わざわざ
波風立てる必要も価値もなかろう。
関わらなければいいのである。
« 2019年7月 | トップページ | 2019年9月 »
波風立てる必要も価値もなかろう。
関わらなければいいのである。
ノートPCで書き込み。新しいマウスもきた。新しい原稿が書けるといいな。
ほっときゃそのうち直るだろうと軽く思ってた身体機能がことごとく不可逆的に失われている。この絶望。
調布や若葉台に行きまくる。車椅子を手に提げて歩いていた。
意識が戻らずに死んでしまっていたら、どんなに楽だったろう。
の平日。今月の仕事納めである。
メーカー:MAXWIN
型番:AV-HD03
我々は、言葉の織物に混ぜ合わされている沈黙の糸に敏感でなければならないのだ。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 28, 2019
ノートPCを運ぶだけでも一苦労である。せめて両手が使えればなあ。
視覚は思考の一様態とか自己への現前ではない。それは、私が私自身から不在となり、存在の裂開――私が私自身に閉じこもるのは、その極限においてでしかないのだ――に内側から立ち向かうために贈られた手段なのである。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 28, 2019
を満喫したいのだろう。だが、そんな下卑た遊戯に消費される筋合いはないのだ。
とは到底思えぬ集まりに金と時間と体力を使うつもりはないんだ。
とは到底思えぬ集まりに金と時間と体力を使うつもりはないんだ。
初投稿。うまくいくかな?
簡潔かつ的確で、迅速であるショップは信用度が増す。
要するに対話が成立するということ。翻って要領を得ぬことをぐだぐだ言ってくるようなトコはダメだ。関わらぬ方がいい。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/半側空間無視
半側空間無視とは、大脳半球病巣と反対側の刺激に対する認知的処理が障害された病態であり、主に右半球の脳血管障害後に起こる。視野障害と異なり、頭部や視線の動きを自由にした状態で起こるために幅広い生活場面に困難を生じる。基盤となる障害メカニズムは空間性注意の右方偏倚であり、空間や物体の左側に注意が向かないために、見落としているという病識も生じ難い。
文化のもたらす諸悪を否定すべく「自然に還れ」と叫ぶのは、同じ土俵内の不毛なスローガンとなる。その土俵とは“文化/自然という二項対立”を疑わない思考形式という文化主義にほかならないのだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 26, 2019
立ったり、杖歩行したりで役に立つけど、この左腕は、痛みをもたらすばかりで何の役にも立ちはしない。いっそ切り捨ててしまいたい。
ピタパタは6月決算だったから、毎年、5月の連休は数字の集計に追われ、6月末日付のBSとPLを作成していた。けれど、それももう必要なくなった。
明日、廃棄のため回収される。
入院中、途中離脱した芝居の動画を観たり、そういう意味では思い出深いマシンだけれども、しょうがない。
思考怠慢者が、俗情と結託した一面的価値観を強調することで、おのがキヨキココロこそは何にも増して尊重されるべきという傲慢さを育て、他人の意思を無視して平気なモンスターになるのであろう。
ラカンのメリットは、フロイトに残っていた実体論的思考、つまり欲動の〈表象代理〉である無意識の実在性を措定したり、隠された真の意図を直接観察可能な見せかけの外観に対置しかねない発想を、無意識自体を言葉と見做すことによって乗り越えた点に見出される。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 25, 2019
一人で風呂に入れる、ということが、とても大きい。
設定をいじったので
身体失認による不自然な日常動作を舞踏として扱う。
夜もうまく眠れない。疲れてはいるのだけど、横になれば楽かというとそうでもなくて、自分の身体が邪魔になるのだ。
まだまだ残暑厳しい日が続いているが、すでに気持ちは年末に傾き、ぼちぼち冬支度をはじめている。思えば公演準備など、常に半年、一年先を睨んで動いていたのだ。
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきとばかりの傲慢さに付き合わされる筋合いはないのである。
すっぱり切れた「過去」であるなら、辛かったできごとも懐かしく振り返ることができるのだろうが、後遺症によって「今」に繋がり、継続しているから、そうもいかない。
言葉は正真正銘の身振りである。身振りがその意味を含んでいるように、言葉もまたその意味を含んでいる。そしてこのことがまさに意思伝達を可能ならしめるものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 23, 2019
思えば、もともと外での執筆用にと買ったノートPCであったが、実際にはそういう用途はなくて、せいぜい劇場での票券管理と、入院中に『オトカ』の動画を視聴したのが最大の働きで、そういう意味では思い出深いマシンだけれども、最近はすっかりYouTube再生機に成り下がっていた。それすらもできなくなったので、容赦なく廃棄処分である。
楽かといえばそれがそうでもない。自分の身体が邪魔で眠れないのだ。
「~してやってる私」の実現のために消費されるのはまっぴらゴメンである。そうして、おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきという傲慢さだ。
人間存在を規定する最も重要な〈自/他〉の関係は、予め確固たるアイデンティティをもつ自我と他者が置かれる関係ではなく、いずれもがその相互性・依存性によって生ずるのではなかったか。東洋哲学でいう依他起性や縁起という考えがこれにあたる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 23, 2019
久しぶりに湯舟に浸かった。風呂は入るより出る方が難しい(気持ちよくて出たくないという意味ではなく、転倒リスク的観点で)。
を購入。今まで使っていたのが不調なので。もともとは外で執筆できるように買った物だが、そういう用途はほとんどなく、せいぜい劇場でのチケット管理、入院中に芝居之記録動画を見たのが最大の働きか。そういう意味では思い出深いモノではある。が、廃棄処分となるだろう。
我々の眼差しのもとでの、または我々の手元での感性的与件の展開は、言ってみれば自ら自己を教示する言語のようなものであって、ここでは意味は標識の構造それ自体によって分泌される。そういうわけで、人は文字通り我々の感官が物に問いかけ、物が感官に応える、ということができる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 23, 2019
を書いてきた。いくつかの戯曲賞も受け、それなりの評価も得てきた自負はある。が、基本的な対話のできない人間を読者や観客に想定していない。そういう人間が存在することは確かだが、彼らにも楽しめるように書くのは不可能である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/軍事情報包括保護協定
軍事情報に関する包括的保全協定(ぐんじじょうほうにかんするほうかつてきほぜんきょうてい、英語: General Security of Military Information Agreement, GSOMIA、ジーソミア)とは、同盟など親しい関係にある2国あるいは複数国間で秘密軍事情報を提供し合う際、第三国への漏洩を防ぐために結ぶ協定。2019年8月現在、日本はアメリカ合衆国やNATOなど7カ国と、アメリカ合衆国は60カ国以上と、韓国は33カ国とこの協定を締結している。
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきと思っているのだろう(だから他人の都合などお構いなしなのだ)が、それを独善というのである。
で作成したテキストをQRコードでスマホに読み込み、張り付ける。これはそのようにして書かれている。結局それが手っ取り早い。
を購入。ブログとLINEとツイッター、それから原稿書きができる環境を整えたい。
と一緒に、それを吐き出すこの身体自体も吐き出され、換気扇に吸い込まれて、どこかへ消えてしまえばいいのに。
であることは間違いない。けれど、ありふれていることが、絶望の深さを埋めはしないのだ。
自分一人で簡単にできたことが、ことごとく人の手を借りねばならぬ。全く鬱陶しいことである。
有線で。なんとか書き込みできたかな?
仕事の生産性は半減どころじゃない。1/3程度か。おまけに児童劇やイベント関係の仕事もできなくなってしまったから家計に大打撃である。
迷惑メールに設定し、そのまま定期的にゴミ箱行きだと。
⑨一体なぜ、甚だ茫漠として明確でない自己の概念――というより妄想を絶対化するのか。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) August 20, 2019
「アメリカはアジアの心を知らなかった」と言うなら、そう言う人は「アジアの心」とやらを本当に知っているのか。
そしてそれは、その心を探し求めて、全アジアを経めぐった上で形成された概念なのか?
こんな仕事は「瞬殺」なのだがなあ。言っても詮なきことではあるが。
勝手に勝利宣言。つける薬がない。
(=故意の不理解)が不気味である。これを遠ざける自助努力は必要だろう。すなわち関わらぬということだ。
『風待ち』の執筆中、取材で武蔵小杉や田町に何度も行ったのだった。
を覚えている。病院の理学療法室でだった。歩行練習の場所が空くのを待つ間、聞くともなく聞いてたラジオの人生相談。内容は失念したが、なんだか身につまされて、泣けてきたのだった。いい年して、痛みやリハビリのつらさで泣いてると思われたらイヤだなと思ったものだった。今は、自律神経がバグっているのか、泣くことすらできない。
が不気味である。これを遠ざける自助努力は必要だろう。
我々が物を理解するのは、或る新しい行動を理解するのと同じであり、言いかえれば、包摂という知的操作によってではなく、観察可能な標識が我々の前に素描する存在様態を自分のものとして引き受けることによってなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 19, 2019
はまだ続きそうだけれど、郊外の大型古着屋で冬物の服を調達計画。
腹が立つ不毛な時間。故意の無理解という悪意による。
あるような装いでメールなんか送ってよこすな。
用件が不明であるというのに簡潔に明かすことをしないなら、それは
「ない」のと一緒である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/摘便
摘便(てきべん)とは、肛門から指を入れ、便を摘出する医療行為である。直腸内に便がたまり、自然排便できないときに行う。
実施時は、ゴム手袋等を着用し、グリセリンなどの潤滑剤を使用して、肛門、直腸を傷つけないように注意する。
医療機関においては看護師が患者に対して行うが、自分で行う場合もある。脊髄損傷などで下半身の自由を失うと、腹筋や肛門括約筋をコントロールできなくなるため自ら摘便する技術が必要となる。こうした場合、体温で溶けると発泡してガスに変わる座薬(商品名:レシカルボン等)を補助的に使用することもある。直腸の出来るだけ奥に座薬を挿入し、10分から20分程待ち、完全にガス化して直腸が押し広げられてから摘便を行う。
分娩の際に大便が腸に溜まってそれを阻害する場合、摘便を行うことがある。
大便の場合は摘便するが、尿の場合はカテーテルを使用して強制的に排尿する。これは導尿という。
言及なのか、それすら明らかにされぬ意味不明なメールの読解に時間を費やすほどヒマではない。
人間存在を規定する最も重要な〈自/他〉の関係は、予め確固たるアイデンティティをもつ自我と他者が置かれる関係ではなく、いずれもがその相互性・依存性によって生ずるのではなかったか。東洋哲学でいう依他起性や縁起という考えがこれにあたる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 17, 2019
身体は「世界における(への)存在」(l'être au monde)の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境に加わり、若干の企投と一体となり、絶えずこれに自己を拘束するということである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 17, 2019
左腕を捕まえようとして、空振りしてしまった。
傍目には寝ぼけのように見えるのだろうが、そうじゃなく、身体失認である。
で、妻とコーヒーを飲んだ。
美味しかった。
「どこで」よりも「誰と」が大事だと痛感する。
http://kotowaza-allguide.com/a/akiramewakokoronoyoujyou.html
諦めは心の養生とは、失敗や不運だったことをくよくよと考えるよりは、きっぱりと諦めたほうが精神の健康にはよいということ。
脹ら脛がつりそうになってしまった。
会話風の無意味な言葉のやりとりをするのも苦痛である。
2世紀から3世紀にかけて活躍した大乗仏教学者のナーガールジュナの『中論』に基づいて般若空観を宣揚した〈中観派〉の考え方は、ソシュールやフロイト=ラカンの思想を先取りしているとさえ思われるほどである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 16, 2019
も、片手で行わねばならぬから、負担が大きく、右手が腱鞘炎ぎみである。
成立しないのだから、話すことで深まる何かなど期待すべくもない。そんな人間と時間を共有したって無駄なばかりか、むしろ曲解の材料を与えるだけで危険でしかない。イイコトなどひとつもない。
昔から思ってるんだが、「消費税」という名前はおかしい。消費に課税するのではなく業者の売上に課税するんだから、中曽根内閣のときの「売上税」という名前が正しい。世界的にもVATとかsales taxと呼ぶのが普通だ。これなら今ほどきらわれなかったかもしれない。
— 池田信夫 (@ikedanob) August 8, 2019
という結論が出たのだ。あとは自らその結論に従い、決して関わらぬことである。
https://kotobank.jp/word/ゼロサム-549147
一方が利益を得たならば、もう一方は同じだけの損をし、全体としてはプラスマイナスゼロになることをいいます。
ただそれだけでも、足の位置を他動的に整えてやらねば、転倒、捻挫のリスクがあるのだ。
立て込んでいて8月中は身動き取れない。
どのような場合であれ、"過去"はより安定した、揺るぎないものなのだ。"現在"は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていくのだ。そして、みずからの物質的な重量をただその回想の中に見いだすのだ。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) August 16, 2019
体感する忙しさは増している。
他人の生活や内面をこうだと決めつける、挙げ句に勝手に病名をつけたりする。そのことを「失礼」だと言っているのである。仮にこちらもそのようなことをしているのなら〈お互い様〉であろうが、〈言葉遣い〉をこちらが問題にして「失礼」だといっているという設定を勝手にして、こちらの言葉遣いも失礼だから〈お互い様〉だという悪しき相対化。まるで論点を理解しない。もはや、失礼とかバカとかを通り越して関わっちゃヤバいレベルである。
文意不明瞭、なのに、どうやら自分じゃ何かウマいこといってるつもりらしい自己完結したレトリックを混ぜるから、ますます意味不明である。
これ、大事なことだ。
伝えられぬ無能の尻拭いをしてやる筋合いはないのだ。
[高次財の所有をつうじて支配される生産物の品質と数量についての]…予想の確実性の程度が大であるか小であるかは、この財の生産と因果連関をなす因果的過程の諸要素の認識がどれほど完全であるかに、またこれらの要素にたいする人間の支配がどれほど完全であるかに依存している(C・メンガー)
— 経済思想bot (@historyofecon) August 15, 2019
必要な情報が欠落していて意味のつかめぬ文章をこねくり回して独りよがりのレトリックを用い、さらに文意を不明にすることを「推敲」とはいわねーから。
という表現を目にした。なるほど言い得て妙だと感心した。
ということができず、単純に善悪の二元論だから、おのが価値判断をバカのひとつ覚えみたく強調するのだ。
あるいは曲解に基づいた発言を相手がしていたら即座に「それは違う」と指摘するのがフツーだと思っていたが、それが「病気」だという人間がいることに呆れた次第。関わらぬが吉である。
〈中観派〉の〈縁起〉説によれば、全ての事象は関係の産物である。これは「自立的・恒常不変・単一という三つの性質を持った即時的存在である〈自性〉の否定」という点で、そのままソシュールのいう〈実体なき関係の世界〉と同じである。そしてその原因を存在喚起力としての言葉に見るところも同じだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 15, 2019
なくらいでちょうどいい。そういう意味不明の悪意がこの世には確実に存在するのだから。
転倒リスクを高める環境に自ら近づく必要がないだろう。
虎穴に入らずんば虎児を得ずというが、そもそも得るべき虎児もないのに虎穴に入る理由がない。
理解できない者が不条理を理解できるわけがない。
おのが動機の純粋性は何にも増して尊重されるべきだという傲慢さ。
にもいいものがたくさんあって、そういうのも再度聴いていきたい。幸い、多く流通してるから、中古でも手に入りやすいし。
ある個人の所有する特殊な情報の多くは、かれ自身がその決定においてつかえるかぎりでしか利用できない。自分の知っているすべてのことを他人に伝達できる人はいない。なぜなら、利用できる情報の多くは、かれ自身、行動のための計画を立てる過程においてしか引きだせないからである。(ハイエク)
— ハイエクbot (@hayek306) August 14, 2019
〈テロとの戦い〉における三人の主役(イスラエル、アラブ諸国、9・11以後のアメリカ)はみな、おのれの拡張主義的な政治を正当化するために、自分を犠牲者とみなし、犠牲者としての立場を利用する。(『暴力』p156)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) August 14, 2019
ほんとうにないのかそれとも、あえて理解しないのか。前者ならバカすぎるし、後者なら悪質だ。いずれにせよ、関わらぬが吉である。
身体を探す必要はない。身体はすでに私と共にある。――私は運動の目標点に向かってそれを導く必要はない。身体は最初から目標点に触れており、まさに身体自身がそこに自己を投げかけるのである。運動における、私の決心と私の身体との関係は、魔術的な関係である。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 14, 2019
変わる前に道を渡りきれない現状では
一人で外出するのは難しい。
私個人にかんするかぎり、他者が神と呼ぶものの存在を否定も肯定もする資格はないと感じていると述べなくてはならない。というのも、このことばがなにを意味するとされているのか、単純に分からないと認めざるをえないからである。(致命的な思いあがり)
— ハイエクbot (@hayek306) August 14, 2019
https://ja.wikipedia.org/wiki/舞踏会の手帖
未亡人になった若いクリスティーヌが、16歳の時の初めての舞踏会の手帖を頼りに、昔の踊り相手を訪ねて回る。 ジョルジュの家では、母親が迎えた。クリスティーヌに恋していた彼は、彼女の結婚を知って自殺し、母親は狂っていた。 文学少年だったピエールはキャバレーのあるじ兼泥棒に崩れていた。クリスティーヌがむかし通りに唱える詩に付き合ううち、警察の手が回って引かれて行く。 作曲家志望だったアランは神父になっていた。恋人に捧げる曲をピアノで弾いたが、恋人は耳もかさず、ほかの男と笑い興じていたと、当の相手のクリスティーヌに、三人称で語る。 詩人気取りだったエリックはアルプスのガイドである。久し振りのクリスティーヌと意気投合して、無人の山小屋に同宿しようと決めた時、遭難事件発生をふれる鐘が響き、山男は直ちに雪の斜面を滑りくだる。 政治家を目指したフランソワは、田舎町の大立者の町長で、その再婚の挙式に町じゅうが湧いていた。ちょうどいい、式に出てくれとクリスティーヌを迎え、自作自演のワンマン挙式を陽気に進めるが、その裏で彼はならず者の養子に手を焼いていた。 ティエリーは医者にはなっていた。しかし、堕胎で稼ぐ陰の医者で、精神障害の発作に悩んでもいる。クリスティーヌと貧しい食卓を囲むうちにそれが出て、彼女は妻女に、二度とくるなと追い出される。 生まれ故郷の町では、ファビヤンが美容師を愛想よくやっている。むかしの会場で舞踏会があるからと誘う。16歳という少女は、初めての舞踏会に興奮しているが、今の目には安手で、クリスティーヌに残る20年前の、夢のような思い出との落差にがっかりするのであった。 旅から帰ると、むかし恋したジェラールの住所が知れた、すぐ近くだという。行ってみる。彼は直前に世を去っていた。遺した豪邸が今日人手に渡ると、残された子供が言う。クリスティーヌは彼を引き取り、母親の愛を注ぐ気になった。初めての舞踏会に送り出す時にいう。「少し緊張するでしょう。初めての煙草の時くらいに。」
〈現実界〉は対立する二極の直接的一致の点と定義される。どちらの極も直接的に反対の極に移る。どちらの極もすでにそれ自体が自分の反対物なのである。(『崇高』p320)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) August 14, 2019
人間とは、自然のものであれ、人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。(『人間の条件』20)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) August 14, 2019
韓国のやっているのは、将棋で詰んだとき、王様が盤外に逃げるようなもの。日本が「それはルール違反だ」といっても「私の王様はルールの適用対象外だ」というんだからどうしようもない。今後はゲームをしないという制裁しかない。
— 池田信夫 (@ikedanob) August 14, 2019
別の言い方をするならば、関わらぬが吉ということだ。最悪の関係を避ける(=平和)のためのコストと割り切るべきなのだろう。得るものがあれば失うものもあるのだ。
「アドバイス」の名の下にされる所詮は他人事の気楽で無責任な干渉(要らぬお節介)。
「教えてやっている私」という自己愛を満たすための遊戯に過ぎぬわけだが、そうした分析を決して許さぬのは、おのが動機の純粋性は無条件で尊重されるべきと思っているからである。
要するにバカで傲慢なのだ。
根本悪とは卑劣極まる・血の凍るような・人間業とは思えない極限的悪行のことではない。それは、信用を得るために人を援助するとか、けちと思われたくないから寄付をするとか、他人を傷つけたくないために真実を伝えないという些細な行為のうちに巣くっている。『悪について』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 14, 2019
表面的な平穏を装って、了解していないことを了解したというのもそれに当たるだろう。
所詮は他人事の気楽さでされる無責任な干渉をアドバイスとはいわないのだよ
地理学者や天文学者の空は対自的に存在したりはしない。けれども、知覚される或いは感覚される空、そこを駆け巡りそこに住まう私の眼差しによって支えられる空、私の身体が採り入れる或る種の生命的振動の場としての空についてなら、我々はそれが対自的に存在するということができる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 13, 2019
我々の知覚は対象に到達する。そして対象は、ひとたび構成されると、我々がそれについて持ったところの、或いは持つことができるであろうところの、一切の経験の根拠として現れる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 13, 2019
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51801312.html
丸山眞男は歴史意識の「古層」と並んで、政治意識と倫理意識の「古層」をさぐる三部作を書く予定だった。前者は「政事の構造」(『丸山眞男集12』)として論文になったが、倫理意識はまとまった論文にはならなかった。しかし講義や座談で、彼はその内容を語っている。歴史意識のキーワードが「なりゆき」だとすれば、倫理意識のそれはキヨキココロである。これは善悪ではなく、動機の純粋性を基準とする倫理だ。これは「なりゆき」を重視する歴史意識と関連している。西洋的な(キリスト教の)倫理意識では、時間は最後の審判という目的に向かって流れるが、日本ではそういう未来の目的がないため、現在のキヨキココロかキタナキココロかで価値が決まる。
このような倫理は世界的にみても異例である。儒教では普遍的な規範があり、行動はその結果によって判断されるので、「直情径行は夷狄の道なり」とされ、目的合理的に行動することが求められる。これに対して日本では共同体を超えた規範がないため、特定の集団への忠誠心が倫理基準になり、結果は問われない。「生きて虜囚の辱を受けず」といった戦陣訓が強い訴求力をもったのも、こうした心情倫理の伝統があったからだろう。
人間は天使でも獣でもない。そして不幸なことには、天使の真似をしようとすると獣になってしまう。"パスカル「パンセ」"
— パスカルbot (@pascal___bot) August 13, 2019
③即ち「何を」斬ったかが書いてない。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) August 13, 2019
最初にただ一ヵ所「敵」という言葉が出てくる。
しかし「敵」という言葉は「敵国」「敵国人」「敵性人種」「好敵」「政敵」等、非常に意味の広い言葉で、必ずしも「小銃・手榴弾・銃剣等で武装した完全軍装の正規軍兵士=戦闘員」を意味しない。
https://kotobank.jp/word/テクスト論-186000
文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。これは悪いことではなく積極的な意味をもつのであり、文章を読む際に、常にそれを支配しているであろう「作者の意図」を想定し、それを言い当てようとするほうが不自然であるとする。およそこうした考え方を、フランスの批評家ロラン・バルトは「作者の死」と呼んだ(『作者の死』〈1968年〉)。ポストモダンの哲学者デリダもほぼ同時期に、自分自身のなかに立ち現れる純粋な「いいたいこと」がまずあって、それが文章として表現される、という考え方を否定している。「いいたいこと」は純粋にそれだけとしてあるのではなく、言葉と不可分に結びついて成り立つと考えるからである。こうしたテクスト論は、フランスのポストモダン思想全体の流れから見ると、文章というものに絶対の真理(著者が真にいいたかったこと)を求める姿勢への批判であり、「形而上学批判」の1つと見ることができる。
30年前に隆盛を極めたこうした「読み」すら踏まえずに「内面」だとかどうだとか、恥ずかしげもなくドヤ顔でされる旧態依然とした通俗的文学観の披露になど、馬鹿らしくてとてもじゃないが付き合えない。
入院中はもとより
その前から、一人でいるときはいつだって、妻と「一緒」だった。
良くも悪くも我々は癒合している。
②本多記者の「殺人ゲーム」では、ベンダサン氏が指摘したように武器が欠落しており、武器を記入するとこの文章が成り立たなくなる訳だが、浅海特派員の「百人斬り競争」でも、ある言葉を故意に欠落させてあるのである。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) August 13, 2019
それは「目的語」である。
https://t.co/pjmnsxidSk
— 今井一隆 (@imai_kazutaka) August 13, 2019
この「詐術」を個人間のメールのやりとりでくらった。
何に対する言及なのかと訊いても決して明らかにせず、主語のない意味不明な文章を送りつけてくる。
関わらぬが吉と結論づけた所以である。
①虚報には常に一つの詐術がある。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) August 13, 2019
それは何かを記述せず、故意に省いているのである。
そしてそれは常にそれを記述すれば「虚報であること」がばれてしまう「何か」なのである。<『私の中の日本軍』
やはり仙川が思い出深い。
妻と一緒に行ったことはあまりないけど、いつだって気持ちの中では一緒だった。
古来よりの人間の様々な定義、哲学的人間学の立場から加えられる人間の定義のいずれも、〈信号〉(シグナル)ではなく〈象徴〉(シンボル)を操る動物(アニマル・シンボリクム)、即ちホモ・ロクエンスが前提となる。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 13, 2019
何もない。話したところで新たな曲解の材料を与えることにしかならないのだから。関わってはいけない。そう判断した。
基づいて話を進めたってしょうがないだろう。だから、何についての言及なのかと訊いてるんだ。それすら理解できぬのだから、バカを通り越してもはや言葉が通じないと判断せざるを得ない。
言及なのかわからない、といってるのだから、それを明らかにすればいいだけの話だろう。そんなことすら理解できないバカが、ひとに推敲しろとか片腹痛い。
一切の知覚は一つの交わり(communication)もしくはひとつの合体(communion)であって、それは我々による或る未知の思考の引受けないし完成であり、また逆に言えば我々の知覚能力の外部的実現であり、我々の身体と物とがいわば対になることなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 12, 2019
が、自分にあとどれだけ残されているのかわからないが、そう多くはないだろう。その時間をできるだけ妻と共有したい。
昔は一人でどこへでも行けたし、何だってできたけど、懐かしく思い出される景色にはいつも妻がいるから。
http://www.airliftmagazine.com/friendship-festival-2018
2019年は9月14日、15日だそうだ。
元気だった頃は、屋外ライブ目当てで何度か行った。今はもうとても無理だけど。
きいたふうなことを。自己愛充足のために他人を消費するんじゃねえよ。
プルースト(Proust_bot)は、彼の祖母の死をはっきり確認しつつも、彼の生活の地平に彼女が存続する限りまだ彼女を失わずにいることができたが、幻像肢についてもこれと同じ事情なのである。幻像肢は腕の表象ではなく、腕そのものの両面価値的な現前なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 11, 2019
下衆の勘繰りの無根拠な正当化なら、そういう人間に用はない。消え失せろ。
に入ってさっぱり。
けど、洗体、洗髪から着替えまで、右手一本だから難儀である。
フーコーにとってのニーチェ・バタイユ・アルトー
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) August 11, 2019
ニーチェ→真理への意志そのものを問題化した人(『〈知への意志〉講義』)
バタイユ→禁止と侵犯との戯れを描き出した人(『侵犯への序言』)
アルトー→(ニーチェとともに)その狂気が特異なやり方でその作品に帰属している人(『狂気の歴史』)
を眺め直してみたら、2017.8.31が「オトカ」のプレ稽古だったのだな。
を前提として勝手に作り上げた「物語」で、してもいない行動に俗情を盾とした価値判断を下す。その強調によって、「してない」ことが「した」ことになるとでも思っているのか。バカめ。
入院中は妻の面会だけを心待ちにしていて、いざそのときが来ると「時間だからそろそろ帰る」という言葉が口にされるのを恐れた。今はそういう心配はない。ここが帰る場所だから。それだけでもじゅうぶん幸せだ。
https://kotobank.jp/word/忖度-555929
[名](スル)他人の心をおしはかること。また、おしはかって相手に配慮すること。「作家の意図を忖度する」「得意先の意向を忖度して取り計らう」
相手の発言を曲解し、非論理的に身勝手な妄想の物語を作り上げることを「忖度」とは言わねえから。
幸福にも不幸にも、構ってる余裕はないんだ。
ものを根拠とし、だから何も証明されてないのに「証明された!」とか勝手に噴き上がってる阿呆に付き合いきれない。
を楽しみにしている。芝居の小道具や衣装調達のために何度も通った土地であり、またかつて妻と一緒に蛍を観にも行った。そこにまた妻と一緒に行けるなら嬉しい。
再び妻と一緒に訪れる、そのことが何より嬉しい。
Tシャツを着るのにも口(歯)を使わねばならないんだ。難儀なことである。
私も経験済みである。経験の特殊性の強調で、トンチンカンな言説が補強されると思ったら大間違いだ。
というか、意思疎通の意思がないものには、ホント苦労させられる。
大事なメールが埋もれてしまうから、自称「戯れ言」のしかし戯れ言にすらなっていない意味不明なメール受信拒否に設定し、読むことなく定期的に消去である。
「思い出の地」というほどじゃないのだけど、昔、妻と一緒に蛍を観に行ったこともあるし、駅前の古着屋やショッピングモールへは、芝居の衣装や小道具探しに何度も行った。また来月にでも行こうという計画。行けるといいな。
しかし、人間が生まれてきたのは死ぬためではなくて、始めるためである。(『人間の条件』34)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) August 9, 2019
https://blog.tinect.jp/?p=43955
1.質問に答えていない。 2.自分の意見と、他人の発言の区別がついていない 3.話題を勝手に変えてしまう 4.相手の聞きたいことを考えていない
片付いた。そのこと自体より、懐かしい場所に妻と一緒に行けたことが嬉しい。
私のこれまでの乏しい人生で学んできたことは、何かを得ようとすれば何かを捨てなければならないということです。あれもこれも欲しいというのは、無邪気で無謀な要求ではないでしょうか。『人生、しょせん気晴らし』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 9, 2019
をしたいがために「加害者」をつくりあげる、こういうタイプの人間と、時間、空間を共にするのは冤罪に巻き込まれるリスクを高めることになる。さっさと関係を絶っておくべきだろう。
大阪の吉村知事の批判に大村知事は「はっきり言って哀れだ」「憲法21条の表現の自由を全く理解していない」とまで言ってのけた。大村氏は憲法12条の権利の濫用規定を知らないのに朝日と中日の応援で気が大きくなったか。「哀れ」などという言葉で人を蔑むのは常軌を逸している。完全に我を失っている。 https://t.co/OHE27sJvzT
— 門田隆将 (@KadotaRyusho) August 8, 2019
が原因ではないのに、それ用のリハビリしたって、効果が上がるわけがなかろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/サミュエル・ベケット
散文においては、特異な光景、切り詰めた語り、錯綜した描写、物語ることそのものを突き詰めたようなモノローグなどによって独自の世界を確立し、その傾向は三部作(とりわけ『名づけえぬもの』)においてひとつの頂点に達したと言われる。それらの作品はのちのヌーヴォー・ロマンの先駆けともなり、また『マロウンは死ぬ』における「“私”がさまざまな物語をメモに書き付けていく」という形式は、メタフィクションの大いなる先例の一つとなった。その後の作品、『事の次第』や『伴侶』、『また終わるために』などにおいては、表現する言葉そのものを切り詰めつつ更なる作品の可能性を探求することに努力が費やされた。
で構わないから、もう少し、長い距離を人並みの速さで歩けるようになりたいものだ。せめて近所を妻と散歩できるくらいに。
http://www.seinan-gu.ac.jp/~shito/ja/econ/intro/node2.html
経済学を学ぶ前に,研究対象に対し経済学がどのようにアプローチするのかの 概観を掴んでおく必要がある. アプローチの仕方は大きく2つに分かれている.それは,理論分析と実証分析 である.理論分析は,複雑な現象を抽象化し,複雑な構造やその因果関係を明 らかにする方法である.実証分析は,抽象化した理論が,現実の現象をうまく 説明できているかを統計的に検証する.
踏ん張って重心を修正するってことができない。おそらく義足もそうだろう。
半世紀近くにわたって続いてきた私の時間が切断されたのだ。それはほとんど「死」に等しい。
https://hataraku.vivivit.com/works/listedcompany
例) 東京証券取引所 (東証) ・一部 主に大企業が上場する市場です。上場審査基準が厳しいため、どの企業でも一部上場できるわけではありません。新規上場する企業はまず下の二部への上場を目指すことが多いです。 ・二部 中堅企業が上場する市場とされています。一部に比べると審査基準は厳しくないため、企業は普通、まずこちらに上場してから段階的に一部への上場を目指します。 ・マザーズ 新興市場といって、ベンチャー企業などが上場する市場です。審査基準は一部や二部とは少し違い、その会社の「成長の可能性」が見られます。上場している企業の性質上、株式の値動きが激しい市場です。
何の情報をいつまでに必要としているのか、それを簡潔に記せといっているのだ。それが理解できないのだから話にならない。ばかりか、意味不明なはぐらかしをして曲解に曲解を重ねてくる。もう、うんざりである。
かつその自覚がない者とはとてもじゃないが付き合えない。
「全部間違った論理。」と言ってるけど、不正確な論理(論理と言っていいか疑問だが)で罵倒中傷をしてるだけ。いわゆるクソリプですねw https://t.co/XrDk4NRMOP
— モトケン (@motoken_tw) August 7, 2019
https://www.kaonavi.jp/dictionary/communication-skills/
コミュニケーション能力とは「対人的なやり取りにおいて、お互いの意思疎通をスムーズにするための能力のこと」
いわゆる”愛想の良さ”のことではない。ここを履き違えているているやつは始末に負えぬ。
何について書かれてあるのか理解できぬから、そう訊いたのだ。すると文意を明らかにするどころか、意味不明のはぐらかしと、曲解に曲解を重ねてのレッテル貼り。こんなの悪意と解釈するより他にないだろう。関わらぬが吉と結論づけた所以である。
と思ったけれども、そうではない。悪意なのだ。
言語や道徳が昔の天才の「発明」であると信じられていた時代もあったが、今では誰でもが、言語や道徳は誰もその結果を予見することも設計することもなかった進化過程の所産であることを認識している。(法と立法と自由)
— ハイエクbot (@hayek306) August 7, 2019
「真理とはそれが無くてはある種の生物が生きていけないかもしれない誤謬である」といったのはニーチェであるが、このアフォリズムの力点は、「全ての真理が誤謬」というところにあるのではなく、誤謬であれ何であれ真理なしには「生きられない」というところにおかれている。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 7, 2019
思考過程は、人間存在の全体に密着して浸透しているので、その始まりと終わりは、人間の生命そのものの始まりと終わりに一致する。(『人間の条件』23)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) August 7, 2019
近代の親族組織や歴史的社会の観点からすれば、自然の直接の、真正面からの否定である交換は、<他者性>の関係の極限に見えてくるだろう。ここで初めて、レヴィ=ストロースの初期の諸研究の最終的な意味、交換やシンボル機能の深い本性が決定的となる。『モースからクロード・レヴィ=ストロースへ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) August 7, 2019
https://www.em-seikatsu.co.jp/em/power/detail.php?id=44
減塩で問題となるのは、ミネラル不足になるということです。みなさんはミネラルという言葉はご存じでしょうが、具体的には塩の主成分のナトリウム、酸素を運搬する赤血球には鉄、骨や筋肉の収縮にカルシウム、その他にセレン、銅、亜鉛、マグネシウム、クロム、ヨウ素など、あるのかさえ解らないほど微量の元素を指します。そんなものが無くても良いと思う方もおられますが、「ミネラル不足の中でも、とりわけ亜鉛不足は若い世代での味覚障害の増加と関係している」というのは有名なお話しです。このミネラル群はさまざまな代謝に深く関わっているのです。これは「基礎代謝」や「新陳代謝」といった言葉でみなさんにもおなじみの体内の化学反応すべてを指し、すべての反応に対してミネラルはビタミンと力を合わせ「補酵素」というアシスト役として働きます。
ミネラルが不足すれば代謝が滞り、特急列車が各駅停車になるようなものです。日本の鉄道網すべてがノロノロ運転になった状態を想像してみてください。大変、非効率的です。この大切なミネラル補給源の一つである塩をやみくもに減らしてはいけないのです。
トランスのタイムロスが「事故」に繋がってしまうんだ。
車椅子は「乗り物」じゃなく、「足」なんだ。
四六時中、肩から提げているみたいだ。他人の腕が、なんで自分の肩にくっついているのだろうと思ってしまう。
妄想文の読解に時間を費やす筋合いはないんだ。
が、何に起因しているのか。結局、自ら人体実験してみるしかない。
端的にいって調整コストがかかりすぎる。そういっても理解できないわけだが。
産経新聞さんが、津田大介芸術監督の「表現の不自由展」はヘイトであると記事にしてくれました。
— 以下略ちゃん™ (@ikaryakuchan) August 7, 2019
【主張】愛知の企画展中止 ヘイトは「表現の自由」か https://t.co/vpmIMASt0l @Sankei_newsさんから
日々、妻の面会を待っていた。
そしていざ、それが実現すると、次にやってくるのは面会終了の時間である。私は一人残され、妻は帰って行く。
それが悲しかったが今はもう妻ははどこにも帰らないし、私は残されない。幸せである。
そして私はただ一つしかなすべき返答をもたなかった。「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」と。いかなる一般道徳も、何をなすべきかを指示することはできない。この世界に指標はないのである。-実存主義はヒューマニズムである
— サルトルbot (@jpsartre_bot) August 6, 2019
上下、左右、勝ち負け、善悪といった単純な二元論が阿呆の思考回路には馴染みやすいのだろう。
ありもしない「事実」を前提にして勝手に作り上げたストーリー、それに対する価値判断。前提がそもそも違っていることを指摘されても受け入れられず価値判断を強調するというトンチンカンぶり。そのトンチンカンを指摘されても理解できずにいる、こういう人間には何を言っても無駄だ。新たな曲解の材料を与えるだけだ。関わらぬが吉である。
友とおしゃべりしながら飯を食うなら楽しいが、
相手に曲解の材料を与えてはならぬと片時も気が抜けぬ者と飯など食っても得るものがない。
ヘーゲルにいわせれば、近代が達成したのは、「主体性原理が、個人的特殊性の自己満足的極端において充足に達する」ことを許したことである。この原理は、自立した個々人がその私的欲求を満たすために自由市場経済の制度を通じて互いに関係しあえるような市民社会を可能にした。(『事件』p182)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) August 5, 2019
決して後悔しないと決めてギターを処分してしまったのだが、やはりちょっと後悔している。音楽はまるっきりの趣味、個人的な遊びでしかなかったものの、楽器には思い出が染みついていた。新宿の楽器屋で見つけて買い、いそいそ、しょって帰ってきたことなど思い出される。
仕事先とメールのやりとりをしているが、用件を簡潔に伝えてくるから、トラブルになったことはない。どこぞのバカとは大違いである。
勝手に設定する、それに対する指摘もまた曲解の材料にする、そういう人間とは話ができない。関係を絶つのがよかろう。危険である。
ということなのだろう、長いこと青空駐車場だったマンション裏の土地にブルドーザーが入った。また新しいアパートかマンションでもできるらしい。近所をぐるっと見渡すと、ここ数年で、他にも新築アパートがいくつもできており、供給過多じゃないかという気がする。
行ってみたかったけど、今までだって行かなかったのだから、まあいいや。それよりフツーのライブハウスにまた行けるようになりたいもんだ。
今では吉田清治が慰安婦デマの発信源だということになっているが、これは違う。発信源はそれをネタにして訴訟でもうけるために韓国で原告を募集した高木健一と福島瑞穂で、それが政治問題になったのは1992年に朝日新聞が韓国をけしかけてから。
— 池田信夫 (@ikedanob) August 4, 2019
性質が同じ複数の状況に異なる基準を適用することが「ダブルスタンダード」だとしても、
— まるがお@哲学・倫理学をゆっくり解説 (@maru_tetsugaku) August 4, 2019
性質が異なる複数の状況に異なる基準を適用することは「ダブルスタンダード」でもなんでもないでしょ。
まったくそのとおりなのだが、困ったことに〈性質が異なっている〉ことを理解できぬ阿呆がいるわけだ。
人間存在を規定する最も重要な〈自/他〉の関係は、予め確固たるアイデンティティをもつ自我と他者が置かれる関係ではなく、いずれもがその相互性・依存性によって生ずるのではなかったか。東洋哲学でいう依他起性や縁起という考えがこれにあたる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 4, 2019
の加減は右足でするしかないから、右の脹ら脛に過度の負担がかかるのだ。
の余地なく、どんなにハッキリ記しても、悪意ある曲解を免れることはできない。
して、主語のないこと、指示代名詞が何を指すのか不明であることにも気づけぬのなら、推敲した意味がないだろう。
が異常に疲れている。
近代は、その劇に加わったすべての俳優の意に反して、住民の一定層を世界から疎外することによって幕を開けた(略)土地を収用し一定集団から世界に占めていた場所を奪い生命の急迫に曝すことにより富の原始的蓄積が行われ富を労働によって資本に転化する可能性が作り出された。(『人間の条件』35)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) August 4, 2019
https://businesschatmaster.com/bz-chat/mail-chat-difference#i
メールはメールアドレスを利用する、基本的に1対1で行う通信手段です。 複数のメールアドレスに同時に送ることも可能ですが、複数人で同時会話のような形のコミュニケーションは取れません。 またメールアドレスは登録制であり、メールアドレスを知らないとやり取りができません。 さらにメールを読むか読まないかは相手次第になる上に、読まれたかどうかも分かりません。その分リアルタイム性は低くなっていきます。 また、メールは1通ごとに独立している部分があり、対話をしようとすればメッセージを引用しなければなりません。 前に送ったメールを見なければ話の流れが分かりにくくなるのは少々不便です。
こういうツールの特性の認識すらない者を2019年に目の当たりにするとは思わなかった。
のレベルが低すぎてまったく面白くない。ただでさえ主語がなくて不明瞭な文章なのに、いっそう分二を伝わりにくくしているだけである。なのにその自覚もなくユーモアがあるつもりなんだから片腹痛い。というか、処置なしである。
メールをいつまでも受信トレイに置いておかない。そしてゴミ箱に入れたメールは時間がたつと自動的に消えるんだ。
旅行と芝居が、記憶の標識になっている。
1991年、3月、北海道大学経済学部経営学科卒業、4月、上京。
日本電気(NEC)に勤務(経理部・官庁営業部)。
退職後、戯曲の執筆・演出を開始。自らのプロデュースで自作戯曲を演出・上演
1992年、軽井沢旅行
1993年、伊豆旅行
1997年 第20回神奈川県演劇脚本コンクール奨励賞
2002年 第24回文化庁舞台芸術創作奨励賞佳作
2004年 第26回文化庁舞台芸術創作奨励賞特別賞
2009年 第25回名古屋文化振興賞佳作
2010年 「日本の劇」戯曲賞2010最優秀賞
https://ja.wikipedia.org/wiki/協調運転
1997年(平成9年)9月30日限りで廃止された信越本線横川駅 - 軽井沢駅間の碓氷峠越えでは、電車と電気機関車の協調運転が行われていた。
この区間は、66.7パーミルの急勾配が存在することから、この区間では電車は無動力のまま、専用の電気機関車であるEF63形の重連により牽引または推進していた。
鉄道の動力協調運転とは、車両編成が制御方法の異なる車両を連結した編成になっている場合に、乗務員の総括運転によって両者の動力源を駆動させながら走行することをいう
一度だけ体験したことがある。1992年に軽井沢旅行に行ったときだったのだろうと思う。
⑧【山本】要するに伝統的規範と法とが、乖離しているからです。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) August 4, 2019
【岸田】だから、この間隙をつかれると、簡単に詐欺にひっかかる。
相手は伝統的規範で押してくるし、あんまり何度も頼まれたからという、相手に対応する倫理でハンを押してしまう。
その挙句、法律に裏切られるわけです。
見込みがないおかしな「夢」を見ていたわけじゃない。
哲学のみではない。一般に議論が有益であるためには、相手に勝とうとする気持ちを押し殺さねばならず、自説にしがみつこうとする態度を振り捨てねばならない。そして、これが誰にとっても(政治家の醜態を嘲笑する人にとっても)とりわけ難しいことなのだ。『生きにくい…』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 4, 2019
まったくであるが、それ以前にまず論点を理解していなければ話にもならない。
余計な情報を流さないでおいてよかった。悪意ある曲解に基づいて「加害者」に仕立て上げられてしまう。触らぬ神(バカ)に祟りなしである。
問題は税金ではなく、トリエンナーレの主催者が愛知県(実行委員会)で、委員長が大村知事だということ。「公的な意思」として外務省がソウルの慰安婦像の撤去を求めたのに、それと同じものを愛知県が設置したら、慰安婦合意の履行を求めることはできなくなる。 https://t.co/IoErJY2y1A
— 池田信夫 (@ikedanob) August 4, 2019
明快な論点の提示だと思う。
曲解に基づくありもしない「事実」を前提としたオリジナルストーリー、それに対する通俗的な価値判断の強調。愚かなひとり相撲である。
動かぬから、その分、右脚に過度な負担がかかりがちで、結果、右脚がイカレちまう。
ソシュールの記号学解体作業は、まずプラトン、『聖書』以来の「言葉とは物や概念の名前である」という考え方への批判から出発する。即ち言語記号とは「自らに外在する実体を指し示す表象(代行・再現物)ではなく、間主体・共同主観的網目の産物に過ぎない」という指摘がその前段階である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) August 3, 2019
これはこれである。
悪意あるディスコミュニケーションぶりの異常さへの評価は何も変わっていない。
●\乗る/野ならいを判断するのと、計画そのものに参画するのは別の話だろう。その違いも分からぬとは、もはや阿呆と認定して差し支えない。
無事終了。
今年は年末に帰省しようと考えていて、すでにホテルを予約してあったのだが、古いホテルだからバリアフリー的に不安がぬぐいきれず、べつの新しいホテルをとり直した。
できるとこだけ利用したいだなんて都合がよすぎる。
文学とは霊的交通(交流:communication)である。霊的交通は誠実さを要求する。したがって、この峻厳な〝モラル〟は当然、悪の認識による出発して与えられるものであり、またこの共犯関係こそ、強烈な霊的交通を基礎づけるものなのである。-文学と悪-
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) August 2, 2019
まったくだ。「おれ、バカだから」と言う人って、じつはほんとうにバカなのです。バカであることはその言動のすべてから明らかであるのに、話がややこしくなるとすぐこう言う。そして、窮地を逃れようとする。『私の嫌いな10の人びと』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) August 2, 2019
https://www.bikkuri-donkey.com/shop/detail.html?sh=1103&pref=gunma
群馬県太田市飯塚町2039
0276-46-8989
0276-30-2388
スケジュールが出て、カレンダーに転記。
気分はすでに年末へ傾く。
はなにあらしのたとへもあるぞ
さよならだけが人生だ
に薬を飲むというより、薬の前に、何か腹に入れておく、という感じ。主従関係が逆転している。
まったく、人に何も訊かれなくなって何て長い時間がたったことだろう! 彼女はそれが永遠だったような気がした。ただ夫だけは絶え間なく質問をしてくれたものだった。というのも、愛とはたえざる問いのことだからだ。そう、私はそれほどよい愛の定義を知らないのである。《笑いと忘却の書》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) July 31, 2019
根本的に理解していないで利いた風な口をききたがるのだから参る。
最近のコメント