ストレス
不随の手足を庇う恰好で健側の腕に過度の負担がかかり、とうとう悲鳴を上げた。逃げ場のない痛みで夜も眠れない。身体的ストレスで血圧も跳ね上がる。
« 2019年11月 | トップページ | 2020年1月 »
不随の手足を庇う恰好で健側の腕に過度の負担がかかり、とうとう悲鳴を上げた。逃げ場のない痛みで夜も眠れない。身体的ストレスで血圧も跳ね上がる。
権力の諸関連の間には、連続性が存在する(それらは一連の複合的な歯車装置全体に応じて実際にこの一般的形態の上に有機的に配置される)のだが、そこには類比も相同もなくて機構上と様式上の種別性がある。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) December 28, 2019
せいぜい立位による移動に過ぎぬ。
右半身に過剰な負担のかかる日々の不自然な身体所作で、身体に歪みが生じているらしく右の背中が痛む。今こうして文章を書くためにマウスを操作するのでさえ、ズキズキする。痛みだけが生の証であるなら、そんな生などいらぬ。しかし自然の摂理に逆らって生き延びてしまった報いなのだろう。
誘惑や忠実といったものは、もはや時空の内に閉ざされた意識の内部に座を占めるような「内的出来事」ではない。そうではなく逆に、時空は不在の極端なケースとしての「誘惑の形式」であって、それはちょうど存在が現前の極端なケースとしての「忠実の場」であるのと同じ事なのだ。『存在と所有』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 25, 2019
長文のブログを書いていた。くたびれた。せめて戯曲原稿を書いていたかった。
様々な断定を停止するという事はそうした断定の存する事を否定する事ではありませんし、ましてや我々を物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認する事ではなく、逆にそうした結びつきを見る事、意識する事です。これが「現象学的還元」というものなのです。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 22, 2019
「君の息子は火事の中で身動きできずにいる。君は彼を助けるのだ......もし邪魔な物があれば、君はこれを取り除くのに自分の腕を犠牲にすることも厭わないだろう。君は君の行為の中に宿っている。君の行為こそ君である。」(サン=テグジュペリ著『戦う操縦士』からの引用)『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 21, 2019
身体を探す必要はない。身体はすでに私と共にある。――私は運動の目標点に向かってそれを導く必要はない。身体は最初から目標点に触れており、まさに身体自身がそこに自己を投げかけるのである。運動における、私の決心と私の身体との関係は、魔術的な関係である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 20, 2019
私はこのコップではない、このテーブルではない、この部屋ではない。私の空虚は任意のものではなく、少なくともその限りにおいては私の無(néant)は埋められ無効にされている。だが実は、私の現在のこの擬似-肯定性はより深い、ないしは二重化された否定でしかないのだ。『問いかけと弁証法』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 20, 2019
メロスはなぜ走ったか。約束を守るためである。しかし、彼は断じてただ「約束を守る」という義務に基づいてのみ走ったのではない。彼は、友人を救うために、友情の証をたてるために、信じてもらいたいために、裏切り者と思われたくないために、自分の名誉のために、走ったのである。『カントの人間学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) December 19, 2019
この世界には、全てを行うことが許されているような文化は一つとしてない。そして、はるか昔から、人は、人間とは、自由と共に始まるのではなく、境界と、超えるべからざるものの線とともに始まるのだということを知っている。-狂気、作品の不在-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) December 16, 2019
ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールの示唆した〈深層意識〉の言葉であり、更に古くは、東洋の言語哲学が探究した意識の深層における言葉に近い。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) December 16, 2019
2019.12.15に購入。
意識は自己の措定でなければ、自己についての無知でもない。意識は自分自身に隠れおおせぬものである。すなわちはっきりと意識する事を要さぬにしても、何らかの仕方で意識に告知されぬようなものは意識の中には何もないのだ。意識の中では、現れる事は存在ではなく、現象なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 15, 2019
ほんと、論点を理解せず(できず)、相手の言葉の曲解と矮小化によってただ勝利宣言したいだけの奴っている。関わらぬが吉である。 https://t.co/vK0ownIhm4
— 今井一隆 (@imai_kazutaka) December 15, 2019
妻にばかり面倒を押しつけて生きてきた。
大概にしろと、罰が当たったのだろう。
自業自得なのだ。
親切面した不要な干渉・自己愛の充足になど付き合わされる筋合いはないんだ。 https://t.co/Tv6KEQ7VqO
— 今井一隆 (@imai_kazutaka) December 9, 2019
否、この絶望的状況が日常に「なる」のである。
与えられた条件の下で最善のものを選択した場合,残された選択物 (犠牲となったもの) のなかの最善のものの価値を指す。一般に多数の用途をもつ財・サービスをある特定の用途に利用する場合,それ以外の用途は利用されずに犠牲となっている。この犠牲となった用途を利用したら得られたであろう収益のうち最も値の大きいものである。機会費用の概念は,ある経済活動,つまり財・サービスの用い方の効率を判定する際の基準となるものであり,経済学において用いられる「費用」という概念は,すべてこの機会費用に基づくものである。
の設定は、いついかなる条件下でもそれに「反対」を唱えれば絶対善が手に入るから、思考怠慢者にはおあつらえ向き。
命拾いしてしまったようだ。
どうして過ごそう。自分の生きた証を拾い集める、そんなセンチメンタルでは妻を食わせられない。まったくムダに生き延びてしまったものだ。
個人または共通の目的をもった個人の集合体である組織の活動状況や現状を固有の記録・計算技術を用いて情報化し,これを関係者に伝達して利用せしめる活動をいう。会計が成立するためには,それについて会計が行われる主体(会計主体),会計の行われる時間的区切り(会計期間)および数量化するための単位(貨幣単位)の三つの要件が必要である。つまり会計は,ある会計主体,たとえば家庭,国家,企業,団体などについて,その活動状況,ある時点における状態などを簿記とよばれる記録・計算の技術を用い,1年,6ヵ月,1月等一定の会計期間に区切って,貨幣価値的に記録し,計算する。
https://kotobank.jp/word/会計主体-1286015
【日本の解き方】中曽根元首相の大きな功績 「JR・NTT・JT」3公社“民営化”で成功例作る 安倍政権でも「改憲論」進まず… https://t.co/KqSWgrOBFA @zakdeskさんから
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) December 4, 2019
早朝というには早すぎる深夜、マンションのゴミ集積場にゴミを出す。ゴミ出しは以前は完全に私の仕事だったから、ゴミ捨て場の眺めさえ懐かしい。
片手しか使えないので、ゴミ袋と一緒に杖を持ち、その手でドアを開けて外に出なければならないのが、ものすごく不便。
だからって自己相対化能力の欠如が正当化されるわけじゃないだろう。大多数の人々は主観的であるため、自分自身以外のものには一切関心がない。したがって、すべてについて自分自身に関連づけて考える。個人的に関わりがあれば、彼らの注意をひき、とらえて離さない。彼らの利益や虚栄心に反すれば、間違っていると見なされる
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) December 4, 2019
[ハイパーインフレーションとは]ひとびとが貨幣を貨幣として受け入れることを拒否し、先を争って貨幣から遁走している状態である。それは、恐慌とは逆に、何らかの理由で、世の多くのひとびとが貨幣よりも商品を欲してしまうことによってひきおこされる(岩井克人)
— 経済思想bot (@historyofecon) December 2, 2019
政治にベストを期待すると言うことは、強力な指導者による問題解決の期待につながります。政治というものは、われわれがわれわれの手で一歩一歩実現していくものだというプロセスを中心にして思考していったものでなければ、容易に過度の期待が裏切られて、絶望と幻滅が次にやってくる。(政治的判断)
— 丸山眞男bot (@masamaru_bot) December 2, 2019
あきらめを十分に用意することが、人生の旅支度をする際に何よりも重要だ。
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) December 2, 2019
大学の先生から届いていたメールを見つけ、今さらながら返信した。文字どおり間抜けな話だが、とりあえず近況報告ができてよかった。それに対する返信も頂いた。
たとえば、弁護士や医者とその顧客とでは情報や知識の量に格差があり非対称的となっている。このような場合、顧客は自分の選好から選んでいるとは言えず、何を望むか・何が良いかを供給する側が選んでいる状態であるといえる。
— 政治原論Bot (@Genron_Seiji) December 1, 2019
哲学者にとって構造とは、我々の外にあっては自然や社会の組織のうちに、我々の内にあってはシンボル機能として現存するものであり、デカルトからヘーゲルに至る間哲学を支配してきた主観-客観の相関関係から脱け出る道を指示してくれるものである。『モースからクロード・レヴィ=ストロースへ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) December 1, 2019
「優しい」人とは、――他人に優しくしようと全力を尽くそうとする人ではなくて――優しくない他人によって自分が傷つくことを全身で恐れる人であり、むしろこちらを第一原理とする人なのである。『うるさい日本の私』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) November 30, 2019
最近のコメント