処理水
放出対象は汚染水を処理した処理水。朝日新聞は放出予定がないものを放出すると誤認させる見出しを意図的に付けているのか? -- 汚染水の海洋放出反対 福島の市町村議会で決議相次ぐ:朝日新聞デジタル https://t.co/8Ja65QraK9
— 大石雅寿(手洗い&うがいで風邪知らず) (@mo0210) June 29, 2020
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放出対象は汚染水を処理した処理水。朝日新聞は放出予定がないものを放出すると誤認させる見出しを意図的に付けているのか? -- 汚染水の海洋放出反対 福島の市町村議会で決議相次ぐ:朝日新聞デジタル https://t.co/8Ja65QraK9
— 大石雅寿(手洗い&うがいで風邪知らず) (@mo0210) June 29, 2020
論理の破綻を指摘されれば、その内容でなしに、指摘されたというそのことにのみ反応するのだ。そして自分もおまえの論理のおかしさを指摘できる、寛容さによってやらないだけで、などという悪しき相対化によって、己の破綻した論理が正当化できると思っている、こういう人間とは会話が成立しない。関わっちゃやばいレベルの阿呆である。
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「ドラクエ」が私達に教えてくれることは〈消費する動物〉としてのヒトの特性である。そして消費は生理的欲求に基づくのではなく文化的欲望に支配されるものであり、しかもこの欲望は他者の欲望の模倣であると同時に他者との差異を際立たせようとする欲望である。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 28, 2020
消費税が、消費者に負担させる税なのであれば、税額がいくらなのかがはっきりわかる表示が望ましい。その意味では、本来は外税方式であるべきだろう同感である。
「図」と「地」、「物」と「物に非ざるもの」という関係、ならびに過去という地平は、そこに現れるもろもろの性質には還元されえぬ意識の構造なのであろう。しかし経験主義は、この「アプリオリ」を精神の科学の結果として取り扱う方便を、依然として手放さない。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 27, 2020
憎しみとは、もっとも愛する者を憎み、裏切ることである。憎しみは憎しみたりえず、愛に対する愛の犠牲でしかありえない。愛していないものについては、憎む必要もないし、誓いに背くことによって裏切る必要も、死を与える必要もないのだ。(『死を与える』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) June 26, 2020
睡眠は死からの負債である。睡眠は生命を維持するために、死から借りるものである。
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) June 22, 2020
芸術家と思想家は現代のイデオローグ、弁護者となり宿命的な変化の媒体となる。芸術の偉大さと両義性は「注意!危険!」というような警告の表示が出ている場所でさえも、それがなにかを証明しているわけでもない。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) June 21, 2020
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 20, 2020
考えない人間は、どの時代にもどの地域にもいる。彼らは、「考えない」という唯一の武器をもって、恐ろしいほど逞しく生きているのである。『観念的生活』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) June 20, 2020
感覚する者と感覚されるものとは二つの外的な項のように互いに面と向かい合っているのではないし、また感覚は感覚されるものが感覚する者の中へ侵入していくことでもない。色を支えるのは私の眼差しであり、対象の形を支えるのは私の手の運動なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 17, 2020
あなたは相手の語る内容を承認しなくてもいい。しかし、相手が「語ること」それ自体は承認しなければならない。いかに相手の主張が一方的であり、偏見に満ちており、傲慢至極であったとしても、語ることそのことの対等の権利は尊重しなければならない。『怒る技術』
— 中島義道bot (@gido_bot) June 15, 2020
しかしだ、世の中には、「内容」の非承認と「語ること」それ自体の非承認の区別がつかないバカや、区別はついていながら意図的に混同して被害者ヅラしたがる卑怯なバカがいるのである。
われわれは「言われる」ことにもっと馴れなければならない。「言われた」こと自体にではなく「言われた」内容に向けて反論することを学ばねばならない。しかし、このことこそ、教育現場では小学校以来まったく教えられていないことなのである。『うるさい日本の私』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) June 15, 2020
まったくである。
言われた内容にではなく、「言われた」ということに過剰反応し、勝手にメタメッセージを読み取ってしまう人間とは話にならない。
哲学が重視する「批判」という作業を「非難」と勘違いする日本人は多い。批判とは、深い洞察によって物事を突き詰めて理解することであって、物事にレッテルを貼って非難することではない。後者を「深い」論調と有り難がる人がいるが、実態は思考停止にほかならず、「批判」からは最も遠い精神状態だ。
— 野村修也 (@NomuraShuya) June 14, 2020
下垂足とは、下腿の外側から前面にかけて走行している腓骨神経という神経が圧迫あるいは損傷を受けることで、足関節運動に対して麻痺が生じるものです。足関節には底屈と背屈という動きがあり、その中の背屈という動きができなくなってしまいます。この背屈よいう動きができなくなってしまうと、歩くときに足が引っかかりやすくなってしまいます。腓骨神経麻痺により下垂足になると、足が引っかかるのを避けるために、足を投げ出して歩くような「鶏歩」という特徴的な歩き方になります。
アプリをつかって久しぶりに書いてみる。
私がイヤなのは、わかる努力をしようともしない人のところへ、なぜわかっている人が降りていかなくてはいけないのかということです。無知な私にわかるように学者や専門家は話すべきだ――こうした要求を出す人が当然のようにのさばっている状況がある。『人生、しょせん気晴らし』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) June 6, 2020
ある現実的な体験は、体験として固執するかぎり、どのような普遍性ももたない(中略)。この体験の即自性をひとつの対自性に転化できない思想は、ただ、おれは「戦争が嫌いだ」とか「平和が好きだ」という情念を語っているだけで、どんな力ももちえない 『過去への自註』 https://t.co/32FvyRjf1w
— 吉本隆明bot (@T_Yoshimoto) June 6, 2020
しばしば私たちは消費社会に生きているといわれている。そしてすでにみたように、労働と消費は、生命の必要によって人間に押しつけられた同一過程の二つの局面にすぎない以上、このことは、私達は労働者の社会に生きているということのいいかえにすぎない。(『人間の条件』17消費社会)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 4, 2020
イラストレーターの「移動」や「コピー」の作業もままならない。
アーレンとは言っている。『醜いテーブルも美しいテーブルと同じ機能を果たすけれども、物の優秀性が判断される場合の標準は、単なる有益性ではなく、その物が本来似てしかるべきものに一致しているか一致していないかという標準である。』と。
私は肘の拘縮で歪んだ己の身体を眺めて、これは自分の本来似てしかるべきものに一致していないと思う。
たいていの人は、人生を振り返ってみたとき、自分が一時しのぎの連続で生涯を暮らしてきたことを発見する
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) June 1, 2020
言語体系とは、われわれにとって、無数の思想や物を有限個の記号で表現する事を可能にする嘘のような装置である。なぜなら、それらの記号は人が言おうと思いうるどんな新しいことをも再構成して、それにも、最初に物に命名した時の明証を伝えうるように選定されているものだからである。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 31, 2020
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