物事を系統立てて考えることができない
ほんと、この動画で言及されているように、物事を系統立て考えることができないヤツにはくたびれる。
そしてそういうヤツは、俗情との結託を強めることでおのが善人性が担保されると思ってるから、平気で陳腐な「正義」を振りかざすのだ。
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ほんと、この動画で言及されているように、物事を系統立て考えることができないヤツにはくたびれる。
そしてそういうヤツは、俗情との結託を強めることでおのが善人性が担保されると思ってるから、平気で陳腐な「正義」を振りかざすのだ。
「終息」は「完全制圧」であるのに対して、「収束」の場合には、ほぼ事態が収まっていることを意味します。
入院中の2018年1月2日まで妻とのLINEのやりとりを遡ることができた。何度かデータが飛んでいるからダメかと思っていたが。履歴をテキストで吐き出して保存しておいた。単に「思い出」としてだけでなく、創作の種になるかもしれぬから。
〈コードなき差異〉とは、多義的象徴であり、自らと交換可能な指向対象を持たない言葉の姿である。これはまた、狭義の動物が持つ安定した信号体系を失った人間が、本能図式によっては分節しきれない生のエネルギー(=欲動)を意味化する現場に生ずる差異でもある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) March 30, 2020
http://www.yamanouchi-yri.com/yrihp/techwrt-2-4s/t-2-4s03fb.htm
副詞、接続詞以外にも常用漢字表にない字種・音訓が使われている場合がよくあります。また、「出来(でき)る」とか「-の様(よう)に」などの語は、常用漢字表の漢字あるいは音訓であってもそれを使う由来・意味は現在さほど考慮されていません。このように習慣だけで漢字書きにしている語はひらがな書きが一般的です。
というか、眠れぬまま、朝を迎えた。
睡眠不足はよくないが、仕方がない。このまま今日は起きてしまおう。思えば入院中は毎朝この時間に叩き起こされていたのだった。半年間の入院で、一日も欠かさずリハビリを受けたが、失われた身体機能は全く、1ミリも回復することはなかった。
とりあえず一杯のコーヒー、それから煙草を一本。入院中には叶わなかったシャバの「自由」である。それから日課の血圧測定。こんなコンディションで、さぞ数値は悪いだろうと予想すれば、意外にも厚労省ガイドラインの定める「正常」内である。わからないものだ。
病室は寒くて、早朝、トイレに起きた同室の患者がベッドに戻りたいと泣いていたのが思い出される。ホスピタルにホスピタリティなし、と悟ったものだ。もう二度とあんな体験はご免だ。もしも安楽死の選択肢があるならば、間違いなくそちらを選ぶだろう。
には感謝している。と同時に生き延びてしまった不運を呪いもするのだ。
外出自粛要請が出されたり、なんとも不気味な3月最後の日曜日、川崎ではまさかの雪である。
メルロポンティはこう言っている。
『私の腕がテーブルの上に置かれていても、灰皿が電話機の傍にあるのと同じような意味で、腕が灰皿の傍にあるなどと言おうとは、私は夢にも思わないであろう。私の身体の輪郭は通常の空間的諸関係が超えることができない一つの境界をなしている。』と。
ところがだ。今の私には「夢にも思わぬ」どころか、それこそが実感なのである。翻っていえば、それはもはや「私の」腕とは思えない。
私の腕がテーブルの上に置かれていても、灰皿が電話機の傍にあるのと同じような意味で、腕が灰皿の傍にあるなどと言おうとは、私は夢にも思わないであろう。私の身体の輪郭は通常の空間的諸関係が超えることができない一つの境界をなしている。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 27, 2020
日時/会場:
2011年2月20日(日) 神奈川・横浜BAY HALL
2011年2月21日(月) 東京・赤坂BLITZ
2011年2月22日(火) 愛知・名古屋DIAMOND HALL
2011年2月23日(水) 大阪・なんばHatch
https://tower.jp/article/news/2010/12/10/72920
そうか、2011年2月だったか。
…それは根本的な選択なのか、と君は尋ねている。この(両義性の)哲学は一つの選択以上のもの、あらゆる選択を可能にしているものだ。それは人間として生きるという事実そのものであり、君が言うように我々は人間として生きるという「刑に処されている」のだ。『サルトル/メルロ=ポンティ往復書簡』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 26, 2020
件は生まれて三日にして死し、その間に人間の言葉で、未来の凶福うぃ予言するものだと云うことを聞いている。こんな者に生まれて何時迄生きていても仕方ないから、三日で死ぬのは構わないけれども、予言するのは困ると思った。第一何を予言するんだか見当もつかない。けれども、幸いこんな野原の真中にいて、辺りに誰も人がいないから、まあ黙っていて、このまま死んでしまおうと思う途端に西風が吹いて、遠くの方になんだか騒々しい人声が聞こえた。
政権の主張を偽と仮定した上でその根拠を人格に求めてその言説を否定するという蓮舫議員が定常的に展開する【循環論証】を伴う【対人論証】は【バルヴァー主義 Bulverism】と呼ばれます。このような勧善懲悪ドラマの制作者は政界には不必要です。もう国会議員を辞めて下さいhttps://t.co/u6a5JM1394
— 藤原かずえ (@kazue_fgeewara) March 23, 2020
ミュラー・リヤー錯視においては、一方の線は他方の線に対して等しくあることをやめはするが、だからといって、「不等」になるのではない。それは「別のもの」になるのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 23, 2020
私は、(他人の行動という)自分がただ見ているにすぎないその行為を、言わば離れた所から生き、それを私の行為とし、それを自分で行い、また理解するわけです。『幼児の対人関係』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 22, 2020
我が家の浴室には手すりがあって、なおかつシャワーチェアもあるからどうにか湯舟に入れているが、これらのないホテルの浴室では、やはりちょっと無理だな。
ところで、思考欠如(思慮の足りなさによる不注意、絶望的混乱、陳腐で空虚な「諸真理」の自己満足な繰り返し)こそ、私達の時代の明白な特徴の一つに思われる。そこで私が企てるのは大変単純なことである。私達が行っていることを考えること以上のものではない(『人間の条件』プロローグ)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) March 22, 2020
妄想に基づく陳腐で独りよがりな物語に他人を回収するために、その他人の言説を曲解・矮小化する、悪意があるとしか解釈しようのない(得体の知れぬ悪意は実に気味が悪い)ディスコミュニケーションを繰り返して、おのが妄想の正しさが「証明された」などと勝手に吹き上がる。そうして相手に的外れなレッテル貼り(しかも××病などという幼稚な病名で)をしてくる、かような性癖の持ち主と時空間を共にすればどんな濡れ衣を着せられるかもわからない、それは冤罪の構造であるからだ。よってリスクヘッジとしてこういう人間とは関わらぬが吉であるという結論に至ったのである。なぜなら。そのの「リスクヘッジ」という言葉すらも曲解・矮小化して吹き上がっていたが、これがまさに先に述べた性癖の証左である。得体が知れぬと書いたが要するに肥大した自己愛の変種であろう。いずれにせよ、一切の関わりを絶つと決めたのだから電話帳の登録も抹消したのだ。
恐ろしいことに、善人は自分の無知・無教養を自覚しているのだが、けっして自罰的ではなく、どこまでも他罰的なのだ。表面的には「俺(私)はバカだから」と政策的に言うが、じつはその無知・無教養をまったく恥じていない。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道bot (@gido_bot) March 22, 2020
主観と諸対象との親密さとそれらの対象を単なる<見かけ>と区別する堅固な構造がそれらの中に存在するという事とを同時に示すため、対象は「現象」と呼ばれる事になろうし、そして哲学はこの現象という主題を守る限り、現象学、即ち<宇宙の場としての意識>の財産目録となる筈である。『行動の構造』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 22, 2020
善悪の単純な二元論を設定し、
俗情と結託して一面的な価値観を強調すれば、おのが善人性が担保されると踏んでいる、その手のバカと話すことなど何もない。せいぜい関わらぬが吉である。
対象の形はその幾何学的延長ではない。つまり、形は対象の固有の本性と或る関係を持ち、視覚にだけでなく我々の全ての感官に語りかける。亜麻や綿の織物のひだの形は我々に繊維のしなやかさや乾燥の具合、織物の冷たさなり、生暖かさなりを目に見せる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 20, 2020
アマゾンの履歴によれば2017年12月18日に購入したようだ。そうだった。年末年始に一時帰宅するつもりでいたのだ。それは結局叶わなかったのだけれど。
ともあれ、退院時には自前の杖で病院を出たのだった。
「身体像(身体図式)」とはひっきょう私の身体が「世界においてある」(mon corps est au monde)ことを言い表す一つの仕方である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 19, 2020
台所や風呂は、さして汚れていなくても、私が思い立ったときにすぐに掃除していたからいつもピカピカに保たれていたのだが、もうそんんな芸当はとてもできない。
可視的なもののなかの私の身体。これは単純に、身体が可視的なものの一片である、かしこに、可視的なものがあり、(かしこの変種としての)ここに私の身体がある、ということを意味するだけではない。否、私の身体は見えるものに取り囲まれているのである。『見えるものと見えざるもの』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 18, 2020
無駄飯を食らうばかり。これが一生続くのか。
我々の眼差しは肉体の開かれた口であり、それは万人共通の世界の肉によってただちに満たされるという事実―――したがって、生きた身体は世界の上に押しかぶさり、見る身体、触る身体となり、いわんやおのれ自信に感じられる身体となるという事実、一切はそこから由来するのである。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 15, 2020
1886年(明治19年) 東京帝国大学 (東京大学)
1897年(明治30年) 京都帝国大学 (京都大学)
1907年(明治40年) 東北帝国大学 (東北大学)
1911年(明治44年) 九州帝国大学 (九州大学)
1918年(大正7年) 北海道帝国大学 (北海道大学)
1918年(大正13年) 京城帝国大学 (ソウル大学校)
1928年(昭和3年) 台北帝国大学 (台湾大学)
1931年(昭和6年) 大阪帝国大学 (大阪大学)
1939年(昭和14年) 名古屋帝国大学 (名古屋大学)
事物と世界とは、私の身体の諸部分とともに私にあたえられているが、これは<自然幾何学>によってではなく、私の身体そのものの諸部分のあいだに存在する連関にも比較しうるような、あるいはむしろそれと同一の、生ける連関においてなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) March 14, 2020
あの小屋で確かに観た芝居、それが、いつのことで、なんという劇団だったか思い出せず、ツイッターの検索で突き止めた。
2020.3.14東京では桜の開花が観測され、このまま春になるのかと思えば雪である。
2018年3月10日、11日:一時帰宅(外泊)
2018年4月7日:セラピスト内見:一時帰宅(外出)
2018年4月21日:退院。
多摩病院へ薬をもらいに行く。朝、ちょうど家を出る時間にエレベーターが点検で動かず、階段を歩いて下りることになった。車椅子も妻に階段で下ろしてもらった。朝から力仕事を強いてしまい、心苦しい。
多摩病院はこれが最後。次回から登戸というか向ヶ丘遊園のクリニックへ行くことになった。多摩病院での診察後、下見をかねての散歩。梅の花が咲いていた。久しぶりに中和ビルにも入ってみた。2018年4月21日に横浜の病院を退院してからかれこれ2年になる。
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