膝折れ
ではないのだけど、健側の脚が疲労で体重を支えていられない。
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ではないのだけど、健側の脚が疲労で体重を支えていられない。
パスカルによれば、死んだ牧神は異教の神であり、タムースが聞いたのはキリスト教の勝利を告げる真の神の声であったという。しかし、〈神の退去〉を嘆いたヘルダーリンや〈神の死〉を告知したニーチェと共に、シュレーバーは牧神ばかりかパスカルの神をも殺してしまった。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 30, 2019
ホモ・モルタリス。本能とは異なるコトバによって〈死〉をイメージ化し、死の不安と恐怖を持つ唯一の動物だという意味では「人間だけが死ぬ動物」[ド・ヴァーレンス]かもしれぬ。しかし同時に、「人間は死への自覚をもって自らを不死たらしめる」[ハイデガー]動物でもあろう。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 30, 2019
レコード店で俺がZOAのレコードを探してる。店員が「取り寄せになりますが」という。「お願いします」と俺。そしてどこかに電話した。「エジソン。じゃなかった、ディスクユニオン」
エジソンとは懐かしい、と夢から覚めた俺が思った。
言葉と方法をインプットしなきゃ、何も次作を書き出せない。
弁証法運動の最も思弁的な神秘は、現実の豊かさ・多様性が弁証法の概念媒介に還元されうるということではなく、この弁証法的構造化が実現するためにはそれ自体がなんらかのまったく偶然的な要素に具現化されていなければならないという事実である。(『崇高』p340)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 29, 2019
「シニフィアン」はソシュールが作った専門用語だが、ラカンはこの語を非常に厳密に用いる。シニフィアンは(…)主体を表象する特徴、しるしである。私を表象するシニフィアンを通して初めて、私は私であり、シニフィアンが私の象徴的アイデンティティを構成しているのである。(『ラカン』p204)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 29, 2019
結局のところどんな社会でも、多種多様な権力関係が社会を横断し、特徴づけ、構成している。このような権力関係は、真理の言説の生産・蓄積・流通・作用なしには、相互に区別されることも、打ち立てられることも、機能することもできないのです。-防衛講義-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) April 29, 2019
単に大文字の問題に言及しさえすれば「意識が高い」と目されると踏んでいる浅薄な社会派気取りのプロパガンダ劇にすぎない。しかもヘタクソなもんだから、誰もその「主張」に靡いたりはしない。ただ仲間内で互いに承認し合うことだけが目的なのだ。くだらない。
があるのになぜ荷物を持ち帰るのか。不在連絡票も入ってないし、つか、そもそも不在じゃなかったのだが。いったいどうなったいるのか。
というものは単に用件を伝えるのみじゃない。否応なしにプラスアルファの情報を孕んしまうものである。
なんて言い方があるように、右足と左手、左足と右手という組み合わせのスタイルが歩き方としてアプリオリに「正しい」わけじゃないだろう。そにこだわるメリットデメリットを考えなきゃ駄目だ。
https://kotobank.jp/word/受容理論-842170
1960年代末に生まれた文学理論。英語reception theoryの訳。ドイツ語圏では受容美学とも称される。ドイツのコンスタンツ大学でH.R.ヤウス,W.イーザーらによって理論化・実践された。読者は〈期待の地平〉を持って作品に接し,読みの過程でこれを修正・訂正すると主張,読書行為の相互作用性を指摘。また,時代によって異なる〈期待の地平〉と個々の作品の間には,新たな解釈・評価が積み重ねられてゆくという観点から,作品と読者の間の〈対話〉という新しい文学史観を提唱。
哲学的人間学の立場から加えられる三つの人間の定義:死の不安に怯える動物ホモ・モルタリス(死すべきヒト)、夢をみる動物ホモ・ソムニアーンス(幻視のヒト)、歌う動物ホモ・カンターンス(詩と呪文を唱えるヒト)。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 29, 2019
人間時代の彼と同一の主体であるといえるのかという問いについて。
http://kazutakaimai.cocolog-nifty.com/kazutakaimai/2019/04/post-cd5ae5.html
関係を整理し、経つべきは絶つくらいの努力は必要だろう。
が口癖になって、言葉のインフレを起こしている。
(シュタイナーによれば)緑は現世と死後の世界との間で明滅する色、生命の際にある色、しかし無垢な生命としては数秒間しか地上にとどまってはいられない色だという。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 28, 2019
資本主義は「公正」でないという事実は、資本主義を大衆にとって受け入れやすくする重要な特徴なのである。わたしの失敗はわたしの能力不足によるのではなく偶然による―そう分かれば、わたしは失敗してもずいぶん楽に暮らしていける。(『暴力』p114)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 28, 2019
聞いたことない、とか、おめえがそうでも世間には存在するんだよ。知るかって話だ。
画像の貼り付けができない。何だこのブログ。使えねえなあ。リニューアル前の状態に戻せないのかなあ。
グロテスクとは本来古代の装飾文様の一種で、唐草模様の中に人間や動植物、さらには空想上の生物を誇張・歪曲した形に描いたものをさす。この言葉の由来は、これが15世紀末にローマで発掘された地下遺跡(グロッタ)で見つかったが故にイタリア語で“グロテスク”と命名されたことからきている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 27, 2019
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/187166/meaning/m0u/
1 《書物の帙 (ちつ) のひもを解く意》書物を開く。本を読む。「漢籍を―・く」
2 《1から》書物などで調べて真実を明らかにする。「歴史を―・く」
3 衣服の紐、特に、下紐を解く。
「秋風に今か今かと―・きてうら待ち居 (を) るに月傾きぬ」〈万・四三一一〉
4 つぼみが開く。
「ももくさの花の―・く秋の野を思ひたはれむ人なとがめそ」〈古今・秋上〉
ソシュールの記号学解体作業は、まずプラトン、『聖書』以来の「言葉とは物や概念の名前である」という考え方への批判から出発する。即ち言語記号とは「自らに外在する実体を指し示す表象(代行・再現物)ではなく、間主体・共同主観的網目の産物に過ぎない」という指摘がその前段階である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 27, 2019
ならんね。まったく、冗談じゃないよ。
合理主義の意味するところが最大限の理性の有効な活用なら、私自身合理主義者ということになる。しかるに、その用語が意識的理性はすべての特定の行為を決定すべきであるということを意味するのなら、私は合理主義者でないし、そのような合理主義は非常に不合理に思える。(ハイエク 法と立法と自由)
— ハイエクbot (@hayek306) April 27, 2019
ある個物が他の個物から区別されて、それ自身としての一貫性を保持すること。ある物が数において、一つであり二つではないことを表すため、「数的同一性」ともいわれる。個人の場合はとくに「人格同一性」が用いられる。[野家啓一]
善悪の構図に基づけば、物語を作りやすいのだろう。自己批評性の欠如した頭の悪い人間にとっては。
ってことに横から割り込んでくだらねえ揚げ足取りしてんじゃねえよって話。しかもトンチンカンな上から目線で揚げ足もとれてねえし。
役所の窓口は開いていてほしいものだ。
指先がなんだかモヤモヤする。猫が爪とぎする気持ちが分かる。
固定資産税を払った。
ブックオフオンラインとネットオフを混同してた。
ライブ会場で買ったCD。メジャー流通はしておらず、それだけになくしたらもう手に入らない貴重品。
ニーチェは、西洋文明が〈最後の人間〉、激しい情熱も何かに関与する意欲もない冷血動物に向かって進んでいることを認識していた。人生に疲れ、夢をみる力もない〈最後の人間〉は、なんの危険も冒さず、ただ快適さと安全だけを、寛容な相互関係の表現だけを求めている。(『暴力』p44)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) April 26, 2019
病前に難なくできたことがことごとくできなくなったものだから、紫煙をくゆらすことごときでも、変わらずできると嬉しいのである。自己同一性が化確認されるというか、以前の自分と現在の自分とが繋がっていると感じられるから。ま、禁煙できないことのいいわけにしかなってないのだが。
最初に聴いたアウトレイジのアルバムがこれで、新大久保にライブを観にも行った。これはこれでカッコイイのだが、どこが和製メタリカ? つか、メタル? って思ったのだった。
エントランスの郵便受けに杖歩行で向かうも、挫折して途中で引き返す。我が家は一棟の恥に位置しているからエレベーターまで遠い。こけないように慎重に杖歩行するから時間がかかりすぎて、途中で尿意をもよおし、引き返してきたのである。こいつの管理がたいへんなのだ。恐怖である。尿意があるだけマシともいえるが。
〈コードなき差異〉発生の体験は、オットーの言うヌミノーゼ的体験であり、恐怖と快楽の両価性を帯びる。しかし社会的動物である人間は、この動きのみに身を任せて生きることは不可能であり、これを制度化して意識野に送り出さざるを得ない。けれどもこれまた絶えず下意識へと抑圧されていくのである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 25, 2019
古来よりの人間の様々な定義、哲学的人間学の立場から加えられる人間の定義のいずれも、〈信号〉(シグナル)ではなく〈象徴〉(シンボル)を操る動物(アニマル・シンボリクム)、即ちホモ・ロクエンスが前提となる。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) April 25, 2019
2017年の高崎・影山・井上の対談[7]では、再結成で演奏しないことについて、高崎は「いい曲なんやけど、やらん」「普通にあれをやってるんだったら『ええ曲やね』って思うんやけど、派手なジャンプスーツ着てさ、ピンク・レディーみたいに足をパカパカやったり」と、楽曲自体は評価しつつも、振り付けと衣装に違和感を感じていたことを述べ、影山も「たっかんは、曲だけじゃなくて、衣装とか振付とかその当時の黒歴史がともに甦ってくるのが嫌なんだよね」とその心情に理解を示していた。ファンは聴きたいだろうに、それに応えるのがプロってもんだろう、などと思ったこともあったけれど、そうじゃない。ファンなら当然レイジーのデビューのいきさつや「ヘヴィメタル宣言」から後のラウドネスに繋がる流れを知っているのだし、むしろ、最大のヒット曲をあえてやらないという選択が彼ら「らしさ」でもあり、その「らしさ」を見せてやることの方がファンサービスってもんなのだろうと今は思う。
妻に手を握っていてほしい。けれど俺は涙を流すことすらできないだろう。涙が出ないのだ。自律神経がバグってるのか、薬の副作用なのかわからない。なにしろ主治医に何を言ったって「様子を見てみましょう」っていう定型句の下、不作為なのだから。来月、主治医を変える。少しはマトモになるといいな。
パスカルも言うように学説というのは矛盾だらけなのだが、それらは明晰であるかのような印象を与えるものだし、一つの意味を持っているように見える。不条理を土台にしての真理、意識の目的論が真理に変えることができるつもりでいる不条理、こういったものこそが原初的な現象なのだ。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) April 25, 2019
私たちの本能は現代の世界には適応できません。つまり現代の世界を維持していくには、本能が法によって抑圧されている、サプレスされていることが必要になる。法つまりそれぞれの国での伝統というものが文明の進化を可能にしたというふうに私は思っております。(ハイエク 自然・人類・文明)
— ハイエクbot (@hayek306) April 25, 2019
https://kumamoto-pt.org/up_file/useful/1708/useful_9111948_1.pdf
運動負荷•全身運動 •負荷強い運動 精神的要因•ストレス・恐怖・興奮・緊張・不安・ 怒り・感激 •会話がずんでいるとき •面接・認知課題
排便・排尿困難•いきみ
睡眠不足•昼夜逆転
痛みを我慢している•麻痺側肩痛み •腰痛 •関節痛(OA)・そ他 急激な体調変化•寒さ・脳血管障害再発
https://kotobank.jp/word/肩手症候群-162858
肩の鈍痛のほか,運動が制限され,進行すると外旋運動が害される。痛みは頸部から腕にまで及び,手は赤くはれ,手指の伸展,屈曲が完全にはできなくなる。いわゆる交感性異栄養症の特徴である四肢末梢部の疼痛 (とうつう) ,灼熱感や,関節周辺部の圧痛,腫脹 (しゅちょう) や浮腫を伴い,手指末端は冷感,チアノーゼを呈することもある。冠不全,狭心症,脳血管障害,石灰化腱炎など比較的高齢者に多く見られる疾患が引き金となって起こる。症状の軽い例では自然治癒の傾向があるので,リハビリテーション,温熱療法,ステロイド剤関節注入などを行なう。
わかりもしねえくせに所詮は他人事の気楽さできいたふうな干渉してくんなというのだ。鬱陶しい。
「息の仕方が分からない」ということはあり得るのだな。
やっと寝入れたたのだからもっと眠りを貪っていたい。
そのとおりに認識されないならば、見えないより悪い。
の中味を考えてみれば、イライラするのにも理由がある。ちんたらやってる間に機会損失が増大しているのだ。
必要になるかも、と思って不要なモノが場所を取る。「いつか」は来ないかもしれないし、だから極力整理してしまおう。モノは物でもあり者でもある。
明確な後悔はできないから、あれがいけなかったか、これが祟ったかなどと、ありもしない因果関係を探してしまうな。
hhttps://www.ikyo.jp/commu/question/711
関節可動域(関節の動く範囲)を広げたり、維持したりする運動のひとつ。
高齢者や身体障害者などの関節を、介護者が助力する形で行われるものを指します。
に行かなきゃなと思ってたところ、奥歯に違和感。虫歯かと思ったが、虫歯にはなってないとのこと。よかった。
憑依した幽霊みたいだ。
顔や頭や身体のあちこちに突き刺さってる自分の姿が思い浮かぶ。
など、普通は意識しないものだ。
ある者を貶める文脈で、バカとかアホとかいう意味で「知的障害」の概念を召喚しておきながら、差別の意図はないなどと、検証不能な「気持ち」の話に逃げ込むなど、バカな上に卑怯である。
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-006.html
アスペルガー症候群は広い意味での「自閉症」に含まれるひとつのタイプで、幼児期に言語発達の遅れがなく比較的わかりにくいですが、成長とともに対人関係の不器用さがはっきりすることが特徴です。これまでは学童期以降あるいは成人後に初めて診断を受けることが少なくなかったのですが、幼児期に診断を受けるケースも増えてきました。早い時期から子どもの特徴を理解し、ニーズに合った適切な支援につなげていくことが、子どもの発達には望ましいことです。
したがってスペンサーにとっての国家は「行うべき機能」ではなく「行うべきではない機能」によって適切に定義される存在なのである。こうした彼の古典的リベラリズム思想に基づく自由放任論は20世紀アメリカのリバタリアニズム思想の基礎を築くことになる。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年4月23日
https://ja.wikipedia.org/wiki/ナンバ_(歩行法)
「ナンバ」とは、日本における歌舞伎の動作である六方(ろっぽう)にみられる、同じ側の手と足を動かして歩く動作のことである。 古武術研究家の甲野善紀の著作などにより一般に知られるようになった。江戸時代以前の日本ではナンバ歩きが一般人の間で広く行われていたが、明治以降、西洋的生活様式の移入とともに失われたとされる。ただし、これは厳密な検証を経た学説ではなく、歴史学界では一般に甲野個人の武術理論から生まれた「伝統の創造」の類と見なされている。ただし、ナンバを基本とする身体の使い方は、伝統武術や陸上競技などに一定程度応用することが可能であり、スポーツ科学の観点からも研究が行われている。
日本の舞踏では蘆原英了の『舞踊と身体[1]』第四章 日本舞踊の身体 ナンバンによると「ナンバン」と呼ばれ嫌われる動作であるとされ、元来は南蛮人の歩き方を嘲笑したことが由来ともいわれ、演劇評論家の武智鉄二の『伝統と断絶[2][3]』により知られた。武智によれば他に古代ギリシアの壺絵など世界各地にみられたものであるという。また、竹馬での歩行はナンバそのものであり、天秤の担ぎ方、相撲の鉄砲、段梯子の登り方、阿波踊りなどもなんばであり、ゴリラの走り方もなんばである。また、ナンバに類似したものにテレマークスキーの歩きがある。
一説によると、江戸時代の大名行列の絵などを基に、当時の日本人の歩き方は手に何も持たない場合は腕や上半身をあまり振らず、腕を振る場合は出た足と同じ側の手がわずかに出るような動きだったとする見解がある。ただし、科学的な方法で実証されたわけではないため、仮説の範囲を出ない。この仮説によれば、西洋人の歩行のような体をひねる動きは、特に武士は大小の日本刀が邪魔になり着物が絡むため難しい。また、着物の帯も緩みやすい。そもそも近代以前に肉体を道具として駆使して山などで運搬する農作業者や行商などの職業では、重量のある荷物を運ぶにあたっては体がぶれないよう歩くことは必然であり、ことさら腕を振ったり体をひねったりする動作は行なえない。以上の事実からナンバ歩きが発達したものというのである。しかし、様々な剣やサーベルを提げた兵士や、農作業者、行商は西欧にも存在するため、それをもって日本人の歩行が西欧人と根本的に全く異なるものであったという根拠にはならない、という意見もある。
また、武道家・武道史研究家の高橋賢は、「江戸時代においても、ナンバは訓練された特殊な動きで、昔の一般の日本人がこのような動きをしていたのではない」という説を提唱している。さらに、現代の時代劇や大河ドラマにおいても、狂言師や歌舞伎役者などを含め、俳優の歩行は「ナンバ」ではない。これは逆に言えば、大小の日本刀を差し、和服を着ていても手と足を逆に出して歩くことは難しくないことを示しており、刀と和服を根拠としたナンバ論に疑問をもたらす原因ともなっている。
また一説には、従来のナンバ歩きが廃れた原因は、明治初期に徴兵制が導入された際、西欧式軍事教練が学校教育に右手と左足、左手と右足を同時に出し、体をひねる歩行が取り入れられた故であるとされ、また衣服や住居の作りが西欧化したこともその要因に挙げられる。しかし、明治初頭に東京で撮影された写真では街路を歩く通行人は現在と同様な手の振り方をしている。映画が発明された後の大正以降に撮影された映像や写真においても、「ナンバ」は確認できない。衣服や住居の西欧化は昭和に至っても日本社会に広く普及していたわけではないが、にも関わらず学校で教えられた歩行法のみが全国的に浸透したと考えるのは、明らかに不自然である。このように、近代以前にはナンバが一般の日本人の間で広く行われていたという説は、学術的にはほとんど支持されておらず、日本の古武術研究家による「伝統の創造」の類であるという見方が現在のところ有力である。
を聴くといつも、北大の新サークル会館へ向かう途を思い出す。昔、初めてそこへ行く途中、おそらく軽音楽研究会の誰かがコピーしてるのが風に乗って聞こえてきたのだ。
左肩をかばって、右を下にして寝返りを打つと、左腕が背中側に置き去りになり、かえって左肩をねじって痛めてしまう。困ったもんだ。
動きづらいならなんとか無理して使うようにするが、まったく動かないのだから話にならん。
を聴いたら、急性期病棟にいた頃を思い出した。
あの頃、どういうわけかこの曲が頭の中で鳴っていたんだ。
科学者や自然科学に魅せられた人びとがかくもしばしば社会科学に強要しようとしてきた方法は、科学者たちが実際自らの領域でつかっている方法なのでは必ずしもなく、むしろ彼らがつかっていると信じている方法だということである。これは必ずしも同じものではない。(科学による反革命)
— ハイエクbot (@hayek306) 2019年4月23日
シューゲイザーの轟音を浴びながら身体を揺らす「遊び」など、思い立ったらいつでも簡単にできるもんだと信じて疑わなかった。
それ自体が滑っちゃうんじゃ意味ないよ。
石のように重くて起きてるだけで疲れてしまう。
https://kotobank.jp/word/調整コスト-159651
一般的には,経済主体が与件の変化に伴い資源配分の変化を余儀なくされることによって被るコストのことを指すが,より限定的には,企業の投資行動における基本的な概念として用いられている。新古典派の静態的投資行動論においては,資本に対する需要は投資需要ではなくストックで表されている。 1960年代以降,こうした新古典派の投資行動論に調整コストの概念を導入することにより,企業の投資行動の理論の動学化を図る試みが相次いでなされ,現在に至っている。
所有権がきちんと守られないところでは生存そのものが危うくなります。
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年4月23日
所有権はとても重要な権利です。
であるなら、共産主義のヤバさは自明ということになる。
戯曲を書いていない。ピタパタ旗揚げ前は、常に何か書いていた。上演の予定はなくとも、戯曲賞への応募という目標がペースメーカーになっていた。そうして実際、いくつかの作品が書き上がり、後に自ら上演することにもなったのだ。
が見つからない。メジャー流通してないものだから貴重なのだ。どこへやったのかなあ。
と断定するならそれなりの根拠を示せという話をしているのだ。そんなことすらわからぬアホが漫画チックな敵/味方の二元論で吹き上がっている。
で、多くのことは済んでしまう。
けれども正直、この不自由な生の終わりを夢見てしまう。
文字どおり瞬く間にたどり着けたキッチンも、今はひどく遠い。
ソシュールの記号学解体作業によって明らかにされた深層の言葉とは、制度化される以前のメロペー(初源的メロディ)、リズム、所作のみならず、夢という言語とも通底する〈動きつつあるゲシュタルト〉である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月23日
もはや生きているとは呼べぬ状態でただ「生存」し続けている。
補って、使える側に負担がかかりすぎて痛くしてしまう。
歩いているときに義足が地面を擦らないよう、健足が背伸びをするようにつま先立ちになること。ぶん回しと並んで典型的な「義足っぽい」歩き方になってしまいます。
主にクリアランスが確保できていないことが原因だと思います。
伸び上がりとぶん回しを抑えることができれば自然な歩行に近づきます。
麻痺の脚がぶん回しになりがちだったり、腰から持ち上げがちなのも同じ理屈である。「自然な歩行」に近づけるにはそのカタチを表層的に模倣するわけで、だから不安定になるのも道理なのだ。
退院から一年経った。
退院したばかりの頃は、給水器に並ぶことなくいつでも好きなだけ水道水をごくごく飲める自由に感動したものだが、さすがにそれには慣れた。身体の不自由さと絶望感にも慣れてきた。
は体内で常にくすぶっている。文字通り手も足も出ないのだ。
https://japanknowledge.com/articles/blognihongo/entry.html?entryid=229
「他愛ない」と書かれることもあるが、これは当て字なのである。
ただ、現在では「たわいない」の方が一般的であると考えられていて、辞書も「たわいない」「たあいない」ともに見出し語としているものの、「たあいない」は参考項目扱いで、「たわいない」を本項目としているものがほとんどである。
彼は生きていますが、もはや生きているのではありません。彼はすでに死んでいるので、それは生なき生なのです。彼がXなきXという範型にしたがって作り上げている連辞は、単に形式的な可能性であるのみならず、ある日、実際のその瞬間に起こったことにおける可能化の出来事でもあるのです(『滞留』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2019年4月21日
主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けることは絶対にできない。(『ラカン』p99)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月21日
であるとは思うけれども不幸だとは思わない。たとえ今このまま死んだとしてもじゅうぶん幸せな人生だったといえる。
膝をぶつけているらしく、ちょっと触れると内にこもった痛みが吹き出す感じ。
バーク思想の特色は、まずフランス革命に理論的根拠を与えた啓蒙的合理主義への徹底的な批判である。人間は不完全な能力しか持たない存在である以上、合理主義が前提とする「裸の理性」ではなく人類の歴史・集合的知見である「固定観念」=伝統的価値観を尊重し中心に据えなければならないと説いた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年4月21日
妻が蒲団を干している。俺も我が身をそこに引っかけて陽光にさらしたい気分だ。
を手前の思い込みに基づいて無責任に口走るのも自由ではあるだろう。だがそんな言葉にリアクションしてやる筋合いはないんだ。
退院してから今日でちょうど一年である。過ぎてしまえば時の経つのは早いものだ。「治る」とか、「快復する」とかいうものじゃないという理解を少なくとも妻と親とはしてくれているのが救いである。
https://www.hokuriku-hosp.jp/service/exp_ls6.html
脳血管の脆い部分が破れ、脳内に出血する疾患です。 多くの場合、高血圧が原因となっています。 血圧の高い状態下、脳動脈壁の損傷部位が圧負荷に耐えられず破綻すると考えられます。 高血圧症がないにもかかわらず脳出血を起こすヒトでは、おそらく先天的に血管に脆弱な個所が潜んでいたため破れたと推定されます。 出血部位によって症状は異なり、小出血ならば軽い手足のシビレ感にとどまりますが、大出血では一気に昏睡状態に陥ることがあります。軽い出血は、脳内に漏出した血液が吸収されるに従ってその部位の脳の機能が回復してきます。出血がある程度多量ですと、元に戻らない片麻痺(半身不随),言語障害などを残します。 脳梗塞との鑑別が必要、また出血部位と大きさによって緊急に血腫の外科的切徐をきめるためにはCTを撮る必要があります。 発作時に頭痛が激しく、嘔吐をくり返し意識障害に陥る場合は、広汎な出血が疑われます。 また、脳へルニアのリスクも念頭におかねばなりません。
https://kotobank.jp/word/不随意運動-124760
大脳基底核の病変によって錐体外路が侵され,意識とは無関係に異常運動が起る状態をいう。運動過多が現れることが多い。不随意運動のうち,最も多くみられる形は振戦で,その代表的なものにパーキンソン症候群の際の「銭を数えるような」指の反復運動がある。そのほか,舞踏病様運動などがある。不随意運動は通常,睡眠時には休止し,感情的な刺激によって強くなる。
不随意運動を注意されても、知らねえよって話である。
経験的な私の自己経験と超越論的統覚の私とを分ける裂け目は、経験の対象としての実在と論理的構成物、たとえば、数学的対象の実在(…であるようなXが実在し…)の区別に対応する。(『否定的』p32)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月20日
で、狭いとこを通り抜けるのに、スリングで腕を抱えてると邪魔になるなあ。
https://www.shimadzu.co.jp/boomerang/27/06.html
脳には、死んだ神経細胞に代わって別の神経細胞がその役割を肩代わりする“可塑性”というメカニズムがある。一度壊れた回路に代わる迂回路が、損傷を免れた別の神経細胞によって再形成されるのだ。この脳の力を、最大限に引き出すことを意図して考え出したのが、促通反復療法だ。 「たとえば、指の曲げ伸ばしのリハビリでは、『曲げてごらん』と患者さんを促すと同時に、『曲げる』神経回路の興奮を高めるように軽く叩いて刺激します。患者さん自らが『曲げる』という意志を持った状態で、指につながる神経回路をきちんと指定して脳に分からせることが大切なのです。これを100回1セットとして繰り返し、リハビリを行うことで、損傷した部分に代わり、新たな迂回路が形成され、神経回路が強化されていくわけです」 もちろん効果には個人差がある。麻痺の度合いなどから、回復が見込めないと判断する場合もあるという。しかし、 「最終結果は、やってみないとわからない。リハビリは、回復が見込まれないと診断した場合でも、とにかくいろいろな手法を駆使し、組み合わせて、やるだけのことは全てやってみることが大切なのです」(川平教授)
https://proverb-encyclopedia.com/kirabosinogotoku/
じつは「綺羅星」という言葉はありません。「綺羅(きら)、星(ほし)のごとく」という言い方から、誤ってできた語なのです。
「綺羅」には「美しい衣服」、転じて「外見が華やかなこと、 栄華をきわめること」という意味があり、「綺羅星のごとく」は、地位の高い人や明るいものが多く並ぶようすのたとえです。
よって、「会場にはロックスターたちが綺羅星のごとく居並んでいた」と言うことはできますが、「彼は、綺羅星のごとく輝くロックスターだ」ということはできません。
ここに、無意識にたいしてあたえることのできる定義の一つがある。すなわち無意識とは、その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態である。つまり、思考そのものの外にある思考形態である。(『崇高』p41)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月20日
音を聞けば勝手に指が動くほど完全に身体で覚えてたギターリフの「記憶」も失われてしまった。
ラウドネスのリマスターベストアルバムを聴く。
スカッと健康的。
言語は、間身体的な意思伝達(la communication intercorporelle)を、われわれが望むだけ多様に変化させ、またひろく拡大することができる。言語には間身体的な意志伝達と同じ条件、同じ型があるのだ。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2019年4月20日
ギターを弾いたりすることでコードの何たるか、スケールの何たるかなど、音楽の構造に触れることができたのだと、その機能を失って改めて思う。楽器というものはそれを奏でて他人に聴かせるという表層的な単一の目的に奉仕する道具ではないのだ。「聴く」のは自分自身でもある。それ
そんなことすら理解できず、一家言あるふうにふるまいたがる自尊心の肥大した者の言葉など無視すればいい。つきあうだけ時間の無駄である。
経った。給水器に並ぶことなくいつでも水道水をごくごく飲める、どころか、熱いコーヒーまで飲める幸せにも慣れっこになった。が、「回復」の兆しすらなく、その絶望にも慣れてきた。
いい天気だからちょっと散歩でも、というふうに気楽な行動ができれば世話ないのである。
が、執筆中はおのずと立って、情報収集を常にしている感じだけれども、書いていない状態だと、読書するのもしんどい。
萬年さんや山田さんを通してであったように、フーコーには寺山経由で触れるべきなのかもしれない。
のうち、お気に入りで、かつて繰り返し観たものをPCに取り込んでmp4化した。
文化の多様性と無根拠性を知っただけでは安直なペシミズムに陥るばかりである。何故私達は、それでも神と真理を求め続けるのだろうか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月19日
20世紀における思想の変遷はまことに複雑な様相を呈していて、[…]めまぐるしい動きを見せているが、私達はその底に、これまで通約不可能とさえ思われていた東西の知が歩み寄り、ある共通のベクトルを描いて融合し始めている事実も見逃してはなるまい。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月19日
というほど暇じゃないんだ。
が身体の中にこもっていて、すっきり爽快ってことがない。
チリチリというか、麻痺側の足が痛む。それを補うべく、健側の足に負担がかかり、これまたやんわりと痛みを帯びて、逃げ場がない。亜脱臼の肩は相変わらず痛い。筋肉のつながりによるものだろうが、身体をひねったり右腕に力を入れたり、直接左方に触れなくても痛みが走る。
完全に信じきってるているわけでは全然ない。副作用だってあることも知っている。が、多少の不都合は引き受けて、割り振られた「患者」の役を全うするのがせめてもの社会参加だろうという気がするのである。
◆設定方法◆
最初に適当なフォルダを作成→[表示]→[縮小版]を選択する。
作成したフォルダを右クリック→[プロパティ]を選択する。
[カスタマイズ]タブ→[画像の選択]をクリック→適当な画像ファイルを
選ぶと、それ以降フォルダアイコンに画像が表示されます。
古い天井桟敷のアンソロジービデオをPCに取り込んでいる。『レミング』がでてきて、新宿スペースゼロで万有引力の『レミング』を観たのはいつだったかと思い、調べてみたら1992年とのこと。あれから27年も経ったのだ。
万有引力の『レミング』を観たのは1992年だったか。
ホモ・イコノミカス=「経済人」のことですが、それを「経済的目的だけを追求する人びとのこと」と解するのは全く誤りです。そもそも、純粋に経済的な目的といったものは存在しません。人びとは常になんらかの”非経済的”目的のためにかせごうと努力している、というのが真実でしょう。(ハイエク)
— ハイエクbot (@hayek306) 2019年4月19日
私達はメルロ=ポンティも言うように、〈意識〉か〈無意識〉かの二者択一を迫られてはいない。意識は無意識の顕在化であると同時に、無意識は意識の産物である。自我はエスが物象化したものであると共に、エスも自我が無ければ生まれない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月19日
足がチクチク痛む。
をデジタル救出。
そうなったのか、脚が蒲団に絡まって、起床することができなかった。
http://www.ptakita.org/36.html
脳卒中発症後に二次的に生じる痛みとして、麻痺した手足の筋肉の痛み、肩手症候群などがあります。まず筋肉の痛みは、関節を 動かそうとすると痛みがでることが特徴です。これは、主には筋肉などの軟部組織の拘縮(こうしゅく)している部分を伸ばされる、あるいは筋肉が過緊張の状 態にある場合に無理に急激に伸ばされことによって生じます。これには、筋肉や関節が固くならないように、1日数回、他動的に動かすことが必要です。入浴後 などに筋肉をマッサージなどでリラックスさせてから、ゆっくりと伸ばすこと、痛みが出ない範囲から徐々に拡大して下さい。また、脳卒中の特徴として姿勢に よって筋肉の緊張状態が異なりますので、仰向けなどリラックスした姿勢で行うことが良いです。無理に強引に行うことは別の損傷を伴う危険がありますので注 意してください。具体的には理学療法士などの専門家に一度指導を受けることをすすめます。
次に肩手症候群ですが 、肩の亜脱臼を伴い、麻痺した側の肩や手の強い痛み、手の甲の腫れ・熱感、動かした時だけでなくじっと していても痛みがあることが特徴です。医師の治療を受けることが必要ですが、日常の生活の中で注意していくことも大事です。まず肩の亜脱臼とは、腕を肩関 節に支えている筋肉の麻痺によって、腕がそのまま肩にぶら下がるような格好になる状態です。肩にとっては非常に負担になり、その原因を取り除くことを、日 常生活の中で工夫しましょう。また、感覚障害を伴う場合や、麻痺した側に注意が向きにくくなる方もいますので(麻痺側の身体無視)、手の位置など見て確認 したりなど注意していくことが必要です。例えば、仰向けの姿勢で寝る時は麻痺のある側の肩の下に枕を置き、同様に腕・手も少し持ち上げてその枕の上に載せ る。車椅子に坐る場合は、備え付けのテーブルに手を載せる、あるいは掌を下にして膝の上に置く、歩く時は、肩への負担を減らすためにアームスリングや三角 巾で腕をつる(固定時間が長いと逆に苦痛を伴う場合があるので注意して下さい)などです。また見かけ上は腕や肩の問題でも、身体や足の姿勢すべてがこれに 影響を与えることも多く、身体を丸くしない、麻痺した側が後に引けないように注意しましょう。例えば、車椅子に座る場合は、身体に合った車椅子を選ぶこと が大切で、必要に応じて背もたれやクッションを用います。そしてできるだけ背筋を伸ばし、麻痺した足が外向きにならないように、また車椅子から身体が斜め にずり落ちないように注意しましょう。
これ以外の痛みとして 、足の浮腫伴う痛みは、特に麻痺が強く歩行が困難な方に見られます。弾性包帯や靴下、足浴、マッサー ジ、臥位になるときに麻痺した足を、少し上げて寝ることなどにより、軽減されることがあります。あまり程度が強いと足の深部静脈がつまっている可能性もあ り、重篤な合併症を引き起こすこともありますので、医師の診察を受けて下さい。
いつどういう形でとれるかわからないから、その一歩手前まで、できるところは進めておきたいのだ。
https://www.smbcnikko.co.jp/terms/japan/ma/J0694.html
マイナス金利とは、民間の金融機関が中央銀行(日本では日銀)に預けている預金金利をマイナスにすることです。金利のマイナス化により、預金者が金利を支払うことになります。
日銀のマイナス金利政策は、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」として導入されました。日銀のマイナス金利政策でマイナス金利が適用されるのは、金融機関が持つ日銀の当座預金のごく一部です。日銀はマイナス金利政策によって、金融機関が日銀に資金を預けたままにしておくと金利を支払わなければならなくすることで、金融機関が企業への貸し出しや投資に資金を回すように促し、経済活性化とデフレ脱却を目指しています。
ヨーロッパでも、2017年6月現在 欧州中央銀行(ECB)やスイス、スウェーデン、デンマークの中央銀行などが既にマイナス金利政策を導入しています。いずれも民間の銀行と中央銀行との間で適用されています。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/随意運動と不随意運動
随意運動は、必ずしも外的な感覚刺激要因によらず、手や足(特に手指)に加え、顔面筋や眼球など体のさまざまな部分を、自らの意思によって自在に動かすことによって、自らの意図する行動の目的を達成するだけでなく、言語の生成や、表情を表わすことによって、社会生活に欠かせないコミュニケーションをとることができる。一方、何らかの脳病変により、随意運動の生成に障害をきたすのみならず、自らが意図しない異常な規則的あるいは不規則的運動が発生してしまうことがあり、不随意運動と呼ばれている。
今日の脳研究の理解では、随意運動に関連する主要な脳領域は大脳皮質、小脳、それに大脳基底核である。随意運動を伝える経路として、20世紀の初頭に始まる近代脳研究の黎明期から、延髄錐体が注目されてきた。大脳皮質から脊髄への直接下行路である錐体路が延髄錐体を構成する。錐体路の神経線維は延髄尾部の錐体交差で左右大脳皮質からの線維が反体側に交差し、脊髄に直接あるいは間接投射することで、左脳が右半身を、右脳が左半身の随意運動を制御している。錐体路が傷害されると、特に手指の精緻な随意運動に障害が生じることから、このときに生じる症状が「錐体路症状」と呼ばれてきた。一方、大脳基底核の病変に伴い生じるさまざまな不随意運動が臨床的に「錐体外路症状」と呼びならわされてきた。しかし、「錐体外路」は錐体路以外の運動系下向路の総称であり、必ずしも大脳基底核を通る神経経路だけを指すわけではないので、錐体外路症状の名称には問題がある。
なんてものがもしもあったなら、その腕はきっとこんなふうだろうと、亜脱臼の肩からだらりと垂れ下がった自分の腕のことを思う。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000317/p1
まず今までの演劇の系譜論から離れて現代演劇を捉え直すために「関係性の演劇」という概念を提唱したい。「静かな演劇」の流行とか、演劇におけるリアリズムの復権とかいろいろな形で語られており、しかもその評価が分かれているある種の演劇のカテゴリーをこの「関係性」という概念で括れるのではないかと思うからである。
関係性の演劇とは演劇作品のなかで、主に登場人物、あるいは登場する人物の集団の間の関係を提示することで、関係の総体としてのこの世界を描いていこうという演劇の手法である。ここで「関係性」あるいは「関係」という言葉が含有する思想的な背景に触れなければならない。関係という概念は現代思想の重要なターム、実体に対する対立概念である。近代の思想は主体や自意識といったものをある種の実体と考え、重きを置いた。これに対して構造主義や現象学といった現代思想の特色はものごとの関る関係に重点を置いて物事を考える。関係がすべてであり、他者との関係なくして孤立した実体などありえないという考え方である。この世の中のことはすべて、他のこととの関係において我々の前の立ち現れる。これが、関係性の演劇の認識論的前提である。
たとえばテレビドラマなんかでよくある上司に罵倒されるのを耐えるシーン、そうではなしに何気ない日常会話で深く傷つく(発話者にはそのつもりはなく)シーンを関係性の演劇は可能にしたのだ。「耐える」表現は大げさにぷるぷる震えて見せたりではなく、沈黙でただ受け流そうとするのみ、事情を知る「観客」は、その沈黙の向こうに流れる心情を読み取ることができる劇構造になっている。そこで語られる内容「物語」は、意図的に単純化され、ありきたりなものに設定されている。それを、「最後まで聴かなくても想像がつく」だとか、的外れも甚だしい。バカでも想像のつく「ベタ」を意図的に選択しているのだ。ここでは物語内容の観客への伝達が主眼ではないからだ。そんなことすらわからずに間」がどうの、テンポがどうの、リアリティがどうのと、きいたふうなことをいうからトンチンカンだというのである。耳を傾ける価値もない。すっこんでろって話だ。
労働は商品を生産するだけではない。労働と労働者とを商品として生産する。商品世界が盛んになるにつれて、労働と労働者の商品化の度合いも大きくなる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年4月18日
〈コードなき差異〉とは、多義的象徴であり、自らと交換可能な指向対象を持たない言葉の姿である。これはまた、狭義の動物が持つ安定した信号体系を失った人間が、本能図式によっては分節しきれない生のエネルギー(=欲動)を意味化する現場に生ずる差異でもある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月18日
今日は朝から仕事だったのにすっかり寝過ごしてしまった。
トンチンカンな話に巻き込まれたくないんだ。
というか、気持ちを落ち着かせるために、どうしても煙草を吸ってしまうな。
PCに負荷がかかりすぎているようだ。
同時並行で複数の仕事を処理してるつもりでも、よく観察してみりゃ「並行」じゃなく、ひとつを中断して再開しての繰り返しで、その隙間にべつの仕事を詰め込んでいたりする。
タルコフスキーはもとより、トッドヴラウニングまで置いているのに、アランレネの『去年マリエンバートで』が、ない。品揃えの基準が分からない。まったくもう!
深夜のうちにPCに作業させて朝にはできあがってるだろうと思えばできてないし、仕事で、さんざん入力した後に文字化けするし。
を設定して、何でもかんでもそのせいにすることで、実際の因果関係を見失ってしまrば有効な対策などとれないし、とれるわけがないんだ。
第三エロチカの芝居を観た。懐かしいな。
ができないから、地面に踵から足をつくことができない。翻って、背屈さえできれば、けっこうスタスタ歩けそうなのだが。
https://kotobank.jp/word/号泣-494642
[名](スル)大声をあげて泣くこと。泣き叫ぶこと。「遺体にとりすがって号泣する」
[補説]文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「大声をあげて泣く」で使う人が34.1パーセント、本来の意味ではない「激しく泣く」で使う人が48.3パーセントという逆転した結果が出ている。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/28116/meaning/m0u/
名](スル)声をつまらせて泣くこと。むせび泣き。「遺体にすがって嗚咽する」
嗚咽でもすすり泣きでも何でもかんでも「号泣」と表現したがる最近の風潮はなんとかならんものか。
身体を徘徊している。
亜脱臼の痛みが、首に上がってきた。
今さらながら悔やまれる。
https://kotobank.jp/word/chicken%20race-565500
1 相手の車や障害物に向かい合って、衝突寸前まで車を走らせ、先によけたほうを臆病者とするレース。チキンゲーム。チキンラン。
2 相手を屈服させようとして互いに強引な手段をとりあう争い。チキンゲーム。「値下げ競争はチキンレースの様相を呈している」
「快感原則に従う一次過程」にある言葉は必ず「現実原則に基づく二次過程」へと拘束され、物象化される種をその発生時から宿しているし、二次過程に移行した言葉はまた絶えず一次過程へと回帰していく円環運動の中にある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月17日
https://www.weblio.jp/content/全能感
心理学用語で、「自分が何でもできる」という感覚を意味する語。特に子どもの発達段階において、しばしば見られる現象である。躁病や自己愛性パーソナリティ障害の構成要素の一つとされることもあり、自身の能力を過大評価してこの感覚を持つことによって、対人関係などに問題が生じる場合もある。万能感とも言う。
しばしば単に自己相対化能力の欠如および肥大した自尊心の表出という気もするが。
ゆうべ仕事で遅かったから。
毎朝血圧を測っている。俗に寝不足と数値の高さに相関関係があるように言われ、そんな気がしていたが、今朝はすこぶる数値が低い。
目薬をどこへ置いたか忘れてしまった。情けなくて涙が出る。
嘘だ。自律神経がバグっているのか、薬の副作用かわからない。いずれにせよ涙が出ない身体なのだ。医者にそういうと目薬を処方された。結局原因はわからずじまい。
暗黒時代のZELDAにハマったクチで、だから後期になると離れてしまったのだけど、今聴き直すと後期もそれはそれでいい。かなりいい。
ただ、漫然と読書したってしょうがない。そもそもそんな暇はないし。
[カントの定言命法において]私は私が措かれた特定の状況の下で遵うべき具体的諸規範をカントの道徳律そのものから引き出すことができず、道徳律が下す抽象的命令を一連の具体的責務を担う中で具体的責務に翻訳するという責任を主体自身が引き受けなければならない(『テロル』p146)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月16日
アンイメージ時代の芝居2本をデジタル救出。画質も音質も良くないしホンも下手くそだけれど、そういうの全部込みでの記録である。
https://imidas.jp/genre/detail/F-135-0316.html
神経線維は一方向に興奮を伝えるため、末梢神経の神経線維には中枢から全身に指令を伝える運動神経と、全身からの情報を中枢に伝える感覚神経の2種類がある。脊髄神経の前根(ぜんこん)は運動性で運動神経線維のみを含み、後根(こうこん)は感覚性で感覚神経線維のみを含む。このことは、2人の発見者の名前をとってベル=マジャンディの法則と呼ばれる。運動ニューロンの細胞体は、脊髄内部の前角にあり、そこから出た軸索は前根を通って脊髄から出ていき、軸索の先端は枝分かれをしてその先端で骨格筋細胞に接触し、興奮を伝えるシナプスを作る。感覚ニューロンの細胞体は、後根の一部が膨らんだ脊髄神経節の中にあり、軸索は脊髄神経の先端から中枢に向かい、後根を通って脊髄に入る。運動神経線維と感覚神経線維の多くは、伝導速度の速い有髄線維である。とくに骨格筋を支配するα線維は、伝導速度が毎秒約70~120メートルと速く、触覚を伝えるβ線維はそれに次いで毎秒約30~70 メートルである。それに対して、痛覚や温度感覚を伝えるδ線維は、毎秒約12~30 メートルと遅い。
とはいえ運動神経の喪失は感受性(見聞きする事象の解釈)に大きく影響するだろう。
創作のなんたるかを知らぬ者には直接ペンを持ったりキーボードを叩いたりしない部位の運動機能の喪失と「書く」行為とは無関係に思うらしいが、メルロポンティのいう知覚の現象学を思い出してみればいい。そうして少々想像力を働かせてみるがいい。
をデジタル「救出」しているが、そもそも録音状態がよくなくて、何言ってんだかわからない。まあ、そういうのも含めて時代の記録ってことで。
https://kotobank.jp/word/主治医-528510
本来は1人の患者を責任をもって診療する医師をさしているが、規模の大きな医療機関では、ある患者を複数の医師が担当するという制度を有する場合もあり、これを主治医制度とよび、主としてその患者の診療にあたる医師を主治医という。主治医制度を採用している場合には、主治医は指導医とつねにダブルチェックを行い、診断と措置選択にあたっては、誤りのない方法をとるのが通常である。主治医は、その患者に対しては第一義的な責任者であることは事実であるが、最終的には、医療機関の開設者がその責を負うこととなっている。
貨幣は経験的・物質的な素材でできているわけではなく、崇高な物質、すなわち物理的な実体が崩れ去ったあとも残る「破壊することのできない不変の」物質からできているのだ。(『崇高』p40)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月16日
比較的少ない日にも常に違和感がつきまとっている。
が高いのはわかりきっている。
それに対する備えが「転倒しないように気をつける」だけじゃしょうがないだろう。
いざ転倒した際のダメージをいかにして最小に食い止めるか、転倒した後に立ち直るにはどうしたらいいか。それらを模索したのは退院後、自力でであった。
が「報道」ヅラしやがって。
自生的に秩序づける力を利用すれば、われわれが決して知的に習得したり意図的に配置することができないような複雑性をもった秩序を形成させることは可能であるが、配置によってつくるものに比べて、そうした秩序の細部にたいしてわれわれが小さな力しかもっていないことを意味する。(法と立法と自由)
— ハイエクbot (@hayek306) 2019年4月16日
演出はもとより、劇を「書く」という作業もまた「知覚」においてフィジカルな行為なのである。
正確にカント的な言葉遣いで言い換えるならば、〈堕落〉とはまさに、私の根源的な倫理的自律を断念することなのである。堕落が起きるのは、私が他律的な[私に対して課された限りで経験できるような]〈法則〉のもとに逃げ込む時である。(『神話』p185)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月16日
まで杖歩行で。久しぶり。エレベーターのドアが怖い。以前、ドアに跳ね飛ばされて転倒したから、今日は妻に付き添ってもらった。
ヴァレリイもまたやはり象徴で語ってるんだ。『ユーパリノス』とか『魂と舞踊』から影響をうけたことは間違いないな。・・・浜辺で彼が拾うもの、変形された小石についての考えだ。『サルトル-自身を語る』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年4月15日
払わなくちゃ。
この欲望の非整合性をまるごと受け入れること、そして欲望自身の解放を妨害しているのは欲望そのものであることをじゅうぶん受け入れること、これがラカンの苦い教訓である。(『ラカン』p72)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月15日
っていうのは力が入って初めて可能な随意運動なのだ。そもそも力が入らないのと脱力した状態というのは全然違う。これは観念的な話じゃない。
を長時間つけることで、なんだか肘や手首がだるく、また、拘縮を助長するような気がするのだけど、どうなのだろう? 主治医は事なかれ主義の思考停止「様子見ましょう」マンだし、専門家の知見に触れることができない。なんだかなー。
を読んで、さもありなん。と思う。
ヘーゲルによると国家とは「愛国心」という気構えを分有した法と権利の体系であり、国家を根本的に規定しているのは「主権」である。それは「立法権」「統治(行 政)権」「君主権」の3つの制度からなる。このうち君主権は形式的な意思決定の機関であり、実質的な意思決定の過程からは排除されていた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年4月14日
https://medical.jiji.com/topics/566?page=2
担当の医師だけでなく、病院全体の対応に不満がある、といったケースでは、違う病院に通いたい、という気持ちになるでしょう。この場合に決してやってはいけないのは、担当医師に何も告げることなくこっそり別の病院に行く、ということです。
それまで通っていた病院でどんな検査や治療を受け、どんな経過をたどったのか、どんな診断を受けているのかなどが全く分からず、困惑することが非常によくあります。
ご本人は「これらの情報を自力で伝えることができる」と信じてやってきているのですが、まず的を射ない説明をされることがほとんどです。治療経過を正確に説明できるのは、その患者さんを直接診療した医師だけです。
実際に患者さんを診療していない人は、たとえ医師でも治療経過を説明するのは困難です。よって、必ず診療情報提供書(紹介状)を書いてもらう必要があります。
「別の病院に行きたい」と直接言うのは抵抗があるかもしれませんが、転居や、子供の送り迎えの都合、交通手段の変更、職場の変更など、実にさまざまな理由で病院を変更せざるを得ない人はいます。
病院を変更したい旨を医師に伝えることに、さほど抵抗を感じる必要はないでしょう。くれぐれも、何の情報も持たずに病院を飛び出すことのないよう気をつけましょう。
毎日まいにち時間を取られる。まったく無駄なことである。
重いばかりで何の役にも立たぬ、ばかりか、衣服の着脱を妨げるこの腕をいっそ切り捨ててしまいたい。
を書くこともできぬ者が「主治医」とか、あまりにも馬鹿げている。
感想に対する感想だってもちろんあるわけだ。つまらん感想に対してはつまらんという。アタリマエの話。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ホメオパシー
ホメオパシー(漢字表記では同質療法[1]、同種療法[1]、独: Homöopathie、英: homeopathy, homoeopathy、homœopathy)とは、「その病気や症状を起こしうる薬(やもの)を使って、その病気や症状を治すことができる」という原理のもと、1796年にザムエル・ハーネマンが提唱した[1]。またホメオパティとドイツ語風に呼ばれることもある[2]。
ホメオパシーの理論・効果については、現代医学の研究結果でプラセボ(偽薬)効果以上の効果はないとされている[3][4][5][6][7][8][9][10]。
用いられる薬の「レメディ」は、現代医学の見地からはただの砂糖玉にすぎず、それ自体に害は無い。しかし本来は適切な医療行為を受けるべき人が代わりにホメオパシーを使うことで死亡事故などが引き起こされる事がある。日本では2009年に新生児に与えるべきとされるビタミンKシロップの代わりに助産師がレメディを用いて新生児が死亡した事件がある。
詳細は「山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故」を参照
日本学術会議が2010年8月24日、ホメオパシーの効果について全面否定し、医療従事者が治療法に用いないよう求める会長談話を発表し[11]、日本助産師会[12]や日本医学会[13]などが賛同の意を表明している。
世界的に見ても、先進国では効果が無いとして公的保険の対象ではなくなっている。
https://www.nhk.or.jp/kenko/atc_243.html
私たちは、外から入ってきた光によって、物の色や形、遠近感、動きなどを認識しています。
私たちが、ものを見ることができるのは、光が眼球の「角膜」や「水晶体」を通過して「網膜」に届き、電気信号に変換され、「視神経」を経て脳に伝わるからです。眼球は、直径約2.4cmの球体です。角膜と水晶体は透明な組織で、ともにレンズの役割を果たしていますが、水晶体は厚みを変えることでピント調節ができます。網膜は眼球の内面を覆うスクリーンで、光を感じとっています。
目に入る光の量は、「虹彩」が「瞳孔」(瞳)を大きくしたり小さくしたりして調節しています。虹彩は瞳孔の周囲の茶色い部分です。
ピントを合わせるときは、「毛様体筋(もうようたいきん)」という筋肉によって水晶体の厚みを調節しています。毛様体筋がリラックスすると、水晶体が薄くなり、遠くにピントが合います。毛様体筋が緊張すると、水晶体が厚くなり、近くにピントが合います。若いひとの眼はこのようなピント調節によって、遠くにも近くにもピントを合わせることができますが、年をとって老視になると、ピント調節ができなくなり、遠くにピントのあった正視眼では近くがぼやけることになります。
https://www.お葬式なら格安葬儀.net/shibo-shindansho/
死亡診断書とは、医師や歯科医師のみが作成できる、人の死亡を医学的かつ法律的に証明した書類のことです。この診断書がなければ、死亡が認められず法的には生存している可能性があると解釈されてしまいます。
つまり、実際に亡くなっているにもかかわらず、故人の火葬・埋葬ができないばかりか、故人への課税や公共料金の支払い、年金の支給が行われることになるのです。
それが原因で、不必要な費用負担や年金の不正受給といった事態に発展する可能性があります。そのため、このような事態を避けるために死亡診断書が必要になります。
死亡診断書はほとんどの場合、故人の死亡を確認した医師が作成します。この診断書には、故人の氏名や性別、死亡した場所・時刻・原因、そして死亡に至るまでの過程が詳細に記載されます。
痛みの役割
私たちは「痛み」を感じることで、身体に何らかの異常や異変が生じていることに気づきます。もし、「痛い」という感覚がなかったら、危険を察知したり、回避することができず、ケガや病気を繰り返したり、命の危険につながることもあります。「痛み」は本来、私たちの身体や命を守る、生命活動に欠かせない役割を持ちます。
しかし、なかには「生命活動に必要ではない痛み」もあります。
必要以上に長く続く痛みや、原因がわからない痛みは、大きなストレスになり、不眠やうつ病など、ほかの病気を引き起こすきっかけにもなります。このような場合は「痛み」そのものが“病気”であり、治療が必要です。
痛みを感じる一般的なしくみ
切り傷や火傷、打撲などにより身体が刺激を受けると、「身体が傷ついた」という情報が発生します。その情報は電気信号に変換され、神経を伝って脳に届きます。脳がその情報を認識して初めて、「痛い」と感じるのです。
通常は、痛みの原因となったケガが治ると、痛みも消えていきます。
神経障害性疼痛とは
何らかの原因により神経が障害され、それによって起こる痛みを「神経障害性疼痛(しんけいしょうがいせいとうつう)」といいます。
帯状疱疹が治った後の長引く痛みや、糖尿病の合併症に伴う痛み、坐骨神経痛、頚椎症に伴う神経障害疼痛などがあります。傷や炎症などが見えないにもかかわらず痛みがある場合には、神経が原因となっていることがあります。
40代以上に多く、日本では約600万人以上※の患者さんがいると推定されています。
生死の境目というのは一般に信じられているほど明確なものではないのだろう。医師が死亡診断書を書くようないわゆる「死」をハードな死と呼ぶとすれば、さまざまな機能を不可逆的に喪失しつつ生存はしている状態をソフトな死と呼ぶことができそうだ。そういうわけで俺はソフトに死んだのだ。ゆらゆら帝国の歌で『ソフトに死んでいる』というのがある。その歌詞内容とは少々定義が異なるが。
なんか「選択」を誤り続けている気がするなあ。
文化によっては、もっと厳しい限界があり、より明瞭な稜線辺がある。故にそれらに背く人、他の人よりも限度を超えやすい人々がいて、限界の、異議申し立ての、違反のゲームが、とりわけ激しく、明白な分野ないし領域がある。古典時代における理性-狂気の問題とは、そういうことだ。-詩をめぐる討論-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年4月12日
悪い自覚はあるんだ。身体が(とくに亜脱臼の肩が)痛くてしばしば目が覚めてしまうし、眠りが浅い。
http://e-words.jp/w/ビデオキャプチャ.html
ビデオキャプチャとは、テレビチューナーやビデオレコーダーなど映像を扱う機器から、映像や音声をデジタルデータとして取り込んでコンピュータに保存すること。コンピュータの画面(やその一部)を動画として記録・保存することもビデオキャプチャということがある。
新しいお知らせは何もありませんが、情報を整理しました。
https://www.pitter-patter.info/
だらりと垂れた手を知らぬ間にあちこちにぶつけてしまう。
[現代において]…私たちが、人間の集合体や政治的共同体というのは、結局のところ、巨大な民族大の家政によって日々の問題を解決するある種の家族にすぎないと考えているからである(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年4月11日
ロックは 権力の区別を前提として、政府を「立法府」と「執政府」という二つの機関に分け、立法府には立法権力を委ね、執行府には執行権力と司法権力を委ねるべきだ と主張した。なぜならこの3つの権力を同一の個人・機関に委ねれば権力を私的利益のために濫用する恐れがあるからである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年4月11日
フロイトの無意識があれほどのスキャンダルを引き起こしたのは、合理的な自己はそれよりもはるかに強大で盲目的で非合理的な本能の領域に従属していると主張したからではなく、無意識が独自の文法と論理に従っていることを明らかにしたからである。(『ラカン』p18)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月11日
難なく一人で、といってもよさそうだが、やはりその都度それなりの緊張感が伴う。
http://keishuku.jp/rehabili/kata.html
「実施しても問題ないかどうか、まず医師、または療法士の先生にご相談ください。」とのことだが、相談できる医師も療法士もいない。
主体は〈他者〉の問いに対する〈現実界〉の(対象の、外傷的核の)応答である。問いそのものは受け手の中に恥と罪の効果を生みだし、主体を分割しヒステリー化する。(中略)主体は、自分の中の対象に対する主体自身の分割・分裂を通じて構成される。(『崇高』p335)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月11日
https://kotobank.jp/word/腹圧-123879
腹筋と横隔膜の収縮によって生じる、腹腔内の圧力。排便・排尿を助けるほか、女性では出産のとき、子宮の収縮とともに分娩(ぶんべん)の原動力となる。
井筒俊彦〈深層意識の言葉〉=ソシュール=ラカンの「コード化される以前の、絶えず動き戯れる言葉の音のイメージ」=ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉=唯識派の〈アラヤ識〉
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月11日
血圧計がエラーを起こす理由の一つが、不整脈や脈拍が弱いといったものです。これは、血圧計の仕組みをしればその理由が良くわかります。
血圧計は、「コロトコフ音」という音を感知して測ります。この「コロトコフ音」というのは、動脈を一度圧迫し、その後に離すことで起きる音です。病院で、医師や看護師に、上腕で血圧を測られたことのある人ならば、この状態は想像しやすいでしょう。腕が圧迫され、それが解放されたときの音を、彼らは聞いているのです。
しかし、脈が弱かったり不整脈であったりすると、このコロトコフ音が正確に感知しづらくなります。その結果として血圧が測定できず、エラーとして表示される可能性があるのです。またそれ以外にも、抹消循環器系に障害がある人にも同様のエラーがみられることがあります。
アルシーヴとは、出来事としての言表の根本そのものにおいて、そして、出来事としての言表が自らに与える身体において、そもそもの最初から言表の言表可能性に関わるシステムを定めるものだ。-知の考古学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年4月10日
整理にひどく時間がかかっている。
[フリードマンによって確立されたシカゴ学派の政策上の諸見解の第一として]…彼は…貨幣経済学の研究を復活させた。彼は貨幣数量説を利用し、経済行動の研究のみならず、ケインズ学派の強力な批判に生かすため、貨幣数量説に磨きをかけ拡張した(G・スティグラー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年4月10日
⑨簡単にいえば原子力発電について三、四時間かけて正確な情報を提供し、相手の質問にも応じ、相手は完全に納得した筈なのに、相手はそれで態度は変えない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2019年4月10日
そして、今の説明を否定するかの如く見える一枚の写真を見せられると、その方に反応してしまうという。
ヒステリー的主体の問題は、自分の欲望を組織化するにはつねに誰か別の主体に助けを求めなければならないということである。これが、ヒステリー的欲望は他者の欲望であるというラカンの公式の意味である。(『崇高』p347)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月10日
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1904/09/news050.html
そもそも「人手不足」と、今の日本が直面している「人口減少」はそこまで大きな因果関係はない。
厚生労働省職業安定局の「人手不足の現状把握について」(平成30年6月1日)を見れば明白だが、日本の人手不足は局地的な現象で、建設業、宿泊業・飲食サービス業、医療、福祉、運輸業、郵便業などのいわゆる「人手不足産業」と、そうではない産業に大きな落差がある。
そして、これらの分野別の分析を見ると、人手不足の原因・特徴は「労働者時間が長く、給与水準が低い」(運輸分野)、「休日が少ない」(建設分野)、「賃金が安い」(介護分野・宿泊業、飲食サービス分野)とある。
「人手不足」の本質が「低賃金」だということは、1967年の日本生産性本部の調査でも明らかになっている。調査を報じた記事の見出しが分かりやすい。
『低賃金、耐えられぬ 大半が「もっと大規模」へ移動』(読売新聞 1967年6月26日)
中小企業が中途採用した若年労働者が、なぜ定着しないのかを調べたところ「低賃金」に失望したという理由がもっとも多かったのだ。
つまり、人口が右肩上がりで増えていた時代の日本では、「人手不足で倒産しました」という話は、「ああ、低賃金労働者が確保できなくて倒産しちゃったのね」という受け取られ方だったのである。
私たちはみなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年4月10日
私達の糞便は、屍体や月経の血に対する規則に似た、細心な社会的規則によって条文化された禁止の対象となっていない。しかし全体的に眺めれば、汚物と腐敗と性欲の領域は、ずれながらも一つの形づくっており、その関連は極めてはっきりしているのである。『エロティシズム』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年4月10日
今観るとべつの感じ方をするってのはよくある話だけれど、そういうことじゃなくて、障害を負ったことで、最大公約数的なというか、一般的な感受性を喪失してしまったのは演出家としては致命的で、この意味でも芝居への復帰は絶望的である。なんでもないシーンをそうと流せず、過剰に価値を感じ取ってしまったりする曲解癖はマズいんだ。現象をズラしてそこに価値を見いだすのとは180度違う。演出家としての俺は死んだのである。メルロポンティいうところの「知覚の現象学」と関係ある話かも。だとすりゃ「書く」のもどうなのかってことになるな。「書く」行為がフィジカルなものだというのはそういうことで、ペンを持ったり、キーボードを叩いたりという表層的な行動のことをいってるんじゃない。この意味で「作」と「演出」はウロボロスの蛇的に互いに内包し合う関係なのだ。
耳に心地よいとされる音楽がときにむしろ耳障りだったりする。逆もまた真なり。
われわれは「市場」という概念を「需要と供給がであう場」というふうに理解している……。そのように理論を組み立てて、現実を眺めているわけである。「現実」がまずあって「理論」をつくっているのでなく、「理論」を前提にして「現実」を理解している(佐伯啓思)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年4月10日
できることを明日に先延ばしにする感性が理解できないんだ。
が届く。例年、この時期はそんなことをしていたからだし、べつに迷惑というのでもないけど、もうそういうのとは無縁になったのだなあとしみじみ思う。
なんとかデジタル化して救出中。とりあえず、貴重品のみ。えらい時間がかかりそうだ。
画像の貼り付けができないのだよ。参っちゃうな。
をアマゾンで購入。
をしていて思った。このまま便器に頭を突っ込んで、に自分自身を流してしまえたらどんなにいいだろう、と。
始めたいのだけれど、なんだかんだと落ち着かず、ずるずる先延ばしになっている。とりあえず参考文献を買いあさるばかり。
ホッブズの自然状態は力への欲求に象徴される「人間の利己性」と「人間の肉体・精神的能力の平等」という二つの前提から展開する。人間は自分たちを支配する強制的 な力の存在しない自然状態においては必然的に熾烈な相互的敵対関係に陥るとした。これが有名な「万人の万人に対する闘争」状態である。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年4月9日
寒くなったから、そのためなのか、身体が妙にこわばって動きにくい。それが今日も続いている。
亜脱臼の肩が強烈に痛む。
片手でかけたり外したりせねばならんから、設計上想定していないヘンな力がかかってしまうのだろう。困ったな。
をしていた。
それに伴い、過去作品のダイジェスト動画を眺める。ひどく懐かしい。
安物のギターを弾いた。
ああ、いいギターとアンプを売ってしまったのだよな。惜しいことをしたと思った。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190408/k10011877091000.html
68歳の会社員の男性は「私たちの世代では考えられないが、今の若い子たちは『目立ちたい』という思いなのでしょう。動画を撮影・投稿する人に対してきちんと教育する必要がある」と話していました。
俗にいう団塊の世代だろう。何が「私たちの世代では考えられない」だよ。だからいうのだ。世代論なんてものは己の過去の積極的な忘却に支えられている、と。
民主主義国家における「権力」とは、左翼の夢想するように上から下に一方的に行使されるものではない。主権者が国民なのだから、いわば正当性を備えた同調圧力とでもいうべきものだろう。
修理しなくちゃ。また余計な金がかかる。
の投票に行ってきた。車椅子だったが思いのほか難なく投票できた。係の方の助けもあって。ありがたいことである。帰りに食事。少し早いが退院一周年を祝って。過ぎてしまえば一年なんて早いものだ。
人間の生は、欲動をイメージ化する絶えざる差異化としての円環の軌跡を描き、これを持続させるのがエロティシズムのもつ二重の禁止と侵犯である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月7日
退院一周年祝いの外食。
死体とは<他者>の物なのだ。『家の馬鹿息子』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年4月7日
杖を手放して、壁や建具伝いに机の前の椅子まで歩く。
この短い距離の歩行ができるとできないじゃ大違いなのである。
多目的トイレでも、病院みたく「右トイレ」「左トイレ」とべつべつに用意されてることはなく、移乗に多少の歩行が要請されるから。
DVDを焼いていた。
〈言語(ラング)〉というものと〈言葉(ランガージュ)〉というものがあるのではない。言葉とはその表層意識において物象化された姿と、深層意識において流動する姿を共に有しているのである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月7日
〈言語(ラング)〉というものと〈言葉(ランガージュ)〉というものがあるのではない。言葉とはその表層意識において物象化された姿と、深層意識において流動する姿を共に有しているのである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年4月7日
日々身体のあちこちにずっしりと重力を感じて生きている。
ブログを書けばいいじゃんという気持ちになっている。
人は、われわれにこう言う――でもやっぱり分裂症者には父親と母親がいるんじゃありませんか?あいにくわれわれはノンと答える、彼にはそんなものはない。彼にはただ砂漠とそこに住むさまざまな部族、充溢せる身体とそれに結ばれた多様体があるのみである。(『千のプラトー』)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2019年2月24日
https://news.nifty.com/topics/12280/190407331091/
リンク先記事にも書かれてあるとおり、そもそも誰も強制などしていないのだ。それをあたかもされたかのように被害者ヅラでわら人形的に「敵」を設定して「闘争」するいつもの共産党スタイルである。
人々は一体、いかにして、平和の透かし模様を通して戦争を知覚するようになったのか。誰が、戦争の喧噪と混乱の中、戦闘の泥沼の中に、秩序や諸制度や歴史を理解する原理を求めたのか。誰が最初に、政治とは他の方法によって継続された戦争のことだ、と考えたのか。-社会は防衛しなければならない-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年4月6日
思ったことをすぐに話したり、人の言うことを鵜呑みにしたりしてはいけない。むしろ、道徳面でも教養面でも、他人の言葉には多くを期待しないほうがいい
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2019年4月6日
https://toyokeizai.net/articles/-/273275
現代貨幣理論は、その名のとおり、「貨幣」論を起点とする経済理論であるが、この現代貨幣理論と主流派経済学とでは、貨幣の理解からして、180度違うのである。
まさに、地動説と天動説の相違と比肩できるほど、異なっているのだ。
では、ここで、現代貨幣理論が立脚する貨幣論について、ごく簡単に解説しよう。
今日、「通貨」と呼ばれるものには、「現金通貨(お札とコイン)」と「預金通貨(銀行預金)」がある。
「銀行預金」が「通貨」に含まれるのは、我々が給料の支払いや納税などのために銀行預金を利用するなど、日常生活において、事実上「通貨」として使っているからである。
ちなみに、「通貨」のうち、そのほとんどを預金通貨が占めており、現金通貨が占める割合は、ごくわずかである。
ここまでは、主流派経済学でも異論はないであろう。
問題は、通貨のほとんどを占める「銀行預金」と貸し出しとの関係である。
通俗的な見方によれば、銀行は、預金を集めて、それを貸し出しているものと思われている。
しかし、これは銀行実務の実態とは異なる。
実際には、銀行の預金が貸し出されるのではなく、その反対に、銀行が貸し出しを行うことによって預金が生まれているのである(これを「信用創造」という)。
驚かれたかもしれないが、これは事実である。
を薬でもって無理矢理押さえ込み、生存を維持している。考えてみりゃ不自然な生である。
などというが、たいがい独りよがりで不要な干渉だったりする。
できてるつもりだったけど、それでもまだ一縷の望みを捨てきれないでいるらしい。よいリハビリ法があると聞けば受診してみたいと思う。当然とも思えるが、往生際が悪いともいえる。いずれにせよ、簡単ではない。リソースは限られている。それが家の近所で受けられるならいいが、どうやらそうではないらしいから。
全然入手できない。
整理されたリストがあっても良さそうなものだが、ない。結局、自分でググって手探りで発掘していくしかない。なんという効率の悪さか。
南部線+小田急線で。多摩区民館は稽古でも難度も使用したから懐かしい。11Fの食堂も復活していて嬉しい。カツカレーを食った。諸々の手続きをしてから向ヶ丘遊園駅へ戻り、タクシーでアメリア稲城ショッピングセンターへ。ダイソーで買い物。帰りは、三沢川沿いの桜見物をかねて車椅子を自走したり、妻に押してもらったり。ささやかだけど幸せな時間だったな。
「『専用』や『優先』と呼ぶと、使っていい人いけない人を線引きしてしまう。分け隔てない社会を目指すユニバーサルやバリアフリーの考え方と相いれない」と都内自治体の担当者は打ち明ける。「特別扱いされるのはいや」という障害者の声もあり、名称変更に二の足を踏む。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO32688910W8A700C1KNTP01/?page=2
「線引き」してもらった方が俺はありがたいけどな。「分け隔てない社会を目指す」などという欺瞞よりも実用性、合理性を優先してよと思うからだ。
https://wisdom-box.com/confusing/similar/imadani/
実は辞書的な用法では「」は誤用ということになっていますので使い分けは存在せず、常に「未だに」が正解となります。しかし、最近では「今だに」を使う人が多いのでこちらも載せている辞書もあるようです。
一般的(世俗的)な使い方としては、肯定的な文章(現在もそれをしている)の場合は「今だに」、否定的な文章の場合(現在に至るまでそれが行われていない)は「未だに」という使い分けが多いようです。
この言葉は成り立ちに色々な考えがあるため、本当に「今だに」が誤用かどうかもはっきりしません。迷われた場合は、「いまだに」と開いて書くのが無難かもしれません。
そうですね。「今だに」のニュアンスで、意味的に「未」を使うのに抵抗のある時は、ひらがなに開いちゃうのが無難だと俺も思いますし、そうしてます。
の引退ライブのDVDを観てる。結構苦労して手に入れたDVDだ。
ステージでヤマハのDX7を弾いてるのが「時代」だなあ。
「巨悪/無力な庶民=アプリオリな善」の漫画チックな二項対立の構図に依存してしか立ってることもできない無能な政治家などいらぬのだ。
知らぬ間に地味に膝をどこかへぶつけているらしく、しくしく痛むのである。
そりゃそうなのだ。たとえばコーヒーの蓋を開けるにしたって、手で瓶を掴む代わりに両膝で挟み込む。
こういう記述がいつか創作の材料として役立てばいいなと思う。
ある者を侮辱する表現として召喚された者もまた同様に侮辱されているのである。いくら「そういう気持ちはない」などと、検証不能な「主観」に逃げ込んだってダメなのだ。
居間に運んでまた書斎に戻す。その作業の繰り返しで結構な歩行練習になる。
いちいちかける。手数が増えて面倒だけれども、「事故」を防ぐにはしょうがない。
いちいちかける。手数が増えて面倒だけれども、「事故」を防ぐにはしょうがない。
店にスマホを置き忘れ、店員が追いかけて届けてくれたが、これが置き忘れたのが俺だったなら、脳機能障害の症状という物語に回収されてしまうのだろうし、自らもそのように納得してしまうのだろう。
後でわからなくならないように、自ら行動パターンを単純化しているが、それでもわからなくなってしまうのだから厭になる。
いろいろ負荷をかけすぎなのかな。
による画面の複製を試みたがうまくいかない。机の下に潜り込んでPC背面へのケーブルの抜き差しをするのも一苦労である。こんなことすらできないなんて、情けなくて泣けてくる。
嘘だ。後遺症で自律神経がバグっているのか、薬の副作用なのか、涙も出ないのである。その原因すらわからぬまま、目薬さして凌げと医者はいう。
パソコンをプロジェクターに接続して画面を表示したいときに、覚えておくと必ず役立つショートカットキーです。[↑][↓]キーで[PC画面のみ][複製][拡張][セカンドスクリーンのみ]から目的のモードを選択し、[Enter]キーで確定しましょう。例えば、パソコンと同じ画面をプロジェクターに表示したい場合は[複製]を選択します。
ひどく後れていて、目覚めたら現実には夕方だった。
https://kotobank.jp/word/間主観性-48882
E.フッサールの用語で,相互主観性あるいは共同主観性ともいわれる。純粋意識の内在的領域に還元する自我論的な現象学的還元に対して,他の主観,他人の自我の成立を明らかにするものが間主観的還元であるが,それは自我の所属圏における他者の身体の現出を介して自我が転移・移入されることによって行われる。こうして獲得される共同的な主観性において超越的世界は内在化され,その客観性が基礎づけられると説かれる。その後 M.ハイデガー,M.メルロー=ポンティらの議論を経て,廣松渉はこの語を諸個人が互いを主体として承認しつつ単一の世界を共有しているような事態であると定義した。今日では,自己と他者の分化に先行する基底的な構造をさして用いられる。
ホロコーストに関するある有名な本のタイトル―『神はアウシュヴィッツで死んだ』―は反転されるべきである。神はアウシュヴィッツで生を得たのだ。(中略)本当に恐ろしいことが起きるのは、神に見捨てられた時ではなく、神が我々に近づきすぎた時だ。(『事件』p134)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月2日
「人間生存する以前に太陽が既にあった」とか、「当然ながら太陽は世界より先には存在しなかった」とか、私(とメルロ=ポンティ氏)には、どうしてそういうことが言えるのかが分からない。この命題では、太陽はあったけれども人間はいない、つまり主題はあっても対象がないのだ。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年4月2日
人間が、自由で成熟した理性的な行為者として現れるのは、おのずとその自然な発達によってというわけではなく、過酷な規律訓練(ディシプリン)と陶治とに支えられた、成熟へと至る困難な過程によってのみである。(『神話』p179)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年4月2日
不要なコミットメントされるの、ほんと迷惑。挙げ句に動機の純粋性による自己正当化と相場が決まってる。
たとえばクローヌスごときを、あたかもありうべからざる一大事のように騒ぎ立て、不要な干渉をしてくる「専門家」がいないだけでも、退院して救われている。
つくった迷路の中をビー玉を転がすように、我が身の重心のありかを意識して歩を進めるのである。
余計な手間を増やさぬように寐ていよう。
遅からず死ぬことになるであろうもの、既に我々の内で死につつある(そしてこの死こそが現在の我々の言葉を動かしているのだが)、それこそはホモ・ディアレクティクス(対話する人間、弁証法的人間)というものなのだ。-狂気、作品の不在-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年4月2日
薬はできるだけ減らしていきたいのだが、主治医にはまるでその気がないらしく、実現しない。俺が入院中によその病院でされた処方箋を引き継いだまままったく無策で「しばらく様子を見ましょう」という定型句を繰り返すのみ。
エクセルの「応答なし」に苦しめられる。
をめっちゃ意識するようになった。
http://越谷市整体.com/blog/way-of-walking5/#section-X-3
足首の可動範囲が正しく機能すれば、足の指を力ませなくても地面をつかんで歩けることが分かります。
てことは、やはり足首の背屈だな、課題は。それを随意でできれば、けっこうスタスタ歩けるという直感はあったのだ。
https://www.nhk.or.jp/senkyo/database/touitsu/2019/14/13972/skh44466.html
神奈川県知事選挙に立候補したのは、届け出順にいずれも無所属で、3期目を目指す現職で自民党、国民民主党、公明党が推薦する黒岩祐治氏(64)。新人で共産党が推薦する市民団体代表の岸 牧子氏(62)の2人です。
現職/共産党
ってことらしい。
ささっと浴びてくる、ってことができないのだ。今では妻の手を煩わせることもほとんどなくなり、以前よりはだいぶマシになったとはいえ、「入浴」はハードルの高いイベントであることに変わりがないのだ。
ってことがあるだろう。彼はほんとに俺の説明がききたいわけじゃないんだ、欲しているのはただ「説明を聞いた」というアリバイで、その上でマウントしたいだけである。だったらハナから負け顔をしてやればいい。「自分も理解できてないから説明できない」これでいい。無駄な時間と労力を使わないで済む。
ここ数年はいつもこの時期、次回公演のチラシや情宣用動画づくり、予算作成などの制作作業務に追われていた。並行して台本の手直し、演出プランを練りながらの大道具作成、音響の素材準備など。今はもう、そういう慌ただしさとは無縁となった。創作どころか、ただ生存するだけで精一杯である。
あらゆる哲学の営みは「主観性」と「普遍性」という両立することがきわめて難しい概念の微妙な平衡関係のうちに成り立っている。あまりに主観的すぎますと、それは私小説あるいは体験報告になってしまいますし、あまりに普遍的でありすぎますと、科学あるいは学問になってしまいます。『哲学の道場』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2019年4月1日
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/225243/meaning/m0u/
[名](スル)傷がなおり、離れていた皮膚や筋肉などが付着すること。傷口がふさがること。
「傷は見るまに―して」〈寅彦・春寒〉
それでも私は、手足が不自由な、不幸な人間であり、何も自由では見つけられないのです。街頭で出会う最初の犬に聞いてみても、そのとおりだと答えるでしょう。 ――死の前日の書簡、「郵便会社」支配人宛、マルセイユ、一八九一年十一月九日、湯浅博雄訳 アルチュール・ランボー
— アルチュール・ランボー (@ArthurRimbaudJP) 2019年4月1日
目薬を処方されたが、場当たり的な対応ばかりで原因がまったく特定されぬから気味が悪い。それをやらぬのはきっとコスパが悪いってことなんだろう。
毎朝履くのも一苦労なのである。
亜脱臼の肩は相変わらずだし、なんだか腕にも疼くような痛みがこもっている感じだし。
に伴うココログの使いづらさがハンパない。いったい何のためのリニューアルだったのか。
発表になり、俗に「アカが書き、ヤクザが売ってバカが読む」といわれるどこぞの新聞社の記者が、さっそく曲解に基づく難癖をつけている。
おまえがそこをどけば済む話じゃ。ってことがしばしばあるな。
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