意識において流動する姿を共に有しているのである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) July 22, 2020
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— 小さなお葬式 (@osohshiki) July 13, 2020
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ラカンは無意識のレベルにおける言語活動に注目し、そこでは丁度夢に見る光景が目まぐるしく変化して特定の意味と繋がらなかったり(置き換え現象)、停止していても複数の意味の重なり合い(圧縮現象)だったりするのと同じように、〈無意識の言葉〉の意味と音の間には固定した絆が無いと言っている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) July 22, 2020
社会について語るとき,自分の経験周辺でしか考えない人が多いので気をつけてください。
— 哲学的しろくま (@eis_baerchen) July 21, 2020
しかもその「経験」すらアテにならぬ。
自己の身体の世界におけるは、心臓の有機体におけるようなものである。それは、たえず視覚的光景に生命を与え、それを内から活気づけ、養っている。つまり、それと一つのシステムを形作っているのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 19, 2020
麻痺側の手に神経痛があるのだが、症状を訴えても入院中は、無意識に手を握り込んで爪が食い込んでいるのだという物理的なストーリーに回収されてしまうのだった。診察が的外れだから治療されることはない。
人によって、最も重要だと考えることはそれぞれ違う。科学研究だと思う人もあれば芸術だという人もいる。自然の美を大切にすることが最も重要だという人もいる。それをそれぞれに実行に移すことが許されるのが自由ということです。(ハイエク 新自由主義とは何か)
— ハイエクbot (@hayek306) July 18, 2020
https://wakarueconomics.com/経済/経済用語/post-839
社会的余剰(総余剰)とは、市場全体の消費者余剰の合計と生産者余剰の合計とを足し合わせたものであり、社会全体の余剰を表します。
ゼロサムゲームとは、ゲーム理論と呼ばれる経済理論です。参加者の得点と失点の総和(サム)がゼロになるゲームを指します。為替取引の場合、二国間の為替の取引を行うので市場全体の価値が上がるという事はありえず、一方のレートが上がれば、もう一方のレートが下がるので、ゼロサムゲームが成立します。一方、同じ投資という切り口である株式市場においては需要によって市場全体の大きさが変動するため、為替市場とは異なり非ゼロサムゲームと呼ばれます。
芸術作品の耐久性は、すべての物がとにかく存在するために必要とする耐久性よりも高度である。それは、歳月を通して永続性を得る事が出来る。人間の工作物は、けっして絶対的ではありえない。しかし、その安定性は、芸術作品の中に表象されるのである。(『人間の条件』23)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) July 15, 2020
ラカンは無意識のレベルにおける言語活動に注目し、そこでは丁度夢に見る光景が目まぐるしく変化して特定の意味と繋がらなかったり(置き換え現象)、停止していても複数の意味の重なり合い(圧縮現象)だったりするのと同じように、〈無意識の言葉〉の意味と音の間には固定した絆が無いと言っている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) July 11, 2020
われわれが「社会的正義」の場合に処理しなければならないものは、ただそれがその考えを抱く人を幸せにするにすぎないかぎり尊重して邪魔をすべきではないが、他の人びとを強制する口実となるときには戦わなければならない疑似宗教的な迷信である。(法と立法と自由)
— ハイエクbot (@hayek306) July 11, 2020
対象の形はその幾何学的延長ではない。つまり、形は対象の固有の本性と或る関係を持ち、視覚にだけでなく我々の全ての感官に語りかける。亜麻や綿の織物のひだの形は我々に繊維のしなやかさや乾燥の具合、織物の冷たさなり、生暖かさなりを目に見せる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 11, 2020
「私」は私を<すでに生まれている>とか<まだ生きている>としてしか捉えられない---私の出生や死を前人称的な地平としてしか捉えられない。つまり、私は人が生まれそして死ぬことを承知してはいるが、自分の出生や死そのものを知ることはできない。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) July 9, 2020
マルセルデュシャンンのいった「死ぬのはいつも他人ばかり」とは、つまりはそういうことだろう。
1個80円で仕入れた商品を120円で販売しています。1カ月の固定費が50万円だとすると、利益を生み出すには何個売らなければならないでしょうか?
120円で販売しており、仕入原価は80円なので、限界利益は120円−80円=40円となります。
固定費50万円を回収するためには、50万円÷40円=12,500個売る必要があることがわかります。そうすると、利益が0になる売上高は、販売額にこの12,500個を掛ければ求められます。
https://biz.moneyforward.com/accounting/basic/34/
仮に売価を100円としたら、どうか?
限界利益は100円-80円=20円だから、25000個売ってやっと固定費が回収できるということだ。
を読めばその書き手の力量がだいたいわかる。
少なくとも基本的国語力の有無が。
経済問題は、資金さえあれば解決できるというものでは決してなく、どんな組織の仕方や体制でやるのか、の方がはるかに基本的に重要なことです。(ハイエク 新自由主義とは何か)
— ハイエクbot (@hayek306) July 6, 2020
https://www.kaigo-kyuujin.com/oyakudachi/basic/4848/
カラダの半身に麻痺を負ったり、手足の片方に障害をもつ人の、障害のない側を健側(けんそく)、障害のある側を患側(かんそく)と呼ぶが、健側と患側を考慮しながら介護や介助を行うと、より適切な対応になるといわれている。
たとえば、歩行を補助する杖をもつ手は、バランスがとりやすくなる健側がよいとされる。体温の測定も、血流の安定した健側で測るのがよいとされている。
とは関わらぬが吉である。
リソースの無駄だ。
人生は短い。
https://www.lan2.jp/jisyo/journal.asp?aid=1690
商品の売上代金2万2,000円(内消費税2,000円)を現金で受け取った。
現金22.000/売上20,000
/仮受消費税等2,000
時間と記憶は溶解しあっている。これらは一枚のコインのふたつの面に似ている。時間がなければ、記憶もまた存在しないという事は、全く明らかである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) July 3, 2020
ホモ・ソムニアーンス。夢ならば動物も見る。しかし自分が死んだ夢をみる動物は人間だけだろうし、幻視・予視をも含めた夢は、決して主観的な非現実的心像ではない。それは私達人間存在の一部であり、私達が住み着いた意識の世界そのものである。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) July 3, 2020
目的である椅子は、使われるにせよ交換されるにせよ、再び手段となることで有益性を示すことができる。製作が依拠している手段と目的の関係は、目的がある別の文脈ではふたたび手段であるような連鎖(略)全ての目的は、必ずその先では目的のための手段となってしまう。(『人間の条件』21)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) July 2, 2020
フツーの友人関係であれば
「んじゃ、そういうことで。また」
「オッケー」
程度のさして意味のないやりとりもするが、ヤツはそうじゃない。
自己愛の充足のために他人の冤罪を貪るクズ(他人の言説の矮小化と曲解により、おのが妄想の物語の補強材料にしたがる性癖の持ち主)だから不用意に「オッケー」などと言って、言質を取った、などと吹き上がらせぬよう気をつけているというわけだ。
一言で言えば、我々は言葉を、それが発音される以前のところで、そしてそれに先行し、しかも今でもそれに伴い続け、それなしでは言葉も何ものも述べた事にならないだろうところの沈黙の<地>の上で、考察しなければならない。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 30, 2020
(「語る」という現象において)話し手は語るに先立って考えるのではない。話す間に考えるのですら無い。語るということが考えることなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 30, 2020
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