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2018年12月

2018年12月31日 (月)

扉のガラス

が怖いのだ。よろめいて頭から突っ込む蓋然性がそこそこある。

アナグラム

ある語を構成している文字の入替えによって異なる意味をもつ語をつくる言葉遊びのこと。たとえば orange (オレンジ) を organe (器官) とするなど。古代ギリシアやローマ時代から知られ,中世ヨーロッパ,特にフランスで盛んに行われた。言語学では,転じて文学作品のテクスト内に散らばる音の連関・増殖現象をさす。ソシュールによって発見され,J.ラカン,J.クリステバらに継承されて発展した。文中の「語の下にひそむ語」としての音は,深層意識を紡ぎ,個体・世代をこえた意味体験をテクスト (発話・記述されたもの) に織り上げる。これが現代文学・思想における「テクスト相互関連性」の分析に用いられるようになった。

20181231

退院後初の蕎麦である。
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データベース屋

時代に桐のヘヴィユーザーだったが、大昔のことで、使い方をすっかり忘れてしまった。

2018年12月30日 (日)

鳩山を追及せよ

鳩山由紀夫元首相(2009年9月~10年6月)が、在任中に自らが保有していた公文書の大半を退任直前に廃棄したと毎日新聞の取材に証言した。沖縄県・米軍普天間飛行場の県外移設問題などに関する一部の文書は個人事務所や自宅に持ち出したものの、政権の全貌が分かる記録は残っていないという。鳩山氏は「作成元の省庁が保存していると思い捨ててしまったが、省庁で見つからなくなっているものがある」とも証言する。首相が退任する際に公文書を保存するルールはなく、廃棄や散逸の危険にさらされている。
徹頭徹尾でたらめな男である。

金の心配

をする必要のない人生を選択することだってできたはずなのだ。

萩原朔太郎『猫町』



神事

「無病息災」との相関関係はありそうだ。
というのも、この寒い中、滝の水に打たれることができるほど健康なのだから、一年を「無病」で過ごすだけのポテンシャルはあるってことだろう。

川崎大師

いつのことだか失念したが、初詣に妻と川崎大師に行ったことがあった。寒いし、すごい行列で辟易したものの、もう二度とできないと思えば、帰りに甘酒を買って飲んだり、そういうベタな思い出こそが愛おしい。ともかく今年の正月は妻戸一緒に自宅で過ごせそうで嬉しい。ささやかで凡庸だけど大事なこと。

制度的な

裏付けのない病院職員個人の善意に、友達でもないのに過大な期待をする/できる神経がわからない。

2018年12月29日 (土)

俺のノートPCに

やっとウイルスバスターがインストールできた。

癌のステージ分類と標準治療

がんは進行度に応じて、基本的にステージ0~ステージⅣまでの5段階に分類されます。ステージ0は、がんが粘膜内(上皮細胞内)にとどまっており、リンパ節には転移していない状態。手術で腫瘍を取り除ける段階です。続くステージⅠ、Ⅱ……と、病状が進行するに従ってステージが上がっていきます。
 

<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">私は全ての可能な解決を退けるような批判には与しない。-論争・政治・問題化-</p>&mdash; ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) <a href="https://twitter.com/M_Foucault_jp/status/1078871314226528256?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年12月29日</a></blockquote>
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2018年12月28日 (金)

20181228

仕事納め&忘年会@ジョナサン→民芸

昔だったら

ちゃっちゃと本を買ってきて、ソフトの操作方法を覚えたもんだけど今は、物理的に本を開くという行為じたいが困難だから。
Omoumarina

粗大ゴミ

としての余生を引き受けねばならぬのだ。自虐とか愚痴とかいうレベルの話じゃなく。

アクセス

が世間に普及しだしてもなお、桐が社内のデフォルトだったから、いまだにアクセスよくわからん。

自分に理解できないこと

は「間違い」に分類しないと、根拠の脆弱な己のプライドを保つことができないのだろう。偏差値バカの悲劇である。

わかってくれと

言うつもりはないし、言ってない。
わかりもしねえくせに所詮は他人事の気楽さで利いた風な口をきいて不要な干渉すんなと言っているのだ。あんたの肥大した自己愛を満たす材料じゃねえんだ。

空き時間

ができたから、ちょっと寝ておこう、というフットワークの軽さも失ってしまったのだ。横になったり起きたりがいちいち「一仕事」だから。

シュレーディンガーの猫

2018年12月27日 (木)

コープス・ペイント

ープス・ペイント (Corpse Paint、Corpsepaint)は、顔を白と黒に塗る化粧のことである。主にブラックメタルで用いられ、ライブやバンド写真で使われる。この化粧の目的は、ミュージシャンを非人間、もしくは死体や悪魔のように見せることである。
コープス・ペイントでは、顔から首にかけてを白く塗り、目の周りや口の周りを黒く塗ることが多い。更に、しばしば、本物か偽物かを問わず、血が併せて塗られることもある。ミュージシャンによっては、そのコープス・ペイントがトレードマークとなっている人物も存在する。滅多にないことではあるが、これら以外の色が使われることもあり、メイヘムのアッティラ・シハーは、ネオン・カラーを使ったり、ノルウェーのブラックメタルバンド、Dødheimsgardは実験的に別の色を用いたりしたことがある。
 

冷凍食品の

焼きおにぎりをレンジでチンする、たったそれだけのことも難儀なのだ。まったくうんざりである。

脚を組む

ことができるからまだよかった。これができるとできないとじゃ、着衣動作において雲泥の差である。

明日は

仕事納め&忘年会。
旧友が遊んでくれるからありがたい。

安部恭弘『アイリーン』

CONTROLLED BLEEDING "Body Samples"

The Clash 『 I Fought the Law』

転倒

しないように気をつけるのはすそのリスクがあるからだ。
であるなら実際に転倒した際にどうするか、備えておくべきだろう。そういう事態にならぬように「気をつける」だけけじゃまったく不十分なのだ。

エクセルでグラフ


アポリア
https://kotobank.jp/word/アポリア-27060
ギリシア語で場所に関しては通路のないこと,事物については解決の方途が見出せないことから生じる困難を意味する。特にプラトンの場合,ディアロゴスにおいてロゴスの展開から必然的に生じる行きづまりを意味し,アリストテレスにおいては,ある問題に関して2つの同様に成立する対立した合理的な見解に直面することをいう。一般的には,解決できない難問をさす。

脱構築

今さら

詮なきことではあるが、だからこそ、ありえたかもしれぬもうちょっとマシな現在の可能性とそれに至る選択肢について、ついつい考えてしまう。

お茶を入れる

ただそれだけのことがいちいち一苦労なのである。情けない。我が身がほとほと嫌になる。

インセンティブ

一区切り付いたからもうよしとこう。
ミスしてクレームになったんじゃバカらしい。
小銭を拾おうとして転倒し、大怪我するようなもんだから。
Namida

「リハビリ」の

通俗的イメージに基づく思い込みできいたふうな話をされるのも疲れる。知りもしねえくせに、黙ってろと言いたくなる。

ありえた

かもしれぬ別の可能性をどうしても思ってしまうな。

誰を

友としようが俺の勝手である。アタリマエの話であるが。

手段と目的を

取り違え  、おのが動機の純粋性を強調してドヤ顔ってパターンにうんざり。

つくづく

入院中に装具をつけて過ごした時間が無駄でもったいなかったと思われる。

2018年12月26日 (水)

少なくとも杖で

普通の人と同じくらいの速さで歩けるようにならなくちゃね。頑張って練習する。そしたらまた妻と一緒に散歩もできる。

死体遺棄

死体遺棄(したいいき)とは、死体を遺棄すること、特に、人間の遺体を葬儀に絡む社会通念や法規に沿わない状態で放置することをいう。

滅多に

一人で外に出ないから、それにまつわる一連の行動がパターンとして内面化てないのだ。

【スッキリ!!】コリィ・テイラー(STONE SOUR)

年末

であり、寒波が近づいているという。
紛れもなく冬本番であるのに、気持ちはなぜだかぐずぐずと夏の終わりを引き摺っている。

精神論は

大嫌いだけれども、実際、己に対ししては、だいたいこれで済ませてきたとこがあるなとも思う。

哀れなことに彼は

肥大した自己愛が邪魔をして己の論点がトンチンカンであることを自覚できないのである。
Harinezumi

半年間

一日も欠かさずリハビリを続けたが左手の指一本動かぬのである。靴下を穿くのも難儀であると想像するのは容易だろう。

2018年12月25日 (火)

善意の第三者

んい‐の‐だいさんしゃ【善意の第三者】
法律上関わりのある当事者間に存在する、特定の事情を知らない第三者。
[補説]例えば、甲の所有物を乙が盗んで丙に譲渡した場合、盗品であることを知らなければ丙は善意の第三者であり、乙の共犯者とはみなされない。

Macintosh LC 630

大昔にこれ、使ってました。懐かしいな。

自衛隊機へのレーダー照射(ロックオン)について

綺羅星の如く

綺」は綾織の絹、「羅」は薄絹。「綺羅」は美しい衣服のことで、きらびやかなことの形容にも用いる。 綺羅のようにすばらしいものがまるで空にまたたく星のようにたくさんあるという意味。
読み方は「きら、ほしのごとく」で、「綺羅星(きらぼし)」と一語扱いするのは本来は誤り。

現地は防火施設の整備もままならず、未区画の細道には消防車も入り込めない。近年は老朽化して放棄された家屋が目立つ。
 外国人など新住民も流入し、治安悪化、住民の高齢化などの問題が顕在化し始めている。同社の住民への“配慮”が、環境悪化を助長し、暮らしの安心・安全を阻害しているのだ。そんな目前の危機を、同社はあと何十年も放置するつもりなのだろうか。
 市側は「一度(ひとたび)火が出たら、大惨事になる」と認識している一方で、「民有地なので不法占拠問題には口出しできない」というジレンマを抱えている。こうした状況に業を煮やした市が、防災・防犯の観点で池上町への積極関与に乗り出し、関係各者との連絡会を結成したのは平成26年のことだ。
 27年の日進町(川崎区)の簡易宿泊所火災を受けて防火体制強化を進める市にとって、池上町は早急に解決したい目の上のこぶ。28年には、警察や消防、住民、地権者の各代表による第1回協議会を開催している。冒頭の市幹部の“リーク”は、世論喚起と同時に、悠長な姿勢を示し続けるJFEスチールにハッパを掛けたいという思いからにほかならない。

アマゾンから届いた

荷物を杖歩行で郵便受けに取りに行ってきた。
たったこれだけのことが結構な「冒険」だ。

それでも入院中に比べたら、ずいぶん上達したものだ。

せめて

人並みのスピードでスタスタ杖歩行ができたらなあ。

意欲

最後まで書けるかどうかはともかく、原稿を書きたいという意欲は湧いてきた。そして少しだけ実際に書き出した。

だがそんな警告も喉元過ぎればすぐに忘れて、エネルギー政策も「反体制」ごっこの玩具である。

哨戒機

対潜哨戒機とも呼ばれる。潜航中の潜水艦を発見,攻撃する軍用機。航続距離が長い陸上機,艦上機,飛行艇のほかに,地上,あるいは艦上から発進するヘリコプタが使われ,レーダ,ソーナー,磁気探知器 MAD,シュノーケル潜水艦のエンジンの排気を探知する赤外線探知装置などの探知兵器を使って潜水艦を捜索し,ロケット弾,ホーミング魚雷,爆雷などを使って攻撃する。ヘリコプタは水中にソーナーを懸吊 (けんちょう) するが,有翼機はソノ・ブイを投下する。海上自衛隊ではP-3C対潜哨戒機,HSS-2ヘリコプタ,SH-60Jヘリコプタなどを使用している。

大丈夫?

と問われれば、正直ぜんぜん大丈夫じゃない。

死んだも同然

なのである。気弱な愚痴に聞こえるだろうが、実際そうなのだ。椅子から立ち上がるだけでも一苦労という状態なのである。「同然」という中途半端な状態を引き受けねばならぬは厄介なことだ。いったい何の罰ゲームかと思う。

Namida

辟易するがゲージツ界隈にありがちなこと

幼稚な思考の怠慢を素朴さに粉飾している。

身軽にしてなきゃ

身動きがとれない。だから不要なものは捨てていく。

まったくである。

いい大人が

一面的価値観の情緒的強調で正義の味方ごっごじゃダメなんだってなんで気づけないのか。

2018年12月24日 (月)

アーカイブ

としては結局、ブログが便利よねと思うわけです。
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ドライバって何?

では、ドライバって一体何でしょうか?
ある日、眠りから覚めてみると、気が付くと何か余分なものが体にひっついていました。
いきなり手がもう一本生えてきたのです!
しかし、手がもう一本増えたのはいいのですが、その追加された手をどうしても動かすことができません。
ただ、自分の体とつながっているだけです・・・一体どうすればいいんでしょう?
そこで、その追加された部分をうまく操作するために、神経をそこに通さなければいけませんよね?
その神経の役割を果すのが、「ドライバ」です。
もっとまともに説明するとヾ(^^;
OSやアプリケーションに新しい機能を増やしたり、機能を拡張したりするときに、その橋渡しをしてくれるソフトをドライバと呼びます。

雪道

だって轍をみつけてさっさと進んで行けたもんなのに、と今さら言っても詮なきことをついつい思ってしまう。

たまふれあい居宅介護支援事業所

http://www.kaigokensaku.mhlw.go.jp/14/index.php?action_kouhyou_detail_2017_023_kani=true&JigyosyoCd=1475402531-00&PrefCd=14&VersionCd=023

ささやかな近所のイルミネーション

を妻と二人で見に行きたい気持ちもあるがあまりに寒い。

矢野口駅前きらきらフェスタ2018

 

20181224

PCのキーボードを新しくした。どうもまだ馴染んでいない。

Keyboard

長く

生きればそれだけ、別離を経験するリスクが増大してしまう。つらいことだ。

20181224

20181224

他人のような

我が身を持てあましてしまう。

深呼吸

せよという何の役にも立たぬ「助言」。当人は「助言してやってる私」を満喫してるのかも知れないが。

負債

とんだ負債に成り下がったものである。

Heiten

目覚めるとまず

布団に絡まって埋もれた 左腕を掘り起こす。

2018年12月23日 (日)

日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした

借金1000兆円、国民一人当たりに直すと800万円になる。みなさん、こんな借金を自分の子や孫に背負わせていいのか。借金を返すためには増税が必要だ。……こんなセリフは誰でも聞いたことがあるだろう。財務省が1980年代の頃から、繰り返してきたものだ。
テレビ番組は時間も少ないので、簡単に話した。「借金1000兆円というが、政府内にある資産を考慮すれば500兆円。政府の関係会社も考慮して連結してみると200兆円になる。これは先進国と比較してもたいした数字ではない」
これに対して、番組内で、ゲストの鳥越俊太郎さんから、「資産といっても処分できないものばかりでしょう」と反論があった。それに対して、多くの資産は金融資産なので換金できる、といった。
筆者がこう言うのを財務省も知っているので、財務省は多くのテレビ関係者に対して、「資産は売れないものばかり」というレクをしている。鳥越さんも直接レクされたかがどうかは定かでないが、財務省の反論を言ってきたのには笑ってしまった。
番組が昼にかかり15分くらいの休憩があった。そのとき、鳥越さんから、「金融資産とは何ですか」と筆者に聞いてきた。「政策投資銀行(旧日本開発銀行)やUR都市機構(旧住都公団)などの特殊法人、独立行政法人に対する貸付金、出資金です」と答えた。それに対して「それらを回収したらどうなるの」とさらに聞かれたので、「民営化か廃止すれば回収ということになるが、それらへの天下りができなくなる」と答えた。
このやりとりを聞いていた他の出演者は、CM中のほうがためになる話が多いといっていた。実際に、番組中で言うつもりだったが、時間の都合でカットせざるを得なくなった部分だ。
第一に、バランスシートの右側の負債しか言っていない。今から20年近く前に、財政投融資のALM(資産負債管理)を行うために、国のバランスシートを作る必要があった。当時、主計局から余計なことをするなと言われながらも、私は財政投融資が抱えていた巨額の金利リスクを解消するために、国のバランスシートを初めて作った。
財政が危ういという、当時の大蔵省の主張はウソだったことはすぐにわかった。ただし、現役の大蔵官僚であったので、対外的に言うことはなかった。
筆者の作った国のバランスシートは、大蔵省だからか「お蔵入り」になったが、世界の趨勢から、その5年くらい後から試案として、10年くらい後から正式版として、財務省も公表せざるを得なくなった。今年3月に、2013年度版国の財務書類が公表されている(http://www.mof.go.jp/budget/report/public_finance_fact_sheet/fy2013/national/hy2013_gassan.pdf)。
その2013年度末の国のバランスシートを見ると、資産は総計653兆円。そのうち、現預金19兆円、有価証券129兆円、貸付金138兆円、出資66兆円、計352兆円が比較的換金可能な金融資産である。そのほかに、有形固定資産178兆円、運用寄託金105兆円、その他18兆円。
負債は1143兆円。その内訳は、公債856兆円、政府短期証券102兆円、借入金28兆円、これらがいわゆる国の借金で計976兆円。運用寄託金の見合い負債である公的年金預り金112兆円、その他45兆円。ネット国債(負債の総額から資産を引いた額。つまり、1143兆円-653兆円)は490兆円を占める。
先進国と比較して、日本政府のバランスシートの特徴を言えば、政府資産が巨額なことだ。政府資産額としては世界一である。政府資産の中身についても、比較的換金可能な金融資産の割合がきわめて大きいのが特徴的だ。
なお、貸付金や出資金の明細は、国の財務書類に詳しく記されているが、そこが各省の天下り先になっている。実は、財務省所管の貸付先は他省庁に比べて突出して多い。このため、財務省は各省庁の所管法人にも天下れるので、天下りの範囲は他省庁より広い。要するに、「カネを付けるから天下りもよろしく」ということだ。

削除

公演の情宣のために作成したウェブサイトのサブページを削除した。情報管理の観点から放置しておくわけにいかない。
寂しい気持ちになるけれど、仕方がない。

原稿書き

を、ほんのちょっとしただけで疲れてしまった。
こんなのを150~200枚書いていたのだと思うと我ながら驚いてしまう。もう「我」ではないのだ、今の自分とは切り離された他人なのだという気がする。

俺の意志を

俺の身体が阻害するんだ。まったく邪魔くさいことである。
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去年の今頃は

入院中で、年末に一時帰宅するかどうかでモメていた。俺としては帰宅して、溜まってるであろうメールの返信やら、公演の動画編集やら、その発送@出演者の算段をしたいと考えていた。結局、帰宅はできなかったのだが、動画はDVDオーサリングしてないものをフラッシュメモリに入れて発送しするという作業を妻に代行してもらったのだった。

QOL

QOLは、物理的な豊かさやサービスの量、個々の身辺自立だけでなく、精神面を含めた生活全体の豊かさと自己実現を含めた概念。1960年代までの医学的リハビリテーションや福祉では、ADLが意味する、歩行、摂食、衣服の着脱、洗面、入浴、排便といった日常生活における身辺動作の回復や介助という点のみが目指されてきた。しかし、70年代のターミナルケアや障害者の自立生活運動などの領域で、ADLのみに注目するのではなく、身辺自立ができなくても他者の介助を利用して当事者の望む生活の質を確保することに目が向けられるようになった。高齢者福祉においても、生きがいや幸福感といったQOL向上の援助が求められている。
そんなんでパターナリズムを正当化し、「患者」の個人的な価値観や人生観にまでずけずけ土足で立ち入ってこられたたんじゃ鬱陶しくてかなわんよ。

被害妄想をこじらせて

指図されたと勝手に思い込む自意識過剰。めんどくせえので関わらぬが吉である。

死神

まったく中途半端なことをしてくれたものだ。奪うなら命まですべて奪い尽くせばいい。
Sinigami

なんだか

胸がざわつく。今さら「不安」ていうのでもない。不安というのは、うまくいかなかったらどうしようと心配することだから、すなわち「希望」の影でしかない。「希望」なんてものはとっくに絶望の津波が押し流した。

ADL

日常生活動作(ADL)とはActivities of Daily Livingのことで、ADLのAはアクティビティー(動作)、DLはデイリーリビング(日常生活)を指します3)。日常生活を送るために最低限必要な日常的な動作で、「起居動作・移乗・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容」動作のことです。

住宅街に

忽然と現れるショッピングモール。夢で見たそれは、やけにリアルだったけれど、実在するものだろうか?

もっとも、実在の有無がリアリティに関係するものでは必ずしもないけれど。

動画削除

「オトカ」情宣用の俳優インタビュー動画、管理できてない状態なので削除しました。

夢を見た。

演助を日給1万2千円で10日間雇って稽古を乗り切ろうとしている。

2018年12月22日 (土)

を取ろうとして大怪我するとか間抜けな話、フツーにあるから気をつけないと。

中野サンプラザ

周辺の風景がなぜだか不意に思い出される。ライブ前にお茶できる場所を探して妻と歩き回ったときの記憶だ。
もう、そんなこともできないのだと思うと泣けてくる、はずなのに。このポンコツの身体は涙を流すこともできないんだ。

韓国のレーダー照射は数分間に複数回

まったくわけのわからん国である。距離を置くのが吉であろう。

因果関係と相関関係

の区別もつかぬ阿呆が、と思えば、そもそも相関関係すらありゃしない。

おむつ/おしめ

「おむつ」も「おしめ」も、どっちもふつうに言うが、入院中、看護師たちはみんな「おしむ」と言ってて、文脈から理解はできたが違和感あった。医療系の「専門用語」なのかとも思ったが、検索しても出てこない。あの病院だけのスラングだろうか?

関わらぬが吉

実際には大いに手間がかかり、しかもハードルが高い。それを所詮は他人事の気楽さで、いとも簡単なことのように言う。たったたそれだけの「助言」で「恩を売った」気になっているのだろう。こういうアホには関わらぬが吉である。

作演出

を一人で兼ねるケースがとくに小劇場演劇では多いけれどもそれは、「作」と「演出」がそもそも相補的関係にある作業だからだ。

入院中は

やることがなくて退屈だったろう?」と、己の入院像(=思い込み)に基づいて同情の素振りを見せるわけだが、実際には半年間毎日、一日も欠かさず午前も午後もリハビリがあって「やることがない」なんてことはなかったのだ。

ハッピーな夢

を観た朝の血圧は正常値を示すことが多いという傾向。
バイタルは夢に支配されていると感じる瞬間である。

2018年12月21日 (金)

毎食後

に薬を飲む。
というか、薬を飲むために飯を食うって感じ。

ひとつひとつの公演が

俳優やスタッフとの交換不能な邂逅に支えられている。

ルースターズ『STREET IN THE DARKNESS』

何をどう感じ

どう思おうが勝手である。当たり前の話。それを変えろなどという権利は俺にはないし、言っていない。わかりもしねえくせにきいたふうな干渉が的外れで迷惑だというのである。

胸がざわつく

のを放置できず、ついつい煙草を吸ってしまう。身体によくないのはわかりきっているのに。せめて美味しいコーヒーを心置きなく飲もう。

愛煙家通信

2018年12月20日 (木)

梗塞後は体にどのような症状をもたらすのか


上肢(肩、肘、手首、指)の麻痺
下肢(股関節、膝、足首、指)の麻痺
失語症(発声機能は問題なく、単語は聞き取れるが、意味不明な組み合わせで言語による表現の障害)
失認(対象を見る、聞く、触るなどしても対象が何かを理解することができない)→歯ブラシを見ても何をするものか分からない...etc
失行(動作を遂行する動きや動作自体の意味も理解しているが、目的のある動作を遂行することができない)→ズボンの降ろし方、上着の着方が分からない...etc
意識障害
認知症

入院中の半年間

一日も欠かさずリハビリを受けたが、回復する兆しすらなく(そもそも「回復」の定義が違うのかもしれないが)、退院しても結局、指一本動くようになりゃしない。いったいあの日々は何だったのかとも思ってしまう。ただ、りゃいよいよダメなんだなとわりと早くに絶望し、現実を引き受ける覚悟はできたから、障害受容の助けにはなったかもしれない。

この手の

騒ぎでいつも思うのだが、インスタって自らフォローするなり何なりのコミットメントがなければ、写真を目にすることもないわけでしょう? いわば自分で見に行って文句言ってるわけで、わけがわからない。イヤならわざわざ観なきゃ済む話だろう。どんだけの「お客様」根性なのか。しかも金を払うわけでもなく。

日産ゴーン事件の問題は何か

睡眠不足

が続き、こわばった眠気が蓄積している。眠いのだけど、どうしてか、深くぐっすり眠ることができない。

毎日

悲しい。そりゃあときには楽しいこともないではないが、絶望の大海に浮かぶ小島のようで、潮が満ちれば沈んでしまう。それでもなんとかその小島にしがみついてやりすごしている。

疑問符感嘆符

https://ja.wikipedia.org/wiki/疑問符感嘆符

これはまったくそうである。だから、死んだも同然の俺はその死体を引き摺って書かねばならぬのだろう。

食い物

に対する執着というか関心がなさすぎたのだ。そういう意味では自業自得なのである。

毎日

悲しい。むろん、ときに楽しいこともあるけれど、それは絶望の海に浮かぶ小島のようなものである。

この「沈黙に押し込められた声」っていうのも、ある種の人には気取った言い回しとしか思えないのだろう。深く関わらぬが吉である。人生のリソースには限りがある。時間の無駄である。

普天間基地移設問題

イッチョカミ

一面的かつ通俗的な価値観を盾にして所詮は他人事の気楽さで、肥大した自己愛を満たすためにためにされる無責任で恩着せがましい干渉(イッチョカミ)。

爆弾

体内に大きな爆弾を二つ抱えている。どっちがきてもアウトである。

おかえり (映画)

もう一度観たいのだけどビデオにもDVDになってないんだよね?

2018年12月19日 (水)

持てあます

カウントダウンライブも初詣も無縁の人になってしまった。ただ年末年始はどこも休みだからmコケたり風邪引いたりして妻の手を煩わせないように気をつけなくちゃ。まったく厄介な我が身を持てあましてしまう。

つまり解消PRO


20181219

資金移動及び固定資産税支払い終了。

すべては

因果応報。自業自得ということなのだろう。

2018年12月18日 (火)

歩く動作

さくら学院 2013年度『スリープワンダー』

徳永英明『最後の言い訳』

懐かしいとくにファンだったわけでもなく、CDも一枚も持っていないけれども学生時代に大いに流行り、カラオケで歌う人がやたらいて、そういう回路で過去の記憶と結びついている。

20181215

防火管理者としての職責を果たせぬ状態にある旨、管理人に手紙を出し、管理会社の担当者と管理組合の理事長に伝言してもらった。伝言した旨の手紙を受け取った。

TPPはなぜ日本にメリットがあるのか

要するに関税撤廃により、国内生産者余剰の減少を補って余りある国内消費者余剰の増加が得られるわけだ。 これはもう経済学の理論上そうなのである。

家の中では

壁や建具に手をついて歩くことが多いのだけど、ヘンに身体をひねって姿勢が悪くなってしまうかな? 杖を使った方がいいのかも。

ご都合主義

己の意図が相手に伝わらないのは相手に理解力がなく、相手の意図が己に伝わらないのは相手に表現力がないとするご都合主義。

調整コスト

本来不要な調整コストを負担するのは、それを補って余りあるベネフィットが期待できるときだけだ。

20181218

8時30分起床。血圧を計ってから仕事。夢の中でも車椅子でトイレを探してた。

2018年12月17日 (月)

モラルハザード

規律の喪失、倫理観の欠如した状態のこと。もともとは保険用語で、被保険者や保険契約者が保険に安心して、不注意や故意により事故を起こす危険という意味で使われる。保険が準備されている結果、リスクを回避しようとする意識が薄れ、リスクを一層促進させてしまう行動を指す。また、会社倒産や業績不振にもかかわらず、経営陣がその責任を明確にせず辞任しなかったり、高額な退職金を受け取ったりする場合などでも使われる。モラルハザードを防止するには、健全な行動を促すためのルールと、それを遵守する倫理観の醸成が重要。
 

滑り止めマット

を浴室で使っていたが、片手で上手く広げることができなくて、撓んで水溜まりができたり、マット自体が滑ったりでかえって危ないから使うのを止めてしまった。

かわさき福祉情報サイト「ふくみみ」

http://k-fukumimi.com/

恥を知れと言いたい。

20181217

目薬を処方してもらったが、ウインクできないからさすのに一苦労である。

代償

患者が不随の手の代わりに口を使うケースなど、今までいくらでも目にするケースがあったはずだが、「高次脳機能障害によってバナナの食べ方がわからなくなって、皮ごとかぶりついている」という自分にとってワカリヤスイ「物語」に回収し、いじって笑いものにするなど、医療関係者として失格だろう。

四点杖

今、日常的に使ってる四点杖は、昨年末に一時帰宅するつもりで、病室で、スマホで注文し、通販で買ったものなんだ。結局一時帰宅は叶わなかったけれど、だから退院時にはすでに私物の杖を持っていたってわけ。

実はもう

死んでいるんじゃなかろうか。俺にその自覚がないだけで。自己の存在をアプリオリなものと認識するオメデタさで。
そう考えるといろいろ辻褄が合う気がするんだ。

2018年12月16日 (日)

幼稚な「正義」は

マンガチックな「巨悪」を必要とする。通俗的な善悪の二項対立の設定を成り立たせるために。

ファーウェイのCFOが逮捕された本当の理由

宮家)一般論しかいまは言えませんが、この会社は札付きの会社だと思っています。中国のこの種の会社というものは、中国政府と協力するか、もしくはその支援を受けていないとここまで大きくはなりません。たしかに国営ではなく民営であることは事実ですが、創業者は軍人です。アメリカが中国政府に対して怒っているのは、「お前ら、諜報機関を使ってアメリカ民間企業の情報を全部抜き取って、それを諜報機関だけで使うのならばともかく、中国の民間企業に横流しして強化しているではないか。それはルール違反だ」ということなのですよ。その典型例の可能性がこのファーウェイにあるのです。
よく言われるのは、企業の通信機器に1つ小さなチップが入っていて、そのチップから流れている情報が全部、中国側に抜かれている可能性があるということです。それは単に個人情報の漏洩ではなく、国家安全保障の問題でもある。たまたま米中の貿易戦争があって、先日は米中の首脳会談があり、そのタイミングで逮捕されているから、貿易問題ではないかと思われる人もいるかもしれませんが、もっと根が深い問題です。

爆笑

名](スル)大勢の人がどっと笑うこと。また、その笑い。「ギャグに爆笑する」
[補説]一人または数人が大声でわっと笑うことの意でも用いられる。

え、タッカンがレスポール?

何待ち?

って苛つくことがよくあり、だから自分のとこで情報が停まってるのがすごくイヤなんだ。

腹が減ったら

あるもんでテキトーに食ったり、買ってきたり食いに行ったり、いずれにせよ一人でちゃっちゃと対応したもんだが一切できなくなってしまった。

Namida

ある日突然

庭に空いた原因不明の穴を、ホームセンターで買ってきた土と舞台美術に使用したレンガで埋めたことがあった。

チャイルドロック

セラミックヒーターのチャイルドロックが勝手にかかってしまうのでうざい。

何をもって「治った」とするか

リハビリテーションの定義:一度失った能力を再び回復させる
「一度失った能力を再び回復させる」の意味は以下の二つに大別される。
①障害の後遺症を残したまま日常生活を行う方法
②障害の後遺症を回復させて正常に近い状態に戻そうとする方法
①:回復可能と言われている時期までは積極的にリハビリを行うが、それ以降は後遺症として残存する障害を受容させ、機能維持を目的としたリハビリを行う。
②:障害受容させるのではなく、患者の可能性を追求。
スポーツマンシップに則るなら、②の立場を貫くべきだ。「決して諦めない」とか「希望を捨てない」という価値観を鰯の頭のように信じるのも口にするのも容易だろう。
だが人生はスポーツではない。
限られたリソースをどう配分するか。社会復帰の美名の下に、そもそも復帰すべき「社会」自体を失うリスクだってあるのだ。

徴用工判決

メンガー「限界効用理論」の誕生

効用とは、人間の欲望の単位だと考えていただきたい。財(モノ)やサービス1単位を追加したときの人間の効用の増加分を限界効用という。
 限界効用はふつう逓減する。これを限界効用逓減の法則という。
 ざるそばを注文する。追加してもう一枚食べる。さらにもう一枚追加していくと、効用(欲望)は逓減していく。消費量が増えるにしたがって効用は逓減する。財の価値は人間の効用で決まるというわけだ。
 古典派経済学やマルクスの経済学は、財の価値を労働におく。労働で商品の価値が決まるとする。これを労働価値説という。つまりコストで価格が決まるから生産費説ともいう。
メンガー、ジェヴォンズ、ワルラスの3人は、商品の価値は主観的効用で決まるとする。なにより重要なのは、無差別曲線と予算線の交点で効用は最大化するわけだが、関数の多変数を固定し、一部を増加させたときの変化を見るため、偏微分で計算可能ということである。つまり、経済学と数学を直接結びつけたわけだ。経済学が一挙にサイエンスに近づいたといえよう。今日のミクロ経済学の原点である。ただ、メンガーは数学を使っていない。
 無差別曲線とは、x軸とy軸にそれぞれ財を置き、効用を一定とすると無数の組み合わせを結ぶ曲線が何本も引ける。原点に対して凸の曲線だ。これに対して予算線はxとyの組み合わせだから右下がりに引けるので、この予算制約の直線と無差別曲線の交点で効用は最大化する。ミクロ経済学の教科書の初めのほうに必ず出てくる。原点に対して凸になるのは、限界効用が逓減するからである。
「18世紀の啓蒙の科学の最大の特徴は、『自然』と『社会』は、ともに全知全能の『神』が設計し造形した存在物にほかならないというプロテスタント流の自然『神学』の理論を、徹頭徹尾『合理的』に、言葉を言い換えれば、徹頭徹尾『科学的』に基礎付けようとしたことのうちにあった」(『思想史のなかの近代経済学』※注4)。
「社会は、自然と同様に、自律的・規則的な『自然法』に支配されるにちがいない」(前掲書)という思想は、19世紀に入ると西欧全体に普及し、大学の法-国家学部(経済学は国家学の一分野)には「自然法と国家学」という講座ができていく。

演劇を

つくることはおろか、観に行くことも、もうできないだろう。いわゆる実験演劇やテント芝居なんかももっと観ておけばよかったと思う。役者との付き合いで見た自称アングラの低俗なプロパガンダ劇には辟易としたが、今にして思えばあれだって他山の石としての有用性くらいはあったのだ。

自律神経

体調管理のためには自律神経を整えたいのだけど、読書にせよ映画や音楽の鑑賞にせよ、「面白い」と思うものは俗にいう「癒やされる」ものでなしに、むしろ自律神経を乱すようなものだから困ってしまう。

12月16日

7時起床。意識的に日光を浴びようと思う。妻を起こさぬよう、居間の電気をつけないでいる。それでは目も悪くなってしまうから、ヒーターを持って書斎に移動。たったそれだけのことが、俺にとっては一仕事なのである。

2018年12月15日 (土)

ハムストリング

大腿(だいたい)後面にある、大腿二頭筋、半膜様筋、半腱様筋などの総称。スポーツトレーニングで重要な筋肉

ハムストリングと大殿筋

それから腹筋は筋肉痛になってもOKみたいな風潮は何なのだろうか?
痛みで眠ることもままならなかったのだが。

住宅改修

しかしその言いなりになっていたら、今頃、俺は風呂にも入れていないのだ。一時帰宅時に妻と改修プランを検討し、それを実施したおかげで今は一人で入浴できている。

椅子から立ち上がる

ただそれだけのことが困難だった時期があるのだ。それを思えば今はひとりで風呂にも入れているのだからずいぶんマシになったものだ。

去年の今頃は

年末に一時帰宅するかどうかでモメていたんだった。あれから一年が経ったのだなあ。

セクハラ

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181214/k10011747601000.html

クレーム?

気に入らなけりゃ見なきゃいいだけなのに、まったくめんどくせえ話である。

夢の中でも

すっかり車椅子がデフォルトになってしまった。夢の設定は自分の意志で自由にならないから。俺が北大の18条門あたりから構内に入ろうするが、車輪が段差に引っかかって入れないでいた。現実にそこに段差が存在するのかどうかは知らないが。

かと思えば、べつの夢では以前のとおり、スタスタ歩いていたりもするのである。

食欲

はフツーにあって、嚥下にも問題はない。
結構なことではあるのだが、何をするでもないのにムダに腹が減るのだから嫌になる。

原稿

空いた時間に
原稿を書き進めたいとも思うけれども
ぐったり疲れてしまうのだよな。
事前に読んでおきたい本もたくさんあるし。

シュールは(言葉のような)言語的記号に焦点をあて、‘音声言語中心的に’話し言葉を特に重視した。特に聴覚映像(‘音声 - 映像’または‘音のパターン’)に触れ、書いたものは別の、二次的な、従属したしかし比較しうる記号システムと見ていた(Saussure 1983, 15, 24-25, 117; Saussure 1974, 15, 16, 23-24, 119)。書かれた記号という(‘別の’)システムでは、書かれた文字‘t’のような記号表現は、言語の一次的な記号システムでは音を意味していた(そして、書かれた言葉は概念よりもむしろ音声を意味する)。このようにソシュールにとっては、記号表現が記号内容に関連付けられるのと同じように、書き言葉は話し言葉に関連付けられた。ソシュールのモデルを採用した後継者たちは、話し言葉や書き言葉としての言語的記号の形式に言及することに甘んじている。あとで、ポストソシュール流の記号の‘再物質化’に戻る。

沖縄返還

 
沖縄返還(おきなわへんかん)は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されたこと(沖縄本土復帰[1])を指す。日本国とアメリカ合衆国との間で署名された協定の正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」である。 日本の法令用語としては、沖縄の復帰(おきなわのふっき)という。

管理

たとえば屋上の鍵ひとつ預かるにしたって、どこかにしまい込んでおけばいいってもんじゃなく、必要に応じていつでもに取り出せなきゃ「管理」してることにならないわけだ。だから俺がそういう管理者の立場に就いていてはいけない。管理組合の機能を低下させ、集合住宅の資産価値も毀損してしまうことになる。

防火管理者

も実質「降板」である。
ひとがめんどくさがる仕事を引き受けて、迅速な対応をしてやるのが俺のウリだったのだけど、そういう能力の一切を失ってしまった。

メンガー、ジェヴォンズ、ワルラスの3人は、商品の価値は主観的効用で決まるとする。なにより重要なのは、無差別曲線と予算線の交点で効用は最大化するわけだが、関数の多変数を固定し、一部を増加させたときの変化を見るため、偏微分で計算可能ということである。つまり、経済学と数学を直接結びつけたわけだ。経済学が一挙にサイエンスに近づいたといえよう。今日のミクロ経済学の原点である。ただ、メンガーは数学を使っていない。
 無差別曲線とは、x軸とy軸にそれぞれ財を置き、効用を一定とすると無数の組み合わせを結ぶ曲線が何本も引ける。原点に対して凸の曲線だ。これに対して予算線はxとyの組み合わせだから右下がりに引けるので、この予算制約の直線と無差別曲線の交点で効用は最大化する。ミクロ経済学の教科書の初めのほうに必ず出てくる。原点に対して凸になるのは、限界効用が逓減するからである。

マルクス『資本論』は何を間違えた?

けれども、原作である『資本論』が不朽の古典として扱われることには抵抗を感じます。今からみれば、経済について完全に誤った考えに基づいているからです。
 たとえば「等価交換」という考えです。マンガ版ではパン屋と八百屋が売れ残ったパンと野菜を交換し、その交換が成り立つのは互いの商品が同等の価値を持つからだと解説されます。
 何となく納得してしまうかもしれません。しかし人が物を交換するのは、相手の物が自分の物と同じ価値を持つからではありません。もしそうなら、多くの買い物客がスーパーやコンビニを出たとたん店に引き返し、不良品でもないのに、買ったばかりの商品を返し、お金を取り戻そうとするはずです。同等の価値を持つことが交換の理由なら、商品とお金の交換を何度繰り返しても、人は満足するはずだからです。
 しかし現実にはそんなことをする人はいません。買い物客は、払ったお金よりも買った商品の価値が大きいと思うからです。一方、店の主が商品を手放すのは、逆に商品よりもお金の価値が大きいと思うからです。
 つまり交換が成り立つのは、同じ物(お金も物の一種です)でも人によって価値の大小が違って見えるからなのです。
 ここからわかるのは、物の価値とは、それを作るためにかかった労働量などの客観的な基準で決まるのではなく、人それぞれの主観によって決まるということです。この事実は1870年代、オーストリアの経済学者メンガーらによって明らかにされました。経済学の歴史上、革命的な発見といわれます。

12月15日(土)

今日は休日だったから、午後まで惰眠を貪った。
休み明けに血液検査を予約してあるのだけど、妻の仕事が押していて、採血に行くのが難しそう。ただ血を採るだけなんだから、薬をもらいにいったとき、ついでにやってくれりゃいいのに、いちいち「予約」というのが鬱陶しい。というか、そういう事態を招いてしまっている己の存在こそが鬱陶しいのである。正直、自分で持てあましている。
「価値」というものが市場での交換価値を示すのなら、確かに俺には何の価値もない。自虐でも何でもないタダの事実である。

 

2018年12月14日 (金)

食後、食前、食間とは?

 

 

食前とは胃の中に食べ物が入っていないとき、一般に食事の1時間~30分前をいいます。食事による症状を抑える薬、食後には吸収が悪くなる、副作用が出やすくなる薬などが食前投与を指示されます。
食後とは胃の中に食べ物が入っているとき、一般に食事のあとの30分以内をいいます。胃に負担をかけやすい薬、食事と一緒に服用したほうがよく吸収される薬などが食後投与を指示されます。食事の影響を受けない薬については、飲み忘れを防ぐために食後投与とされる場合があります。
食間とは食事と食事の間のことで、食事の2時間後が目安です。これは空腹時の胃粘膜の保護を目的としたり、食物に影響されて薬の吸収が減少して効果が弱くなってしまうのを防いだりするために指示されることがあります。食前とは胃の中に食べ物が入っていないとき、一般に食事の1時間~30分前をいいます。食事による症状を抑える薬、食後には吸収が悪くなる、副作用が出やすくなる薬などが食前投与を指示されます。
食後とは胃の中に食べ物が入っているとき、一般に食事のあとの30分以内をいいます。胃に負担をかけやすい薬、食事と一緒に服用したほうがよく吸収される薬などが食後投与を指示されます。食事の影響を受けない薬については、飲み忘れを防ぐために食後投与とされる場合があります。
食間とは食事と食事の間のことで、食事の2時間後が目安です。これは空腹時の胃粘膜の保護を目的としたり、食物に影響されて薬の吸収が減少して効果が弱くなってしまうのを防いだりするために指示されることがあります。

宅配便のインターホンにも

間に合わないくらい、ゆっくりでしか動けないくせに、役者時代に練習したスロウモーションの動きなんて決してできない。

個人請求権は消滅してない

そりゃそのとおり。請求先がオカシイだろって話。

ご飯論法

議論における言い逃れや論点のすり替えを表す言葉。たとえば、「朝ご飯は食べたか」という質問の「ご飯」を故意に狭い意味にとらえ、「ご飯(米)は食べていない(が、パンは食べたかもしれない)」と答えるといった具合である。2018年、法政大学教授の上西充子がTwitterに投稿したことから広まり、主に国会質疑で政権側が野党の追及をかわすために論点をずらしたり、ごまかそうとするのを揶揄する表現として使われた。同年、『「現代用語の基礎知識」選 2018ユーキャン新語・流行語大賞』のトップ10に選出された。

ジンクス

ホワイトイルミネーションをカップルで見に行くと別れる、という話は、塾講師のバイトをしてた学生時代に生徒から聞いた。
俺も妻と見に行ったことがあるが、ひょっとしたらそれで「死別」したのか。そして俺は死してなお生き存えているというわけだ。
ありもしない因果関係を求めてしまうな。

ロボット掃除機

がやってきたのだ。
Photo

生きながら

死んでいる。あるいは死してなお生き存えている。
そんな感じなんだ。

咳やくしゃみ

が怖いのは、予想される「風邪」などではなく、物理的反動による転倒なんだ。

体重を

乗せろというが、足の指が動かないのだから、地面を捉えた感覚がなく、これで体重が「乗った」といえるのか甚だ疑問。

何が

「いじり方に悩む」だよ? スキルもねえくせに芸人気取りかよ? ド素人にいじられる筋合いはねえよ。不愉快だ。

12月14日(金)

9時起床。
ベッドで身支度しながらありがたいと思うのは入院中と違って寒くないこと。ていうか、まず、朝の六時にたたき起こされないし。

2018年12月13日 (木)

裏目

少しでも何かの役に立とうとすると、転倒リスクを孕むから、かえってひとの手を煩わせてしまう。情けない。

俺自身

何気なく掌で自分の頭に触る。普通の人なら誰でも難なくできる所作だ。俺も右手でならアタリマエにできる。しかし左手は動かない。けれど、その所作の記憶はあって、力み具合にも覚えがあるんだ。しかしその「何気なさ」を再生しようとすると、身体に拒否されてしまう。他人の腕を動かそうと念じているみたいだ。いったいこの身体のどこまでが「俺自身」なのか。

イルミネーション

近所の駅前のロータリーの有名でも何でもないイルミネーションを妻と見に行きたい。夏に花火に行けなかったし。でも寒いかな?

心底阿呆なアジビラである。

まったくである。せめて加担したくないものだ。

その場で行進

というのを小学校でよくやらされた。要するに足踏みで「何の意味が?」と当時は思ったものだが、今、そいつができれば、かなり歩行が楽になる。

この人は何を言ってるんだろうか? ものの道理が分からぬ人なのだということはよくわかる。

洗顔

入院中、洗顔用にと妻が持ってきてくれたウェットティッシュ。
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正月は

いつも原稿を書いたり、図面を引いたり美術の製作をしたり、芝居の準備に充てていたけど、今年はその必要がないから、何年ぶりかで普通に正月らしく、のんびりしようと思う。

セラミックヒーター

を購入したのだ。。仕事中、足元が温かくてずいぶん助かる。
Heater

睡眠は大事

場合分け

が煩雑で無駄に疲れてしまうのだ。
エクセルだってif関数は時間がかかるものだ。

若葉台イルミネーション

名称
若葉台イルミネーション
2018年の開催
2017年11月18日(土曜日)から2018年1月8日(月曜日・祝日)
点灯時間
午後4時30分から午後11時
場所
京王線「若葉台」駅すぐ
点灯式情報
2017年11月18日(土曜日)午後3時30分から
イベント
点灯式
ミニコンサート
稲城なしのすけの登場

悪気がないのはわかっているが

手を引かれると、助けになるどころかむしろ怖いんだ。

睡眠

結局のところ、作業時間の隙間を見つけて睡眠を取るというパターンは従前と何も変わっていない。

2018年12月12日 (水)

ピタパタの

ツイッターアカウントを削除した。少なくとも当面は発信すべき新たな情報はないし、放置して乗っ取られたりしても面倒だしね。

装具

俺は入院中に言われるがままに装具を作ったが退院後は(誇張表現でなしに)全く使用していない。

図書館

一部を拾い読みしたいだけのややこしい系の本を図書館で借りようと思ったが、借りに行く/返しに行く、という行為が困難だから買うしかないな。

身体地図


人の体の中には「地図」があります。といっても、ここに心臓、ここに腎臓、ここに胃袋、ここに○○○コといった解剖図ではありません。ボディ・マップとも表現されているようですが、私はン十年前の学生時代、心理学の講義で初めてこの言葉を知り、「へー…」と思いました。
私も「身体地図」と聞いた瞬間、「解剖図のことかな…」と思ったのですが、簡単に言えば「自分の頭は今ここでこうなっていて、自分の右手は今ここにあって、物をつかんでいる」「自分は今、中腰になっている」と云ったように「自分の身体の状況を把握する事」です。と同時に「外部と自分を区別できる事」です。「何だ、そんなことか」などと思ってはいけません。これは、当然、運動能力にも関わることですし、健全な身体能力を維持できているという証なのです。のみならず、精神の状態にも影響する事なのです。
もちろんそれが物理的な器質的損傷によって損なわれることもありますけど、それは失った部分であり、全体としては統合されています。ちなみに「幻肢」というものもあり、「幻影肢」とも云うようですが、例えば腕を事故で切断した人が、まだ腕があるように感じることです。これも身体地図の中の感覚として残っているからでしょう。
ここまでの話ならそれほど「不思議」とも感じない、人間が当然持っている生物としての能力だということで終わりなのですが、前述した通り、それだけで終わりの話ではなく、これが人の精神状態にも大きく影響するということがあるのです。つまり、この身体地図を失う状況になると、同時に精神の安定も損なってしまうようです。もちろん、精神の安定を失うから、身体地図を失ってしまうのか、その逆なのかは「鶏と卵」になってしまいますが、そこはおそらくバランスという意味では「同列」なのだと思います。
この「身体地図」なるもので興味深かったのは、確か(記憶が少々曖昧…)「ブラック・ルーム」という実験の話です。
どのような実験かと云いますと、心身ともに健全な被験者を真っ暗な部屋に入れます。この部屋は真っ暗なだけではなく、「熱くも寒くもなく」「湿度も快適」「何の音もしない」、外界の刺激というものから完全に遮断された空間です。
その部屋、ブラック・ルームに入れられた被験者は皆、最初は「かなり快適な空間」と感じるようです。そして、ほぼ全員が寝てしまうそうです。しかも熟睡。夢は見るようですが。しばらくは寝て起きてを繰り返し、快適な状況に爽快感さえ覚えるようです。
しかし、それが1日以上(個人差はあるでしょうね)経つと、今度は何故か「不安感」に襲われ始めます。どうしてそうなるのか、本人には分からないそうですが、次第に不安感が増してゆき、それが「恐怖」に近い感情に変わっていくそうです。
当然、実験ですから、被験者の安全は確保して行われますけど、その「恐怖」はやがて「情緒不安定」「神経症」的な症状を見せ始め、そこまでは行かないでしょうが「発狂」の可能性さえあるそうです。
何故でしょう? 最初は「快適」「爽快」とさえ感じていたのが、どうして「不安」「恐怖」といった感情に変化してしまうのか。
結論から言えば、原因は「身体地図の喪失」だそうです。被験者はその殆ど(例外は無かったような…)が、最初の快適さから「不安・恐怖」へと至る過程で、自分が今「どのような格好をしているのか」が分からなくなるそうです。下を向いているのか、上を向いているのか、手はどこにあるのか、足はどういう格好をしているのか…。挙句には、外部と自分の境、自分の身体が「無くなったような」感覚に陥ってしまうようです。
これは想像するしかないのですが、「自分がいる」というのは、「目で見て」という直接的なことよりも、脳が総合的に感じているのでしょう。もちろん視覚的なものも重要でしょうが、音とか、熱い寒いとかといった「外部からの刺激」によって、「自分という存在」を生理的に認識しているということです。ブラック・ルームの中でその「外部からの刺激」を全て失った時、「自分という存在」の認識である「身体地図」を失ってしまうのだと考えられます。
その「外部からの刺激」とは「ストレス」です。つまり、よくストレスは「悪者」扱いされますが、それは「過剰」なストレスで、生物としては適度なストレスがないと「身体」というか、「統合された精神活動」に不具合を生じてしまうのでしょう。
「引きこもり」と、この「ブラック・ルーム」の本質は違うと思います。「引きこもり」は過剰なストレスからの緊急避難がその殆どの原因ではないかと推察します。その後どうなるのかは個々人しだいです。
「人の存在」とは哲学の永遠のテーマでしょうが、その存在を支えているのは「外部からの絶え間ない刺激」ということになります。デカルトの「吾思う、故に吾あり:コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum.)」の言葉は、「私は世界を感じ、世界に向かって考えている。だから私は存在する」とでも訳せば、まさにこの「身体地図」を健全に保っているということなのでしょう。まあ、そんなに単純なものではないと思いますけど…。
ちなみに、WEBで見かけたのですが、「身体地図とは車両感覚のようなものでしょうか」という質問がありましたが、違います。もちろん「身体地図」を失えば自動車は運転できませんが、正確には「車両感覚(あらゆる運動)は身体地図によって把握されている」って所でしょうか。
ところで、私は自慢したいほどの方向音痴ですが、もしかして身体地図が間違っているのでは…。

午後まで

惰眠を貪っていた。
「規則正しい生活」という観点からは「悪」とされるのだろうが、結局こうすることがいちばん疲労解消に有効な気がする。

リハビリ革命

2018年12月11日 (火)

趣味嗜好

なんて当然人それぞれなわけで、そこに「正しい」も「間違い」もありゃしない。ありもしねえもんをあるように主張するから無理が生じる。

脳の可塑性

経験に応じて脳は変化する――。今では当たり前に思えるだろうが,脳が自らを再構成する能力には,もっとドラマチックな意味がある。
 手術や薬の助けを借りるまでもなく,脳は一生を通じていつでも大きく改変できる。必要となれば,脳の各領域は以前とは異なる課題をこなすようになる。ある領域が機能障害を起こしたり傷ついたりした場合,別の領域が代役となって失った部分の役目を果たすことができる。こうした役割分担の変更は,脳梗塞によって言語・運動機能を失った人や脳性小児麻痺患者,指を1本ずつ動かすことができなくなった音楽家や作業員,強迫神経症患者や読字障害患者などで見つかっている。知的にも肉体的にも厳しい訓練を重ねることによって,彼らは失われた機能を取り戻した。
 なぜこうしたことが起きるか。それは脳に可塑性があるからだ。化学物質の変化から新しい神経細胞(ニューロン)の形成,より大きな領域で起きる神経回路の再配線まで,脳内で起きるあらゆる変化を指す。
 かつては,遺伝子によって描かれた脳の設計図があり,脳はそれに基づいて形作られると考えられていた。しかし脳内地図は大きく変化する。障害を乗り越えられたのは,患者の脳内地図が変化したことを示す。
 こうした訓練は小児麻痺などの影響で読字障害になった子供にも効果があったとの報告もある。一部の科学者はさらに訓練やゲームによって統合失調症や自閉症,加齢に伴う物忘れを改善できるかどうかを調べている。今のところ,結果は公表されていない。しかし,そのアイデアが実を結んだら素晴らしいに違いない。

拡張する身体


確定した「人間本来の身体」像を遺伝子の中に求めることは難しそ
うである。しかしたとえそうであっても、我々は日ごろ、自分の身体についての何がしか
の所有感を持っている。たとえ私の身体のあり方は、客観的には環境に応じて大きく変わ
り行くものだったとしても、それは私にとっては常に変わらず安定した一つの対象であり
続けるように感じられる。この主観的な所有感のもとになっていると考えられているのが、 身体図式(body schema)といわれる、脳内の身体表象である。 身体図式は、頭頂葉、運動前野腹側部、体性感覚皮質、島皮質などを含む広範な神経回 路網によってコードされると考えられている(Homes & Spence 2004, Berlucchi & Aglioti  1997)。とりわけ重要なのは頭頂葉であり、この領域への障害は自己の身体感覚を大きく変 えることが分かっている。たとえば身体失認の患者は、自分の身体の特定部位、例えば左
腕が相変わらずもとの位置についているにも関わらず、それが自分の腕であることを否定 したり、あるいはそれが誰か他の人の腕であると主張したりする(Graziano & Botvinick 2002)。また同様の部位を損傷することにより、過剰肢(身体部分が実際よりも多くあると 感じる)が生じるという報告もある。驚くべきことにこの患者は、あたかも腕や足が 3本 以上あるかのように、自分の肢の数を多く見積もるのである(Halligan et al. 1993, Sellal et al. 1996)。 以上の脳領域は、どのように身体表象をコード化しているのだろうか。これらの部位に
は、体性感覚や視覚などの複数の感覚情報に反応するバイモーダルニューロンが存在する。
これらのニューロンは特定の受容野を有しており、一定の空間内の刺激に応じて発火する
のであるが、この受容野の範囲が異なった感覚のモードを通じて共通しているのである。
例えば、右手の触覚に反応するバイモーダルニューロンは、右手周辺からの視覚刺激に良
く反応する。現在では、身体部位近傍からの複数の感覚刺激を統合するこうしたニューロ ンが、身体図式の基盤になっていると考えられている(Maravita et al. 2003)。 脳内の多くのニューロンが可塑性を有しているように、これらのニューロンも、環境と
経験による再編を受けている。実際、成長過程において、身体図式は身体の拡大にともな
って広がらなければならないだろう。しかしこうした身体感覚の変更は、もっと短期的な
間にも起こりうる。つまり我々の身体は、その主観的側面においても、確定された不変的 なものなのではなく、経験によって様々に変化しうるものなのである。 身体図式の柔軟性を示すものとして注目されているのが、道具の使用である。入來らは、 ニホンザルを用いた実験で、道具の使用が身体図式を変えることを示した(Iriki et al. 1996,  Maravita & Iriki 2004, 入來 2004)。この実験では、道具を使用していないときと使用してい るときで、サルの身体図式をコードするバイモーダルニューロンがどのような受容野を持
つかが調べられた。その結果、道具を使用しているときは、本来手の近傍のみに反応して
いたバイモーダルニューロンの受容野が、道具の先端を含むように広がることが分かった。
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身体図式

身体図式という術語は、心理学、神経科学、哲学、ロボティクスで広く用いられ、心や意識の身体性、感覚運動統合を論じる上で重要な概念である。一方で異分野間、研究者間で身体図式の確立した定義について合意が得られていない。これまでのところ、身体図式には次のような特徴があると言われている。身体図式は、
再帰的な意識、自覚を必要としない。身体運動を意識下で調整している主体である。したがって、ひとが身体図式に対して顕在的な知識を持っているとは限らない。
サル、ヒトの脳に共通して、大脳皮質の頭頂葉連合野および運動前野が身体図式に関わっている。ヒトでは特に頭頂連合野の損傷によって、身体図式の障害が起こる。
身体図式は変容する(可塑性を持つ)。日常的には、ある道具の使用に熟達すると、私たちは道具を持っている手そのものではなく「道具の先端」で対象を感じがちである。身体図式は感覚運動学習の結果、あるいは実験的に作り出された錯覚によって、一時的に変容させることもできる。
意識下で作動する身体図式は、身体イメージとは区別される (body image)。身体イメージとは、「私は、身長170cmで、瘦せ型である。大きな耳を持っている。」というような顕在的な自己身体に関する知識を指す[2] [3]。自己概念としての身体と区別して、潜在的な身体図式の存在を主張する根拠とされてきた現象が、幻影肢である。幻影肢とは、戦場での負傷や交通事故などによって、四肢を切断する手術を受けたひとが、既に存在しないはずの手足の末端に痛み(幻肢痛)やかゆみを感じる現象を指す。幻影肢は、特に手足の切断手術の場合は90%以上という高い頻度で出現するが、 四肢に限らず、顔面、乳房、耳、内蔵など身体のどの部分でも生じ、時間の経過とともにほぼ消失すると言われている。

ボディ・イメージ

自己の身体に関する空間的な心像のことで、身体像と訳される。身体的自我、身体的図式(シェマ、スキーマ)などと類似の概念である。ボディ・イメージの研究は16世紀にパレが四肢の切断後に出現する幻肢(げんし)を観察したことに始まる。自分の身体も外部の対象と同じように認識の対象となる。外部の対象は見られ、触れられるものであるが、自分の身体はただ見られ、触れられるものであるだけでなく、その対象自身が見られ、触れられていることを感じ取る主体でもある。こうした身体知覚の二重の働きから、自分の身体の認識は、自我をつくりあげる基になっていると考えられる。フロイトは、自我は究極的には身体感覚から、それを支えにして身体の表層に由来する感覚から生まれるという。もちろん、自分で自分の身体を全体として統一的に認識することはできないから、身体像は部分的なものになる。身体像が鏡像的に、あるいは他者との対比からつくられるとき、身体像は全体的なものになってくる。いずれにしても、自我の形成にとって重要な意義をもつものである。心身医学においては、神経性無食欲症(拒食症)に身体像の障害が指摘されており、身体像や身体自我のゆがみが病因の一つとして注目されている。[外林大作・川幡政道]
『W・ゴーマン著、村山久美子訳『ボディ・イメージ 心の目でみるからだと脳』(1981・誠信書房) ▽P・シルダー著、秋本辰雄・秋山俊夫編訳『身体の心理学――身体のイメージとその現象』(1987・星和書店)』
自分の身体も外部の対象と同じように認識の対象となる。外部の対象は見られ、触れられるものであるが、自分の身体はただ見られ、触れられるものであるだけでなく、その対象自身が見られ、触れられていることを感じ取る主体でもある。こうした身体知覚の二重の働きから、自分の身体の認識は、自我をつくりあげる基になっていると考えられる。
そう考えれば「自分は自分。他者との比較など無意味」などというJポップ的警句は、それこそ陳腐で無意味ということになる

口を開けば

おかしな理屈で妻を苦しめてしまう。それは俺の本意じゃない。

身体失認

身体 失 認(asomatognosia)、 あ る いは 身 体 図式 障害
(disorders of body schema)と は、 自己 の身体 に対す
る空 間的 な認知 の障害 と定義 され る。この概 念の 背景 には、
身体 に対 す る空 間的 イ メー ジ 、身体 各部位 の相 互 関係の認
知 と いった統 合的 認知機 能(身 体 図式body schema、 身
体心 像body image)が 存 在す る という仮説 が あ る1)。
以下 に述 べ る身体 失認 の多 くは、臨床 的 には決 して 稀な も
の では な い。 しか しなが ら、高 次認 知機能 障害 としての位
置付 けの妥 当性や その発現 機序 につ いて は議論が 多 い。
身 体 失認 は、 片側 身 体失 認(hemiasomatognosia)と
両 側性 身 体 失 認(bilateral asomatognosia)と に大 別 さ
れ る。前 者 は半側 身体 に対す る認知 障害で あ り、後者 で は
認知 障害 が両 側半 身 に及ぶ。 類 似す る症候 で はあ るが、そ
の成 立基 盤 はか な り異 な り、両 者は 明確 に区別す べ き と思
われ る。表1に 、 主な身体失 認 を整理 した 。

高円寺の商店街

が、懐かしいねという話を芝居仲間としたのが頭に残ってて、そういや以前、妻とも一緒に行ったことがあったなあと思い、もう一度行ってみようかと誘いそうになった。その瞬間、まるっきりフツーに電車に乗って歩いて行くつもりで。これも「病態失認」の一種ってことになるのだろうか? いずれにせよ、スタスタと歩く速さで後方に流れていく景色の記憶が鮮明に残っている。

余計なお世話

知りもしねえくせに肥大した自己愛満たすためにきいたふうな口きいて甘い見積回してくるんじゃねえよ。いちいち斥けるのも手間なのだ。

黙って通り過ぎりゃいいものをいちいちイッチョカミしたがる。鬱陶しいったらありゃしねえ。

厚顔無恥

よりによって朝日新聞がよく言えたもんである。厚顔無恥とはこのことだ。

体力が

著しく低下していると感じる。日常生活の中で「運動」らしい運動は一切してない(できない)わけだから当然といえば当然なのだjけど。何か対策を考えないと。

2018年12月10日 (月)

うっかり

眼鏡をかけたまま風呂に入り、そのまま顔を洗ってしまった。

敷衍

https://kotobank.jp/word/敷衍-616360 [名](スル)《「衍」はのべる意》 1 おし広げること。 「それを種にして、空想で―した愚痴」〈宇野浩二・蔵の中〉 2 意味・趣旨をおし広げて説明すること。例などをあげて、くわしく説明すること。「教育問題を社会全般に―して論じる」

生活に不自由が

ないかと問われれば、あるにきまっている。しかしそれが「退院前に比べて」という意味ならば、何一つない。

アースシェイカー『fugitive』

シャラの指に見とれてしまう。

ラウドネス『dreamfantasy』

結構苦労してTAB譜をゲットしたけど、結局弾けずじまいだった。

去年の今頃は

と、どうしても今の生活と入院中のそれとを比較してしまう。後者の方が良かったことなど、少なくとも俺自身にとって何一つない。とりあえず今は寒くないし、あったかいコーヒーが好きなときに好きなだけ飲める。朝の六時にたたき起こされることもない。

ガラス戸に

いつか手をついて、あるいは頭から突っ込んで、突き破ってしまわないか心配だ。

結局のところ

病院職員の目を盗んで病棟の片隅でしたルール違反の自主トレこそが日常生活の役に立っている。当時直感的にそう思ったとおり。

ある尊敬する小説家が

思いついたらすぐに書け、今すぐにだ。というから、真に受けて夜中でも起きてPCを起動して書くということを以前は日常的にやっていて、おかげで眠りが浅くなり、自律神経が乱れたと思っていたが。ゆうべは寝ながら頭の中で文章を反芻していてすっかり疲れてしまった。だったら夜中に起きて、書いてしまった方がすっきりするな。

痛み

左手が痛む。爪が食い込んでいるのかと思ったがそうではなくて、内側からきてるものらしい。
かかりつけの医者に言ってもどうせまた「いつもどおり」の薬を処方するのみで問題解決しないだろう。そもそも「問題」を解決しようって気があるとも思えない。
亜脱臼の肩の痛みも相変わらずで寝る姿勢にも悩むほどだ。

2018年12月 9日 (日)

深夜ラジオを

がっつり聞いた。受験勉強のとき以来だから30年ぶり(それ以上)か。

入浴

トイレはもとより、風呂も介助なしでひとりで入れている。 これができるとできないとじゃ大違いである。

風呂に入るので着替えを取りに行った。
着替えを手に持ってしまうと、杖が持てないんだ。

連結決算

妻がテレビ見て笑ってる。
良きこと也。
喜怒哀楽は夫婦で連結決算なんだ。

惰眠

を貪るばかりで無駄な一日を過ごしたが、起きてりゃべつに何をするわけでもないのにヒーターをつけてもらったりして余計なお金がかかるし、ただ立ってるだけでも転倒リスクを孕んでしまうわけで、だったら相対的に寝てた方がマシだったりする。

それができれば

誰も苦労してねえよっていう戯れ言に付き合ってやる暇も体力もないんだ。

風が

ひゅうひゅういっている。
18歳まで群馬に住んでいて、群馬といえば「空っ風」だけれども、昨年上演した芝居は群馬を舞台にしていて、この「空っ風」は音響で処理するにしても、そのニュアンスをト書きでうまく表現できなくて、できたとしても、それが本番でどういうふうになるか、わからないから、だったら自分で音づくりからオペまでやってしまえ、と思ったわけだ。
そしたら小屋入り目前で入院してしまい、照明スタッフが急遽代役で音響もやってくれたのだけど、たまたまオールマイティに裏方ができる人がだったからで、普通はこうはいかない。

男手

1 男の労力。また、男の働き手。「男手だけで育てる」「男手が欲しい」⇔女手。
2 男の書いた文字。男の筆跡。男文字。⇔女手。
3 《昔、男が多く用いたところから》漢字。真名(まな)。男文字。⇔女手。
「―も女手も習ひ給ふめれ」〈宇津保・国譲上〉
重い荷物を運んだり、危険を伴う作業であったり、そういうときに動員される「男手」の持ち主である状態は見条件に一生続くのだと思っていたし、いざとなりゃそいつを労働力として売って金に換えればなんとかると高を括っていた。

その口から

吐かれた言葉を自分自身に向けてみろっていうんだ。

『フランス革命の省察』のエドマンド・バークを思い出すね。

自由

無責任な言説で他人が害を被っても自分は「自由」の美名の下にお咎めなしであるという気楽さが保証されていると思っているらしい。

今の心境

だからこそ書けることもあるはずだ、と友人が言う。

それはそのとおりだけれども、せいぜいブログレベルの駄文の話である。「創作」ってそういうもんじゃない。
書斎の本棚のどこかにあるハズの古い科学雑誌に書いてあった一節が頭に引っかかっていて、新しい戯曲を書きはじめる前に、再読しておきたいなと思う。けれども、そいつを引っ張り出してページを捲り、当該箇所を探し出すことすらできない身体になったのである。すなわちそれは「書けない」ってことだし、だから死んだも同然というのである。
しかし友人の真意は別の所にあるともわかっているんだ。病前の「常識」を相対化する契機とせよってことだろう。それができてはじめてモノカキとして病を「克服」したことになる。

4時

枕元の目覚まし時計に目をやったら4時。3時まで深夜ラジオを聴いていた記憶はあって、だから一時間ばかりうとうとしたのかと思ったら夕方である。つまり丸一日惰眠を貪ったわけだが、眠りが浅かったのか、あまり「よく寝た」という感じがしない。妻はどこかに出かけたようだ。手術の後には十日間も眠り続けたのだから、その要領でいっそ、寿命の果てまで眠らせてくれればいいのにとも思う。

2018年12月 8日 (土)

2010.8@旭山動物園

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太田

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四万温泉

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四万温泉

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四万温泉

Photo

 

 

2008.12@草津2

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そしてどっかの誰かが言ったことを引き合いに出し、それを覚えていた己の暗記力をドヤ顔してひけらかすことでは断じてない。

オンラインアルバム

紙焼きの写真をスキャンしてオンラインアルバムに保管しているのだけど、

紙のアルバムを捲るのさえ困難なのである。
思い出にアクセスすることさえ許されないのか。

2010.8@旭山動物園

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2010.8@美瑛

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OYASUMI1991チラシ裏

0008

パターナリズム

パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている。日本語では家族主義、温情主義、父権主義、中国語では家長式領導、溫情主義などと訳される。語源はパトロンの語源となったラテン語の pater(パテル、父)である。
実力が無い、または劣ることが判明しても即解雇にはならない雇用制度や、成果よりも企業への在籍期間で出世や給与が決まる年功序列制度の企業のように労働者を子として面倒を見ているような企業運営を経営パターナリズム、 経営家族主義とする[1]。医者と患者の関係ならば、パターナリズムは患者の利益(生存、健康)を保護するためであるとして、医者が患者に干渉し、その自由・権利に制限を加えることである。医療では温情を受ける者が正しい選択肢を選べるとは限らず、幼児を含む未成年者、中毒(依存症)に陥っている者や自傷行為・暴力的言動をする者への干渉は認められることが多い[2][3]。

肩が痛い

のだ。亜脱臼のため。入院中からずっとそう。
今かかりつけの医者に言ったら、ケアマネを通してリハビリしろという。
ケアマネに言ったら近所の整形外科を列挙するのみ。
そんで整形外科を受診したらレントゲン撮って「肩の関節が緩んでますね」とハナから分かりきったことを言うのみ。何のタシにもなりゃしねえ。
なんとかならんもんかね。

不随の

半身を引きずってどうにかこうにか生きている。これが死ぬまで続くのだ。
まったく鬱陶しい話である。

さくら学院

下肢装具

入院中にけっこうな金をかけて作らされたけれど、退院してから全く使用していない。なんだかなーという感じである。
Sogu

創作にかんする

「雑談」をできる相手がなかなかいないのがなんともねえ。せめて学生時代、北大文芸部にいた頃のような環境であればと思うのだけど、そういう環境作りをしてこなかった報いである。というか、そういう活動をこれからやろうとしてた矢先の発病だから。

Marinaganbare

20180806@稲田堤

Saize

阿呆なおっさんの

暗記自慢にはうんざりです。

主人が脳出血で半身不随の状態です

執筆

ほんの少しだけ原稿書き。それで疲れてしまう。創作ってSNSなんかに駄文を書き散らかすのとはぜんぜん勝手が違うのだ。アタリマエだが。

札幌駅

そうそう、昔の札幌駅ってこんなだった。懐かしいな。

脳出血

   脳梗塞と脳出血は、ともに脳血管の異常によって起こる病気で、これらを合わせたものが一般に脳卒中といわれています。脳梗塞は昔は脳軟化といわれ、脳出血は脳溢血といわれていました。 脳卒中は日本の厚生省の統計では脳血管疾患として分類されています。以前は日本の国民病といわれるほど多いものでしたが、その後徐々に減少してきました。しかし現在も悪性新生物(癌)、心疾患、肺炎に続き、我が国の死因の第4位を占める重大な病気です。脳出血は脳内出血とくも膜下出血があります。くも膜下出血は別の項に書きましたから、そちらを見て下さい。
ここでは脳出血について書きます。脳出血は一般的には高血圧性脳出血を指しますが、若い人の脳出血は脳動静脈奇形(AVM)からの出血が多く、高血圧性脳出血とは全く違った病気です。
被殻出血では出血と反対側の手足が麻痺し、感覚も障害されます。被殻のみの小さな出血では本来麻痺は起こりません。殆どの場合被殻から少し外側にある内包へ出血し、その部分の障害で運動麻痺と感覚障害がでます。出血が大きいと、顔と両目が出血した側(手足の麻痺が左なら右側)へ向いて自分では治せない状態になり、意識障害が進んできます。右利きの人は言葉を理解してしゃべる機能が左の脳にありますから、左の脳出血が起こると、利き手の右手の麻痺だけでなく言語障害(失語)が起こり、言葉がしゃべれなくなることがあります。
 視床出血では運動麻痺も起こりますが、感覚障害が強く出ます。慢性期になって出血と反対側の手や足が非常に痛くなる場合があります。これは視床痛といい、鎮痛薬が効きません。この場合定位脳手術といって特殊な手術を行う場合があります。それ以外に視床出血では左右の目の位置がおかしくなります、寄り目になったり、両目が下に向いて動かなくなったりします。左側の視床出血では言葉もしゃべれなくなることがあります。高齢者に多い病気で、寝たきりの原因となり、痴呆にもなり易い病気です。
 小脳出血は突発する頭痛、嘔吐、めまいが起こり、立ち上がるとふらふらして歩けません。小脳出血のめまいは非常に強いもので、ずっと続きます。最初のうちは意識障害はありませんが徐々に意識障害が起こり、呼吸状態が悪くなってきます。小脳出血の場合は早いうちに手術すると改善しますから、呼吸障害がひどくならないうちに手術することが必要です。
 橋出血では重症例が多く出血の最初から意識障害、呼吸障害、四肢麻痺(両手足が動かなくなる)が起こります。目も固定し、上下にずれたりして見るからに異常です。また瞳孔(黒目の真中)が非常に小さくなります。瞳孔の大きさは脳の病気の時には非常に重要で、意識障害で、瞳孔が5mm以上に開き、光を入れても縮まない場合は危篤状態です。橋出血は以前はすべて重症と考えられていましたが、症状が軽いものでCTやMRIでみると小さな橋出血が見つかる場合が増えてきました。

2018年12月 7日 (金)

高次脳機能障害

無駄な

調整コスト負担の理不尽さに疲れてしまうんだ。

明大前

いつのことだったか、何の目的だったか、忘れてしまった。たぶん劇場を探してだろう、京王井頭線の明大前駅あたりを彷徨いまくったことがある。
そのとき目にした光景が、なぜだか不意に思い出されるのである。

滑り止めマット

を浴室に敷いていたのだけど、マットじたいが滑ってしまうのでかえって危ないと感じ、使うのを止している。

かろうじて

生きてはいる。でもそれだけだ。

Yozora

ポメラの単三電池を

充電しながら思い出した。入院中、一度だけ売店で買い物したことがあって、それはポメラのためのアルカリ単三電池だったのだ。

新しい血圧計

が届いた。
20181207

何が

身体に悪いって、「書く」ことぐらいストレスで自律神経を乱すことはないなと感じる。

ハイデッガーの「現存在」について

2018年12月 6日 (木)

反動

咳をしたりくしゃみをしたり、その反動で転倒しそうになってしまう。つか実際、コケてしまった。

自発的リハビリ

ビュッフェスタイル

の店に俺が行けば、自分で料理を運べないのだから他人の手を煩わせてしまう、そんなことはあらかじめわかっているのだし、てそのことこそが自分にとって何より煩わしいのであるから回避可能なら回避すべきなのである。

全体像

会計の細かなことまで理解する必要はないが、
全体の構造くらいはイメージした上で四の五の言えよとは思う。

冥途毛布

と我が家で呼ばれてるシンプルな毛布、ピタパタの『冥途』公演で小道具として使用したからそう呼ばれているのだけど、そいつを書斎に持ち込んで膝掛けとして使いながら今これを書いている。

Meidomohu

OYASUMI1991

0010

面白い


[形][文]おもしろ・し[ク]《もと、目の前が明るくなる感じをいった語》
1 興味をそそられて、心が引かれるさま。興味深い。「何か―・いことはないか」「仕事が―・くなってきた」「この作品は―・くなかった」
2 つい笑いたくなるさま。こっけいだ。「この漫画はなんとも―・い」「―・くもない冗談」
3 心が晴れ晴れするさま。快く楽しい。「夏休みを―・く過ごした」「無視されたようで―・くなかった」
4 一風変わっている。普通と違っていてめずらしい。「―・い癖」「―・い声」
5 (多く、打消しの語を伴って用いる)思ったとおりである。好ましい。「結果が―・くない」
6 風流だ。趣が深い。
「月の―・きに、夜更くるまで遊びをぞし給ふなる」〈源・桐壺〉
[派生]おもしろがる[動ラ五]おもしろげ[形動]おもしろさ[名]おもしろみ[名]
[用法]おもしろい・おかしい――「おもしろおかしく話す」「おもしろい(おかしい)形の木の根」のように、滑稽(こっけい)な、奇妙な、の意味では、相通じて用いられる。◇「おもしろい」は、「おもしろい小説」「仕事もだいぶおもしろくなってきた」のように、その内容が(話し手の)興味をひく場合に用いられる。◇「おかしい」は、「何となくおかしい作品」のように、形式その他が風変わりだ、調和的でない意を表し、また、「先月来、からだの調子がおかしい」「彼が勲章をもらうなんてちゃんちゃらおかしい」と不調・不審の用法に及ぶ。これらは「おもしろい」に置き換えられない。◇「おもしろい試合」は、緊迫した内容の試合であり、「おかしい試合」は、普通でない変な経過、珍プレーのある試合ということになる。
一口に「面白い」といったってこれだけ様々なニュアンスを含むのである。

気になった本を一冊、

本棚から抜き出してパラパラページを繰ってみる。
ほとんど無意識にされるそんな何気ない所作も、いくつもの複雑な運動の織物(テクスト)の上に成り立っているのだと痛感させられる毎日なのだ。

調整コスト

それでもその調整コストを負担した先にそれなりのベネフィットがある場合はまだマシだ。何の利益ももたらさないのにただただめんどくせえだけっていう場合があるわけです。そういうのは距離を置いてフェードアウトするのが吉。関係をズバッと切ると、勝手に被害者意識をこじらせて、それはそれでまためんどくせえからね。

パニック障害

を疑似体験した(つもりでいる)。車椅子でひとりで電車に乗ったときの逃げ場のない孤独感がそれであろうと思う。

血液検査

今月はまた血液検査なのだ。検査ばかりで肩の痛みのひとつ解消しない。いったい何のための診察か。
これにかんして空想的な屁理屈が言えないわけじゃないが、そのことが妻を苦しめてしまうので自重している。その屁理屈こそが芝居書きとしての燃料なのだけど。

戯曲の体裁を

採るために独白に馴染む内容を無理に対話形式にするより、いっそ小説にしてしまった方がいいとも思うが、そこを「無理」のない感じでやるのが劇作家としての腕の見せ所じゃないかとも思ったりする。

十日間

眠り続けたという。しかしそんなことってあるだろうか?
深夜に床について翌日の午後に目覚めたってあまりに眠りすぎたと思うものだ。

2018年12月 5日 (水)

大掃除

病前だったら今くらいから深夜に俺が少しずつ、台所の換気扇やら洗面所の鏡やら風呂の排水溝やらの「大掃除」をやったものだが、そんな芸当ももはやできない。

保護責任者

特定の人について保護する責任のある者。親権者・扶養義務者のほか、交通事故の加害者、被保護者と契約している保育士、雇用主など。
[補説]無関係の第三者であっても、被保護者への保護を開始した者は保護責任者とみなされる。例えば、事故・災害などのけが人を引き取って搬送中の善意の一般人など。

亜脱臼(incomplete dislocation)

完全に脱臼はしないが、脱臼しそうな状態となること。外れかけるが自然に骨が戻る。戻った後1週間程度は痛みが持続する場合がある。不完全脱臼とも。*1*2

ストレスが

よくないってことだけど、何がストレスってホン書くくらいストレスかかることはない。

20181205

整形外科へ。帰りにファミレスで久しぶりにタンメンを食う。
一昨年の冬はしょっちゅう食っていたものだが。
Tanmen

医療や看護を受ける高齢者の 尊厳を守るためのガイドライン

温泉に

でも行こうよ気晴らしにもなるし、と友人が誘ってくれたが、とてもじゃないけど無理である。ありがたいとは思うけれど。温泉どころか、ユニットバスでも難しいのだ。
31990449

どうしても

シャミッソーとシュニッツラーを混同してしまうんだ。

権威主義

こういうふうに考えられる、と示した前提から結論に至るロジックの軌跡を理解せず、誰かの言葉をを持ってきてどや顔し、権威主義で「反論」した気になってるからバカだと言うんだ。

居間と書斎

を行ったり来たり。
たいした距離ではないけれども、たったそれだけのことが、骨が折れるのである。

2018年12月 4日 (火)

PCのドライバ

がらみのトラブルで時間を取られまくっている。まったくもう!

悲観的なことを言って

妻をうんざりさせるつもりはないんだ。

チューリップ

急に聴きたくなってラックの奥から探し出した。
Tulip

残像

いったい今の自分に「実体」があるのだろうか?2017年秋の残像を生きているような気がする。

だらしなさ

自分で決めたルールに従って何でもかんでもきれいさっぱり処分してしまう必要はないだろう。ルールから逸脱したものを受容するある種の「だらしなさ」も必要なのだ。

20180910@京王稲田堤

20180910

20181003@矢野口駅

20181003

去年の今頃は

年末年始に一時帰宅するかどうかでゴチャゴチャもめていた。「する」方向に傾いて、送迎の段取りを友人と調整しはじめてもいた。結局は帰宅の許可が出なかったのだけど、今年はずっと家にいられる。入院中、妻が面会に来てくれることだけを楽しみにしていた日々も今は懐かしく思い出される。

チューリップ『愛は戻れない』

女が「あの角」を曲がる後ろ姿に「別れ」を象徴させているわけだ。女の姿が「あの角」に消えたときが、この歌の主人公にとっての「別れの瞬間」となるはず。 そういう意味ではマルセルデュシャンのいうように「死ぬのはいつも他人ばかり」ではないだろう。生物としての己の「死」を具体的な何かで象徴=物語化し、認識できるはずだから。

一日中

惰眠を貪っていた。浅い眠りで長い夢を見た。内容は覚えてないがなんだかガチャガチャ騒がしい夢。
Photo

一日中

惰眠を貪っていた。浅い眠りで長い夢を見た。内容は忘れてしまったけれど、なんだかガチャガチャ騒がしい夢。

2018年12月 3日 (月)

可処分時間

何をするにも普通の人の何倍も時間がかかり、しかも事前準備が必要で、可処分時間がうんと少ないのである。その意味で、死んだも同然なのだ。

三浦雄一郎

すごいな。 学部は違うが、大学の大先輩ということになる。

『オトカ』によせて


6年ぶりの再演である。
『オトカ』の初演は2011年3月。「日本の劇」戯曲賞2010最優秀賞を受け、文化庁主催「新進芸術家育成公演事業等」として、日本劇団協議会の製作により上演された。
ちょうど東日本大震災で上演中止が危ぶまれた。
地震のあったとき、私は家にいた。寝室の薄型CDラックが倒れないように両手で壁に押しつけつつ、このまま家が倒壊したら住宅ローンの残りはどうなるのだろうと考えていた。
死の恐怖というより生の恐怖。

初演のパンフレットに私は次のように書いている。
『不惑を過ぎてなお迷い続けている。興味の対象も日々移ろいゆく。それでも書きたい気持ちの枯れぬ限りは、書き続けていきたいと思う。さて、次は何を書いたら、よかんべか?』
それから自身の演出で6本の芝居をピタパタで上演した。
そのうち3本が私のオリジナル戯曲、2本が脚色、1本が他の作家の書き下ろしである。
6年でぐるっと一周したような気がする。
先のことはまるでわからないが、とにかく2周目に入る。

ピタパタ代表 今井一隆

自分で行う更衣動作

俺の場合、入院中、靴下を妻がドーナツ状にして持ってきてくれていた。今はそういう細工もせずフツーの靴下を自力で履いている。「慣れ」の問題である。

消えた

LINEのアカウントは原則として、1つの端末で1つのアカウントしか扱えません。そのため事前準備を怠ると、データを引き継げないどころかアカウントを作り直すことになってしまいます。
俺も「友達」消えました。まあいいやってほっといてますが。