扉のガラス
が怖いのだ。よろめいて頭から突っ込む蓋然性がそこそこある。
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が怖いのだ。よろめいて頭から突っ込む蓋然性がそこそこある。
野蛮な恐怖と真に私的な精神とはけっして両立不可能ではなく、同伴者にもなりうる(『事件』p170)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月31日
時代に桐のヘヴィユーザーだったが、大昔のことで、使い方をすっかり忘れてしまった。
鳩山由紀夫元首相(2009年9月~10年6月)が、在任中に自らが保有していた公文書の大半を退任直前に廃棄したと毎日新聞の取材に証言した。沖縄県・米軍普天間飛行場の県外移設問題などに関する一部の文書は個人事務所や自宅に持ち出したものの、政権の全貌が分かる記録は残っていないという。鳩山氏は「作成元の省庁が保存していると思い捨ててしまったが、省庁で見つからなくなっているものがある」とも証言する。首相が退任する際に公文書を保存するルールはなく、廃棄や散逸の危険にさらされている。
をする必要のない人生を選択することだってできたはずなのだ。
カントの超越論的統覚のステイタスは必然的であり、同時に不可能でもある論理的構成物のそれである(「不可能」というのは、その概念が、直感の対象となる経験的な現実性によっては決して充当されえないという、正確な意味合いにおいてである)。(『否定的』p32)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月30日
根本的な目的も意味もないときづくと、そのとき、唯一そのときだけ、精神が解放され、我々は、実践的な諸問題に取り組むようになるのである。
— フーコー&バタイユ&デリダ bot (@foucoubotbatail) 2018年12月30日
いつのことだか失念したが、初詣に妻と川崎大師に行ったことがあった。寒いし、すごい行列で辟易したものの、もう二度とできないと思えば、帰りに甘酒を買って飲んだり、そういうベタな思い出こそが愛おしい。ともかく今年の正月は妻戸一緒に自宅で過ごせそうで嬉しい。ささやかで凡庸だけど大事なこと。
裏付けのない病院職員個人の善意に、友達でもないのに過大な期待をする/できる神経がわからない。
夢と現実の対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人のために現実があるのだ。(『ラカン』p101)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月30日
[少数者に味方するという闘いにおいて]何らかのヒューマニズムを盾に政治批判を行うなど、まるで自分が打倒しようとするものを自分の戦略兵器の内に持ち込んでしまうのと同じことですよ。-哲学者の回答-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月30日
やっとウイルスバスターがインストールできた。
意志自由を根幹にしたカント倫理学は、人間に対して倫理的行為についての普遍立法を呼びかけるが、それは自己規律であって「自立としての自由」を意味している。人 間の徳はこうした人間の理性的意志の自律に求められ、この内面性によってこそ倫理学の純粋性を確立することができる。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月29日
マルクスとフロイトの解釈技法、より正確にいえば商品の分析と夢の分析とは、根本的に同じものなのだ。どちらの場合も、肝心なのは、形態の背後に隠されているとされる「内容」の、まったくもって物神的な魅惑の虜になってはならないということだ。(『崇高』p27)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月29日
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">私は全ての可能な解決を退けるような批判には与しない。-論争・政治・問題化-</p>— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) <a href="https://twitter.com/M_Foucault_jp/status/1078871314226528256?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年12月29日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
仕事納め&忘年会@ジョナサン→民芸
としての余生を引き受けねばならぬのだ。自虐とか愚痴とかいうレベルの話じゃなく。
が世間に普及しだしてもなお、桐が社内のデフォルトだったから、いまだにアクセスよくわからん。
は「間違い」に分類しないと、根拠の脆弱な己のプライドを保つことができないのだろう。偏差値バカの悲劇である。
ができたから、ちょっと寝ておこう、というフットワークの軽さも失ってしまったのだ。横になったり起きたりがいちいち「一仕事」だから。
狂気の脱医学化は、反精神医学の実践における権力の本源的な問いただしと相関的なものだ。ここに反精神医学の実践が、精神薬学と同程度に精神分析を特徴づけている「脱精神医学化」に対して示す対立を測り知ることができる。精神薬学と精神分析は共に、むしろ狂気の過度の医学化に属している。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月28日
地下室の人間は、時代の教養の客観的前提のなかでも、自然的な思考の主題的前提のなかでも途方に暮れており、或るひとつの円環をつくるためのコンパスなどもちあわせていない者である。彼こそ、一時的でも永遠的でもない《反時代的な》者である。ああ、シェストフ。(『差異と反復』)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年12月28日
危険性、処罰を受ける能力、治癒可能性といった観念はどこから来たものなのでしょうか?これらは、法学にも医学にもありません。これらは、法的な観念でも、精神医学的な観念でも、医学的な観念でもなく、規律的な観念なのです。-精神鑑定に関する座談会-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月28日
焼きおにぎりをレンジでチンする、たったそれだけのことも難儀なのだ。まったくうんざりである。
人々が特定の個人や集団によって支配されることを受け入れる時、その支配者はその支配の正当性を獲得する。このような正当性を持つ支配形態を「カリスマ的支配」「伝統的支配」「合法的支配」の3つに分類した。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月27日
ことができるからまだよかった。これができるとできないとじゃ、着衣動作において雲泥の差である。
しないように気をつけるのはすそのリスクがあるからだ。
であるなら実際に転倒した際にどうするか、備えておくべきだろう。そういう事態にならぬように「気をつける」だけけじゃまったく不十分なのだ。
[古典派の第二公準(労働供給の公準)=]一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月27日
詮なきことではあるが、だからこそ、ありえたかもしれぬもうちょっとマシな現在の可能性とそれに至る選択肢について、ついつい考えてしまう。
ただそれだけのことがいちいち一苦労なのである。情けない。我が身がほとほと嫌になる。
通俗的イメージに基づく思い込みできいたふうな話をされるのも疲れる。知りもしねえくせに、黙ってろと言いたくなる。
かもしれぬ別の可能性をどうしても思ってしまうな。
友としようが俺の勝手である。アタリマエの話であるが。
取り違え 、おのが動機の純粋性を強調してドヤ顔ってパターンにうんざり。
入院中に装具をつけて過ごした時間が無駄でもったいなかったと思われる。
治療の間、分析家は〈知っていると想定される主体〉の地位を占めているが、分析家の戦略はその地位を掘り崩し、人の欲望に対する保証は〈大文字の他者〉の中にはないということを患者に気づかせることである。(『ラカン』p73)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月26日
普通の人と同じくらいの速さで歩けるようにならなくちゃね。頑張って練習する。そしたらまた妻と一緒に散歩もできる。
また裁判官が自然法に基づいた判決を下すことを立法権の付与だとベンサムが批判したのは、そもそも法とは何が幸福なのかについての人々の意思を反映した国会によって作られなければならないという最大多数の最大幸福の観点に基づいた批判である。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月26日
■山本七平botまとめ/「アントニーの詐術④」/~集団ヒステリーに対峙することの難しさ~ https://t.co/4ngllTBcp2
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月26日
日本人は怒ると微笑する。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年12月26日
その上、社会科学においては、精神的事象の協働が問題となるが、この精神的事象を、追体験しつつ「理解する」ことは、当然ながら、およそ精密自然認識の定式によって解決でき、また解決しようとしているのとは異なる、特殊な性質をそなえた課題である(M・ヴェーバー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月26日
一人で外に出ないから、それにまつわる一連の行動がパターンとして内面化てないのだ。
言表は、流通し、役立ち、逃れ去り、一つの欲望の実現を可能にしたり妨げたり、諸々の利害関心に従順であったり反抗的であったりして、異議申し立てや闘争に参入し、我有化もしくは競合のテーマとなる。-知の考古学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月26日
大嫌いだけれども、実際、己に対ししては、だいたいこれで済ませてきたとこがあるなとも思う。
一日も欠かさずリハビリを続けたが左手の指一本動かぬのである。靴下を穿くのも難儀であると想像するのは容易だろう。
古代の理論では、労働が軽蔑され、近代の理論では労働が賛美された。そして一方は、労働者の苦痛の多い努力に不信を抱き、他方は、労働者の生産性を賛美している(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月25日
私が語るやいなや、私が見出した言葉は、それが言葉である以上はもはや私に属さず、もともと繰り返される(『エクリチュールと差異』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2018年12月25日
〈テロとの戦い〉における三人の主役(イスラエル、アラブ諸国、9・11以後のアメリカ)はみな、おのれの拡張主義的な政治を正当化するために、自分を犠牲者とみなし、犠牲者としての立場を利用する。(『暴力』p156)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月25日
荷物を杖歩行で郵便受けに取りに行ってきた。
たったこれだけのことが結構な「冒険」だ。
それでも入院中に比べたら、ずいぶん上達したものだ。
人並みのスピードでスタスタ杖歩行ができたらなあ。
最後まで書けるかどうかはともかく、原稿を書きたいという意欲は湧いてきた。そして少しだけ実際に書き出した。
だがそんな警告も喉元過ぎればすぐに忘れて、エネルギー政策も「反体制」ごっこの玩具である。①前略…広い意味の補給がなければ、軍隊のみならず日本そのものが生きていけない事を実感させて、奇妙な扇動記事に踊らされる事なく、将来を直視しうる醒めた状態を作り出してくれたという点では、石油危機は大変に有難い警告であった。<『ある異常体験者の偏見』
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月25日
と問われれば、正直ぜんぜん大丈夫じゃない。
幼稚な思考の怠慢を素朴さに粉飾している。
身動きがとれない。だから不要なものは捨てていく。
世の中には又は人生には、様々なリスクが生起してくるんだけど、その中で一つだけの、しかも過小な又は微小なリスク(だけ)を取り上げて、つまり他の多くのより重大なリスクの存在又は増大を無視して、一つのリスクを避けよと言うのは、他人をより深刻なリスクに晒すことに他ならない。
— モトケン (@motoken_tw) 2018年12月25日
世の中には又は人生には、様々なリスクが生起してくるんだけど、その中で一つだけの、しかも過小な又は微小なリスク(だけ)を取り上げて、つまり他の多くのより重大なリスクの存在又は増大を無視して、一つのリスクを避けよと言うのは、他人をより深刻なリスクに晒すことに他ならない。
— モトケン (@motoken_tw) 2018年12月25日
まったくである。
一面的価値観の情緒的強調で正義の味方ごっごじゃダメなんだってなんで気づけないのか。
私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をすることがない。何も受け取らないし、何も与えることはない。独学者はものの数にも入らない。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年12月25日
⑬言うまでもない事だが、同一主義者集団…の内部なら
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月25日
「反省をしろ」
「自己批判をしろ」
という言葉はある程度は成り立ちうる。
この場合はあくまでも「同一主義に基づく共通の尺度を相互にもっている」事が前提である。
ところが「商業軍国主義者」にはこの見境が全くなかった。
「現実」とは、相互に影響しあい生産過程に関与する実際のひとびとの現実である。それに対し、〈現実的なもの〉は、社会的現実の進行を規定する、「抽象的」で幽霊的な、情け容赦ない資本の論理である。(『暴力』p27)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月25日
欲望そのものが欲望にたいする防衛であると言うことができよう。空想を通じて構成された欲望は、〈他者〉の欲望にたいする、すなわちこの幻想を超越した「純粋な」欲望(つまり純粋な形の「死の欲望」)にたいする防衛なのである。(『崇高』p226)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月24日
だって轍をみつけてさっさと進んで行けたもんなのに、と今さら言っても詮なきことをついつい思ってしまう。
を妻と二人で見に行きたい気持ちもあるがあまりに寒い。
ラカンにとって、欲望する主体が欲望の対象に近づこうとそれから遠ざかろうと、その対象はつねに主体から同じ距離にあるように見える。(中略)どんなに欲望の対象に近づいても、欲望の原因は遠くにあって手が届かないのである。(『ラカン』p132)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月24日
生きればそれだけ、別離を経験するリスクが増大してしまう。つらいことだ。
我が身を持てあましてしまう。
科学の思考――上空飛行的思考、対象一般の思考――は、それに先立つ「そこにある(il y a)」ということのうちに、つまり我々の生活の中で、我々の身体にとってあるがままの感覚的世界や人工的世界の風景の内に、またそうした世界の土壌の上に連れ戻されなくてはならないのだ。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年12月24日
せよという何の役にも立たぬ「助言」。当人は「助言してやってる私」を満喫してるのかも知れないが。
⑧ここには、幕末の日本人が東進してくる西欧に対して抱いた感情とよく似たものがあったと思われる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月24日
一方には密航しても西欧から学びたいという感情があり、一方には来たら死物狂いで打ち払わねばならぬという恐怖がある。
ローマ時代の修辞家・クインティリアヌスは“Damnant quod non intelligunt”(人は自分が理解できない物事はダメなもの、間違ったことと決め付ける)と言ったが、まことに人間老いも若きも、わからないものは嫌なのである。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月24日
分析家の究極の目的は、主体の(自己)経験の宇宙を規定している根本的幻想そのものを主体から奪うことである。無意識というフロイト的主題は、主体の(自己)経験(彼の根本的幻想)の最も重要な側面が初源から抑圧されていて、主体にとって接近不能となった時に、初めて登場する(『ラカン』p96)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月24日
布団に絡まって埋もれた 左腕を掘り起こす。
公演の情宣のために作成したウェブサイトのサブページを削除した。情報管理の観点から放置しておくわけにいかない。
寂しい気持ちになるけれど、仕方がない。
を、ほんのちょっとしただけで疲れてしまった。
こんなのを150~200枚書いていたのだと思うと我ながら驚いてしまう。もう「我」ではないのだ、今の自分とは切り離された他人なのだという気がする。
QOLは、物理的な豊かさやサービスの量、個々の身辺自立だけでなく、精神面を含めた生活全体の豊かさと自己実現を含めた概念。1960年代までの医学的リハビリテーションや福祉では、ADLが意味する、歩行、摂食、衣服の着脱、洗面、入浴、排便といった日常生活における身辺動作の回復や介助という点のみが目指されてきた。しかし、70年代のターミナルケアや障害者の自立生活運動などの領域で、ADLのみに注目するのではなく、身辺自立ができなくても他者の介助を利用して当事者の望む生活の質を確保することに目が向けられるようになった。高齢者福祉においても、生きがいや幸福感といったQOL向上の援助が求められている。
指図されたと勝手に思い込む自意識過剰。めんどくせえので関わらぬが吉である。
胸がざわつく。今さら「不安」ていうのでもない。不安というのは、うまくいかなかったらどうしようと心配することだから、すなわち「希望」の影でしかない。「希望」なんてものはとっくに絶望の津波が押し流した。
我々が食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害に対する配慮からである。我々が呼びかけるのは、彼らの人類愛に対してではなく自愛心に対してであり、我々が彼らに語るのは、決して我々自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである(A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月23日
忽然と現れるショッピングモール。夢で見たそれは、やけにリアルだったけれど、実在するものだろうか?
もっとも、実在の有無がリアリティに関係するものでは必ずしもないけれど。
自由市場の運営を許されているところや、「機会の平等」へと近づいていくことが許されているところではどこでも、通常の人がかつては夢見ることさえできなかったような生活水準を、次から次へと達成することができてきている(M&R・フリードマン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月23日
「オトカ」情宣用の俳優インタビュー動画、管理できてない状態なので削除しました。
演助を日給1万2千円で10日間雇って稽古を乗り切ろうとしている。
を取ろうとして大怪我するとか間抜けな話、フツーにあるから気をつけないと。
「それは本当にそこに、源泉の中にあるのか。それともわれわれが勝手にそこに読み込んだだけなのか」というジレンマに対する正しく弁証法的な解決はこうだ―それはちゃんとそこにある。ただしわれわれは現代の視点から遡及的にしか知覚できない。(『事件』p152)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月22日
周辺の風景がなぜだか不意に思い出される。ライブ前にお茶できる場所を探して妻と歩き回ったときの記憶だ。
もう、そんなこともできないのだと思うと泣けてくる、はずなのに。このポンコツの身体は涙を流すこともできないんだ。
ギリシャからローマに向かう船を操る舟人タムースは、見えざる者の命ずるままにパロデス近くまで漂ってきた時、艫に立って「偉大なる牧神(パン)は死せり」と叫んだ。しまから人々の驚きと悲しみの声が湧き上った。[ブルタルコス『神託の衰退について』より]-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月22日
ラカンの見方からすると、神経症、精神病、倒錯といった病理学的な形成物は、現実に対する根本的な哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。私が強迫神経症にかかっているとき、この「病」が、現実に対する私の関わり全体を彩り、私の人格の全体的構造を規定している。(『ラカン』p19)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月22日
[隠喩形成への衝動]は、自分の活動の新領域や、また別の河床を捜し求め、それを神話の内に、総じて芸術の内に見出すものなのだ。-哲学者の書-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月22日
助言者としての知識人の役割はもう必要ありません。必要な計画にしろ術策にしろ標的にしろ、今や実際に戦い、悪戦苦闘をしている人々自身が見出す時に来ています。知識人のできることは分析の道具を与えること、そして現状では主として歴史家の役割を果たすことでしょう。-権力と身体-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月22日
①南京大虐殺の”まぼろし”を打ちあげたのは、実は「百人斬り」について前章で述べたと同様に、我々日本人であって中国人ではない。<『私の中の日本軍』
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月22日
の区別もつかぬ阿呆が、と思えば、そもそも相関関係すらありゃしない。
あらゆる示差的な特性、あらゆる個別の要求や関心や信念を取り去ったあとに、それでも残るものが主体なのである。主体は意識の形式であって、あなたの個性や特定性を作り出しているその形式の内容とは、全くの別物である。(『スラヴォイ・ジジェク』p29)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月22日
「僕は君を愛してる!」身体の中から湧き出る、抑えきれない、反復される愛の宣言は、裏に何かの欠如を隠してはいないだろうか。そんな言葉を口にする必要などなかったはずではないか。もしイカが墨を吐くように、欲望の挫折を欲望の過剰な肯定によって眩ますためでないとしたら。
— 「エクリ」チュール / ǝɹn⊥IᴚʞƎ (@textbot) 2018年12月22日
「おむつ」も「おしめ」も、どっちもふつうに言うが、入院中、看護師たちはみんな「おしむ」と言ってて、文脈から理解はできたが違和感あった。医療系の「専門用語」なのかとも思ったが、検索しても出てこない。あの病院だけのスラングだろうか?
実際には大いに手間がかかり、しかもハードルが高い。それを所詮は他人事の気楽さで、いとも簡単なことのように言う。たったたそれだけの「助言」で「恩を売った」気になっているのだろう。こういうアホには関わらぬが吉である。
を一人で兼ねるケースがとくに小劇場演劇では多いけれどもそれは、「作」と「演出」がそもそも相補的関係にある作業だからだ。
やることがなくて退屈だったろう?」と、己の入院像(=思い込み)に基づいて同情の素振りを見せるわけだが、実際には半年間毎日、一日も欠かさず午前も午後もリハビリがあって「やることがない」なんてことはなかったのだ。
言語は、間身体的な意思伝達(la communication intercorporelle)を、われわれが望むだけ多様に変化させ、またひろく拡大することができる。言語には間身体的な意志伝達と同じ条件、同じ型があるのだ。『シーニュ』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年12月22日
分裂的-笑いもしくは革命的悦びは、私たちのちっぽけなナルシシズムの苦悩や罪責感からくる恐怖の代わりに、偉大な書物から出てくるものです。それを、《超人の喜劇》とも《神の道化師》とも呼ぶことができるでしょう。(『ノマドの思考』)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年12月22日
俳優やスタッフとの交換不能な邂逅に支えられている。
どう思おうが勝手である。当たり前の話。それを変えろなどという権利は俺にはないし、言っていない。わかりもしねえくせにきいたふうな干渉が的外れで迷惑だというのである。
のを放置できず、ついつい煙草を吸ってしまう。身体によくないのはわかりきっているのに。せめて美味しいコーヒーを心置きなく飲もう。
どのような場合であれ、"過去"はより安定した、揺るぎないものなのだ。"現在"は、指の間からこぼれる砂のように、滑り落ち、消えていくのだ。そして、みずからの物質的な重量をただその回想の中に見いだすのだ。
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2018年12月20日
カントの超越論的統覚のステイタスは必然的であり、同時に不可能でもある論理的構成物のそれである(「不可能」というのは、その概念が、直感の対象となる経験的な現実性によっては決して充当されえないという、正確な意味合いにおいてである)。(『否定的』p32)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月20日
ヴァレリイもまたやはり象徴で語ってるんだ。『ユーパリノス』とか『魂と舞踊』から影響をうけたことは間違いないな。・・・浜辺で彼が拾うもの、変形された小石についての考えだ。『サルトル-自身を語る』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年12月20日
が続き、こわばった眠気が蓄積している。眠いのだけど、どうしてか、深くぐっすり眠ることができない。
悲しい。そりゃあときには楽しいこともないではないが、絶望の大海に浮かぶ小島のようで、潮が満ちれば沈んでしまう。それでもなんとかその小島にしがみついてやりすごしている。
書くという欲求は生きることの拒否に包まれている。『言葉』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年12月20日
これはまったくそうである。だから、死んだも同然の俺はその死体を引き摺って書かねばならぬのだろう。
ヘーゲルにいわせれば、近代が達成したのは、「主体性原理が、個人的特殊性の自己満足的極端において充足に達する」ことを許したことである。この原理は、自立した個々人がその私的欲求を満たすために自由市場経済の制度を通じて互いに関係しあえるような市民社会を可能にした。(『事件』p182)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月20日
に対する執着というか関心がなさすぎたのだ。そういう意味では自業自得なのである。
悲しい。むろん、ときに楽しいこともあるけれど、それは絶望の海に浮かぶ小島のようなものである。
この「沈黙に押し込められた声」っていうのも、ある種の人には気取った言い回しとしか思えないのだろう。深く関わらぬが吉である。人生のリソースには限りがある。時間の無駄である。ルソーの『対話』は、冒頭から、既に押し殺され、「深く、全世界的でそれが覆い隠している謎と同じくらい不可解な沈黙、…ぞっとするような恐ろしい沈黙」の中に閉じ込められた声である。-ルソー『対話』への序文-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月20日
鳩山が選挙戦の中で「最低でも県外」などと軽はずみな言動をしたのは、交渉の経緯を全く知らなかったことに起因するが、反対に閣議決定の際には日米合意遵守に傾いたのは、中段にある嘉手納以南の8つの米軍基地の返還と海兵隊8000人のグァム移転がオジャンになる、この現実を理解したから。 pic.twitter.com/YJmj1Ld0QL
— NEVERMORE (@nevermore1dream) 2018年12月19日
神への畏れを利用して市民を共和国のために働かせるという議論は、宗教を政治に従属させるタイプの議論の典型となる。マキャヴェリは断続的に対外戦争の下に市民を緊張状態に置き、経済的な余裕を与えないように努めたのである。共和制における市民の自由よりはその軍事的拡大に比重を置いた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月19日
一面的かつ通俗的な価値観を盾にして所詮は他人事の気楽さで、肥大した自己愛を満たすためにためにされる無責任で恩着せがましい干渉(イッチョカミ)。
トマス伝説では、自己認識は啓示された、つまり先行的な認識であって、その認識は禁止事項の網目の中での内的規律を特色とした、気配りからの解放にいきつく。この啓示された先行的な認識こそはグノーシス主義のトマス文献の主題だ。(マーティン『シリアのトマス伝説における自己の技法と自己認識』)
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月19日
われわれは「市場」という概念を「需要と供給がであう場」というふうに理解している……。そのように理論を組み立てて、現実を眺めているわけである。「現実」がまずあって「理論」をつくっているのでなく、「理論」を前提にして「現実」を理解している(佐伯啓思)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月19日
体内に大きな爆弾を二つ抱えている。どっちがきてもアウトである。
ヒステリー的主体の問題は、自分の欲望を組織化するにはつねに誰か別の主体に助けを求めなければならないということである。これが、ヒステリー的欲望は他者の欲望であるというラカンの公式の意味である。(『崇高』p347)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月19日
カウントダウンライブも初詣も無縁の人になってしまった。ただ年末年始はどこも休みだからmコケたり風邪引いたりして妻の手を煩わせないように気をつけなくちゃ。まったく厄介な我が身を持てあましてしまう。
社会に関してはレヴィ=ストロースが、無意識に関してはラカンが、意味というものが恐らくある種の表層的な作用、煌きか泡沫のようなものにすぎぬこと、そして、我々を深層において横断し、我々以前にあって、時と空間の中で我々を支えているのがシステムであるのを明かした。-シャプサルとの対談-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月19日
「支配的なイデオロギー」というのは、極めて有効な言い方ではない。イデオロギーとは、ある観念が他を支配しようとしている場合の呼び名以外の何ものでもない。
— 「エクリ」チュール / ǝɹn⊥IᴚʞƎ (@textbot) 2018年12月19日
資金移動及び固定資産税支払い終了。
[ハイパーインフレーションとは]ひとびとが貨幣を貨幣として受け入れることを拒否し、先を争って貨幣から遁走している状態である。それは、恐慌とは逆に、何らかの理由で、世の多くのひとびとが貨幣よりも商品を欲してしまうことによってひきおこされる(岩井克人)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月19日
因果応報。自業自得ということなのだろう。
昭和初頭に〈エロ・グロ・ナンセンス〉と呼ばれる社会風潮があった。これは、一般には当時の退廃的サブカルチャー現象を指す名として知られているが、同時に、明治・大正の既成文壇に叛旗を翻した新人作家達が結成した流派の一傾向を指す名でもある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月19日
…労働の自然価格は、労働者とその家族の扶養に要する食物、必需品および便宜品の価格に依存している。食物および必需品の価格騰貴とともに、労働の自然価格は騰貴するだろう。それらの物の価格下落とともに、労働の自然価格は下落するだろう(D・リカードウ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月18日
②こういう点、日本のジャーナリストの独りよがりの独善さは、戦争中同様、全く救いようがない様に思われる。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月18日
この「百人斬り競争(注:日本兵士の武勇伝)」を「事実」だと強弁する事が「日中友好の道」だなどと考えている者がいるなら、大変な事であろう。
したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値…というものは、一つの背理…のように思われる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月18日
白鳥はアポロンの鳥故に、予言の力を持っている。ハデス(見えざる国、冥界)の幸せを予言してか、最期の日にはひときわ高く、歌い喜ぶ。(プラトン『パイドン』)
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月18日
労働が対象の形をとること、それが疎外としてあらわれるのだが、この疎外は、労働者が対象を生産すればするほど、所有できる対象はそれだけ少なくなり、かれは自分の生み出した資本にそれだけ大きく支配される、という形で進行する(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月18日
懐かしいとくにファンだったわけでもなく、CDも一枚も持っていないけれども学生時代に大いに流行り、カラオケで歌う人がやたらいて、そういう回路で過去の記憶と結びついている。
⑭これはヒナ人形に罪を転嫁して流すのと似た発想で、捧げる動物は、身分によって牛、山羊、雄羊、羊ときまっていたが、一般庶民は羊なのでこれが最も多く、ここから「贖罪羊」という言葉が生まれた。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月18日
だがこれは、羊にとっては、まことに割り切れない話であろう。
防火管理者としての職責を果たせぬ状態にある旨、管理人に手紙を出し、管理会社の担当者と管理組合の理事長に伝言してもらった。伝言した旨の手紙を受け取った。
未来の構成は厳密には未来の認識ではないことに注意しなければならない。われわれは、未来に関する詳細な予測をもつことができる。そして、この予測はたしかにある認識に基づく。だが、それはけっして未来についての認識なのではなく、これまでの世界の秩序についての認識なのである『カントの時間論』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年12月18日
〈象徴界〉的事件とは新しい〈主人のシニフィアン〉の出現である。それは、意味を表す物理的な形式であるシニフィアンが、それが表している意味、すなわちシニフィエの中に入り込む、つまりシニフィアンが、それが指し示している対象の一部になる瞬間である。(『事件』p146)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月18日
ア・プリオリなカテゴリーは生得観念ではない。正常な――健康な――子供が両親から遺伝するのは、カテゴリーでも観念でも概念でもなく、学習し観念を抱く能力、それをもつ者を人間として行動させる能力、すなわち行為する能力をもつ人間精神である(L・ミーゼス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月18日
壁や建具に手をついて歩くことが多いのだけど、ヘンに身体をひねって姿勢が悪くなってしまうかな? 杖を使った方がいいのかも。
己の意図が相手に伝わらないのは相手に理解力がなく、相手の意図が己に伝わらないのは相手に表現力がないとするご都合主義。
本来不要な調整コストを負担するのは、それを補って余りあるベネフィットが期待できるときだけだ。
8時30分起床。血圧を計ってから仕事。夢の中でも車椅子でトイレを探してた。
弁証法運動の最も思弁的な神秘は、現実の豊かさ・多様性が弁証法の概念媒介に還元されうるということではなく、この弁証法的構造化が実現するためにはそれ自体がなんらかのまったく偶然的な要素に具現化されていなければならないという事実である。(『崇高』p340)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月17日
アリストテレスは様々な形態の国制を比較研究し、「支配者の数」と「統治の善悪」という二つの基準を提示する。前者は「唯一者」「少数者」「多数者」で、後者は「ポリス全体の公的な利益を追求する統治」を善い統治、「支配者の私的な利益を追求する統治」を悪い統治とした。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月17日
私の立場は、経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解しようとするものであって、決して個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとするのではない。個人は…社会的にはひっきょうその造出物にほかならないものであるからである(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月17日
「怪異な、奇妙な、突飛な、滑稽な」という意味を持つグロテスクは、恐ろしさとおかしさという相反する二つの要素から成立する。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月17日
ポストモダニストにとっての合理的精神は、「客観性」への、すなわち「合理的」で「客観的」であるとされるものを規定している権力と言説のメカニズムを忘却する「客観性」への形而上学的な要求をともなっている…。(『全体主義』p15)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月17日
を浴室で使っていたが、片手で上手く広げることができなくて、撓んで水溜まりができたり、マット自体が滑ったりでかえって危ないから使うのを止めてしまった。
恥を知れと言いたい。■山本七平botまとめ/『百人斬り報道が「事実」とされる理由』~いまだに虚報記事を訂正しない毎日新聞~ https://t.co/kLoTOF24Ik
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月17日
目薬を処方してもらったが、ウインクできないからさすのに一苦労である。
〈批判〉とは、人が認識しうるもの、なすべきこと、希望しうることを決定するために、理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とするものだ。錯覚とともに、教条主義と他律性とを生み出すのは理性の非正当的な使用なのだ。-啓蒙とは何か-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月17日
井筒俊彦〈深層意識の言葉〉=ソシュール=ラカンの「コード化される以前の、絶えず動き戯れる言葉の音のイメージ」=ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉=唯識派の〈アラヤ識〉
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月16日
私はハイデッガーの立てたあの問い[=なぜ存在があって、無があるのではないのか?]の前に立たされる。私としては、この問いは不充分だとずっと前から考えていたので、もう一つ違う形で、問いを発してみようとした。つまり、なぜ私の知っていることがあるのか?という問いである。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月16日
人間は人間の知に提起された最も古い問題でも、最も恒常的な問題でもない。比較的短期間の時間継起と地理的に限られた裁断面-即ち十六世紀以後のヨーロッパ文化-をとりあげることによってさえ、人間がそこでは最近の発見であるという核心を人々は抱くことができるに違いない。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
〈死〉と〈夢〉と〈音楽〉の神は(ニーチェも否定しえぬ)アポロンである。シュレーバーの荒ぶる神は、アポロンという名の“白のアナグラム”から聞こえていたコトバである。(〈死〉〈夢〉〈音楽〉はそれぞれホモ・モルタリス、ホモ・ソムニアーンス、ホモ・カンターンスに対応)-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月16日
…彼ら[自由主義哲学の創始者たち]は経済的自由なしには個人的自由も政治的自由も存在し得ないと教えていたのだが、われわれはその経済的自由を次から次へと放棄してきた(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月16日
神の死、超人の差し迫った出現、偉大なる年の約束と恐怖、そうしたものが、十九世紀の思考の中に配置されてその考古学的網目を形成していた諸要素を[…]焼き尽くし、黒焦げのその遺骸によって、奇妙な、恐らくはありうべからざる相貌を書き出す。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
ジジェクの知的展開の特徴は、自分が属する公的な文化に対してとってみせる距離、公的文化への異質性にあるのだ。彼は常に、正当性の中の染み、不透明な部分を引き受け、自分の仕事の場である社会や哲学のしきたりに完全に組み入れられることは決してないのである。(『スラヴォイ・ジジェク』p28)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月16日
神の死、超人の差し迫った出現、偉大なる年の約束と恐怖、そうしたものが、十九世紀の思考の中に配置されてその考古学的網目を形成していた諸要素を[…]焼き尽くし、黒焦げのその遺骸によって、奇妙な、恐らくはありうべからざる相貌を書き出す。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
労働者たちは、いつの日か、金持ちたちが暮らしているように、暮らすことになるだろう。
— フーコー&バタイユ&デリダ bot (@foucoubotbatail) 2018年12月16日
しかし彼らの上には、必要な事がないために際立つさらなる高い階級の人々が暮らすことになるだろう。
労働者たちよりずっと貧しくて素朴なのだが、力を持っている人々だ
ーニーチェ覚書
…諸量が次のような結合関係…一つまたは若干の諸量の所与の大きさに、他の諸量の所与の大きさが、しかもただ一つの大きさのみが所属するといった関係にあることを見出だすならば…その体系を一義的に規定されていると呼ぶ。…。われわれはこうした状態を均衡状態と呼ぶ(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月16日
分裂的-笑いもしくは革命的悦びは、私たちのちっぽけなナルシシズムの苦悩や罪責感からくる恐怖の代わりに、偉大な書物から出てくるものです。それを、《超人の喜劇》とも《神の道化師》とも呼ぶことができるでしょう。(『ノマドの思考』)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年12月16日
象徴的秩序は突然完全な形で出現する、つまり何もなかったのに、次の瞬間にはすべてここにある、というだけでない。何もなかったのに、突然、象徴的秩序がつねに・すでにあった、つまりそれがなかったときは片時もなかった、ということである。(『事件』p162)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月16日
分裂的-笑いもしくは革命的悦びは、私たちのちっぽけなナルシシズムの苦悩や罪責感からくる恐怖の代わりに、偉大な書物から出てくるものです。それを、《超人の喜劇》とも《神の道化師》とも呼ぶことができるでしょう。(『ノマドの思考』)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年12月16日
プラトンは自身の理想国家論が必ずしも実現可能だと思っていたわけではない。彼によると現実の歴史は「正しい国制」が「悪しき国制」へと堕落していく過程であり、それは哲人王が国家を支配する「王制」から扇動家が支配する「僭主制」へ堕落する過程である。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月16日
ニーチェは、西洋文明が〈最後の人間〉、激しい情熱も何かに関与する意欲もない冷血動物に向かって進んでいることを認識していた。人生に疲れ、夢をみる力もない〈最後の人間〉は、なんの危険も冒さず、ただ快適さと安全だけを、寛容な相互関係の表現だけを求めている。(『暴力』p44)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月16日
[特定の方法の意味において]社会主義とは、民間企業の廃止、生産手段私有の撤廃、そして利潤のために働く企業家に代えて中央計画当局が全活動を掌握する「計画経済」体制の創設を意味する(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月16日
アークイラはローマの反対概念で、私もいつか建ててみたいと思うような、ローマに対する敵意から打ち建てられた町である。しかるべき無神論者で、教会の敵である一人の人物、私に最も似た人物、かの偉大なホーエンシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世の思い出の町でもある。-この人を見よ-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月16日
暦の上での時間は尚続くかもしれぬ。だがそれはほとんど空虚なものであろう。歴史性は、人間の本質に正確に重ね合わされることになるからだ。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
人間存在を規定する最も重要な〈自/他〉の関係は、予め確固たるアイデンティティをもつ自我と他者が置かれる関係ではなく、いずれもがその相互性・依存性によって生ずるのではなかったか。東洋哲学でいう依他起性や縁起という考えがこれにあたる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月16日
十九世紀になると、[…]知はもはや表ではなく、系列・連鎖・生成といった様態で成立させられるのであり、約束された夕暮と共に結末の闇が訪れてくるであろう時、〈歴史〉の緩慢な侵蝕作用ないし〈歴史〉の暴力は、その岩のような不動性の内に、人間に関わる人間学的真実を迸らせる。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
十九世紀になると、[…]知はもはや表ではなく、系列・連鎖・生成といった様態で成立させられるのであり、約束された夕暮と共に結末の闇が訪れてくるであろう時、〈歴史〉の緩慢な侵蝕作用ないし〈歴史〉の暴力は、その岩のような不動性の内に、人間に関わる人間学的真実を迸らせる。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
治療の間、分析家は〈知っていると想定される主体〉の地位を占めているが、分析家の戦略はその地位を掘り崩し、人の欲望に対する保証は〈大文字の他者〉の中にはないということを患者に気づかせることである。(『ラカン』p73)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月16日
マンガチックな「巨悪」を必要とする。通俗的な善悪の二項対立の設定を成り立たせるために。
いかなる道義的責任も問われることなく、永遠に変わることなき無垢のまま、生成と消滅、建設と破壊を営むものは、この世においてはただ芸術家と子供との遊戯のみである。-ギリシア人の悲劇時代における哲学-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月16日
って苛つくことがよくあり、だから自分のとこで情報が停まってるのがすごくイヤなんだ。
最後に私が強調しておきたいのは、真理が創設される際には必ず他性の本質的な措定があるということだ。真理、それは決して、同じものではない。真理は他界及び別の生の形式においてしかありえないのだ。-真理の勇気-(最終講義の草稿に記されてはいたが講演されなかった最後の言葉)
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月16日
庭に空いた原因不明の穴を、ホームセンターで買ってきた土と舞台美術に使用したレンガで埋めたことがあった。
セラミックヒーターのチャイルドロックが勝手にかかってしまうのでうざい。
この世を「理想の世界」と「現実の世界」に区別して考えるという発想はその後の西洋宗教や哲学に大きな影響を与える。例えば、キリスト教の霊魂と肉体の二元論や、デカルトにおける精神と物体の二元論。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月16日
この世を「理想の世界」と「現実の世界」に区別して考えるという発想はその後の西洋宗教や哲学に大きな影響を与える。例えば、キリスト教の霊魂と肉体の二元論や、デカルトにおける精神と物体の二元論。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月16日
つくることはおろか、観に行くことも、もうできないだろう。いわゆる実験演劇やテント芝居なんかももっと観ておけばよかったと思う。役者との付き合いで見た自称アングラの低俗なプロパガンダ劇には辟易としたが、今にして思えばあれだって他山の石としての有用性くらいはあったのだ。
プラトンはイデアによって構成される永久不滅の世界(イデア界、天上)と感覚によって捉えられる現実の世界(現象界、地上)を区別し、前者が真実の世界であり、後者はイデアの鋳物によって構成されている。これを理想と現実の二元論的世界と呼ぶ。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月15日
体調管理のためには自律神経を整えたいのだけど、読書にせよ映画や音楽の鑑賞にせよ、「面白い」と思うものは俗にいう「癒やされる」ものでなしに、むしろ自律神経を乱すようなものだから困ってしまう。
⑬【山本】更に士農工商を一種の職能論的発想で捉えているものが町人側にも武家側にもあります。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月15日
山鹿素行の『山鹿語類』にも『貞丈家訓』にもあり、また町人側では梅巌にもあります。
もう一つ日本の平等主義をみていて面白いのは、それがあくまで「結果における平等」を目指している点ですね。
G・スティグラー(米, 1911-91):ナイト、ヴァイナーの影響を受ける。シカゴ学派の中心人物の一人。理論史に焦点をあてた経済学史研究と、産業組織論や情報の経済学に大きな貢献がある。また独占禁止政策論にも顕著な功績を残した。1982年ノーベル経済学賞受賞。主著『産業組織論』。
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月15日
7時起床。意識的に日光を浴びようと思う。妻を起こさぬよう、居間の電気をつけないでいる。それでは目も悪くなってしまうから、ヒーターを持って書斎に移動。たったそれだけのことが、俺にとっては一仕事なのである。
〈テロとの戦い〉における三人の主役(イスラエル、アラブ諸国、9・11以後のアメリカ)はみな、おのれの拡張主義的な政治を正当化するために、自分を犠牲者とみなし、犠牲者としての立場を利用する。(『暴力』p156)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月15日
それから腹筋は筋肉痛になってもOKみたいな風潮は何なのだろうか?
痛みで眠ることもままならなかったのだが。
フロイトの無意識があれほどのスキャンダルを引き起こしたのは、合理的な自己はそれよりもはるかに強大で盲目的で非合理的な本能の領域に従属していると主張したからではなく、無意識が独自の文法と論理に従っていることを明らかにしたからである。(『ラカン』p18)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月15日
ただそれだけのことが困難だった時期があるのだ。それを思えば今はひとりで風呂にも入れているのだからずいぶんマシになったものだ。
私の仮説に立つと、狂気[=停滞・閉塞状態]は三種ある。第一の狂気は完全すぎる排除によって昇華不能となりカオスから出られない状態。第二の狂気は強すぎる抑圧によってカタルシス不能となり深層意識に閉じ込められた状態。そして第三の狂気は強すぎる物象化によって表層意識に停滞する状態である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月15日
年末に一時帰宅するかどうかでモメていたんだった。あれから一年が経ったのだなあ。
この他にもハートはリベラリズム擁護の立場からミルの他者危害原理を参照した上で、同性愛や売春などの「被害者なき犯罪」を刑事罰の対象外とすべきとする『ウォルフェンデン報告書』を支持し、リーガル・モラリズムの観点から同性愛や売春の取り締まりを主張したデヴリン卿に反論した。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月15日
すっかり車椅子がデフォルトになってしまった。夢の設定は自分の意志で自由にならないから。俺が北大の18条門あたりから構内に入ろうするが、車輪が段差に引っかかって入れないでいた。現実にそこに段差が存在するのかどうかは知らないが。
かと思えば、べつの夢では以前のとおり、スタスタ歩いていたりもするのである。
…いかなるゲームであれ、それを興味深いものにするためには優れた技量に加えて不確実性という要素が不可欠であるように、人間の賭博癖が否定しがたいことは確かである(F・ナイト)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月15日
空いた時間に
原稿を書き進めたいとも思うけれども
ぐったり疲れてしまうのだよな。
事前に読んでおきたい本もたくさんあるし。
も実質「降板」である。
ひとがめんどくさがる仕事を引き受けて、迅速な対応をしてやるのが俺のウリだったのだけど、そういう能力の一切を失ってしまった。
今日は休日だったから、午後まで惰眠を貪った。
休み明けに血液検査を予約してあるのだけど、妻の仕事が押していて、採血に行くのが難しそう。ただ血を採るだけなんだから、薬をもらいにいったとき、ついでにやってくれりゃいいのに、いちいち「予約」というのが鬱陶しい。というか、そういう事態を招いてしまっている己の存在こそが鬱陶しいのである。正直、自分で持てあましている。
「価値」というものが市場での交換価値を示すのなら、確かに俺には何の価値もない。自虐でも何でもないタダの事実である。
間に合わないくらい、ゆっくりでしか動けないくせに、役者時代に練習したスロウモーションの動きなんて決してできない。
主体は個別的でありかつ「自分の世界」の普遍的な枠組みであって、言い換えれば主体が認識する内容はすべて「自分自身のもの」である。そうだとすれば、どうして主体が、自分自身を自分の諸々客体の系列のうちに含み入れる(数え入れる)ことができるというのだろうか。(『神話』p209)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月14日
…人々が、常に自分自身の利害を心得ているほどに完全無欠の知力を備えているとすれば、彼らは、同意に基づいて立てられ、社会の全成員によって十二分に検討され尽くした政府以外には服従することはなかっただろう。…このような理想状態もまた…人間性をはるかに越えた事がらである(D・ヒューム)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月14日
そりゃそのとおり。請求先がオカシイだろって話。文大統領「個人請求権は消滅してない」 徴用工判決巡り https://t.co/GPvlngVkk3
— 朝日新聞(asahi shimbun) (@asahi) 2018年12月14日
将来の期間の欲望満足に向けられた先慮的行為について人びとを観察するとき、人びとはその欲望の発展能力を無視しているどころか、むしろもっとも熱心にこれを計算に入れようと努力していることが容易にみてとれる(C・メンガー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月14日
特定の対象を検討してみる時、質料は形相から容易に識別されるし、有機的実在に関しては、この場合、形相は実在とその個別的存在という統合された価値を帯びるので同様の識別を行うことができる。しかし事物の総体を検討してみる時、この識別法を適用すれば、それは恣意的かつ不可解なものとさえなる。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月14日
労働者階級があり、然る後に云々の周縁存在がいると言ってはならず、下層民全体の集合の中に労働者階級と労働者化されていない下層民を分け隔てる断絶があると言うべきだ。警察・司法・刑法体系といった諸制度は、資本主義が必要としているこの断絶を絶えず深く刻んでいく為に用いられる手段の一部だ。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月14日
が怖いのは、予想される「風邪」などではなく、物理的反動による転倒なんだ。
乗せろというが、足の指が動かないのだから、地面を捉えた感覚がなく、これで体重が「乗った」といえるのか甚だ疑問。
「いじり方に悩む」だよ? スキルもねえくせに芸人気取りかよ? ド素人にいじられる筋合いはねえよ。不愉快だ。
9時起床。
ベッドで身支度しながらありがたいと思うのは入院中と違って寒くないこと。ていうか、まず、朝の六時にたたき起こされないし。
少しでも何かの役に立とうとすると、転倒リスクを孕むから、かえってひとの手を煩わせてしまう。情けない。
【南京大虐殺】12月10日の朝日新聞「其昔チンギスカンの大軍が嘗ては栄華を誇った数々の大都市を一変して焦土と化せしめて以来現在揚子江下流沿岸地方において行はれつゝあるが如き組織的な破壊が支那人自身の手によって行はれたことは嘗てないのである。」燼滅作戦の惨劇は中国兵の行為。
— 南京の嘘bot (@Lie_of_Nanjing) 2018年12月13日
さらにハートは司法裁量の問題について、裁判官の裁量行使を明確に認める。「ルール」には、それが言葉によって記述され、将来を予知する能力に限界のある人間が制定する以上、「ルール」の適用範囲がはっきりしない「曖昧な周縁部」がどうしてもつきまとうという問題がある。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月13日
親兄弟や友人にのみ依存する子供は、一日も早く自立した責任ある社会人としての大人に成長するべきだという主張。確かにその通りだが、私達の視野を西欧近代以前にまで拡げて人間存在を汎時的に捉え直す時、〈自立/依存〉という二項対立そのものがそう簡単に成立しないことに気付くのではあるまいか。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月13日
何気なく掌で自分の頭に触る。普通の人なら誰でも難なくできる所作だ。俺も右手でならアタリマエにできる。しかし左手は動かない。けれど、その所作の記憶はあって、力み具合にも覚えがあるんだ。しかしその「何気なさ」を再生しようとすると、身体に拒否されてしまう。他人の腕を動かそうと念じているみたいだ。いったいこの身体のどこまでが「俺自身」なのか。
④【山本】ちょうど現代ヨーロッパはイデオロギーの消えている時代なのでしょうが、ロココ、バロックの時代がやはりそうだった。
そして宗教革命の後、ウエストファリア条約から百二十年くらいがまた、ノン・イデオロギーの時代。
やがてフランス革命を準備するイデオロギーが生まれてくる。— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月13日
近所の駅前のロータリーの有名でも何でもないイルミネーションを妻と見に行きたい。夏に花火に行けなかったし。でも寒いかな?
絶対的な偶然のなかでは、発生の不確定も、痕跡の種子的な運命も、肯定されるのである(『エクリチュールと差異』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2018年12月13日
[かつて自由は圧政からの自由を意味していたが、]社会主義が主張するようになった「新しい自由」は、(客観的)必然性という言葉で表現されるような範囲……をどんな例外もなく制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月13日
朝日新聞は反基地のためなら、ついに「反米右翼」に肩入れするようになったのか。世も末だな。 https://t.co/eNrh0g8Up2
— 池田信夫 (@ikedanob) 2018年12月13日
心底阿呆なアジビラである。
まったくである。せめて加担したくないものだ。ほんの少しでも国法に触れた者、または国法に触れたと疑われている者を、人でなしの、人間の風上にもおけぬものみたいに取り扱って、ちっともはじない。 『リンチ機械としてのテレビ』 https://t.co/WyYg6GJqpv
— 吉本隆明bot (@T_Yoshimoto) 2018年12月13日
というのを小学校でよくやらされた。要するに足踏みで「何の意味が?」と当時は思ったものだが、今、そいつができれば、かなり歩行が楽になる。
この人は何を言ってるんだろうか? ものの道理が分からぬ人なのだということはよくわかる。室井佑月「このままでは勝てない。野党の心ある議員たちは、安倍首相の首をかけ、自分らの辞表を出せ。そこまでやったら、国民はついていく」~ネット「勝手に辞表だしたって、総理大臣関係ないだろwww」「アベ批判してる奴がこんな奴ばっかだから倒せないんだろ」 https://t.co/tKAQmstj9Y
— アノニマス ポスト (@anonymous201504) 2018年12月13日
いつも原稿を書いたり、図面を引いたり美術の製作をしたり、芝居の準備に充てていたけど、今年はその必要がないから、何年ぶりかで普通に正月らしく、のんびりしようと思う。
慢性的な睡眠不足は、脳細胞の自己破壊を引き起こすと、研究結果。https://t.co/LinrtK9UDy
— WIRED.jp (@wired_jp) 2018年12月13日
シュルレアリスムにすぐれた発見と業績を残した連中はみな離れたり除名されたりしている。いつまでもブルトンの檣頭にしがみついている凡庸な連中よりも、シュルレアリスムを代表しているのは、かれら立ち去った詩人たちだと思う。たしかにブルトンは一人だ!私は彼を気の毒に思っている。
— マックス・エルンスト (@max_ernst_bot) 2018年12月13日
手を引かれると、助けになるどころかむしろ怖いんだ。
結局のところ、作業時間の隙間を見つけて睡眠を取るというパターンは従前と何も変わっていない。
サルトルの考える〈現象学的還元〉とは、非反省的意識である情動を反省的意識に引き戻す操作であり、彼がそれを〈反省作用〉とか〈浄化的反省〉と呼んだ理由も明らかになるだろう。これはギリシャ以来の〈対象化〉理論であり、西欧の形而上学の根底にある発想である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月13日
デカルト以降、人々は認識の主体を獲得し、この主体がカントに、道徳的主体と認識の主体との間の関係が何なのかを知るという問題を提起した。この二つの主体が異なるものか否かを知るために、啓蒙主義の世紀に大いに議論がなされた。カントの解決策は普遍的主体を発見することだった。-倫理の系譜学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月12日
私が何ほどかの期待を抱いている読者は、三つの特質を持っている必要がある。まず、落ち着いていて、慌てずに読むこと。次に、自分自身と自分の「教養」とを終始間に差し挟まないこと。最後に、結末において何か成果として新しい表でも示されるものと期待しないこと。-我々の教養施設の将来について-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月12日
すなわち、アリスには、複数の冒険ではなく、一つの冒険がある。すなわち、表面への上昇、偽の深遠の拒絶、すべてが境界を通り過ぎることの発見。それゆえに、キャロルは、当初予定したタイトル『アリスの地下の諸冒険』を放棄するのである。(「意味の論理学」)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年12月12日
ツイッターアカウントを削除した。少なくとも当面は発信すべき新たな情報はないし、放置して乗っ取られたりしても面倒だしね。
一切の敗北を通じて執拗に存続する自由なる永遠の理念、ロベスピエールにも明らかなように、それなくしては革命が「別なる犯罪を破壊する単なる騒々しい犯罪に過ぎない」自由という永遠の理念への素朴な信を、肯定すべきではないか!(『テロル』p172)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月12日
一部を拾い読みしたいだけのややこしい系の本を図書館で借りようと思ったが、借りに行く/返しに行く、という行為が困難だから買うしかないな。
ここに金貨転がりたり、ここにて我金貨を玩びぬ――
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月12日
されど、事実は金貨我を玩びたるにて――転がりたるは我なりき! -ここに金貨転がりたり……-
オースティンはまず「ある法」を対象とする法理学と、「あるべき法」を対象とする立法科学を区別する。前者は特定社会の実定法体系またはその構成部分についての学問であり、後者は実定法体系に共通する原理・概念・区分を価値判断を交えず分析する理論的研究のことである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月12日
国会の論議で、憲法とは一方が「国のかたち、理想を語るもの」と言い、別の一方が「国民を守るために国家権力を縛るもの」と言って正面衝突です。しかし、「憲法とは国家権力に根拠を与え、その適切な行使を支えるもの」とするのが一般的な見解でしょうから、不十分ながらどちらも正解です。
— 片山虎之助 (@katayama1122) 2018年12月11日
㉓またその新聞を徹底的に批判する論評そのものを、ツァイトリンのようにその新聞の第一面に載せて少しも差し支えないではないか。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月11日
また一見全く相反する記事が、例えば新井宝雄氏の大塞人民公社の記事と紅衛兵ケン・リン氏の記事とが同時に並んでいて、少しも不思議ではないではないか。
ニーチェ、バタイユ、ブランショらは私にとって何を代表していたのか。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月11日
1.主体という範疇、その優位、その創設的機能を問い直せという招待。
2.ただしそうした作用が思弁に限定された場合は、それが何の意味も持たないだろうという確信。
-M・フーコーとの対話-
根本的な目的も意味もないときづくと、そのとき、唯一そのときだけ、精神が解放され、我々は、実践的な諸問題に取り組むようになるのである。
— フーコー&バタイユ&デリダ bot (@foucoubotbatail) 2018年12月11日
■山本七平botまとめ/「社会的通念」が存在しない環境で狂う「事実」と「判断」 https://t.co/gaS3ohGXTw
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月11日
ニーチェ、バタイユ、ブランショにおける経験は、主体を主体自身から引き剥がす機能を持っている。主体が自分自身で無くなってしまうか、自分の無化ないし解消へと向かうようにする機能を持っているのである。それは脱-主体化の企てなのだ。-M・フーコーとの対話-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月11日
コミュニケーション行為の内容に、行為そのものを含めることを忘れてはならない。個々のコミュニケーション行為の意味は、それがコミュニケーション行為であることを再帰的に主張するからである。(『ラカン』p45)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月11日
なんて当然人それぞれなわけで、そこに「正しい」も「間違い」もありゃしない。ありもしねえもんをあるように主張するから無理が生じる。
古典学派の遺産は科学的な部分と政策的な部分[自由貿易と自由放任]とから成り立っている。古典学派の大きな勝利と大きな敗北とは、前者よりも後者によって遥かによく説明されるといっても、決して誇張ではないだろう(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月11日
資本の自動推進的で形而上学的なダンスこそが、ショーを動かすのであり、現実生活の発展およびその破滅の鍵となるのである。ここにこそ、資本主義の持つ根本的なシステム的暴力があり、それは、資本主義以前の直接的な社会的-イデオロギー的暴力よりもはるかに不気味なものである。(『暴力』p26)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月11日
ゼウスは、自分自身を統治することについて、自らの統治について、つまり自分が行使する統治について考える。そしてゼウスはこの統治が何であるのかを知るために考え、自分に相応しい思考にふける。-主体の解釈学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月11日
自分の身体も外部の対象と同じように認識の対象となる。外部の対象は見られ、触れられるものであるが、自分の身体はただ見られ、触れられるものであるだけでなく、その対象自身が見られ、触れられていることを感じ取る主体でもある。こうした身体知覚の二重の働きから、自分の身体の認識は、自我をつくりあげる基になっていると考えられる。
おかしな理屈で妻を苦しめてしまう。それは俺の本意じゃない。
が、懐かしいねという話を芝居仲間としたのが頭に残ってて、そういや以前、妻とも一緒に行ったことがあったなあと思い、もう一度行ってみようかと誘いそうになった。その瞬間、まるっきりフツーに電車に乗って歩いて行くつもりで。これも「病態失認」の一種ってことになるのだろうか? いずれにせよ、スタスタと歩く速さで後方に流れていく景色の記憶が鮮明に残っている。
この[独歴史学派の]歴史的個別研究のなかにただよっている精神とは、ロッシャーが「歴史的精神」と呼んだもの、すなわち事物が常に流動してやまぬという一般的意識とは異なるものであって、史料自体に没頭することへの感興、具体的個別的現象の内面的理解への努力これである(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月11日
⑧【岸田】現在、外国へ取引に出かけて行く社員を大勢で見送りにきて励ますというのも同じことですね。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月11日
向こうでは、出征兵士は家族や恋人が見送りにきて別れを惜しむぐらいで、そんなお祭り騒ぎはしないですね。
その必要がないからです。
知りもしねえくせに肥大した自己愛満たすためにきいたふうな口きいて甘い見積回してくるんじゃねえよ。いちいち斥けるのも手間なのだ。
黙って通り過ぎりゃいいものをいちいちイッチョカミしたがる。鬱陶しいったらありゃしねえ。
神は死んだのであり、〈真理〉は、神の手の届かないところにある〈法〉の死んだ文字の中にあるのだ、と。要するに創造の作業が終わった瞬間、神は、人間が彼の法をどう解釈するかに対しても、神は介入する権利を失ったのである。(『事件』p136)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月11日
☆朝日新聞社説・イッテQ疑惑
・『ない』ものを作り出して『ある』とする行為は許されない
KAZUYA「まんまブーメラン。朝日が散々やってきたこと」
居島一平「鋼鉄の面の皮の厚さ」
朝日は珊瑚に【KY】と書いた事件を覚えてないのだろうか。 pic.twitter.com/vIsJBNGuMA— ちぢれ麺 (@chidiremen11) 2018年12月11日
よりによって朝日新聞がよく言えたもんである。厚顔無恥とはこのことだ。
著しく低下していると感じる。日常生活の中で「運動」らしい運動は一切してない(できない)わけだから当然といえば当然なのだjけど。何か対策を考えないと。
テクノロジーへのわれわれの取り組みが、その制約から放たれ、それと距離を置くことで、自由な遊びになりえている。私に言わせれば、伝統的な生活様式や精神性に回帰しようという運動よりも、「珍道具」運動のほうがずっとその仕事をうまくやっている。(『事件』p7)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月10日
過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと堕ちていく存在者の背後で、また日々に解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。まるで情け容赦もない証人のように。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年12月10日
ポランニーが「市場ユートピア」に徹底的な批判を加えたのは、市場経済が人間の文化的諸価値としばしば衝突することがあり、経済的危機においては民主主義や平和が市場経済の妨害物として、いともたやすく擲たれるからである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月10日
眼鏡をかけたまま風呂に入り、そのまま顔を洗ってしまった。
⑳それは
「戦勝者、もしくは戦勝者と見なされた者、あるいは権力闘争の勝利者、もしくは勝利者と見なされた者を絶対の権威とし、その言葉を絶対化して、それを各人がもつべき全人に共通した当然の基準として、それに基づいて一方的に他を断罪して反省を強要する」
という事であろう。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月10日
ないかと問われれば、あるにきまっている。しかしそれが「退院前に比べて」という意味ならば、何一つない。
ガルブレイスは現代産業社会において完全雇用が規範倫理として作用しているとした上で、広告や宣伝といった人為的な欲求依存装置が人間の本来あるべきニーズを歪めている(奢侈な私的支出の増大に伴い教育などの公的支出が減少するという「社会的不均衡」が生じる)ことを問題視する。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月10日
⑪いうまでもなくこれは、自己の絶対化と討論の拒否である。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月10日
そしてこの自己絶対化は、まず自己の掲げる(もしくは「売る「思想」乃至は「個人」を絶対化し、それへの批判を許さないことによって自己を絶対化し、自己の基準を一方的に相手に強要するために行われる。
と、どうしても今の生活と入院中のそれとを比較してしまう。後者の方が良かったことなど、少なくとも俺自身にとって何一つない。とりあえず今は寒くないし、あったかいコーヒーが好きなときに好きなだけ飲める。朝の六時にたたき起こされることもない。
⑧【山本】あのときは、軍隊を組織的に運営するという自信を失ったということですね。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月10日
ずいぶん変ですけれど、個人に頼る、個人の勇気に頼るという以外、方法がなくなってしまった。
日本の組織というのは、最後になるとダメなんです、どれもこれも。
暴力に対して暴力が加えられること、支配される者自身を他の支配が服従させることを可能にしているのはまさに規則なのである。
— フーコー&バタイユ&デリダ bot (@foucoubotbatail) 2018年12月10日
ーニーチェ、系譜学、歴史
いつか手をついて、あるいは頭から突っ込んで、突き破ってしまわないか心配だ。
思いついたらすぐに書け、今すぐにだ。というから、真に受けて夜中でも起きてPCを起動して書くということを以前は日常的にやっていて、おかげで眠りが浅くなり、自律神経が乱れたと思っていたが。ゆうべは寝ながら頭の中で文章を反芻していてすっかり疲れてしまった。だったら夜中に起きて、書いてしまった方がすっきりするな。
自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは…自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金を充分にもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである(I・バーリン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月9日
■山本七平botまとめ/【静かなる下克上②】/能力評価以外を不公正と考える日本人/~日本を現代へと発展させたアクセル「能力主義の武家的伝統」とは~https://t.co/jJKRpUJE42
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月9日
③だが、実をいうとその態度こそ、戦争中の軍部の、フィリピン人に対する態度であったのである。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月9日
そして、そういう人達の基本的な態度は今も変らず、その対象が変っているにすぎない――
その事は前述の短い引用と本多勝一氏の日本軍への描写を対比すれば、誰の目にも明らかな事であろう。
知については、〈利害関係のある〉ものと〈利害関係のない〉ものとの対比や、認識というモデルや、認識主体の優位性を放棄しなければならない。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月9日
■山本七平botまとめ/【履歴書の検討】/思考不能に陥った「自己把握なき」日本/~明治維新とアメリカ占領統治、二度にわたる過去否定が招いた「無意識の拘束」とは~https://t.co/uBSBKK4Sui
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月9日
■山本七平botまとめ/【受験勉強的思考】/模範解答が無い問題は考えた事が無い明治以来の日本人https://t.co/0XiUsLDk9C
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月9日
〈テロとの戦い〉における三人の主役(イスラエル、アラブ諸国、9・11以後のアメリカ)はみな、おのれの拡張主義的な政治を正当化するために、自分を犠牲者とみなし、犠牲者としての立場を利用する。(『暴力』p156)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月9日
トイレはもとより、風呂も介助なしでひとりで入れている。 これができるとできないとじゃ大違いである。
を貪るばかりで無駄な一日を過ごしたが、起きてりゃべつに何をするわけでもないのにヒーターをつけてもらったりして余計なお金がかかるし、ただ立ってるだけでも転倒リスクを孕んでしまうわけで、だったら相対的に寝てた方がマシだったりする。
[モーツァルトのオペラにおいて、]主体的心理学的な内容が形式の中にあまりに強く自己表現し、形式にあまりに直接的に浸透するのを妨害する―つまり内容と形式を引き離しておく―この制約・束縛の中に、内容の「抑圧された」真理は自己表現の場所を見いだす。(『崇高』p350)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月9日
[モーツァルトのオペラにおいて、]主体的心理学的な内容が形式の中にあまりに強く自己表現し、形式にあまりに直接的に浸透するのを妨害する―つまり内容と形式を引き離しておく―この制約・束縛の中に、内容の「抑圧された」真理は自己表現の場所を見いだす。(『崇高』p350)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月9日
誰も苦労してねえよっていう戯れ言に付き合ってやる暇も体力もないんだ。
ポランニーは、所得配分のあり方や経済活動を評価する実質的合理性の様々な価値評価尺度が後退し、目的選択における功利主義的尺度が支配的になった戦後を「経済合理主義の深化」と呼ぶ。いみじくもアメリカでは民主的な政治決定によるニューディール経済がウォール街の金融経済に取って代わられた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月9日
ポランニーはメンガーに倣い、アリストテレスを参照した。19世紀以降の経済学者たちとアリストテレスとの間には「希少性の原理vs共同体の原理」という経済を束ねる原理的な対立が存在する。このアリストテレスの「共同体に基づく経済生活の原理」こそ近現代の経済学者が捨象してきたものであった。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月9日
1 男の労力。また、男の働き手。「男手だけで育てる」「男手が欲しい」⇔女手。
2 男の書いた文字。男の筆跡。男文字。⇔女手。
3 《昔、男が多く用いたところから》漢字。真名(まな)。男文字。⇔女手。
「―も女手も習ひ給ふめれ」〈宇津保・国譲上〉
[『自由論』における]その真理とはつまり、性格のタイプにはいろいろの種類があって、しかも人間の性格が無数の相矛盾する方向にむかってそれぞれ完全に自由に伸びてゆけるようにしてやることが、個人にとっても社会にとっても重要なのだという一事である(J・S・ミル)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月9日
1940~50年代のアメリカでは新古典派経済学のパラダイムが席巻しつつあった。47年の「モンぺルラン協会」の設立に象徴されるように、経済自由主義の知の再編期でもあった。こうした潮流に対しポランニーは人間の経済をその市場形態と同一視する「経済主義的誤謬」への批判を一層強めていく。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月9日
吐かれた言葉を自分自身に向けてみろっていうんだ。
権力の諸関連は、濃密な社会の深部に降りていて、それらは市民に対する国家の諸関連の中とか階級間の境界とかには位置づけられない。それら権力の諸関連は個人・身体・身振り・行動などの水準で、法制のもしくは統治の一般形態を再生産することに甘んじない。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月9日
保守速報 : 【パリ】大規模デモ、約1400人拘束 https://t.co/dUDuD979Ml
— 保守速報 (@hoshusokuhou) 2018年12月9日
『フランス革命の省察』のエドマンド・バークを思い出すね。
無責任な言説で他人が害を被っても自分は「自由」の美名の下にお咎めなしであるという気楽さが保証されていると思っているらしい。
だからこそ書けることもあるはずだ、と友人が言う。
⑧【山本】日本軍はある意味で途方もない変な強さはもっていた。その強さはソ連への恐怖によって錬成されていった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月9日
わが方はたった17個師団、それが22個師団か24個師団になったでしょう。
しかし、ソ連の動員兵力は百個師団とか150個師団なんていいますから、これは段が違いますわ。
[〈現実界〉は]すべての形式化が躓く石である。しかしまさにこの挫折によって、われわれは〈現実界〉の空の場所を囲み、突き止めることができるのだ。いいかえると、〈現実界〉は記録できないが、この不可能性そのものは記録することができ、その場所を突き止めることができる。(『崇高』p321)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月8日
自然価格そのものは、賃金、利潤、地代というその構成部分をそれぞれの自然率とともに変動する。そしてどの社会でもこの率はそれぞれの社会の事情によって、すなわちその社会の貧富、前進、停滞、衰退の状態によって変化する(A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月8日
③それを堂々と主張する下士官もいた。
「いいか。私的制裁を受けた者は手をあげろと言われたら手をあげて構わないぞ。オレは堂々と営倉に入ってやる。
これをやらにゃ精兵に鍛え上げる事はできないし軍紀も維持できない。…やましい点は全然ないからな。いいか、あげたい奴は手をあげろ」— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月8日
自由へと陶治されるためには、―もっとずっとラディカルな意味で、すなわち「ヌーメナルな」という意味で、いや怪物的ですらあるような意味で、―私はあらかじめ自由でなければならないということである。この怪物的な自由にフロイトが与える名は、無論、「死の欲動」である。(『神話』p182)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月8日
すなわち、アリスには、複数の冒険ではなく、一つの冒険がある。すなわち、表面への上昇、偽の深遠の拒絶、すべてが境界を通り過ぎることの発見。それゆえに、キャロルは、当初予定したタイトル『アリスの地下の諸冒険』を放棄するのである。(「意味の論理学」)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年12月8日
自分の意志を事物の中へ入れるすべを知らぬ者は、少なくとも何らかの意味を、事物の中へ持ち込むものである。ということは何らかの意志が既に事物の中にあると彼が信じているということである。(これ即ち「信仰」の原理)。-偶像の黄昏-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月8日
■山本七平botまとめ/『日本人が抱く”妄想”アジア』/~「花の雨が降った」米軍と「石もて追われた」日本軍の違いとは~ https://t.co/vVKHDFs3KJ
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月8日
交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところにしたがって、絶えず変化する…関係として、現れる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月8日
そこでオーウェンは
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月8日
①協働の原理
②立法による介入
によって、利得と利潤の原理に基づく市場経済の肥大化を放任せず、犯罪や貧困が国民全体に蔓延するのを抑止しなければならないと主張し、社会的存在としての人間の自由と背金を回復しようとする努力として「社会主義」的実践を担った。
[公共的空間に関わる真の個人的自由の2つ目は]…自律的個人が公共的問題の理解と討議を通じて、政策や制度の枠組みの変革に直接・間接に参加し、公共的意思決定にコミットするという「自由」を持つというものである(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月8日
人間の思考において重要なのは、人間が考えたことよりも、考えなかったことのほうなのだ。このノン・パンセが人間の諸々の思考を体系化し、その後当分の間、これを際限もなく言語で論いうるものとなし、考えさせることになる。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月8日
㉒独裁国ですら、名誉回復という事はあるのだから。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月8日
そして二人の血に責任があると思われる人もしくは社は、遺族に賠償してほしい。
戦犯の遺族として送った戦後三十年はその人々にとって、どれだけの苦難であったろう。
⑦人間が何かを聞く場合、聞く方に二つの態度がある筈である。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月8日
即ち「事実として聞いた」のか「フィクションとして聞いた」のか、という問題である。
ところが氏の証言は「同記事に記載されてある事実は…両氏より聞きとって記事にしたものでその現場を目撃した事はありません」となっている。
ポランニーによると、市場社会を支え発展させるには競争市場や自由貿易といった経済的自由主義のドグマを絶え間なく再生産する必要があるが、第1次世界大戦以降はアメリカがイギリスに代わって経済自由主義の旗振り役を担い、市場経済の再建に乗り出すことになった。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年12月8日
ヘーゲルにとって弁証法とは、克服の過程の物語などではなく、そうした[象徴化・全体化の]企ての失敗の体系的記録である。「絶対知」は、「矛盾」をすべての同一性の内的条件として最終的に受け入れる主体的立場を指している。(『崇高』p20)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月8日
思考するとは、世界を言語によって再現することではなく、世界を言語によってまったく新しく構成することなのだ。だから、哲学とは(詩と同様)言語によって世界の相貌を一変させることであり、場合によっては、世界を完璧に破壊することなのだ。『観念的生活』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年12月8日
資本の自動推進的で形而上学的なダンスこそが、ショーを動かすのであり、現実生活の発展およびその破滅の鍵となるのである。ここにこそ、資本主義の持つ根本的なシステム的暴力があり、それは、資本主義以前の直接的な社会的-イデオロギー的暴力よりもはるかに不気味なものである。(『暴力』p26)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月8日
監獄が誕生したのを、私は当初ベッカリーアや改革派、要するに啓蒙主義者達のせいだとばかり思っていましたが全く違いました。彼ら改革派は君主専制化の拷問や残虐すぎる刑罰に反対して立ち上がったがその代わりに監獄を提唱したことなど一度もなかったのです。-あるフランス人哲学者の見た監獄-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月8日
紙焼きの写真をスキャンしてオンラインアルバムに保管しているのだけど、
④それでいてその人は、戦争中の日本人が大本営発表や新聞の戦意昂揚記事に、いとも簡単に騙されていた事を不思議がるのである。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月8日
これはいったい、何としたことであろうか。
このままに放置しておいてよいのであろうか。
②【岸田】無能な上官の愚劣な作戦のために、あたら優秀な兵隊が何万も何十万もムダ死にしたわけです。
こういうことになったのは、もともと戦争に向いていない日本的集団を、近代的軍隊組織の枠に無理やりはめこんだことに一因があると思います。— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月8日
ポストモダニストにとっての合理的精神は、「客観性」への、すなわち「合理的」で「客観的」であるとされるものを規定している権力と言説のメカニズムを忘却する「客観性」への形而上学的な要求をともなっている…。(『全体主義』p15)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月8日
政治権力はイデオロギーや人々の意識に作用する以前に、人々の身体に対してずっとはるかに物理的に行使されています。動作・姿勢・作法・空間の配分・住居の様態等を人間に強制する仕方、つまりこのように人々を物理的・空間的に配置することは身体の政治的技術に属するように思われます。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月8日
病 世界の死 私は病だ 私は世界の死だ 心の中には静けさ 突然の強風を受ける私のこめかみは 死のため激しく脈打って 世界へ攻めゆく合図を打ち鳴らす すると星が黒くなって落ちてくる 私の立ち尽くした骸骨の中へ 『好運への意志』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月8日
動画part2#さくら学院8周年 pic.twitter.com/SgQKc7WjUL
— 優花 🌸🚁🌪 (@Q40Sf) 2018年12月8日
毎日私に先行していた好運。いかなるものからも絶対に限定を受けなかった好運、「夜の中から放たれた矢のような私」と綴った時に、私が呼び求めていた好運、この好運は、私の産する人に私を結びつけ、最良のことと最悪のことのためにとことん賭けられることを望んでいる。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月8日
■山本七平botまとめ/【バシー海峡④】/「バシー海峡の悲劇」はまだ終わっていない!/~「やるだけの事はやった」という”バシー海峡的”行き方を続けている日本人~https://t.co/GUbGbATzGv
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月7日
〈識〉とは対象を感覚・知覚・思考する心の働き一般をさすが、それまでの小乗仏教が眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つ(=いわゆる五感と表層意識)しか考えられなかったのに対し、〈唯識派〉はそれらの基盤となる〈マナ識〉と〈アラヤ識〉を加えて、全部で八つの識を立てた。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月7日
権力関係は戦略的関係です。つまり、一方が何かするたびに、相手はそれに反対する包囲行動、行為を展開し、それから逃れようと試み、一時的回避をし、攻撃すること自体を支えにします。ですから権力関係の中では、いつ何時であれいかなるものも安定した状態ではないわけです。-ラジオスコピー-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月7日
暗記自慢にはうんざりです。
[偶然的なものと偶発的なもの:]ある形式的構造のある普通の要素は偶発的で中立的である。つまり交換可能である。だが、この形式的構造そのものを具現化している要素がある。それは必然的ではなく、まさにその偶然性において、構造的必然性の復元のポジティヴな条件である。(『崇高』p341)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月7日
まず最初になすべきことは、自由主義におけるタブーを臆することなく打ち破ることである。仮にある人が「反民主主義的」である、「全体主義的」である云々と非難されたとして、それがいったいなんだというのか、というふうに。(『全体主義』p10)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月7日
私は、絶対主義もケ・セラ・セラの相対主義いずれの場合も、動きが停止することを恐れる。中・高年の人々が「近頃の若者はダメだ」と言い出した時には自分達の世代の価値観が硬直した証拠である。同時に「オジンやオバタリアンはダサイ」と決め付けた途端にヤング文化の絶対化・硬直化が始まっている。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月7日
哲学とは何か。まず大雑把に言って、私は一つの文化の根底にある「原理的選択」の場を哲学と呼べると思っています。[…]原理的選択とは、人間の知、人間の行動、知覚や感性、そうした全体を拘束するような選択のことです。-文学・狂気・社会-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月7日
「汝ら、己を愛する者を愛するは、何の報いかあらん。税吏も、然せざらんや。安否を兄弟にのみ問ふは、人より何の過たる事かあらん。税吏も然せざらんや。」(マタイ5章46節)-「キリスト教的愛」の原理。結局は、しこたま支払ってもらいたいのだ。…-反キリスト-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月7日
我々は、死と性的興奮との間の関係の原因は病気にあるなどといって済ましているわけにはいかない。サドの逆説の中には或る真理が露われている。この真理は悪徳の範囲に局限されるものではない。私はこの真理は我々の生と死との表象の基礎であるとさえ考える。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月7日
■【本多勝一様への返書⑩】取材するためイスラム教徒に変装したことを「有効な手段だった」と言い放った傲慢かつ無神経な本多勝一https://t.co/VaOYMWGzMb
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月7日
③日本人は多くの戦争孤児と現地妻を捨てて南方からひきあげた。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月7日
日本政府は、この気の毒な人々に対して何一つしようともしない。
それどころか、台湾人をはじめ現地で徴兵・徴集した人々やその戦死者・戦傷者、遺族に対して、恩給は無論の事、何らかの補償さえしようとしない。
[自然的自由の体系における主権者の義務の一つ目は、]…その社会を他の独立諸社会の暴力と侵略から守る義務…[である](A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月7日
ほんの少しだけ原稿書き。それで疲れてしまう。創作ってSNSなんかに駄文を書き散らかすのとはぜんぜん勝手が違うのだ。アタリマエだが。
もったいぶって地球の最後を恐れてみせる人さえある。そのような結末の可能性は、宇宙的な大異変の可能性と同じくらいに否定できないものだ。しかし、さしあたって、地球の爆発の蓋然性は、人間によるものだろうと、天からのものだろうと、極めて微弱なものである。-広島の人々の物語-
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月7日
■【日本人の政治的反応度①】日本に「政教分離」はありえない/~宗教問題ではなく”政治”問題化してしまう靖国問題~https://t.co/OW3Fd41pvZ
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月7日
権力は常に経済に対して二次的な位置にあるのか?権力は常に経済によって目的化され機能化されているのか?権力は本質的に経済に奉仕することを存在理由及び目的とするのか?権力は経済を機能させ、経済に特徴的で、経済の機能にとって本質的な諸関係を固め維持し更新するためにあるのか?-防衛講義-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月7日
⑧【岸田】労働者だって、使い古したら、どんどん首を切って新しいのと入れ替えることができたわけです。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月7日
戦争とか侵略とかの場合は、向こうのやり方は実に合理的なんです。
ところが、現在では、戦争をするわけにはいかない、植民地を獲得することはできない。
主体は個別的でありかつ「自分の世界」の普遍的な枠組みであって、言い換えれば主体が認識する内容はすべて「自分自身のもの」である。そうだとすれば、どうして主体が、自分自身を自分の諸々客体の系列のうちに含み入れる(数え入れる)ことができるというのだろうか。(『神話』p209)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月7日
ミナーキーとの姉妹喧嘩もあります。ミナーキーは政府は警察や司法だけで十分だっていいますけど、自由のための条件整備は他にも必要なものがあると思うんです。それも画一的に強制力をもってやるべきことが。もちろん自由な大人に対する福祉は政府の仕事じゃありませんけど。わたしダメな子ですか?
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年12月7日
私は全ての体系家に不信の念を抱いていて、彼らを避ける。体系への意志は、知的誠実さの欠如である。-偶像の黄昏-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年12月7日
言語哲学者・井筒俊彦氏によれば、〈アラヤ識〉こそが深層意識の言葉であり、この言葉は、概念的文節の支配する表層意識の言葉(=ラング)と違って、明確な分節性の無い〈呟き〉のようなものである。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月7日
調整コスト負担の理不尽さに疲れてしまうんだ。
妹のアナキャピには悪いけどどうしても政府は必要なんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年12月7日
個人の契約や状況とは無関係に泥棒は禁圧されるべきなんです。消極的自由をもった個人がどうするかは個人の決定次第ですけど、消極的自由の前提条件は個人の意思と関係なく整備されなくっちゃいけません!
お姉ちゃんがんばります!
古来よりの人間の様々な定義:アニマル・ラチオナーレであるホモ・サピエンス(知性人)、道具のための道具を作る動物ホモ・ファーベル(工作人)、競争・模擬・偶然性・眩暈に惹かれる動物ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)などなど。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月7日
我々は、マルクス主義或いは精神分析の言説と科学的言説との間の形式的構造的類似性の問いを立てるより前に、科学であろうとする態度につきものの権力意志についての問いを立てるべきでしょう。-防衛講義-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月7日
を浴室に敷いていたのだけど、マットじたいが滑ってしまうのでかえって危ないと感じ、使うのを止している。
充電しながら思い出した。入院中、一度だけ売店で買い物したことがあって、それはポメラのためのアルカリ単三電池だったのだ。
正確にカント的な言葉遣いで言い換えるならば、〈堕落〉とはまさに、私の根源的な倫理的自律を断念することなのである。堕落が起きるのは、私が他律的な[私に対して課された限りで経験できるような]〈法則〉のもとに逃げ込む時である。(『神話』p185)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月7日
身体に悪いって、「書く」ことぐらいストレスで自律神経を乱すことはないなと感じる。
社会主義という概念は、単に社会的正義とかより多くの平等や生活の安定といった、つまりは社会主義の究極の目標である「理想」をのみ意味するものとされたり、あるいはその理想を説明する言葉として用いられたりする(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月6日
咳をしたりくしゃみをしたり、その反動で転倒しそうになってしまう。つか実際、コケてしまった。
⑭【山本】結果的には後者を選んであれだけの大戦争を引きおこしてしまう。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月6日
法的に行動して生徒に出頭を命じ、後で政治的な代償、例えば免訴の保証を得るなどという選択は不純な訳ですよ。
【岸田】むしろ合理的に考えれば、西郷の弱さなんですがねえ…。
【山本】人は彼の選択に弱さを見ない。
人間が、自由で成熟した理性的な行為者として現れるのは、おのずとその自然な発達によってというわけではなく、過酷な規律訓練(ディシプリン)と陶治とに支えられた、成熟へと至る困難な過程によってのみである。(『神話』p179)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月6日
一方には〈貧乏〉、即ち生産物及び金銭の乏しさ、商業・農業・工業の状態と結びついている経済上の境遇があり、他方には〈人口〉、即ち富の増減の影響下にある受動的な要素ではなく、経済的な状況や富を生産する動きに、特にじかに所属する力がある。-狂気の歴史-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月6日
会計の細かなことまで理解する必要はないが、
全体の構造くらいはイメージした上で四の五の言えよとは思う。
[〈想像界〉的関係と]反対に〈象徴界〉的関係は差異的である。双方の契機の同一性は、他方の契機との差異の中にある。一方の要素は他方の要素の欠如を埋めない。たがいに相補的ではなく、他方の欠如の場所を占め、他方に欠けているものを具現化する。(『崇高』p319)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月9日
■山本七平botまとめ/占領下の言論統制・プレスコードとマスコミ https://t.co/mKW78Z4WqH
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月6日
⑪勿論私は北ヴェトナム軍のことは知らない。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月6日
しかし「天皇の軍隊」と戦争中新聞を飾った「無敵皇軍」「米英撃滅」「滅私奉公」等々のスローガンの背後に「孝行がしたいよナ」という言葉も、「私物の日記」も、『満期操典』『満期ぶし』も、ホモ的感情も存在した事は事実である。
⑨【岸田】留守中に女子学生の下宿にあがり込み、帰ってきたところを襲って強姦した男がいましたが、その言い草に唖然としたんですがね。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月6日
「おれは真剣に彼女を愛してるんだ。これほど純粋な愛が通じないはずはない。おれの気持はそのうち必ず彼女にわかってもらえる。」
[形][文]おもしろ・し[ク]《もと、目の前が明るくなる感じをいった語》
1 興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。「何か―・いことはないか」「仕事が―・くなってきた」「この作品は―・くなかった」
2 つい笑いたくなるさま。こっけいだ。「この漫画はなんとも―・い」「―・くもない冗談」
3 心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。「夏休みを―・く過ごした」「無視されたようで―・くなかった」
4 一風変わっている。普通と違っていてめずらしい。「―・い癖」「―・い声」
5 (多く、打消しの語を伴って用いる)思ったとおりである。好ましい。「結果が―・くない」
6 風流だ。趣が深い。
「月の―・きに、夜更くるまで遊びをぞし給ふなる」〈源・桐壺〉
[派生]おもしろがる[動ラ五]おもしろげ[形動]おもしろさ[名]おもしろみ[名]
[用法]おもしろい・おかしい――「おもしろおかしく話す」「おもしろい(おかしい)形の木の根」のように、滑稽(こっけい)な、奇妙な、の意味では、相通じて用いられる。◇「おもしろい」は、「おもしろい小説」「仕事もだいぶおもしろくなってきた」のように、その内容が(話し手の)興味をひく場合に用いられる。◇「おかしい」は、「何となくおかしい作品」のように、形式その他が風変わりだ、調和的でない意を表し、また、「先月来、からだの調子がおかしい」「彼が勲章をもらうなんてちゃんちゃらおかしい」と不調・不審の用法に及ぶ。これらは「おもしろい」に置き換えられない。◇「おもしろい試合」は、緊迫した内容の試合であり、「おかしい試合」は、普通でない変な経過、珍プレーのある試合ということになる。
【最新刊】太田順・内藤栄一・芳賀信彦編『身体性システムとリハビリテーションの科学1 運動制御』脳内での自己の身体と運動の表現は,身体の認知と運動制御にとって必須の機能である.超高齢社会に必要とされる有効なリハビリテーション法の確立を解説する.https://t.co/mwPbnTJeGT … pic.twitter.com/IhTORi1UGg
— 東京大学出版会@田中亘『会社法 第2版』12月中旬刊行予定 (@UT_Press) 2018年12月6日
採るために独白に馴染む内容を無理に対話形式にするより、いっそ小説にしてしまった方がいいとも思うが、そこを「無理」のない感じでやるのが劇作家としての腕の見せ所じゃないかとも思ったりする。
㉚そして戦後現われた様々な戦争批判の中で、常に欠落しているのは
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月6日
「戦争とは実は最も安易な道だ」
という、戦争というものがもつ実に不思議な要素を見ようとしない事である。
眠り続けたという。しかしそんなことってあるだろうか?
深夜に床について翌日の午後に目覚めたってあまりに眠りすぎたと思うものだ。
■山本七平botまとめ/【変換期にみる日本人の柔軟性/ベンチャーの精神②】「これより先に行くな(non plus ultra)」というタブーを破った元祖ベンチャービジネスマン、コロンブスhttps://t.co/KgSzuOrWyR
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月5日
シェリングによれば、主体は、理性的な〈言葉〉という媒体として断定される以前には、「存在の無限な欠如」である。それは、自分の外部にある存在の一切を否定する収縮という、暴力的な所作である。(『神話』p184)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月5日
病前だったら今くらいから深夜に俺が少しずつ、台所の換気扇やら洗面所の鏡やら風呂の排水溝やらの「大掃除」をやったものだが、そんな芸当ももはやできない。
よくないってことだけど、何がストレスってホン書くくらいストレスかかることはない。
■山本七平botまとめ/【現場中堅幹部日本人優秀説への危惧】/”名人芸”に依存する日本と、”システム”に依存するアメリカhttps://t.co/xb6NijSouq
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月4日
宗教あるいはイデオロギーの内的真実を救い出し、その真実とその二次的な政治的利用とを分離するというゲームは、単純に間違っている。それは非哲学的である。ここではイスラム教、キリスト教に対して、…あるいは実のところマルクス主義に対しても、情けをかけてはいけない。(『暴力』p144)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月4日
⑩第三に部下や同僚を戦死させた上、生きている部下、特に動けない病人を放置して助かる為自分だけが出て行く、
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月4日
という事は普通の神経ではできない事である。
…事実、死者が自分に「俺たちを放って去って行ってくれるな」と言っているような気持は、全ての人にあったのではないかと思う。
■山本七平botまとめ/【戦場のほら・デマを生みだすもの③】/「ほらやデマ」は戦場の残酷さや苦痛から逃れようとする心理的操作による自己防衛として発生するhttps://t.co/N24dnNvGCz
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月4日
シャミッソーとシュニッツラーを混同してしまうんだ。
リベラル・コミュニストの倫理において、冷酷な利潤の追求は慈善事業によって中和される。慈善事業は、経済的搾取という素顔を隠す人道主義の仮面である。(『暴力』p37)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月4日
リベラル・コミュニストの究極の夢は、労働者階級自体を第三世界の不可視の搾取工場に移すことである。(同、原注p12)
こういうふうに考えられる、と示した前提から結論に至るロジックの軌跡を理解せず、誰かの言葉をを持ってきてどや顔し、権威主義で「反論」した気になってるからバカだと言うんだ。
神は自分を満喫する、とエックハルトは言ったが、神が満喫しているのは、私には神が自身に対して抱く憎悪、この世ではどのような憎悪も匹敵しえない憎悪であるように思われる。もし神が一瞬でもこの憎悪をやめたとしたら、世界は論理的な、理解可能なものとなり、阿呆どもでも世界を解釈できるだろう。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年12月4日
自由の根は「そうしないこともできたはずだ」という後悔であるとすれば、自由は「過去における自由」としてしか、すなわち時間との連関によってしか認識できないのに、われわれはおうおうにして時間を捨象して、あるいは極小的現在に限定して自由をとらえようとしてしまう。『後悔と自責の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年12月4日
[ポジティブな社会保障に向けて、]社会保障は公正な社会的協同の仕組みであるという認識が、「公共的理性」として確立されなければならない。これは民主主義政治の要請である。重要なことは…社会権の普遍的確立の中に市場的互恵と道徳的義務の観念を導入することである(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月4日
芸術の作用は、道徳的、精神的ショックと結びついている。その情緒的な論証にたいして冷ややかで、それを信じる事が出来ないものは、放射能線病にかかる危険がある...。気づくことなく地球はパンケーキのように平らであり、三頭の鯨のうえに乗ってると信じる人の穏やかな顔には愚かな微笑みが浮かぶ
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2018年12月4日
④【岸田】それを、”思考の全能”ではないけれど、主観イコール客観と置いてしまうから恐いんです。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年12月4日
【山本】パウロにみられる「罪」の意識というのは”わが欲する善は行わず””わが欲せざる悪を行う”である。
この罪のある人間から、どうやって脱してゆけるのかという問題意識なんですね。
■イザヤ・ベンダサンbotまとめ/いまだ火種を残したままの琉球帰属問題/~中国側が沖縄を中国領と主張する理由~ https://t.co/zT36BtjXtJ
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年12月4日
がらみのトラブルで時間を取られまくっている。まったくもう!
妻をうんざりさせるつもりはないんだ。
…金貸しの術は憎悪されるのになににもまして当然な理由がある。その術は、貨幣がそもそもなんのために案出されたかという目的とは裏腹に、貨幣そのものから財を得ているからである。すなわち貨幣は物との交換のために生じたのであった。それに対して利子は貨幣そのものを増やす(アリストテレス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月4日
いったい今の自分に「実体」があるのだろうか?2017年秋の残像を生きているような気がする。
自分で決めたルールに従って何でもかんでもきれいさっぱり処分してしまう必要はないだろう。ルールから逸脱したものを受容するある種の「だらしなさ」も必要なのだ。
年末年始に一時帰宅するかどうかでゴチャゴチャもめていた。「する」方向に傾いて、送迎の段取りを友人と調整しはじめてもいた。結局は帰宅の許可が出なかったのだけど、今年はずっと家にいられる。入院中、妻が面会に来てくれることだけを楽しみにしていた日々も今は懐かしく思い出される。
…いかなるゲームであれ、それを興味深いものにするためには優れた技量に加えて不確実性という要素が不可欠であるように、人間の賭博癖が否定しがたいことは確かである(F・ナイト)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年12月4日
女が「あの角」を曲がる後ろ姿に「別れ」を象徴させているわけだ。女の姿が「あの角」に消えたときが、この歌の主人公にとっての「別れの瞬間」となるはず。 そういう意味ではマルセルデュシャンのいうように「死ぬのはいつも他人ばかり」ではないだろう。生物としての己の「死」を具体的な何かで象徴=物語化し、認識できるはずだから。
惰眠を貪っていた。浅い眠りで長い夢を見た。内容は忘れてしまったけれど、なんだかガチャガチャ騒がしい夢。
哲学者というものは単に存在しようと望むだけではなく、おのれのなすことを理解しながら存在しようと望むわけですが、ただそれだけのためにも、哲学者は、その生活の事実的与件のうちにひとりでに含まれているすべての断定を一旦停止しなければなりません。『人間の科学と現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年11月28日
何をするにも普通の人の何倍も時間がかかり、しかも事前準備が必要で、可処分時間がうんと少ないのである。その意味で、死んだも同然なのだ。
[子供の態度は]権威を担う人物に対して、確固たる境界を定めて、「ここまで来てもよい、超えてはならぬ」という線引きを行うよう求める要求[を隠蔽しつつ表現するの]である。それによって子供は、なしうることとなしえぬことに関する〔自分の行為の〕明確な配置を得ることができる(『神話』p185)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月3日
エロティシズムとは欲望としての性である。自然のうちに書き込まれている本能図式に服したままの性行為そのものはエロティックではない。人間の性の本質は、それが生殖のための生物学的欲求から、文化的欲望へと変質したところに見出せる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年12月3日
すごいな。 学部は違うが、大学の大先輩ということになる。86歳の三浦雄一郎さん 南米最高峰「アコンカグア」登頂挑戦へ #nhk_news https://t.co/LLcnMfkxJh
— NHKニュース (@nhk_news) 2018年12月3日
国民全員を死に晒すという権力は、国民に生存し続けることを保証する権力の裏側に他ならない。生き残るためには敵を殺すという、白兵戦の戦術を交えていた原理は、今や国家間の戦略の原理となった。-知への意志-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年12月3日
6年ぶりの再演である。
『オトカ』の初演は2011年3月。「日本の劇」戯曲賞2010最優秀賞を受け、文化庁主催「新進芸術家育成公演事業等」として、日本劇団協議会の製作により上演された。
ちょうど東日本大震災で上演中止が危ぶまれた。
地震のあったとき、私は家にいた。寝室の薄型CDラックが倒れないように両手で壁に押しつけつつ、このまま家が倒壊したら住宅ローンの残りはどうなるのだろうと考えていた。
死の恐怖というより生の恐怖。
初演のパンフレットに私は次のように書いている。
『不惑を過ぎてなお迷い続けている。興味の対象も日々移ろいゆく。それでも書きたい気持ちの枯れぬ限りは、書き続けていきたいと思う。さて、次は何を書いたら、よかんべか?』
それから自身の演出で6本の芝居をピタパタで上演した。
そのうち3本が私のオリジナル戯曲、2本が脚色、1本が他の作家の書き下ろしである。
6年でぐるっと一周したような気がする。
先のことはまるでわからないが、とにかく2周目に入る。
ピタパタ代表 今井一隆
ヘーゲルにとって弁証法とは、克服の過程の物語などではなく、そうした[象徴化・全体化の]企ての失敗の体系的記録である。「絶対知」は、「矛盾」をすべての同一性の内的条件として最終的に受け入れる主体的立場を指している。(『崇高』p20)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年12月3日
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