毒を以て毒を制す
自律神経の乱れからきているのだろうと思い込んでた症状が、実は薬の副作用なんじゃないかという疑い。
毒をもって毒を制すというか、場当たり的に薬が処方されている。薬漬けでますますボロボロになりそうだ。
« 2019年2月 | トップページ | 2019年4月 »
自律神経の乱れからきているのだろうと思い込んでた症状が、実は薬の副作用なんじゃないかという疑い。
毒をもって毒を制すというか、場当たり的に薬が処方されている。薬漬けでますますボロボロになりそうだ。
古典的自由主義は18世紀末から19世紀にかけて政治的な自由主義と経済的な自由主義の融合によって理論化されたんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年3月31日
ロックせんせー、アダム・スミスせんせー、モンテスキューせんせー、ヒュームせんせー、ヴォルテールせんせー、リカードせんせーたちの功績ですねっ!
古典的自由主義は18世紀末から19世紀にかけて政治的な自由主義と経済的な自由主義の融合によって理論化されたんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年3月31日
ロックせんせー、アダム・スミスせんせー、モンテスキューせんせー、ヒュームせんせー、ヴォルテールせんせー、リカードせんせーたちの功績ですねっ!
古典的自由主義は18世紀末から19世紀にかけて政治的な自由主義と経済的な自由主義の融合によって理論化されたんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年3月31日
ロックせんせー、アダム・スミスせんせー、モンテスキューせんせー、ヒュームせんせー、ヴォルテールせんせー、リカードせんせーたちの功績ですねっ!
古典的自由主義は18世紀末から19世紀にかけて政治的な自由主義と経済的な自由主義の融合によって理論化されたんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年3月31日
ロックせんせー、アダム・スミスせんせー、モンテスキューせんせー、ヒュームせんせー、ヴォルテールせんせー、リカードせんせーたちの功績ですねっ!
散歩がてら近所の公園へ花見に行った。「散歩」といっても俺はむろん車椅子である。
ズボンの生地がつるつるで、座席から滑り落ちそうになるから、ほとんど自走せず、妻に押してもらった。申し訳ない。
桜の花はまだあまり咲いていなかったが、公園に綺麗で大きなトイレがあるのを確認できたのが収穫だった。画像の貼り付けは相変わらず上手くいかない。
扉。――子供は、成人と同様、体験され、習得される全てのものの中に扉を見る。だが、それは子供にとっては入り口であるが、成人にとってはいつも通路にすぎない。-様々な意見と箴言-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2019年3月31日
雑誌『宝島』でそのジャケットは観たことがあるものの音源が手に入らなかった作品を今、YouTubeで漁っている。
世の中にゴマンとある病であり、ザラにある後遺症であるから、この絶望も、ありふれていることになるのだろう。
分析によって明らかにすべき「秘密」とは、形態(商品の形態、夢の形態)の後ろに隠されている内容などではなく、形態そのものの「秘密」である。(『崇高』p28)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月31日
を満喫すべく、仕事は入れないでおいた。
②こういう点、日本のジャーナリストの独りよがりの独善さは、戦争中同様、全く救いようがない様に思われる。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年3月30日
この「百人斬り競争(注:日本兵士の武勇伝)」を「事実」だと強弁する事が「日中友好の道」だなどと考えている者がいるなら、大変な事であろう。
「ある」ふりしてみせないでくれよ。時間の無駄なんだ。鬱陶しい。
芸術作品の場合、<探求>という言葉ほど意味を持たないものは無い。その言葉によって、無力や内的空白、真に創造的意識の欠如、くだらない見栄などが隠蔽されてしまうのだ。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2019年3月30日
空想の光景の中で、欲望はみたされ、「満足」させられるのではなく、構成される(その対象をあたえられる、等々)のである。空想を通じて、われわれは「いかに欲望するか」を学ぶのである。(『崇高』p226)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月30日
バカな暇人に付き合ってる暇はないんだ。
始まりと終わり、宇宙のアルケーとテロス。生きとし生ける者の誕生と死。ありとしあらゆるものの運動と停止。当時は知る由もなかったが、私を怯えさせた文字の緑の色も、それでいてその後限りなく親しい色となった緑も、シュタイナーの人智学によれば「生と死」の色だそうだ。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月30日
[偶然的なものと偶発的なもの:]ある形式的構造のある普通の要素は偶発的で中立的である。つまり交換可能である。だが、この形式的構造そのものを具現化している要素がある。それは必然的ではなく、まさにその偶然性において、構造的必然性の復元のポジティヴな条件である。(『崇高』p341)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月30日
言語こそはまさしく、現前と不在のそうした活動=戯れの媒体なのである。(『声と現象』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2019年3月30日
人びとが何を手に入れるべきかを「公平」という基準で決定しなければならないとすれば、何が「公平」かを、誰が決定するのか(M&R・フリードマン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月30日
そんな話はしていない。的外れな難癖は取り合わないというだけだ。
様々な断定を停止するという事はそうした断定の存する事を否定する事ではありませんし、ましてや我々を物理的・社会的・文化的世界に結びつけている鎖を否認する事ではなく、逆にそうした結びつきを見る事、意識する事です。これが「現象学的還元」というものなのです。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2019年3月30日
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/96380/meaning/m0u/
名](スル)《「孟子」離婁下の「子は私 (ひそ) かにこれを人よりうけて淑 (よし) とするなり」から》直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。「私淑する小説家」
論理的に先行するものは、あくまで、「オリジナル」とされる物語の二次的な歪曲として知覚可能なのである(あるいは知覚可能になるのである、あるいはテクストの中に書き込まれるのである)。それは、しばしば誤読されている「夢作業」の基本的なマトリックスである。(『全体主義』p21)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月30日
「貴重で」あるということは、「生に対して役にたつ」ということである。だから真に貴重な、あるいは役にたつものは、その全効力をもって生につうずるものである(J・ラスキン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月30日
終わりの約束された絶望ならば、いっそ愉しむこともできるのだろうが、そもそもそんなの「絶望」のうちに入らない。
プラトンが受け入れようとしなかった(あるいは受け入れられなかった)のは、イデアが完全に仮想的で、非物質的で(というより実体がない)、事件的だということである。イデアは、物の表層に瞬間的にあらわれる。(『事件』p97)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月30日
エビデンスの中で信頼度が高いのは客観的でバイアスの少ないランダム化比較試験(RCT:Randomized Controlled Trial)です。そういうランダム化比較試験をしても、急性期の患者さんでも促通反復法を持続的電気刺激下でやったほうが通常の治療をやるより麻痺の回復が良い。
あるいは、回復期病棟の例で比較しても、促通反復法を行ったほうが麻痺も良くなり、FIMで評価したADLの改善も大きい。
さらには発症後6ヶ月~1年以上のいわゆる慢性期の症例で比較しても(これはランダム化比較試験はやっていないが)、通常治療よりもはるかに麻痺が良くなる。これらの研究で明らかなように客観的な検証でも、間違いなく促通反復法のほうが従来の治療より優れています。
しかしこういう知見て、業界内でどれほど共有されているんだろうか? 恨みがましいことを言う気はないが、俺は入院中、医師による「治療」など皆無だった。PT、OTによる筋トレみたいなリハビリを半年間、毎日、一日も欠かすことなく受けてこのザマである。徒に時間を浪費し、改善する機会を逃した気がする。
http://www.igaku-shoin.co.jp/misc/pdf/ptj_eoi/5104.pdf
下肢装具は,理学療法のためのひとつのツールである.固定・制御・矯正の基本機能をもつ装具は, 「補装具」として身体機能障害や姿勢保持・運動能力低下を補う.その一方,装具個々の制御機能特性 に応じ「正常とは異なる動き」が生じ得る点も理解する必要がある.装具はさまざまな動作練習に役 立つ反面,生活領域では面倒なものという印象も拭えない.
単に面倒というだけじゃなく、ときに動作の妨げになる。だから俺は退院後、まったく装具を使用してない。功罪があるのだ。その「功」を無視するわけではないが、鰯の頭みたいに信奉すべきもんじゃないのだ。
に入るのなんて昔はちっとも珍しくなかった。深夜だろうが明け方だろうが入りたいときに入った。が、今はそうもいかない。それでも、最近はほとんど妻の手を借りることも一人で着衣までできているから、遅い時間になったけれども風呂に入った。
〈コードなき差異〉とは、多義的象徴であり、自らと交換可能な指向対象を持たない言葉の姿である。これはまた、狭義の動物が持つ安定した信号体系を失った人間が、本能図式によっては分節しきれない生のエネルギー(=欲動)を意味化する現場に生ずる差異でもある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月29日
軽くあっさりと嫌い合ってゆけばいいのです。対立しあっていけばいいのです。とはいえ、その技術は意外に高度かもしれない。なぜなら、われわれは嫌いをゼロに薄めてゆく努力をするか、あるいはそれを無限大に増幅する方向に進むかのどちらかになりやすいから。『ひとを<嫌う>ということ』
— 中島義道bot (@gido_bot) 2019年3月29日
https://rehabili-shigoto.com/magazine/archives/7956
かつて、脳卒中の後遺症である片麻痺は、治療しても治らないものだと考えられていました。一度破壊されてしまった神経細胞は二度と再生しないため、従来のリハビリでは、非麻痺側を日常生活で使えるようにする訓練が重視されていました。
しかし昨今では脳科学の進歩により、「麻痺した手足を繰り返し動かす訓練をすれば、脳の可塑性(※)が発現して麻痺を改善できる」ことが明らかになりました。
動画系のソフトに四苦八苦。でも、まあ手探りでいろいろいじくってるうちになんとかなるだろう。
http://www.itsuki-hp.jp/radio/wd
そもそも歩行は,何気なく行っていますが,実に様々な機能がうまく働いて初めて可能になります.すなわち上手に歩くためには,身体の位置を正確に認識してバランスを取りながら足を適切に動かす必要があります.このためにはまず眼からの視覚情報,内耳よりの身体の傾き具合の情報,さらに足の関節の曲がり具合などの深部感覚などをもとにして大脳皮質にあると言われる歩行中枢が足を動かす運動神経に正確かつ適切な情報を与える必要があります.従いまして歩行中枢が脳血管障害や脳腫瘍などで障害されますと歩行失行といって足に麻痺や感覚障害などがないのに歩けないという理解しがたい状態が起こります.
次に脳から脊髄を経て末梢神経となって足の筋肉に刺激を伝えるのが運動神経ですが,これには錐体路と呼ばれる中枢神経系に属する上位運動ニューロンと脊髄から筋肉までの末梢神経である下位運動ニューロンがあります.この運動神経系の障害により足は動かなくなりますが,上位ニューロンの障害では痙性麻痺と言いまして力を入れようとしても足が突っ張って硬直して力が入らない状態になります.そして下位ニューロンの障害では足の筋肉の緊張は低下し筋萎縮がみられます.この運動神経が,歩行には最も影響が大きいようですが,実は運動神経だけでは,ただ単に足を曲げるとか伸ばすといった単純な運動しか出来ませんので,これを補佐する必要があります.その役目を担っているものに錐体外路系と小脳系があります.
この2つの系によって歩行をスムースに行うことが出来るのですが,このうち錐体外路は大脳基底核と言いまして脳の奥深い場所にあり,運動の量,強さ,速さ,などの微妙なコントロールを行ったり,筋肉の緊張の具合をコントロールしております.そして小脳系は耳からの身体の傾きに関する情報や関節からの深部感覚など身体のバランスに関わる情報を統合しており,いわゆる平衡感覚に関係しています.以上が,歩行に関係する神経の役割ですが,これに加えて筋肉や骨,関節なども歩行には大いに関係していることは言うまでもありません.
それでは次に,どのような病気でどのような歩行障害がみられるのか,順番にお話ししてゆきます.脳から順に行きますと,まずは錐体路の障害では痙性歩行という状態になります.これは下肢の筋肉の緊張が異常に亢進して足が突っ張った上,力も入らなくなります.代表的な病気が脳血管障害などによる片麻痺歩行という状態で,足が棒のように伸び,尖足といって足先も伸びたままとなっているため地面に引っかかります.これを避けるため足を外側に大きく弧を描くように回しながら歩く必要があります(ぶん廻し歩行).
足をぶん回して歩くから「ぶん回し」なのである。「ぶん回す」の名詞化。じゃあ「ぶん」て何か?
これは、ぶん殴るなどと同じ接頭語「ぶん」だろう。
https://kotobank.jp/word/ぶん-622928
接頭]《接頭語「ぶち」の音変化》動詞に付いて、その動詞の示す動作・作用を強める意を表す。「ぶんなぐる」「ぶんなげる」
医学系のサイトなどで「分回し」と書かれているものをいくつか目にしたが「分」の字を充てるのは違うだろうという気がする。
かつてしていたキャッシュフローの管理をまたやるべく、エクセルで表を作る。以前はピタパタの予実管理もエクセルでしていたわけで、余裕だったけれども、今じゃなかなか。まあこれも広義のリハビリである。
もうずいぶん慣れたけれど、片手じゃ靴下を履くのも難儀だし、ろくに顔も洗えやしない。「慣れた」というのは、それらが上手にできるようになったという意味じゃない。「ろくにできない」ことに慣れたのである。
価値自由(かちじゆう)とは、マックス・ヴェーバーが提唱した、価値評価無強制姿勢による社会科学の方法論。 マックス・ヴェーバーは、何かを認識する場合には、善悪や美醜といった価値判断と、何が事実かという事実判断を峻別し、社会科学では事実判断をもって仕事とするべきとする原則を提起した。https://ja.wikipedia.org/wiki/価値自由
たとえば次のような見方はよくある解釈だろう。
「社会学は科学としての客観性を保証するため、価値を扱うことがあってはならない。科学的手法を使えば価値によらない客観的な認識が可能となるのであって、それは自然科学と何ら変わるものではない。」
社会学は科学とならなければならないというのはフランスの社会学者エミール・デュルケーム以来の主張だが、実のところヴェーバーは一言も「価値によらない客観的な認識が可能である」とは言っていない。むしろ、一切の社会現象は私たちの問題関心に相関して分析されるものである以上、端的に「客観的な」科学的分析は不可能だと主張しているのだ。
結論を言ってしまうと、こんな感じだ。
経験的データの分析は価値理念に準拠しており、その分析の意義は当の価値理念からしか理解することができない。それゆえ重要なのは、頭の中から価値理念を消し去ることではなく、自分が何らかの価値理念に依拠しているのを徹底的に意識すること、また、価値理念の領域と経験判断の領域を明確に区別して、価値理念を経験判断の妥当性の証明に持ち込まないこと、この2つだ。
https://www.philosophyguides.org/decoding/decoding-of-weber-objektivitaet-1/
https://kou.benesse.co.jp/nigate/english/a14e0105.html
「名詞句」や「副詞節」という名称は、「名詞」や「副詞」という品詞名の部分が“働き”、「句」や「節」という部分が(語の集まりの)“形”を示しています。 まず、“形”から確認すると、〈句〉と〈節〉は、どちらも2語以上のまとまりで、それが全体で1つの品詞として働くものです。この点は共通です。 異なるのは、〈句〉はその内部に〈S+V〉(主語+述語動詞)を持たないのに対し、〈節〉はその内部に〈S+V〉を持つという点です。 そして、〈句〉や〈節〉の“働き”は (1)「S・C・Oなどになる」 … (名詞) (2)「名詞を後から修飾する」 … (形容詞) (3)「名詞以外を修飾する」 … (副詞) の3種類で、これに応じ、 〈句〉には〈名詞句〉〈形容詞句〉〈副詞句〉、〈節〉には〈名詞節〉〈形容詞節〉〈副詞節〉があります。
社会科学は、この姿の、普遍的な、しかしだからといって個性的に形成されていることにはもとよりいささかも変わりのない連関と、それが他の、もちろんこれまた個性的性質をそなえた社会的文化状態から生成されてきた経緯とを、究明する(M・ヴェーバー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月28日
http://www.gibier.or.jp/gibier/
ジビエとは狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉を意味する言葉(フランス語)で、ヨーロッパでは貴族の伝統料理として古くから発展してきた食文化です。
その昔フランスなどでは、ジビエを使った料理は自分の領地で狩猟ができるような、上流階級の貴族の口にしか入らないほど貴重なものでした。
そのためフランス料理界では古くから高級食材として重宝され、高貴で特別な料理として愛され続けてきました。
そこでは、動物の尊い生命を奪う代わりに肉から内臓、骨、血液に至るまで、全ての部位を余すことなく料理に使い、生命に感謝を捧げようという精神が流れています。山野を駆け巡り大空を舞った天然の肉は、脂肪が少なく引き締まり、栄養価も高い、まさに森からの贈り物。力強く生命力に溢れた冬季限定のごちそうです。
フェスだかライブだかで、まり菜に会えると喜んで友人に話している。
どうせ夢なら、もっとありえない大胆なことが起きてほしいと思うが、
俺は車椅子に乗っておらず、病前と同じく、まるっきりフツーに歩いていたから、「ありえない大胆なこと」はこちらで消費してしまったらしい。だいたいフェスにもライブにも現実にはもう二度と行けやしないだろう。
https://kotobank.jp/word/統一地方選挙-103086
各地,各種の地方選挙を全国的に同一日に統一して行う選挙のこと。地方選挙とは,都道府県と市町村議会の議員の選挙と,都道府県知事や市町村長の選挙をさす。 1947年4月の第1回統一地方選挙以来,4年ごとに行われている。地方選挙に関する事務の簡素化,経費の節減のほか,有権者が投票しやすいように便宜をはかることなどを目的としていたが,議会の開会中の解散,現職者の任期中の退職や死亡などの理由で,次第に実施時期がずれてきている。
やけに脚がこわばっている。転ばぬように気をつけなくちゃ。
主宰が管理運営していましたが、2017年秋に発症した病気の後遺症により、管理が困難となったため、アカウントを削除し、ピタパタブログは閉鎖しました。ご了承ください。
近代エピステーメーの「知の三面体」
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年3月27日
①演繹的科学(数学/物理学)
②経験科学(生物学⇔経済学⇔言語学)
③哲学的反省(同一者の思考)
①⇔②数学化しうるもの
②⇔③存在論(生命⇔疎外された人間(労働)⇔象徴諸形式)
①⇔③思考の形式化
人間諸科学は何処にも所属しない
-言葉と物-
これまた受容理論の話になるが、同じ情報でもそれが語られるプラットフォームによってニュアンスに違いが生じることなどしばしばある。語られる「場」がメタレベルで語ってしまうのである。
メリットは何もないのだから、基本的に関わりたくないはずなのだということを俺自身が再認識しておかなきゃいけないのだろう。何気ない言動も物欲しげに見えてしまうのだ。
は「風待ち」の上演時に劇中で使用する動画のエフェクトのために買ったのだが、全然使いこなせていない。けど、少し本格的に勉強せねば。
http://www.pref.kanagawa.jp/docs/em7/cnt/f5/2019touitsu.html
投票に行くのがかなりしんどいのだけど、なんとか行こうと思っている。そういうしんどい環境に我が身を投入してみることも大事なのだろう。
山田勇男監督の映画のDVDが今日、届いた。以前、上映会で観て、もう一度観たいと思っていた「水晶」が収録されている。
美しいパッケージの画像をここに載せたいが、ココログの仕様変更後、アップロードが上手くいかない。迷惑なことである。
https://www.noc-net.co.jp/blog/2014/11/column_014/
コストといえば、まず思い浮かぶのが、費用やお金、金銭です。
しかし、コストはお金だけではありません。
1.経済的コスト(お金)
2.時間的コスト(時間)
3.肉体的コスト(労力・手間)
4.頭脳的コスト(思考)
5.精神的コスト(不安・気を遣う・楽しい)
誤った情報を伴う不要なコミットメントを退けるコストもたいへんなもんだ。それは大概、所詮は他人事の気楽さでされる独りよがりな干渉である。
起床時刻が大幅にずれ込んでしまった。こうなると、仕事の開始時刻に起きるのがつらい。困った。
される無責任なコミットメントから身をかわすのにも体力を使うのだ。
旧知の制作者者とのやりとりの中で、2017年3月に行われた芝居の話題が出て、彼は、遠い昔のように感じると彼は言うのだけれど俺は、2017年なんて「ついこないだ」って感じがしてしまうのだ。というのも、2017年10月25日の自分の「命日」を基準にして過去と現在との距離を測ってしまうから。
出した問い合わせメールに対する返信がまだこない。
私は、娘がドレスを脱ぐようにして思考する。思考は、その運動の極点では破廉恥であり、猥褻そのものである。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年3月25日
イデアは、表層の下に隠された現実ではない(実はこの隠された現実が絶えず変化を続ける腐敗的なものであることに、プラトンはちゃんと気づいていた)。そうではなくイデアとはそれが出現するときの形そのものである。(『事件』p96)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月25日
自分とは別の主体(そして究極的には主体そのもの)は、ラカンにとって直接あたえられるものではなく「前提」、すなわち、推定されたもの、信仰の対象である。そもそも私の目の前にいるものが深みがない生物機械ではなく、もう一人の主体であると、どうすれば確信できるというのか。(『暴力』p64)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月25日
社会科学は、この姿の、普遍的な、しかしだからといって個性的に形成されていることにはもとよりいささかも変わりのない連関と、それが他の、もちろんこれまた個性的性質をそなえた社会的文化状態から生成されてきた経緯とを、究明する(M・ヴェーバー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月25日
「法の支配」とは
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年3月25日
①形式的属性による制限レベルでの「法の支配」
②「原理」による制限レベルでの「法の支配」
に区別する必要があるという。①の理解に基づくと、法の支配は特定の法律が持つべき一般的属性に関する教義であり、ルールの属性によって定義される具体的内容を持った法の概念である。
を長い時間つけてると、盆栽の枝が曲がるみたいに、腕がゆがんで固まってしまうような気がするんだ。
限界と侵犯とは、それぞれの存在の密度を互いに相手に負っている。つまり、絶対に越えられない限界というものは存在しないに等しいし、翻って、越える限界が幻や影のようなものでしかないなら侵犯もまた虚妄となる。-侵犯への序言-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年3月25日
もちろん、深層の言葉が言葉である限り非連続的な〈差異〉であることを免れないが、表層の言語内の〈差異〉との根本的な違いは、二分された〈図と地〉が二項対立として固定されることなく、絶えず新たな〈形〉へと動いている点にあり、これが〈コードなき差異〉と呼ばれる所以である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月25日
も、しばらく使ってない。何でもいいからたまにはいじらないと、使い方を忘れてしまう。
こなせる仕事量が半減してしまった。人偏に動くと書いて「働く」だから、半分動かなくなってちょうど辻褄は合うのだけれど、これじゃあ生活がどうもならん。
科学と宗教の地位は入れ替わった。こんにち科学は、宗教がかつて保証していた安全を与える。奇妙な地位の入れ替えの中で、宗教は、こんにちの社会を批判的に懐疑する際の拠点の一つとなっている。それは抵抗の拠点の一つになったのだ。(『暴力』p107)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月25日
人間の存在というものは、狂気なしには理解され得ないばかりでなく、人間がもし自らの自由の限界としての狂気を自分のうちに担わなかったら、それは人間の存在ではなくなってしまうだろう。(ラカン『エクリ』)
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月25日
人が暴君となるなら、仲間の市民に対して暴君となるよりは、自分の銀行残高に対して暴君となる方がよい。後者は前者の手段にほかならないとして非難される場合もあるが、少なくとも時には後者は前者の代わりになる(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月24日
非連続な存在である私たちにとって、死は存在の連続性という意味を持つものであることを、ここに示しておきたいと思う。生殖は存在の非連続と言うことに帰着するが、それはまた、存在の連続性のために活を入れる。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年3月24日
〈死〉と〈夢〉と〈音楽〉の神は(ニーチェも否定しえぬ)アポロンである。シュレーバーの荒ぶる神は、アポロンという名の“白のアナグラム”から聞こえていたコトバである。(〈死〉〈夢〉〈音楽〉はそれぞれホモ・モルタリス、ホモ・ソムニアーンス、ホモ・カンターンスに対応)-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月24日
恋に落ちることは偶然的な遭遇だが、ひとたびそれが起こってしまうと、それが必然だったように思われてくる自分の人生はこの遭遇をめざして進んでいたのだ、と。(『事件』p155)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月24日
…脱臼は外傷性,先天性,病的脱臼などに区別されるが,関節包や靱帯(じんたい)などの損傷・弛緩により関節面の相対関係が乱れ,関節面の相互にずれが生じた場合をいう。骨頭(関節頭)とこれを受け入れる関節窩(か)との適合が完全に失われた場合を完全脱臼,部分的に両面の一部が接触しているときは亜脱臼subluxationと呼ばれる。先天性脱臼は生まれつき脱臼している場合で,主として股関節にみられる(先天性股関節脱臼)が,まれにはひざやひじの関節にもみられる。
…交換の術はすべての財におよんでいるが、そもそもの発端は自然に即した事態から、人びとがある財は十分な量よりも多く、他の財は十分な量よりも少なくもっていた事実によってはじまったのである(アリストテレス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月23日
我々が向こう(フランコ政権下のスペイン、マドリード)で見たものは、人がよく勝手な意味で「そりゃファシズムだ」などと言っているのとは桁違いのものでした。我々が実際に目にしたのは、極めて洗練されかつ極めて暴力的な卓越したファシズムの姿でした。-マドリード行き-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年3月23日
夢と現実の対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。(『ラカン』p101)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月23日
ラカンは無意識のレベルにおける言語活動に注目し、そこでは丁度夢に見る光景が目まぐるしく変化して特定の意味と繋がらなかったり(置き換え現象)、停止していても複数の意味の重なり合い(圧縮現象)だったりするのと同じように、〈無意識の言葉〉の意味と音の間には固定した絆が無いと言っている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月23日
のができるとできないとじゃ雲泥の差なのである。
まったく余計な仕様変更をしてくれたものである。いたずらに時間ばかりが無駄になる。
⑥当時もしこれを「投票」で決したら、おそらくツァイトリンが絶対多数であったろう。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年3月23日
前に私は「事実論」と「議論」とを分け、「事実論」に要請されるのは論証だけであって「多数決」ではない。
[名](スル)袖口 (そでぐち) をまくり上げて、腕を出すこと。威勢をつけるときや暑さをしのぐときなどにする。「腕捲りして働く」
過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと堕ちていく存在者の背後で、また日々に解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。まるで情け容赦もない証人のように。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年3月22日
右手への負荷が大きく腱鞘炎気味である。不随の左の皺寄せが右に出ている。
国家は何よりもまず人口としての人間を監視しているものなのです。国家は生ける存在に対して、生ける存在として、自らの権力を行使する。その国家の政治は、従って必然的に生政治なのです。-個人の政治テクノロジー-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年3月22日
やはり画像がアップできない。こんな不具合だらけのリニューアルならしないでくれた方が良かった。
サルトルの考える〈現象学的還元〉とは、非反省的意識である情動を反省的意識に引き戻す操作であり、彼がそれを〈反省作用〉とか〈浄化的反省〉と呼んだ理由も明らかになるだろう。これはギリシャ以来の〈対象化〉理論であり、西欧の形而上学の根底にある発想である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月21日
退院からちょうど一年たったことになる。
入院中に構想した作品を形にするには、あらかじめ踏まえておきたい哲学書がいくつかあり、まずはそいつらを読む必要があるが、なかなかそういう時間がとれずにいる。
というのも陳腐な気がするけれど、昨年夏に近所のショッピングセンターへ妻と行った動画を観ていて、病後にもこんな小さなハッピーはあったのだし、だから、これからもきっとあるのだと思うことができたのだ。
というのも陳腐な気がするけれど、昨年夏に近所のショッピングセンターへ妻と行った動画を観ていて、病後にもこんな小さなハッピーはあったのだし、だから、これからもきっとあるのだと思うことができたのだ。
実証主義的思想においては価値判断の客観性や合理性が厳格に問われ、正義についての規範的理論は「非科学的」であるというレッテルを貼られた。また価値判断が相対的な主観に基づくものである以上、絶対的な正義など存在し得ないという価値相対主義的思想も強力な説得力を持っていた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年3月21日
余計な改装するから使いにくくてしょうがない。
「怪異な、奇妙な、突飛な、滑稽な」という意味を持つグロテスクは、恐ろしさとおかしさという相反する二つの要素から成立する。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月17日
初診日から1年6ヶ月を経過した日(その間に治った場合は治った日)または20歳に達した日に障害の状態にあるか、または65歳に達する日の前日までの間に障害の状態となった場合。
※例えば、初めて医師の診療を受けた日から1年6ヶ月以内に、次の1.~8.に該当する日があるときは、その日が「障害認定日」となります。
人工透析療法を行っている場合は、透析を初めて受けた日から起算して3ヶ月を経過した日
人工骨頭又は人工関節をそう入置換した場合は、そう入置換した日
心臓ペースメーカー、植え込み型除細動器(ICD)又は人工弁を装着した場合は、装着した日
人工肛門の造設、尿路変更術を施術した場合は、造設又は手術を施した日から起算して6ヶ月を経過した日
新膀胱を造設した場合は、造設した日
切断又は離断による肢体の障害は、原則として切断又は離断した日(障害手当金又は旧法の場合は、創面が治癒した日)
喉頭全摘出の場合は、全摘出した日
在宅酸素療法を行っている場合は、在宅酸素療法を開始した日
突き止める努力もなく、、応急処置的というか、場当たり的な薬漬けで、「様子を見ましょう」の決まり文句ばかりである。
長年愛用してきた(それゆえに愛着もあるが古い)デスクトップPCをとうとう廃棄する。
こういうリハビリを受けてみたかった。そしたらずいぶん違った「今」があったんじゃないか。俺の場合、リハビリテーション科の医師など、回診のアリバイづくりのためにふらーっとやって来ては「かわりないですかー」と声をかける程度のもんだった。
テロリスト的な似非原理主義者は、無信仰の人の罪深い生活に大いに悩まされ、興味をそそられ、魅惑される。罪深い他人との戦いの中で、彼らは自分自身の誘惑と戦っているようなところがある。(…)[彼らは]真の原理主義のつらよごしである。(『暴力』p110)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月16日
書斎のアルミバッグ上の緑の缶
理性が非理性から、狂気としての過ちとしての、或いは病気としての真理を引き出すために、非理性に対して行使する統御は、理性と非理性との間の距離を打ち立てる区切りから派生するものなのである。従ってこの原初の論争を、勝利も、勝利への権利をも予想することなく語るべきなのだ。-狂気の歴史-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年3月16日
は書斎のアルミバッグの中。
ありやなしやの推測に基づく因果関係により導き出された結論で、通俗的な「正義」のスタイルを纏いたがるのはいつものこと。そのために被取材者を消費する括弧付きの「ジャーナリズム」。
コピー機にセットするのに、机の上でトントンと端を揃えることすら難儀で、動かぬ左手の代わりに口を使ったら、口の端を紙で切って血が出てしまった。
ジジェクはハリウッド映画に強い関心を持ち、逆に自国の映画と、とくに文学は嫌悪していた。ほとんどのスロヴェニア芸術は、彼の目には、共産党のイデオロギーか右翼ナショナリズムによって汚染されていた。(『スラヴォイ・ジジェク』p23)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月12日
象徴的機能に目を眩まされることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構が我々の現実を構造化しているということである。(『ラカン』p64)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月10日
言語を習得しているわれわれは、そのかぎり自他の区別のない言語世界(象徴界)に生きている。そして、そうした自他の区別のない世界に生きているただなかで、各人は言語以前の自分固有の体験を発見し、同時にその対極に他人固有の体験を発見するのです。『「死」を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2019年3月8日
意に反して自由を侵害されている人を助けたり、最低限の衣食住や教育を与えられていない子供を保護したりするのは政府の仕事ですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年3月8日
自由の基盤提供だからですっ!
それ以外の自由な大人に対する福祉については政府の仕事ではありません!
自分や自発的な他人や地域社会の仕事です!
ねっ!
胃カメラ
…政治権力とは、固有権の調整と維持とのために、死刑、従って、当然それ以下のあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、また、その法を執行し、外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも、すべて、公共善のためだけにそれを行う権利である…(J・ロック)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月7日
政府の統治は地域や個人のその時々の個性を無視します。統治の本質は硬直した線引きです。だから政府は伝統も産業もつくれないし制御もできません。ただ伝統や産業を型にはめて破壊するだけです。
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2019年3月6日
でも生命保護と自由の条件整備だけは画一的にやっていいんです。個性は必要ありませんから!
ねっ!
したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値…というものは、一つの背理…のように思われる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月6日
[偶然的なものと偶発的なもの:]ある形式的構造のある普通の要素は偶発的で中立的である。つまり交換可能である。だが、この形式的構造そのものを具現化している要素がある。それは必然的ではなく、まさにその偶然性において、構造的必然性の復元のポジティヴな条件である。(『崇高』p341)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月6日
2018年1月に大雪が降ったとき、俺は入院中で、言語療法士の手引きにより、半地下の駐車場に出て、外を眺めた。妻と一緒に雪を観たいと思った。今日は見舞いに来ないのだろうか。
しかしそんな大雪の中、訪ねてくるのは難儀である。むしろ今日は来るなといってやるべきところだ。でも、俺は来てほしいと思った。自分のことしか考えられない身勝手な人間なのである。
〈識〉とは対象を感覚・知覚・思考する心の働き一般をさすが、それまでの小乗仏教が眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つ(=いわゆる五感と表層意識)しか考えられなかったのに対し、〈唯識派〉はそれらの基盤となる〈マナ識〉と〈アラヤ識〉を加えて、全部で八つの識を立てた。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月6日
ポスト・マルクス主義は、個別の闘争の還元不能な複数性を強調し、それら個別の闘争が一連の等式において表現されることは社会的・歴史的過程の根源的偶然性によるのだと主張するが、ラカン派の精神分析はこの複数性そのものを、同じ不可能な-真の核に対する複数の反応として捉える(『崇高』p17)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月6日
ニーチェは、西洋文明が〈最後の人間〉、激しい情熱も何かに関与する意欲もない冷血動物に向かって進んでいることを認識していた。人生に疲れ、夢をみる力もない〈最後の人間〉は、なんの危険も冒さず、ただ快適さと安全だけを、寛容な相互関係の表現だけを求めている。(『暴力』p44)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月5日
してる肩が痛くて今日は朝からスリングで吊っている。肘や手首の関節が固まってしまうのを助長しそうでしばらくやめていたのだけれど。そこんとこどうなのか、医者の助言がほしいとも思うが、痛みを訴えても「しばらく様子を見てみましょう」という定型文のもと無策のままで、どれほどの専門的見知があるのか、怪しいものだ。
2019年4月2日SO-02Kセット
芸術は一般的に言って、実用的かつ実証的な実践の中には現れてこない、絶対的な精神的心理に関わる、普遍的な象徴であるということができる。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2019年3月3日
ホッブズによると、人間は自然状態において自己保存を行うために自分の力を自由に行使する権利を持っている。この権利のことを「自然権」と名づけた。しかし各人が 自然権を無制限に行使すると、欲求の対象の獲得をめぐって各人の力の衝突が発生し、かえって自己保存を達成出来なくなるのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年3月3日
というものは単に用件の伝達ではない。もしそうであるなら口の利き方が問題にされることもないはずだ。しかし現実にそうなっていないのはなぜか。そこには否応なしに「用件」以上の情報が含まれるのである。そして劇はその「口の利き方」的なるものを描写するのである。その程度のことがわからぬのならきいたふうなことを言わぬことだ。
主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けることは絶対にできない。(『ラカン』p99)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月3日
にいる気でいたが「底」は実はもっと深いところにあった。
単に半身が動かぬだけでなく、観る/聴く(それらに対する(少なくとも自分で定めた基準以上に)適切なリアクションも含めて)が難しくなってきている。ソシュールのいう「実体なき関係の世界」において、あらゆる「関係」が、いわば半透明化しているのである。
コタール症候群の例を引き合いに出すまでもなく、自分が「すでに死んでいる」と感じる所以である。すでに終わった人生で、生命の残像が燻っている。
デカルトは万物を「精神」と「物体」に峻別し、精神の主要な属性は思惟=考えることであり、物体の主要な属性は延長=拡がりを持つことであると主張した。デカルト にとって自然は精神を持たない物体のみから構成されているのであり、自然現象は物体の間における因果関係によって説明できるのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年3月3日
労働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年3月3日
ヒステリー的主体の問題は、自分の欲望を組織化するにはつねに誰か別の主体に助けを求めなければならないということである。これが、ヒステリー的欲望は他者の欲望であるというラカンの公式の意味である。(『崇高』p347)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月3日
〈中観派〉の〈縁起〉説によれば、全ての事象は関係の産物である。これは「自立的・恒常不変・単一という三つの性質を持った即時的存在である〈自性〉の否定」という点で、そのままソシュールのいう〈実体なき関係の世界〉と同じである。そしてその原因を存在喚起力としての言葉に見るところも同じだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年3月3日
もしも福島の災害によって、日本が自らに対して疑問を抱くようになり、われわれの社会を織りなしている倫理的・政治的構造の根本的改革、十七世紀の集団的決断[(鎖国政策)]に匹敵するような改革が生まれるとしたら、それこそは本物の〈事件〉となるだろう。(『事件』p8)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年3月3日
如何なる賭けへの投入も、如何なる供犠も、肉欲の過剰と同じように、力(force)の消失であり、消費であるのだから、我々は、自分に消費が生じるそのたびごとに、空約束であろうとなかろうと、利得の約束によって、この消費を理由付けせざるを得ないのである。『ニーチェについて 好運への意志』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年3月3日
久しぶりに簡単な動画編集作業。
moviemakerの配付が終了しているので「裏技」で入手。他のソフトもあるにはあるのだが、使うスキルがないから。
就職希望者にとって「自分が会社にとって役立つ人材である」ことを証明するのは大変難しいことです。一方で、学歴の有無を証明するのは比較的簡単にできます。よって、「私は学歴が高いので仕事もできる人間です」と主張することは、自分の能力を伝えるためのコストを大きく下げてくれます。
会社の採用担当者にとっても、学歴を確認することが「学歴が高い人はそれだけ能力が高い人であり、会社に取って役立つ可能性が高いだろう」という合理的な判断をする根拠になり、就職希望者の能力を理解するためにかかるコストを下げることができます。
このように、本質的な情報(能力の高さ)に関連するシグナル(学歴)を判断基準にすることで、情報収集コストを下げられることがシグナリングを活用する大きなメリットといえます。
身を任せて派手に転倒してみたい、という欲求がある。
最近のコメント