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哲学は、完成したもののなかでは退屈してしまいます。哲学とは表現することであってみれば、表現されるものとの合一を放棄し、表現されるものの意味を見んがためにそれをおのれから遠ざけることによってのみ、自己を完成するわけです。『哲学をたたえて』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 30, 2019
6月も終わり。一年の折り返しである。昨年の今頃も、夏には新作執筆に取りかかっているだろうと思っていたができなかった。今年も、役所関係の諸々が片付かないと難しい。書いてるときはただでさえ軽く狂っている。そこに高次脳機能障害が加われば、危なくってしょうがない。
のはあくまで「ぽい」に過ぎないのであって、論理的であることとはまったく別次元の話だ。おそらくこのことすら理解できないだろう。
漢字の間違いを指摘されたのだが、何だったか思い出せない。
アスファルトの道を自動車が走る音がする。サンプラーにマイクをぶっさして外に出て、SEの素材として録音したい気持ちだ。だが、もうその必要もないし、サンプラーも売り払ってしまった。
アスファルトの道を自動車が走る音がする。サンプラーにマイクをぶっさして外に出て、SEの素材として録音したい気持ちだ。だが、もうその必要もないし、サンプラーも売り払ってしまった。
は、あとどれくらいあるのだろう? 単に「寿命」の話ではない。行動は天候などの外的要因に左右されやすいし、いつ起こるとも知れぬ生理現象や体調変化などの内的要因に対処するための「余白」が常に必要だ。そうしたものをさっ引いた可処分時間を考えれば、フツーの人より、うんと少ないはずである。くだらぬことに費やす余裕はない。
人間とは矛盾だらけのものであり、けっして割り切れないものであり、つじつまの合わないものである。このことを徹底的に悟るとき、あらゆるコンプレックスは希薄化の方向に向かうように思う。『英語コンプレックス脱出』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) June 30, 2019
はそれじたい、破滅的な行為なんだなと思う。つらいばかりでちっとも「楽し」くなんかない。
幼児の経験する時間、速度といったものを、我々の時間、空間等々…の未分化(indifférenciation)として、理解する権利が我々にはあるだろうか。こんなやり方は、諸現象を尊重しようと努める傍で、幼児の経験を我々の経験に均すことにほかならない。『見えるものと見えざるもの』
メルロポンティのいうこの言葉の「幼児」を「身体障害者」に置き換えてみれば良い。
ラカンのメリットは、フロイトに残っていた実体論的思考、つまり欲動の〈表象代理〉である無意識の実在性を措定したり、隠された真の意図を直接観察可能な見せかけの外観に対置しかねない発想を、無意識自体を言葉と見做すことによって乗り越えた点に見出される。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 30, 2019
肩手症候群により、左の肩、腕、手が痛み、本来なら左手ですべき働きを全部右手で負担するから、右の肩、腕、手までが痛み出す。結果として両肩両腕両手が痛いのだ。
消極的自由を支持する論者の場合は、自由と平等は二者択一であると考える。平等を実現するためには「持つ者」が「持たざる者」へ一定程度の財を喜捨する必要があろう。これは富裕者に対する財産権の侵害となり、道徳的に許容できないというのはノージックの指摘のとおりである。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) June 30, 2019
幼児の経験する時間、速度といったものを、我々の時間、空間等々…の未分化(indifférenciation)として、理解する権利が我々にはあるだろうか。こんなやり方は、諸現象を尊重しようと努める傍で、幼児の経験を我々の経験に均すことにほかならない。『見えるものと見えざるもの』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 30, 2019
主体は個別的でありかつ「自分の世界」の普遍的な枠組みであって、言い換えれば主体が認識する内容はすべて「自分自身のもの」である。そうだとすれば、どうして主体が、自分自身を自分の諸々客体の系列のうちに含み入れる(数え入れる)ことができるというのだろうか。(『神話』p209)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 29, 2019
ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールの示唆した〈深層意識〉の言葉であり、更に古くは、東洋の言語哲学が探究した意識の深層における言葉に近い。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 29, 2019
時間は、われわれの<自我>が存在するための条件である。死が訪れる時、個人的な時間も死に、その結果人間の生命は、生きている側にいるものたちの感覚にとって、捉えがたいものとなる。つまり、周りのもの達にとって死者になるのだ。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) June 29, 2019
といえば聞こえはいいが、いい年こいて万能感をこじらせて、きいたふうな口をきいて他者を見下すことで肥大した自尊心を支えてるだけなんである。
やれるもならやってみやがれってんだ。
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 29, 2019
人は、世界を眺めている時に絵画を作り出すことができる。なぜなら、他の人々の眼に画家の特質を示すこととなるあのスタイルが、物の外見そのものの中に見られるように、彼には思われるからだ、自分が自然を再創造している時に自然を読み取っていると考えるからだ。『間接的言語と沈黙の声』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 29, 2019
https://ja.wikipedia.org/wiki/コストパフォーマンス
コストパフォーマンス(英語: cost performance)とは、あるものが持つコスト(費用)とパフォーマンス(効果)を対比させた度合い。コスパやCPと略されることもあるほか、費用対効果や対費用効果ともいう[1][2]。
建設コンサルタントや官公庁での会議や打ち合わせでは費用便益比、もしくはB/C(ビーバイシー、benefit by cost の略)とも呼ばれる。
数値を算出する場合は、効果を費用で割る。すなわち、費用が安く、効果が高いほど、コストパフォーマンスが高い。
コスト(費用)と書かれてあるが、コストは(=費用)ではないのだ。
芸術は構成や技巧、つまり空間や外界への巧妙なかかわり方ではない。それはまことに、ヘルメス・トリスメギストスの言う「光の声とも思われた言葉なき叫び」なのである。そしてこの叫びは、それが一度聞かれるや、通常の視覚の内に眠れる力、生誕以前の秘密を呼び醒ますのだ。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 29, 2019
したいが、そのほとんどは戯曲執筆のための「取材」的なものだから、頭が執筆モードに切り替わってなきゃ意味がない。そういう環境になるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。
〈他者〉の要求に従えば従うほど罪の意識が強くなるという、超自我のパラドクスを完璧に再現している。まるでイスラムに対して寛容であればあるほど、イスラムからの圧力が強くなるかのようだ。(『暴力』p141)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 29, 2019
症状悪化。半身が石のように重く、疼痛がひどい。痛み止めの薬を処方可能らしいが、また新たな薬を飲むのはイヤだな。副作用のリスクもあるのだろうし。
https://kotobank.jp/word/蓋然性-42608
主として哲学,数学,統計学などの用語で,元来は「確からしさ」を意味する。「必然」に対応し,事物の生起やその知識の確からしさの度合いをいう。それらの生起や知識そのものについては必然的で,偶然の入る余地はないが,必然的な因果関係やそれに付随する条件が未知の場合,その確からしさの度合いは,偶然的ともいえる。そこから蓋然性を可能性と偶然性のからみ合ったものということもできる。蓋然性を経験的に法則化することもでき,数量的に表わされるときは確率という。
生きながら埋葬された男は、墓堀人の注意を惹きつけねばならず、さもなければ死なねばならない。ところでまさしく彼は棺の中に入れられ、墓穴になげこまれたために、声を聞いてもらえるチャンスを何一つ持たないのだ。『家の馬鹿息子』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) June 28, 2019
醜いテーブルも美しいテーブルと同じ機能を果たすけれども、物の優秀性が判断される場合の標準は、単なる有益性ではなく、その物が本来似てしかるべきものに一致しているか一致していないかという標準である。(『人間の条件』24)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 28, 2019
新作戯曲を書くための準備を少しずつだが進めている。断片的なアイデアを書き留めたり。
https://kotobank.jp/word/肩手症候群-162858
肩の鈍痛のほか,運動が制限され,進行すると外旋運動が害される。痛みは頸部から腕にまで及び,手は赤くはれ,手指の伸展,屈曲が完全にはできなくなる。いわゆる交感性異栄養症の特徴である四肢末梢部の疼痛 (とうつう) ,灼熱感や,関節周辺部の圧痛,腫脹 (しゅちょう) や浮腫を伴い,手指末端は冷感,チアノーゼを呈することもある。冠不全,狭心症,脳血管障害,石灰化腱炎など比較的高齢者に多く見られる疾患が引き金となって起こる。症状の軽い例では自然治癒の傾向があるので,リハビリテーション,温熱療法,ステロイド剤関節注入などを行なう。
http://www.ptakita.org/36.html
肩の亜脱臼を伴い、麻痺した側の肩や手の強い痛み、手の甲の腫れ・熱感、動かした時だけでなくじっと していても痛みがあることが特徴です。医師の治療を受けることが必要ですが、日常の生活の中で注意していくことも大事です。まず肩の亜脱臼とは、腕を肩関 節に支えている筋肉の麻痺によって、腕がそのまま肩にぶら下がるような格好になる状態です。肩にとっては非常に負担になり、その原因を取り除くことを、日 常生活の中で工夫しましょう。また、感覚障害を伴う場合や、麻痺した側に注意が向きにくくなる方もいますので(麻痺側の身体無視)、手の位置など見て確認 したりなど注意していくことが必要です。例えば、仰向けの姿勢で寝る時は麻痺のある側の肩の下に枕を置き、同様に腕・手も少し持ち上げてその枕の上に載せ る。車椅子に坐る場合は、備え付けのテーブルに手を載せる、あるいは掌を下にして膝の上に置く、歩く時は、肩への負担を減らすためにアームスリングや三角 巾で腕をつる(固定時間が長いと逆に苦痛を伴う場合があるので注意して下さい)などです。また見かけ上は腕や肩の問題でも、身体や足の姿勢すべてがこれに 影響を与えることも多く、身体を丸くしない、麻痺した側が後に引けないように注意しましょう。例えば、車椅子に座る場合は、身体に合った車椅子を選ぶこと が大切で、必要に応じて背もたれやクッションを用います。そしてできるだけ背筋を伸ばし、麻痺した足が外向きにならないように、また車椅子から身体が斜め にずり落ちないように注意しましょう。
これ以外の痛みとして 、足の浮腫伴う痛みは、特に麻痺が強く歩行が困難な方に見られます。弾性包帯や靴下、足浴、マッサー ジ、臥位になるときに麻痺した足を、少し上げて寝ることなどにより、軽減されることがあります。
を感じて手の甲を掻くのだが、痒みの発生源が奥の方にあって届かない感じ。
大阪サミットの厳戒態勢が報じられている。
1993年7月に行われた東京サミットの大騒ぎを私は思い出す。当時、官庁営業部に所属していたから。
心身の統合は、一方では客体、他方では主体という二つの外的な項を恣意的な命令によって結びつけることではない。統合は実存の運動によって刻一刻となしとげられる。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 28, 2019
https://meaning-book.com/blog/20190224152754.html
「あずかり知らぬ」とは、「自分はその物事に関係(関知)していないので、その内容・情報についてはまったく知らない」を示します。
煙草のペースが速い。
よくないな。
ゼウスとは単に、自分自身に専心することしかしない存在のことだ。それは純粋状態における〈自己への配慮〉である。つまり完全に循環し、何にも依存しない。これが神的な要素の特徴である。-主体の解釈学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) June 28, 2019
https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/intl/g02.htm/
G20は、G7(後述)の7か国に、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、韓国、メキシコ、ロシア、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ、欧州連合・欧州中央銀行を加えた20か国・地域のことです。
G20財務大臣・中央銀行総裁会議は、これら先進国・新興国にIMF(国際通貨基金)や世界銀行などを加えたメンバーからなる会議です。1999年(平成11年)から原則年1回開催されていましたが、2009年(平成21年)以降、世界的な金融危機を契機に重要性が高まっており、開催頻度も増えています。
G7は、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、英国、米国の7か国のことです。
これら7か国によるG7財務大臣・中央銀行総裁会議では、世界の経済・金融情勢や国際通貨制度、金融規制・監督などについて意見交換を行っています。G5と呼ばれていた先進5か国にカナダ、イタリアを加えて、1986年(昭和61年)から開催されるようになりました(注)。
ユーロ発足に伴い、欧州中央銀行(ECB)総裁、ユーログループ議長も出席しています。
が、手の甲にまで下りてきた感じだ。
私個人にかんするかぎり、他者が神と呼ぶものの存在を否定も肯定もする資格はないと感じていると述べなくてはならない。というのも、このことばがなにを意味するとされているのか、単純に分からないと認めざるをえないからである。(致命的な思いあがり)
— ハイエクbot (@hayek306) June 28, 2019
マンション裏の駐車場に綺麗な紫陽花が咲いているのだけど、砂利道で近づけないんだ。
基本的な概念を共有しない、すなわち言葉の通じぬ相手とやりとりしていると、こちらが失語症になったかのような苦痛を感じる。
6月分の請求書を送付。早くも今年の半分が終わったのだと実感。
https://www.noc-net.co.jp/blog/2014/11/column_014/
コストといえば、まず思い浮かぶのが、費用やお金、金銭です。
しかし、コストはお金だけではありません。
1.経済的コスト(お金)
2.時間的コスト(時間)
3.肉体的コスト(労力・手間)
4.頭脳的コスト(思考)
5.精神的コスト(不安・気を遣う・楽しい)
さほど特殊な用法ではない。日常会話の中でもフツーに使う。
けじめを大切にする人は、理性や言葉を大切にする人ではないのです。概念を積みあげ、議論を積み重ねて、真実に至るという方法ほど、彼らにとって疎遠なものはない。なぜなら、そんなことしなくても、もうはじめからけじめは揺るぎないものとして決まっているからです。『私の嫌いな10の人びと』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) June 28, 2019
現代の心理学者は、生まれて間もない頃、私たちが自分自身についての意識のうちに生きていないことを強調します。そもそも私たちは事物の意識のうちにさえ生きていないのであり、他者の経験のうちに生きているのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 28, 2019
亜脱臼の肩の痛みが溢れて腕にまで下りてきたような疼痛。
賞賛もあれば無益なそれもある。「批判」についても同じことが言えるのだ。
「権力とはいくつもの手続きからなる総体である。」この認識から権力メカニズムの分析が権力に関する理論の端緒になると理解できる。-安全・領土・人口-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) June 27, 2019
身体機能を判断するための診断書で「おじぎ」の項目があったら、それは立位に決まっているだろう。そうハッキリ書かれていなくとも、メタメッセージは容易に読み取れねばおかしい。「専門家」であるというなら、これが初めてではないはずだ。
なんだか身体がこわばっている。何もない平らな地面で見えない綱を渡っているような不安定さ。それはいつものことだけれど、なおいっそうふらついてしまう。見えない綱から落ちてしまいそうだ。しかし落ちた先にはどこへ行くのだろう?
他者は私たちにとって身体にとりついた精神であり、私たちには、この身体の全面的な現象のうちに精神のあらゆる可能性が含まれているように思えます。身体はそれらの可能性の現前そのものなのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 27, 2019
http://www.chugaiigaku.jp/upfile/browse/browse2111.pdf
脳卒中により生じる運動障害は大脳皮質の一次運動野から大脳皮質下の放線冠,内包,中脳の大 脳脚,橋腹側,延髄で交叉し脊髄の前角細胞にいたるまでの運動下降路の損傷で起こる(図 1).運 動麻痺の程度や分布を規定するのは脳損傷の部位や大きさであるが,脳卒中では,病変部位は血管 支配の解剖学的特徴に支配され(図 2),運動麻痺の分布はある程度定型的なパターンを呈する.大 脳半球の病変では病変と反対側の上下肢に麻痺が起こり,片麻痺とよばれる.一次運動野内の運動 神経は,内側部は足,そこから外側に行くに従って体幹,腕,手,顔の運動を支配するため,内側 領域が損傷を受ける前大脳動脈領域の病変では下肢に強い麻痺が起こる(図 3).中大脳動脈領域の 病変では上下肢とも麻痺が生じるが上肢に強い場合が多い(図 4).一次運動野内の小病変では,手 に限局したような麻痺が生じることもある(図 5).後大脳動脈領域の病変では,後頭葉の主体の病 変になるため視野障害が主体で麻痺が生じないことも多いが,視床付近の病変により一部内包が損 傷を受けると片麻痺も起こりうる.
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/09-脳、脊髄、末梢神経の病気/脳の機能障害/失語
失語とは、会話や文字でものごとを表現したり、理解したりする能力が部分的または完全に失われる障害です。言語を制御する脳領域の損傷が原因で起こります。
言葉を読む、書く、話す、理解する、または繰り返すことが困難になります。
医師は通常、患者に質問することで、この問題を特定できます。
CT(コンピュータ断層撮影)検査やMRI(磁気共鳴画像)検査などの画像検査が行われます。
失語のある患者の多くで、言語療法が助けになります。
ほとんどの人では、言語機能は以下の脳領域によって制御されています。
ブローカ野と呼ばれる左前頭葉の一部
ウェルニッケ野と呼ばれる左側頭葉の一部
頭頂葉の後下方部分(ウェルニッケ野に隣接する部位)
これらの領域同士をつなぐ経路
これらの領域のどこかが損傷を受けると、言語機能が少なくとも部分的に障害されます。通常、書くことと話すことは同程度に影響を受けます。
完全なコギトとは、神において見ることである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 26, 2019
重力に導かれるままハデに転倒してしまいたいというタナトス的欲求にときどきかられる。そんなときは一息ついて煙草を吸って気分転換するのが有効だったりするから、私の場合煙草も一概に「百害あって一利なし」とは言い切れぬのだ。
https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/09-脳、脊髄、末梢神経の病気/脳の機能障害/部位別にみた脳の機能障害
右側頭葉の特定の領域が損傷を受けると、音や音楽の記憶が障害されることがあります。その結果、歌うことが難しくなることがあります。
一般に、前頭葉が損傷を受けると、問題を解決する能力や、計画を立てたり行動を起こしたりする能力が失われます。例えば、道路を横断したり、複雑な問いに答えること(遂行機能と呼ばれることもあります)ができなくなります。しかし、前頭葉の損傷を受けた部位に応じて、特有の障害がみられることもあります。
前頭葉の後部(随意運動を制御している部位)が損傷を受けると、筋力低下または麻痺が起こります。左右の脳は、それぞれ反対側の体の動きを制御しているため、左の大脳半球が損傷すると体の右側に、右の大脳半球が損傷すると体の左側に筋力低下が起こります。
前頭葉の中間部が損傷を受けると、無関心、注意力の低下、意欲の低下などの症状が現れ、思考が遅くなります。前頭葉の中間部後方の部位(ブローカ野)が損傷すると、言葉でものごとを表現することが困難になる場合があり、これをブローカ失語(運動性失語)と呼びます。
http://www.chugaiigaku.jp/upfile/browse/browse2111.pdf
例えば手を動かすという命令は最終的に大脳皮質の一次運動野にある一次運動神経細胞 から出力される.内側は足,そこから外側にいくに従って体幹,腕,手,顔の運動を支配 する運動神経細胞が分布している.それぞれの運動神経の脊髄(二次運動神経とのシナ プスが前角にある)への経路(錐体路)はその途中の延髄で交叉するため,左脳の運動神 経細胞は右の手足,右脳の運動神経細胞は左の手足の運動を制御する.この大脳皮質一 次運動野からの下降経路がどこかでダメージを受けると命令が伝わらなくなり,病変の 反対側の手足の運動麻痺が起こる.
未確認動物(Unidentified Mysterious Animal)
知覚の哲学は、絵画に対して、また総じて藝術に対して、それらの真の場所、真の尊厳を返還するでしょうし、私たちが藝術を純粋な状態で受け入れるよう仕向けるでありましょう。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 26, 2019
ここにはいない。陳腐な言い方になるけれど、そんな感じ。「知覚」の多くを喪失したことにより、世界との関係が変わってしまった。
床に落ちたクッションの結界で、そこをもう通ることができないのだ。
(日常生活動作):Activities of Daily Living
https://www.kango-roo.com/sn/k/view/3519
身体を動かそうという意思が生じると、これが大脳皮質の運動野に伝わり、行おうとする運動に必要な筋肉を支配している運動ニューロンを興奮させます。 この興奮は、脊髄(脳神経の場合は脳幹)で次の運動ニューロンに伝わります(この運動野の運動ニューロンから脳幹・脊髄の運動ニューロンまでの経路を、錐体路〔すいたいろ〕といいます)。脊髄の運動ニューロンの運動神経線維は脊髄を出て末梢神経になり、支配している筋肉に神経筋接合部で命令を伝えます(図1)。 この時、神経線維の末端からはアセチルコリンが分泌されます。アセチルコリンは筋肉にある受容体に結合し、筋肉の収縮を起こします。これによって身体が動くのです。
哲学史とはさまざまの体系との対決であり、我々が他人との間でなしうるコミュニケーションにも似た、諸体系とのコミュニケーションである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 25, 2019
生の円環運動を持続させるためには、自我に風穴をあけ、自らの内なる他者と絶えず対話を交わさねばならない。[…]ルソーが作曲したと言われる童歌の叡智にならって「結んで開いて/手を打って結んで/また開いて手を打」ちながら、心の奥の欲望を解放しつつ制度へと立ち戻る永続的運動が望まれる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 25, 2019
世界には私たち〔ヨーロッパ人、大人、そしておそらくは男性〕だけがいるのではなく、世界は動物、子供、未開人、狂人にも開かれています。彼らは自分たちなりのやり方で世界に住み、彼らもまた世界と共に実存しているのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 25, 2019
身体は、物の特性よりもむしろ物を処理する自分なりのやり方を表現するのであり、言い換えれば物と世界とが自分にとって何であるかを表現するのだ。生きた有機体は、それがまさに現実的行為の中心であるというそのことによって、パースペクティヴの中心をなすのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 25, 2019
https://www.aichi-med-u.ac.jp/hospital/sh15/sh1503/sh150301/sh15030101/sh15030101_05.html
MRIとは,磁気共鳴画像(Magnetic Resonance Imaging)の略です。エックス線は使用せず,強い磁石と電磁波を使って体内の状態を断面像として描写する検査です。特に脳や脊椎,四肢,子宮・卵巣・前立腺といった骨盤内の病変に関して優れた検出能力を持っています。
http://www.kanazawa-med.ac.jp/~hospital/2012/12/-9.html
従来の脳卒中リハビリは、障害のない側の手足などを訓練し、日常生活動作を改善するという考え方でしたが、近年は脳にさまざまな刺激を与えることで、麻痺している側の機能回復を図る「ニューロ・リハビリ」が脚光を浴びています。
しかし実施している病院の数が少ないし、保険適用外だったりするし。そもそもそうした知見が、「専門」家の間で共有されているとはとても思えない。「従来」の方法が無意味とはいわないが、障害が、あたかも廃用性に起因するかのような的外れな対処に貴重なリソースを浪費し、取り返しのつかぬことになってしまったと感じている。/p>
【タンカー防衛は自国で トランプ米大統領、日本などに要求】
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) June 24, 2019
トランプ米大統領は、日本などに対し、ホルムズ海峡を通るタンカーは自分で守るよう求めました。https://t.co/lxD4CBS5nq
まあ、そりゃそうだろう。
ラカンは、われわれをもっとずっと不安にさせることを言わんとしている。すなわち、私は自分にとって最も身近な自己経験、つまり事物が「本当は私にどう見えるか」ということも奪われ、私の存在の中核を構成し、それを保証している根本的な幻想をも奪われているということだ。(『ラカン』p95)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 24, 2019
「神」とは私の内なる、過去、現在、未来にまたがる「おぞましいもの」への恐怖である。あまりのおぞましさに私は、それが嘗てあり、現にあり、未来もあることを必死で否定し、否定することを力一杯叫ばずにはいられない。しかしこれは本心からではない。『聖なる神-わが母-』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) June 24, 2019
プルースト(Proust_bot)は、彼の祖母の死をはっきり確認しつつも、彼の生活の地平に彼女が存続する限りまだ彼女を失わずにいることができたが、幻像肢についてもこれと同じ事情なのである。幻像肢は腕の表象ではなく、腕そのものの両面価値的な現前なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 24, 2019
世界の実現を支配したこの標準(目的自体としての人間)が、世界樹立後もひきつづき支配を許されるならば、世界は無価値となり、次の目的のための単なる手段になる。(『人間の条件21』)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 24, 2019
「議会」とは国民によって選出された議員が国政の重要事項について審議し、最終的な意思決定を行う合議制の政府機関である。国民による選挙があるか・国政の重要事項について最終的な意思決定を持つか・合議制であるかという3点が議会と他の政府機関を区別する重要なポイントである。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) June 24, 2019
ケインズは、大きな波はありましたが、調子のいい時には比類ないほど上手な文章を書き、しかもすばらしい声の持ち主で、彼の講演は人の心をひきつけずにおかない魅力的なものでした。それらを駆使して人を説得する、抜群の説得力を持っていたのです。(ハイエク 新自由主義とは何か)
— ハイエクbot (@hayek306) June 24, 2019
病棟の食堂の周囲の廊下を歩いた訓練が一番役に立っている。結局、ある程度まとまった距離を移動しないとダメなんだ。
有用なアドバイスのように尊重してやる(ふりをする)コストをこちらが負担する筋合いはないんだよ。
…経済学のすべての学派の共通の揺籃は、古典学派の体系のうちに見出される。…。いずれにしても、古典学派は今日なお、他の科学における古典的学派に見られるよりも遥かに強力に、生ける力なのである(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) June 24, 2019
科学の思考――上空飛行的思考、対象一般の思考――は、それに先立つ「そこにある(il y a)」ということのうちに、つまり我々の生活の中で、我々の身体にとってあるがままの感覚的世界や人工的世界の風景の内に、またそうした世界の土壌の上に連れ戻されなくてはならないのだ。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 23, 2019
かつていた場所によく似てはいる。しかしあらゆるものが、自分自身でさえ、文字どおり手の届かぬ存在なのである。
https://www.kango-roo.com/sn/k/view/3519
身体を動かそうという意思が生じると、これが大脳皮質の運動野に伝わり、行おうとする運動に必要な筋肉を支配している運動ニューロンを興奮させます。
この興奮は、脊髄(脳神経の場合は脳幹)で次の運動ニューロンに伝わります(この運動野の運動ニューロンから脳幹・脊髄の運動ニューロンまでの経路を、錐体路〔すいたいろ〕といいます)。脊髄の運動ニューロンの運動神経線維は脊髄を出て末梢神経になり、支配している筋肉に神経筋接合部で命令を伝えます(図1)。
この時、神経線維の末端からはアセチルコリンが分泌されます。アセチルコリンは筋肉にある受容体に結合し、筋肉の収縮を起こします。これによって身体が動くのです。
http://www.kmu.ac.jp/hirakata/hospital/knowledge/knowladge034.html
運動麻痺とは、脳や脊髄、末梢神経が障害されることで随意的に手足などが動かしにくくなる状態です。脳卒中などが原因で半身が動かせなくなることを片麻痺、頚部の脊髄などの障害で頭部以外の両手足を含む身体全体の筋力が低下することを四肢麻痺、胸部や腰部の脊髄障害による両足の麻痺を対麻痺と呼びます。また、末梢神経が障害されると、その神経が支配している筋肉が動かしにくくなるので、手足が部分的に使いにくくなります。運動麻痺には、感覚の麻痺や筋肉の緊張亢進(筋肉のつっぱり)などがしばしば合併し、動かしにくさを助長しています。 運動麻痺のリハビリテーションは、神経の機能回復、麻痺に合併するつっぱりやこわばりの改善、麻痺を補って機能的に動けるようにするための医療機器等を使いこなすための練習によって行います。 神経の機能回復を目指す治療には、障害されている神経を電気などで刺激する方法があり、当院では頭皮上から脳を刺激する治療や、麻痺している筋の動きの程度に応じて麻痺筋を刺激する治療を行っています。 脳卒中や脊髄の障害で起こる筋肉のつっぱりには、ボツリヌス毒素という神経毒素を局所注射する治療が保険診療によって認可されています。 麻痺を補うための医療機器には様々なものがあり、最近ではロボット工学も取り入れられて来ています。
http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/brain/pamph114.html
脳出血の起きやすい部位は分かっています。それぞれの部位の名前により、
被殻出血、視床出血、皮質下出血、橋出血、小脳出血に分類されます
自分がアテにされているとの関係性への過信が、不要な干渉を生むのだろう。他人は他人。その線引きは重要である。己への戒めを込めて。
https://medicalnote.jp/contents/150610-000004-PNNCLG
ひどく懐かしい人に会う。
ちょっとそこらでお茶でも、ってところで夢は終了。続きが気になる。
しかし、実際に物理的な世界観を変えたのは、理性ではなくて望遠鏡という人口の器具であった。(『人間の条件』38)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 23, 2019
小説は現実を探るのではなく実存を探るものです。そして実存は生起したものでなく、人間がなりうるあらゆる状態の、人間がなしうるすべての事柄の、つまり、人間のさまざまな可能性の領域なのです。小説家は、あれこれの人間の可能性を発見することによって実存の地図をかきます。《小説の精神》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) June 23, 2019
ひとを真剣に嫌うことは――真剣に愛することと同じく――重いことです。だからこそ、貴重なことです。それから逃れることなく、追求すればいいのです。私の提案は、その原因をつき止めて、正確に嫌うこと。行動に移すに慎重にして嫌うこと。「嫌い」を大切にすること。『ひとを<嫌う>ということ』
— 中島義道bot (@gido_bot) June 23, 2019
サンリフレプラザには、2006年に風呂の蛇口交換でお世話になった。安いし、工事もちゃんとしてた。また何かあったらお願いすることになるだろう。
ある個人の所有する特殊な情報の多くは、かれ自身がその決定においてつかえるかぎりでしか利用できない。自分の知っているすべてのことを他人に伝達できる人はいない。なぜなら、利用できる情報の多くは、かれ自身、行動のための計画を立てる過程においてしか引きだせないからである。(ハイエク)
— ハイエクbot (@hayek306) June 23, 2019
メルロポンティは次のように言っている。
話している時には、私は、自分のなすべき諸運動を表象するわけではない。ちょうど私の手が、私に差し出されたものを取るためにひとりでに動くように、私の全身体的装置が、語に追いつき語を発語しようと集まるのである。
私の手は、しかしもはや「私に差し出されたものを取るためにひとりでに動く」ことはない。そうした運動機能の喪失は、だから広義の失語症といえるのではなかろうかと思うのだ。「書く」というのがフィジカルな行為であると私がいうのは、そういう意味である。
その上でなお、そのことをも書こうと私は思っている。
[伝統的理論は]使用者の間に自由競争が行われ、労働者の間に制限的な団結が存在しないと仮定すれば、労働者は、欲するならば、彼らの実質賃金を、その賃金のもとで使用者によって提供される雇用量の限界不効用と一致させることができる、というのである(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) June 23, 2019
活動と言論と思考はそれ自体では何も生産せず空虚である。それらが世界の物となり偉業事実出来事思想あるいは観念の様式になるには見られ聞かれ記憶され変形されいわば物化されて詩の言葉印刷された本絵画や彫刻記録文書記念碑など要するに物にならなければならない。(『人間の時条件』12)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 23, 2019
1・3回目木曜日
こじ開けて、外に這い出たはいいが、絶望の谷底へ落ちてしまった。
動物にとっては、偶有性は単に偶有性のままである。人間存在だけが、普遍性そのものとして措定して、それと関係し、したがって偶有性を普遍的な本質のうちへと反省的に高めてゆくことができるのである。(『神話』p227)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 23, 2019
正義/悪の単純な二項対立の図式の下で、己を正義の立場に置くために、設定した「巨悪」像に実体を持たせるべく、自分の気に入らない人間にそのイメージをおっかぶせて攻撃するのだ、その身勝手な行為の不合理さこそが「悪」ではないかという疑問を持つことすらなく。
人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、何よりもまず、歴史に奉仕する哲学の課題である(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) June 23, 2019
をするのが難しいんだ。自分の体調はもとより、天候によって行動が大きく左右されるから。
ロックは、人間は自然に対して己の労働を投下することによって私有財産を無限に増やすことができると主張した。しかし、労働の成果であっても自分が利用できる以上の大量のものを所有し結果それを腐敗・無駄にすることは神の意志に反する、と私有財産の形成には一定の限界があると述べた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) June 23, 2019
フーコーの『ルソー『対話』への序文』は書かれた時期が早く(1962年)、一見すると文学論だが、実際にルソーの『対話』に記されているのは、ルソーを攻囲していた沈黙による服従強制の権力装置[=黙殺・監視等]に対抗するルソー流の自己技法であるとする政治哲学論を読み込むことが可能である。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) June 23, 2019
フォークナーの“A Fable(寓話)”が知覚の鋭さと明晰さの点でほとんどすべての第一次大戦文学を凌駕しているのは、その主人公が無名戦士だからである。(『人間の条件』第5章活動 注5)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 23, 2019
一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、実存哲学の定式なのである。―――ハイデガーの「世界-内-存在」(In-der-Welt-Sein)は、現象学的還元を基礎として、はじめて出現しえたのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 23, 2019
[公共的空間に関わる真の個人的自由の2つ目は]…自律的個人が公共的問題の理解と討議を通じて、政策や制度の枠組みの変革に直接・間接に参加し、公共的意思決定にコミットするという「自由」を持つというものである(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) June 22, 2019
「用語解説」タクシス(taxis)…人々をチェスの駒のように配置する、戦場の整列的な秩序を示す古代ギリシャ語。つくられた秩序。「設計主義的合理主義」と関連。コスモス(cosmos)と対比。「法と立法と自由」より。
— ハイエクbot (@hayek306) June 22, 2019
セザンヌは存在の芸術家にふさわしい素晴らしい言葉で、色は「われわれの脳髄と世界とが接合する場所」であると語ったが、それをクレーは好んで引用する。色のためには、形(forme)の劇を覆さなくてはならないのだ。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 22, 2019
上京記念日というべきか、つまり妻が上京してきた日である。
〈存在〉――我々は「生きている」という以外には如何なるそれについての表象をも持ってはいない。それ故、どうして何か死せるものが〈存在〉しうるのであるか?-権力への意志-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) June 22, 2019
の外出はどうしてもタクシーになってしまう。今日は外出予定がなくて良かった。
〈現実界〉は超越的でポジティヴな実体ではない。つまりカントの〈物自体〉のような、到達しえない固い核として象徴的秩序の彼方のどこかに存続しているものではない。(『崇高』p321)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 22, 2019
絵を描くという行為には二つの面がある。まず、彼がカンヴァスないし紙の一点に置く色や木炭の斑点があり、次に、その斑点がおのれと共通な尺度を持たない全体に対して与える効果――斑点自身はほとんど何物でもなく、それでも一つの肖像や風景を変えてしまうのだから――があるのだ。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 22, 2019
を花園神社で観てきたという女優の話を聞いて、やはり花園神社で唐十郎のテント芝居を観た約30年前のことを思い出した。たしか妻と一緒だった。もう二度とああいう体験はできないのだ。悲しいし心苦しい。
リビドーは本能ではない。つまり生まれながらにして一定の目標に向けられた活動性ではない。それは精神物理的主体が様々な環境に加わり、多様な経験によって自己を固定させ、諸々の行動的構造を獲得する普遍的能力なのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 21, 2019
http://www.ci-hemiplegia.com/therapeutic_method/neurorehabilitation.html
メリット メリットは先ほどにも紹介したように、通常のリハビリとは異なりどこでもできるというものです。 また、脳にも良い刺激を与えるので、高齢者の認知症予防にもつながります。継続的に続けることで、脳を活性化させるので、効果は運動機能を回復させるだけではなく、脳機能の向上にもつながるという期待があります。また、様々な方法があるので、好きなリハビリ方法を選択できるという自由度もあります。 脳卒中患者でも手遅れにならない 脳卒中患者は、発症して6ヶ月以上経過してしまうとリハビリをしても効果があらわれないと言われてきました。しかし、そんな患者でもニューロリハビリテーションを受けて、くりかえしリハビリを行えば、麻痺を和らげることができることがわかってきました。通常のリハビリでは難しいと言われてしまった人でも根気よく通うことで改善することが期待できます。デメリット
デメリットは次のようなものが挙げられます。
保険適用外
2つのリハビリのデメリットは、保険適用の疾患ではないということです。そのため、費用がかかります。また、この費用は継続的に必要になるため、期間が長くなるほど費用が重なっていくのがデメリットです。研究が進んでリバビリとして認められれば、保険適用がきくようになるかもしれませんが、それはもう少し時間がかかってしまうことだと理解しておきましょう。
実施している病院が少ない
ニューロリハビリテーションはまだ注目されてからの年数が浅いので、全ての病院で実施しているものではありません。リハビリテーション科でも行なっているところとそうでないところがあります。また、今回紹介されたリハビリ方法が必ずあるとは限らないので、どのようなリハビリを行なっているのか確認する必要があります。
場合によっては近所にそのような病院が無いという可能性もあるので、広い視野での病院探しが重要になります。
梗塞による麻痺は、食道や胃や、すべての内臓に及んでいるから、いっぺんに食物がひっかかると、よく喉に詰まって死ぬのだそうだ。
http://www.homopants.com/philosophy/a_bib.html
これが他人にはなかなか理解されないし、自分でも上手く理解できなかった。
二輪車のレーサーは、自分が運転するバイクがカーブを切っていく様子をあらかじめイメージすることによって、よりよ適切に体を傾け、高速に対応してカーブを切っていくことができるのだ。そして、そうまことにうまく出来るとき、身体は快感を得るという状態になる。その快感は、ときに自分の体がバイクの端々にまで拡大しているかのような錯覚を生むことさえ引き起こす。感覚的には、身体が身体の外に拡大し流出しているかのようなことが起き得る。
これこそが、身体を統合制御する精神すなわち心の働きの主要部にほかならない。意識的なスポーツが、精神を強化するというのは、スポーツが統合制御の原理をも強化する意味を持つことによって説明されうるものなのである。
http://www.homopants.com/philosophy/index.html#rightctr
左脳がしっかり残っているから、言語中枢は大丈夫である。だから、理屈の上で、麻痺がこうなっていて、筋肉がまだ病み衰えぬ前なら動かしておいて別の神経回路の登場を促して、それを待つといった「作戦」を立てることも出来た。論理性は問題はないのだ。というより、次の理由で、病人の論理性はより明確に研ぎ澄まされたようにさえなる。
なぜなら、右脳が司っている人間的な情動が、右脳の一部の死によって弱まったり、失われたりするからである。右脳をひどくやられると、ヒトはしばしば自分が重大な危機に直面していることに気づかなくなる。ひどく深刻になって泣き出したりする症状の逆が起きるのだ。だから、右脳が適度に弱ると普段は情動に邪魔されて十分発揮されない論理能力が全く邪魔されずに十分に生きることになる。
しもやけの足は誰でも感覚が鈍いと思うが、麻痺側の足は常にあんな感じなんだ。
民族主義と国際主義資本主義と帝国主義社会主義と共産主義のような19世紀イデオロギーを主義主張として掲げている人びとは依然としてまだ大勢いるがこれらはもう現代世界のリアリティーからかけ離れている。しかし戦争と革命は今日なお重要な政治課題となっているのである。(『革命について』)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 21, 2019
仮に意志を持って、木を上ろうとしたら、きっとこんな感じなのだろうなと思う。
労働laborとは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。 仕事workとは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。人間存在は、種の永遠に続く生命循環に盲目的に付き従うところにはないし、人間が死すべき存在だという事実は、種の生命循環が、永遠だということによって慰められるものでもない。仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。
このアーレントの定義を実感したことのない者が、金にならぬ活動を「趣味」だとか「オナニー」だとかと蔑んでみせ、高みから何事かを言った気になっているのである。端的にいって阿呆であるから、話をするだけ時間の無駄だ。
「退職後2000万円不足」騒動で老後が怖くなったあなたへ~高校生でもわかる!|編集集団WawW!|note(ノート)https://t.co/wVXGWjl9dt
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) June 20, 2019
セザンヌは、若い頃の作品では表情を描こうと努力したが、それゆえに彼は表情を逸してしまった。彼がその後少しずつ学んでいったのは、表情が物そのものの言語であり、物の布置から生まれるという事だった。彼の絵画は、物や顔の相貌を感性的布置の復原によって取り戻す試みである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 19, 2019
おそらく、ほとんどの人びとは抽象的な伝統をもっぱら人格的な<意思>としてしか考えられないのである。だとしたら、あからさまな超自然主義が迷信として排除される時代にあって、人びとはこの意思を「社会」のなかに見いだしたくなるのではなかろうか。(致命的な思いあがり)
— ハイエクbot (@hayek306) June 19, 2019
怒りの経験そのものに立ち返れば、たちまち、わたしは怒りがわたしの身体の外部にあるものでなく、また外部から身体を生気づけるものでないこと、むしろ怒りは説明不可能ながら身体と一体であることを認めざるを得ません。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 19, 2019
年金ってざっくり言うと、こんな式で成り立っている。出生率さえ予測を間違わなければ破綻するような制度でない
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) June 19, 2019
また、今の年金制度は、2002年人口推計に基づくが、ここ20年間近く外していない pic.twitter.com/45ZXKEFgZQ
私が絶対的な明証の中に留まる事ができるのは、私が一切の肯定を差し控える場合や、フッサールが望んだように私が世界を前にして驚き、世界との共犯関係をやめて、むしろ私をその関係に縛り付けている動機付けの流れを出現させて私の生を完全に目覚めさせ顕在化させる場合だけである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 19, 2019
私達が何をしようと、それはすべて「生計を立てる」ためにしていると考えられる。(略)社会がみずからすすんで受け入れている唯一の例外は芸術家であって、厳密にいえば労働する社会に残された唯一の「仕事人」である。(『人間の条件』17消費社会)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 19, 2019
オトカ公演で使用した装置の座卓を妻の手を借りてゴミに出した。悲しいけれどしょうがない。今後何度も使用することになるだろうと思って買ったのだったが、たった一度きりの出番であった。我が演劇人生がまさかこんな形で幕引きになるとは思わなかった。
それでもまだ、少なくとも一作は、なんとかオリジナル作品を書きたいと思っている。ざっくりとした構想はある。冒頭部分は入院中に書いた。とりあえず読書を再開しなきゃ。
理解しない者と話したって時間の無駄。
経験的な私の自己経験と超越論的統覚の私とを分ける裂け目は、経験の対象としての実在と論理的構成物、たとえば、数学的対象の実在(…であるようなXが実在し…)の区別に対応する。(『否定的』p32)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 19, 2019
願望をいくら強調したって、通らぬ筋が強化されるわけじゃない。
公的領域とは市民の自由な政治活動の領域であり「アゴラ(場公共の広場)」において実現され、私的領域とは家父長が支配する経済活動と家族の領域であり「オイコス(家)」の中で完結する。このような公私区分論は20世紀の政治哲学者であるハンナ・アーレントの議論に大きな影響を与えている。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) June 19, 2019
経済は「ヒトという種」の持つ生物学上の特性とかかわるものであって、リカードと同じ時代にマルサスは、人類は強制か拘束を行わないかぎり、常に増加する傾向にあることを示している。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) June 19, 2019
痛みを訴えても症状は何一つ改善しないのだから甲斐がない。
マルクスは、「人間の社会化」が全利害の調和を自動的に生み出すだろうという結論を引き出した点はただしかった。そして、すべての経済理論の根底にある「共産主義の虚構」を現実に樹立すべきだと提案したとき、マルクスは自由主義者である彼の教師たちより勇気があったにすぎない(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) June 19, 2019
ある財に関して、消費者が支払っても良いと考える金額
近代初期になって、私生活の権利が最高の権利として要求されたが、これは実際には、独居を保証するものであった。というのも独居なしにはどんな作品も生みだすことはできないからである。(『人間の条件』22)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 19, 2019
は2011年7月だったか。管理組合の仕事で近所に通知を出したりしたのが思い出される。そのコストは管理組合持ちである。理不尽だと思った。
http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamphlet/brain/pamph15.html
「失語症」という言葉を聞くと、「話すこと」ができない状態と思われがちです。話せないのなら、患者さんは筆談をすればよい、「あいうえお、かきくけこ・・・・・」の五十音表の文字を指差しながらコミュニケーションを図ればよい、と受け取られることがしばしばです。
失語症の患者さんを見て、「ぼけた」「赤ちゃんのようになってしまった」と思う人も少なくないようです。
そう思った人の中には、言葉の訓練として「あいうえお、かきくけこ」と唱えさせたり、話せない言葉を何度もまねさせたり、幼児向きの絵本を読ませたりすることがよくあります。
しかし、これらは「失語症」についての「誤解」であり、好ましい接し方ではありません。
2017年10月25日を境に時間の連続性が断絶してしまったのだ。
住んでいた町にもう一度行ってみたい。電車でたった数駅の場所なのだけど、それすらも「一大事」なのである。
現象的秩序と物理的秩序の区別を、そのどちらにしても、普通の言葉でいう「現実の」世界との区別と混同しないことが大切である。われわれが問題とする対比は、「外見」と「実際」とのあいだではなくて、事象の相互作用の違いと事象がわれわれに与える効果の違いとを比べてみることである。(感覚秩序)
— ハイエクbot (@hayek306) June 19, 2019
ズキズキだとかチクチクだとか、医療関係者は痛みをオノマトペに回収したがる傾向があるが、それでは言い当てられぬ痛みが存在するのである。
というとき、必ず帰ってこられることが前提になっているわけだ。その前提が崩れたらどうか。
夢と現実の対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。(『ラカン』p101)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 19, 2019
存在するものはすべて、物として存在するか、意識として存在するか、いずれかであって中間はない。物は一つの場所にある。しかし知覚はどこかに存在するのではない。知覚とは、知覚すると思惟することにほかならない。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 19, 2019
容易に理解できるものを理解しようとせずに揚げ足を取って勝ち誇りたいだけの自尊心の肥大した者には関わるだけ時間の無駄である。
片腕だけの経済学者には、古くから二種類ある。右腕だけのと左腕だけのだ。そこで殿様は、対立する狂信者を前にしての採決のために、私のような両腕の経済学者を呼び入れねばならぬのだろう(P・サミュエルソン)
— 経済思想bot (@historyofecon) June 19, 2019
話している時には、私は、自分のなすべき諸運動を表象するわけではない。ちょうど私の手が、私に差し出されたものを取るためにひとりでに動くように、私の全身体的装置が、語に追いつき語を発語しようと集まるのである。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 18, 2019
願望の強調はまるで違う。それが理解できないんじゃ話にならない。
深夜作業中だが集中を維持するために一休み。
私は怒りや脅しを、身振りの背後に隠れた心的事実として知覚するのではない。私は身振りの中に怒りを読むのである。身振りは私に怒りを思わせるのではない。身振りが怒りそのものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 17, 2019
杖が一人歩きするわけはないから、置き忘れたのだとわかる。ではなぜ置き忘れてしまうのか? それは往路と復路で左右が逆転することによる。杖は常に右手で持っている。一瞬杖を置いて回れ右すると、さっきまで自分の右側にあった杖が左側にある。すると半側空間無視の障害により、杖の存在を認識できないのである。そうして壁伝いに戻ってきてしまうから杖が置き去りになるというわけだ。
https://anabuki-m.jp/information/4949/
連結送水管設備とは消火活動時に消防隊が使用する設備で、外部からの消火活動が困難となる7階建て以上の建物、または5~6階建てでかつ延べ面積が6,000㎡以上のマンションに設置が義務づけられており、設置(製造年月)後10年を経過したものについては、消防法により3年毎の耐圧検査の実施が義務づけられています。
手続きをさっさと済ませて、執筆に取りかかりたいものだ。少なくとももう一作、オリジナルを書きたい。脚色ものも書きかけで完成させたいのがある。
私たちは、朝起きて特に手順など何も考えずに着替えを行い、いつもと同じ道順で職場に行き、様々な仕事で周りの人たちと会話を行い、仕事の計画を立て、それを実行しています。これらは意識して行うこともありますが、こちらの手を通して次に頭を通してなどと、着替える順序を考えることは普通しませんし、いつも通っている道を次は右に曲がってその次の信号を左に・・・と考えることもしません。これらの動作は頭の中で無意識の思考として蓄積され、必要に応じて適切に引き出されているのです。
高次脳機能では、これらの頭の中での思考過程・記憶・注意能力などが傷害されることにより様々な障害を呈します。高次脳機能障害は脳に傷を受ける病気・怪我であればすべてに起こる可能性があります。その中でも比較的多く見られるのは脳卒中や脳腫瘍、頭部外傷、低酸素脳症、パーキンソン病、神経の変性疾患などです。
http://kompas.hosp.keio.ac.jp/sp/contents/000269.html
半側空間無視: 失認や注意障害に症状は似ていますが、目では見えているのに片側にある人や物を無視する、片側にある物にぶつかる、片側にある物を食べないといった症状を呈します。これは、別に見えていないわけではなく、視神経の経路の一部に損傷を受けて起こる同名半盲(片側の視野の物が見えなくなってしまう)とは別のものです。例えば左側が見えないのであればその人は左に顔を向けるなどの注意をして生活しますが、半側空間無視の方は、左側を意識する、注意するという考えそのものが欠けているため、何度失敗しても左側の物にぶつかったりします。
多くは右の脳が損傷を受けたときに生じる、左側を無視してしまう左半側空間無視ですが、まれに右側のこともあります。症状が軽ければ日常生活に支障がないこともありますが、程度によっては歩く際に左側の物にぶつかりやすく危険であったり、左側に曲がれないために部屋に戻れなかったり、食事の際に左半分に全く手をつけないといった日常生活上の問題を呈することがあります。
https://medicalnote.jp/diseases/神経痛
神経痛とは、末梢神経が何らかの刺激を受けることで生じる痛みのことを指します。原因は多岐にわたりますが、ぴりぴり、じんじん、電気が走るような痛みを感じます。
神経痛は原因疾患がさまざまであるため、適切な治療を受けるためには、正しい診断を受けることがとても大切です。神経痛に正しく対処するためにも、専門の医療機関を受診して診療を受けることが重要であるといえます。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/半側空間無視
半側空間無視とは、大脳半球病巣と反対側の刺激に対して、発見して報告したり、反応したり、その方向を向いたりすることが障害される病態である[。脳梗塞や脳出血が大脳半球に生じた場合に起こることが多く、急性期を除けば右半球損傷後に生じる左半側空間無視がほとんどである。
右手に杖を持って歩行し、回れ右をして戻ってくるとき、それは自分の左側にあるから存在を認識できず、置き忘れてくるということがしばしばある。それでまるで杖がひとりでに移動してしまったかのような錯覚に陥る。
ささやかな「夢」も、口にしたら行為遂行的に解釈され、妻の新たな負担になってしまうから、言わないでおく。
が書けない状況は困ってしまう。たいした記事を書いているわけではないけれども、メモ代わりに使っているところもあるし、ある程度まとまった文章を書くことで整理される考えもある。
眠りにつくとき、「明日」のくることが以前は自明であったけれども今は半ば本気で「明日」は来ないかもしれぬと思っている。すると「おやすみなさい」というごく日常的な挨拶の意味合いも変わってくるのである。
http://wakarueconomics.com/経済学/post-442
消費者余剰とは、ある財に関して、消費者が支払っても良いと考える金額(支払許容額)からその財の価格を差し引いた金額を表します。
私は今話しているのであるから、私の言語体系は私にとって様々な出来事の総和ではなく、表現意志全体のただ一つの道具なのである。そしてそれが私にとってまさにその様なものであるからこそ、私は他の色々な表現体系の中に入り込んでいくこともできるわけなのだ。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 18, 2019
手放さずに済んだ物が、今の自分には邪魔で粗大ゴミに出さねばならない。ゴミに出すその行為さえも自分の手ではできないのだ。今の自分は本来の自分じゃないから。かろうじて生存してはいるものの、三途の川の向こう岸にいろんなものを置き忘れてきてしまった。そういう意味で、やはり半分死んでいるのである。
とても長い夢。
その夢の中で、ひどく懐かしい人の写真を目にした。どうせ夢なのだから再会させてくれればいいのに。
夢を司る神をモルペウスというそうである。
http://www.izumino.or.jp/sick/past/20170804_nerve79.html
ニューロリハビリテーションとは、脳科学を応用したリハビリのこと。 麻痺した手足だけでなく、それらに運動の指令を出す脳のメカニズムにも目を向け、 その回復を図ることで麻痺の改善をめざす治療法です。 以前は不可能と言われていた維持期においても麻痺の改善報告があるなど、科学的根拠のある有効な治療法です。 注目されているのは、脳の可塑性。 可塑性とは、良くも悪くも変化するということ。 リハビリをすることで脳は変わることができるのです。 麻痺のない状態では、無意識に歩いたり動いたりできますが、 例えばゴルフやダンスなど新しい運動を始めるときは無意識ではできません。 体の動きやバランスなどを意識し、コツを覚えて、何度も繰り返してうまくできるようになります。 麻痺がありうまく歩けない場合も同様です。 「歩く」という新しい動作を、麻痺のある足を意識して、体重移動し、バランスをとって、コツを覚え、繰り返し練習します。 続けることで、障害が生じた部位の働きを補おうと脳が変化し、機能が改善するのです。
芸術作品の耐久性は、すべての物がとにかく存在するために必要とする耐久性よりも高度である。それは、歳月を通して永続性を得る事が出来る。人間の工作物は、けっして絶対的ではありえない。しかし、その安定性は、芸術作品の中に表象されるのである。(『人間の条件』23)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 17, 2019
音は、われわれに死の欲望を与える。最も強い脱領土化の力をもちながら、最も重苦しく、愚鈍で冗長な再領土化をおこなうこともある。恍惚と催眠。色彩で大衆を動かすことはできない。国旗はトランペットの演奏がなければ無力だし、レーザー光線も音に合わせて調節されるのだ。(『千のプラトー』)
— deleuzebot (@deleuzebot) June 17, 2019
かつて住んでいたアパート近くの坂道を夢の中で歩いて上った。けれども夢の中でも、すでに私はかつての健康体ではないのだ。
神経症患者たちが夜に不安を抱くのは、夜が我々に我々の偶然性を、つまり、我々がそれを見いだせる保証もないままに自己を超え出て事物の中に投錨しようとする当てども無い倦むことなき運動を感じさせるからである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 17, 2019
2018.6.17
居間のかず用デスクトップPC購入。
手首に巻いた肌色の湿布が浮いて波打ち、皮膚がべろべろに剥がれてるみたいだ。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/47882/meaning/m0u/
1 二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い。「前後の関係から判断する」「事件に関係する」
2 あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響。「気圧の関係で耳鳴りがする」「国の将来に関係する問題」
3 人と人との間柄。また、縁故。「あの人とはどういう関係ですか」「友好関係を結ぶ」「父親の関係で入社する」
4 性的に交わること。「人妻と関係をもつ」「妻子のある男性と関係する」
5 (他の名詞の下に付いて)その方面。そういう領域。「音楽関係の仕事」「アウトドア関係の雑誌」
己の存在を他者に開くこと、と定義したい気分だ。
身体機能を失って世界のことごとくが文字どおり手の届かぬ存在になってしまった。
を新調した。今日、できあがり、引き取りに行った。
私たちはただ、絶対的で全面的な知識を気取っている科学の教条主義に反対しているだけです。要するに、人間の経験のあらゆる要素、とりわけ私たちの感官知覚を正しく評価しなくてはならないのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 15, 2019
これを最大に保ったままで、足を前に踏み出すことはできないんだ。少なくとも一瞬、放棄しなければ「進む」ことはできない。
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20180228-OYTET50043/
病床数による区分のひとつは、一般病床の数が200床未満か、以上かの違いです。
200床未満の病院の再診料は、診療所と同じ(72点=1点は10円)です。これに対して、200床以上の病院の再診には、再診料は適用されず、外来診療料(73点)という名目で、簡単な検査や処置も含めた料金となっています。
200床未満の病院だと、診療所と同様に、徴収できる「加算」が多くあります。再診時に上乗せされる外来管理加算(52点)や、かかりつけ医機能の評価として今回新設された初診料の機能強化加算(80点)などです。200床未満の中小病院は、病院ではありながらも、診療所のような、かかりつけ医の役割を持っていることを示すものです。
他の人間はわたしにとって純粋な精神ではありません。他人の眼差し、所作、発話―――一言でいえば、他人の身体を通じてのみ彼らを知るのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 14, 2019
動かぬ指の爪が伸びる。切らなくちゃ。そんな面倒だけかかるのだ。いっそ第一関節から切り落としてしまいたいと思ってしまう。
我々の身体は他の一切の表出的空間の源泉であり、表出の運動そのものなのである。すなわち、諸々の意義に場所を与えることによってそれらを外部に投射し、それらが我々の手、我々の眼のもとで、物として存在するようになる、その原因をなすものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 13, 2019
様々な関係に見出される様々な異なる権力メカニズムの間には、並列・位階的従属・同形性や、技術上の同一性や類似、伝導効果などを見出すことができる。そのような関係性に注目すれば、これら権力メカニズムの全体を論理的な一貫した有効な仕方で踏破することが可能になる。-安全・領土・人口-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) June 13, 2019
次のように言ってはならないだろうか―――
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 13, 2019
超越の理念=われわれが触れ、あるいは見ると信じているものすべてを、無限の彼方へと送り返すことだと。『見えるものと見えざるもの』
目についた現象を自説の補強に詰め込むからロジックが破綻して牽強付会な話になるんだ。
私が他人の言うことを聞いている時、私は発音された音の聴覚的知覚をもっているのだと言ってはならないのであって、むしろ言述が私のなかでおのれを語っているのである。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 12, 2019
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
私は他人の行為の<意味>を通して彼と交通するのであるが、その際大事なことは、彼の行為の<構造>に到達しなければならないということ、つまり彼の言葉、さらには彼の動作の底を突き破って、<そうしたものが整えられる領域>に到達しなければならないということである。『行動の構造』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 12, 2019
のため病院へ。雨の予報だったが晴れたから電車で。帰りに駅近くの眼鏡屋に寄り、眼鏡を新調。
https://www.buzzfeed.com/jp/seiichirokuchiki/tatoo-and-medical-01
宮地さんによれば、タトゥーを入れた人にMRI検査をするとき、特に問題になるのは「MRIで使用する高周波が、酸化鉄などを含んだタトゥー顔料に及ぼす、誘導加熱の作用」。
少し難しく感じますが、これは「原理的にはIH調理器と同じ」(宮地さん)。IH調理器にかけたフライパンが熱されるように、MRIによって、タトゥーの顔料に含まれる酸化鉄などの成分が、熱を帯びてしまうのです。
「火傷の事例がいくつかあり、特に濃い顔料のタトゥーは注意が必要とされています。またタトゥーの図柄(例えばループ状)によってはアンテナのように高周波電力を吸収しやすくなるため、一層注意が必要です」
ただし、「すべてのタトゥーにおいて火傷を生じるわけではなく、頻度はむしろ低い」と宮地さんはいいます。
今日、MRI検査を受けたが、事前に看護師に確認されたよ。刺青ありませんね? って。
https://diamond.jp/articles/-/13275
「消費税率はいつから、何%引き上げるべきか」と題する文章を書いた。その中で、「消費税は価格の値上げを通じて消費者に負担を求める税なので、デフレ経済下では、下請け、孫請けが元請けに、あるいは商店が顧客に消費税増分の価格転嫁をできず、自らのマージンを削って負担する『損税』を生じさせかねない」ということを書いた。
「『損税』が生じる原因の一つは、『総額表示』にある。『総額表示』のもとでは、消費税率の引き上げの際に消費者側が、値上げだと思ってしまうので、価格を容易に上げることができない」という意見である。
そこで、「以前のように、レジ等で消費税を課税する、『外税方式』に戻してほしい」ということになる。
平成16(2004)年4月1日以後、法律改正が行われ、消費者に価格を示す場合には、それまでの「外税表示」(税抜き価格表示)から、消費税額を含む価格の表示(「総額表示」)を事業者に義務付ける改正が行われた。
この理由について、財務省ホームページは以下のように解説している。
税抜価格表示」では、レジで請求されるまで最終的にいくら支払えばいいのか分かりにくく、また、同一の商品やサービスでありながら「税抜価格表示」のお店と「税込価格表示」のお店が混在しているため価格の比較がしづらいといった状況が生じていました。「総額表示の義務付け」は、このような状況を解消するために、消費者が値札等を見れば「消費税相当額を含む支払総額」が一目で分かるようにするためのものです。 ……価格表示によって生じていた煩わしさが解消され、消費税に対する国民の理解を深めていただくことにもつながる……。
もう少し付け加えると、免税事業者の益税問題への対応という一面もあった。益税というのは、消費税を過剰に転化することである。免税事業者は、消費税の課税を免除されているので、自らのマージンには消費税はかからないが、仕入れには消費税を負担しなければならない。そこで、その分は消費者に転嫁することが予定されている。しかし、「益税」と誤解されるので、自らの仕入れにかかる消費税分はなかなか転嫁しにくい、といった消費税と価格の問題があった。そこで、総額表示になれば、そのようなややこうしい議論は無くなるというわけである。
「消費者」にとっては、総額表示は明快で便利である。頭で余分な計算をする必要もない。しかし、「事業者」の中には、この総額表示の義務付けが、かえって消費税を転嫁しにくくなったという声があるのである。
価格を形成するコストである人件費・原材料費や燃料などが日々価格変動していく中で、モノの価格が市場メカニズムで決まっていくと考えるなら、消費税率の引き上げだけが、特別なコストとして扱われる、つまりその分だけは絶対に引き上げなければならない、と考えることには、やや無理がある。
では、VAT(付加価値税)の本場欧州ではどうなっているのか。かつてフランスの税制当局と話をした際、「日本では消費税率を変更する前日、店は徹夜で価格表示を張り替える」という話が、彼らには通じなかったことがある。
フランスでは、総額表示一本であるだけでなく、モノの値段は、様々なコストの変化を反映して変化しており、消費税率の引き上げはそのワンオブゼムのコストの変化ととらえられている。近い将来、消費税率が引き上げられることになった場合、商店は、価格政策の一環として、価格転嫁のしやすい売れ筋商品から、タイミングをはかって値段を引き上げていくそうである。
価格全体として、消費税率分を転嫁できていればよいという考え方なので、税率引き上げ時に合わせる必要はない。このようにEU諸国では、消費税がコストのひとつとして物価に溶け込んでいるので、「益税」という言葉は存在しない。
結局、価格表示の問題は、事業者が消費税率の引き上げを、さまざまなコスト変動の一つと認識するか、これだけは絶対転嫁しなければならないコストととらえるかという意識の問題とも言える。大変悩ましい問題であるが、消費税の定着のためには、欧州型の価格意識に変わることが必要になるのではなかろうか。
のCDを聴いている。昔、狸小路のUKエジソンで、カセットテープを買った。あれから30年も経ったのだ。
私の身体は、世界という織物の中に取り込まれており、その凝集力は一個の物のそれである。しかし、それは見たり動いたりもするのだから、自分のまわりに様々な物を集めてもいるわけである。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 10, 2019
https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=243
こだわる」は、本来「気にしなくてもいいようなことが心にかかる。気持ちがとらわれる。」という意味で、どちらかと言えば否定的な意味合いで使われることが多かった。たとえば「ささいな失敗にこだわる」などのように。これが、気持ちがとらわれるという意味から、妥協しないという肯定的な意味に転じたものが新しい言い方だと思われる。
「こだわる」の原義は、「すらすらと行かないで、ひっかかったりつかえたりする。」(『日本国語大辞典(『日国』)』)というもので、もともとは、たとえば、
「脇指(わきざし)の鍔(つば)がよこっぱらへこだわっていてへのだ」(十返舎一九『東海道中膝栗毛』1802~09)
「それ程拘泥(こだ)はらずに、するすると私の咽喉を滑り越した」(夏目漱石『硝子戸の中』1915)
のような使い方をしていたのである。
「こだわる」は漢字を当てると「拘る」だが、同様の意味の漢語に「拘泥(こうでい)」がある。ただし、「拘泥」は肯定的な意味は生じておらず、あくまでも、「あることを必要以上に気にしてそれにとらわれること。」(『日国』)という否定的な意味で使われる。
最近の国語辞典は、この「こだわる」の肯定的な意味を、新しい言い方だと注記するかどうかの違いこそあるが、ほとんどが載せ始めている。完全に市民権を得たと考えて良さそうである。
本来の否定的意味の用法にそれこそこだわるのはそいつの勝手だが、すでに市民権を得ているものを「間違いである」などと利いた風に他人に押しつけるのは偏差値バカ的独善というものである。そんなものは無視でいい。
宅配便が届かない。あまりに時間がかかりすぎている。どうなっているのか。
ホモ・カンターンス。谷川俊太郎の詩に「鳥は歌うことを知っている/その為鳥は世界に気づかない」という節があった。人は鳥のように歌わない。その為世界に気づき、世界を作る。ソシュールは「音楽も舞踊も広い意味のコトバであり、これが動物と人間の境界を画する唯一のしるしだ」と考えた。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 10, 2019
我々の眼差しは肉体の開かれた口であり、それは万人共通の世界の肉によってただちに満たされるという事実―――したがって、生きた身体は世界の上に押しかぶさり、見る身体、触る身体となり、いわんやおのれ自信に感じられる身体となるという事実、一切はそこから由来するのである。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 9, 2019
芸術は一般的に言って、実用的かつ実証的な実践の中には現れてこない、絶対的な精神的心理に関わる、普遍的な象徴であるということができる。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) June 9, 2019
頓珍漢な難癖に付き合う筋合いはないんだ。
「おお、全ての贈与する者らの不幸!わが太陽の蝕!おお、欲望への欲望!おお、飽和のさなかにあって私を責め苛む飢え!」『内的体験』(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「夜の歌」よりの引用)
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) June 9, 2019
https://lmedia.jp/2014/05/29/53047/
もともと消費税法では、商品の価格を表示する際には税込価格を表示しなければならないと定められていました(これを総額表示方式といいます)。
ですので、今年の3月までは「サツマイモ2本98円」と表示し、レジで消費税分を上乗せすることは許されておらず、「サツマイモ2本105円」と表示しなければなりませんでした。
ところが、消費税アップに伴い、特例として総額表示ではなく税抜価格の表示が許されるようになりました。
これは、まだ正式には決まっていませんが、今後消費税が10%に増税される可能性があり、そのたびに商品の価格の記載を変更することが非常に手間がかかるという理由によるものだと思われます。ですので、今までは許されていなかった「サツマイモ2本98円、レジで105円」ということが許されるようになったのです。
舞台スタッフの仕事をしてた。
届くのを待って出かけることができない。「代引き」だから、宅配ボックスへってわけにいかない。これだから「代引き」はイヤなんだ。手数料以上の機会損失が発生する。
妻と紫陽花を観に行ったのは何年前のことだろう?
幻想はその定義からして客観的(中略)ではありえない。しかし、主観的(中略)でもない。むしろ幻想が属しているのは「客観的主観性という奇妙なカテゴリー」である。「自分には事物がそのように見えているとは思われないのに、客観的には実際にそのように見えてしまう」のである。(『ラカン』p93)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 8, 2019
世界の建設者であり物の生産者である「工作人」は生産物を交換することによってのみ、自分にふさわしい他人との関係を見出すのである。なぜなら本来、これら生産物は常に独居の中で生産されるからである。(『人間の条件』22)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 8, 2019
おそらく実在はしない店の前を夢の中で通りかかったが、やけにリアルだった。リアリティの源泉は何かと考えてしまう。それは現実と似ているっってことじゃないんだ。
〈コードなき差異〉発生の体験は、オットーの言うヌミノーゼ的体験であり、恐怖と快楽の両価性を帯びる。しかし社会的動物である人間は、この動きのみに身を任せて生きることは不可能であり、これを制度化して意識野に送り出さざるを得ない。けれどもこれまた絶えず下意識へと抑圧されていくのである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 7, 2019
労働社会が勃興し始めると、「人目に立つ生産」とその自負は、「人目に立つ消費」とそれに付随する虚栄に置き換えられ、商業社会は週末を迎えた(『人間の条件』22交換市場)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 7, 2019
芝居仲間からメールが届く。気にかけてもらってありがたい。スマホからの返信のために久しぶりにポメラを活用。入院中はこいつにとても世話になったものだ。
理解できないから単純な敵味方の二元論にすがるのか、単純な敵味方の二元論に陥るから論点が理解できないのか。
日常の何気ない動作を「練習」によって獲得し直している。「獲得」はできなくて、せいぜい「模倣」にすぎないのだけれども。ことごとくがそうであるから、いわば「生きる練習」「生きるマネ」といった感じだ。
でいたほうがいいのかなって気もするが、足首が背屈しないから、指先を床にこすってしまって痛いんだ。
どうにも超えられぬ障壁に四方を取り囲まれている。
おそらく、ほとんどの人びとは抽象的な伝統をもっぱら人格的な<意思>としてしか考えられないのである。だとしたら、あからさまな超自然主義が迷信として排除される時代にあって、人びとはこの意思を「社会」のなかに見いだしたくなるのではなかろうか。(致命的な思いあがり)
— ハイエクbot (@hayek306) June 7, 2019
に今、頭を切り替えてしまうのはいろいろ生活上の不都合がある。
〈想像界〉的関係では、対立の二極は相補的である。両者は一体となって調和的全体性を打ち立てる。双方とも、他方に欠けているものを補い合う。つまりたがいに他方の欠如を埋める(たとえば、男と女が調和的全体を作り上げる、じゅうぶんに実現された性的関係という幻想)。(『崇高』p319)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 7, 2019
イデオロギーの究極の形態は(…)現実の人々とその諸関係のなかにあるイデオロギーの基盤を忘却することにあるのではなく(…)〈現実的なもの〉を見逃すこと、そして「現実苦しみを抱えた人々」にじかに向かい合うようなふりをすることにある。(『暴力』p27)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) June 7, 2019
夢が見られたらいいのにな。
田町を自転車で走り回っている。
遠い昔の記憶を連れてくる。
思い出すと腹の立つことばかり。
リハビリに失敗したのだ。その方法も開始時期も間違っていたのだろう。
じゃどうにもならないことがあるんだ。現に自分の手の指一本、動かせずにいる。
健康を害したら、ますます妻に迷惑をかけることになってしまう。それはどうしても避けたいんだ。
私は、絶対主義もケ・セラ・セラの相対主義いずれの場合も、動きが停止することを恐れる。中・高年の人々が「近頃の若者はダメだ」と言い出した時には自分達の世代の価値観が硬直した証拠である。同時に「オジンやオバタリアンはダサイ」と決め付けた途端にヤング文化の絶対化・硬直化が始まっている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 3, 2019
人間の精神的変革が国家の変革の条件なのか結果なのかという古くからの議論についても、そもそも、個人が〈主観性〉[自己についての自己の意識]という形で自己と保つ関係は、実は権力の関係ではないのかと問うてみる必要がある。-政治の分析哲学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) June 3, 2019
〈言語(ラング)〉というものと〈言葉(ランガージュ)〉というものがあるのではない。言葉とはその表層意識において物象化された姿と、深層意識において流動する姿を共に有しているのである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) June 3, 2019
BBCニュース - 天安門事件から30年 中国が忘れた映像 https://t.co/aV4SRP0PaP pic.twitter.com/diUkN9tRyC
— BBC News Japan (@bbcnewsjapan) June 3, 2019
「工作人」の世界においては全ての物が効用をもたなければならず、すべてのものがなにかそれと別のものを得るための道具として役に立たねばならなければならない。だから、このような世界においては、意味そのものは、目的としてのみ、つまり「目的自体」としてのみ、現れる。(『人間の条件』21)
— ハンナ・アーレント (@hannaharendtbot) June 3, 2019
怠いとか、そういうことじゃなく。身体の部位が石みたいにずっしり文字通り重いのである。
嘘情報ならいらないんだ。
1997.1.17~19『楽園の夜』@下北沢駅前劇場(作演出)
1997.9.19~21『水の中の天使』@新宿シアターモリエール(作演出)
2002年 第24回文化庁舞台芸術創作奨励賞佳作受賞
2004.7.12~20日本劇団協議会主催創作奨励公演『温室の花』@東演パラータ(作)
2004年 第26回文化庁舞台芸術創作奨励賞特別賞受賞
2005.10.8~16日本劇団協議会主催創作奨励公演『痕-KON-』@青年座劇場(作)
2009年 第25回名古屋文化振興賞佳作
2010年 「日本の劇」戯曲賞2010最優秀賞
2011.3.25~27新進芸術家育成公演事業等『オトカ』@恵比寿・エコー劇場(作)
2012.6.14~17『ジョマクノギ』@せんがわ劇場(作演出)
2013.4.3~7『猫町』@北品川楽間(脚本演出)
2013.6.27~014.4.27劇団飛行船公演『ロビンフッドの冒険』@多摩市民館大ホールほか、@台湾(演出)
2013.12.9~15『ささやかな/午後』@江古田兎亭(演出)
2014.10.10~13『痕-KON-』@要町アトリエ第七秘密基地(作演出)
2015.11.4~8『風待ち』@東松原ブローダーハウス(作演出)
2016.9.30~10.2『冥途』@せんがわ劇場(脚本演出)
2017.11.9~12『オトカ』@せんがわ劇場(作演出)
持て余してしまう。ていうか、果たしてこれが「我が身」なのかという感じが常につきまとう。
哲学者にとって構造とは、我々の外にあっては自然や社会の組織のうちに、我々の内にあってはシンボル機能として現存するものであり、デカルトからヘーゲルに至る間哲学を支配してきた主観-客観の相関関係から脱け出る道を指示してくれるものである。『モースからクロード・レヴィ=ストロースへ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) June 2, 2019
まともに働くこともできやしない。存在意義が何もない。
https://mahikaizen.yokohama-ss.com/
ひと昔の研究では脳の設計図は書き換わらないとされていました。
例えばA駅からC駅に今まで直行で行っていたとします。
A駅~C駅までの直行の道が閉ざされてしまったのが麻痺の状態です。
ただ仮に直行が閉ざされてもA駅~B駅~C駅などの迂回路はまだあります。
この道を新たに覚えなおさなければいけません。
http://www.f-seisyukai.jp/about/pdf/kamoku_nousottyu_01.pdf
脳障害後,比較的遅れて起こる機能回復は,中枢神経の可塑的変化や神経ネットワークの再
構築によって起きる.これを効率良く科学的知見に基づいて行うのがニューロリハビリテー
ションである.
脳損傷後,運動の機能回復に関して,大脳レベルでは,一次運動野だけでなく,補足運動野
や運動前野などの運動関連皮質が両側性に関与しており随意的運動の頻度と質により可塑的変
化を起こし脳地図が変化する.また錐体路の障害に関しては,錐体路の同側性下行路,脊髄で
は腹内側を走る両側性の網様体脊髄路が重要で,とくに体幹・近位部は,両側性の網様体脊髄
路の働きで改善しやすい.
運動機能回復訓練では,障害後の大脳半球間相互抑制のアンバランスの修正,麻痺肢による
動作に意味のある随意運動が必要で,経頭蓋直流電流,パワーアシスト付き電気的治療,バイ
ラテラルトレーニング,回復の抑制を起こさない下肢装具の使用と適切な訓練方法,イメージ
療法,心理・精神的サポートを行う.回復の程度には,薬物,遺伝的体質や併存症などが影響
し,患者の価値観や希望も考慮したオーダーメイドのプログラムならびに目標設定が重要であ
る.
http://www.inamura-clinic.com/knowledge/knowledge_saisei.html#p
脳卒中や脳外傷で発生した手足の麻痺などの症状がリハビリテーションで軽快することがありますが、これはネットワークが再生したのではなく、障害を受けずに残ったネットワークの機能が強化されるので症状が軽くなると考えられています。
http://www.f-seisyukai.jp/about/kamoku_nousottyu.html
科学的なリハビリテーション訓練の重要性は以前より強調されていますが、個人差や環境の影響が大きく、現代のリハビリテーションは、まだまだ経験に基づいて行われ、施設間でその方法やゴール設定に差かあるのが現状です。
脳の運動を司る部位が損傷されると、日常生活で手足を動かすことが困難になる場合があります。片麻痺や半身麻痺が起こり、手足の動きのコントロールが利かなくなることで、歩いたり、階段を上ったり、箸を持ったりするなど日常生活のさまざまな行動ができにくくなります。また、喉や舌の筋肉に影響が残ると、ろれつが回らなくなったりするなど発声に問題が残ったり、物を飲み込んだりする「嚥下」ができなくなり日常生活に重大な支障をきたすこともあります。
https://www.my-kaigo.com/pub/individual/byouki/cat6/0190.html
脳の運動を司る部位の損傷が原因であるのに、あたかも筋力低下が原因であるかのような「訓練」をもっぱらリハビリと称してされていたわけで、トンチンカンだなあと思っていた。そんな田と外れなことをしてる間に、俗に「六箇月の壁」と呼ばれる時期(脳の可塑性が期待できる)は過ぎて取り返しのつかぬ事になってしまったのである。
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