2019年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

脚本をお探しの方へ

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »

2019年9月

2019年9月30日 (月)

ダイニング&カフェ橙

https://mgroup.jp/publics/index/6/#block26


リスクヘッジ


「リスクヘッジ」はrisk(リスク=危険)+ hedge(ヘッジ=防止策)という熟語で
「起り得る危険を予測して、その危険を回避するための予防策、防止策」
のことで、元々は金融の分野で使われていた「金融用語」です。

 

https://do-you-imi.net/risk-hedge/1064/

一命をとりとめた

ことを、「最悪の事態を免れた」などと表現することがあるけれども、必ずしも「死」が「最悪の事態」ともいえぬだろう。生き地獄というのは実在する。

三回忌

来月、25日が自分の三回忌である。この日を境にした時間の断絶はほとんど「死」に等しい。

意味不明なメールで

必要な要件の書かれたメールが埋もれてしまうのはかなわない。だから迷惑メール設定なのだ。

アクト

イタコに

呼び出された霊みたいな気分だ。

わかってくれとは言わないが

わかりもしねえくせに、利いた風なことを言いたがり、妄想に基づく勝手な物語に他人を回収しようとするな、というのである。不要な干渉を退けるコストはこちら持ちなのだから迷惑だ。

 

2019年9月29日 (日)

会話が成り立たない

というか、悪意をもって曲解しているとしか解釈しようがない不毛な言葉のやり取りによるストレスは経験的に血圧の数値に如実に現れる。


年末

の帰省が最後の「旅行」になるかもしれない。そういう予感がしている。

「私」

9月の仕事終了

tいと早いが請求書を出した。気持ちはすっかり年末に傾いている。タブレットからの投稿


2019年9月28日 (土)

『楢山節考』の姥捨て山

が実在するならそこへ行って我が身を捨ててしまいたい。

なんで駄洒落がつまらないか。

2019年9月27日 (金)

「自然に還れ」?

助動詞「だ」

「だ」の活用表について注意点が二つあります。 上の活用表をよく見ると、連体形の「な」が丸かっこで囲んであります。 これは、連体形の「な」が用いられるのは、助詞の「の・ので・のに」が続く場合だけにかぎられるという意味です。 つまり、「だ」の連体形「な」に体言(名詞)を続けることはできません。
https://www.kokugobunpou.com/助動詞/だ/

見るとは

2019年9月26日 (木)

太田

ソシュールの記号学解体作業

善人

芝居仲間との飲み会

が来月予定されている。ずいぶん久しぶりに会うメンツ。今から楽しみだ。

意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である

2019年9月25日 (水)

頓珍漢

ある人が泥棒をした/しないを問題にしている局面で、いかに泥棒が卑劣な行為であるかを強調したって頓珍漢だろう。それが的外れであるという指摘をすると、泥棒の肩を持った、泥棒擁護だと噴き上がる。二重に頓珍漢である。

根拠

根拠というのは実証実験の結果のことだけではない。アタリマエだが。いい年こいてそんなこともわからぬ阿呆がいたとは!

メドゥーサ


(Medūsa 女王の意)⸨メデューサ・メジューサ⸩ ギリシア神話中の怪物。ゴルゴン三姉妹の一人。頭髪は蛇で、その目を見たものは石に化したという。

https://kotobank.jp/word/メドゥーサ-644126

「走馬灯のように」ではないけれども、とうに忘れたはずの

日常の細部が懐かしく思い出されて、これはいよいよ人生が終了するのかなという気がしている。

関わらぬが吉

会話風の言葉のやりとりでありながら、実はちっとも「会話」などではなくて、こちらの言葉は、相手の妄想に基づく物語のための曲解の材料を与えることにしかならぬなら。そういう人間とは金輪際関わらぬことである。

「回復」の定義

気にかけてもらってありがたいことだけれども

仕事と、友人との先約とで今月はもうスケジュールが埋まっている。

2019年9月24日 (火)

病院

その後、区役所というか市民館へ移動。妻が会社の会議のため。
途中、コメダで昼食。
20190924

弘中

時間

何をか言わんや

https://oggi.jp/193778

なにを言おうか、言うことがなにもない。あきれてなにも言えない。
※ ※
「基礎知識すらないようでは、何をか言わんやだ」などと用います。「何をか」の「か」は、「言うことがない」という内容を強調するはたらきをもつ助詞です。

 

「いわん」は「いわむ」で「む」は意思を表わす助動詞。

こんなのは「国語」レベルで初歩の初歩の話だろう。それを「言わない」の意味で「言わん」とかいって、ただでさえ不明瞭な文意をますます伝わらないものにしておきながら、ユーモアを理解しろとか何とかエラソーに言ってるから、なんちゃって古語がデタラメだというのだ。バカ丸出しである。みっともない。

眠れなかった。

ムカつくことばかりが思い出されて。たとえばおのが動機の純粋性(=善意)は何にも増して尊重されるべきとでもいわんばかりの身勝手な価値判断の押しつけ。

2019年9月23日 (月)

明日は病院

それから区役所だ。早く寝て早く起きなきゃ。

価値判断


ある事柄について、主観の評価による是認あるいは否認を言明する判断。「この鳥は青い」は事実判断だが、「この鳥は美しい」は価値判断。

https://kotobank.jp/word/価値判断-463956

処方された

薬を飲むのと排便が生きる証になっている。

身勝手な言葉の定義

をユーモアと言い張り、通じないのを相手のせいにする。そうして「ユーモアを身につけたまえ」だとよ。バカじゃなかろか。

 

空間とは

危うく

足をくじいて盛大に転倒するところだった。

2019年9月22日 (日)

支配欲

他人の心の状態をこうしたいという支配欲=押しつけがましさを、おのが動機の純粋性の強調で正当化できると思い込んでいる。善人ヅラした不要な干渉を退けるコストはこちら持ちなのだ。迷惑な話である。

2019年9月21日 (土)

タブレット

から書き込み。

2019年9月21日より使用開始。


話してもしょうがない相手には

もう話さない。無駄な労力は使いたくない。

音楽も舞踊も広い意味のコトバであり、これが動物と人間の境界を画する唯一のしるしだ

2019年9月20日 (金)

もしまた入院

することになったら、今度こそそれを最後にしたい。退院することもなく三途の川を渡りたい。

非常に「私的なもの」

死んだ方がマシ

という状況にあるのはある意味強い。死ぬことなどたいした恐怖じゃない。

入浴で

リラックスなど、悠長な話である。むしろ最も緊張が高まるときだ。

言葉というこの手は、その尖端に眼をもっている

2019年9月19日 (木)

「語る」という現象において

2019年9月17日 (火)

主語もなければ

目的語もない。そもそも何についての言及なのかもわからない。だからそこを問えば、意味不明なはぐらかし。おそらく、問われることで肥大した自尊心が傷つくのだろう。わからないのは、わからない方が悪いとでも言いたげだ。こういう人間とは対話不能である。ばかりか、何を言おうが自己保身のための曲解の材料にされてしまう。結論として「関わらぬが吉」である。

時間的距離

信憑性の低い情報を

所詮は他人事の気楽さで押しつけて、「教えてやってる私」を実現したがるのである。不要な干渉を退けるコストはこちら持ちなわけだから迷惑な話だ。

最後の旅

今年の年末の帰省が夫婦での最後の旅になるだろう。というのも、私の目が見えにくくなってきている。失明の予感。本当にそうなったら、どうしていいのかわからない。

2019年9月16日 (月)

差別感情

 

おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきというタイプの自己相対化能力の欠けた独善者は、どこかに「悪者」を設定して、自分は騙されたとかなんとかあくまで非φ者の立場を死守するのである。動機の純粋性の強調で自己正当化できると踏んでいるから。p>

おのが願望の実現

のために他人を使用しないでくれ。動機の純粋性の強調が、それを正当化すると思ったら大間違いだ。

来月25日が

私のいわば「三回忌」である。入院中を含めて失われた身体機能はまったく1ミリも回復していない。何とかやり過ごす方法を少々身につけたに過ぎない。やはりあの日に起こったことは限りなく「死」に近い。

下手に

生き延びてしまった。

買ったばかりの

ノートPCが調子悪くてイヤになっちゃう。

2019年9月15日 (日)

年末に

病後初の帰省を計画している。夫婦での旅行はこれが最後になるだろうという気がしている。

「好き嫌い」の強調が「良い悪い」「正誤判断」を正当化すると思ってるバカが嫌いである。あくまで好悪の表明であり、それが正しいなどとはいっていない。これが分からぬバカもまた嫌いである。

合理的

https://kotobank.jp/word/合理的-497849

[形動] 1 道理や論理にかなっているさま。「合理的な自然界の法則」 2 むだなく能率的であるさま。「合理的な処置」

独善

彼(女)は、おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきと信じて疑わないから、そういうことになるのである。

2019年9月14日 (土)

形容詞

■ 形容詞の性質
形容詞は、次のような性質をもつ。
① 自立語で、活用がある。
② 言い切りの形が「い」で終わる。
③ 単独で述語になることができる。
■ 形容詞の働き
形容詞は、文中で次のような働きをする。
① 述語(「どんなだ」の文節)になる。
② 修飾語(連体修飾語・連用修飾語)になる。
③ 主語になる(「のが」「のは」「のも」などがつく)。
④ 接続語になる(接続助詞がつく)。

 

https://www.kokugobunpou.com/用言/形容詞-1-性質と働き/

テレビのニュースでアナウンサーが「修飾語」の意味で「形容詞」と言っていたので。

2019年9月13日 (金)

迷惑な話

思い上がった妄想の物語。俗情と結託したおのが動機の純粋性(善意)を強調すれば、論理の破綻も正当化できると思っている。迷惑な話である。

自由であるということ

あのまま

意識が戻らずに逝ってしまっていればどんなに楽だったかと、正直、思わないではいられない。その一方で、命を救われたことには感謝している。相反する両者の感情が並存することは、べつに矛盾しないのだ。

2019年9月12日 (木)

予測しうる不測の事態

というのは形容矛盾だけれども、不測の事態が起こりうる蓋然性は見積もれる。そういうリスクのある場所にはできるだけ近づきたくない。 少なくともわざわざ自ら近づかない。対処できないことがわかりきっているのだから、その程度の自助努力は必要だろう。

不要な干渉

を退けるコストはいつもこちら持ちなのだ。理不尽なことである。

欺瞞

おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきという考えだから、自己完結した内面のつぶやきを読み取る労力は相手が負担するのが当然、しかも好意的な解釈がされてしかるべきという発想になる。自己相対化能力がないので、その欺瞞の構造に決して気づかないし、指摘されても理解できない。

心身の合一

2019年9月11日 (水)

さて今日も

深夜作業だ。今週は続くなあ。

2019.0906@せんがわ劇場

久しぶりにせんがわ劇場へ行ってきた。 『オトカ』初日からぼちぼち二年。大遅刻である。

20190906_20190911194201

2017.11.9『オトカ』初日

201709

昔みたいに

いろんなことを同時並行で進めることができなくなった。

ロジックが破綻

してるから合理性に欠けると指摘しているのに、人間は必ずしも合理的ではない動物であるとか、利いた風なことを抜かして自己正当化する、この手のバカにはつける薬がない。

問題を切り分けて

考えられない人間とは話すだけ無駄。

トンチンカンでくだらぬことに

かかずらってる余裕はないんだ。

いくら言葉を尽くしたって

対話の意思がないのだから無駄なことだ。

合理的思考

がそもそもできないのだから、話の筋が通っていないことを指摘したって詮無きことだ。こういうやつにはせいぜい関わらぬことである。

ニューロ・リハビリ

http://www.kanazawa-med.ac.jp/~hospital/2012/12/-9.html

従来の脳卒中リハビリは、障害のない側の手足などを訓練し、日常生活動作を改善するという考え方でしたが、近年は脳にさまざまな刺激を与えることで、麻痺している側の機能回復を図る「ニューロ・リハビリ」が脚光を浴びています。

ニューロ・リハビリなるものの効果がどれほどなのかを私は知らない。
「従来の」リハビリを半年間、一日も欠かさず受けたけれども、病気によって失われた運動機能はまったく、1ミリも回復することはなかった。

2019年9月10日 (火)

Virtual CloneDrive


https://forest.watch.impress.co.jp/library/software/vclonedrive/

身体はすでに私と共にある

 

 

なるほど確かに、かつては私もそうだった。身体はすでに私と共にあり、身体を探す必要はなかった。だが、それが今は変わってしまったのだ。

対話

によって弁証法的にテーマを深めようという気などハナからなく、ただ「教えてやってる私」という立場を味わいたいだけなのだ。知りもしねえくせに。だから情報の中味がいい加減でも平気だし、そもそも何に対する言及なのかが相手に伝わらなくても構わぬわけだ。

学習

せねばならぬ。何を言ったところで新たな曲解の材料を与えることにしかならぬと知ったはずである。であるなら金輪際関わらぬという方針に従うのみだ。

妄想の羅列

を「意見」とは呼ばないよ。

今月は

また病院だ。めんどくさいなあ。

リソースを

削られるだけで何のタシにもならぬ、そんなのものを「対話」とは呼ばない。

ユーモア?

何の構造化もされていない自己完結した言葉遊びをユーモアとは言わねえよ。

ポジショントークの

強調に何の意味があるか。アホらしい。聞くだけ時間の無駄である

2019年9月 9日 (月)

広場恐怖症(広場恐怖)

https://morita-jikei.jp/target/pd/

広場恐怖症(広場恐怖)はパニック発作が出た時に、逃げられない状況や、恥をかきそうな状況にいることに対する恐怖のことです。頻繁に続くと、公共交通機関や人前に出ることを避けるようになり、日常生活にも支障がでます。一般的にはパニック発作を伴うことが多いですが、伴わない場合もあります。 現在のパニック症(パニック障害)を、森田正馬は神経症の一つのタイプとして「発作性神経症」と呼んでいました。その症例のなかには、1915年にただ一回の面接によって治癒に導かれた「三十歳農夫」の記録も残っています。

戦略的跛行

痛みで脚を引きずってるんじゃない。足首の背屈や膝の屈伸ができぬ状態で、支持期底面積を一定以上に保って移動するため、故意に(いわば瀬略的に)そうするのである。

ペットボトルのアイスコーヒー

を久しぶりに飲んで、入院中の記憶に引き戻された。

「親切な私」を愉しむために

所詮は他人事の気楽さで無責任な干渉をしないでくれ。

わかりもしねえことを


所詮は他人事の気楽さで根拠薄弱な情報を手土産に「親切に教えてやってる私」を味わいたがる。お余計なお世話であり、迷惑な干渉である。そう指摘しても詮なきことだ。おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきと思っているのだから対話が成立しない。自分の身を護るためにも関わらぬが吉である。

謎ルールを

勝手に持ってきて、他人もそれに従うのが当然と思っている、こういう人間は端的に言ってバカである。

言わん

「言わん」は本来、「言ふ」の未然形「言は」+意志を表す助動詞「む」で、「言はむ」となり、それが現代語に転じて「言わむ」→「言わん」となったものです。

助動詞「む」には「推量」の用法もありますが、ここでは「意志」の用法になります。

従って意味は、ご推察の通り、「言おうとしていること」「言いたいこと」となります。


https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3049100.html

ありもしない「事実」

に基づき、勝手にでっち上げた妄想のストーリーに他人を回収し、通俗的な価値判断を食らわすことでマウントを撮りたがる人間がいる。最低に卑劣でくだらない。一事が万事、この性癖は改まらない。その誤りを指摘したところで曲解の材料を与えることにしかならない。こちらのなすべきことは、関わらぬことである。その程度の自助努力は必要であろう。

2019年9月 8日 (日)

レジストリとは?

https://pc-kaizen.com/what-registry

レジストリ(Registry)とは和訳すると「記載」「登記」「登録」などの意味があります。 例えばあなたが壁紙を変更した時に、変更した壁紙の情報がレジストリに書き込まれ、壁紙を変更した後もその設定を維持できたり、Webブラウザの履歴が残るのもレジストリがあるお陰です。

冬支度

をぼちぼちと。ボアつきのチョッキを買ったり。

母性棄却

ポジショントーク

https://kotobank.jp/word/position%20talk-687499

《〈和〉position+talk》 1 株式市場や為替市場にポジションをもつ市場関係者が、自分の利益になるよう相場を誘導するために、根拠の不確かな情報を流すこと。 2 自分の立場に有利になるような発言。

2019年9月 7日 (土)

世界は私が思惟するものではなくて、生きるものである

親切ごっこ

おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきという単細胞の独りよがりな遊戯(親切ごっこ)に消費される筋合いはないのである。

花火20190907

の音がする。調布の花火大会なのだ。元気だった頃は、妻と多摩川の川原まで行って眺めたものだが、今はもうそんなことすらできない。

20190706

20190706_20190907182001

201810.27

柳沢さん、歌野さんと待ち合わせ@溝の口デニーズ


後にカプリチョーザへ移動。

 

科学?

足首の背屈も膝を曲げることもできないのだから、物理的な道理の帰結として、そりゃあ「ぶん回し」になるだろう。それを精神論で超えよということの何が科学か何が医学か。

仙川へ

電車で仙川へ。せんがわ劇場前を通って、島忠ホームズへ。ホームセンターでちょっとした買い物をして、フードコードでおやつ。服や家具を眺めて帰ってきた。帰りに商店街の珈琲館でお茶&一服。夕食には中途半端な時間だから、稲田堤に戻っていつものジョナサンでタンメン。決算月で忙しい中、つかの間の休日。楽しかった。

2017.11.9オトカ初日

Photo_20190907001301

2019年9月 6日 (金)

LOUDNESSクラシックライブ第2弾「THUNDER IN THE EAST」

ツアーは2009年8月26日の大阪・なんばHatchを皮切りに、29日のZepp Sapporo、9月3日のZepp Nagoya、5日の中野サンプラザという4公演。

仙川へ。

公演や稽古で何度訪れたかわからない町であるが病後はこれが初である。懐かしい。

20190906

まったく一時は

どうなることかと思ったぜ、と「今」を振り返る未来を夢見ていた。

有用性に

回収されない表現をしたいんだ。

2019年9月 5日 (木)

患者を教育用に使うという問題は正当化された

入浴

滑り止めマットはもう使っていない。マットそれ自体が滑ってしまうから。
シャワーチェアに腰掛けた状態でなく、フツーに立って湯舟をまたぐ練習。こういうのこそ、入院中にやるべきじゃなかったか。

どんなに粗悪な

商品だって、買い手が現れれば売れるのである。「売れた」という事実は商品の品質を担保しない。それとこれとは別の話だ。

一面的価値観の強調

おのが動機の純粋性を絶対善とし、せいぜい俗情との結託を後盾とした一面的価値観の強調になど付き合えない。

目が見えにくい

何がどうなっているのかわからないけど。困ったな。

奥さん

https://allabout.co.jp/gm/gc/184617/

相奥さん(奥様)……手(他人)の妻、既婚者と見える女性

2019年9月 4日 (水)

責任?

雨模様

https://kotobank.jp/word/雨模様-427194

1 雨の降りそうな空の様子。あまもよう。「雨模様の雲」 2 雨が降っているらしい様子。あまもよう。「山間部は雨模様らしい」 [補説]1が本来の意味。2は新しい意味で、近年はさらに「現に雨が降っている」意にも使う。 文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、「外は雨模様だ」を、「雨が降りそうな様子」の意味で使う人が43.3パーセント、「小雨が降ったりやんだりしている様子」の意味で使う人が47.5パーセントという結果が出ている。

久しぶりに

大学時代の友人とメールで会話。近い将来、また会えるだろう。
アタリマエだが、どこぞの阿呆と違って、マトモに対話が成立するのが、まず嬉しい。

散文

https://kotobank.jp/word/散文-71422

文章形式の一つ。形式的には,韻律をもたない点で韻文と対比される。主として簡明で理性ないし事実に即した内容をもち,この点で詩と対比されるが,詩的内容をもった散文もあるので,両者の区別は必ずしも明確でない。修辞よりも意味が重視され,文法的な正確さが要求される。したがって通常の会話は散文とはいえない。ギリシアでもローマでも,散文は歴史,地誌,哲学など主として非純文学的な内容をもつものに用いられた。ギリシアではヘロドトス,ツキジデス,プラトン,アリストテレス,ローマではキケロ,カエサル,リウィウスなどが代表的散文家である。イギリスやフランスでは散文はまず法律文書に用いられ,次いで年代記,旅行記,さらに聖書の翻訳や説教書などにも用いられるようになった。ルネサンス期に入ると,文学にも使われはじめ,ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』,T.モアの『ユートピア』などの作品が現れた。劇はもとは韻文で書かれるのを原則とし,散文は下層階級の人物,道化,狂人など,通常の規範からはずれた人物のせりふに限られていたが,18世紀以後,まず喜劇が,次いで悲劇が,散文のみで書かれることが多くなった。一方,散文による文学論やエッセーなどの形式も 17世紀から盛んになり,モンテーニュらがすぐれた作品を残した。しかし,散文と最も密接に結びついた文学形式は,18世紀以後に急激に発展した小説である。現代では詩の多くが韻文で書かれているのを除けば,内容が文学的であるか否かを問わず,あらゆる文章表現は散文の形をとるのが通例である。

幸せのハードル

コンビニのイートインで妻と二人でコーヒーを飲んだ。美味しい。幸せだ。

幸せのハードルがうんと下がっている。

うまく眠れない

自分の身体が邪魔で。

2019年9月 3日 (火)

私の身体の輪郭

2019年9月 2日 (月)

郵便物

を取りに、1Fエントランスの郵便受けへ。杖歩行で。普通の人には何でもないことだが、これがちょっとした「冒険」である。

ノートから

クロームで書き込み実験。

Kubotasaki

2019年9月 1日 (日)

「夢」というのとは違うけど

救急車を呼んでくれた溝ノ口の居酒屋を訪ねていって「どーもどーも、その節は」という自分の姿を思い描いていた。退院しさえすれば、すべて元通りとはいわないまでも、ここまで重度の後遺症が残るとは考えていなかった。

夢の中で

私が若葉台駅前にいた。夢から醒めた今思うと、似ても似つかぬ風景なのだが夢の中野理屈では間違いなく若葉台駅前なのだった。私は独りで車椅子だった。歩道橋を妻が下りてきて、私が妻の名前を呼んだ。妻はそれに気づいてこちらに来た。「ここにいたの?」と。ただそれだけの話。しかしもはや現実にちょっとありえぬ状況なのである。

« 2019年8月 | トップページ | 2019年10月 »