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宗教あるいはイデオロギーの内的真実を救い出し、その真実とその二次的な政治的利用とを分離するというゲームは、単純に間違っている。それは非哲学的である。ここではイスラム教、キリスト教に対して、…あるいは実のところマルクス主義に対しても、情けをかけてはいけない。(『暴力』p144)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月28日
あんまりみっともないことになる前に「終わり」になれと思ってしまう。
何事もなかったかのように、ひょいとフツーに歩けるようになってるんじゃなかろうかっていう気がしてしまう。
古来よりの人間の様々な定義:アニマル・ラチオナーレであるホモ・サピエンス(知性人)、道具のための道具を作る動物ホモ・ファーベル(工作人)、競争・模擬・偶然性・眩暈に惹かれる動物ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)などなど。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月28日
ラカンにとって、欲望する主体が欲望の対象に近づこうとそれから遠ざかろうと、その対象はつねに主体から同じ距離にあるように見える。(中略)どんなに欲望の対象に近づいても、欲望の原因は遠くにあって手が届かないのである。(『ラカン』p132)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月28日
管理は以前は俺の仕事だったのだけど、今はできないから皺寄せが妻にいってる。余計な負担をかけて申し訳ない。
ラカンが〈クッションの綴じ目〉の説明で言いたいのは、〈音(シニフィアン)〉とそれが担っている〈意味(シニフィエ)〉、文とそれが生み出す〈意味作用〉との間の絆が壊れると、人は無意味な言葉の連鎖の中に投げ出され、意味に支えられていた自我の同一性が崩壊し、狂気の状態に陥るということだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月27日
2001年のノーベル経済学賞受賞者、マイケル・スペンスは、学歴競争の原理を理論的に分析。
その「シグナリング理論」で、教育は、個人の能力を他人に知らせる「信号(シグナル)」として取り扱われる。企業は、労働市場で、求職者ひとり一人の実力を正確に把握しがたい。そのため、求職者は、自分がどれだけ優秀であるかを積極的に知らせなければならない。そのとき、最も効果的な手段が教育である。
スペンスは、教育が必ずしも個人の能力を向上させる、とは考えなかった。一流大学が一流人材を育てるというよりは、一流人材が自身の優秀性を市場に知らせるため一流大学に入る、といった具合の主張だ。大学の卒業証書は、大学で実力をみがいた、という証書ではない。「私には、最初から大学を卒業するだけの実力がある」とのことを示すシグナルにすぎない。
企業にとって、求職者ひとり一人の能力を精査するのは困難。やや不確実なものの、学歴によって見分ける方が簡単となる。
スペンスは、
教育の需要は、良い看板を手に入れようとする欲望によって決まる、
教育は、個人が労動市場に送る信号の強度を強めるための投資と考えた。
痛かったり、痒かったり。動かぬくせにいっちょまえに。
記憶を一年前に遡らせる。
民主党政権と安倍政権の比較。雇用量:安倍、名目雇用者所得:安倍、実質雇用者所得:安倍、名目賃金:安倍、実質賃金:民主というところじゃないの。ただし、雇用量で負けて実質賃金で勝ったというのは、デフレの結果なので誇れない。この分析は統計偽装でも変わらない pic.twitter.com/pkn9LLbsQU
— 高橋洋一(嘉悦大) (@YoichiTakahashi) 2019年2月25日
俺は台無しにしてしまったんじゃないかな。
ビデオをDVDに焼いたものが見つかったからMP4に変換して持っておこうと思ったが、データが不完全だった。何に使うわけでもないけど悲しい。
我々が自分の身体を通して世界にあるかぎり、また我々が世界を自分の身体でもって知覚する限り、我々に現れるままの世界の経験を呼び覚ますことが今や必要となろう。しかし、このように身体及び世界との接触をし直すことによって我々が再び見出そうとするのは、我々自身でもある。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2019年2月26日
地獄へどーんと墜落するんでなしに軟着陸を目指す。そういう時期なのだろう。きっと。
【批判殺到】北海道地震でデマ多数 鳩山元首相のアカウントも「流言飛語」と認定https://t.co/1k011rIgzt
また、道警は「原因は北大の核実験らしい」「明日の朝本震来るって」などの書き込みもデマと認定した。 pic.twitter.com/F5dhWqF56T— ライブドアニュース (@livedoornews) 2019年2月22日
心底呆れたバカである。
私が自分自身を、最高度の抽象によって私が持つすべての表象に伴う思考の空虚な形式へと限定したとき、まさにそのときに、思考の一切の規定を欠いた存在に私は出会うのである。(『否定的』p33)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月25日
24日放送の『TVタックル』(テレビ朝日系)で、小説家の室井佑月が、天皇陛下に過去の歴史を謝罪せよなどと発言した韓国国会議長の発言を受け入れるべきとする趣旨の発言を行い、批判が集まっている。
沖縄の米軍基地「役立つ」59%…読売世論調査https://t.co/P1riMknw9A#政治
— 読売新聞オンライン (@Yomiuri_Online) 2019年2月24日
法的拘束力を持たぬ県民投票など、新聞の世論調査と何が違うのか。 公費で何やってんだか。
しかし、車(第二次ルール)のある社会に住む私たちは、赤信号が従うべき行為の「規準」であり「止まる」という判断に対して「十分な理由」を提供することを知っている。それは他者の逸脱を批判したり、自分の行為を正当化する「規準」としても使う。その時、私たちは「内的視点」に立っているのだ。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年2月24日
<死>はそこにいない時こそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。この老婦人がお墓の石に変身してしまうことは不快なことではなかった。それはミサの時にパンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。『言葉』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年2月24日
問題構成とは、様々な困難に関して可能な応えが与えられる条件を練り上げ、種々の解決が応えをもたらそうとする課題を構成する諸要素を定義づけることだ。-論争・政治・問題化-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年2月23日
■山本七平botまとめ/愚行を美談としてしまう「情緒的自己満足」 https://t.co/Cx7RcRCcOD
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年2月23日
一つ一つの哲学的選択は、選択されなかったものの<地>の上に浮き出るのであり、まさに、このことによって、哲学者たちはコミュニケーションをなしうるのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2019年2月23日
存在するためには所有せねばならぬ。そして人間はその人がもつところのものである。有産の哲学とはこのようなものであり、ギュスターヴというなりそこないの有産者のそれも同様である。『家の馬鹿息子』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年2月23日
労働者たちは、いつの日か、金持ちたちが暮らしているように、暮らすことになるだろう。
— フーコー&バタイユ&デリダ bot (@foucoubotbatail) 2019年2月23日
しかし彼らの上には、必要な事がないために際立つさらなる高い階級の人々が暮らすことになるだろう。
労働者たちよりずっと貧しくて素朴なのだが、力を持っている人々だ
ーニーチェ覚書
功利性とは、ある対象の性質であって、それによってその対象が、その利益が考慮されている当事者に、利益、便宜、快楽、善、または幸福…を生み出し、または、…危害、苦痛、害悪または不幸が起こることを防止する傾向をもつものを意味する(J・ベンサム)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年2月23日
オースティンはベンサムに倣い、自然法論や社会契約説を批判し「ある法(法)」と「あるべき法(道徳)」を区別した。両者の間には論理的・必然的関係は存在せず、法と道徳は別のものとして法の形式的妥当性の問題と道徳的正邪の問題を峻別した。「内容が道徳的に邪悪であっても、法は法」なのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年2月23日
理解させるのに労力を費やす、その無駄に疲れてしまう。
統治は、裁きを行うと主張する時には、統治自身を裁きに従わせるというこの義務を、世界中の人間に照らして受け容れなければなりません。自分に対してしか釈明を行おうとしないような主権原則など、首相は私よりもお認めにならないことと思います。統治するとは、自明なことではないのです。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年2月23日
無事に終了したらしい。らしい、というのは、寐てる間に済んでいたので。
書斎のNECを外して俺のDELLノートへ。
ペストのあるところには検疫体制が敷かれる。一人残らず統制され、マークされ、閉じ込められ、規制に従わせられる。共同体の生活と安全を守るため、許可なく出歩く者は誰かれを問わず殺して構わない、という権力側の要請に、技術面で応える建築構造を提供したのがベンサムの「パノプティコン」でした。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年2月22日
何でも事をなそうと思ったら相場観を持っておくのは大事だろう。
人で一杯のこの部屋にナイフをいれたような空虚で穿たれたこの空虚が差し込まれた。自分の場所を持っている人間がいることに私は魅了された。彼の場所、みんなの期待で穿たれた虚無、そこから突然新たに生まれてくるような見えない子宮。『言葉』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年2月22日
⑦『百人斬り競争』は「断固たる事実」だと、何百万の新聞読者が主張しようと事実でないことは事実でなく、それは多数決の対象とはならない、
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年2月22日
と記したが、この場合もそうで、どちらにだれがどれだけ数多く賛同しようと、それは関係がない。
それにしても何故私達は、異なる諸々の文化や時代における人間の生き方の違いに対しては鋭い感覚を持っても、人間の原本的な特性に対しては奇妙に鈍感なのであろうか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月21日
■【『檄文』の論理③】日本教の教義第二条「人間の価値は”天秤の支点”の位置で決まる」/~人間を「純粋な人間」と「純粋ではない人間」にわける日本人~https://t.co/kO4fKZxI4K
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2019年2月21日
薬をもらいに行かねばならぬ。なんだか今朝はやけに膝折れする。
紙のものも、PCのデータも、なかなか骨が折れる作業で思うように進まない。
私を駆り立てた動機は、ごく単純であった。[…]それは好奇心だ-ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努めるていの好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。-快楽の活用-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年2月19日
⑮それを知りつつ、新聞記者たる浅海特派員が前記のように証言する事は
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年2月19日
「二人の語った事は事実であると私は認定する。
事実であると認定したが故に記事にした。
ただし現場は見ていない」
と証言したに等しいのである。
痛ましい事故です。65歳以上になっても、働かなければ生活できないという状況が広がっています。政治が変えていかなければなりません。
「70代の男性作業員2人がのりが貯蔵されている高さ5.4メートルのタンクに転落した」
タンクに転落2人死亡 硫化水素で住民避難https://t.co/EtBaqo0G30 pic.twitter.com/3inWeFeJPX— 日本共産党⚙🌾 (@jcp_cc) 2019年2月17日
実にトンチンカンな論点で、所詮は他人事の善人ヅラ。共産党らしいといえば「らしい」。
絶望をスルーしたり曲解したりするのでなしに、正面から受け止めた上で相対化するのである。「書く」とはそういうことだろう。
そうとは気づかずに生命の残像が生きている。
社会が利用可能な資源のうち、個人消費以上の社会的余剰を何に使うかによって、経済の基本的性格は一変するといわれる。産業社会はこれを利潤獲得のための資本投資に向ける。福祉社会はこれを弱者への所得再分配に向ける(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年2月15日
というのではないのだろうが、妻が物音に驚いて駆けつける。俺が転倒しているんじゃないかと心配して。崩れそうなジェンガみたいな俺の存在がそういう「物音」を聞かせてしまうのである。
今日で仕事終了。週末には友人に焼き肉に連れてってもらう予定。また変更にならなければ。それはそれで楽しみだし、ありがたくもあるのだけど、妻と二人で行く機会を持ちたいのだ。我慢ばかりさせてしまっているし。
⑤一体これらの実体の基礎になっている考え方は何なのか。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年2月14日
それは彼が言った「組織の名誉」という考え方であろう。
名誉は組織のものなのか個人のものなのか?
帝国陸軍には、そういう問題意識すらなく「組織の名誉」以外に名誉はなかった。
これは夢だな、と気づくことがあるように、「ああ、譫妄だ」と思いながら、病室の天井を這うニシキヘビを眺めていた。
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12184-46036/
『直撃LIVE グッディ!』では池江璃花子が白血病と診断されたことを速報として流した
安藤優子キャスターは「神様がちょっと試練を与えたのかなと思います」と発言
所詮は他人事の気楽さで陳腐なレトリックを弄ぶ。
「正義の二原理」とは、自由と両立する限り出来るだけ広い基本的自由への平等な権利を各人に保障すべきである「平等自由原理」。(a)最も不利な状況にある人々の利益を最大化することを求める「格差原理」、(b)全ての人々に開かれた地位と職務とに伴うことを要請する「機会均等原理」。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年2月13日
カントの啓蒙についてのテクストと共に、現代性について問う新しい仕方が現れ、浮かび上がります。古代人に対する縦断的な関係でではなく、言説が自分自身の現在性に対して取り結ぶ、矢状的(前から後ろに突き抜ける軸)と呼べる関係、言い換えれば垂直な関係における問い方です。-自己と他者の統治-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年2月13日
電車で社労士事務所へ行ったのであるが、アパートの一室であり、接面道路が、まさかの砂利道。車椅子では容易に進めない。しかしその程度の小さなクライシスは、むしろ妻とのいい思い出になった。
〈死〉と〈夢〉と〈音楽〉の神は(ニーチェも否定しえぬ)アポロンである。シュレーバーの荒ぶる神は、アポロンという名の“白のアナグラム”から聞こえていたコトバである。(〈死〉〈夢〉〈音楽〉はそれぞれホモ・モルタリス、ホモ・ソムニアーンス、ホモ・カンターンスに対応)-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月12日
社労士事務所へ行くのである。
不随の腕がその重さで肩の関節を脱臼させてしまうように俺の存在が夫婦の関係を脱臼させてしまうのではないかということが気がかりなのである。
あなたの顔もわからなくなっているくらいだったら、いっそ目覚めぬ方がいい。
「現在」にくっついていた「過去」の鱗が一枚また一枚剥がれ落ちる。
に出てくる姥捨て山が実在するならそこへ行きたい。これ以上身内に迷惑をかけたくない。
が、ナースステーションからしていたのを思い出す。飲みたくてしょうがなかったが、今は好きなだけ飲める。そう考えれば現状も比較的マシかと思える。
を引き受けて生きねばならぬこのつらさよ。
病前から担当していた仕事の降板を申し出た。
俺のミスによって損失が起こるのであるから。はじめは、ブランクがあるからうまく要領がつかめないでいるのだと思ったが、どうやらそんな簡単な話じゃないのだ。注意障害を気力ではカバーしきれない。そんな俺が「担当」することじたいが障害になっているのだ。雇い主側にしてみたら、しかしクビを言い渡すのは心苦しいだろう。だからこちらから申し出たのである。
☆象徴
— ちぢれ麺 (@chidiremen11) 2019年2月10日
井沢元彦「民主主義においてマザーテレサも変質者も1人1票で平等。だから中国や朝鮮半島は未だに儒教や共産主義のようにエリートが馬鹿を指導するって考え方から抜けられない。イスラムやキリスト諸国でも絶対的神様の前では平等。日本は天皇がいるから民主主義が可能だった。この伝統は大切」 pic.twitter.com/XfewcyvYrS
カントの超越論的統覚のステイタスは必然的であり、同時に不可能でもある論理的構成物のそれである(「不可能」というのは、その概念が、直感の対象となる経験的な現実性によっては決して充当されえないという、正確な意味合いにおいてである)。(『否定的』p32)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月9日
どこぞの新聞がよくやるやつだね。■山本七平botまとめ/【原則は簡単です】/この世で、書かれたもののうち、一番恐ろしい害悪を及ぼすのは「虚偽」ではなく「一部を作為的に欠落させた事実の提示」である。https://t.co/awARGN3c1A
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2019年2月9日
ジジェクの知的展開の特徴は、自分が属する公的な文化に対してとってみせる距離、公的文化への異質性にあるのだ。彼は常に、正当性の中の染み、不透明な部分を引き受け、自分の仕事の場である社会や哲学のしきたりに完全に組み入れられることは決してないのである。(『スラヴォイ・ジジェク』p28)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月9日
全ての物事は、同時に二つの正反対のベクトルをもって動いているはずではなかったか。家族愛は美しい。しかしこれは家族エゴの原因でもある。人は皆生まれ故郷を愛し懐かしむ。しかし郷土愛は地域エゴとして硬直しかねない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月9日
人間の発話に固有のことは、言表内容と言表行為との還元不能な懸隔である。「君はそう言うが、ではなぜ君はいま明け透けにそういうのか」ということである。(…)何かについて公に報告するという行為は決して中立的ではない。(『テロル』p237)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月9日
今日は寝たきりでいようかと思ったけど昼夜逆転しちゃうから起きた。布団の中で夢うつつのままひっそり息を引き取ったとしたら、それはそれでいい死に方だなと思う。
https://news.nifty.com/article/world/korea/12256-000018/
韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長が、日韓の従軍慰安婦問題について天皇の謝罪で解決するとの見解を示したと報じられている。
文議長はインタビューで「一言でいいのだ。日本を代表する首相かあるいは、私としては間もなく退位される天皇が望ましいと思う。その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか。そのような方が一度おばあさんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言いえば、すっかり解消されるだろう」と語ったという。
「すっかり解消される」などということは決してない、う国であるということは韓国が自ら示してきたわけだしし、そもそもが朝日新聞の捏造記事に端を発した「問題」である。
もう一つ思うことは、健常者であったときに、障害者と一度でも接したことのある人・・・関心を持ったことのある人は、障害を受け入れやすいのではないかとも感じる。 障害者を差別とまでいかなくても、自分とは無関係と思って暮らしてきた人は、自分が障害者となったことがかなり許せないだろうと思うのである。
東京での長期研修、一ヶ月の準備期間を乗り切り、8月にデイサービスはオープンした。 問い合わせの多くは、脳梗塞の片麻痺の方からだった。見学も相次いだのだが、皆さん片麻痺になられて日が浅いため、どの方も、障害の受容がなかなか困難なようで、「このデイサービスでリハビリしてがんばります」とおっしゃりながら、「こんな体になってしもうて、家族に迷惑をかけるし、もう死にたいですわ」などと、もらされる。 「私なんか、48年間、足を引きずって歩いてきたんですよ。何十年間も元気でいらしたのですから、ゆるしてくださいね」なんていっても、あまり効果はないのである。挙句のはてに、「柴田さん、こんな体になって生きていて、何の意味がありますか」と、いわれる。 「何言っているんですか、そんなことはありませんよ」と次々言葉が出てきてもよさそうなものなのに、情けないことに私は、「うーん」と答えに詰まってしまうのである。
2世紀から3世紀にかけて活躍した大乗仏教学者のナーガールジュナの『中論』に基づいて般若空観を宣揚した〈中観派〉の考え方は、ソシュールやフロイト=ラカンの思想を先取りしているとさえ思われるほどである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月8日
禁止を知らない動物は、彼ら同士の単なる争いよりほかに、戦争のような組織された闘いを知らなかった。戦争は或る意味で、攻撃衝動の集団組織化に帰着する。それは労働のように集団的に組織され、労働のように目的を決められ、指導者の立てた計画に従うのである。 『エロティシズム』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年2月8日
取り憑いてどうにかこうにか人生の残像を生きているみたいだ。脚を組むのも一苦労である。
物理的環境はほぼ整った。あとは、時間や心理的余裕を含めての体調といったソフト面の調整である。
だって? 笑わせないでもらいたい。宿主に依存した無頼派気取り、ただの寄生虫じゃないか。
歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とは程遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年2月8日
トイレに入ったらただの四角い個室で便器がないのである。この話にべつだんオチはない。俺はただ呆然と立ち尽くしたのみである。
で集中力を絞り出すのがキツイのだ。以前だったら余裕でできた徹夜ももう体力的にできなくなった。
CDが見つからない。いったいどこへしまったのか。マニアックな作品でメジャー流通はしてないはずだから貴重品だ。どうしても今必要というわけではないのだけど、あるべきものがないというのは気持ち悪い。
歩行をマネしたところで動かぬ足は動かないのだ。むしろ足が地面に引っかかって転倒しそうになる。ならば俗にいう「ぶん回し」を自分なりに工夫して安定と速さを獲得した方がいい。
真の哲学とは世界を見ることを改めて学ぶことである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2019年2月7日
歩様に異常をきたしている状態をいう。負重するときに疼痛を示すもの(支柱跛行)、肢の挙楊時および前進時に疼痛を示すもの(懸垂跛行)、両方が混在する跛行(混合跛行)がある。跛行の原因には、骨、腱、関節、筋肉、神経等の異常が考えられる。一方、原因がはっきりしない場合、原因があると推測される部位により肩跛行、寛跛行(腰部に原因)と呼ばれることもある。
後ろに書かれた「まっとうな政治」というのが、皮肉かギャグに見える。立民 辻元国対委員長 外国人からの政治献金が判明し返金 #nhk_news https://t.co/qhLyLxYsNt
— NHKニュース (@nhk_news) 2019年2月6日
タイムセールの袋詰めみたいに、ありったけの不運を既に俺の中に押し込んだハズである。それでいい。あとはささやかな幸運を身内でシェアさせてくれ。
健側と同じように体重をかけたら、そんなの、ぶっ倒れるに決まってる。精神論でどうにかなる話じゃねえんだ。
工場経営者の立場から生産と労務関係の化学的管理を目指し、労働条件や福利厚生の改善を通して社会改良を志したロバート・オーウェン。貧困の克服は供給と需要が均衡する経済制度の創設によって解決し、労働組織の共同によって国家の死滅をも論じた無政府組合主義者ピエール・プルードンらがいる。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2019年2月6日
深夜作業で昨夜寝るのが遅かったから眠い。しかし入院中、毎朝六時にたたき起こされ寒さに震えたことを思えば遙かに快適である。少なくとも寒くはないし、自由である。
二度とあの生活には戻りたくない。
かように現状を比較的マシと感じられるように、あの半年間の入院があったのかも知れない。
毎朝、エクセルの「応答なし」にイライラさせられる。
イデオロギーの究極の形態は(…)現実の人々とその諸関係のなかにあるイデオロギーの基盤を忘却することにあるのではなく(…)〈現実的なもの〉を見逃すこと、そして「現実苦しみを抱えた人々」にじかに向かい合うようなふりをすることにある。(『暴力』p27)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年2月4日
何の役にも立たぬ我が身の存在を持て余してしまう。
こぼしたくもなるが自重せねば、それがまた妻を苦しめてしまうから。
⑯人は大体、自分の属している組織の中で、有形無形の組織内の組織に制御されて自己を規定している。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2019年2月4日
現実の行動の規範はそれ以外にない。
新年会のハズであったが参加者の変更に伴い、時間と場所が変更になり、俺が参加を辞退した。遅い時間に遠方まで出向くのは体力的にも精神的に不安があるので。俺の存在が障害となって、集団のいろんな選択肢を狭めてしまう。心苦しいことである。
群衆は家や品物を破壊することを格別好むものである。窓ガラス、鏡、壺、彫像、陶器のような毀れやすい品物がそうである。そして、群衆の破壊欲を刺戟するのはまさにこれらの品物の毀れやすさそのものだ、と考えられがちである。
— エリアス・カネッティ (@Canetti_bot) 2019年2月2日
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