« 2020年4月 | トップページ | 2020年6月 »
外形的には自分の腕である他ない、しかし知覚としては自分のものであるという確信の持てぬ腕が肩からだらりと垂れ下がり、自分の行動を妨げるのである。
権力機構の実力装置は自分を「正義の味方」だと誤解しがちだが,どの実力装置も究極には個人の自由・権利を守るために設けられているものであり,その行為は自分の正義感ではなく法の手続きに従うべきなのだということ再確認してほしい。#icantbreahte
— 哲学的しろくま (@eis_baerchen) May 30, 2020
醜いテーブルも美しいテーブルと同じ機能を果たすけれども、物の優秀性が判断される場合の標準は、単なる有益性ではなく、その物が本来似てしかるべきものに一致しているか一致していないかという標準である。(『人間の条件』24)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) May 30, 2020
大学のゼミの先生から、定年退職の挨拶のハガキを頂いた。
当時、まだ助教授で「若手」といわれていたのが、定年退職である。あれからもう三十数年が経ったのだ。
いまだに悪夢のように唐突に入院中のことが思い出される。
https://www.hana300.com/hazera.html
スベリヒユ科ハゼラン属の多年草です。 夏、茎先に円錐花序を出し、そこに米粒大の桃色五弁花と赤い実のような蕾を疎らにつけます。 午後3時頃に咲く、または3時間ほどしか咲かないから、別名を三時花とも呼ばれます。
近所の道ばたで見つけた草花で、以前、SNSで名前を教えてもらったが忘れてしまったので調べ直した。
〈マナ識〉は深層心理に巣くう自我意識であり、これを生み出す識が〈アラヤ識〉という潜在意識である。〈アラヤ識〉は、過去・現在・未来にわたって生死する輪廻の主体であり、この貯蔵庫という意味を持つアラヤには、あらゆる存在を生み出す〈種子〉という精神的エネルギーが薫習される。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) May 25, 2020
朝、窓のカーテンを開ける、ただそれだけのことが「大仕事」なのである。
他人の言説を矮小化・曲解し、ただただおのが妄想の物語の補強材料に使おうとする、こういう性癖の持ち主とは会話が成立しないのは当然で言葉を尽くすだけムダである。
たとえば半身不随の身でバナナを食おうとする。片手しか使えないわけだから、口でバナナの皮を剥こうとする。その一瞬を捕まえて、バナナを皮ごと食べようとしているという「失行」の物語に患者を回収する医療従事者は実在する。恐ろしいことである。
(内部から見られた場合の知覚は)それは最初から、例えば因果性のカテゴリーを適用しうるような、世界内の出来事として与えられるのではない。そうではなくて、瞬間ごとに行われる世界の再創造もしくは再構成として、与えられるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 22, 2020
ブラックスワン(Black Swan)とは、マーケットにおいて事前にほとんど予想できず、起きたときの衝撃が大きい事象のことです。元ヘッジファンド運用者でもある研究者、ナシーム・ニコラス・タレブが2007年に刊行した著書『ブラックスワン(The Black Swan)』で言及したのがきっかけで、使われるようになりました。従来、すべてのスワン(白鳥)は白色と信じられていましたが、オーストラリアで黒いスワンが発見されたことにより、鳥類学者の常識が大きく覆されました。 これにちなんで、確率論や従来の知識や経験からは予測できない極端な事象が発生し、それが人々に多大な影響を与えることをブラックスワンと呼んでいます。具体例としては2008年のリーマンショック、最近では2016年6月の英国EU離脱、12月のアメリカのトランプ大統領当選などが挙げられます。
教養課程が新設された1949年、医学部を除く各学部は1年半が教養課程、残り2年半が専門課程とされていた。当時の入試方式は一部の学部学科を除き、文類、理類、水産類と分けられ、入学後に学部、学科を決める制度が採用された。では、当初の移行制度はどのようなものだったのか。当時の通則には、各学部への進学希望者が定員以上の場合、各学部で進学者を選抜すると定められていた。その方法も各学部で定められていた。なお、現行制度ではこの場合、全学教育科目で構成される移行点の上位者から振り分けられる。各学部への進学者選抜のため学部ごとに試験を行う場合もあった。しかし定員超過が少数な場合も多い。そこで学業成績が良くない学生などを集め、志望学部、学科変更を斡旋(あっせん)することもあったという。
https://www.hokudaishinbun.com/2020/02/26/3393/
悲しければ、夜ひとりで思う存分泣けばいい。ぼくのところに泣きにくればいい。いや、いつどこで泣いてもいいんだよ。どんなにブザマでもいい。どんなに甘えてもいい。どんなに他人に罵倒されてもいい。どんなに他人を傷つけてもいい。どんなに他人に迷惑をかけてもいい。『カイン』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) May 21, 2020
人口10万人当たり0.5人は、ドイツの100倍厳しい基準だ。感染者数や実効再生算数も減っているのに緊急事態宣言を延長する理由が医療の逼迫だった。事実は、全都道府県で入院患者の2倍以上の病床のゆとりがある。なぜまだ宣言を継続し、経済社会を窒息させるのか理解できない。https://t.co/UkTT62uTEU
— 舛添要一 (@MasuzoeYoichi) May 21, 2020
権力は下から来るということ。即ち、生産の機関、家族、極限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっている。このような効果が、そこで、局地的対決を貫き、それを結びつける全般的な力線を形作る。-知への意志-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) May 21, 2020
人間には、長期間にわたって提示されている情報は真であると錯覚する【幻覚性真認定効果 illusory truth effect】というバイアスが存在します。厚生労働省と専門家会議は、現実社会で実行不可能なPCR脳のおバカ計画に対して、科学的立場から完全否定すべき時ですhttps://t.co/ypheyuzaWS
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) May 19, 2020
一言で言えば、我々は言葉を、それが発音される以前のところで、そしてそれに先行し、しかも今でもそれに伴い続け、それなしでは言葉も何ものも述べた事にならないだろうところの沈黙の<地>の上で、考察しなければならない。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 19, 2020
我々は、我々自身の経験を、つまり、我々がそれであるところの、この意識の経験を持っている。そして言語のあらゆる意味は、他ならぬこの経験をもとにして測られるのだし、また言語が我々に対して何ごとかを意味すること自体、この経験のおかげで初めて可能となるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 19, 2020
強者/弱者の単純化された二項対立の物語で自分を後者の味方と勝手に設定して善人ヅラ、そうして集団思考停止を正当化する装置として演劇はあるのではない。
生命は他の全ての動物にとっては存在の本質そのものだけれど、人間にとっては「空虚さへの反発」ゆえに重荷となる。この重荷は「いっそう高潔な欲望」がどれ一つとしてこれと同じ緊急性をもたないので、それだけに重いものとなり、基本的な欲求として強制されるものとなる。(『人間の条件』16)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) May 18, 2020
時間と記憶は溶解しあっている。これらは一枚のコインのふたつの面に似ている。時間がなければ、記憶もまた存在しないという事は、全く明らかである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) May 17, 2020
何か専門的知見があるふうな態度を取るたがるわけだが、結局、個人的な思いつきにすぎず、何の効果もない「お医者さんごっこ」。そういうものにずいぶん付き合わされてきた。
とりあえず今朝も血圧を測り薬を飲む。これはべつに後遺症を改善させる目的があるわけじゃない。病気の再発を防ぐためだ。
もし再発して、仮に更なる後遺症が加算されるのであれば、もう入院などしたくない。これ以上の生き地獄を生きるより、いっそ死んでしまいたい。
日本のPCR検査が少ないのは患者が少ない結果であって原因ではない。死者あたりで見ると、日本はヨーロッパの2倍近く検査している。 https://t.co/stzlMQFjLe
— 池田信夫 (@ikedanob) May 17, 2020
そもそも政治的意見っていうのは発言者が同じ人でも状況やタイミングにによって導き出す結論が違うことなんかザラなので、これを属性の違いのように扱って区別化・差別化の判断基準に使うのがおかしい。
— 武信貴行★ダメ人間第一号 (@take_noble) May 17, 2020
安倍支持・反安倍の二択で考える党派ってそこに陥ってるw
まったく同感である。
https://natalie.mu/music/news/10045
そうか、2008年にモトリークルー、2010年にメタリカをさいたまスーパーアリーナで観てるのだ。
そんで2011年が『オトカ』の文化庁公演だった。そんで稽古場でメタリカのTシャツを役者にいじられたのだ。そうして2012年にピタパタ旗揚げ公演。そういう流れ。
ニュー・ウェイヴは、パンク・ムーブメントによってロック音楽を取り巻く状況が激変したイギリスにおいて、ポストパンク[4]やディスコ、ワールド・ミュージック、現代音楽や電子音楽といったさまざまな影響によって成立した[5][6]。ただし、すべての分野における「新しい波」ではなく、1970年代後半から1980年代前半という特定の時期のロックおよび、その周辺ジャンルに限定して適用される音楽用語であるhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ニュー・ウェイヴ_(音楽)
https://natalie.mu/music/news/10045
半ば前座のラウドネス目当てで行ったのだった。
『異邦人』の主人公ムルソーは「三〇歳で死んでも七〇歳で死んでも同じことだ」と呟きますが、これは「いくら長く生きても人生は虚しい」というような粗雑なことを言っているのではない。死の間際になれば、過去に生きていた長さは問題にならないという正確な直観を表現している 『時間を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) May 16, 2020
ちょっと昼寝のつもりが、うっかり寝過ぎてしまって生活時間帯がめちゃくちゃだ。
こんな時間にウインドウズの更新チェックとかしてる。昔だったら、原稿書きや制作仕事に突入してるとこだろう。生活リズムをまともに戻したいから今日はこのまま起きていよう。
確かに、一般に集団から排除されるのは辛いことである。しかし、同じように辛いのは、無理やり集団に留まることを強制されることである。『差別感情の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) May 14, 2020
妄想を源泉に閃いた単語を投げつけ合うことを「会話」とは言わないから。
「闇に葬りたい犯罪」って、じゃ具体的に言ってみろ。そんないい加減なこと言ってんじゃないぞ! https://t.co/J1oq1rhbMj
— 加藤清隆(文化人放送局MC) (@jda1BekUDve1ccx) May 13, 2020
発作がまた起きるのではないかという不安から、下記の症状があらわれることがある。
発作が起きた場所を避けるようになる。(=広場恐怖)
外出できなくなる。
発症が1回だけでも、予期不安が1か月続く場合は、パニック症(パニック障害)の可能性があります。うつ病などの他の精神疾患を併発することが多いのも特徴です。
体性感覚とは触覚、温度感覚、痛覚の皮膚感覚と、筋や腱、関節などに起こる深部感覚から成り、内臓感覚は含まない。皮膚感覚が皮膚表面における感覚であるのに対し、深部感覚とは身体内部の感覚を意味する。後者は固有感覚または自己受容感覚とも呼ばれ、筋受容器からの伸縮の情報により、身体部位の位置の情報が得られる。
検察庁法改正案反対が盛り上がっているが、国家公務員の65歳定年は2008年成立の基本法に盛り込まれており、現在は最終段階。年金支給開始年齢が先に65歳に引き上げられており、これに合わせた措置で、22年4月に施行。問題の黒川氏は同年2月に65歳。もしその時検事総長でも退官となる。
— 加藤清隆(文化人放送局MC) (@jda1BekUDve1ccx) May 12, 2020
風に運ばれて何か花の匂いがするのだけど、何の花だかわからない。
あるいは感覚障害由来の幻臭なのかもしれない。深部感覚がバグってるらしく、余剰幻肢も経験してるくらいだから、今さら嗅覚くらいじゃ驚かない。
いずれにせよ思った以上にこの身体はボロボロに傷ついている。もはや余命を惜しむ価値さえもさほどないくらいに。
https://kotobank.jp/word/深部感覚-82483
皮膚や粘膜の表面ではなく,それより深部に存在する受容器によって起る感覚。位置感覚,運動感覚,振動感覚,重量感覚,抵抗感覚など,筋,腱,関節に関係する感覚をいう。
https://www.excite.co.jp/news/article/SportsHochi_20200512_OHT1T50073/
「やりたい放題というかね、安倍さんそういう風に(恣意的な人事が行われる懸念はあたらないと)言うけど、みんな忖度して。やっぱり出世したいし。検事総長になりたいって思ったら、やっぱ政府寄りになったりするわけじゃない。こんな事、絶対ダメだと思うけど。それを今の時点でもっと審議してやるならともかく、こんな時に急いで決めなきゃいけないのかなって」
これまた思考怠慢者の好例である。
つまり、単純化された善悪二元論の物語をでっち上げ、俗情と結託した一面的な価値観の強調で己を「善」の立場に据えたがる。
「こんな時に急いで決めなきゃいけないのかなって」という疑問にはこれ(http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2020/05/post-983281.html
)が答えになるだろう。もっとも、曲解・矮小化が習い性になっている人間には、何をどう説明したところで、新たな曲解の材料にしかならないわけだが。
何に対する言及なのかすら明らかにすることなく、妄想を源泉とした閃きの羅列を投げつけてくる。これで会話が成立するわけもない。むしろ、させるつもりがないのだとしか判断のしようがない。薄気味悪い悪意に満ちた意図的なディスコミュニケーション。まあ、今更どうでもいい。関わらぬが吉であると結論の出た話だ。
https://kotobank.jp/word/位置覚-31221
深部感覚の一つで,視角などに頼らずに,自分の身体の各部がどういう相対的な位置にあるかを判断する感覚をいう。関節,骨,靭帯,腱,筋肉などのあらゆる感覚を総合して感知するもので,この位置覚と運動覚をあわせて関節覚という。この感覚の障害は四肢末端で起りやすい。検査を行う場合には,たとえば被検者の目を閉じさせ,検査を行う者が片方の上肢をいろいろな位置に持ち上げ,もう一方の上肢で被検者に模倣するように命じ,それが正しいかどうかを判断する。位置覚に障害があると,他動的に関節を動かしても,伸ばしているのか曲げているのかがわからなくなる。
感染者のほとんどは自覚症状がないので、検査陽性者よりはるかに多い。日本の検査が少ないのは患者が少ないからで、その逆ではない。福山は何もわからず噛みついている。
— 池田信夫 (@ikedanob) May 12, 2020
尾身副座長への国会質問に疑問続出 「#福山哲郎議員に抗議します」もトレンド1位に https://t.co/9WxooWIYh8
【感覚障害とは】
知覚の異常や感覚の鈍麻など、感覚神経の異常反応を生じる障害を指します。
触覚、痛覚、温度覚、振動覚、位置覚など感覚の鈍麻、痺れや痛み、筋力・統制力の低下を生じる運動感覚の失調や逃避反射の喪失などが出現すること。
【種類】
①感覚過敏(hyperesthesia)、②異常感覚(dysesthesia)、③錯感覚(paresthesia)、④神経痛(neuralgia)などの症状を陽性症状と分類します。
また、⑤感覚鈍麻(hypesthesia)、⑥感覚脱失(anesthesia)などの症状を陰性症状と分類します。
【症状】
①感覚過敏(hyperesthesia):周囲の音や匂い、味覚、触覚など外部からの刺激が過剰に感じられ、激しい苦痛を伴って不快に感じられる状態のこと。
②異常感覚(dysesthesia):しびれ・ じんじん・ぴりぴりなどが自発的にみられる感覚のこと。
③錯感覚(paresthesia):異なった感覚 として認識された感覚を指し、触覚を痛み・ぴりぴり感とし て感じることが多い。
④神経痛(neuralgia):人の身体において、さまざまな原因により末梢神経が刺激されることに起因する痛みのこと。
⑤感覚鈍麻(hypesthesia):五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が敏感すぎること。
⑥感覚脱失(anesthesia):五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)が鈍感であること。
ポルトマンが唱えた説。人間は動物学的観点から見た場合、他の哺乳動物の 発育状態に比べて、すべて約1年早く産まれるとして、人間の誕生時の状態を 生理的早産と言い、また乳児期を子宮外胎児であると述べている。人間は未熟な 状態から成熟しなければならない大きな部分を残した可逆性に富んだ存在てあると 位置づけている。http://natu.serio.jp/hoiku/archives/2006/02/post_87.html
「医療機関に行く人に比べ一般の感染率は少ないのが常識」……世の中にこんな理の通った事実の説明はないと思うのだが、それを理解できないと言う立憲の幹事長は自分の頭の悪さを疑った方がよろしい。 https://t.co/k3S2EqgrEi
— カラサワ (@cxp02120) May 11, 2020
ゼロリスク信仰の構造である。
《敵の大将を射ようと思うなら、まずその乗っている馬を射て、その後にその者を射よの意から》大きな目的を達するには、それに直接あたるより、周辺のものからかたづけていくのが早道である。
立憲民主もどうしてそう「PCR、PCR」って言うかね。共産党といい、「科学的根拠のない大量検査推し」はむしろ百害あって一利なしだと思いますよ。検査すると何がいいのか、言えるなら言ってみるべきですよ。メリットとデメリットを比較しないと
— kikumaco(6/13ビッグアップル) (@kikumaco) May 11, 2020
まったくそうなのだが、世の中には単純化した善悪の二項対立の図式で一面的価値観の強調に身を委ねて善人ヅラしたがる思考怠慢者が少なからず存在するのだ。
何に対する言及なのかも示されず、妄想を源泉として閃いた単語の羅列で、ただでさえ自己完結していて意味不明なのに、自称ユーモアのなんちゃって古語(文法デタラメ)をまじえて悦に入ってるから、ますます文意がつかめないのだ。
ひっそり死ねるなら、悪くない。
脳卒中の後遺症による片マヒのリハビリは従来、マヒのない側を訓練し片手で日常生活を送れるようにするのが主流だった。
https://style.nikkei.com/article/DGXKZO95468150U5A221C1NZBP01/
ニューロリハビリの対象は、手や指向けと足向けがあるが、現在は手や指の機能回復を目的としたものが多い。脳卒中患者のうち後遺症が出るのは約半数。約6割が歩けるようになる一方、手が動かせるようになる人は15%程度にとどまり、機能回復のニーズは高い。
今日は午前中、マンションの排水管清掃だった。
私の腕がテーブルの上に置かれていても、灰皿が電話機の傍にあるのと同じような意味で、腕が灰皿の傍にあるなどと言おうとは、私は夢にも思わないであろう。私の身体の輪郭は通常の空間的諸関係が超えることができない一つの境界をなしている。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 10, 2020
それはよくわかる。
私もかつて健康だった頃はもちろんそうだった。
ところがだ。不随の腕をただテーブルの上に置いておくことさえ困難になってしまった今では、〈私の腕がテーブルの上に置かれていたら、灰皿が電話機の傍にあるのと同じような意味で〉「腕が灰皿の傍にある」と言いたい気分なのである。
昨晩、夜中に30年以上も前に札幌で上演された劇団デパートメントシアターアレフ『ジエンドオブアレフ』のビデオなど観て、今日の昼間、昼寝したら起きたのが夜10時。完全に昼夜逆転してしまった。もとに戻さなきゃ。
人種が隣り合い併存するような人類を考えるのでなく、お互いに混じりあい、それが他形態的であればあるほど価値を高める遺伝子的な遺産を混合させていく人口群の「雲状集合」からなる一つの人類を思い浮かべるべきだ。メイールが言うように人類とは「相互にコミュニケートする遺伝子のプール」なのだ。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) May 8, 2020
思いやりとか、そういう通俗的で陳腐な「道徳」でなしに、こういうふうに説明してほしいわけです。
郵便受けへ。ヤフオクとアマゾン、ツタヤからの郵便物を取ってきた。
夢の中でこれは夢だなと悟ることがあるように、ああ、譫妄だと思いながら、病室の天井を這うニシキヘビを眺めていた。
一つの対象に関して私が行う見るという行為の全体は、ただちに、共存するものとして捉えられる世界のあらゆる対象の間で繰り返される。なぜなら、これらの対象のそれぞれが、ほかの諸対象がそれについて「見る」ところの全体だからである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 7, 2020
いずれにせよ、関わらぬが吉であろう。徒にリソースを無駄遣いさせられることになるのは火を見るより明らかなので。…自分の事をバカだと前置きするのは大抵の場合、本気で自分をバカだと思ってるワケじゃないんだよな。回りくどく相手をバカにする時に使うとか、自分の発言に責任持ちたくないから予防線張って言い訳してるとかが大半なんだよな。
— タクラミックス (@takuramix) May 7, 2020
ラカンは無意識のレベルにおける言語活動に注目し、そこでは丁度夢に見る光景が目まぐるしく変化して特定の意味と繋がらなかったり(置き換え現象)、停止していても複数の意味の重なり合い(圧縮現象)だったりするのと同じように、〈無意識の言葉〉の意味と音の間には固定した絆が無いと言っている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) May 7, 2020
人が我々にそれについて語るところの人間、人がその解放を促すものとしての人間は、それ自身が既に、自らよりも一層深層における従属化の効果だ。一つの〈魂〉が人間に住み着き、人間を存在へともたらすわけだが、その魂はそれ自身、権力が身体に行使する支配の中の一つの部品なのだ。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) May 6, 2020
わが国に対話が欠けているのは、他者を理解しようとしないからではない。むしろ、他者をあまりにも安易に理解してしまう、正確に言えば理解していると思い込んでしまうからなのです。『「うるさい日本」を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) May 6, 2020
でもそれってやっぱり「他者を理解しようとしない」ってことだけどね。〈理解している私〉という自己愛の充足に他人を利用しているだけで。
寒くなると、私たちのからだは体温を逃がさないように血管が収縮するので、血圧が上がりやすくなります。
https://www.hospital.japanpost.jp/health/health201211.html
であるならば、そのような理由で上がった血圧を薬で下げちゃうのってどうなの? という疑問が湧く。
タブレットでこれを書いている。さっき地震があった。
権力は権力自体に拠って立つものではない。また、権力自体を出発点として手に入れられるものではない。権力メカニズムは「あらゆる関係の総体にとって元々内属的な部分をなす」のであって、関係と権力メカニズムは互いに互いの原因にして結果だという循環的な関係にある。-安全・領土・人口-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) May 5, 2020
https://toyokeizai.net/articles/-/348398
いくらつき合いの長い友人だろうと、いくら世話になった上司だろうと、いくら魅力的な異性だろうと、あなたから時間を奪う人は、端的に言って「悪い人」である。
その人はあなたの人生の価値の源泉、すなわち時間を削り取っていくからだ。
そういう人間は、「他人時間の猛獣」そのものだ。その人とつき合っているかぎり、あなたの時間は削り取られ、人生は少しずつ食い殺されていく。そういう人とは距離を取るにかぎる。
https://kotobank.jp/word/ならでは-590019
[連語]
1 (多く「ならではの」の形で)ただ…だけ。「日本ならではの習慣だ」
2 (多く、下に打消しの語を伴って)…でなくては。…以外には。「下町ならでは見ることのできない光景」
「恩愛の道―、かかる者の心に慈悲ありなんや」〈徒然・一四二〉
人間の肉体の生物的過程に対応する活動力が、労働である。肉体が自然に成長し、新陳代謝し、最後に朽ちるこの過程は、労働によって生命過程に、生みだされ消費される、生命の必要に縛られている。労働は、生命それ自体に条件づけられている。(『人間の条件』1)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) May 4, 2020
政府の説明によれば、緊急事態のクリティカル・パスは特定地域における医療体制のロジスティックスです。この場合、低リスクの地域から経済活動を逐次再開させることに支障はないはずです。いずれにしても最速のリスク評価が全国一律で5月14日というのは明らかに不合理ですhttps://t.co/XCRktvKIAC
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) May 4, 2020
そうなのだ。そして合理性より「みんな一緒に」という通俗的なスローガンに寄りかかった思考の怠慢が価値あるものとされる風潮、この薄気味悪さ。
私はこのコップではない、このテーブルではない、この部屋ではない。私の空虚は任意のものではなく、少なくともその限りにおいては私の無(néant)は埋められ無効にされている。だが実は、私の現在のこの擬似-肯定性はより深い、ないしは二重化された否定でしかないのだ。『問いかけと弁証法』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 4, 2020
私の身体の全体は、私にとっては、空間の中に並存する諸器官の集まりではない。私は身体を部分に分かたれない姿で所有するのであり、私の肢体の各々の位置を、それらの全てを包括する「身体像(身体図式)」(schéma corporel)によって知るのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) May 3, 2020
書き込みしてみる。スマホよりは遥かに快適。
が必須であるとは言わないけれども、組織全体のトップや制作のチーフであれば、最低限商業簿記的な思考回路ぐらいは備わっていてもらわなきゃ困るのだ。
たとえば表題の一文を「窓を開けて風が通した」などと書いて平気でいる、そのおかしさを指摘されても理解できない。そんな国語力の持ち主が平気で作家を自称している。
杖歩行で郵便受けへ。部屋が端っこだからエレベーターまで遠い。途中、マンション住人の余計な干渉がありませんようにと祈りながらの移動。エレベーターに乗るのは、相変わらず、大縄跳びの緊張感。
図面をひいて道具や建物を作る、生殖とは必ずしも関係の無いエロティシズムを楽しむ、革命や同類殺しや自殺をする…、このような動物の生み出した文化は、良い意味でも悪い意味でも自然をはみ出した過剰物であり、想像力・想像力の源としてのコトバの存在なしには考えられない。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) May 3, 2020
E.フッサールの用語で,相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられると説かれる。その後 M.ハイデガー,M.メルロー=ポンティらの議論を経て,廣松渉はこの語を諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態であると定義した。今日では,自己と他者の分化に先行する基底的な構造をさして用いられる。
しもやけは、寒さや冷えなどからくる血行不良が原因で起こる炎症のことです。別名を「凍瘡」(とうそう)といいます。とくに、手先や足先、耳、鼻など、細い血管が集まる体の末端部で発症が見られ、皮膚が赤く腫れたり、むずがゆくなったりするのが特徴です。機能性の高い防寒具や暖房設備が整った現代社会でも、あまり減る傾向が見られない冬の肌トラブルです。
https://www.d-yutaka.co.jp/blog/health_and_beauty/health_info201812/
将来のいずれかの時において何か悪い事象が起こる可能性https://ja.wikipedia.org/wiki/リスク
https://president.jp/articles/-/34822
医療崩壊の定義は、スタッフや器具など医療リソースが不足し、重症患者の治療に手が回らなくなり、医療がまひしてしまうことだ。イタリアやスペイン、アメリカなど諸外国では医師・看護師などが次々と感染し、これが起こってしまった。もともと医師の不足が課題となってきた日本において、本当に怖いのはこっちだ。
床にぐちゃっと置かれたコードを容易に跨ぐことができないから「結界(バリア)」になっている。
このようなゼロリスクな風潮を創造したのは、やっぱり『羽鳥慎一モーニングショー』に代表されるワイドショーと一部言論です。少しでも悲観的でない発言をすると「危機感がない!!!」と全力で罵ってきた尾張守の皆さんが生んでしまった憐れでショボいモンスターです(笑)https://t.co/DkTI9FNoWp
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) May 2, 2020
ある芸術作品の価値というのは、かなりの程度、それを受容するものに応じて相対的である。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) May 1, 2020
生計を立てるという観点から見ると労働と関連のない全ての行為は趣味となる。近代人のこの解釈が表面上もっともらしいに過ぎないことを明らかにするには、前近代の全文明がプラトンの「金儲け術は他の術と内容において無関係だ」という考えに同意していたことを思い出せばよい。(『人間の条件』17)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) May 1, 2020
同感です。雑ですね。客観的基準を示すべきです。通俗的「空気」に阿るのはダメだ
悲観論が許容されるのは【loss aversion】という「絶対に損はしたくない」と考える人間の認知バイアスのためです。ところが実際には安易な悲観論は何かを犠牲にしています。その典型例が原発停止や豊洲市場移転延期による多大な損害です。事実ではなく勘を根拠にする安易な悲観論は批判されるべきです
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) May 1, 2020
https://imidas.jp/judge/detail/G-00-0093-09.html
未必の故意は、犯罪事実がいまだ必ずしも発生するわけではないが、発生すればそれはそれでいいと思っている場合です。発生する「かもしれない」と思っているにすぎない点で、確定的故意とは区別されます。しかし、「それでいい」という投げやりな心情に陥っている点で、犯罪結果を消極的に受け入れているわけですから、故意ありとして非難されます。たとえば、車を運転していて歩行者が飛び出しそうに見えたときに、ぶつかるかもしれないがそれでもいい、と思っているのが未必の故意です。これに対し、「かもしれない」と知りながら「大丈夫だ」と思っている場合は「認識ある過失」と呼ばれます
最近のコメント