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「リスクヘッジ」はrisk(リスク=危険)+ hedge(ヘッジ=防止策)という熟語で
「起り得る危険を予測して、その危険を回避するための予防策、防止策」
のことで、元々は金融の分野で使われていた「金融用語」です。
ことを、「最悪の事態を免れた」などと表現することがあるけれども、必ずしも「死」が「最悪の事態」ともいえぬだろう。生き地獄というのは実在する。
来月、25日が自分の三回忌である。この日を境にした時間の断絶はほとんど「死」に等しい。
必要な要件の書かれたメールが埋もれてしまうのはかなわない。だから迷惑メール設定なのだ。
「アクト(活動する・演ずる)」というのは、最も一般的には「創始する」「始める」という意味である。同時に、なにかを「動かす」という意味である。(『人間の条件』24)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) September 30, 2019
呼び出された霊みたいな気分だ。
わかりもしねえくせに、利いた風なことを言いたがり、妄想に基づく勝手な物語に他人を回収しようとするな、というのである。不要な干渉を退けるコストはこちら持ちなのだから迷惑だ。
というか、悪意をもって曲解しているとしか解釈しようがない不毛な言葉のやり取りによるストレスは経験的に血圧の数値に如実に現れる。
の帰省が最後の「旅行」になるかもしれない。そういう予感がしている。
「私」は私を<すでに生まれている>とか<まだ生きている>としてしか捉えられない---私の出生や死を前人称的な地平としてしか捉えられない。つまり、私は人が生まれそして死ぬことを承知してはいるが、自分の出生や死そのものを知ることはできない。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 29, 2019
tいと早いが請求書を出した。気持ちはすっかり年末に傾いている。タブレットからの投稿。
が実在するならそこへ行って我が身を捨ててしまいたい。
文化のもたらす諸悪を否定すべく「自然に還れ」と叫ぶのは、同じ土俵内の不毛なスローガンとなる。その土俵とは“文化/自然という二項対立”を疑わない思考形式という文化主義にほかならないのだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 27, 2019
「だ」の活用表について注意点が二つあります。 上の活用表をよく見ると、連体形の「な」が丸かっこで囲んであります。 これは、連体形の「な」が用いられるのは、助詞の「の・ので・のに」が続く場合だけにかぎられるという意味です。 つまり、「だ」の連体形「な」に体言(名詞)を続けることはできません。https://www.kokugobunpou.com/助動詞/だ/
いかなる物も、物のいかなる側面も、他の物、他の側面を積極的に隠す事によってのみ、他の物、他の側面を覆うという行為を通じこれを示す事によってのみ自らの姿を現すのである。見るとは原理的に言って、目に見えるもの以上のものを見る事であり、潜在的な存在に接近する事である。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 27, 2019
ソシュールの記号学解体作業は、まずプラトン、『聖書』以来の「言葉とは物や概念の名前である」という考え方への批判から出発する。即ち言語記号とは「自らに外在する実体を指し示す表象(代行・再現物)ではなく、間主体・共同主観的網目の産物に過ぎない」という指摘がその前段階である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 26, 2019
恐ろしいことに、善人は自分の無知・無教養を自覚しているのだが、けっして自罰的ではなく、どこまでも他罰的なのだ。表面的には「俺(私)はバカだから」と政策的に言うが、じつはその無知・無教養をまったく恥じていない。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道bot (@gido_bot) September 26, 2019
が来月予定されている。ずいぶん久しぶりに会うメンツ。今から楽しみだ。
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 25, 2019
ある人が泥棒をした/しないを問題にしている局面で、いかに泥棒が卑劣な行為であるかを強調したって頓珍漢だろう。それが的外れであるという指摘をすると、泥棒の肩を持った、泥棒擁護だと噴き上がる。二重に頓珍漢である。
根拠というのは実証実験の結果のことだけではない。アタリマエだが。いい年こいてそんなこともわからぬ阿呆がいたとは!
(Medūsa 女王の意)⸨メデューサ・メジューサ⸩ ギリシア神話中の怪物。ゴルゴン三姉妹の一人。頭髪は蛇で、その目を見たものは石に化したという。
日常の細部が懐かしく思い出されて、これはいよいよ人生が終了するのかなという気がしている。
会話風の言葉のやりとりでありながら、実はちっとも「会話」などではなくて、こちらの言葉は、相手の妄想に基づく物語のための曲解の材料を与えることにしかならぬなら。そういう人間とは金輪際関わらぬことである。
仕事と、友人との先約とで今月はもうスケジュールが埋まっている。
時間とは、ヴァレリーが言った、あの「精神の身体」である。時間と思考とは、お互いに相手のなかに入り組んでいる。思考の闇は<存在>の微光によって住まわれているのだ。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 23, 2019
なにを言おうか、言うことがなにもない。あきれてなにも言えない。
※ ※
「基礎知識すらないようでは、何をか言わんやだ」などと用います。「何をか」の「か」は、「言うことがない」という内容を強調するはたらきをもつ助詞です。
「いわん」は「いわむ」で「む」は意思を表わす助動詞。
こんなのは「国語」レベルで初歩の初歩の話だろう。それを「言わない」の意味で「言わん」とかいって、ただでさえ不明瞭な文意をますます伝わらないものにしておきながら、ユーモアを理解しろとか何とかエラソーに言ってるから、なんちゃって古語がデタラメだというのだ。バカ丸出しである。みっともない。
ムカつくことばかりが思い出されて。たとえばおのが動機の純粋性(=善意)は何にも増して尊重されるべきとでもいわんばかりの身勝手な価値判断の押しつけ。
それから区役所だ。早く寝て早く起きなきゃ。
ある事柄について、主観の評価による是認あるいは否認を言明する判断。「この鳥は青い」は事実判断だが、「この鳥は美しい」は価値判断。
薬を飲むのと排便が生きる証になっている。
をユーモアと言い張り、通じないのを相手のせいにする。そうして「ユーモアを身につけたまえ」だとよ。バカじゃなかろか。
空間とは、その中に諸事物が配置される環境ではなく、それによって諸事物の位置づけが可能になる手段である。すなわち空間をあらゆる事物がその中に浸っている媒体と考えたり、それらに共通の一つの性格と理解するのではなく、我々はこれを事物の結合の普遍的な力と考えねばならない。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 22, 2019
足をくじいて盛大に転倒するところだった。
他人の心の状態をこうしたいという支配欲=押しつけがましさを、おのが動機の純粋性の強調で正当化できると思い込んでいる。善人ヅラした不要な干渉を退けるコストはこちら持ちなのだ。迷惑な話である。
から書き込み。
2019年9月21日より使用開始。
もう話さない。無駄な労力は使いたくない。
ホモ・カンターンス。谷川俊太郎の詩に「鳥は歌うことを知っている/その為鳥は世界に気づかない」という節があった。人は鳥のように歌わない。その為世界に気づき、世界を作る。ソシュールは「音楽も舞踊も広い意味のコトバであり、これが動物と人間の境界を画する唯一のしるしだ」と考えた。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 21, 2019
することになったら、今度こそそれを最後にしたい。退院することもなく三途の川を渡りたい。
すべての肉体的感覚、快楽あるいは苦痛、欲望と満足。このようなものは非常に「私的なもの」なので、外部の世界にたいして正確に表現することさえできず、したがってまったく物化することができない。(『人間の条件』19)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) September 20, 2019
という状況にあるのはある意味強い。死ぬことなどたいした恐怖じゃない。
リラックスなど、悠長な話である。むしろ最も緊張が高まるときだ。
少なくとも私が触覚を持っている限り、私の言葉は行為の器官であると同時に、感受性の器官であり、言葉というこの手は、その尖端に眼をもっていることになる。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 19, 2019
(「語る」という現象において)話し手は語るに先立って考えるのではない。話す間に考えるのですら無い。語るということが考えることなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 18, 2019
目的語もない。そもそも何についての言及なのかもわからない。だからそこを問えば、意味不明なはぐらかし。おそらく、問われることで肥大した自尊心が傷つくのだろう。わからないのは、わからない方が悪いとでも言いたげだ。こういう人間とは対話不能である。ばかりか、何を言おうが自己保身のための曲解の材料にされてしまう。結論として「関わらぬが吉」である。
過去の出来事が起こったその場所に位置しますと、空間的な距離はゼロになりますから、時間的距離だけが純粋なかたちで浮かびあがってくる。それはなぜか言いようのない感銘を与える。そして、われわれは「過去はどこへ行ったのだ?」と自然に問いかけたくなるのです。『時間を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) September 17, 2019
所詮は他人事の気楽さで押しつけて、「教えてやってる私」を実現したがるのである。不要な干渉を退けるコストはこちら持ちなわけだから迷惑な話だ。
今年の年末の帰省が夫婦での最後の旅になるだろう。というのも、私の目が見えにくくなってきている。失明の予感。本当にそうなったら、どうしていいのかわからない。
魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。『差別感情の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) September 16, 2019
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきというタイプの自己相対化能力の欠けた独善者は、どこかに「悪者」を設定して、自分は騙されたとかなんとかあくまで非φ者の立場を死守するのである。動機の純粋性の強調で自己正当化できると踏んでいるから。p>
のために他人を使用しないでくれ。動機の純粋性の強調が、それを正当化すると思ったら大間違いだ。
私のいわば「三回忌」である。入院中を含めて失われた身体機能はまったく1ミリも回復していない。何とかやり過ごす方法を少々身につけたに過ぎない。やはりあの日に起こったことは限りなく「死」に近い。
生き延びてしまった。
ノートPCが調子悪くてイヤになっちゃう。
期待には影のように憎しみがつきまとう。期待する者は期待に応えなかった相手を憎み、期待された者も期待に応えられない場合、期待する相手を憎むという憎しみの網目がはじめから潜在的に張られているのですから。『ひとを<嫌う>ということ』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) September 15, 2019
病後初の帰省を計画している。夫婦での旅行はこれが最後になるだろうという気がしている。
一般に「解る、解らない」から「好き嫌い」が出てくる。そこまではよい。人間から好き嫌いの感情まで奪おうとするのは[…]人間否定であろう。しかしこの「好き嫌い」が「良い悪い」「正誤判断」になると恐ろしい。この停滞・硬直化が人間の同類殺しに至る道は、既に多くの悲惨な出来事が証明ずみだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 15, 2019
「好き嫌い」の強調が「良い悪い」「正誤判断」を正当化すると思ってるバカが嫌いである。あくまで好悪の表明であり、それが正しいなどとはいっていない。これが分からぬバカもまた嫌いである。
https://kotobank.jp/word/合理的-497849
[形動] 1 道理や論理にかなっているさま。「合理的な自然界の法則」 2 むだなく能率的であるさま。「合理的な処置」
彼らは間違ってそう思い込んでいるが、彼らには厳密な意味で良心などはない。良心とは、社会的掟と自分自身の抱く信念とのあいだがずれるときに鮮明化するが、彼(女)にはこうしたズレは金輪際生じないからである。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道bot (@gido_bot) September 15, 2019
彼(女)は、おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきと信じて疑わないから、そういうことになるのである。
■ 形容詞の性質
形容詞は、次のような性質をもつ。
① 自立語で、活用がある。
② 言い切りの形が「い」で終わる。
③ 単独で述語になることができる。
■ 形容詞の働き
形容詞は、文中で次のような働きをする。
① 述語(「どんなだ」の文節)になる。
② 修飾語(連体修飾語・連用修飾語)になる。
③ 主語になる(「のが」「のは」「のも」などがつく)。
④ 接続語になる(接続助詞がつく)。
テレビのニュースでアナウンサーが「修飾語」の意味で「形容詞」と言っていたので。
思い上がった妄想の物語。俗情と結託したおのが動機の純粋性(善意)を強調すれば、論理の破綻も正当化できると思っている。迷惑な話である。
自由であるということは、生活の必要あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場におかないという、二つのことを意味した。それは支配もしなければ支配されもしないということであった。(『人間の条件』5)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) September 13, 2019
意識が戻らずに逝ってしまっていればどんなに楽だったかと、正直、思わないではいられない。その一方で、命を救われたことには感謝している。相反する両者の感情が並存することは、べつに矛盾しないのだ。
というのは形容矛盾だけれども、不測の事態が起こりうる蓋然性は見積もれる。そういうリスクのある場所にはできるだけ近づきたくない。 少なくともわざわざ自ら近づかない。対処できないことがわかりきっているのだから、その程度の自助努力は必要だろう。
を退けるコストはいつもこちら持ちなのだ。理不尽なことである。
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきという考えだから、自己完結した内面のつぶやきを読み取る労力は相手が負担するのが当然、しかも好意的な解釈がされてしかるべきという発想になる。自己相対化能力がないので、その欺瞞の構造に決して気づかないし、指摘されても理解できない。
二種の人間があるだけだ。一つは、自分を罪人だと思っている善人、他方は、自分を善人だと思っている罪人。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) September 12, 2019
もし私が自分は存在すると考えるとすれば、それは「思考」と「存在」とに注がれた客観的思考から結果するのではなく、むしろ私自身がその結びつきであり、それを遂行しているからなのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 11, 2019
深夜作業だ。今週は続くなあ。
久しぶりにせんがわ劇場へ行ってきた。 『オトカ』初日からぼちぼち二年。大遅刻である。
いろんなことを同時並行で進めることができなくなった。
してるから合理性に欠けると指摘しているのに、人間は必ずしも合理的ではない動物であるとか、利いた風なことを抜かして自己正当化する、この手のバカにはつける薬がない。
考えられない人間とは話すだけ無駄。
かかずらってる余裕はないんだ。
対話の意思がないのだから無駄なことだ。
がそもそもできないのだから、話の筋が通っていないことを指摘したって詮無きことだ。こういうやつにはせいぜい関わらぬことである。
http://www.kanazawa-med.ac.jp/~hospital/2012/12/-9.html
従来の脳卒中リハビリは、障害のない側の手足などを訓練し、日常生活動作を改善するという考え方でしたが、近年は脳にさまざまな刺激を与えることで、麻痺している側の機能回復を図る「ニューロ・リハビリ」が脚光を浴びています。
ニューロ・リハビリなるものの効果がどれほどなのかを私は知らない。
「従来の」リハビリを半年間、一日も欠かさず受けたけれども、病気によって失われた運動機能はまったく、1ミリも回復することはなかった。
身体を探す必要はない。身体はすでに私と共にある。――私は運動の目標点に向かってそれを導く必要はない。身体は最初から目標点に触れており、まさに身体自身がそこに自己を投げかけるのである。運動における、私の決心と私の身体との関係は、魔術的な関係である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 10, 2019
なるほど確かに、かつては私もそうだった。身体はすでに私と共にあり、身体を探す必要はなかった。だが、それが今は変わってしまったのだ。
によって弁証法的にテーマを深めようという気などハナからなく、ただ「教えてやってる私」という立場を味わいたいだけなのだ。知りもしねえくせに。だから情報の中味がいい加減でも平気だし、そもそも何に対する言及なのかが相手に伝わらなくても構わぬわけだ。
せねばならぬ。何を言ったところで新たな曲解の材料を与えることにしかならぬと知ったはずである。であるなら金輪際関わらぬという方針に従うのみだ。
を「意見」とは呼ばないよ。
また病院だ。めんどくさいなあ。
削られるだけで何のタシにもならぬ、そんなのものを「対話」とは呼ばない。
何の構造化もされていない自己完結した言葉遊びをユーモアとは言わねえよ。
強調に何の意味があるか。アホらしい。聞くだけ時間の無駄である
https://morita-jikei.jp/target/pd/
広場恐怖症(広場恐怖)はパニック発作が出た時に、逃げられない状況や、恥をかきそうな状況にいることに対する恐怖のことです。頻繁に続くと、公共交通機関や人前に出ることを避けるようになり、日常生活にも支障がでます。一般的にはパニック発作を伴うことが多いですが、伴わない場合もあります。 現在のパニック症(パニック障害)を、森田正馬は神経症の一つのタイプとして「発作性神経症」と呼んでいました。その症例のなかには、1915年にただ一回の面接によって治癒に導かれた「三十歳農夫」の記録も残っています。
痛みで脚を引きずってるんじゃない。足首の背屈や膝の屈伸ができぬ状態で、支持期底面積を一定以上に保って移動するため、故意に(いわば瀬略的に)そうするのである。
を久しぶりに飲んで、入院中の記憶に引き戻された。
所詮は他人事の気楽さで無責任な干渉をしないでくれ。
所詮は他人事の気楽さで根拠薄弱な情報を手土産に「親切に教えてやってる私」を味わいたがる。お余計なお世話であり、迷惑な干渉である。そう指摘しても詮なきことだ。おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきと思っているのだから対話が成立しない。自分の身を護るためにも関わらぬが吉である。
勝手に持ってきて、他人もそれに従うのが当然と思っている、こういう人間は端的に言ってバカである。
「言わん」は本来、「言ふ」の未然形「言は」+意志を表す助動詞「む」で、「言はむ」となり、それが現代語に転じて「言わむ」→「言わん」となったものです。助動詞「む」には「推量」の用法もありますが、ここでは「意志」の用法になります。
従って意味は、ご推察の通り、「言おうとしていること」「言いたいこと」となります。
に基づき、勝手にでっち上げた妄想のストーリーに他人を回収し、通俗的な価値判断を食らわすことでマウントを撮りたがる人間がいる。最低に卑劣でくだらない。一事が万事、この性癖は改まらない。その誤りを指摘したところで曲解の材料を与えることにしかならない。こちらのなすべきことは、関わらぬことである。その程度の自助努力は必要であろう。
https://pc-kaizen.com/what-registry
レジストリ(Registry)とは和訳すると「記載」「登記」「登録」などの意味があります。 例えばあなたが壁紙を変更した時に、変更した壁紙の情報がレジストリに書き込まれ、壁紙を変更した後もその設定を維持できたり、Webブラウザの履歴が残るのもレジストリがあるお陰です。
をぼちぼちと。ボアつきのチョッキを買ったり。
政治的共同体は、どの活動力は公に示すべきか、どの活動は私生活に隠すべきか決定してきた(『人間の条件』10)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) September 8, 2019
母性棄却:前エディプス期におけるナルシス的主体[=自分と母が融合しており、主体としての自我がまだ確立していない]がまず克服せねばならない母という前=対象[=まだ主/客がはっきりと分けられていないため対象以前の対象という意味で使われる]を〈おぞましきもの〉として棄却する機制。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 8, 2019
https://kotobank.jp/word/position%20talk-687499
《〈和〉position+talk》 1 株式市場や為替市場にポジションをもつ市場関係者が、自分の利益になるよう相場を誘導するために、根拠の不確かな情報を流すこと。 2 自分の立場に有利になるような発言。
知覚の明証性は、十全な思惟、もしくは必当然的な明証性ではない。世界は私が思惟するものではなくて、生きるものである。私は世界に向かって開かれている。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 7, 2019
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきという単細胞の独りよがりな遊戯(親切ごっこ)に消費される筋合いはないのである。
の音がする。調布の花火大会なのだ。元気だった頃は、妻と多摩川の川原まで行って眺めたものだが、今はもうそんなことすらできない。
柳沢さん、歌野さんと待ち合わせ@溝の口デニーズ
足首の背屈も膝を曲げることもできないのだから、物理的な道理の帰結として、そりゃあ「ぶん回し」になるだろう。それを精神論で超えよということの何が科学か何が医学か。
電車で仙川へ。せんがわ劇場前を通って、島忠ホームズへ。ホームセンターでちょっとした買い物をして、フードコードでおやつ。服や家具を眺めて帰ってきた。帰りに商店街の珈琲館でお茶&一服。夕食には中途半端な時間だから、稲田堤に戻っていつものジョナサンでタンメン。決算月で忙しい中、つかの間の休日。楽しかった。
ツアーは2009年8月26日の大阪・なんばHatchを皮切りに、29日のZepp Sapporo、9月3日のZepp Nagoya、5日の中野サンプラザという4公演。
どうなることかと思ったぜ、と「今」を振り返る未来を夢見ていた。
回収されない表現をしたいんだ。
富める者が病院に寄付し、貧しい者がそこで医療を受けることによって医学の知識増進に寄与し、結局は富める者にも利益を与えることになる。こういう契約によって患者を教育用に使うという問題は正当化された。これもまた、経済的自由主義の思想の影響とみることができる。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) September 5, 2019
滑り止めマットはもう使っていない。マットそれ自体が滑ってしまうから。
シャワーチェアに腰掛けた状態でなく、フツーに立って湯舟をまたぐ練習。こういうのこそ、入院中にやるべきじゃなかったか。
商品だって、買い手が現れれば売れるのである。「売れた」という事実は商品の品質を担保しない。それとこれとは別の話だ。
おのが動機の純粋性を絶対善とし、せいぜい俗情との結託を後盾とした一面的価値観の強調になど付き合えない。
何がどうなっているのかわからないけど。困ったな。
https://allabout.co.jp/gm/gc/184617/
相奥さん(奥様)……手(他人)の妻、既婚者と見える女性
それなら80年以上前に「査問」で党員を殺した党の責任も問わないといけない。こっちは一度も謝罪してない。 https://t.co/d1cRGINqsK
— 池田信夫 (@ikedanob) September 4, 2019
https://kotobank.jp/word/雨模様-427194
1 雨の降りそうな空の様子。あまもよう。「雨模様の雲」 2 雨が降っているらしい様子。あまもよう。「山間部は雨模様らしい」 [補説]1が本来の意味。2は新しい意味で、近年はさらに「現に雨が降っている」意にも使う。 文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、「外は雨模様だ」を、「雨が降りそうな様子」の意味で使う人が43.3パーセント、「小雨が降ったりやんだりしている様子」の意味で使う人が47.5パーセントという結果が出ている。
大学時代の友人とメールで会話。近い将来、また会えるだろう。
アタリマエだが、どこぞの阿呆と違って、マトモに対話が成立するのが、まず嬉しい。
https://kotobank.jp/word/散文-71422
文章形式の一つ。形式的には,韻律をもたない点で韻文と対比される。主として簡明で理性ないし事実に即した内容をもち,この点で詩と対比されるが,詩的内容をもった散文もあるので,両者の区別は必ずしも明確でない。修辞よりも意味が重視され,文法的な正確さが要求される。したがって通常の会話は散文とはいえない。ギリシアでもローマでも,散文は歴史,地誌,哲学など主として非純文学的な内容をもつものに用いられた。ギリシアではヘロドトス,ツキジデス,プラトン,アリストテレス,ローマではキケロ,カエサル,リウィウスなどが代表的散文家である。イギリスやフランスでは散文はまず法律文書に用いられ,次いで年代記,旅行記,さらに聖書の翻訳や説教書などにも用いられるようになった。ルネサンス期に入ると,文学にも使われはじめ,ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』,T.モアの『ユートピア』などの作品が現れた。劇はもとは韻文で書かれるのを原則とし,散文は下層階級の人物,道化,狂人など,通常の規範からはずれた人物のせりふに限られていたが,18世紀以後,まず喜劇が,次いで悲劇が,散文のみで書かれることが多くなった。一方,散文による文学論やエッセーなどの形式も 17世紀から盛んになり,モンテーニュらがすぐれた作品を残した。しかし,散文と最も密接に結びついた文学形式は,18世紀以後に急激に発展した小説である。現代では詩の多くが韻文で書かれているのを除けば,内容が文学的であるか否かを問わず,あらゆる文章表現は散文の形をとるのが通例である。
コンビニのイートインで妻と二人でコーヒーを飲んだ。美味しい。幸せだ。
幸せのハードルがうんと下がっている。
自分の身体が邪魔で。
私の腕がテーブルの上に置かれていても、灰皿が電話機の傍にあるのと同じような意味で、腕が灰皿の傍にあるなどと言おうとは、私は夢にも思わないであろう。私の身体の輪郭は通常の空間的諸関係が超えることができない一つの境界をなしている。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 3, 2019
を取りに、1Fエントランスの郵便受けへ。杖歩行で。普通の人には何でもないことだが、これがちょっとした「冒険」である。
救急車を呼んでくれた溝ノ口の居酒屋を訪ねていって「どーもどーも、その節は」という自分の姿を思い描いていた。退院しさえすれば、すべて元通りとはいわないまでも、ここまで重度の後遺症が残るとは考えていなかった。
私が若葉台駅前にいた。夢から醒めた今思うと、似ても似つかぬ風景なのだが夢の中野理屈では間違いなく若葉台駅前なのだった。私は独りで車椅子だった。歩道橋を妻が下りてきて、私が妻の名前を呼んだ。妻はそれに気づいてこちらに来た。「ここにいたの?」と。ただそれだけの話。しかしもはや現実にちょっとありえぬ状況なのである。
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