フーコーの『ルソー『対話』への序文』は書かれた時期が早く(1962年)、一見すると文学論だが、実際にルソーの『対話』に記されているのは、ルソーを攻囲していた沈黙による服従強制の権力装置[=黙殺・監視等]に対抗するルソー流の自己技法であるとする政治哲学論を読み込むことが可能である。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月8日
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フーコーの『ルソー『対話』への序文』は書かれた時期が早く(1962年)、一見すると文学論だが、実際にルソーの『対話』に記されているのは、ルソーを攻囲していた沈黙による服従強制の権力装置[=黙殺・監視等]に対抗するルソー流の自己技法であるとする政治哲学論を読み込むことが可能である。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月8日
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