どのような場合であれ、"過去"はより安定した、揺るぎないものなのだ。"現在"は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていくのだ。そして、みずからの物質的な重量をただその回想の中に見いだすのだ。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2019年1月31日
« 2018年12月 | トップページ | 2019年2月 »
どのような場合であれ、"過去"はより安定した、揺るぎないものなのだ。"現在"は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていくのだ。そして、みずからの物質的な重量をただその回想の中に見いだすのだ。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2019年1月31日
十八世紀の終わりと十九世紀のはじまりにおいて、どのような要素を使って人間が組み立てられたかを、『言葉と物』のなかで私は語ろうとしました。-人間は死んだのか-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月30日
喋りながら常々人々は次のことを見ようとしない。つまり、推論は自己固有の価値を否定しつつも、推論をなす者のみならず推論に耳傾けるものをも想定するということだ。私は自分の中に、この私などを超えたもの、私の同類者の特性を成すもの以外には何一つとして見つけることはできない。『内的体験』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年1月28日
張り巡らされていると知ってはいたが意識したことのないドブの存在に、ドブ板を踏み抜いてはじめて気づいたのである。
コンビニに行ってくるくらいのことはできたんだ。どんな天気であったって、気合いでなんとかなった。俺にもそういう用心棒的な有用性はあったんだ。以前なら。
PT Physical Therapy (Therapist)→ 理学療法(理学療法士)
OT Occupational Therapy (Therapist)→ 作業療法(作業療法士)
ST Speech Therapy(Therapist)→ 言語聴覚療法(言語聴覚士)
https://www.juntendo.ac.jp/hospital/clinic/kogen/patient/disease/disease03.html
シェーグレン症候群は、涙腺、唾液腺をはじめとする全身の外分泌腺に慢性的に炎症が起こり、外分泌腺が破壊されてドライアイやドライマウスなどの乾燥症状が出現する病気です。
本来、細菌やウイルスなどの外敵から身を守るための免疫系が自分自身を誤って攻撃する、自己免疫という現象が重要な原因のひとつと考えられています。これまでの研究によって、様々な自己抗体(自己抗原に対する抗体)の出現や、自己反応性リンパ球(自己抗原に反応するリンパ球)の存在が明らかになっていますが、何故自己免疫が起こってしまうのかについてはいまだ完全には解明されていません。
シェーグレン症候群は、関節リウマチや全身性エリテマトーデスなど他の膠原病の合併が見られない「一次性シェーグレン症候群」と、他の膠原病に合併する「二次性シェーグレン症候群」に分けられ、その比率は6:4で「一次性シェーグレン症候群」が多いとされています。さらに一次性シェーグレン症候群は病変が涙腺、唾液腺などの外分泌線に限局する「腺型」と、病変が外分泌線だけではなく全身の臓器に及ぶ「腺外型」に更に細分され、7:3の比率で「腺型」が多いとされています(図1)。
国内の推計患者数は約7万人とされており、女性に多い疾患で、主な発症年齢は40~60歳代とされています。
がハンパない。何の力にもなってやれないのだ。せいぜい邪魔にならぬよう寝てしまおうか。
食器棚やドアのガラスに突っ込みそうで怖いんだ。
他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。(『ラカン』p175)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月26日
昨日はクリニックへ行ったから、その「移動」のために疲れているらしい。今朝は身体がこわばっている。
最初に行ったライブは渋谷クワトロだった 次が恵比寿ガーデンホールだったかな。ラゾーナ川崎でのイベントにも行ったなあ。
整理して収納しようとも思ったが、かえってわからなくなるから、全部一箇所にまとめておく。
の形を採れば、己の属する集団全体を貶めていいということにはならないだろう。
主体間を循環するのは何よりも空無である。主体はたがいに共通の欠如を渡し合う。この視点に立てば、女は男を補完するものではなく、男の欠如を具現化するものである(だからこそラカンは、美しい女は男の去勢の完璧な具現化だと言いえた)。(『崇高』p320)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月24日
コーヒー飲みながら一服してたら「さて、そろそろ稽古に行かなきゃ」って気持ちになってることに気づきました。2011年から7年とか8年、ずっとそんなことしてたんだものね。
として欠けている。
ルーチンの副業が休みだったのでゆっくり起床。妻は仕事で外出しており、家に一人。コーヒー飲んで一服してると、さて、ぼちぼち出かけるか、という気になってくる。荷物を担いで、仙川だか溝口だかに行き、ファミレスで軽く食ってから稽古場へ。という習慣が身体の中に残っている。
の底で、ただ生存している。
の薬を飲むために飯を食わねばならぬのがめんどくさい。
俗に、電話の切り方が乱暴なこと。通話の相手がまだ話しているにもかかわらず、がちゃんという音を立てて受話器を置き、電話を切ってしまうこと。
ビジネスマナーの初歩の初歩だが、ごく親しい友人関係であったりすれば、あえての「失礼」が「冗談」に昇華されることもあるだろう。それでもやるのが「普通」ってわけじゃない。たとえばこれが電話でなしに面と向かって会話しているときならどうか。相手がまだ話しているにもかかわらず、それを遮って自分の話を始めたとしたら、それは「ガチャ切り」と同じ心理効果を相手に与えるだろう。そんなことすらわからずに、会話の間だとかテンポだとか、きいたふうなことを抜かしたがるのだから片腹痛い。
楽しめるまでになれればいいのだが、さすがにそれはなかなかねえ。
なんて大嘘だ。そんな精神論ではどうにも超えられぬ壁が人生には仕組まれている。
これってロケ地は下北沢だろうか? 下北沢の古着屋巡りをするのが好きだった。いつまでも若い気でいたが、「時計の針が止まって見える」錯覚だったのかもしれない。それまでのツケを一気に払わされるように、ある晩、唐突に老け込んでしまった。もはや自分の足で街を歩くことすらできないのだ。
って、アタリマエだ。そもそもあんたにそんな権限はないし、される筋合いもない。いったいナニサマのつもりなのか。アホちゃうか。
は常にある。比較的安全そうな場所めがけて自ら倒倒れ込んだから大事には至らなかったが、転倒=絶対悪みたいに思い込んでがんばっちゃうと、コントロール不能に陥ってガラスに頭を突っ込んだりとかありそう。恐ろしいことだ。
に乗ったことはないのだけど、日常生活から、きっとこんな感じなのだろうという想像はつく。
ハイデガーは、私にとって常に本質的な哲学者でした。私はヘーゲルを、ついでマルクスを読むことからはじめ、そして1951年か1952年にハイデガーを読みだしました。更に1953年か1952年、いつであったのかよくは覚えていませんがニーチェを読みました。-道徳への回帰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月21日
の仕事だからやらねば金にならぬのだけど、下手に手を出して手間をかけ、クレームを呼び込むのではバカらしいから、いっそ手をつけないという判断。
芸人気取りで何が「いじり方に悩む」だ。痛い野郎である。
左肩をかばって右を下にして寝ると唯一頼りの右腕が痺れてしまうんだ。困ったもんです。情けなくて泣けてくる、というのは嘘だ。泣けたらどんなに楽だろう。自律神経もバグっているらしく、涙を流すこともできないのだ。
④従って、誰も怨むことはできないし、誰も非難することはできない。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年1月20日
自らの言葉が自らに返ってきただけである。
だがそこで「みんな、みんな、我々が悪かった」式の反省、
いわば「総懺悔」は全く意味をなさない。
妻はもとより、親きょうだいそして10年、20年来の友人に助けられている。
身体が権力関係と支配関係によって攻囲されるのは、かなりの程度までは生産力としてであるが、身体を生産力として組み込むことができるのは、身体が服従の強制の仕組(そこでは欲求もまた注意深く配分され計量され活用される政治的道具の一つだ)の中に入れられる場合に限られる。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月20日
何にも掴まることなく、自分の足で立っていると、自転車の手放し運転をしてるような気分になる。
のように夢を見るが
現実との区別がつかない。
昨年、花見に行く約束を妻としたのに、退院が4月で間に合わなかった。一年越しになるが、今年は是非約束を果たしたい。
〈死〉と〈夢〉と〈音楽〉の神は(ニーチェも否定しえぬ)アポロンである。シュレーバーの荒ぶる神は、アポロンという名の“白のアナグラム”から聞こえていたコトバである。(〈死〉〈夢〉〈音楽〉はそれぞれホモ・モルタリス、ホモ・ソムニアーンス、ホモ・カンターンスに対応)-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月20日
のニュースを耳にするから自分が共通一次を受けたときのことを思い出してしまうんだ。
ぶったやつが大嫌い。あんたのメシの好き嫌いなんか知ったことか。くだらねえ。
ラカンは無意識のレベルにおける言語活動に注目し、そこでは丁度夢に見る光景が目まぐるしく変化して特定の意味と繋がらなかったり(置き換え現象)、停止していても複数の意味の重なり合い(圧縮現象)だったりするのと同じように、〈無意識の言葉〉の意味と音の間には固定した絆が無いと言っている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月19日
では、どうにもならないことがあるんだ。
をその目に晒す前に消滅できていたらと正直、思ってしまう。
行きさえすれば、この肩の痛みから解放されるのだと思っていたが、レントゲン撮って、亜脱臼であるとハナからわかりきった「診察」結果を聞かされたのみ。とんだ骨折り損&時間の無駄であった。
『対話』の言語は第三の次元における言語だ。というのは、沈黙の三つの形(闇の三重の壁)を乗り越えねばならず、それを単なる決まり文句と捉えてはならないのだから。それは『対話』の存在の源となっている基本的な構造である。そしてそれは内的な必然性でもある。-ルソー『対話』への序文-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月17日
シュレーバーは牧神ばかりかパスカルの神をも殺してしまったが、それにも関わらず彼には神がいる。「神は言葉と共にあった」というよりも、端的に「神は言葉であった。」彼は、ニーチェも否定しえない神を創造した。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月17日
私は私の対他-存在の責任者ではあるが、しかし私は私の対他-存在の根拠であるのではない。『存在と無』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年1月17日
決まった薬を処方するのみで「様子を見る」という放置である。痛みも異常も改善されない。出向くのが手間であるばかり。
自分には無縁と思い込んでいた種類の不幸が、ある日突然、津波のように襲いかかってきたのだ。
V. パレート(伊・仏, 1842-1923):パンタレオーニの影響下に経済学の研究を始め、序数的効用から有名なパレート最適を定義した。また彼は人文社会科学の統一分野としての社会学を提唱・研究し、その非合理的人間行為についての洞察はパーソンズにも影響を与えた。主著『経済学提要』(1906)他。
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年1月16日
単純作業と呼ばれるモノが、実は身体の複雑なアライメントを伴っており、俺にとってはちっとも「単純」じゃないんだ。
の成分を理解できぬ人間が「言葉」の専門家を自称するとか、片腹痛い。
死ぬのはべつに怖くない。けど、明日になってあなたのことが分からなくなっていたらと思うと恐ろしくてしょうがない。そんな明日なら来ないで欲しい。
ホモ・モルタリス。本能とは異なるコトバによって〈死〉をイメージ化し、死の不安と恐怖を持つ唯一の動物だという意味では「人間だけが死ぬ動物」[ド・ヴァーレンス]かもしれぬ。しかし同時に、「人間は死への自覚をもって自らを不死たらしめる」[ハイデガー]動物でもあろう。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月15日
にあるのだろう。こんな人生の終わりかたってあるんだな。神様、あんまりじゃないか。
頭がバカになってしまった。
モノを拾おうとするとそのまま転倒してしまいそうになる。
姥捨て山が実在すれば、このポンコツな我が身の置き場とすることができるのに。
バグってボロボロである。
をしたいと思うこともあるけど、いたずらに妻の時間を奪ってしまうし、ハッピーな内容にはならないから、うんざりさせてしまうしなあ。
頭もバカになって、じきに顔を思い出せなくなりそうだよ。
データのエクスポート/インポートがうまくいかない。昔はこういうののプロだったのだが。レトリックとしてでなく、実際にデータ整備でメシを喰ってた。まあMSDOS時代の大昔の話だけれど。
入院中にスマホが故障して機種変更したのだが、おそらくそれに伴い、いく人かの連絡先を失ってしまった。その後何度か復旧を試みたけれどもうまくいかない。
もちろん、深層の言葉が言葉である限り非連続的な〈差異〉であることを免れないが、表層の言語内の〈差異〉との根本的な違いは、二分された〈図と地〉が二項対立として固定されることなく、絶えず新たな〈形〉へと動いている点にあり、これが〈コードなき差異〉と呼ばれる所以である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月15日
横になっていても肩の痛みにつきまとわれる。逃げ場がない。半年の入院期間を含めてもう一年以上こんな状況が続いている。
を捲ったり戻したりさえできないのである。
病態失認(anosognosia)というのは,広義には, 「自分の病態に気づかない」という事態であり,高 次脳機能障害のかなり広い領域においてみとめら れるものである。盲や聾に対するAnton型の病態 失認,ウェルニッケ失語における病態失認,健忘 症状に対する病態失認,左片麻痺に対する Babinski型の病態失認などは,それらの代表的な 例であるが,さまざまな認知障害をきたした際に それに「気づかない」という事態は,実際には想 像以上にしばしばみとめられるといってよい。つ まり「認知」に障害をきたしているのに「意識的」 には気づかないという事態を病態失認というふう に考えれば,これは「認知と意識の解離」という さらに高次元の病態の一部であるとみなすことも 可能である。
リスクよりむしろ転倒による外科的なリスクの方が大きいだろう。ガラスに頭から突っ込む蓋然性は日常的に常にある。精神論で、えいや、とやると身体がついてこないから、簡単に起こりうること。もう「急ぐ」ってことができないのだ。
<死>はそこにいない時こそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。この老婦人がお墓の石に変身してしまうことは不快なことではなかった。それはミサの時にパンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。『言葉』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年1月13日
イデアは、表層の下に隠された現実ではない(実はこの隠された現実が絶えず変化を続ける腐敗的なものであることに、プラトンはちゃんと気づいていた)。そうではなくイデアとはそれが出現するときの形そのものである。(『事件』p96)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月13日
収納棚など、以前なら簡単に自作したのだが。工具類は揃っているし。
作用の停止そのものではなく、そこに至る「物語」すなわち「死に方」が問題になのである。
が口癖になっている。人は悲しいときに「悲しい」などとは云わないものだ、などというのは、半可通の思い込みによる決めつけに過ぎない。
均等にかかった体重を一方へと徐々に移し、重心を慎重に移動して、歩行の糸口を掴もうとしていた。が、それが他人の目には、次に成すべきことを忘れて「悩んでいる」と見えたらしい。そう「見えた」というのはそいつにとっての「事実」だろうが、実際には悩んでなどいない。むしろ方針は明確に定まっていた。またあるときは、手が使えないから口でバナナの皮を剥こうとしたら、「食べ方を忘れてまるごとかぶりついている」という『失行』のストーリーに回収する。それを我が目で見たという「体験」がう断定を補強してしまうのだ、何を言おうとそいつにとっては「言い訳」で、「それで〈事実〉が変わるのならばいくらでも聴きますけどね」などとほざくわけだ。「目撃者」としの自尊心が無駄に高く、また自己相対化の能力が欠如しているものだから。医療ミスとメディアの「誤報」に共通する構造であろう。
したところで無駄に暖房を使うだけなんだが、昼夜逆転しないように、という理由だけで起きている。
ということになるのか、病院から一時帰宅して、メールの返信やらウェブサイトの更新など、最低限の「仕事」をしたかったのだ。だが、帰宅は叶わず、妻の手を煩わせた。
この前提から出てくる明白な帰結は、労働者が苦労すればするほど、かれが自分のむこう側に作り出す外的な対象世界の力が大きくなり、逆に、かれ自身の内面世界は貧しくなり、彼自身の所有物は減少する、ということだ(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年1月12日
を整理したのだが、大昔に買ったCDが見つからない。メジャー流通してないはずで、だから結構貴重なモノだ。どうしても今、必要なわけじゃないが、あるべきはずのものがないというのは気持ち悪い。
俗に「単純作業」と呼ばれるものが、実は身体の複雑なアライメントを伴っており、全然「単純」じゃねえ。
『アンダルシアの犬』は、薄雲が月を横切るのを見た若い男が、若い女の眼をカミソリで真横に切り裂くなど、残虐なシーンの連続がセンセーションを巻き起こした。このダリの発想による眼球切断シーンは、バタイユ『眼球譚』と“理性的装置としての眼の破壊”というテーマを共有しているのかもしれない。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月12日
30歳代、40歳代の残像を生きているようだ。
だから来たるべき死は残像の消失ということになる。だから死ぬこと自体は怖くない。生命作用の停止そのものではなく、そこに至る「物語」すなわち「死に方」が問題になのである。しかるべきタイミングで、しかるべきありようで息を引き取ってくれればいいが、その「しかるべき」を意志の力でコントロールできないことが恐怖なのだ。
リスクのないところから所詮は他人事の気楽さで思いつきを口にするなど誰にだってできるのだ。そしてそんなコンサル気取りの無責任な干渉は不要どころか迷惑なのである。
あのまま死んでいたら、あなたの記憶の中で俺は、少なくともマトモな姿のままでいられたのに、と思ってしまうな。
書斎のラックをなんとか空けて収納しているが、これが大仕事である。
のアイデアを、こんなのはどうだろうと妻にしゃべり、ああでもないこうでもないとやり取りするのがとても楽しかった。またそんな日がまた訪れるといいな。
一種の不快な眠りにおちた。見定めがたいものや、醜いものや、形をなしていないものなど、絶対に固定させておかねばならないものが、すべて、はずれはじめた。どうしようもなかった。私の存在は腐蝕した物質のようにばらばらになって消えていった…… 『青空』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年1月11日
⑮忠節とか忠誠とかいう言葉が、元来は、絶対に欺かず裏切らず、いわば懺悔の対象のような絶対者として相手を見ることなら、中隊長を欺くことは天皇を欺くこと、従って軍人勅諭に反するはずである。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年1月11日
太田省吾の沈黙劇を例に引くまでもなく、他者に伝達されぬ「言葉」があるのだ。「饒舌な沈黙」というjのは言葉遊びだったり、奇を衒ったレトリックだったりではない。
宗教あるいはイデオロギーの内的真実を救い出し、その真実とその二次的な政治的利用とを分離するというゲームは、単純に間違っている。それは非哲学的である。ここではイスラム教、キリスト教に対して、…あるいは実のところマルクス主義に対しても、情けをかけてはいけない。(『暴力』p144)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月10日
与太話に付き合ってる余裕はないのだ。
してはいます。変わりないかと問われれば、どこの時点を基点にするかによるし、元気かと問われれば、「元気」の定義による。
際立たせるでもなく、つまり的外れで、ワンパターンな衒学趣味のたとえ話に頷いてやるという手間(=コス)トを負担する筋合いはないのだ。
ラカンによる愛の定義―「愛とは自分の持っていないものを与えることである」―には、以下を補う必要がある。「それを欲していないひとに」。(『ラカン』p82)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月10日
主立ったイベントは「死」くらいのものだろう。せめて近親者に迷惑をかけぬタイミングで滞りなく済ませたいものだ。
くらい勝手につくさ。誰の指図も受けはしない。
だが、そうあるためには、切り捨てねばならぬ「関係」もあるだろう。そんなものは捨ててしまおう。その程度の努力は必要だ。
母性棄却という否定行為によって人間存在は母性=自然状態から離脱し、母子の融合状態から父的機能との同一化に至ることによって、初めて文化の象徴的秩序に組み込まれる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月10日
解放するタイプの原稿を書いてみてもいいのかもしれない。
片腕だけの経済学者には、古くから二種類ある。右腕だけのと左腕だけのだ。そこで殿様は、対立する狂信者を前にしての採決のために、私のような両腕の経済学者を呼び入れねばならぬのだろう(P・サミュエルソン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年1月10日
残念ながら、私は絶対自由主義者たちと同じではありません。それというのも、人間の根源的欲求に信を置く、ある絶対自由主義的な(リベルタリアン)哲学が存在するせいです。私は権力によって位置をつきとめられたいと思いませんし、とりわけアイデンティティーを特定されるなんて真っ平御免です。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月10日
DVDに不具合があったとの話を妻から聞き、『風待ち』を焼き直した。二重、三重に懐かしい。ひとつは、公演そのもの。もうひとつは稽古のこと。また、パネルや装置を自作したのでそのこと、もうひとつは、劇中で使用した動画撮影のこと。またひとつは、学生時代を描いた劇の内容。
古い公演動画の整理をしていた。とりあえずピタパタ全作品のマスター動画を外付けハードディスクに収納。
もう二度とできないのだと思うと、すべての過去が愛おしい。
芝居が近年稀に見るドヘタなホンで、書き手にはまるでその自覚がないらしいのが輪をかけて痛々しかった。ただただ作者の頭の悪さだけが際立っている。それでも今にして思えば、他山の石としての有用性はあったのだ。
貨幣は経験的・物質的な素材でできているわけではなく、崇高な物質、すなわち物理的な実体が崩れ去ったあとも残る「破壊することのできない不変の」物質からできているのだ。(『崇高』p40)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月8日
②その私がこれに関心をもったのは、「公害」よりむしろ公害に触発されたさまざまの問題、
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2019年1月8日
一言でいえば、以上の情況倫理・集団倫理に科学上のデータがどう作用し、どう結果するかという点であった。
もっと急進的あるいはもっと大胆であろうとして、古典的諸対立に対して中立を決め込む無関心の態度にとどまるならば、場を実際に歴史において支配する勢力にやりたい放題させることになるだろう。それでは介入する手段を奪取できず、既成の勢力のバランスを確認することになる。(『散種』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2019年1月8日
ひとつの思考実験だが、少なくともそのままのかたちで実現されるなどとは、着想した人間はもとより、誰ひとり考えたことがなかったものだ。仕掛けは至って簡単だ。箱のなかに一匹の猫を閉じ込める。かなり残忍な箱で、放射性物質、ガイガーがカウンター、猛毒入りのガラスの小瓶が入っている。原子が崩壊して粒子が放出されると、放射線が測定され、それをスイッチに、ハンマーがガラスの小瓶に振り下ろされ、箱のうちに毒が拡散し、猫は即死する。人びとを魅了したのは、この装置の風変わりな性格に拠るところが大きいと思われる。だが、それはひとまず措こう。本質はべつなところにある。この実験の原理は、きわめて簡潔に説明できる。実験で定められた時間内に原子が崩壊すれば、猫は死ぬ。反対に、原子が崩壊しなければ、猫は生きつづける。ところが、まさにこうして検討された現象の特性のために、問題ははじめから複雑になってしまう。というのも、予想されるふたつの仮説は、一方が他方を排除するのではなく、この状況に対して同時にあてはまると見なされなければならないからだ。実験がつづき、観察によって中断されないかぎり、原子は崩壊しており、かつ、崩壊していない。つまり、猫は死んでおり、かつ、生きていると推定しなければならないのだ。
まず、「他人事」「たにんごと」という表記(書き方)と言い方・読み方は、どちらも放送では原則として用いないことにしています。「自分に関係ないこと」などを意味する場合の伝統的な言い方は「ひとごと(人事)」[ヒトゴト]とされ、放送でもこの語法を採っています。表記は、「ひと事」または「ひとごと」です。 ×「他人事」「たにんごと」
http://news.livedoor.com/article/detail/15836559/
このような両国当局の形態は、隣同士のけんかで互いに相手が悪いと町中に触れ回っているようなものだ。軍事分野も人がすることなので、平常時にも誤認射撃まで起きるのが現実だ。今回の事案の真相は明らかにならなかったが、双方ともに実質的な被害はなかった。そのため正確な事実を明らかにし、韓国側が火器管制レーダーを照射したのが事実なら正式に謝って再発防止を約束すれば終わる事案だ。逆に、日本が韓国軍艦の火器管制レーダーを照射されたと勘違いしたのなら、これもまた謝れば済むことだ。
何をエラソーに言っておるのか。
を処方してもらう、ただそれだけのために、わざわざ出向かなければならんのが手間でしょうがない。
歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とは程遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月8日
を飲むためにアリバイとして飯を食う。
ラカンは、われわれをもっとずっと不安にさせることを言わんとしている。すなわち、私は自分にとって最も身近な自己経験、つまり事物が「本当は私にどう見えるか」ということも奪われ、私の存在の中核を構成し、それを保証している根本的な幻想をも奪われているということだ。(『ラカン』p95)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月8日
■山本七平botまとめ/『百人斬り報道が「事実」とされる理由』~いまだに虚報記事を訂正しない毎日新聞~ https://t.co/kLoTOF24Ik
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年1月7日
19・20世紀の人種差別は、そこにいくつかの手がかりを見出すだろう。国家は、市民の性と市民の性の用い方の現状を知らねばならないが、市民の方も各人が、性の用い方を自分でコントロールできなければならない。国家と個人の間で、性は一つの賭金=目的になった。-知への意志-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月7日
昼間はルーチチンの仕事、夕方からデータ整備のお手伝い。
人間が、自由で成熟した理性的な行為者として現れるのは、おのずとその自然な発達によってというわけではなく、過酷な規律訓練(ディシプリン)と陶治とに支えられた、成熟へと至る困難な過程によってのみである。(『神話』p179)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月7日
お盆の上に割り箸で作った迷路にビー玉を転がす遊びのように、そろりそろりと重心を移動し、身体を運ぶ感じであって、とても「歩行」とよべたシロモノではないんだ。
「イカ天」には1989年だけでおよそ四百以上のグループが出場した。その中でも評判になったバンドは、“BEGIN”“FLYING KIDS”“人間椅子”“カプキロックス”などであるが、とりわけ興味深いのは1990年の元旦に〈イカ天大賞〉をとった“たま”だろう。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月7日
我々は、最近現れたばかりの〈人間〉というものの明白さによって、すっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、〈人間〉が実存しなかった、それでもそれほど遠くない時代を、もはや思い出の中にとどめてさえいないのだ。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月7日
したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値…というものは、一つの背理…のように思われる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年1月6日
主体間を循環するのは何よりも空無である。主体はたがいに共通の欠如を渡し合う。この視点に立てば、女は男を補完するものではなく、男の欠如を具現化するものである(だからこそラカンは、美しい女は男の去勢の完璧な具現化だと言いえた)。(『崇高』p320)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月6日
国家装置と制度が作用させるもの[=身体の政治的技術]は、言ってみれば、権力の微視的物理学に関連してくることであるが、その有効性の場は、言ってみれば、それら装置並びに制度の大仕掛けな作用と、物質性と力とを含む身体自体との間に位置しているといえる。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2019年1月6日
我々は分裂が示唆する他のふたつの概念を恐れずに主張すべきである。憎悪と暴力である。(中略)「この時代の一般的な臆病さは、慈善という幻想を身にまとい、誰の感情も傷つけてはならないと唱える」。政治とは組織化された憎悪であるという観念は、全体主義的な狂気とは程遠い。(『事件』p195)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月6日
を購入。フリーソフトがうまくいかないので。結構な値段したけど、今度は大丈夫かな?
愚痴にしか解釈されないのなら、口をつぐむしかないが、口をつぐめとあんたに指図される筋合いはない。俺の言葉はあんたに向けて発せられてるわけじゃねえから。俺にかまわず黙って通り過ぎろ。
誰でも簡単にできることが、ことごとくできない、その情けなさに押しつぶされそうである。
身体は、物の特性よりもむしろ物を処理する自分なりのやり方を表現するのであり、言い換えれば物と世界とが自分にとって何であるかを表現するのだ。生きた有機体は、それがまさに現実的行為の中心であるというそのことによって、パースペクティヴの中心をなすのである。『心身の合一』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2019年1月6日
フロイトの無意識があれほどのスキャンダルを引き起こしたのは、合理的な自己はそれよりもはるかに強大で盲目的で非合理的な本能の領域に従属していると主張したからではなく、無意識が独自の文法と論理に従っていることを明らかにしたからである。(『ラカン』p18)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月6日
図面をひいて道具や建物を作る、生殖とは必ずしも関係の無いエロティシズムを楽しむ、革命や同類殺しや自殺をする…、このような動物の生み出した文化は、良い意味でも悪い意味でも自然をはみ出した過剰物であり、想像力・想像力の源としてのコトバの存在なしには考えられない。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月6日
㉓原因は我々にある。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年1月5日
虚報を発し、虚報に感激し、美談への感激やら懺悔やらで自らをごまかし、徹底的に事実を究明せず、すべてを「自決セエ」という形で隠蔽し、公開の軍法会議すら待ちえなかった我々の側にある。
死体とは<他者>の物なのだ。『家の馬鹿息子』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2019年1月5日
最大の欺瞞は原理主義的護憲派
改憲派が政治的欺瞞だとすると、護憲派が抱えるのは憲法論的欺瞞です。憲法を擁護しているように見えて、実際は形骸化させてしまっている。改憲派よりも護憲派の欺瞞の方が根深い。護憲派にも二つあって、ひとつは原理主義的護憲派。こちらは「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という9条第二項を字義通り捉え、自衛隊と日米安保は存在自体が違憲だという立場です。それに対して、修正主義的護憲派は、専守防衛であれば自衛隊も安保も合憲であるという立場で、基本的には歴代の内閣法制局の見解と同じです。実は、護憲派学者の間では、これまでこの修正主義を表立って言う人は少なかったのですが、近年、衆議院憲法審査会に出席した長谷部恭男さんのように、はっきりこの立場を取るような人たちが出てきました。彼らは自分たちの解釈は正当で、集団的自衛権行使は解釈改憲だと批判する。しかし、私はこの立場には無理があると思います。よく知られているように、一九四六年の帝国議会憲法改正委員会の席で、野坂参三が、自衛のための戦力まで放棄するのはおかしいではないか、と質問したのに対し、時の吉田茂首相は、自衛のための戦力も放棄したという趣旨だ、とはっきり答弁している。それが冷戦の深刻化、朝鮮戦争などを受けて、米政府の要請で再軍備を果たすのですが、自衛隊のような巨大な武装装置が戦力ではない、というのは、どこをどう曲げても成り立ちません。日米安保に至っては、世界最強の米軍が日本を防衛することを取り決めているわけですから。つまり「専守防衛の範囲なら」という内閣法制局の見解自体、すでに解釈改憲そのものなのです。つまり、修正主義的護憲派は、自分たちがすでに解釈改憲を行っていながら、違った意見を持つ安倍政権にはそれを許さないと主張している。ダブル・スタンダード以外のなにものでもない。彼らに安倍政権の解釈改憲を批判する資格はありません。修正主義的護憲派の狙いは憲法と現実の乖離の是正ですが、そうであるなら、本当に取り組むべきは「専守防衛に限り戦力を保有する」と明示した「9条改正」でしょう。
⑬全日本人が欺かれている。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年1月5日
皆、知らず知らずの内にこの記事を「戦闘行為」「武勇伝」として読んでいる。
しかし子細に点検すれば「目的語」が省かれているので、どこにも「戦闘行為」とは明言されてないのである。
ただ皆が勝手にそう思い込んでいるだけなのである。
私とは誰か 「私」ではない 違う違う だが砂漠 夜 無辺際 私とは何か それは何 砂漠 無辺際 夜 獣 早く 永劫の虚無 そして何も知らずに 「死」 太陽の 『内的体験』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2019年1月5日
全ての物事は、同時に二つの正反対のベクトルをもって動いているはずではなかったか。家族愛は美しい。しかしこれは家族エゴの原因でもある。人は皆生まれ故郷を愛し懐かしむ。しかし郷土愛は地域エゴとして硬直しかねない。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2019年1月5日
主権者は、…[人間の不完全な知性では到底遂行不可能な]一つの義務、すなわち私人の勤労を監督し、それをその社会の利益にもっともかなった使途に向かわせるところのそれから、完全に解放される(A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年1月5日
具体的な「相談」はもとより、「雑談」の想定問答の想定する相手はあなただったから、離れながらもずっとあなたは側にいたんだ。
今日も長い夢を見ていた。もしも夢日記を日課にしたら、それだけで残りの人生の昼の時間が終わってしまうだろう。
#堀内まり菜 新曲「ハートふわり」主題歌
— megaton (@megaton9638307) September 10, 2017
BSフジ「サンリオキャラクターズ ポンポンジャンプ!」歌のコーナー
まり菜「いつもとは違った歌い方をしてみました」(スピカの夜最終回イベント告知コメントより) pic.twitter.com/KgjSnpd4K1
☆韓国レーダー照射
恵俊彰「友達に何でそんなことするの?」
八代英輝「韓国の駆逐艦は日本の海上自衛隊を友達だとは思ってない」
伊藤俊幸「再発防止だけ認めろって言ってる」
原田曜平「最初に謝っておけば良かったのにね。やっぱり謝れない国って一流国家じゃないから、これを機に韓国にも…」 pic.twitter.com/fTl6OnTAUR— ちぢれ麺 (@chidiremen11) 2019年1月4日
一流とか二流とか、んなこたべつにどうでもいいのだけどね。
そういう話じゃねえんだ。風邪をこじらせているわけじゃあるまいし。分かってくれとは言わないが、分からねえならきいたふうなことを言っていちいち干渉してくるな。鬱陶しい。
ひとつの思考実験だが、少なくともそのままのかたちで実現されるなどとは、着想した人間はもとより、誰ひとり考えたことがなかったものだ。仕掛けは至って簡単だ。箱のなかに一匹の猫を閉じ込める。かなり残忍な箱で、放射性物質、ガイガーがカウンター、猛毒入りのガラスの小瓶が入っている。原子が崩壊して粒子が放出されると、放射線が測定され、それをスイッチに、ハンマーがガラスの小瓶に振り下ろされ、箱のうちに毒が拡散し、猫は即死する。人びとを魅了したのは、この装置の風変わりな性格に拠るところが大きいと思われる。だが、それはひとまず措こう。本質はべつなところにある。この実験の原理は、きわめて簡潔に説明できる。実験で定められた時間内に原子が崩壊すれば、猫は死ぬ。反対に、原子が崩壊しなければ、猫は生きつづける。ところが、まさにこうして検討された現象の特性のために、問題ははじめから複雑になってしまう。というのも、予想されるふたつの仮説は、一方が他方を排除するのではなく、この状況に対して同時にあてはまると見なされなければならないからだ。実験がつづき、観察によって中断されないかぎり、原子は崩壊しており、かつ、崩壊していない。つまり、猫は死んでおり、かつ、生きていると推定しなければならないのだ。
すっと夢に登場してくれればいいのに、なんとかその人に会えるようにと根回ししてる夢を見た。
根本的な目的も意味もないときづくと、そのとき、唯一そのときだけ、精神が解放され、我々は、実践的な諸問題に取り組むようになるのである。
— フーコー&バタイユ&デリダ bot (@foucoubotbatail) 2019年1月4日
寝たらおしゃべりの内容が夢に干渉してえらいことになった。
頭の中で、劇の冒頭の台詞を反芻している。「創作モード」に入りつつある。書きたい意欲は枯れていないらしい。
居間から書斎にCDを運ぶ。病前の俺なら一瞬で終わっただろう作業をちょっとずつ何往復もして。短い距離だがさすがに疲れてしまったよ。
愛される者の立場にいきなり立たされることは強烈な発見であり、外傷的ですらある。私は愛されることによって、明確な存在としての自分と、愛を生じさせた、自分の中にある不可解なXとの落差をじかに感じる。(『ラカン』p82)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月3日
[カントの定言命法において]私は私が措かれた特定の状況の下で遵うべき具体的諸規範をカントの道徳律そのものから引き出すことができず、道徳律が下す抽象的命令を一連の具体的責務を担う中で具体的責務に翻訳するという責任を主体自身が引き受けなければならない(『テロル』p146)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月3日
自民党議員「民主党がレーダー照射をもみ消した過去」を明かす https://t.co/JTbHoJaDvV
— CABIN (@CABIN_D) 2019年1月2日
そんな欺瞞に満ちた政権を日本国民が民主的な手続きを経て誕生させたのである。民主主義のアキレス腱ということをつくづく思う。
ちっとも笑えない「お笑い」番組を垂れ流しにしている。
入院中は結構な期間、誤嚥対策でフツーの水を飲むことも許されず、とろみのついた気色悪い水を飲まされていた。それが今は、病前と同様に熱いコーヒーを好きなだけ飲めている。幸せなことである。が、だんだんそれがアタリマエになってきてもいる。
ここに、無意識にたいしてあたえることのできる定義の一つがある。すなわち無意識とは、その存在論的位置が思考のそれではないような思考形態である。つまり、思考そのものの外にある思考形態である。(『崇高』p41)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月3日
リハビリとは司令塔の機能を失った脳細胞に、末梢から刺激を入れて再教育する作業である。だから裸足になって、足の裏を直接フローリングの床につけることが最も効果的なのだ。足の指が動かなくても、つま先が思うように上がらなくても、足裏から刺激を与え続けることで、脳細胞と末梢とがわずかずつでも通電していくのである。
すべてが懐かしく、そして悲しい。
という行為が「発散」になるなら、精神衛生上もいいのだろうが、SNSに書き散らかすのとはわけが違う。むしろ逆で自分を追い詰める行為であるから、疲れてしまうし、気軽に手出しができないんだ。
年末年始は近年稀に見る(当人比)ベタな「正月らしさ」であった。幸せなことである。
とはいっても、もう以前のようには動けないのだから、また一緒に仕事するなんてことはありえない。社交辞令だとわかりきってはいるが、それでもそういってくれるのはありがたいことである。
ずいぶんご無沙汰してる人ともLINEを使ってちょろっと挨拶できた。わざわざメールするのもなんだし、という距離感に、このツールはありがたいね。
①私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二種類にわける。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2019年1月1日
その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。<『私の中の日本軍』
ア・プリオリなカテゴリーの分析は、人間の条件、すなわち人間が宇宙において演じる役割の分析にほかならない。ア・プリオリなカテゴリーこそは、人間に人間文明と呼ばれる一切の創造と生産を可能にする力である(L・ミーゼス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2019年1月1日
多くのものを失い、それに伴って自ら手放したものもあるが、妻と旧友を失わずに済んだのはほんとうに不幸中の幸いであった。ありがとう。
[資本家の]慈善事業―公共の福祉に対する莫大な寄付―は、単なる個人的な性癖ではない。誠実な行為であれ偽善的な行為であれ、それは資本主義の循環の論理的帰結点なのであり、厳密に経済学的な視点からみて必然的なものなのだ。(『暴力』p38)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2019年1月1日
妻が年賀状を持って病室まで来てくれたんだった。今年は朝の六時にたたき起こされることもなく、自宅で二度寝の幸せを味わった。
[偶然的なものと偶発的なもの:]ある形式的構造のある普通の要素は偶発的で中立的である。つまり交換可能である。だが、この形式的構造そのものを具現化している要素がある。それは必然的ではなく、まさにその偶然性において、構造的必然性の復元のポジティヴな条件である。(『崇高』p341)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月31日
最近のコメント