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2019年7月12日 (金)

劇を「書く」というのはきわめてフィジカルな行為である。

私がそういうのは、単にペンを持って文字を書くだとか、パソコンのキーボードを打つだとかのことじゃない。
たとえばメルロポンティは次のように言っている。

話している時には、私は、自分のなすべき諸運動を表象するわけではない。ちょうど私の手が、私に差し出されたものを取るためにひとりでに動くように、私の全身体的装置が、語に追いつき語を発語しようと集まるのである。


この私の手は、しかしもはや「私に差し出されたものを取るためにひとりでに動く」ことはない。そうした運動機能の喪失は、だからモノカキにとって広義の失語症といえるのではなかろうかと思うのだ。
かつて私は、登場人物が会話しながら日常動作を並行させるシーンを多く書いた。今思えば至極高次脳機能に依存した身体所作である。それらを書くことはもはや容易ではない。そういうことだ。

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