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津村順天堂は1893年(明治26年)に、婦人薬「中将湯」の発売を開始。本社社屋にガスイルミネーションを設けるなどの広告展開を行った。その一環として、凌雲閣(浅草十二階)そばの活動写真館「千束館」の屋上に看板を設けた[1]。1905年に森下南陽堂(同時期に森下博薬房に改称、現在の森下仁丹)が「仁丹」を発売すると、中将湯に代わり千束館の屋上に看板を掲出した。これが仁丹と凌雲閣との関わりの始まりである。他にも新聞広告や薬店の突き出し看板、京都市内の町名表示板などに広告を展開し、薬局や祭礼地などには「仁丹遊園(仁丹パーク)」と呼ばれる自動販売機が設置された。これは塔状の外観を持ち、代金を投入すると取出口から仁丹や浅草観音のおみくじが出てくるとともに、覗き穴から美人画などの立体映像を観られるものであった[2]。1907年に大阪駅前に大型広告看板を設置したのを皮切りに、東京の神田・上野にも広告塔を設置していった。 浅草に仁丹塔が建ったのは昭和に入ってからで、関東大震災で凌雲閣が倒壊してから9年後の1932年(昭和7年)に、国際通りと雷門通りとの交差点近くの西浅草一丁目の、かき料理店などが入る4階建のビルの屋上に四角柱型の広告塔が設置された[3]。上半分には「大礼服マーク」、下半分には「赤.小粒」「石鹸」「体温計」などの商品名が表示された[4]。この仁丹塔は、第二次世界大戦のための金属回収により解体された。 1954年に再建された仁丹塔は凌雲閣を模したもので、側面に「東京名物浅草十二階仁丹広告塔」と記された。高さは約45mで[5]、電飾はロゴや塔の外縁だけでなく窓にも施されたが、この窓は描かれたものであり実際には開かなかった[6]。内部には電気配線や点検用の螺旋階段があるが、観光客が登ることはできなかった。1986年6月に解体されたあとも仁丹の看板が残っていたが、これも2000年に撤去され[6]、現在は土台となったビルの壁面にプレートが残るのみである。
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