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と称する者の知見のなさに呆れることしばしば。
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と称する者の知見のなさに呆れることしばしば。
俗情との結託による一面的価値観の強調(善人ヅラ)で、思考の怠慢は正当化されない。
肥大した自尊心と自己愛。それを満たすために捻り出した妄想に基づく身勝手かつ陳腐な物語に回収されてやる筋合いはないんだよ。
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2020/04/post-c9cd2d.html
アドホックは「その場しのぎ;この時のために」などの意味があります。アドホック仮設は,反証事例が生じた際にそれを説明するための補助仮設として用いられることが多いものです。 これは,「超能力」に例えるとわかりやすいでしょう。超能力者がその能力を発揮できなかった際,「観客がいるからだ」とか「カメラがあるから力を発揮できなかった」などを言う場合があります。この場合,超能力は「観客やカメラがなければ」という補助的な仮設を付け加えることで反証を免れています。このような仮設を「アドホック仮設」といいます。https://www.y-shinno.com/falsifiability/
反証可能性」(falsifiability)はオーストリア出身の哲学者であるカール・ポパーによって提唱された概念です。これは,科学と疑似科学を分ける目的で提唱されたもので,「科学的な命題は,経験によって反証可能でなければならない」ということを主張しています。つまり「反証可能」というのは,間違っていることを証明できるということで,間違っていることを証明することが不可能なものは科学とはいえない,ということです。https://www.y-shinno.com/falsifiability/
経済法則というのは自然法則ににており、社会全体の生産条件の機能である。しかしこれは、すべてが人間の肉体と自然との新陳代謝まで還元され、交換でなく消費だけが存在しているような労働社会においてのみ正しい。交換というのは自然過程の単なる機能とは別のものである。(「人間の条件」29)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 28, 2020
善人の最大の罪は、鈍感であること。つまり、自分自身をよく見ないこと、考えないこと、感じないことである。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道bot (@gido_bot) April 28, 2020
それはそうなのだけれど、ここでいわれているのは、いわばカギカッコつきの「善人」とでもいうべき自己相対化能力の著しく欠如した独善者・思考怠慢者のことだろう。上記〈鈍感であること〉を分節化して感が選れば、要するに他人のリソースを平気で無駄遣いするってことだと思う。なぜそうなるか? おのが動機の純粋性は何にもまして尊重されるべきと信じて疑わないからである。
こういうタイプの人間には関わらぬが吉である。
せいで夜中に目が覚めてしまった。何年も前に放送されたらしいラジオ番組をYouTubeで聞いてたえら、鎌倉散策について語られていて、ずいぶん昔に私も妻と江ノ電に乗って鎌倉に行ったことを思い出したのだった。
生の円環運動を持続させるためには、自我に風穴をあけ、自らの内なる他者と絶えず対話を交わさねばならない。[…]ルソーが作曲したと言われる童歌の叡智にならって「結んで開いて/手を打って結んで/また開いて手を打」ちながら、心の奥の欲望を解放しつつ制度へと立ち戻る永続的運動が望まれる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 28, 2020
この「現政権は何がなんでも○○したい」→「そのためには○○したいはず」→「だから○○もそのための見せかけ」とつなげる妄想論理はこの人物だけでなく多くの人やマスコミにまで共有されている一種の社会病理。裏付けとなる証拠など何もないどころか、逆に存在する証拠を妄想論理で覆そうとする。 https://t.co/Hfy1bekD58
— the_spoiler (@don_jardine) April 28, 2020
甥っ子が足に怪我をしたらしい。代われるものなら代わってやりたい。どうせボロ雑巾みたいな私だから、怪我のひとつやふたつ増えたところで誤差みたいなものだ。しかし言っても詮なきことだ。アマリマエだが、代わることなどできやしない。せめて軽傷であることを祈る。
「こんなに誠意を尽くしたのに裏切られた」「こんなに一生懸命に努力したのに評価されなかった」という泣き言は子供の泣き言である。人生においては、いくら誠意を尽くしても裏切られることがあり、いくら一生懸命に努力しても評価されないことがある。『どうせ死んでしまう…』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) April 27, 2020
さらにいえば、ほとんど無価値な情報を手土産に「与えてやった私」という立場を手に入れたい、そういう肥大した自己愛を満たすために他者を消費したがるバカに限って、おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきだと思っているのだ。
頼んでもないのに投げつけてくるから、それは違う、と「解答」してるのだ。
そんな判断は即座に判断できる。当たり前だ。その判断に要する時間の短さをを今度は脊髄反射だと決めつける。
さらに、お得意の曲解+矮小化でもって、自分の内面を文章化できるなら芥川賞が取れる、おめでとう、だとさ。バカが。おめでたいのはおまえのおつむだ。
顔も見たくない。二度と私の前に現れるな。
これもそうだ。「その前」の「その」が、何を指してるか、これじゃあわからんと何度も何度も言ってるだろう。「これもそうだ。」の「これ」って、私が何のことを言ってるか分かるだろう?何故分かるか。 「返信」してる対象が「----Original Message-----」以下、全文引用の形で示されているからだよ。「ラストいくつー、
とか示してー、
返してるー、」
などという独自の謎ルールを他人に勝手に押しつけないでくれ。受け入れる筋合いはない。
OKわかった。迷惑メールに設定する。そういう自助努力が必要なのだろう。そんで定期的にゴミ箱行きだ。どうせ何も書いてないに等しいのだから、こちらはそれでいい。ただしそれで、連絡した/しないのおかしなトラブルに巻き込まないでくれよな。他人の文意を矮小化し、曲解に基づいてなになに病などとレッテルを貼って自分のでっち上げた「物語」に他人を回収したがる性癖を持つあなたのことだから警戒して釘を刺してるんだ。
-----Original Message-----
Sent: Friday, July 26, 2019 4:51 PM
To:
Subject: RE: 面倒くさ🐧
だからさー、
その前にー、
君がー、
送って来たものにー、ラストいくつー、
とか示してー、
返してるー、
途中なんだってばよー🐬🐬
そのくらいー、
わかってよー、よー、チェキラ🐗🐗🐗
バカの不要な干渉を遠ざけてくれたことはよかった。
話すということは、すでにその原理が確定しているコミュニケーションを細分化することなのだ。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 27, 2020
今これは書斎のデスクトップPCで書いている。退院後に、倉庫状態だった書斎を片付けてPCを設置しもらい、書き物のできる物理的環境を整えてもらったのだ。これで書けなきゃ私自身の資質の問題だ。
親しく話したあの人が誰であったか、夢から覚めて思い出せない。
といってもコンビニで固定資産税を払っただけなのだが。植え込みにツツジが咲いていた。
【宅配便でパソコンリサイクル始めました】従来の各メーカーによる回収に加え、宅配便による回収を始めました。申し込み先は、小型家電リサイクル法認定事業者リネットジャパン株式会社。くわしくはホームページをご覧ください。 http://t.co/nKiERMbkUi #立川 #立川市
— 東京都立川市 (@tachikawa_tokyo) February 2, 2015
だからウイルスを「一挙にたたく」とか「根絶する」というのは幻想。医療資源を守りながら、無理しないで付き合っていくしかない。 https://t.co/10sB2bz5pc
— 池田信夫 (@ikedanob) April 24, 2020
おそらくそういうことなんだろう。
可能性を問題にしだせば、その数は本性上、無制限であるばかりでなく、そもそも可能性というのは、具体的な出来事の意外性を欠いており、その欠如を単なる蓋然性で償うからである。その結果、ありえた可能性をどのように散文的に描こうと、それは純粋な幻にすぎないのである。(『人間の条件』35)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 24, 2020
ソシュールの記号学解体作業は、まずプラトン、『聖書』以来の「言葉とは物や概念の名前である」という考え方への批判から出発する。即ち言語記号とは「自らに外在する実体を指し示す表象(代行・再現物)ではなく、間主体・共同主観的網目の産物に過ぎない」という指摘がその前段階である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 23, 2020
言語は、間身体的な意思伝達(la communication intercorporelle)を、われわれが望むだけ多様に変化させ、またひろく拡大することができる。言語には間身体的な意志伝達と同じ条件、同じ型があるのだ。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 23, 2020
1980年代にアンダーグラウンドシーンでしばしばその名を目にし、耳にした劇団のことを調べようとしたのだけど、名前が思い出せない。それで一日もやもやしていた。
私の身体は私にとって空間の一断片であるどころか、私が身体をもたなければ、およそ私にとって空間なるものは存在しないであろう。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 22, 2020
時間とは、ヴァレリーが言った、あの「精神の身体」である。時間と思考とは、お互いに相手のなかに入り組んでいる。思考の闇は<存在>の微光によって住まわれているのだ。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 20, 2020
大量のダニ?初耳ですね。
— するめのよっちゃん🦑 消費税は5%に減税 沖縄は日本だ (@surume_gesogeso) April 19, 2020
多少の汚れがあったことは政府も認めてますが、ダニはどこからの情報でしょうか??
情報源の提示をお願いいたします。
政府憎しのためだけにデマを流す等あってはならないことですよ。 https://t.co/xrh2eBbo0K
我々の知覚は対象に到達する。そして対象は、ひとたび構成されると、我々がそれについてもったところの、或いはもつことができるであろうところの、いっさいの経験の根拠として現れる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 20, 2020
身体は、物の特性よりもむしろ物を処理する自分なりのやり方を表現するのであり、言い換えれば物と世界とが自分にとって何であるかを表現するのだ。生きた有機体は、それがまさに現実的行為の中心であるというそのことによって、パースペクティヴの中心をなすのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 19, 2020
身体は直接政治的領域の中に投げ込まれていて、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、訓練し、責め苛み、労役を強制し、儀式を押し付け、表徴を要求する。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) April 19, 2020
時間は、われわれの<自我>が存在するための条件である。死が訪れる時、個人的な時間も死に、その結果人間の生命は、生きている側にいるものたちの感覚にとって、捉えがたいものとなる。つまり、周りのもの達にとって死者になるのだ。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) April 19, 2020
手で対象に触れて、(対象が)ザラザラしているとかつるつるしていると認める人は、そこに存在する諸要素や関係を措定しているわけではないし、そういうものを徹底的に考え抜くわけでもない。触れるのは意識ではなく手であり、カントが言ったように手は<人間の外部の脳>なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 18, 2020
国々はなぜ貿易を行うのであろうか。ある国はなぜ自動車や鉄鋼を輸出し,石油や鉄鉱石を輸入するのであろうか。A.スミスやD.リカード以来,経済学者の間でこの疑問に答えようとする試みがさまざまな形でなされ,国際分業の理論として展開されてきた。比較優位という考えはリカードによって初めて明確に述べられ,以後国際分業の理論の中心概念となっている。各国は外国に比べて国内で割安に生産できる財に比較優位をもち,逆に他国に比べて国内で割高につく財に比較劣位をもつといわれる。https://kotobank.jp/word/比較優位-163454
https://www.kotenbunpou.com/助動詞/む-むず/
たとえば「そうはさせん」「うまくできん」というように、現代の日本語では、打消の意味で「ん」をよく使っています(現代語の助動詞「ぬ(ん)」)。
しかし、これは比較的最近の「ん」の用法であって、古語では打消の意味で「ん」を用いることはありません。
古語の「ん」は、推量の意味であると知っておきましょう。
>連日のコロナ禍報道で気が滅入る。もしも自分が感染したならば、自宅のベッドでひっそり死なせて欲しい。入院はもうゴメンである。
コロナ脳と放射脳はかぶっていて、反ワクチンともかぶっている。彼らに共通の「ゼロリスク脳」の構造を理解することが、今後こういう無意味な騒ぎを繰り返さないために必要かもしれない。 https://t.co/q72hjmZZ04
— 池田信夫 (@ikedanob) April 12, 2020
人間の存在というものは、狂気なしには理解され得ないばかりでなく、人間がもし自らの自由の限界としての狂気を自分のうちに担わなかったら、それは人間の存在ではなくなってしまうだろう。(ラカン『エクリ』)
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 16, 2020
危険のさなかではなく、危険と関わりない瞬間にこそ死を恐れよ。なぜなら、人間でいなければならないのなら、突然の死こそ恐るべきものだからだ。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) April 15, 2020
の日々が続く。歯医者の定期検診と区役所の用事を済ませたいのだけどな。
人間存在を規定する最も重要な〈自/他〉の関係は、予め確固たるアイデンティティをもつ自我と他者が置かれる関係ではなく、いずれもがその相互性・依存性によって生ずるのではなかったか。東洋哲学でいう依他起性や縁起という考えがこれにあたる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 15, 2020
人間の条件は、人間が条件づけられた存在であるという点にある。(『人間の条件』20)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 15, 2020
人間は、同じ椅子、同じテーブルに結び付けられているのであって、それによって、その人間の同一性、すなわちそのアイデンティティを取り戻すことができるのである。(『人間の条件』18)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 14, 2020
19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネが発案し、甥の心理学者・ピエール・ジャネの著書[1]において紹介された[注 1]法則。主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を心理学的に説明した。ジャネの法則とも表記する[2]。 簡単に言えば生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)と主張したものである。 例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。
目に見える物としての全ての個体は、次元としてもまた機能する。それらは存在の裂開の結果として与えられているからである。結局、<見えるもの>の特性は、厳密な意味では<見えない>裏面、つまりそれがある種の不在として現前させる裏面を持っていることだ、ということを意味する。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 14, 2020
久保帯人さんの言葉を心に刻んで欲しいですね pic.twitter.com/Ffok2ZeFuG
— Orcinus orca (@Asasin12811) November 5, 2019
知覚される「あるもの」はいつでも他のものの最中にある。それは常に「野」の一部分をなしている。全く一様な平面で知覚されるべき何ものも提示しないようなものは、どんな知覚の対象とも成り得ない。現実の知覚の構造だけが知覚する事の何たるかを我々に教えることができるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 12, 2020
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 12, 2020
イデアは、表層の下に隠された現実ではない(実はこの隠された現実が絶えず変化を続ける腐敗的なものであることに、プラトンはちゃんと気づいていた)。そうではなくイデアとはそれが出現するときの形そのものである。(『事件』p96)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 11, 2020
文化の多様性と無根拠性を知っただけでは安直なペシミズムに陥るばかりである。何故私達は、それでも神と真理を求め続けるのだろうか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 11, 2020
入院中、リハビリによる筋肉痛として片付けられていた違和感・痛みが、筋肉痛を起こす状態でない今もあることから、断片的な情報を集め、推測するに、どうやら運動麻痺由来の血行不良によるものらしい。となれば、対処の仕方も全く違ってくる。医療関係者の科学ごっこにも困ったものである。
https://www.noureha-shizuoka.com/news/226/
脳梗塞後遺症に伴う「しびれ」は、脳梗塞特有の後遺症である『感覚障害』や 『運動麻痺』、『姿勢の崩れ』が影響していると考えています。『感覚障害』があると脳の中で正しく情報処理が行えません。結果、脳内で「しびれ」として誤認されやすいです。『運動麻痺』は「自分の意思で手足が上手く動かせない」状態です。そのため、力の入りにくい筋やこわばって固くなりやすい筋が混在した状態になっています。このような状態は血行不良につながりやすいです
[問題構成とは、]状況や文脈に限界づけられて、可能な問いとして現れる、それらの困難さに対する、オリジナルで、種別的で、しばしば多形的な、その差異的な局面において時には矛盾している反応であるということだ。-論争・政治・問題化-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) April 11, 2020
対象の形はその幾何学的延長ではない。つまり、形は対象の固有の本性と或る関係を持ち、視覚にだけでなく我々の全ての感官に語りかける。亜麻や綿の織物のひだの形は我々に繊維のしなやかさや乾燥の具合、織物の冷たさなり、生暖かさなりを目に見せる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 10, 2020
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2019/11/post-91a543.html
答えは城下稲荷神社でした。ストリートビューで突き止めたのだ。先日、実物を確認してきた。
およそ<想像する>ということは、現前するもののうちに不在なものを出現させることであり、そこには存在していない対象に<疑似現前、魔術的現前>を与えることなのです。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 10, 2020
自由であるということは、生活の必要あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場におかないという、二つのことを意味した。それは支配もしなければ支配されもしないということであった。(『人間の条件』5)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) April 10, 2020
主語もなければ、何に対する言及かも明らかにされない、他人の言葉の曲解と矮小化に基づく自己完結した妄想の物語に他人を回収して「病名」などつけ、マウントをとりたいという薄気味悪い悪意をしか読み取れない、そんな自称ユーモアに彩られたド下手な作文になど目を通す価値がないから迷惑メールに設定した、とハッキリ告げたはずである。もっともそれさえも新たな曲解の材料にされたのかもしれないが。ともかく関わっちゃヤバい案件である。再度はっきりいっておく。そういうヤバい人間と、関わり合いになりたくないのである。
【新着記事】山口 利昭:コロナ禍のもとで6月の定時株主総会を開催するリスクは極めて大きい https://t.co/Q6FQRe2a6y pic.twitter.com/9ZYJrmDPnJ
— アゴラ (@agora_japan) April 10, 2020
こういうことを言い出す人物は、政府広報など綺麗にスルーして、自分の妄想の中の「庶民に徹底的に無関心な政府」とやらを気持ち良くタコ殴りにしたいだけなのでしょう。 https://t.co/l4VQv28cRR
— the_spoiler (@don_jardine) April 9, 2020
経済不況が自殺者数を増加させるのは、1920年代の世界恐慌の頃から観察されている事象である。
https://news.yahoo.co.jp/byline/nishidamasaki/20200405-00171481/
人はコロナによってのみ死ぬのではない。
だから、コトは命か経済かという単純な二者択一=トレードオフの関係ではないのだ。
だが〈何よりも命が大事〉という俗情との結託を強めることで、誤った命題が正当化されてしまう。
結果、より多くの命を犠牲にしかねないのだ。俗情と結託した一面的価値観に政治が流されちゃダメな所以である。
視野に二つの領域が存在するとき、一方の領域には形だけが見え、もう一つの領域は背景を形成する。背景から分離して知覚される部分(形)を「図」といい、背景となるものを「地」という。「図と地」ということばを初めて使ったのは1912年デンマークの心理学者ルビンであり、これはゲシュタルト心理学の重要概念である。メロディーは際だって聞こえ、伴奏は背景に退いて知覚される。このように知覚経験の各側面に図と地が現れ、とくに視知覚において著しい。一般に図となる領域は、形と輪郭線とものの性質をもち、面が固い感じで位置が明確で浮き上がって見え、一方、地は、形も輪郭線ももたず材料的性質をもち、面が柔らかく定位不明確で図の背後に一様に広がって見える。
こうしてみんな北一輝にあおられて「青年将校」になる。東京都の重症患者は毎日3人ぐらいしか増えてないのに、何をガンガンやるのか。 https://t.co/RLNrSHGPuI
— 池田信夫 (@ikedanob) April 9, 2020
ピタパタの年度ごとの決算書は2010年度から「冥途」の2016年度までで、次の「オトカ」つまり2017年度以降は作成していない。そういう会計上の意味でも「休眠」状態ではなく「死亡」なのだ。
昨今のコロナ禍で公演中止となった仕掛品をどう処理するかと悩んでいる話を耳にし、ピタパタはこの騒動に巻き込まれずに済んで良かったと胸を撫で下ろす一方で、そんなことを考えた。
ソシュールの記号学解体作業によって明らかにされた深層の言葉とは、制度化される以前のメロペー(初源的メロディ)、リズム、所作のみならず、夢という言語とも通底する〈動きつつあるゲシュタルト〉である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 8, 2020
便宜的に杖歩行と呼んでいる私のこれは、身体のアライメントからいって、とても「歩行」とは呼べぬ。せいぜい立位での移動に過ぎない。
5月6日までの緊急事態宣言。この期間に公演がぶつかっていなくとも、演劇には事前の稽古があるから、稽古場に人の集まることが「問題」になってくるかもしれない。
ピタパタは私の身体がこんなで活動停止中だから、この点にかんしては心配がない。そういう意味では(あくまで、そういう意味では)運がよかったといえるかもしれぬ。
安倍晋三首相は7日、政府の新型コロナウイルス感染症対策本部で特別措置法に基づく緊急事態宣言を発令した。感染が急拡大している東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県が対象で実施期間は7日から5月6日まで。宣言が出たことで7都府県の知事は外出自粛などの要請をする法的な裏付けを得たが各知事の判断は揺れている。
文責がないといっても、構文レベルで明らかにおかしい頭の悪い文章の作成に加担させられるのは苦痛である。
ソシュールの記号学解体=構築の後段階が目指すものは、ラングの現象面と本質面の区別というよりは、むしろ意識の表層における言葉のあり方から、未だ共同主観化されていない深層意識における言葉の活動へと垂直に下降する試みであった。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 7, 2020
人間の存在というものは、狂気なしには理解され得ないばかりでなく、人間がもし自らの自由の限界としての狂気を自分のうちに担わなかったら、それは人間の存在ではなくなってしまうだろう。(ラカン『エクリ』)
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 7, 2020
時間はその痕跡を残さずに消える事はできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間の中によこたわる経験としてわれわれの魂の中に積もるのである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) April 7, 2020
リビドーは本能ではない。つまり生まれながらにして一定の目標に向けられた活動性ではない。それは精神物理的主体が様々な環境に加わり、多様な経験によって自己を固定させ、諸々の行動的構造を獲得する普遍的能力なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 7, 2020
ただでさえ、後遺症で世界との関係が異常であるのに、さらに新型コロナウイルスによる「緊急事態」で私には世界が二重に異常に感じる。
「用語解説」タクシス(taxis)…人々をチェスの駒のように配置する、戦場の整列的な秩序を示す古代ギリシャ語。つくられた秩序。「設計主義的合理主義」と関連。コスモス(cosmos)と対比。「法と立法と自由」より。
— ハイエクbot (@hayek306) April 7, 2020
妻の仕事との兼ね合いで、どうなるかという感じの「帰省」だったけれども、それ以前にコロナウイルスの影響に大きく左右されそうだ。
我々は、我々自身の経験を、つまり、我々がそれであるところの、この意識の経験を持っている。そして言語のあらゆる意味は、他ならぬこの経験をもとにして測られるのだし、また言語が我々に対して何ごとかを意味すること自体、この経験のおかげで初めて可能となるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 7, 2020
私が遠くの対象を見るとき、私は、写真の乾板が物体の像を受け取るといった具合に、一定の大きさの心像を眺めるわけではない。むしろ私はパースペクティブ的局面の中に、またそれを通して、それの媒介する<一定の物>を把握するのである。『行動の構造』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 6, 2020
フロイトの無意識があれほどのスキャンダルを引き起こしたのは、合理的な自己はそれよりもはるかに強大で盲目的で非合理的な本能の領域に従属していると主張したからではなく、無意識が独自の文法と論理に従っていることを明らかにしたからである。(『ラカン』p18)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 6, 2020
自ら招き入れる必要はない。
私たちは特定の理由(彼女の唇、あの微笑、など)で恋に落ちるわけではない。すでに彼女に恋しているから、唇やその他が私を惹きつけるのだ。だから、恋愛もまた事件的である。恋愛は、事件の結果が遡及的にその原因あるいは理由を決定するという循環構造の好例である。(『事件』p12)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 6, 2020
プラトンが受け入れようとしなかった(あるいは受け入れられなかった)のは、イデアが完全に仮想的で、非物質的で(というより実体がない)、事件的だということである。イデアは、物の表層に瞬間的にあらわれる。(『事件』p97)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 6, 2020
リベラル・コミュニストの倫理において、冷酷な利潤の追求は慈善事業によって中和される。慈善事業は、経済的搾取という素顔を隠す人道主義の仮面である。(『暴力』p37)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 6, 2020
リベラル・コミュニストの究極の夢は、労働者階級自体を第三世界の不可視の搾取工場に移すことである。(同、原注p12)
ある記号の表現力は、それがある体系の一部分をなし、他の記号と共存していることに起因するのであって、神や自然によってある意味を指示すべく制定されたかもしれぬという点に由来するのではない。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 6, 2020
マルクスとフロイトの解釈技法、より正確にいえば商品の分析と夢の分析とは、根本的に同じものなのだ。どちらの場合も、肝心なのは、形態の背後に隠されているとされる「内容」の、まったくもって物神的な魅惑の虜になってはならないということだ。(『崇高』p27)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 5, 2020
運命予定説は、我々の運命は神の心の中に永遠の昔から存在している現実のテクストに書き込まれているというという意味ではない。われわれをあらかじめ運命づけるテクストは純粋にヴァーチャルな永遠の過去に属しており、したがって我々の行為によって遡及的に書き換えられうる。(『事件』p152)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 4, 2020
細菌とは 目で見ることはできない小さな生物です。一つの細胞しかないので単細胞生物と呼ばれます。細菌は栄養源さえあれば自分と同じ細菌を複製して増えていくことができます。人の体に侵入して病気を起こす有害な細菌もいます。一方で人の生活に有用な細菌も存在します(納豆菌など)。人の体には多くの種類の細菌がいて、皮膚の表面や腸の中の環境を保っています。 ヒトに病気を起こすことがある細菌として、大腸菌、黄色ブドウ球菌、結核菌などが知られています。 抗菌薬(抗生剤、抗生物質)は細菌を退治するための薬です。 抗菌薬が効かないもしくは効きにくくなった細菌のことを薬剤耐性菌といいます。これまでなら効くはずの抗菌薬が効かなくなると、感染症の治療が難しくなるだけでなく、手術の時や抗がん剤治療で免疫が低下したときの感染予防など、さまざまな医療が困難になります。
ウイルスとは 細菌の50分の1程度の大きさで、とても小さく、自分で細胞を持ちません。ウイルスには細胞がないので、他の細胞に入り込んで生きていきます。ヒトの体にウイルスが侵入すると、ヒトの細胞の中に入って自分のコピーを作らせ、細胞が破裂してたくさんのウイルスが飛び出し、ほかの細胞に入りこみます。このようにして、ウイルスは増殖していきます。 ヒトに病気を起こすことがあるウイルスとして、インフルエンザウイルス、ノロウイルスなどが知られています。風邪(普通感冒)はさまざまなウイルスが原因となります。 ウイルスは大きさや仕組みが細菌と異なるので抗菌薬(抗生剤、抗生物質)は効きません。抗ウイルス薬はまだ少数しか開発されていません。http://amr.ncgm.go.jp/general/1-1-2.html
「いやがおうにも」は、そもそも「いやがおうでも」が正しい言い方。漢字では「否が応でも」と書きます。意味は、「なにがなんでも」です。つまり「否(NG)でも、応(OK)でも」という感じ。「有無を言わさず」と同義語です。「いやがうえにも」はどう書くのでしょうか。なんと「弥が上にも」です。びっくりでしょう?(笑)「弥」は「ますます」という程度を表す漢字です。そこから「なおその上に」という、強調の意味を持ちます。
ここに、無意識にたいしてあたえることのできる定義の一つがある。すなわち無意識とは、その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態である。つまり、思考そのものの外にある思考形態である。(『崇高』p41)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 4, 2020
ニーチェは、西洋文明が〈最後の人間〉、激しい情熱も何かに関与する意欲もない冷血動物に向かって進んでいることを認識していた。人生に疲れ、夢をみる力もない〈最後の人間〉は、なんの危険も冒さず、ただ快適さと安全だけを、寛容な相互関係の表現だけを求めている。(『暴力』p44)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 4, 2020
2018年の春は、退院が4月の終わりで、桜に間に合わなかった。
2019年は、そのリベンジで、三沢川の桜を見た。
2020年は、コロナのために見送った。ほんとは神代植物公園にでも行きたかったのだけど。
それは〈現実界〉的対象の最も正確な定義だろう。それ自体は存在せず、一連の効果の中にのみ現存するが、つねに歪められ、置き換えられてあらわれる、ひとつの原因である。〈現実界〉が存在不能だとしても、効果を通してその不可能性を捉えなくてはならない。(『崇高』p304)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 4, 2020
的を射てます(笑)
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) April 4, 2020
「外国では」の出羽守→【権威に訴える論証】
「日本が終わる」の尾張守→【恐怖に訴える論証】
「ほら見ろ」の備後守→【確信に訴える論証】
「ダメ~!」の紀伊守→【怒りに訴える論証】
【自己呈示】が得意な自称賢者にありがちな誤謬ですね(笑)https://t.co/fCRuH9Q1bl
知覚の世界は一見した所私達が最もよく知る世界のように思えます。なぜなら、知覚の世界に近づくためには測定機器もいらず、計算の必要もない訳ですし、この世界に浸るには、両目を開けて生の営みに身を委ねればそれで十分なように見えるからです。しかしこれは偽りの外見に過ぎません。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 3, 2020
ヘーゲルにいわせれば、近代が達成したのは、「主体性原理が、個人的特殊性の自己満足的極端において充足に達する」ことを許したことである。この原理は、自立した個々人がその私的欲求を満たすために自由市場経済の制度を通じて互いに関係しあえるような市民社会を可能にした。(『事件』p182)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 3, 2020
主体は実在を或る外的な立場から観察していると同時に、その実在の一部でもあって、しかも実在についての「客観的な」視点を自分自身でその実在において獲得するということは決してないのである。主体に憑依する物とは、主体自身の対象たる対極に位置する主体自身なのである。(『神話』p210)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 3, 2020
安倍首相の「マスク配布」発言に対するバッシングの多くは「できるものから始めること」を「優先順位が高いものから始めること」と勝手に混同したことによるものです。このように並行作業を嫌がる傾向を【ユニットバイアス unit bias】と言います。https://t.co/YHClmJzYX5
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) April 3, 2020
後遺症による不自由・違和感をテクストに昇華できればいいのだが。
というか、もはやそうする以外に方法はないのだ。
幻想はその定義からして客観的(中略)ではありえない。しかし、主観的(中略)でもない。むしろ幻想が属しているのは「客観的主観性という奇妙なカテゴリー」である。「自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的には実際にそのように見えてしまう」のである。(『ラカン』p93)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 1, 2020
https://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_belgium/
物販で妻が買ったクリアファイル。いつのどこで買ったんだっけ? と調べて2017年9月18日、渋谷文化村だとわかった。近道しようとして道に迷ったことなどが芋蔓式に思い出される。
のスタート。外は雨。
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