間
たとえばメルロポンティは次のように言う。
話している時には、私は、自分のなすべき諸運動を表象するわけではない。ちょうど私の手が、私に差し出されたものを取るためにひとりでに動くように、私の全身体的装置が、語に追いつき語を発語しようと集まるのである。
その時間の音声化されない言葉の描写が劇における「間」というものである。演出家が恣意的に設定する「空白」ではない。そんなことすらわかりもせずに、説明すれば「弁解」と曲解し「何もない」などと上から目線できいたふうなことを抜かす自意識の肥大した者があるが片腹痛い。
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