■山本七平botまとめ/『応報思想が「社会の悪」を求める理由』~「正義は必ず勝つ」の恐ろしさ~ https://t.co/3vBUOoHRZ7
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) November 30, 2018
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■山本七平botまとめ/『応報思想が「社会の悪」を求める理由』~「正義は必ず勝つ」の恐ろしさ~ https://t.co/3vBUOoHRZ7
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) November 30, 2018
[公共的空間に関わる真の個人的自由の2つ目は]…自律的個人が公共的問題の理解と討議を通じて、政策や制度の枠組みの変革に直接・間接に参加し、公共的意思決定にコミットするという「自由」を持つというものである(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月30日
⑦結局ユーザーも技術者も「強大な武器をもった日本」は虚像で、欠陥兵器集団であることは知っていた。
しかし、それは口にしない。
日本軍とはあらゆる面で欠陥兵器集団だと言ったのは、あるいは私がはじめてかも知れぬ。
では、それを知っていてもなぜだれも口にしないのか。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月30日
正直、惜しいことをしたとも思わないじゃないけれども、あれば弾きたいと思うのだろうし、もう弾けないという現実が突きつけられて辛い。それだけならいいが、なんとか音をだそうと妻に左手を担当させるかもしれない。こんなことでも妻に負担を強いることになるくらいなら売り払ってしまって正解だったのだろう。
キリスト教は事件的な宗教だ。なぜなら、キリスト教徒になるためにはたったひとつの事件、すなわちキリストの死と復活を信じなければならない。「信仰の理由を納得したから」キリストを信じる、というわけにはいかない。信じた時にはじめて信仰の理由が理解できるのだ。(『事件』p12)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月30日
どこへだってひょいひょい行ったし何だってちゃきちゃきやった。
89年だか90年だか、そのあたり、札幌のインディーズバンドがこぞって上京してた頃、俺はFMラジオばっかり聴いていて、よくこの曲のCMが流れてたのを覚えてる。
ふざけた話である。民進党を離れ、立憲民主党や旧希望の党などにいく議員、候補者に民進党から32億円超が流出 1人あたり最大で1500万円支給~ネット「国民の税金を好き勝手に使ってるな」 https://t.co/BagDLjUJAl
— アノニマス ポスト (@anonymous201504) 2018年11月30日
道徳的価値観を無批判に信奉するのは考え物だが、それを嘲笑しさえすれば冷徹な視点を持ったひとかどの何かになれるってもんではないだろう。
社会はゆっくり変化します。生活に必要なものを守り不要なものを捨てるという個人の選択が蓄積されて徐々に住みやすい社会になるんですね!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年11月30日
そこに大きな政府はないんです。個人の自由とその結果としての伝統的社会だけがあります。
古典的自由主義は元来保守です。
現代日本の保守とは違いますよ!
都内のある民間病院では、「退院しても、状態が悪化して再入院すると家族がホッとしているようなフシがある」と明かす。同じく、都内のある自治体病院でも、「退院が決まっても、家で看られない家族から、患者の入院引き伸ばし作戦に遭う」と話す。
ソニーは「aibo(アイボ)」を使って長期入院する子供に与える癒やし効果の検証を12月から始めます。https://t.co/XyAGo81Ka0
— 産経ニュース (@Sankei_news) 2018年11月29日
表層的な模倣の精度を上げればリアリティが増すってこもんじゃないってこと。触感の模倣ならぬいぐるみの方が上だろうし、表情を「犬らしく」することは技術的には可能だったはずだ。しかしアイボはそうではない方法で人間/犬の関係を再現しようとしたのだ。「関係」だとか「リアリティ」の何たるかをまともに考えたことのないやつには分からんだろうが。
…私もまた確信せざるをえないのは、殆どすべての「学派」、殆どすべての学者の、それぞれの主張が正しいということ、すなわち、それらの主張の意図された形において、またそれの意図された目的の立場からみれば、大抵の主張は真であるということである(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月29日
司法機構は誤ったことを有効と認めたり、偽りや嘘を作り出したり、命令によってか自発的な共謀によってか黙り込んだりすることがある。だがそれが少しずつ、日にちの経過と共に、証拠資料を辿りつつ、報告書や証言や手掛かりを通して「認知しえないもの」を作り出していくやり方は余り知られていない。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月29日
〈中観派〉の〈縁起〉説によれば、全ての事象は関係の産物である。これは「自立的・恒常不変・単一という三つの性質を持った即時的存在である〈自性〉の否定」という点で、そのままソシュールのいう〈実体なき関係の世界〉と同じである。そしてその原因を存在喚起力としての言葉に見るところも同じだ。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月29日
産業を荒廃させるのは簡単です!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年11月29日
補助金をつぎ込んで競争力を奪ってから補助金を引き上げればいいんです!
だから特定産業への補助金は最初から出さないようにしないとダメですね。一度出しちゃうと借金してでもずっと出し続けなきゃいけなくなっちゃうんですよっ!
ねっ!
欲望そのものが欲望にたいする防衛であると言うことができよう。空想を通じて構成された欲望は、〈他者〉の欲望にたいする、すなわちこの幻想を超越した「純粋な」欲望(つまり純粋な形の「死の欲望」)にたいする防衛なのである。(『崇高』p226)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月29日
その上、社会科学においては、精神的事象の協働が問題となるが、この精神的事象を、追体験しつつ「理解する」ことは、当然ながら、およそ精密自然認識の定式によって解決でき、また解決しようとしているのとは異なる、特殊な性質をそなえた課題である(M・ヴェーバー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月29日
ラカンの見方からすると、神経症、精神病、倒錯といった病理学的な形成物は、現実に対する根本的な哲学的な姿勢がもつ威厳をそなえている。私が強迫神経症にかかっているとき、この「病」が、現実に対する私の関わり全体を彩り、私の人格の全体的構造を規定している。(『ラカン』p19)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月29日
自分自身や自分の振る舞いに関するある種の概念にわたしたちは捕らわれていますが、自分の主体性、自分自身との関係を変えなければなりません。-フーコー、国家理性を問う-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月29日
⑨【山本】…もしも完全な世界語を作って各国が自国語と国連世界語を覚える事に決めたとしますね。二カ国語だけでいいんだから…便利になる筈ですが、果してそれが可能かというとダメなんだな。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月29日
たぶん折角の国連語が「国連語日本語方言」とか「国連語フランス語方言」という形になっちゃうだろう。
㊺氏は動員数二十万が虚構の数字ではないかと記者に突かれ、それに対して「つまらん事を聞きにくるんだねえ。二十万人招集したわけだから、ま、二十万人集まったと発表した。ただそれだけの事ですよ」と言ったと…記されている。
一言でいえば「二十万、ただし何万人かが欠」なのである。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月29日
ことごとくすべてが、甘美な懐かしさとともに、もう二度と体験できないことなのだという現実を突きつけてくる。
グリーンはまず功利主義者の提唱する「人間の善は快楽である」という人間観を批判する。人間の善とは他者との協力によって初めて実現可能で社会的な性格を持った「諸能力の実現」であり、「人格の完成」である。これこそ「自我意識」が志向する究極の目標であり「公共善」だとする。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年11月29日
ホロコーストに関するある有名な本のタイトル―『神はアウシュヴィッツで死んだ』―は反転されるべきである。神はアウシュヴィッツで生を得たのだ。(中略)本当に恐ろしいことが起きるのは、神に見捨てられた時ではなく、神が我々に近づきすぎた時だ。(『事件』p134)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月28日
生の円環運動を持続させるためには、自我に風穴をあけ、自らの内なる他者と絶えず対話を交わさねばならない。[…]ルソーが作曲したと言われる童歌の叡智にならって「結んで開いて/手を打って結んで/また開いて手を打」ちながら、心の奥の欲望を解放しつつ制度へと立ち戻る永続的運動が望まれる。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月28日
①【平手政秀の諌死】【岸田】仇討ちは親の怨みを子が継承する訳ですね。継承する子を持たない時は、お岩みたいに幽霊になる。日本の仇討ちと幽霊は一体のものですね。つまり、日本人の喧嘩というのは、すべからく「怨みを晴らす」という形。だから戦争が長いんです。<『日本人と「日本病」について』
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月28日
恋に落ちるとき、あなたは自分が何を必要とし、何を欲しているのかを知らず、それをもっている人を探す。愛の「奇跡」は、見つけたときにはじめて自分の探していたものがわかるということだ。(『事件』p142)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月28日
浅い眠りの入口で不意に思い出された光景。
中野サンプラザの周辺らしい。
いつだったか妻と一緒にラウドネスのライブに行ったとき、開場までずいぶん時間があって、お茶できるところを探し歩いていたときのものだ。
⑪さらにこれに、戦場という異様な環境が加わる。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月28日
肉体的に疲労の極に達すれば、人は単に「動くのはもう嫌だ」という理由だけで自殺しうる。
また精神的疲労の極に達すれば、その一切から逃れたいという欲望だけで、自らの命を断ちうる。
「民主主義」は根本的に「反人間主義」的である。「(具体的な、現実の)人間の大きさに合わせて作られた」ものではなく、形式的で冷酷無比な抽象化に合わせて作られたものである。(中略)民主主義とは、抽象的な個人と個人の形式的な繋がりである。(『斜め』p305)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月28日
聴きたい曲があるのだけど、1980年代のインディーズバンドで音源はカセットテープだし、YouTubeにもアップされてないみたいだし、聴くことができない。
⑥【山本】ともかく、空想の産物には限界があって、キリスト教社会、とくに旧約時代の社会では、日本の幽霊みたいなものは絶対に空想できない。
同時に日本人はどんなに頑張ってもサタンというものは想像できないんですね。
でね、阿部先生によると、幽霊には立派なものが多いというんです。— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月28日
③【山本】マルクスのような人間だって、未来を空想する時に、その空想の材料として使うものは、やっぱり十九世紀のヨーロッパだけですからね、そこから出て行く事はできない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月28日
私たちはみなここにいるかぎり、自分の貴重な存在を維持するために食べたり飲んだりしているけれども、実は存在する理由など何もない、何一つない、何一つないんです。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年11月28日
②【山本】人間は自由に空想できるようでいて、つまるところ決してそうではないんであって、電離層みたいなものが頭の中を囲んでいまして、そこから先へは出られないんです。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月28日
空想というのは現実の反射にすぎませんからね。
■岸田秀botまとめ/「ストックホルム症候群」と「精神分裂病」の発病のメカニズムとは?https://t.co/hW1bXFnkrn
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月27日
個人主義は今日では…利己主義や自己中心主義といつも結びつけて語られている。けれども、われわれが社会主義やその他すべての形の集産主義と対比させながら主張する個人主義とは、これらの利己主義や自己中心主義とはどんな必然的な関係もまったく持っていない(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月27日
■山本七平botまとめ/「各人が内心でどう思おうとそれを口にしない事が正義と信実とされた”虚構の世界”」/~天皇が”現人神”とされた理由~ https://t.co/AkXLKrusop
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月27日
その裏返しで、「大様の耳は驢馬の耳」的に相手の嫌がることを口にしさえすれば、それじたいが「真実」の証という自称勇気あるジャーナリスト的思考ってもんがあり、それがいわゆる「従軍慰安婦」報道などの嘘を支えたりしたんだろう。
という表現がぴったりの一日。
バークによると社会契約論や自然権思想は現実世界の複雑性を無視した形而上学的抽象に過ぎず、それは政治の実践の場ではむしろ有害であり、人類の歴史から得られた道徳・政治的経験知としての「熟慮」こそ政治に必要なのである。バークは抽象的理念によって執政を試みるフランス革命を鋭く批判した。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年11月26日
いろんなことをかつては進めたもんなのに。
以前はそれこそ深夜に思いつきで追い炊きして、ちゃちゃっと入ったりしたもんだ。できなくなったことばかり探し出してしまうな。
整理していた。票券管理していたり、胸締め付けられる。
■山本七平botまとめ/『南京大虐殺という”まぼろし”の基本となった「虚報」の特徴と、その害悪について』 https://t.co/nGaSpXtodv
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月25日
を言って妻を苦しめてしまう。
申し訳ないと思うけれどそのおかしさが、創作には必要なんだ。
を整理していると今の自分が情けなく、妻に対しては申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
計画を結局実行できぬまま年を越すことになりそうだ。
俺が北海道にいる。久しぶりに北大を訪れた俺はここでも車椅子で、段差のために構内に入れないのだ。タクシーの運転手が車椅子を押してくれてて、スロープがあるというのだけど、学生が近道して雑草を踏みつけた跡なのだった。
「世界が我々の復讐の暴風雨に充ちること、これこそまさしく、我々にとっての正義であるべきだ」―彼ら(タランチュラども)は、かく互いに話し合う。「我々と平等でない一切の者たちに、我々は復讐を行い、侮辱を加えよう」―タランチュラの心を持つ者たちは、かく堅く心に誓う。-ツァラトゥストラ-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年11月25日
こんな身体になる前に会っておきたかった人たちがいる。その集合は、こんな身体になってもなお会いたい人とそうでない人に二分される。
元データがことごとく残ってないな。DVDをコピーするしかないが、それも厄介。
今日は仕事がなかったからずるずると午後まで寝ていた。古い写真の整理を少しだけ。みんな若かった。
としての価値は最低限、一生失われないものと高を括っていたのだ。
将来の期間の欲望満足に向けられた先慮的行為について人びとを観察するとき、人びとはその欲望の発展能力を無視しているどころか、むしろもっとも熱心にこれを計算に入れようと努力していることが容易にみてとれる(C・メンガー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月24日
今頃はそろそろ次の芝居のプレ稽古だったろう。入院中もしばらくは決行するつもりでいた。芸文の申請が間に合わないと焦っていた。まるで現実を認識できていなかったのだ。
一度、群馬から東京まで車を走らせて俺の芝居を観に来てくれて、短い時間だったけれども再会することができた。他にも、健常だった頃にもう一度会っておきたかった人がいる。
狂気の心理学は本質的なものへと歩む。なぜなら、自己の様々な可能性が互いに結びつく所へ、それは漠然と向かっているからだ。つまり、それは自己の流れを遡り、人間が自己と関係を持ち、自己を心理学的人間たらしめる、かの疎外の形を作り出す領域に向かって歩いている。-精神疾患と心理学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月24日
「真理」は何度も我々から逃げる一種の剰余では決してない。それは反対に、外傷的な遭遇の形式の中にあらわれる。つまりわれわれは「単なる見かけ」を仮定したところで、それに遭遇する。「真理の衝撃」は、安心させるような現象の領域の真ん中に突然に真理が出現することにある。(『崇高』p352)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月23日
屍体に対して抱く恐怖は、人間の源泉としての下腹部の排泄に対して私達が抱く感情に近いのだ。恐怖の感情は、私達が猥褻と呼ぶ肉欲的なものを眺めた場合のそれに似ているだけに、この二つの比較にはますます意味があろう。性器の導管は排泄する。私達はこれを恥部と呼び、肛門もこれに結び付けている。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年11月23日
される無責任なコミットメント(=自己愛を満たす遊戯)など迷惑なだけなのである。
第二十九条 財産権は、これを侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる(日本国憲法)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月23日
労働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月23日
歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とは程遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月23日
朝5時半にトイレに起き、そのまま起床してしまおうかとも思ったがそれも邪魔になるだろうし、余計に電気代もかかるから、布団の中に戻ったら二度寝してしまい、結局次に起きたのは午後である。
自分を追い詰めてしまうのだな。しんどいことだ。
ニーチェは、西洋文明が〈最後の人間〉、激しい情熱も何かに関与する意欲もない冷血動物に向かって進んでいることを認識していた。人生に疲れ、夢をみる力もない〈最後の人間〉は、なんの危険も冒さず、ただ快適さと安全だけを、寛容な相互関係の表現だけを求めている。(『暴力』p44)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月22日
⑪とすると、この矛盾を解消する論理はただ1つしかない――
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月22日
日本人は非常に特異な残虐民族であって、戦闘中に派生した非戦闘員殺害も武勇と考え、これをニュースとして大々的に報ずる民族である、
と。
〈死〉と〈夢〉と〈音楽〉の神は(ニーチェも否定しえぬ)アポロンである。シュレーバーの荒ぶる神は、アポロンという名の“白のアナグラム”から聞こえていたコトバである。(〈死〉〈夢〉〈音楽〉はそれぞれホモ・モルタリス、ホモ・ソムニアーンス、ホモ・カンターンスに対応)-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月22日
ラカンのいう〈無意識〉という名の言葉は、ソシュールの示唆した〈深層意識〉の言葉であり、更に古くは、東洋の言語哲学が探究した意識の深層における言葉に近い。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月22日つまりそれらは「文字起こし」できる類いのものじゃない。「言葉」の概念が違うんだ。
書こうが書くまいが俺の勝手である。誰にも指図される筋合いはない。
安倍晋三首相は22日、2019年10月の消費税増税対策とするキャッシュレス決済時のポイント還元制度に関し、還元率を支払い代金の5%とする方針を表明した。特典は2%の増税分を上回り、中小店舗の利用限定ながら、消費者は今より負担が減ることになる。実施期間は20年東京五輪・パラリンピックまでの約9カ月間で調整する。官邸で会談した自民党の岸田文雄政調会長が記者団に明らかにした。
政府はこれまで還元率を2%とする方針だった。上積みによって消費や中小店の客足を保つ狙いとみられるが、財政支出は膨らむため、増税の意義を問う声も出そうだ。
冬の札幌に行ってみたかった。いつでも行けると高を括っていたらこんなことになってしまった。雪道を歩くなんてとてもできやしない。
結局のところスルー力であった。
第一は永久法であり、万物を支配する神の最高理性である。第二は自然法であり、これは人間が理性によって永久法を認識したものである。第三の人定法は自然法の内容 を具体的な場に即して定めたものであり、一つの国の中で定められる国法と、複数の国の間で適用される万民法がある。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年11月22日
ややこしいことを考えるのはしんどい。
になって換気扇に吸い込まれ、消えてしまえたらどんなに楽だろう。煙草を吸いながらそんなことを思った。
泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。(『盲者の記憶』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2018年11月21日
テクノロジーへのわれわれの取り組みが、その制約から放たれ、それと距離を置くことで、自由な遊びになりえている。私に言わせれば、伝統的な生活様式や精神性に回帰しようという運動よりも、「珍道具」運動のほうがずっとその仕事をうまくやっている。(『事件』p7)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月21日
トマス伝説では、自己認識は啓示された、つまり先行的な認識であって、その認識は禁止事項の網目の中での内的規律を特色とした、気配りからの解放にいきつく。この啓示された先行的な認識こそはグノーシス主義のトマス文献の主題だ。(マーティン『シリアのトマス伝説における自己の技法と自己認識』)
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月21日
深夜、蕎麦屋にいるらしい。鰹出汁の匂いがする。車が続々と来る。座敷で仮眠を取るのが目的なのだ。そういう光景を目にしたのでも、誰に聞いたわけでもない。夢の中ではそういうことがいわば神の視点で、小説の地の文を読むようにすんなりとわかってしまう。
自分の苦しかった体験を思い出し、それを牛のように何度も反芻して「味わう」ほかない。厭なことは細大漏らさず憶えておいて、それをありとあらゆる角度から点検、吟味する。すると、その後の人生において降りかかる数々の苦しみにも比較的容易に耐えられるというわけです。『私の嫌いな10の人びと』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年11月21日
ほんとはわかってるの。明日などありゃしないと。
今はなきディスクユニオン稲田堤店でCDを買ったのを覚えてる。音飛びがする/しないで店長とモメたんだ。違う。そうじゃない。これはもともと持ってたんだ。べつのバンドのCDを買って帰ったら音飛びするから返品しようとして、間違ってこれを持って行ってしまったんだ。
自尊心が無知や感受性の乏しさを価値あるイノセンスと思い込ませるのだろう。
人間の存在というものは、狂気なしには理解され得ないばかりでなく、人間がもし自らの自由の限界としての狂気を自分のうちに担わなかったら、それは人間の存在ではなくなってしまうだろう。(ラカン『エクリ』)
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月21日
⑦【岸田】また、機能集団として、機能的に最大の効力を発揮しなきゃいけないという事態に至ると、中で話し合って和を重視するという形には、非常なマイナスが出てくるわけですね。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月20日
【山本】そうです。
啓蒙とは一つの時代であり、それも自らを指し示し、自分自身の標語や掟を自ら定め、思考や理性や知の一般紙との関連において、また自らの現在や認識、知、無知や錯覚の様々な携帯との関連において、諸々の制度などの為に自分が何を為すべきかを言う、そうした時代だったのです。-自己と他者の統治-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月20日
忌まわしい病も後遺症もほんとにすっかり忘れて何事もなかったかのように元に戻れたらいいのに。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/130302/meaning/m0u/
俗流 の例文(3)
出典:青空文庫
・・・しかしまた俗流の毀誉を超越して所信を断行している高士の顔も涼しか・・・ 寺田寅彦「涼味数題 」
・・・反映論風に唯物史観が俗流化されて一般に流布されているため、青年の・・・ 宮本百合子「今日の文学の展望 」
・・・姿を感傷的に描くのが俗流風雅の好みである。真実の芸術家として、芭・・・ 宮本百合子「芭蕉について 」
⑪そしてそれを忘れていることが、
「生物学的常識の欠如」
といえる。
ひとたび飢餓が来たらどうなるか。
いま行われている様々な議論、まず、一瞬で消し飛んでしまうであろう。
その後に何が来るか、
それは恐らく、今では、誰も自信をもって答えられない状態だと思う。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月20日
超現実主義者のダリは、内部の現実を、外部の現実によって置きかえ、精密に表現しようとした。本当の悪人は、その逆をゆくだけのことだ。
— 花田清輝BOT (@hanada_kiyoteru) 2018年11月20日
⑨しかし、つまるところは、人の口に食物をとどける事が社会機構の基本であって、これが逆転して機構のため食物が途絶すれば、その機構は一瞬で崩壊する――
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月20日
資本主義体制であれ、社会主義体制であれ、また日本軍の“鉄の軍紀”であれ……。
いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、そして何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは述べるに値する、稀な、あるいは稀少なものが形成されるための条件なのですから。(『記号と事件』)
— deleuzebot (@deleuzebot) 2018年11月20日
メールではなく主にLINEなのだけど、片手だとスマホの扱いが厄介なので専らPC版を使用している。
②続>見下すような傲慢な態度で最も悲惨な状態に陥った人間の事を記しているからである。それはそういう人間が自分がその状態に陥ったらどうなるか、その時の自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていない事を自ら証明しているにすぎない<『日本はなぜ敗れるのか』
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月20日
君は一緒に行きたいと思うか?それとも先頭に立って行きたいと思うか?或いは自分ひとりで行きたいと思うか?…人は自分が何をしたいと思っているかを知っていなくてはならないし、また何かをしたいのだということを、知っていなくてはならない。第四の良心の問題。-偶像の黄昏-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年11月20日
社会主義という概念は、単に社会的正義とかより多くの平等や生活の安定といった、つまりは社会主義の究極の目標である「理想」をのみ意味するものとされたり、あるいはその理想を説明する言葉として用いられたりする(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月19日
時間はその痕跡を残さずに消える事はできない。なぜなら時間は主観的な意味における精神的カテゴリーだからだ。われわれによって生きられた時間は、時間の中によこたわる経験としてわれわれの魂の中に積もるのである。[映ポ]
— Andrei Tarkovsky (@TarkovskyJP_bot) 2018年11月19日
■山本七平botまとめ/『虚構が事実として通用してしまう背景にあるもの』~「慣用的表現」と「一方的断定」の相互作用~ https://t.co/TtJ4GI9CpT
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月19日
■山本七平botまとめ/【唯一神と血縁/神に誓って転ぶ①】「神との上下契約しかないイスラム(欧米)社会」と「神との契約がなく人間同士の話し合いしかない日本社会」https://t.co/IXuxANYn83
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月19日
今の俺はかつての俺の廃墟である。
涙はなぜ不幸な者たちには甘美であるのかと神にたずねる涙、その涙を、アウグスティヌスは、自分や息子に対しては抑圧するのだが。だが、涙が目に到来するものであり、そしてそのとき視界を覆いうるものであるならば、涙こそがおそらく、目というもののある本質を、啓示するのである(『盲者の記憶』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2018年11月19日
■山本七平botまとめ/日本の進路を誤まらせる厄介な反米感情ナショナリズムとは?/~戦前戦後、左右問わず日本人が抱く「底意的」反米感情の危険性~ https://t.co/Rl7nMWiILP
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月19日
哲学は明らかに、一つの綜合的な活動という意味で可能性の総和でしかないか、しからずんば無であります。繰り返して申しますが、哲学は一つの綜合的な活動という意味で可能性の総和であるか、さもなければ無なのです。ヘーゲルにとって哲学とはまさにこのようなものだったのではないかと思われます。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年11月19日
<死>はそこにいない時こそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。この老婦人がお墓の石に変身してしまうことは不快なことではなかった。それはミサの時にパンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。『言葉』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年11月19日
芸術的な表現でも低俗な表現でも等しく保護されなくっちゃいけないんです!
国家機関がある表現を芸術的だとか低俗だとか判断すること自体が不当なんです!
また表現を市場で他の物と交換することも自由ですから、精神的自由と経済的自由の区別もできません。
二重の基準論は不当ですよ。ねっ!— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年11月19日
つまり法的な処罰を逃れるためにしばしばされる「芸術か否か」という議論がいかに的外れであるかってことだ。
自由主義における民主政治は個人と自由市場を政府が侵害しないようにするための手段なので、経済的自由の確保が民主政治の目的なのですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年11月19日
だから民主政治において経済的自由が軽視されるのはおかしいのですっ!
政府が所有権をむやみに侵害することのを禁止するのですっ!
高校時代に夢中になって聴いていた。大人になってから何度か東京でライブを見る機会があった。
妻が歯が痛いというのに家事を代わってやることもできないし何もしてやれない。まったく情けないったらない。
戯曲原稿を赤ペンで推敲するというのが日常だった。
その「日常」をいまだ取り戻せてはいない。
理論的国民経済学は経済的行為にたいする実際的提案を取り扱うものではなく、人間が欲望満足に向けて先慮的行為を展開するにあたってその基礎となる諸条件を取り扱うものである(C・メンガー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月19日
T
遊ぶなんてことももはやできなくなった。
もっとやっときゃよかった。
自尊心を守るために、理解できないことは無意味と決めつけて見下しておけば安心なのだろう。
ラカンは、われわれをもっとずっと不安にさせることを言わんとしている。すなわち、私は自分にとって最も身近な自己経験、つまり事物が「本当は私にどう見えるか」ということも奪われ、私の存在の中核を構成し、それを保証している根本的な幻想をも奪われているということだ。(『ラカン』p95)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月18日
閉じた群衆は増大を断念し、存続に重きをおく。この群衆において、まず眼につくのは、それが境界を有していることである。群衆は、その制限を受けいれることによって、自立する。群衆は、自らが満たす空間を自らの手で創造する。
— エリアス・カネッティ (@Canetti_bot) 2018年11月18日
〈回帰〉の発見が哲学の終焉であるとすれば、人間の終焉は哲学の始まりの回帰であろう。今日、人々はもはや消滅した人間が残した空虚の中でしか思考することはできない。なぜなら、この空虚は欠如を穿つものでも、埋めるべき欠落を指定するものでもないからだ。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月18日
もちろん、深層の言葉が言葉である限り非連続的な〈差異〉であることを免れないが、表層の言語内の〈差異〉との根本的な違いは、二分された〈図と地〉が二項対立として固定されることなく、絶えず新たな〈形〉へと動いている点にあり、これが〈コードなき差異〉と呼ばれる所以である。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月18日
その一方でヘーゲルは貧富の差の拡大や私益と公益の相克といった社会問題にも関心を抱き、国家の力でそれらを解決することを構想していた。自己決定や自由・自律などの原理に基づいて各人の際限無いエゴイズムが社会に紊乱することを彼は警戒していたのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年11月18日
②金大中事件や中村大尉事件を例にとれば、相手に「非」があるかないか、という問題と、
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月18日
「非」があっても、その「非」を追及することが可能か不可能かという問題、
すなわちここに二つの問題があり、そしてそれは別問題だということがわからなくなっている。
概要
イギリスで開発されたパーティゲーム。直方体のブロックを組み上げたタワーから、ブロックを抜いたり積んだりして、倒したプレイヤーが負けとなる。結構組み立てるのが面倒臭い事で有名なゲームと言える。
基本ルール
直方体のブロック54本を組み立てる。タワーの一段は3本のブロックで作り、次の段はそれを交差するように積んでいく(トップ絵、関連イラストも参考)。18段のタワーが完成したら、1人ずつ、好きなブロックを抜きとり、タワーのてっぺんに置いていく。但し、ブロックを抜き取る際には最上段のブロック、及び最上段にブロックが3つ揃っていない時には最上段の1つ下の段のブロックは抜いてはいけない。最上段にブロックを置く時には、組み立てる時と同様にそれまでの最上段と交差するような向きに置いていく。一人ずつこれを繰り返し、抜く、或いは置くという段階でタワーを崩してしまったプレイヤーの負けである。
十九世紀になると、[…]知はもはや表ではなく、系列・連鎖・生成といった様態で成立させられるのであり、約束された夕暮と共に結末の闇が訪れてくるであろう時、〈歴史〉の緩慢な侵蝕作用ないし〈歴史〉の暴力は、その岩のような不動性の内に、人間に関わる人間学的真実を迸らせる。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月18日
ただ生命のあるところにのみ、意志がある。さあれ、そは生命への意志にあらずして、かく我は汝らに教える、権力への意志である!生ける者によって、多くのものが生命そのものより高く評価せられる。即ちこの評価するということそれ自体から語っているではないか、権力への意志が!-ツァラトゥストラ-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年11月18日
■山本七平botまとめ/「父と子の隠し合い体制」がもたらす科学否定の”神がかり”/~公害問題を科学的に処理できない理由とは~ https://t.co/iOgdWelPFy
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月17日
ツイッターアカウントを削除した。
古来よりの人間の様々な定義、哲学的人間学の立場から加えられる人間の定義のいずれも、〈信号〉(シグナル)ではなく〈象徴〉(シンボル)を操る動物(アニマル・シンボリクム)、即ちホモ・ロクエンスが前提となる。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月17日
限界と侵犯とは、それぞれの存在の密度を互いに相手に負っている。つまり、絶対に越えられない限界というものは存在しないに等しいし、翻って、越える限界が幻や影のようなものでしかないなら侵犯もまた虚妄となる。-侵犯への序言-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月17日
2017.10.25入院、手術
2017.11.4 意識回復
2017.11.30 二度目の手術
2017.12.1 回復期病棟へ。
2018.3.24 退院。
交感神経が働くと | 副交感神経が働くと | |
瞳孔(ひとみ) | 散大(光が多く入るように) | 縮小する |
涙腺 | 血管が収縮、涙の分泌が減る | 血管が拡張し、涙が増える |
唾液腺 | 唾液が減り、喉がカラカラに渇く | 唾液が増える(唾液は消化液) |
胃腸の分泌腺 | 胃液や腸液の分泌が減る | 胃液(胃酸)などの分泌が増える |
胃腸の運動 | 動きが減り、便秘がちになる | ゴロゴロとよく動き下痢に傾く |
気管の平滑筋 | ゆるんで気管内径が広がる | 気管を締め付け気管内径が狭くなる(喘息の状態) |
心臓のリズム | 心拍数が増えてドキドキする | 心拍数が減る |
心筋の収縮 | 大きく収縮しタップリ血液を送る | 弱い収縮となる |
抹消血管 | 収縮し、血圧が上がる | 弛緩し血圧が低下、片頭痛がする |
汗腺 | 汗をたくさんかく | - |
立毛筋 | 収縮し鳥肌が立つ | - |
膀胱、直腸の筋肉 | 尿や便を貯める。便秘になる | 尿、便を押し出し、下痢に傾く |
膀胱、肛門括約筋 | 締まって、尿、便を出させない | 出口が緩んで、尿便を出す |
脳、神経 | 興奮する | 静まって、眠くなる |
神経が働く状況 | 目が覚めて活動を始めるとき、仕事をしているとき、けんかをしているとき、試合や運動をしているとき | 寝入るとき、寝ているとき、食事をするとき、のんびり休んでいるとき、排便排尿時 |
しかし私は彼[A.マーシャル]に反対して、人間の文化の発展、とりわけ知識の発展は、まさに飛躍的に生ずることを主張したい。…たとえ新しいものが古いものに基礎を置いていようとも、発展は決して連続的ではない。われわれの科学は如実にこれを示しているのである(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月17日
ジジェクはハリウッド映画に強い関心を持ち、逆に自国の映画と、とくに文学は嫌悪していた。ほとんどのスロヴェニア芸術は、彼の目には、共産党のイデオロギーか右翼ナショナリズムによって汚染されていた。(『スラヴォイ・ジジェク』p23)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月17日
①【法は大信、言は喜怒】弁護士の淡谷まり子氏が「田中角栄を弁護する者は国民の敵か」という一文を雑誌に寄稿しておられる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月16日
これは相当に大きな問題を含んでいると思われるので、以下に少し、これについて私の考え方を記しておきたい。<『「常識」の非常識』
ホモ・ソムニアーンス。夢ならば動物も見る。しかし自分が死んだ夢をみる動物は人間だけだろうし、幻視・予視をも含めた夢は、決して主観的な非現実的心像ではない。それは私達人間存在の一部であり、私達が住み着いた意識の世界そのものである。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月16日
権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。我々を対話に引き込み、我々の不吉な受動性を壊すために。(中略)真の批判の第一歩は、受動性の中に引き籠もり、参加を拒否することだ。この最初の第一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月16日
2013年の春に、萩原朔太郎の小説『猫町』を舞台化したときのPV。「私は道をなくしたのだ」というコピーは私が書いたのだろうが、今になってみれば妙に預言めいていると感じてしまう。
他者は私たちにとって身体にとりついた精神であり、私たちには、この身体の全面的な現象のうちに精神のあらゆる可能性が含まれているように思えます。身体はそれらの可能性の現前そのものなのです。『知覚の哲学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年11月16日
「民主主義」は根本的に「反人間主義」的である。「(具体的な、現実の)人間の大きさに合わせて作られた」ものではなく、形式的で冷酷無比な抽象化に合わせて作られたものである。(中略)民主主義とは、抽象的な個人と個人の形式的な繋がりである。(『斜め』p305)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月16日
性現象の歴史を、権力=制圧、権力=検閲という考えに基づいてでなく、権力=煽動、権力=知という考えに基づいて書かなければならないだろう。抑制するものとしてでなく、性現象という複雑な領域を構成するものとして、強制、快楽、言説などの体制を見極めるよう試みねばなるまい。-西欧と性の真理-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月15日
私達は可能事から可能事へと後退を続け、私達において一切は再開始し、決して賭けられはしない。だが神においては?神という存在の「飛躍」においては?その「ぎりぎりが最後に」おいては?あの精力涸らし尽くす神の孤独に身を置いてみなければ、誰にも嘆願の極点にまで至りつくことはできないだろう。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年11月15日
■山本七平botまとめ/「何故、日本の法と伝統的規範は乖離しているのか?」/~「神」が律する西欧と「人間関係」が律する日本~ https://t.co/k337dlmdWu
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月14日
㊹「日本軍と同じですよ。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月14日
重役の不可能命令と下部の員数水増し報告で構成された虚構の世界が崩れたということでネ。それだけです」と。
そして旧軍隊そっくりの員数主義がそのままに出ているのが、昭和五十年の春闘共闘委の西野事務局次長の言葉である。
[〈啓蒙〉の特徴である]〈脱出〉は、カントによってかなり両義的に示されている。彼はそれを、一つの事実として、起こりつつあるプロセスとして性格づけている。だが同時に彼はそれを一つの使命、義務としても提示している。-啓蒙とは何か-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月14日
まあ、過剰物としての沈黙が理解できないんじゃこれも理解できないよ。図面をひいて道具や建物を作る、生殖とは必ずしも関係の無いエロティシズムを楽しむ、革命や同類殺しや自殺をする…、このような動物の生み出した文化は、良い意味でも悪い意味でも自然をはみ出した過剰物であり、想像力・想像力の源としてのコトバの存在なしには考えられない。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月14日
主体は〈他者〉の問いに対する〈現実界〉の(対象の、外傷的核の)応答である。問いそのものは受け手の中に恥と罪の効果を生みだし、主体を分割しヒステリー化する。(中略)主体は、自分の中の対象に対する主体自身の分割・分裂を通じて構成される。(『崇高』p335)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月14日
知ったことではないね。
ロンピョーをソンチョーしてやるサービスなどチケ代に含まれてないんだよ。新聞広告の裏にでも勝手に書いてろ。
高血圧性脳出血についてお話しします.脳出血は,昔は脳溢血とも呼ばれていたことがあり,脳の中の血管(主に直径200-300μmの細い動脈)が破れて脳の中に出血し,血液の塊(血腫)が脳細胞を圧迫して壊してしまうことで発症します.突然に頭痛,嘔気,意識障害,運動や感覚の麻痺,言語障害などをきたします.そして血腫が大きくなると脳浮腫も伴って頭蓋内圧が高くなり,脳ヘルニアをきたして脳幹部を障害して死に至ることもあります.この脳ヘルニアですが,ヘルニアとはそもそも組織が圧迫などにより元々ある場所から境界を越えて飛び出すことを言い,脳は頭蓋骨という硬い組織で出来た空間に閉ざされて存在するため,圧がかかると逃げ場として空いている隙間を超えてはみ出すことになります.このためはみ出された側も圧迫されることになり,脳出血により大脳テントといって大脳と脳幹や小脳を水平に仕切っている部分を超えて大脳の側頭葉が下方に向かってはみ出すと中脳などの脳幹を圧迫することになり,眼球運動の障害など脳神経の麻痺や意識障害をきたします.脳出血の原因は約70%が高血圧によると言われており,細い小動脈に血管壊死という動脈硬化性の病変が出来,小動脈瘤を形成し,これが破裂して出血をきたしたり,その他には脳動脈瘤,脳動静脈奇形,腫瘍内出血,脳の外傷,白血病などの血液疾患なども原因となります.高血圧性脳出血は最も頻度が高いのは被殻出血(40%)と視床出血(35%)で,これにより対側の片麻痺や感覚障害をきたします.そして治療ですが,血腫の増大は,発症後,数時間以内に約20%の患者さんに見られますが,だいたい3-6時間で血腫の増大は止まると言われております.血腫の検査としては頭部CTが緊急性の意味からも有用です.一方,脳浮腫は出血後3日目くらいから強くなり,1週間くらいしてピークを迎えます.脳ヘルニアを併発して状態が急変しないように監視することが必要です.このため脳出血の急性期の治療としては,血圧のコントロールと脳浮腫の対策などがあります.血圧はあまり下げすぎても脳血流量が減少して循環が悪くなるため降圧剤投与前の8割程度に血圧を下げるようにしているようです.また血腫を除去する手術をするかどうかですが,出血量が10ml以下と少ない場合や神経症状が軽微な場合,意識障害が極めて重い場合は適応がないとされています.そのほかのけいれん発作,消化管出血,血糖や電解質異常などに対しても必要に応じて治療を行いながらなるべく早期から積極的にリハビリを行うとともに,1-3ヶ月の間に血圧は140/90mmHg以下にするのが良いと言われております.とにかく脳血管障害は早期発見・早期治療が重要ですので少しでもおかしいと思ったらすぐ病院にかかるようにして下さい.
http://www.itsuki-hp.jp/radio/kako-170402
マキャヴェリによると、君主よりも共和国を担い手とする時、スタートは拡大する。『リウィウス論』は共和国それ自体を一つの君主に見立てて共和国の周辺諸国に対するスタートの維持拡大を論じた。更にマキャヴェリは人々を統治するために宗教の力を利用することも提案する。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年11月13日
リハビリを半年近く行った時点で、動かない手足は動きません。厳しいようですが、医学 的に6か月が限界であるのです。そのため、身体障害者手帳も発症6か月経ってから申請が可能です。現 在の医療保険制度で、6か月以降の医療保険でのリハビリを認めていないことも、この理屈によるもの なのです。
パレーシア[=率直な話し方、リーベルタース]のエートスとテクネー、つまり語り手や師や指導者に要求される道徳的態度と技術的手続きは何なのかを理解するには、それらに対応する二つの敵を突き合わせてみればよい。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月13日
1.道徳的な敵=追従
2.技術的な敵=レトリック(弁論術)
-主体の解釈学-
エロティシズムはフロイトが考えたような欲動そのものや自然的欲求の中にあるのではなく、これがイメージ化され欲望となったときに生ずる、“言葉の産物”に他ならない。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月12日
もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保証すべきだとするならば、そして知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能な限り容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか?-快楽の活用-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月12日
②一種の慰霊碑でしょうが、彼はこれで、敵も味方も日本人も朝鮮人も明人も差別なく、すべての戦没者を慰霊しております。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月12日
私は世界中の戦勝碑や慰霊碑や無名戦士の墓を全部調べたわけではありませんが、これは、当時として非常に珍しい行き方と思います。
ジジェクの知的展開の特徴は、自分が属する公的な文化に対してとってみせる距離、公的文化への異質性にあるのだ。彼は常に、正当性の中の染み、不透明な部分を引き受け、自分の仕事の場である社会や哲学のしきたりに完全に組み入れられることは決してないのである。(『スラヴォイ・ジジェク』p28)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月12日
「スピカの夜 「最終回イベント」@東京タワースタジオは2017.9.9(土)だったのだな。
競争は本来的に意見形成の場である。競争は情報を普及させることによって、ある経済体制をわれわれが単一の市場と考えるときに前提としている、その統一性と整合性とをつくりだす。競争はなにがもっとも良くて、なにがもっとも安いかについての人びとの見解をつくりだす(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月12日
達成しなければならない課題は https://t.co/NheCNSYyM0 (回答まとめ・解説) #毎日ことば
— 毎日新聞・校閲グループ (@mainichi_kotoba) 2018年11月12日
[古典派の第一公準(労働需要の公準)=]賃金は労働の[価値]限界生産物に等しい(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月12日
[かつて自由は圧政からの自由を意味していたが、]社会主義が主張するようになった「新しい自由」は、(客観的)必然性という言葉で表現されるような範囲……をどんな例外もなく制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月12日
象徴的秩序は突然完全な形で出現する、つまり何もなかったのに、次の瞬間にはすべてここにある、というだけでない。何もなかったのに、突然、象徴的秩序がつねに・すでにあった、つまりそれがなかったときは片時もなかった、ということである。(『事件』p162)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月12日
https://www.uta-net.com/movie/109626/
「アンタのためよコレ分かってんの? わざわざ損な役目買ってんの いいことしか言わないそのへんの人と違ってあえて叱ってんの!」
......とか言うほど正しかないし結果自分の話しかしないし これってまさかなんかの仕返し?い返しでもした日にや一大事
善意からだけになお厄介 ぶっちゃけ的外れなおせっかい
その的外れなおせっかいを肥大した自己愛が自覚させない。
⑦『百人斬り競争』は「断固たる事実」だと、何百万の新聞読者が主張しようと事実でないことは事実でなく、それは多数決の対象とはならない、
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月12日
と記したが、この場合もそうで、どちらにだれがどれだけ数多く賛同しようと、それは関係がない。
⑬新聞も大学も文化人も政党人も全て正義を口にする。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月12日
まるで全員が「瀆(けが)れた布」を頭にかぶり「使用ずみのアンネ」を口にくわえてデモ行進をしているようになり、その瀆(けが)れが各自の全身にまわっていながら、それが、世の中を正し、清めることだと少しも疑わない。
■共産、社民は日本の責任を強調日本共産党の志位和夫委員長は、1日の定例会見で、
「日韓請求権協定によって、日韓両国間での請求権の問題が解決されたとしても、被害にあった個人の請求権を消滅させることはないということは、日本政府が国会答弁などで公式に繰り返し表明してきたこと。たとえば、1991年8月27日の参院予算委員会で、当時の柳井俊二外務省条約局長は、日韓請求権協定の第2条で両国間の請求権の問題が『完全かつ最終的に解決』されたとのべていることの意味について、『これは日韓両国が国家として持っている外交保護権を相互に放棄したということであり、個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない』と明言している。強制連行による被害者の請求権の問題は、中国との関係でも問題になってきたが、2007年4月27日、日本の最高裁は、中国の強制連行被害者が西松建設を相手におこした裁判について、日中共同声明によって『(個人が)裁判上訴求する権能を失った』としながらも、『(個人の)請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものではない』と判断し、日本政府や企業による被害の回復にむけた自発的対応を促した。この判決が手掛かりとなって、被害者は西松建設との和解を成立させ、西松建設は謝罪し、和解金が支払われた。たとえ国家間で請求権の問題が解決されたとしても、個人の請求権を消滅させることはない。このことは、日本政府自身が繰り返し言明してきたことであり、日本の最高裁判決でも明示されてきたこと」と述べた。
社民党の又市征治幹事長は、6日の会見で政府も以前は「日韓協定では外交保護権が放棄されたにすぎず、個人の請求権は消滅していない」と国会答弁していたと指摘。
ただし本書は、ラカンは「ポスト構造主義」とは根本的に断絶していることを明らかにする。ラカンは故意に難解なことを言う、という歪んだイメージを正すため彼を合理主義の系譜の中に位置づける。ラカン理論はおそらく啓蒙主義の、最も根源的な現代的ヴァージョンである。(『崇高』p22)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月12日
自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。-主体の解釈学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月12日
ポストモダニストにとっての合理的精神は、「客観性」への、すなわち「合理的」で「客観的」であるとされるものを規定している権力と言説のメカニズムを忘却する「客観性」への形而上学的な要求をともなっている…。(『全体主義』p15)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月11日
みのもんた「朝鮮半島と日本が戦争したというのは事実」
武藤正敏・松川るい「してない」
み「でも戦争ですよね」
松「してない。日本と韓国が戦ったことは1回も無い」
この程度で司会をやらせるなよ。 pic.twitter.com/hI1WFkIav2— ちぢれ麺 (@chidiremen11) 2018年11月10日
みみっともないおっさんである。
■山本七平botまとめ/「アントニーの詐術①」/~「命令」でないが「命令に等しい拘束力」を持つ軍人的断言法(ミリタリー・アセヴェラティヴ・ムード)とは?~ https://t.co/4ElMHzi407
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月11日
認識する主体、認識されるべき客体、認識の様態は、それぞれが〈権力-知〉の基本的な係り合いの、またそれら係り合いの史的変化の、諸結果であるという点が考慮されなければならない。-監視と処罰-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月11日
だけだけれども原稿を書き進めた。
縛られた感情、自由なる精神。――感情を厳しく縛って取り押さえておけば、精神に多くの自由を与えることができる。これはかつて私の言ったところである。だが、人はもともとこれが解らなかったものか、私の言葉を信じない。―― ―― -善悪の彼岸-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年11月11日
を穿いた。入院中は片手でも穿きやすいように、足を突っ込む口を妻が丸めてドーナツ状にしておいてくれた。今はもうやってない。そのことに文句があるわけじゃないが、そういう「思い出を語ること」が裏側に恨みがましいようなメッセージを勝手に孕んでしまうのが厄介である。
ある特定の危機がメディア上で突出するのは、あくまで、他の危機との複雑な闘争の結果である(…)本当の意味で人道主義的な関心は、概して、文化的、イデオロギー的-政治的、経済的関心ほど重要な役割を果たさない。(『暴力』p12)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月11日
胸の辺りにわだかまるもやもやした焦燥感のようなものを煙草の煙で絡め取って吐き出すのである。すると気持ちが少し落ち着く。「錯覚」なのかもしれないが、そういう錯覚を覚えるという主観的事実は否定しがたい。
〈大文字の他者〉は脆弱で、実体がなく、本質的に仮想存在である。つまりそれが占めている地位は、主体的想像の地位である。あたかもそれが存在しているかのように主体が行動するとき、はじめて存在するのだ。(『ラカン』p28)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月11日
〈コードなき差異〉とは、多義的象徴であり、自らと交換可能な指向対象を持たない言葉の姿である。これはまた、狭義の動物が持つ安定した信号体系を失った人間が、本能図式によっては分節しきれない生のエネルギー(=欲動)を意味化する現場に生ずる差異でもある。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月11日
「解答」ではなく「問い」だろう。
十八世紀における流行病の状況、及び市で名村の流行病研究によって、医学は国家的な規模で情報収集、管理、拘束の必要に迫られた。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月10日
驚いたなあ。【ご報告】
— 飯田來麗 (@iidaraura) April 6, 2018
いろいろ心配して下さった皆様
ご報告が遅れてしまい申し訳ありません。 pic.twitter.com/JRKaePItnc
病気の持つゲシュタルトが身体内の局在と完全に一致する、と考えられたのは、十九世紀に、病理解剖学が王座を占めた短い期間のことに過ぎない。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月10日
…政治権力とは、固有権の調整と維持とのために、死刑、従って、当然それ以下のあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、また、その法を執行し、外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも、すべて、公共善のためだけにそれを行う権利である…(J・ロック)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年11月10日
臨床医学の真の重要性は、それが医学的論述に奥行きを与えたというだけでなく、病気について言葉を使うことができるという可能性そのものを再編成した点にある。子の言説の特徴は控えめであることだが、それは見るところと、言うところとに共通な構造があるためだ。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月10日
[モーツァルトのオペラにおいて、]主体的心理学的な内容が形式の中にあまりに強く自己表現し、形式にあまりに直接的に浸透するのを妨害する―つまり内容と形式を引き離しておく―この制約・束縛の中に、内容の「抑圧された」真理は自己表現の場所を見いだす。(『崇高』p350)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月10日
欲望そのものが欲望にたいする防衛であると言うことができよう。空想を通じて構成された欲望は、〈他者〉の欲望にたいする、すなわちこの幻想を超越した「純粋な」欲望(つまり純粋な形の「死の欲望」)にたいする防衛なのである。(『崇高』p226)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月10日
ジジェクの知的展開の特徴は、自分が属する公的な文化に対してとってみせる距離、公的文化への異質性にあるのだ。彼は常に、正当性の中の染み、不透明な部分を引き受け、自分の仕事の場である社会や哲学のしきたりに完全に組み入れられることは決してないのである。(『スラヴォイ・ジジェク』p28)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月10日
⑬色々な原因があったと思う。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月9日
そして事大主義も大きな要素だったに違いない。
だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。
一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。
ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉:ソシュールが五段階にわたって行った〈西欧形而上学の記号学〉解体の結果明らかにされた、言語=意識=身体の深層に見出される〈差異〉のこと。表層意識において実体視される〈コード化された差異〉以前の差異。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月9日
人が自分の役に真に同一化されるのは、(中略)その役を演じ規則に従う際に、目立たぬ侵犯と特異性を付け加える時である。その侵犯と特異性が、私の演ずる役の下に、その役に直ちには同一化されえずまた還元さえないような実際の人格があることを指示する(『神話』p226)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月8日
をしながら、これが去年の自分だったら短い仮眠を取りながら朝まで仕事を継続しつつ、同時並行で原稿書きや制作業務、舞台の図面引きや音響の編集をしたりしてるパターンだなと思う。けど、もうそんな芸当はできないし、する必要もなくなったのだ。
■山本七平botまとめ/「知らざるに劣る”一知半解人”を作り出す日本の教科書」 https://t.co/tujXJNheaj
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年11月8日
https://togetter.com/li/257246
【山本七平:以下[山本]】今、お話にでた社会の中に不自然をみて、それを悪であるとする発想は、人間は善であるという性善説と表裏の関係にありますね。人間は善い、自分は善い、しかし社会が悪いのだと。<岸田秀との対談集『日本人と「日本病」について』より
【岸田秀:以下[岸田]】つまり、その場合、社会の悪はどこから来るのかということまでは分析しない。今、お話にでた社会悪の構造的原因まで追究しないことが多いですね。
③【山本】そしてナマズを持ち出す。小室直樹氏が地震ナマズ説という比喩を使っているんですが、地震が起きるのはナマズが暴れるからだ、ナマズが諸悪の根源である、ナマズを殺せば全てが解決するという発想ですね。日本人は特にこの発想に陥り易い。だから「諸悪の根源」は絶えず必要なんだそうです。
https://kotobank.jp/word/身体失認-1720945
視覚や触覚などの感覚には異常がないにもかかわらず、自分の身体やその部分を認知できない状態。頭頂葉の障害によって起こり、身体の両側に起こるものと、片側に起こるものがある。
狂気は野生の状態では見出されません。狂気は社会の中でしか存在しない。狂気はそれを孤立化する感受性の諸形態、それを排除し或いは捕捉する嫌悪の諸形態の外に存在するものではないのです。-狂気は社会の中でしか存在しない-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月8日
そのとき自分が何の芝居に携わっていたか、過去の時間が、作品で区分されている。
自己愛を満たすコストを他人に押しつけないでくれ。
フーコーの『ルソー『対話』への序文』は書かれた時期が早く(1962年)、一見すると文学論だが、実際にルソーの『対話』に記されているのは、ルソーを攻囲していた沈黙による服従強制の権力装置[=黙殺・監視等]に対抗するルソー流の自己技法であるとする政治哲学論を読み込むことが可能である。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月8日
FBのアカウントを削除したのだが、「さよなら」を告げるために一旦復活。日曜に改めて消すことにする。
本質的性行為がエロティックたりうるための条件は、想像力による性的イメージの喚起であり、これを現出せしめるものは、言葉が生み出す自/他意識、時間・空間意識、死の意識、裸体・排泄事象に対する性的羞恥心、そしてとりわけ人間という動物が持つ一切の〈美意識〉であるといえよう。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月7日
FBのアカウントを削除することにしました。身体の自由がきかず、スマホの操作も迅速にできないし、管理が困難になったので。今度の日曜日に消す予定です。
長らくおつきあいいただきありがとうございました。
■山本七平botまとめ/【責任追及者の責任】/~マスコミの「誤報の責任」が生み出すオール無責任体制とは~https://t.co/2rrw7WUgg2
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年11月6日
PC作業しながら思いついたプロットを同時並行でドンドン書き留めるってことを
フツーにやっていてけど、そんな芸当もできなくなった。
fbのアカウントを削除した。身体の自由がきかず、スマホの操作も迅速にできないし、不愉快なコミットメントに対して冷静な対処ができそうもないから。
もともと芝居の宣伝ツールとしてはじめたのだし、今はもうその必要もなくなってしまったのだ。
二十世紀の社会的=政治的な場における想像力の貧困が、一体どこから来るのかとその理由を探ると、マルクス主義が重要な役を演じています。[…]いかにしてマルクス主義と縁を切るかというモチーフが私の思考にとっても根本的なものなのです。-世界認識の方法-マルクス主義をどう始末するか-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月6日
歴史にも人間にも終焉はない。あるものは絶えざる差異化という生の円環運動だけであり、これが停止した時に待っているのが、生の昂揚とは程遠い動物的死か、狂気なのではあるまいか。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年11月5日
我々の自由は、ただ我々の従属と依存によってしか現れえないというだけではない。そのようなものとしての我々の自由は、より大いなる神聖な計画の契機でもある―我々の自由は、本当の意味でそれ自体である目標なのではなく、より高次の目的に仕えているものなのである。(『神話』p182)
— 哲学・精神分析とジジェク (@looking_awry_) 2018年11月5日
音響オペなど、無料でやってやるつもりだったが、それも叶わぬコトとなった。
這い出して、今日でちょうど一年である。正直、あのまま目を覚まさぬ方が楽だったろうにと思うことしばしば。そんなことを言って妻を苦しめたくはないのだが、今後、その妻に何かあったとき、何もしてやれないばかりか、足手纏いになってしまう。
病巣 | 右半球、広範囲の脳損傷 |
生活での観察 |
ぼんやりしていて自分の周りの人や事象に関心を示さない 気が散りやすい 簡単なミスが多い 二つ以上のことを同時にできない 他のことに関心を転換できない |
神経心理学的検査 |
CAT(標準注意検査法) TMT(Trail Making Test) PASAT 7シリーズ,数唱 |
2)記憶障害
病巣 | 視床、前脳基底部、側頭葉内側面(海馬) |
生活での観察 |
日時、場所、人の名前がおぼれられない(見当識) 一日のスケジュールがわからない |
神経心理学的検査 |
WMS-R リバーミード行動記憶検査 三宅式記銘力検査 ベントン視覚記銘検査 |
稽古スケジュールを眺めている。
俺の「命日」の翌日夜、稽古場は「てくの1,2」となっている。
証言とも辻褄が合う。
あとは極力捨ててしまおう。
「管理」能力が落ちているのだから。
生成の経過は、劇的事件・忘却・疎外といったそのあらゆる可能性と共に、人間学的有限性の内に捕えられ、逆に人間学的有限性の方では、そこに己の輝かしい顕現を見出すであろう。〈有限性〉は己の真実と共に〈時間〉の中に示され、そのことによって〈時間〉は〈有限〉のものとなるわけだ。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年11月4日
に保存されてた昨年の写真を整理していた。稽古場の資料写真がほとんど。
昨年の今日の写真があったら気味が悪いなと思う。
というのも、そのとき俺はまだ昏睡中で、写真を撮れなかったはずだから。なかった、よかった。
をしたいのだ。本棚へのアクセスの障害物を除去したい。けれどもその意志を身体の障害が妨げるのである。
ホモ・モルタリス。本能とは異なるコトバによって〈死〉をイメージ化し、死の不安と恐怖を持つ唯一の動物だという意味では「人間だけが死ぬ動物」[ド・ヴァーレンス]かもしれぬ。しかし同時に、「人間は死への自覚をもって自らを不死たらしめる」[ハイデガー]動物でもあろう。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) October 30, 2018
そういう意味で、人の「死」もまた言葉でできているのである。だとするならば、マルセルデュシャンのいった「死ぬのはいつも他人ばかり」というのは違うという気がしてくる。
一部を文脈から切り離して曲解し、自の主張に利用するのは「ジャーナリズム」界隈でよく観られる光景。
早朝というには早すぎる深夜、ゴミ出しをしてきた。以前は完全に俺の仕事だったのだが、退院後発のゴミ出しである。雁行型マンションの端っこで、エレベーターまで遠い。そんでゴミ置き場は敷地の入口付近にあるから、そこまで杖で不随の半身を引き摺って歩くだけでもしんどい。それにエントランスの重いドアを開けて出て行くのが難しい。しんどいだけなら気持ちで乗り切れるが、転けたら結構オオゴトなのだ。ひとりで起き上がれるのか、心許ない。下手すりゃ骨折するかも知れないし。そんなわけで、慎重に。なんとか終了。
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