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2018年10月

2018年10月31日 (水)

「お話」を思いついたが

やはり「物語先行」だど陳腐でダメだな。

龍樹

龍樹(りゅうじゅ、梵: नागार्जुन、Nāgārjuna、テルグ語: నాగార్జునుడు、チベット語: ཀླུ་སྒྲུབ、klu sgrub、タイ語: นาคารชุนะ)は、2世紀に生まれたインド仏教の僧である。龍樹とは、サンスクリットのナーガールジュナ[注釈 1]の漢訳名で、日本では漢訳名を用いることが多い。中観派の祖であり、日本では、八宗の祖師と称されることがある。
真言宗では、「付法の八祖」の第三祖とされ[1]、龍猛(りゅうみょう)とも呼ばれる[2]。しかし、龍樹が密教を説いたかどうかや、第五祖金剛智との時代の隔たりから、龍樹と龍猛の同一性を疑問視する意見もある[3][注釈 2]。
浄土真宗では、七高僧の第一祖とされ龍樹菩薩、龍樹大士と尊称される。

かつての自分が

他の多くの他人と同じようにアタリマエにできたことが、今の俺にはできないのである。
ならば、今の俺がアタリマエにできることをできない他人がいたって何の不思議もないのである。

日韓請求権協定

1965年に結ばれた「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」のこと。略称は「韓国との請求権・経済協力協定」ともいう。両国の国交正常化のための「日韓基本条約」とともに結ばれ、日本が韓国に5億ドルの経済支援を行うことで、両国及び国民の間での請求権を完全かつ最終的に解決したとする内容。
日本の太平洋戦争敗戦後、韓国はサンフランシスコ条約の当事国に含まれなかったため、国交は成立しないままとなっていた。52年の同条約発効直前に、韓国は一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占領するなど日韓両国の関係が悪化した。後に、クーデターによって政権についた朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、日米など諸外国との関係改善を急ぎ、65年には「日韓基本条約」が締結された。これに付随して交わされたいくつかの協約の一つが日韓請求権協定である。
この協定は、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認する内容である。したがって、戦時中などに生じた事由に基づく請求権は、いかなる主張もすることができない。また、この協定に関する紛争があれば外交経路で解決するものとし、解決できない時は第三国を交えた仲裁委員会に付託することになる。
韓国政府は条約内容を長らく国民に明らかにしていなかったが、2009年には徴用工の未払い賃金等もこれに含まれていたと公式に弁明。同国内では、国民が受け取るべき補償を、韓国政府が一括で受け取り費やしたとの批判もある。近年になって、戦争中に徴用された韓国人らによる訴訟で、韓国の裁判所から日本企業に対する賠償命令が相次いで出された。韓国の最高裁判所に当たる大法院で賠償が確定すれば、これに対して国際司法裁判所に提訴すべきだなどの意見が日本側から出ている。韓国側では請求権の具体的な内容が協約に記されていないことなどから、従軍慰安婦や在韓被爆者などについてはこの協約の対象とはならないとする意見もある。

20180526

20180526

ほんとだったら

今頃は次回公演のチラシができて情宣がはじまってるはずだった。
版下の原案は去年のうちにできていたのだ。

ていうか相手が日本だからでしょ。「慰安婦問題」とか、自ら捏造し、耳の痛いことは誰も云わないものだ、それを事実を知る自分があえて言ってやっている、という独善性。そしてその「あえて」を「事実」の根拠とする謎論法。そういうオメデタイ自己愛の塊がシンポテキとされる)国だから。そういう意味では日本にも責任がある。

希望を捨てない

といえば聞こえはいいが、現実を受け容れられてないだけだったりする。
すると限りある人生のリソースをトンチンカンに消費して、じゅうぶん実現可能だったことさえできなくしてしまううことにもなるのだ。

2018年10月30日 (火)

居間のメインPC

にある仕事関係のフォルダをクラウド経由で書斎のサブPCにコピー。
これでちょっと安心。

自分の人生に

必要なもの/必要のないもの(他人との「関係」も含めて)を仕分けして、後者はできるだけ捨てていこう。荷物が重くてかなわない。不要なものを持っていく余裕などないのである。

厄介

こんな身体を持て余して、なお生きていかねばならぬ厄介さ。

2018年10月29日 (月)

作者の死

作者の死」(さくしゃのし、英語 The Death of the Author)はフランスの哲学者ロラン・バルトが1967年に発表した文芸評論の論文[1]。また、そこで提唱された、ある物語の作者はその物語の解釈を決める最高権威(神)ではないとする考え方である[2]。
バルトはテクストは現在・過去の文化からの引用からなる多元的な「織物」であると表現し、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移した

ナラティブ

芸理論の用語。物語の意。1960年代、フランスの構造主義を中心に、文化における物語の役割についての関心が高まった。その過程で、「ストーリー」とは異なる文芸理論上の用語として「ナラティブ」という言葉が定着した。
 物語に関する理論的探究は、アリストテレスの『詩学』にまでさかのぼることができるが、20世紀のロシア・フォルマリズム、および構造主義では、さかんに物語構造についての研究が行われて、やがてナラトロジーnarratology(物語学)という独立した分野を成立させるにいたった。ナラトロジーは、物語を、その物語内容storyと語り方narratingの双方から、またその相互作用において研究することを目的とし、物語を、始点、中間点、終点を備えた一体性をもった言葉の集合であり、何らかの事象の再現行為であると考える。例えば「水は二つの水素原子と一つの酸素原子からできている」という言明は、事実の叙述であって、時間的な経過をともなった事象の再現ではないが故に、物語ではない。一方、「やがて雨が降り出した」という文は定義上物語である。ナラトロジーは、主に詩や小説といった文芸作品を対象に精緻な分析を行うことで、時制、叙法、態といった多くの理論装置を生みだしたが、そこに共通しているのは、物語に普遍的な構造への関心、語り手の位置、語りが生みだす時間などへのこだわりである。論者によってその理論は大きく異なるとはいえ、総じて物語の内容以上に形式に注意を向けているといってよい。代表的な研究者としては、ロシアの民話が31の類型へと還元しうることを示したウラジミール・プロップVladimir Propp(1895―1970)、現象学的な観点からわれわれが時間を経験する形式として物語をとらえたポール・リクール、プルーストなどを素材に語りの構造がいかに作品の独自性を生みだすかを問題にしたジェラール・ジュネットなどが挙げられる。
 しかしナラトロジーが、民話学、記号学、レビ・ストロースによる神話の構造分析など他領野の強い影響のもとに成立したように、ナラトロジーの影響も文芸理論の分野だけにはとどまらなかった。『物語の構造分析』Introduction l'analyse structurale des rcits(1966)を書いたロラン・バルトが、同時に『神話作用』Mythologies(1957)で消費社会に潜む多様なナラティブ(神話)のあり方を分析してみせたことが示すのは、ナラトロジーが当初から、言語に限らないあらゆる領域におけるナラティブを問題にしようとしていたことである。1970年代以降、文化を意識されないナラティブ(神話、イデオロギー)の集合としてとらえ、その機能のさまを明らかにしようという潮流が広がった。そこに広くみられたのが、人間はナラティブを受容することで、さらにナラティブを語ることで、自己と社会を分節化し、構造化していくのだという考え方である。こうした考えをナラトロジーの影響だけに帰することはできないし、必ずしもナラティブという言葉さえ共有されていたわけではないが、そこには広い意味でのナラティブに対する着目が存在した。ナラティブは、国民、エスニシティ、ジェンダーなどの成立に深く関わるとされた。つまり、特定のナラティブを通じて世界を認識することで、社会的な権力構造と主体の位置が構成されると考えられた。
 歴史学では、ヘイドン・ホワイトHayden White(1928―2018)などが、歴史叙述はしばしばナラティブの形をとり、それは体制を擁護する働きをもつと論じた。歴史が多様な語り方の可能なナラティブにすぎないのかは意見の分かれるところだが、歴史学がナラティブとしての権力作用をもつという考えは広く受け入れられ、各国で勃興した歴史修正主義、すなわち国民国家の再興を志向する観点から歴史を読み替えていこうとする動きと関わって議論を呼んだ。これには、歴史が解釈(物語)を避けられないとしても、歴史家には事実の痕跡を通して「真実」を探究する義務があるというカルロ・ギンズブルグCarlo Ginzburg(1939― )のような立場も存在する。
 精神医療の分野では、主体は社会的言説の作用であるという社会構成主義の影響のもと、ナラティブ・セラピーの考え方が関心を呼んだ。ナラティブ・セラピーは、家族やカップル内部でのナラティブを重視し、カウンセラーや自助グループのあいだでそのナラティブを書き換えていくことで、個人の行動パターンや自己認識をかえていこうとする。1990年代以降、ナラティブという概念はその輪郭を曖昧にしつつも、政治学、社会学、国民国家研究、カルチュラル・スタディーズといった分野に根をおろしている。[倉数 茂]
『ロラン・バルト著、篠沢秀夫訳『神話作用』(1967・現代思潮新社) ▽ロラン・バルト著、花輪光訳『物語の構造分析』(1979・みすず書房) ▽ウラジミール・プロップ著、北岡誠司・福田美智代訳『昔話の形態学』(1987・白馬書房) ▽ヘイドン・ホワイト著、原田大介訳「歴史における物語性の価値」(W・J・T・ミッチェル編、海老根宏・原田大介ほか訳『物語について』所収・1987・平凡社) ▽ポール・リクール著、久米博訳『時間と物語』1~3(1987~1990・新曜社) ▽ジェラール・ジュネット著、花輪光・和泉涼一訳『物語のディスクール――方法論の試み』(1991・水声社) ▽小森康永・野口裕二・野村直樹編著『ナラティヴ・セラピーの世界』(1999・日本評論社)』
[参照項目] | カルチュラル・スタディーズ | 国民国家 | ジュネット | バルト(Roland Barthes) | リクール | レビ・ストロース | ロシア・フォルマリズム

ナッシュ均衡

1950年にジョン・ナッシュ(94年ノーベル経済学賞受賞)により考案された、現在のゲーム理論において最も基本的な均衡概念。具体的には、ゲームに参加する各プレーヤーが、互いに対して最適な戦略を取り合っているという状況を指す。このような状況が「均衡」と呼ばれるのは、各プレーヤーが互いに最適な戦略を取り合っているため、これ以上戦略を変更する誘因を持たない安定的な状況であるからである。ただし一般的には、あるゲームにおいて、ナッシュ均衡は複数個あるのが普通であるため、ゲームの最終的な解を求める際には、複数のナッシュ均衡の中から更によりありそうな均衡に絞り込む、リファインメントという手続きが行われることが多い。

悔やまれる

いわゆる教養主義的観点からでもサブカル的な「話題性」からでもなく、観ておくべきだったと思う芝居がある。個人的に重要な作品だったような気がするのだ。主宰と知り合いなのだから、観ようと思えば席を用意してもらえたのに。

今まで

俺が観た中で最低最悪の浅薄でバカ丸出しのプロパガンダ劇に出くわしたのはたしか一昨年だったか。いったい何の罰ゲームかと思ったが、もしも作者の頭の悪さを観客に伝えたかったのだとしたら、その目論見は成功していた。もう二度とああいう体験をしないで済むのは幸いである。

花瓶

いただいた花を活けるのにちょうどいい花瓶があったと思ったのだけど、水アカがついてしまって、とっくの昔に捨てたのだった。
20181027

ボロボロ

なのだ。正直言って。ただ脚を前に投げ出しておく、たったそれだけのことすら満足にできないのである。

「我思う、ゆえに我あり」についての解釈と批判

https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html
ラテン語のCogito ergo sumを英語に置き換えると、cogito=I think、ergo=therefore, sum=I am.となり、英語では I think therefore I am.となる。
スピノザは、コギト・エルゴ・スムは三段論法ではなく、コギトとスムは単一の命題を言っている(「我思う」と「我あり」は同一とみなす)のであり、「私は思いつつ、ある」と同義であると指摘した。そのスピノザの指摘からカントはエルゴを不要とし、コギト・エルゴ・スムは経験的命題であり自意識によるものだとした。
デカルト自身もコギトについての自分の結論があらたな問題を生じることは自覚していた。自分が疑っているから自分は存在するということは、自分が疑うこと、考えることをやめても自分は存在しうるかという問題である。デカルトは、考えることをやめれば存在しなくなることがありうると結論した。したがってコギト・エルゴ・スムをより慎重に言い換えると「私は今考えている、ゆえに私は今存在している」となる。
デカルトのコギトは後の哲学者たちによって批判的に読みかえられていく。主要な説に以下のようなものがある。
スピノザは上述のようにコギト・エルゴ・スムは三段論法でないと指摘する。そしてデカルトのいうように疑っている何か、「思う」ものが在ることは真理としても、「ゆえに我あり」との結論は誤りだという。つまり「思う」と「我」を分離し、「我思う」と考えているものが本当に「我」なのかわからないということである。むろん、スピノザの形而上学においては、個別の人間たちの自我は神の部分的な観念に過ぎないのだから、「我思う」という思惟は唯一の実体である神の観念ということになる。なおスピノザのように、「思う」と「我」とを分離する解釈は哲学者に少なくない。(無主体論も参照のこと)
デイヴィッド・ヒュームはデカルト批判を透徹し、コギト=自我そのものの存在を解体した。ヒュームの方法はバークリーの経験論を継承して極限まで進めたものだ。バークリーによれば存在するものは全て、実在でなく自我の中における感覚・表象の束にすぎない。ヒュームは更に懐疑する。その自我なるものは存在するか? そう問うのは一体何なのか? 自我という感覚・表象は実際に無い。「自分」と呼ばれるものの中を詳しく見ればわかる。そこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。その個別的な感覚や観念なしには決して「自分」と呼ばれるものを捉えることはできない。つまり自我というものはさまざまな感覚・観念の経験によって構成された、さまざまな観念の束にすぎないのだ。水面に現れては消える泡のような個別的な感覚・観念たちが、「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的体験の結果に過ぎないものたちから原因、すなわち「主体」となるものを想定した結果、作られたのが自我という抽象概念なのである。
カントはデカルトのコギトが実体概念であることを否定する。「全ての表象に『我思う』が伴いうるのでなければならない……私は直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することによってのみ、これらの表象における意識の同一性そのものを表象できるのである」という。これは「我思う」は反省的自己意識――「私」を多くの思惟を一つにまとめている統覚とは言えるが、実体と解釈することは、概念を実在と見なすことになると考える。物自体は認識できないとするカントの認識論からすれば、「我思う」という概念に対応する対象も我々に直接与えられていないゆえ、実体ではないということになる。
フッサールは自我を経験的自我と超越論的(現象学的)自我に分ける。つまり自我自体をさらに見ている自我の存在を想定する。「自然的見方をする自我としてのわたしは、同時につねに超越論的私でもあるが、しかしわたしは、現象学的還元をおこなうことによってはじめてそのことを知るのである」とフッサールはいう。すなわち、経験的自我と、それを超越論的に還元することによって見出された現象学的自我があるということだ。これはデカルトが同一視した「私は疑う」と「私は考える」を区別し、超越論的還元を行う「疑う私」と、そのような還元によって見出される超越論的主観の区別である。なお、フッサールの「自我」の概念は人間の経験を可能にする原理という意味であり、デカルトがコギトを実在だとしたのと全く異なっている。
バートランド・ラッセルは、コギトを単なる意識内容(コギタティオ)の告知とみなし、「I think therefore I am.」を「It thinks within me」と言い換える。
ウィトゲンシュタインは、デカルトの「我思う」を、「思うということが我なのである」と言い換える。つまり「我」とは考えることそれ自体を指す(同時性)という解釈である。フッサールやヒュームと異なり、ウィトゲンシュタインにとって現れては消える感覚・表象は全て「私」なのである。これは経験と、それを成り立たせる主体とは不可分であるということだ。その独我論的解釈は「世界は私の世界である」、また「私には最も重要な意味で同類がいない」という言葉で表現される。ウィトゲンシュタインと同じ解釈の哲学者に永井均がいる。

コストセンター

コストセンターとは、会計用語から生まれたもので、「原価中心点」とも言われ、一般的な定義としては業務にかかった費用だけが集計される部門とされます。コストセンターの目的は、いかにコストを抑えながら、良いパフォーマンスを発揮するかということ。直接利益を生まない事業部門であるため、業務効率化や圧縮が求められます。
コストセンターの例としては、経理や総務などのバックオフィス業務、顧客からの問い合わせに対応するコンタクトセンターなどがよく挙げられます。
また、自社内で製造を行い、販売しているような業態の場合は、生産部門(工場)をコストセンターとして捉える場合もあります。

廃用症候群

骨折した箇所をギプスでしばらく固定しておくと、ギプスを外したときに思い通りに動かせなくて驚いたという経験のある人はいませんか?それが「廃用(はいよう)症候群」です。
高齢者の場合、病気やケガで入院するなどして長期間寝たきり状態になると、廃用症候群を発症しやすくなります。
「生活不活発病」とも呼ばれる廃用症候群。まず、廃用症候群の特徴や症状についてお伝えします。

●廃用症候群の定義と特徴
廃用症候群とは、病気やケガなどの治療のため、長期間にわたって安静状態を継続することにより、身体能力の大幅な低下や精神状態に悪影響をもたらす症状のことをいいます。
廃用症候群の進行は速く、特に高齢者はその現象が顕著です。1週間寝たままの状態を続けると、10~15%程度の筋力低下が見られることもあります。
さらに、気分的な落ち込みが顕著に現れてうつ状態になったり、前向きに取り組むやる気が減退したりと、精神的な機能低下も見られます。
似たような症状に「ロコモティブシンドローム」(運動器症候群、通称「ロコモ」)があります。
これは高齢化社会を迎え、国が「メタボリックシンドローム」(メタボ)の次に国民に浸透させようとしている言葉です。
ただし、ロコモは「足腰の衰えなどが原因で、日常生活に支障を来している状態」のことを指し、原因には主に「加齢による衰え」や「筋肉・関節・骨など運動器自体の病気やケガ」が挙げられます。したがって、廃用症候群とは異なるものです。

図書館で

本を借りるのも難儀である。こんな身体になってしまっては受取に行くのも返却するコスト(労力+金)もかかりすぎてしまう。

脳卒中によって起こる障害とは

脳は前頭葉・側頭葉・頭頂葉・後頭葉などの大脳や脳幹、小脳など、場所によってさまざまな機能を持っています。そのため、どの部分で脳卒中が発生するかによって障害の程度や症状が変わってきます。
脳卒中における障害の代表的なものには、大きく分けて以下の7種類があります。
意識障害
麻痺・感覚障害
言語障害
嚥下障害
高次脳機能障害
精神障害
半側空間無視

意識障害
大脳や脳幹の広範な部分がダメージを負ってしまった場合は、意識障害が起こります。重度の意識障害が起こることにより、呼吸・循環・消化管・免疫系の状態などもすべてが悪化し、最悪の場合は命にまで危険が及ぶこともあります。
麻痺・感覚障害
大脳の運動野や錐体路の神経線維がある程度以上に冒された場合は、その反対側に麻痺が起こります。脳卒中の場合だと、脳損傷と反対側の片麻痺(片方の手足が麻痺すること)となることがほとんどです。これは上下肢の運動神経が延髄で交差するためで、延髄より上位での脳損傷は対側に片麻痺を生じます。一方、運動神経のすぐ背側に感覚神経が走っているために、片麻痺がある場合は、痺れ・感覚鈍麻などの症状を伴うことが多くみられます。
特に、感覚神経の深部感覚障害では体のバランスがとりにくくなり、重い後遺症を残すことにつながります。
言語障害、嚥下障害
言語障害もよくみかける脳卒中による障害の一つです。具体的には、言葉がうまく出てこなかったり、言葉が理解できなくなる失語症が代表的で左前頭葉や側頭葉の損傷で生じ、呂律が回りにくくなる構音障害は脳幹損傷時にみられます。また、嚥下障害(物がうまく飲み込めない)も、広範な大脳損傷や脳幹損傷でみられる典型的な脳卒中における障害のひとつですが、加齢や廃用でも進行しますので注意が必要です。
高次脳機能障害
また、高次脳機能障害というものも生じ得ます。高次脳機能障害とは、「物事に対して注意ができない」「記憶ができない」「思考ができない」「遂行することができない」「間違っていた場合にそれを修正できない」(間違いを気づかない・間違っていると分からないから修正しない)「学習できない」というように、大脳損傷により脳の高いレベルの機能がうまく働いてくれなくなるというものです。
たとえば、高次脳機能障害の患者さんは、土足で家にあがっても、それが悪いことだと分からなくなっている場合があります。
精神障害
大脳基底核や側頭葉・後頭葉などの損傷で精神障害が生じることもあります。精神障害とひとくちにいっても、鬱・暴力・せん妄(混乱状態)など、様々な形となって現れます。
半側空間無視
また、広範な大脳の損傷で見えているのに見えない・そちら側を気にしない「半側空間無視」という障害も起こります。
半側空間無視とは、どちらかの脳が障害を受けた際、受けた側の脳と反対側の空間を気にしなくなる症状のことです。具体的には、歩いている時など「目に入ったものは認識できるのだけれど、それが目の前にあることが分からなくて(気にしなくて)、ぶつかってしまう」という現象が起こります。たとえば、右の脳が障害を受けた場合は左側の空間を気にしなくなるため、左側にある障害物などを避けることができません。左無視の患者さんは左側に置かれた食事を食べ残してしまいます。
※左脳と右脳では障害を受けたときの症状が異なる
脳卒中における脳損傷が同じように起こっても、左脳と右脳には違った症状が現れてきます。
右脳は、私たちヒトが全体のバランスをとるための役割を果たしています。すなわち、右の脳がやられてしまうと、全体のバランスを取ることができなくなってしまうのです。全体のバランスが取れなくなると、本能的に色々なものごとに固執してしまうようになります。「これはダメですよ」と言ってもそれを止めることができず、衝動を抑制することもできず、学習することもできないため、何度注意しても同じ失敗を繰り返してしまいます。このため、中等度以上の右脳損傷の患者さんの治療は難しいと言えます。これを右半球損傷による劣位半球症候群と呼びます。
それに対して、左脳は計算や言語分野など、非常に高次で、限局的な機能を備えています。それゆえ、左脳が障害を受けてしまうと、言語障害(失語症)や失計算、失書などが起こります。このために、左脳に障害を持った患者さんは重症だと思われがちですが、右脳に障害を受けた患者さんと違い、全体のバランスは保たれています。そのため、左脳損傷の方は右脳損傷の方と対照的に、「学習」ができます。
言語障害は起こってしまうため、言語能力の低下は認められますが、非言語的な学習はできます。ですから、左脳に障害を持っている患者さんの方がリハビリテーションによって回復しやすいといえるでしょう。しかし、大脳が広範に損傷された場合は、左右に関わらず、重度な高次脳機能障害が生じ、回復は容易ではありません。

所詮は他人事の気楽さで

してくる無責任な「アドバイス」(=不要な干渉)。
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和暦西暦早見表

2018年10月28日 (日)

昔の原稿とか

修正して使いたいと思ってもワードで残ってなかったりするけど、PDFにしてあれば、それをグーグルドライブに置いて、グーグルドキュメントで開き、ワード形式で保存し直せば、全部打ち直しの刑は免れる。
Ganbare

鬼に食われた男の話

アニルアナンサスワーミー『私はすでに死んでいる』プロローグより

Watasihasudenisindeiru

鬼に食われた男の話は、紀元一五〇~一五年に成立したとされるインド人乗仏教中観派の 『中論』に出てくる。身の毛のよだつ語だが、仏教哲学における自己の本質を説いている。
長旅をしている男が、空き家に泊まることにした。真夜中、一匹の鬼が現われ、運んできた死体 を男の横に置いた。それを追いかけるように別の鬼もやってくる。どちらの鬼も、死体を持ってき たのは自分だと主張して譲らない。らちがあかないので、鬼たちは一部始終を見ていた男に答えろ と詰めよった。死体を運んできたのはどっちだ?
嘘をついてもしかたがない。どう答えても、どちらかの鬼に殺されるだろう。観念した男は、死 体を持ってきたのは最初の鬼だとほんとうのことを言った。一番の鬼は激昂して、男の腕を引き ちぎった。そこから陰惨な場面が展開する。最初の鬼はすかさず死体の腕をはずして、男にくっつ けた。以下同様で、二番目の鬼が男の身体の一部をちぎるたびに、最初の鬼が死体から同じ部分を 取って男に戻したのである。両腕、両脚、胴体、ついには頭まで―とうとう男と死体はすっかり
入れかわってしまった。二の鬼は死体に食らいつき、食事を終えると口をぬぐってよっていった。
あとに残った男は途方に暮れた。いったい何が起きたのか。生まれたときに与えられた身体はぬ たちにみんな食べられてしまい、いまの自分は赤の他人の身体で構成されている。自分には身体が あるのか、ないのか。あるのだとしたら、これは白分の身体なのか、それとも他人の身体なのか。 身体がないのなら、いまここにある身体は何なのか。
翌朝、男は混乱したまま旅を続けた。仏僧の一団と出会ったので、くすぶっていた疑問をぶつけ る。私は存在しているのでしょうか? すると仏僧たちは刀に問いかえした「おまえは何者か? 男はどう答えてよいかわからず、鬼に身体を交換された話をした。 「私は誰なんでしょう? 現代の神経科学者ならば、この問いにどう答えるだろう。身体を丸ごと 取りかえるなんて生物学的にありえないと指摘しつつも、「私」に光を当てる興味ぶかい答えが 返ってくるにちがいない。

身体図式

じぶんが今椅子に座っていること、また、右足を左足の上に組んでいることをひとは観察によることなく直接知っている。あるいは、暗闇であってもじぶんが蚊に刺されれば、即座にその身体箇所に手のひらを持っていくことができる。このような場面で働いている身体に関わる潜在的な知覚の枠組みのことを、身体図式という。
頂葉の損傷が身体の感覚や認識を障害することは神経心理学的研究によって明らかにされてきた。身体図式の障害について、Wolpertら,[5]は、左上頭頂小葉の損傷で、右上・下肢の身体位置感覚が閉眼によって失われるという症例を報告している。この症例は、身体図式が体性感覚と視覚情報の統合を必要とし、頭頂連合野が強く関わっていることを示した。
 また右頭頂葉の損傷では、自分の左半分の空間を認識しない左半側空間無視の症状が観察される。自己の左半身の身体の存在を意識しなくなるという意味で、 半側身体失認を伴う場合がある。患者はしばしば、顔の左半分の化粧をしなかったり、服を着ても左半分をきちんと着れなかったりする。この他にも頭頂葉の損傷は、身体図式と身体イメージを含めた広義の身体意識に関わる症状を引き起こすことが報告されている(例えば、病態失認、身体失認、身体部位失認)。

シャワーを出したら

水じゃねえか!
というベタなボケをかましてしまった。
Pose_atama_kakaeru_man

モーリス・メルロー=ポンティ

の哲学は「両義性(Ambiguïté[2])の哲学」「身体性の哲学」「知覚の優位性の哲学」と呼ばれ、従来対立するものと看做されてきた概念の<自己の概念>と<対象の概念>を、知覚における認識の生成にまで掘り下げた指摘をしている。
たとえば、それまで枯れ木を見たことがない人にとっては、枯れ木を見るだけでは、名前のない枯れ木を「現象」としてしか知ることができない。「枯れ木」を恒常的に認識できるようになるためには、「枯れ木」という言葉(記号)を知る必要がある。
また、精神と身体というデカルト以来の対立も、知覚の次元に掘り下げて指摘し、私の身体が<対象になるか><自己自身になるか>は、「どちらかであるとはいえない。つまり、両義的である」とした。一つの対象認識に<精神の中のものであるか><対象の中のものであるか>という二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>。しかし、それは無自覚な<曖昧性>のうちにあるのではなく、明確に表現された時に<両義性>を持つとした。そして、その状態が<私という世界認識><根源的な世界認識>であるとした。
そこには、既に言葉と対象を一致させた次元から始めるのではなく、そもそもの言葉の生成からの考察がある。
それは、論理実証主義哲学、分析哲学、プラグマティズムなどの<言語が知られている次元>からの哲学に厳しい指摘をしたといえる。そこには多くの哲学の垣根を越える試みが見られ、また、異文化理解や芸術などに大きな影響を与えた。

20180928@京王稲田堤

20180928

中論

『中論』(ちゅうろん)、正式名称『根本中頌』[注釈 1](こんぽんちゅうじゅ、梵: Mūlamadhyamaka-kārikā, ムーラマディヤマカ・カーリカー)は、初期大乗仏教の僧・龍樹(ナーガールジュナ)の著作である。インド中観派、中国三論宗、さらにチベット仏教の依用する重要な論書である。
本文は論書というよりは、その摘要を非常に簡潔にまとめた27章の偈頌からなる詩文形式であり、注釈なしでは容易に理解できない。

鬼に身体を食われた男のはなし

心身二元論

「我思う、ゆえに我あり」という結論からは、必然的に「その〈我〉とは何か」という問いが生じる。デカルトが出した最終的な答えは「私は本質的には考えるものである」というものだ。そして自分は本質的に心・魂であるなら、身体が存在しなくなったとしても自分はなお存在し続けることができるだろうと考える。ここから心と身体のあいだには実在的な区別があると論じ、心身二元論(実体二元論)を展開することになる。しかし心身二元論は、心的なものと物理的な肉体(延長)とが因果的にどのように作用しあっているのかという重大な問題を生じさせ、彼自身も回答に苦慮し、後の哲学者たちもさまざまな説を主張することになる。今日においてもこの問題には科学的に明確な結論はなく、心身問題、心的因果として活発な論議の対象となっている。
デイヴィッド・ヒュームはデカルト批判を透徹し、コギト=自我そのものの存在を解体した。ヒュームの方法はバークリーの経験論を継承して極限まで進めたものだ。バークリーによれば存在するものは全て、実在でなく自我の中における感覚・表象の束にすぎない。ヒュームは更に懐疑する。その自我なるものは存在するか? そう問うのは一体何なのか? 自我という感覚・表象は実際に無い。「自分」と呼ばれるものの中を詳しく見ればわかる。そこにあるのは個別的な感覚や観念だけである。その個別的な感覚や観念なしには決して「自分」と呼ばれるものを捉えることはできない。つまり自我というものはさまざまな感覚・観念の経験によって構成された、さまざまな観念の束にすぎないのだ。水面に現れては消える泡のような個別的な感覚・観念たちが、「私の感覚」「私の観念」とすり替えられ、個別的体験の結果に過ぎないものたちから原因、すなわち「主体」となるものを想定した結果、作られたのが自我という抽象概念なのである。
カントはデカルトのコギトが実体概念であることを否定する。「全ての表象に『我思う』が伴いうるのでなければならない……私は直観において与えられた多様な表象を一個の意識において結合することによってのみ、これらの表象における意識の同一性そのものを表象できるのである」という。これは「我思う」は反省的自己意識――「私」を多くの思惟を一つにまとめている統覚とは言えるが、実体と解釈することは、概念を実在と見なすことになると考える。物自体は認識できないとするカントの認識論からすれば、「我思う」という概念に対応する対象も我々に直接与えられていないゆえ、実体ではないということになる。
フッサールは自我を経験的自我と超越論的(現象学的)自我に分ける。つまり自我自体をさらに見ている自我の存在を想定する。「自然的見方をする自我としてのわたしは、同時につねに超越論的私でもあるが、しかしわたしは、現象学的還元をおこなうことによってはじめてそのことを知るのである」とフッサールはいう。すなわち、経験的自我と、それを超越論的に還元することによって見出された現象学的自我があるということだ。これはデカルトが同一視した「私は疑う」と「私は考える」を区別し、超越論的還元を行う「疑う私」と、そのような還元によって見出される超越論的主観の区別である。なお、フッサールの「自我」の概念は人間の経験を可能にする原理という意味であり、デカルトがコギトを実在だとしたのと全く異なっている。
バートランド・ラッセルは、コギトを単なる意識内容(コギタティオ)の告知とみなし、「I think therefore I am.」を「It thinks within me」と言い換える。
ウィトゲンシュタインは、デカルトの「我思う」を、「思うということが我なのである」と言い換える。つまり「我」とは考えることそれ自体を指す(同時性)という解釈である。フッサールやヒュームと異なり、ウィトゲンシュタインにとって現れては消える感覚・表象は全て「私」なのである。これは経験と、それを成り立たせる主体とは不可分であるということだ。その独我論的解釈は「世界は私の世界である」、また「私には最も重要な意味で同類がいない」という言葉で表現される。ウィトゲンシュタインと同じ解釈の哲学者に永井均がいる

離人症


人格喪失感。自分自身が行動していながら実感が伴わない,自分が本来の自分と思えない,という自我意識 (→自我 ) の障害が中心になって,自分の身体が自分のものという感じがしない,という身体意識の障害や,物を見ているのにピンとこない,という対象意識面の障害などを伴う症状。ピエール・ジャネはこの障害の背景に空虚感を考え,自我の実在機能の減退を自我が自覚している状態と説明した。離人症は疲労時のほか,神経症,うつ病,統合失調症などに付随して現れる。

コタール症候群

 コタール症候群、またの名は「歩く死体症候群」。この病は、1880年にフランス人神経学者のジュール・コタールによって発見された。患者は自己否定感の強い抑うつ状態の中、「自分はすでに死んでいる」という奇怪な感覚に取りつかれるという。このような歪められた現実が引き起こされるのは、紡錘状回および扁桃体と呼ばれる脳の機能不全によるもので、双極性障害や統合失調症と同じく、思い込みの激しい精神障害の一種とされている。

20181003@矢野口

20181003

2018年10月27日 (土)

2018.10.27「食事会」@溝口

10月25日の「一周忌」には間に合わなかったけれど、入院中から計画していた「食事会」を実施できた。溝の口駅前のデニーズで18時に女優の歌野さん、作家の柳沢さんと待ち合わせ、18時30分から予約しておいたカプリチョーザへ三人で移動。ピザとスパゲティとステーキとチョコレートケーキを食べた。
電車に乗ってる時間は片道20分弱だったけど、それでもやっぱり電車は「旅」だね。生前みたく、ふらりと出かけるってわけにはいかない。
20181027

食事会@溝口

Kawauso 20017年10月25日に俺の入院で中断した食事の続き(?)ということで、劇作家の柳沢さん、『オトカ』の実質的な座長であった女優の歌野さんと三人で約一年ぶりの食事。
写真を撮ろうと思ってカメラを持っていったのに撮り忘れてしまった。
20181027

3.「意味」を生成する空想身体


3.「意味」を生成する空想身体
空想身体と行間の「意味」
・創造を支える行為の型は、生身の生きる身体Leibというよりは空想身体phantasieleibに属するというのが次の重要なメルロ=ポンティの発見
・「意味」の生成は、意志による「選択の結果」ではなく、「彼自身の肉体より柔軟な」空想身体の作動による。目には見えない空想身体は、無際限の柔軟さを持ち、新たな形の生成の可能性そのものなのである、そして空想身体が色づけした風景、その省略や歪みにおいて、まさに行間の「意味」が浮かび上がるのである。芸術作品の世界の生成とは、空想身体の作動と組織化に他ならないp67
行為の型は空想身体に埋め込まれる
・空想身体の組織化の可視的な痕跡が作品である。空想身体の外延が生身の身体

「意味」と沈黙

1.「意味」と沈黙
創造性としての「意味」
メルロ・ポンティはしばしば「黙した」という形容詞を使う
また、創造性は既存のコードを逃れる「意味」のうちで表現される。
『シーニュ』での「沈黙した」という形容詞は、このような明示されない行間の「意味」を示す用語
「メルロ=ポンティは「作動的で潜在的な意味」「側面的意味」「はすかいの意味」といった用語を使うが、本書では単にかっこをつけた「意味」という表記をあてることにする。メルロ=ポンティ自身が絵画作品を分析しているとおり、この行間の意味は言語の行間だけに生じるものではない。絵画の色も音楽の音色も「意味」を生み出すための「記号」である限りで、同じ機能を持つ。「意味」とは創造性の指標」p57
「意味」の手前の沈黙
・創造的な「意味」生成は、沈黙を出発点とする
・沈黙とは、あらゆる言語的意味と行間の「意味」双方が一時停止した状態、来るべき「意味」の可能性全体の準備のこと
・「意味」は予測不能
例:マチスの描き始める手前にある一瞬の沈黙、立ち止り
→沈黙は、必ずしも宗教的瞑想のような大げさなものではない。あらゆる創造的活動に先立つ自発的現象
「沈黙は来るべき「意味」の可能性を開く。言語にしろ絵画制作にしろ子どもの遊びにしろ、あらゆる創造的な「意味」生成はこのような沈黙・停止から出発する。来るべき「意味」は沈黙のなかに胎生する。この仕組みそのものは普遍的であり、この部分については芸術・哲学、治癒的な言説のあいだに本質上の差異はない」p60
2.行為の型
型と色気
・「意味」はやみくもに生まれるのではなく、型・様式styleにのって生成する
・行為の型は「意味」生成のプラットフォームである。どんな芸術家も何らかの文体や型に則って「意味」を生み出し、それが作品として定着するが、しかし彼らは型を自覚的に使用しているわけではない
例)歌舞伎役者が型を身に付けたうえでの色気 p62
→第1章の「イルマの注射の夢」の「笑い」と同じ
→型のなかで生まれる余剰において「意味」が生成する
→逸脱というそれ自体は表象しえない現象のなかに創造性が現出する
メルロ=ポンティ
「必要なのは、その型が、一人の画家としての画家の知覚のくぼみに立ち現れるのを見て取ることだ。つまり、それは知覚から発する或る要請なのである。マルローは、その最も優れた文章では、このことを語っている。つまり、知覚がすでに型を生む」
病と回復の再定義:
「知覚が型をもつということは、認識とは異なる力が知覚に加わっているということであり、この力は私たちが背負っている現実による触発の重さに由来する。(芸術的なものにしろ、社会的なものにしろ)行為の型は、現実に応答した「意味」生成を可能にする能力であり、人間が現実を受容するために不可欠の装置である。このように考えたときに、病とは型の生成に失敗であり、回復とは型の作り直しであると定義できる」p63
「意味」の源泉としての現実
・沈黙とは、この現実に対して間接的にそして受容的に直面する方法
・現実触発を受容・消化する手段として、「意味」生成を導くために型が要請される。現実そのものを変化させられないにしても、新たな型を生み出すことで困難な現実を受容できるようになる可能性はある。
3.「意味」を生成する空想身体
空想身体と行間の「意味」
・創造を支える行為の型は、生身の生きる身体Leibというよりは空想身体phantasieleibに属するというのが次の重要なメルロ=ポンティの発見
・「意味」の生成は、意志による「選択の結果」ではなく、「彼自身の肉体より柔軟な」空想身体の作動による。目には見えない空想身体は、無際限の柔軟さを持ち、新たな形の生成の可能性そのものなのである、そして空想身体が色づけした風景、その省略や歪みにおいて、まさに行間の「意味」が浮かび上がるのである。芸術作品の世界の生成とは、空想身体の作動と組織化に他ならないp67
行為の型は空想身体に埋め込まれる
・空想身体の組織化の可視的な痕跡が作品である。空想身体の外延が生身の身体
・(芸術作品だけではない)誰かと出会った瞬間に様々な印象を受けるのは、細かく観察して知覚し尽くしたからではない。知覚に埋め込まれた空想において、現実が空想身体を触発し「意味」が生成するからである。知覚の行間を埋め込まれた空想において、現実が空想身体を触発し「意味」が生成するからである。知覚の行間を埋め印象や情動を形成する働きとしての空想身体は、作品生成において歪みを作る働きと同じものである。空想身体を触発することで知覚を色付けし、ゆがませる。現実触発の受容体はいずれも空想身体である。
現実と空想身体
・人は知覚を「記号」として使いながら「意味」を作る。すなわち知覚の欠損を空想で埋めて「錯覚」しながら生活する
・不安を惹起するタイプの現実触発とは、現実のなかに秩序化不可能な矛盾や葛藤をはらむがゆえに空想身体の組織化を遮断するような触発である
・心理臨床における沈黙は、空想身体を回復するために、外傷的現実による触発への生身の身体の巻き込みから距離を作ることであると定義し直すことができる
・夢を可能にする眠りとは、空想身体の初期状態の開示であり、そこから出発してのみ「意味」の生成は可能になる
4.睡眠と夢
睡眠と夢における空想身体
・私たちは眠ろうと思って眠るのではなく眠くなるから眠る。睡眠は自我の意志によってもたらされるのではなく、眠りにつく空想身体自体の自発性によって開かれる運動である。現象学から見たときに睡眠とは能動的意識ではなく非人称的な空想身体の休息
・現実触発からの距離の創設と空想身体の弛緩を出発点としない限り、回復(世界に対する構えの変容)は構造的に不可能
夢のなかの覚醒、空想のなかの眠り
・創造の器官としての空想身体
・夢を見ることができないとは、そして創造的に思考することができないとは空想の水準で現実を消化することができないということを意味する
5.空想身体の外延としての「意味」のスクリーン
「意味」生成の地平
・「意味」生成にはもう1つ不可欠の要素がある。それは「意味」がイメージとなって定着する場。
・「意味」とは空想身体の見えない組織化であり、これが(絵のキャンパスや夢の空間などの)「意味」のスクリーンに残した痕跡がイメージ
・創造性の出発点にはこの空想身体の場となる「意味」のスクリーンを開くことにかかっている[略](それは:追記)本質的に対人関係における空想の作動を前提
6.空想身体の土台――反復され内面化された基礎的視線触発
子どもを抱っこするウィニコット
「子どもはウィニコットの膝の上で、ウィニコットに噛みついても壊れないことを確かめたあとに、遊ぶことがでいるようになり、同時に自分の体を発見する。このあと、引きつけと泣き叫び、不安は家庭でもまったく消え去り、健康な子どもとして育っていった、という事例である。
この事例で直接観察できるのは、遊び(スタイルを持った空想身体による「意味」生成)の原創設とそれに伴う自己身体の発見である。無秩序で攻撃的な衝動性に行動面でも情動面でも支配されていた子どもが、行為を制御し、遊びを創り出しながら楽しめるようになる。と同時に自分の身体と世界の分離・分節も発見する。行為の型を作ることで創造性が生まれてくる。別の場所でウィニコットが「形のない状態formlessness」からの創造と呼んだ、創造性の誕生が裸の形で観察できる」80
・空想と知覚が分化するとは、同時に知覚と空想が連動する仕組みを作り出すこと
・破綻においては、身体はまとまりを失い、落下の感覚を持ち続け、心が体に住めなくなる
・発達心理学が依存や愛着として議論したのがこの空想身体を支える視線触発である。言い換えると、空想身体の土台は反復され内面化された基礎的な視線触発によって作られると言える
空想身体を支える土台
・統合失調症における思考のまとまりの解体は、単なる文法上の統御の解体ではなく背後にこの空想身体の土台の不在あるいは歪みを抱えているというのがウィニコットやパンコウの理解
・潜在的におそらく以前から機能していた視線触発が気づかれて顕在化するのにともない、視線触発は空想身体の土台となり創造性が作動し始めるのである。空想身体を視線触発が支えることが創造性の条件
・不安の出発点を私たちは社会的な疎外に置いたが、その背後にはこの空想身体の土台の喪失あるいは不安定さという現象が隠れているように思える。社会的疎外は、最終的には実際の対人関係の支えの喪失であり、つまりこれが空想身体の土台となるからである。それゆえ社会的な不安でも、それは常に空想身体の解体として身体に現出する。
・このことは統合失調症の人たちの持つコミュニケーションの困難と妄想的他者について何かを教えてくれるかもしれない。(器質的な問題も含む)何らかの理由で、対人関係の枠組みが壊れているせい、すなわち空想身体の土台がゆがんでいるあるいは壊れているせいで、思考にまとまりを与えることが困難になる、あるいは他人の人の空想(思考)と接続することが難しくなる。土台を欠いた空想身体のゼロ度は、恐ろしい解体になるであろう。
・統合失調症が器質的な素因をもつ疾患であったとしても、体験としてこの土台の喪失を経験する可能性が問題となる
●本章では創造性の器官となる空想身体のありよう、治癒の出発点となる空想身体の弛緩状態、さらに空想身体の外延(「意味」のスクリーン)と土台(基礎的な視線触発)を発見した。
・心理臨床における沈黙は、空想身体を回復するために、外傷的現実による触発への生身の身体の巻き込みから距離を作ることであると定義し直すことができる

さらにいうなら『相手が自分と違う文化的基準で生きている事を、ありのままに当然の事として「知る事」』の困難を知ることだよ。だからメルロポンティ的な「視線」の概念を頭に入れとく必要がある。思い上がったバカにはこれができないわけ。せいぜい我思う故に我あり的に素朴な根拠でアプリオリな「自己」を前提とするから自己相対化なんてできないんだ。

2018年10月26日 (金)

ミュラー・リヤー錯視

ミューラー・リヤー錯視(Müller-Lyer illusion)はミューラー・リヤーが1889年に発表した錯視[2]。線分の両端に内向きの矢羽を付けたもの(上段)と外向きの矢羽を付けたもの(中段)の線分は、上段が短く、中段は長く感じる[2]が、実際は同じ長さである。この錯覚が発生する説明は様々な側面から行われているが、有名な説明として、グリゴリーが1963年に発表した線遠近法が挙げられる[2]。
また、この錯覚を応用したものとして、ジャッドの図形が挙げられる[3]。 ジャッドの図形は、線分の中央に中点を打ち、両端に異なる向きの矢羽を付けると、外向きの矢羽が付けられた側に中点がずれて見えるという錯覚が用いられた図形である[3]。 このような錯視を「大きさの錯視」という。

入浴

これが「大問題」のようにいわれてたけれど、浴室に手摺りをつけてもらい、一人で入浴できている。

合祀墓

決算書

ピタパタは6月決算だが、今年度は決算書を作っていない。退院したのが4月の末くらいだから、やろうと思えばできなくはなかったのだが、おもに助成金申請のためのものだから、その予定もないのに徒労になると考えたのだ。活動再開の目処も立たぬのに未練がましくもある。

自由

一般的には,心のままであること,あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。哲学上は,人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく,それ以外の対象をも選びうる能力をいう。この場合,自由は選択する意志の自由であり,意志とはその本質上「自由意志」 liberum arbitriumにほかならない。古代ギリシアでは,アリストテレスが選択の自由を主張し,中世スコラ哲学においては,神の恩恵ないし予定に対する人間の自由の存否という形で自由が問われた (→恩恵論争 ) 。近代にいたってこの問題は「自由と必然」という対立概念として,とりわけドイツ観念論哲学によって定式化された。カントは自由の理念を実践理性の理念として積極的に認め,普遍的法則となるように行為しようとする人間の自律的な意志を倫理学の基礎とした。以後,現代にいたるまで,人間の行為において自由意志は一層重要な位置を与えられながらも,一方で無条件に外的な状況や強制から自由な自律性を認めることには困難があることが自覚されており,実存主義の立場はそれに対する一つの解決でもある。

スキル

舞踏の合宿とか人形演劇のワークショップとかに参加を検討したことがあるけれども、いずれも実現しなかった。やっときゃ良かったとも思うし、やったところで、その後失うことになる資産(=スキル)を増やすことにしかならないとも思う。

脳卒中による障害

脳卒中による身体機能障害は意識障害、認知症、失語症、失認、失行、抑うつなどの認知障害、嚥下障害、眼球運動障害、構音障害などの脳神経障害、片麻痺、運動失調などの運動障害、さらにしびれ、痛みなどの感覚障害、便秘、失禁などの自律神経障害と極めて多種多様です。脳の損傷部位によりこれらの症状が組み合わさって出現するので、症状が全く同じという患者さんは一人もいないと言ってもよいほどです。さらに初期治療に時間がかかり、長期間の臥床を強いられると、関節拘縮や筋萎縮といった使わないことによる運動障害、すなわち廃用症候群が加わり、症状はさらに複雑になります。型どおりのリハビリテーション治療ではうまくいかず、一人ひとりの患者さんに最も適したオーダーメイドの治療プログラムが必要となります。

うんちのときに息んで吐くことがあります。

食道と胃のつながりの部分には筋肉があり、その筋肉を閉めることにより、胃の内容物を食道の方に逆流するのを防ぐ働きをしています。
赤ちゃんの場合、この筋肉の発達が十分ではなく、飲んだミルクや食物がおなかを押したり、しゃっくりをしたり、せきをしたり、激しく泣いたりするときに吐いたりすることがあります。

洗面所の鏡

に映った自分の顔。鼻毛がでている。指でそれを引っこ抜く危険。くしゃみが出たらまた転倒するかも知れない。洗濯機に頭をぶつけてしまうかも。

2018年10月25日 (木)

カレンダー

今日、来年のカレンダーが届いた。
ここ数年はずっと「一年先」を睨みながらの「今日」であった。というのも劇場の予約が一年前で、小屋を押さえたら予算組みをし、スタッフのスケジュールを押さえ、オーディションの実施、という制作的流れがデフォだったから。オーディション時には役柄がだいたい決まってなきゃいけないから、概ねホンはできていた。逆にそういうスケジュールに規定されてホンを書いていたのである。
は「来年」の約束なんかとてもできない。だいたい生きてるかわからんし。

感情障害

脳梗塞の後遺症で感情障害があると、にこにこ笑っていたと思うと急に怒りだしたり、泣き出したりすることがあります。患者さんが感情豊かな性格で、もともとよく泣いたり笑ったりする方だと、感情障害になりやすいのではないか、あるいは感情障害が起こっているのではないかと心配になるかもしれません。しかし、脳梗塞による感情障害は、本人がもともと泣きやすい、怒りやすいといった刺激の感じやすさとは無関係だと言われています。脳梗塞の後遺症の場合は、情緒の問題というよりも、刺激から起こる感情を抑えられないのが特徴です。具体的には、以下のような症状が挙げられます。
・周囲の状況にあわせて感情をセーブできない
・悲しいはずなのに笑い出してしまう
・普通は泣きださない状況で涙を流す
患者さん本人はそれほど悲しくなくても泣いてしまい、機嫌がよさそうにしていても、ちょっとした言動で感情の起伏が激しくなるのです。主な原因は、周りの言葉に過剰に反応してしまうためと考えられます。周囲の認識よりも敏感に反応してしまうことがあるため、ひどく怒りっぽい性格に変わったように見え、困惑してしまうこともあるでしょう。
しかし、感情障害によって本人の人格が破壊されてしまったわけではありません。家族や介護スタッフの方の言動が気になり、少しの刺激でも過剰に反応しやすくなっているだけです。相手に失礼なことをしてはいけないという感情は残っているため、ほかの障害がなければ、対人関係で問題を起こすことは少ないでしょう。

一人で

電車に乗るのは心細く、北大受験ではじめてめての飛行機で、一人で札幌に行ったときの気持ちを思い出す。

対義語・反対語辞典

黒字倒産が起こる理由

一般的に倒産とは「返済(支払)しなければならない債務の返済(支払)を自己資金でまかなえず、借入もできずに会社の経営が行き詰まった状態」です。
黒字決算なのに倒産になり、赤字なのに倒産しない理由は、会計上の収入と支出が、現金の入金と出金と一致していないことが原因で起こります。
つまり、たくさん仕入して、売上をたくさんあげても、仕入代金の支払いが1ヶ月先で、売上の入金が3カ月先であれば、自己資金で手当てできず、銀行などからの借入ができないと仕入代金が払えないので、倒産状態となります。実際は、その後、銀行取引停止処分を受けたり、裁判所に破産手続きなどを申請したりすることで対外的には倒産となります。
一方、会計上は、同一会計期間に仕入、売上が発生していると、赤字販売していない限り黒字決算となります。また、売れると思って大量に商品を仕入れて、在庫をたくさん持つと、この仕入費用は販売するまで、会計上は支出として計上されないので赤字になりません。しかし、仕入代金の支払は発生し、現金がないと黒字倒産状態になります。
赤字なのに倒産しない理由
黒字倒産の一方で、赤字でも倒産しない企業があります。その主たる理由は以下のとおりです。
・現金資産がたくさんある。
・赤字でも担保になる資産があり銀行から融資を受けることができる。
・赤字でも増資で資金調達ができる。
しかし、赤字状態が長く続くと、いずれは赤字倒産することになります。

命日

である。去年の今日、俺深夜に救急車で運ばれ、アーレントがいうところのゾーエー的な命はかろうじて生き存えたけれども、ビオス的には死んだも同然なのである。多くのものを失った。。それでも気にかけてくれる友人と、今週末に「飯」を食う予定だ。一年越しの借りを返す。入院中からそういう約束をしていたのがようやく実現するわけだ。来月はまたべつの友人と。ありがたいことである。
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2018年10月24日 (水)

ならば黙って通り過ぎればいいものを肥大した自己愛を満たすために利いたふうな口を利きたがるから鬱陶しい。せいぜい聞き流してこちらが黙って通り過ぎよう。とてもじゃないがつきあいきれん。

明日で「一周忌」である。今じゃこんな荷物を担ぐことさえできない。俺が稽古場で自ら音出ししてきたのは、音響オペの人件費削減という制作的要請ももちろんあるけど、それだけじゃないんだ。文字で表現するとなれば、ト書きに細密描写するしかないニュアンスを舞台表現とするための作業を作家としてやってるんだ。楽譜を書く代わりに楽器で鳴らしてみせるようなもん。一緒に稽古してきた役者には分かってもらえると思う。
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2018年10月23日 (火)

倉庫状態

だった頃の書斎。今は片付けて座卓を置き、デスクトップPCとプリンタが設置してある。
Soko

つま先が引っ掛からずに歩くための良い方の足のコツ

下肢装具のメリット


脳卒中など麻痺のある人は、歩行の装具を使うことでどのような利得があるのでしょうか。
まず第一に、介助量が減ります。全く不自由がなくなるわけではありませんが、装用することで長く歩行することができ、楽になることが多いです。
第二に、尖足(せんそく:つま先が不自然に変形)・反張膝(はんちょうしつ:膝が後方に押される)・拘縮(こうしゅく:かたまること)、といった望ましくない変化を予防する効果があります。
第三に、自己流ではない正しい運動が学べます。適切な時期に適切な装具装用が必要です。

岩城整形外科

tal:044-945-2215
診療時間 日・祝
午前 9:00~12:30 診療 診療 診療 休診 診療 診療 休診
午後 15:00~18:30 診療 診療 診療 休診 診療 休診 休診

仮眠

深夜作業に備えて仮眠していた。

以前だったら、その流れで翌日の作業に入り、並行して芝居のスタッフ業務を進め、翌昼、仕事の合間にキレギレに短い睡眠をとって一日の帳尻を合わせていたのだが、さすがにもうそういうタフなことできない。
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圧巻


《「巻」は、昔の中国の官吏登用試験の答案。最優等者のものをいちばん上にのせたところから》書物の中で最もすぐれた詩文。作中最もすぐれた部分。転じて、全体の中で、最もすぐれた部分。出色 (しゅっしょく) 。「恋人との別離の場面は圧巻だ」

予約

ファミレスで友人と待ち合わせして、飯を食おうと思ったのだが、席の「予約」ができないっていうから、待ち合わせにだけ使い、逢ったら一緒に近くの店へ移動することにした。
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2018年10月22日 (月)

20181022@稲田堤

20181022

ゴミ捨て

くらい自力でできるようになりたい。
そんなことすらできない自分を半透明の袋に入れてゴミに出してしまいたい気分である。
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連座

家族に迷惑がかかるので、まず家族を殺そうと思ったと話しているという。
この少年の言い分を真に受けるなら、たとえ30歳を過ぎたオトナですら何か騒ぎを起こしたらいちいち親が引っ張り出される芸能ニュースに象徴される日本社会の「連座的風潮」が事件の背景にあるわけで、これが問題にされねばならぬはずだ。そんな前近代的なありようを批判するのがリベラルだと思うが、むしrp和式リベラルは、ワイドショウ的次元でイッチョカミによえうおのが善人性の表出に腐心するのみである。要するに口先だけで、マトモに思考する気などないのである。

2018年10月21日 (日)

サボテン

わけもなく涙ぐんでいると他人の目には見えるかも知れないが、きいたふうな通俗医療に基づくg不要な干渉ならお断りである。
俺の中では繋がっている。スーパーの花屋で売られているサボテンを目にした→チューリップの『サボテンの花』が頭の中で流れた→せつない気持ちになった、のである。

ビオスとゾーエー

アガンベンはハンナ・アーレントの理論におけるゾーエ(剥き出しの生・生物的な生)とビオス(社会的政治的生・生活形式における諸活動)、そしてとりわけビオス・ポリティコス(偉大な行動と高貴な言葉を生きること)についての思考を批判的に継承している また、フーコーは「近代が生政治を生み出した」と言ったが、アガンベンはこれを批判し、政治はその起源から生政治であったとする。アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、bios(ビオス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持たない存在であるという。アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いている。
しかし、このようなアガンベンのフーコー読解には批判がある。2006年に出版された日本の雑誌『現代思想』のアガンベン特集号では、寄稿された論文の多くがアガンベンを批判する論旨になっており、人々を驚かせた。

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バイタリティ


「バイタリティ」は英語の「vitality」のことです。形容詞「vital」の名詞形となります。
「バイタリティ」の意味は「生命力」「成長力」「生命」「活気」「元気」などで、ラテン語の「命」を表す言葉が語源となっています。動物や植物がぐんぐん成長していく力、人が身体的にも精神的にも元気よく希望に向かって進む力が「バイタリティ」です。
また、「活力」「元気」などの意味を助長して「持久力」「持続力」「継続する力」と意味で使われることもあります。活力や元気があれば、ものごとに対して長時間取り組むことができるという解釈です。
カタカナ語で「バイタリティ」を使う時は、人に対し「活気や元気のある、なし」などを表現するときに用いることがほとんどです。「やる気」と似たような表現となりますが、「バイタリティ」とは少し意味合いが異なります。「やる気」なら、むしろ「モチベーション」を使ったほうが適切でしょう。さっそく、「バイタリティ」の例文を挙げてみましょう。
新入社員のKさんは、とてもバイタリティのある人だ。
バイタリティに溢れる人は、いつも元気で前向きなのが特徴である。
最近バイタリティが衰え、疲れが目立ち始めた。
私の自慢はバイタリティの高さである。
仕事で外回りが多い人は、体力的にもバイタリティが足らないと辛いものだ。

冥途毛布

Meidomohu

仕事中の膝掛けに使用している毛布。『冥途』公演の小道具でつかったものだから、我が家では「冥途毛布」と呼ばれている。

トラブル増加と原発停止の関係

トラブル増加の一つの原因として考えられるのは、泊原発の停止が長期化し、その補填のために定期点検が繰り延べされている可能性である。
火力発電所は元来、高温の燃焼ガスと水・水蒸気の熱交換によってタービンを回して発電するもので、火炎の温度と水側の温度差は水管壁を挟んで1000度近くにも達する。また燃料が石炭や重油の場合、燃料に含まれる不純物によって伝熱管腐食が起こりやすい。
水側に関しても、水質管理を誤れば設備の腐食を引き起こすし、水処理の問題がなくてもエロージョン(浸食)による減肉(配管が薄くなること)から逃れがたい。現に苫東厚真でも、減肉によるトラブルが頻発していた。
そのため十分な定期点検は必須であるが、実施するには設備の余裕(発電機を完全に停止して点検整備しても電力供給に支障が生じない)がなければならない。泊原発の停止によって余裕があまりない北電では、点検の先延ばしは需要の面からすれば必要であるが、供給の面から見れば、かなり危ないことといえる。

ハラスメント

ハラスメントとは、行為者本人の意識の有無に関わらず、相手を不快にさせたり、自身の尊厳を傷つけられたと感じたりさせる発言や行動を指します。

立憲主義


『現代の憲法論では、憲法典で明示されている基本的諸権利の保護が、憲法の最重要機能と見なされることが多いが、憲法典の具体的な規定よりも、「法」を制約するメタ法的規則を重視するハイエクは、そうした見方とは一線を画している。そうした見方をしてしまうと、憲法典に明記されていない――が、慣習として確立されている――“権利”が軽視されたり、憲法典に書きさえすれば、普遍的権利になるかのような幻想が生じてくるからである。「憲法」は、その社会にすでに存在する「共通の信念」を部分的に成文化したものにすぎない。』(仲正昌樹『精神論ぬきの保守主義』第六章 ハイエク―自生的秩序の思想)
 
憲法典(=日本国憲法)はあくまで〈その社会(=日本)にすでに存在する「共通の信念」を部分的に成文化したもの〉なわけ。憲法改正の議論は「共通の信念」が成文化されていないことによって起こっている。
だから、憲法学者のするようなテクストの曲解に本質的な意味などない。
これをいつまでたっても理解できないのが千葉の偏差値バカですよ。
 
私は過去にこんなたとえ話もした。
***
某コンビニ。
店のマニュアルに「未成年には酒を売ってはならない」と書いてある。
ある日、一組の親子連れが来店した。パパがレジにビールを持ってくる。
「パパ、ボクが払う!」と息子。
パパが息子に小銭を渡し、息子がそれをレジカウンターに置く。 
店員は言った。「未成年には売れません」
*** 
この店員をどう思います? アホかと思いませんか? 
思わないならあなたも千葉の偏差値バカの仲間です。

障害受容

ぼくにとって、一人旅は永遠の憧れです。若い頃に沢木耕太郎さんの「深夜特急」を読んで、よけいに一人旅がしたくなりました。だけどそれは、僕にとって、絶対に叶うことのない憧れ。何故ならぼくは小さいころから補装具と言われる、義手みたいなものを使って自分一人でトイレに行くというチャレンジを何度もやってきました。それでも、どうしても無理だった。だからこそ、「一人旅は無理だ」という事実に納得せざるを得ないんですよね。
語弊を恐れずにいえば「諦めが肝腎」てことにもなるだろう。
人生のリソースは限られているのだ。その配分を「諦めない」=善のような一面的価値観で、トンチンカンにして、人生の残された可能性を潰さないためにこそ、現実を引き受ける。それが障害受容ってことなんだろうと思う。

2018年10月20日 (土)

20180701

あと5日で

「一周忌」なのだな。半年の入院生活はあんなにも長く「永遠」に続くかと思われたのに、過ぎてしまえば一年なんて早いものだ。
Sinigami

一年越しの借り

をようやく返せることになった。
というか、入院中にメールでした飯の約束を果たす日がようやくきまった。嬉しい。ほんとは夏ぐらいまでにはと思っていたのだけど、なかなか思うようには外に出られなかったから。
Ura

地下室の怪

夢の中でも

PCを操作していて、ファイル名を変更するのだけど、何度やっても元に戻ってしまい、イライラするのだった。
Harinezumi

デニーズ溝の口駅前店

神奈川県川崎市高津区溝口1-1-5 JR東日本ホテルメッツ溝ノ口2階
tel:044-870-0180

2018年10月19日 (金)

「憲法9条を削除せよ」 東大教授が問い続ける改憲派のインチキ、護憲派の欺瞞

自民党が示している改憲草案は、現行憲法の全面的な改正案だ。「憲法の全面改正ができるのは占領期か、革命を起こして革命政権が誕生したときくらい。自民党は保守政党と言っているけど、これでは革命政党だ」とバッサリ。
そして、返す刀で護憲派にも斬りかかる。
「みなさんの中にも多いでしょ。憲法は権力を縛るものだという人、9条を守ることで戦力を縛っていると思う人もいるでしょ。(小沢さんの)護憲派っぽい発言に拍手をしている人たち、聞いていてくださいよ」。唐突に聴衆に語りかけ、一段と声を張り上げて続ける。
「それはウソなの。9条があるから、戦力を憲法で縛れなくなっている。日本国憲法に、戦力は存在しないから、自衛隊は戦力じゃないとされている。現実にある戦力を憲法で統制できないのは、立憲主義ですかね?」
井上さんの考えでは、自衛隊を戦力ではない、とする主張はどう考えても無理がある。現実にある戦力は誰が、どう縛るのか。その規定は、戦力の不保持などを定めた憲法9条があるため存在すらしない。
「憲法は国家権力を縛るためにある」という立憲主義の考え方に照らし合わせるなら、これは問題ではないか。

だから単なる好悪の表明をどんなに強調したって  [善悪]には変換されないというんだ。

高を括る

その程度を予測する。大したことはないと見くびる。「―・って手ひどい目にあう」

コブ付き

厄介者や子供を連れていること。
ブ付きのコブとは体に出来る瘤(こぶ)以外に厄介者、特に子供を指して使う場合がある。つまり、コブ付きとは厄介者や子連れであることを意味する。大抵は女性が再婚の際、前夫の子供を連れていることを言ったが、最近では男性が前妻の子供を連れていることも言うようになる。
また、単に「子供がいる」「子供と一緒」という意味での使用もある。例えば、カラオケやランチに誘われたたが、子供と一緒でないと出かけられない場合に「コブ付きでよければ」といった使い方をする。

2018年10月18日 (木)

重箱読み・湯桶読みとは?

重箱読み・湯桶読みとは,熟語を音と訓の組み合わせで読む「読み方」のことです。
一般的に,漢字の熟語は音読みどうし・訓読みどうしを組み合わせて読みます。その例外として重箱読み・湯桶読みというのがあります。おもな例と一緒に覚えておきましょう。
■重箱読み・・・音読み+訓読み
(例)台所(「台(ダイ)」が音読み+「所(どころ)」が訓読み)
   職場(ショクば),額縁(ガクぶち),団子(ダンご),本屋(ホンや),残高(ザンだか)など
湯桶読み・・・訓読み+音読み
(例)高台(「高(たか)」が訓読み+「台(ダイ)」が音読み)
   場所(ばショ),見本(みホン),敷金(しきキン),豚肉(ぶたニク),雨具(あまグ)など

一段落

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/184.html

「一段落」は、文章の切れ目の「段落」に「一」を冠した熟語で、「一つの段落。ひとくぎり。転じて、ものごとがひとくぎりしてかたづくこと」(『広辞苑 第6版』岩波書店)を意味します。この「一段落」[イチダンラク]が[ヒト~]と誤って読まれる原因は、「一仕事」「一芝居」「一安心」「一工夫」「一苦労」「一騒動」など同じ語形をもつことばに[ヒト~]と読む語が多いことに加え、似た意味をもつ「一区切り」が[ヒトクキ゚リ]と読むこととも関係があるものとみられます。平成5(1993)年のNHK「ことばのゆれ調査」では、[イチダンラク]と読む人が8割いたのに対し[ヒトダンラク]と読む人が2割いました。
この「一段落」について、国語辞書の中には[イチダンラク]の項目・語釈の中に「『ひとだんらく』ともいう」などと補足している辞書もありますが、放送では伝統的な読みの[イチダンラク]を採っています。

ノクティ

Takatsu
 

高津市民館の入ったビル。今まで何度きたかわからない。入院した日もここで稽古だったのだ。「一周忌」前に再度訪れることができて良かった。もっと懐かしく感じるかと思ったが、どこかよそよそしく見えるのは、もうここで稽古することもないと思うからか、あるいは車椅子のため以前とは目線の高さが異なるためか。その両方か。
一人で乗る電車は心細く、北大受験のため初めての飛行機で、一人で札幌に行ったときの気持ちを思い出した

溝の口へ

はじめて車椅子で。しかも一人で電車に乗って。
乗車駅前の長い横断歩道の中州の段差が超えられず、立往生してしまった。通りかかった見知らぬお婆さんが車椅子を押してくれた。あと、しばしば杖が外れて倒れてしまうのが難儀。
Mizonokuti

妻や両親や妹や

気にかけてくれている友人の気持ちを踏みにじるようなことを言うべきじゃないってことはわかっているけれども、正直、死んだも同然なのである。

2018年10月17日 (水)

せんない

[形][文]せんな・し[ク]何かをしても報いられない。かいがない。「―・いこととあきらめる」「そのまま―・く引き返す」

信条倫理と責任倫理

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』において、人として行うべきことがどのような基準で選択されるのかを、信条(心情)倫理と責任倫理という二つの対立する基準から論じている。信条倫理とは自らの信条を貫くことを第一とする考え方である。一方、責任倫理とは自らの行為の結果こそ第一とする考え方である。信条倫理においては、価値とはその信条の純粋さにあり、行為の結果の責任は純粋な行為者本人にではなく、不純な他人に見出される。一方、責任倫理においては、価値とはその結果いかんにしかなく、自らの行為の結果が予見できた以上、その責任を他人に転嫁できないと考える。平和主義に引き寄せて考えるならば、信条倫理は純粋に一貫して平和を訴え続けることこそを目的とし、責任倫理は結果としての平和を確保することこそを目的とする。
この二つの倫理を考慮すれば、限定的にせよ何らかの平和を目的とする人々にとっては、自らの責任ある立場というものにおいて、心情倫理に導かれつつも、責任倫理に基づく行動の選択が必要とされることは広く認められるであろう。もちろん、戦争を容認するのが責任倫理的な行為であり、戦争に反対するのが信条倫理的な行為であるわけではない。信条倫理に基づいて戦争を起こしたり容認したりすることも、責任倫理に基づいて戦争に反対することもありうるからである。

小さなお葬式

https://www.お葬式なら格安葬儀.net/plan/plan-kasou/

office365って何?

Office 365は、WordやExcelの最新版のことではありません。インストールして利用する「アプリケーション」とは異なり、PCからインターネット経由でクラウドにアクセスして利用するサービスのことです。Office 365で提供されるサービスの中に、WordやExcelなどのアプリケーションをインストールして利用できる権利(契約プランによっては権利が無い)も含まれています。

ナラティブ

文芸理論の用語。物語の意。1960年代、フランスの構造主義を中心に、文化における物語の役割についての関心が高まった。その過程で、「ストーリー」とは異なる文芸理論上の用語として「ナラティブ」という言葉が定着した。
 物語に関する理論的探究は、アリストテレスの『詩学』にまでさかのぼることができるが、20世紀のロシア・フォルマリズム、および構造主義では、さかんに物語構造についての研究が行われて、やがてナラトロジーnarratology(物語学)という独立した分野を成立させるにいたった。ナラトロジーは、物語を、その物語内容storyと語り方narratingの双方から、またその相互作用において研究することを目的とし、物語を、始点、中間点、終点を備えた一体性をもった言葉の集合であり、何らかの事象の再現行為であると考える。例えば「水は二つの水素原子と一つの酸素原子からできている」という言明は、事実の叙述であって、時間的な経過をともなった事象の再現ではないが故に、物語ではない。一方、「やがて雨が降り出した」という文は定義上物語である。ナラトロジーは、主に詩や小説といった文芸作品を対象に精緻な分析を行うことで、時制、叙法、態といった多くの理論装置を生みだしたが、そこに共通しているのは、物語に普遍的な構造への関心、語り手の位置、語りが生みだす時間などへのこだわりである。論者によってその理論は大きく異なるとはいえ、総じて物語の内容以上に形式に注意を向けているといってよい。代表的な研究者としては、ロシアの民話が31の類型へと還元しうることを示したウラジミール・プロップVladimir Propp(1895―1970)、現象学的な観点からわれわれが時間を経験する形式として物語をとらえたポール・リクール、プルーストなどを素材に語りの構造がいかに作品の独自性を生みだすかを問題にしたジェラール・ジュネットなどが挙げられる。
 しかしナラトロジーが、民話学、記号学、レビ・ストロースによる神話の構造分析など他領野の強い影響のもとに成立したように、ナラトロジーの影響も文芸理論の分野だけにはとどまらなかった。『物語の構造分析』Introduction l'analyse structurale des rcits(1966)を書いたロラン・バルトが、同時に『神話作用』Mythologies(1957)で消費社会に潜む多様なナラティブ(神話)のあり方を分析してみせたことが示すのは、ナラトロジーが当初から、言語に限らないあらゆる領域におけるナラティブを問題にしようとしていたことである。1970年代以降、文化を意識されないナラティブ(神話、イデオロギー)の集合としてとらえ、その機能のさまを明らかにしようという潮流が広がった。そこに広くみられたのが、人間はナラティブを受容することで、さらにナラティブを語ることで、自己と社会を分節化し、構造化していくのだという考え方である。こうした考えをナラトロジーの影響だけに帰することはできないし、必ずしもナラティブという言葉さえ共有されていたわけではないが、そこには広い意味でのナラティブに対する着目が存在した。ナラティブは、国民、エスニシティ、ジェンダーなどの成立に深く関わるとされた。つまり、特定のナラティブを通じて世界を認識することで、社会的な権力構造と主体の位置が構成されると考えられた。
 歴史学では、ヘイドン・ホワイトHayden White(1928―2018)などが、歴史叙述はしばしばナラティブの形をとり、それは体制を擁護する働きをもつと論じた。歴史が多様な語り方の可能なナラティブにすぎないのかは意見の分かれるところだが、歴史学がナラティブとしての権力作用をもつという考えは広く受け入れられ、各国で勃興した歴史修正主義、すなわち国民国家の再興を志向する観点から歴史を読み替えていこうとする動きと関わって議論を呼んだ。これには、歴史が解釈(物語)を避けられないとしても、歴史家には事実の痕跡を通して「真実」を探究する義務があるというカルロ・ギンズブルグCarlo Ginzburg(1939― )のような立場も存在する。
 精神医療の分野では、主体は社会的言説の作用であるという社会構成主義の影響のもと、ナラティブ・セラピーの考え方が関心を呼んだ。ナラティブ・セラピーは、家族やカップル内部でのナラティブを重視し、カウンセラーや自助グループのあいだでそのナラティブを書き換えていくことで、個人の行動パターンや自己認識をかえていこうとする。1990年代以降、ナラティブという概念はその輪郭を曖昧にしつつも、政治学、社会学、国民国家研究、カルチュラル・スタディーズといった分野に根をおろしている。[倉数 茂]
『ロラン・バルト著、篠沢秀夫訳『神話作用』(1967・現代思潮新社) ▽ロラン・バルト著、花輪光訳『物語の構造分析』(1979・みすず書房) ▽ウラジミール・プロップ著、北岡誠司・福田美智代訳『昔話の形態学』(1987・白馬書房) ▽ヘイドン・ホワイト著、原田大介訳「歴史における物語性の価値」(W・J・T・ミッチェル編、海老根宏・原田大介ほか訳『物語について』所収・1987・平凡社) ▽ポール・リクール著、久米博訳『時間と物語』1~3(1987~1990・新曜社) ▽ジェラール・ジュネット著、花輪光・和泉涼一訳『物語のディスクール――方法論の試み』(1991・水声社) ▽小森康永・野口裕二・野村直樹編著『ナラティヴ・セラピーの世界』(1999・日本評論社)』
[参照項目] | カルチュラル・スタディーズ | 国民国家 | ジュネット | バルト(Roland Barthes) | リクール | レビ・ストロース | ロシア・フォルマリズム

2018年10月16日 (火)

チャタリング

チャタリングとは、マウスのクリック操作をパソコンで誤認識されてしまう現象です。
それをチャタリングというんだね。知らなかった。原因はいろいろで、むろんそれによって対処方法は変わってくるわけだけど。

血圧が上がる原因と知っておきたい3つの問題点

血圧が上がる原因には、加齢のほかに、運動不足、ストレスなどの生活習慣が関わっています。
「減塩」「運動」「ストレスをためない」といった基本を大切に、健康な毎日を送りたいですね。

ネットバンキングの

振込先登録を整理。入院費を振り込んでいた口座を削除した。芝居関係もすべて削除。債務は残ってないハズだから、今後もしも必要になることがあれば、改めて訊くことにしよう。
Omoumarina

表象

哲学用語としての表象[編集]
クリスチャン・ヴォルフは、ラテン語のperceptioのドイツ語訳としてVorstellungを当てた。日本における哲学用語としての表象は、一般に、ドイツ語の Vorstellung、 フランス語のreprésentationの訳語として認知されている[5]。この意味での表象は、外界にある対象を知覚することによって得る内的な対象をいう(「知覚表象」)。外界の対象が現に存在せず、知覚対象を記憶に保ち、再び心のうちに表れた内的な対象を知覚対象と区別する意味で「記憶表象」といい、同じく人の思考作用によって心の内に現れた内的な対象を「想像表象」という。
表象によって得られた内的対象は、外界の対象が現に存在するか否かにかかわりなく、人の意識のうちに現れ出でるものであり、外界の対象を象徴する記号的な意味をもつ観念でもある。ルネ・デカルトはこの内的対象を示す語としてidéeの語を充てていたが、カントはデカルトを厳しく批判し、Vorstellungを自己の哲学大系の中心に置いた[6]。フランスでも、idéeの語に代えてreprésentationの語が広く用いられるようになった。知覚表象の場合と異なり、記憶表象および想像表象の場合は、外的対象が現に存在せず、心の内に「再び―現れる」(re-présentation)ので、記憶表象と想像表象のみを「表象」ということもある。

表徴の帝国

『表徴の帝国、記号の国』(ひょうちょうのていこく、きごうのくに、L'Empire des signes )は、フランスの哲学者ロラン・バルトの著書で、1970年に発表した。バルトは1963年から1969年まで東京日仏学院院長を務めたモーリス・パンゲの招きにより、1966年から1968年に、フランス文化使節の一員として数度来日、計数ヶ月の滞在で日本各地を訪れた。その印象を基に記号論の立場から独自(バルト本人曰くストーリーのない小説の文体)の日本文化論を展開した。
本書では、西洋世界が「意味の帝国」であるのに対し、日本は「表徴(記号)の帝国」と規定する。ヨーロッパの精神世界が記号を意味で満たそうとするのに対し、日本では意味の欠如を伴う、あるいは意味で満たすことを拒否する記号が存在する。そしてそのような記号は、テクストの意味から切り離されたことで、独自のイメージの輝きを持つものとなる。
歌舞伎を例にとると、女形というものは、女の形をしていて、女自身ではない。隈取は、独特の形をしていながら、意味からは完全に切り離されている。他にも、天ぷら、すき焼き、石庭を対象例にエクリチュールの数々が展開されている。またバルトは、大都会東京の中心に皇居という、空虚な、何もない森だけの空間が広がっていることに着目し、ヨーロッパの都市の中心には聖堂や広場を設けられていることと比較し、意味から解放された日本独自の自由さを肯定的に説いた。
日本人論・日本文化論の名著として 『外国人による日本論の名著』(佐伯彰一・芳賀徹編、中公新書、1987年)でも論じている(執筆者は小林康夫)。なお、ドナルド・キーンからは「(日本に関する評論としては)時代遅れ」と批判されている。

何でも

外注にすりゃあいいってもんでもないし、かといって、時前が「善」というんでもない。要はバランスの問題だ。

たとえば入院患者が

バナナに皮ごとかぶりついている。「病気のために食べ方がわからなくなったのだ」という仮説を看護師が立てる。しかし真相は麻痺で使えぬ手を口で補っているのである。
看護師ならわかりそうなもんだが、ひとたび自分の納得しやすい「物語」を採用したら、そういう光景を見たという事実が、自説を正当化するエビデンスのように思えてしまうのである。

大事な人の

足を引っ張ることしかできない。その事が辛いのだ。

何を書くにせよ

これからのそれは、終活としての創作になるだろう。

2018年10月15日 (月)

玄関ポーチの

植木鉢を隅っこに移動した。車椅子の邪魔になるから。たったこれだけのことが「一仕事」なんである。まったく不便だ。
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神代植物公園

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index045.html

http://www.tokyo-park.or.jp/park/top/20171201-1.pdf

玄関ポーチ

に出て、虫の鳴き声を聴いた。

一人で

電車に乗るのに挑戦しなきゃと思うのだが、なかなかねえ。

来月

友人と、飯に行く約束をした。そんな「未来」のことを決めておくのはずいぶん久しぶりのことだ。昔は一年前に小屋を決めて芝居作りのスケジュールを組むのがアタリマエだったのに。

ネットバンキングの

振込先情報が、以前は事前に登録だけしておけたのが、取引の事後的にしか登録できなくなった。
こんなことまで不自由になった。
Namida

2018年10月14日 (日)

ポータブルDVDプレイヤー

を居間から寝室へ歩いて運んだ。たったそれだけのことが、たいそう骨が折れるのである。

相対主義

絶対主義に対するもの。認識,価値の相対性を説く立場。哲学史的には,最初ゴルギアス,プロタゴラスらのソフィストたちによって主張され,プロタゴラスの「人間は万物の尺度である」という主張は知識,価値が個人との関係において相対的にしか妥当しないことを表わしており,その立場は主観的相対主義であるといえよう。相対主義は知識,価値の普遍妥当性を認めないところから懐疑主義と結びつく可能性があり,神学,形而上学に対して批判的であり,ルネサンス,近代では,M.モンテーニュはモラリストの,T.ホッブズは功利主義の,J.ロック,D.ヒュームは経験論の立場から懐疑論的相対主義の立場をとった。 I.カントは先験哲学の立場から経験的認識の相対性を認め,先天的認識を説いた点において批判主義的相対主義の立場に立つといえよう。 19,20世紀では,A.ショーペンハウアー,F.ニーチェ,生の哲学では W.ディルタイ,実存主義では J. P.サルトル,プラグマティズムでは W.ジェームズらが相対主義の立場に立っている。また新カント学派では存在と価値とが区別され,価値の相対性が説かれた。また価値に関しては,善悪の規準が相対的にしか妥当しないとする倫理学的相対主義の立場がある。なお弁証法的唯物論は真理の相対性を認めるが,しかし絶対的真理への接近を目指す点においていわゆる相対主義と区別される。

粗大ゴミ

http://www.city.kawasaki.jp/kurashi/category/24-1-23-1-1-8-0-0-0-0.html

一人で

車椅子を出し、一人でスーパーへ行ってバナナとヨーグルトを買って帰ってきた。
最大の難関はマンションエントランスの坂と扉。
Banana

調布散歩

https://skyticket.jp/guide/20653

2018年10月13日 (土)

川崎障害年金サポートセンター

Noboritooffice

障害基礎年金の手続方法

焼肉@狛江

今日は旧友に、焼肉に連れて行ってもらった。ごちそうさまでした。食べるのに夢中で写真を撮り忘れた。
退院時の迎えに続き、連城さんの車はこれで二度目。ミニワゴンていうのだろうか、トランクがハイエース的に大きいイメージがあったが実際はそんなことはなくて、車椅子は折りたたんで後部座席足元に突っ込んでいた。

去年の今日

何してたかなと、稽古スケジュールを改めて眺めてみた。

ちょうど「休日」だったのだな。俺の心はもう劇場に飛んでいた。いつも舞台稽古の時間がとれないでいたから、今回こそは、と思ってた。だから仕込み時間を最短にできるよう、吊り物用のバカロープを用意したり、サウンドチェックが済んだら、役者が裸足で歩く畳に釘が出てないかチェックしなきゃとか考えていたのだった。
一年後、まさか自分がこんなことになっているとは毛ほども思わずに。
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クラウド上に

ワードのファイルを置いて、居間のPCからも書斎のPCからもアクセス可能な状態にしてあるのだが、すると芝居の稽古中、枕元に大学ノートが置いてあるのと似た感覚になる。自律神経が休まらず、身体には良くないと思う。だけど、そうやって自分を仕掛中の状態に追い込まなきゃ、創作なんてできやしないのだ。

夢の中で 

どこか東南アジアの国を旅していて、食事にやたら虫料理が出されて辟易した。

うまくできない

分かる気がする。

2018年10月12日 (金)

少しずつ

だが、書斎にいる時間をとれるようになってきた。
本棚を眺めながら、これから俺に何が書けるだろうか、ていうか、何か書けるのだろうか? と思う。

散歩

というか歩行練習のため、マンション廊下をうろうろ。理学療法的に正しいフォームを意識しすぎると対処できない「現実」がある。ときには横歩きだったり身体をねじったりしなきゃ、狭いところを通れない。安定した移動のためにはいわゆる「ぶん回し」が欠かせなかったりもする。

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修理

に出してたスマホを受け取りにドコモショップへ。帰りに、駅前のスーパーで買い物。

代償


1 本人に代わってつぐなうこと。代弁。
2 他人に与えた損害に対して、金品や労力でつぐないをすること。「かけた迷惑の代償を支払う」
3 目的を達するために、犠牲にしたり失ったりするもの。「命を代償として勝利を手にする」
4 欲求などが満たされないとき、代わりのもので欲求を満たそうとすること。「代償行為」

抽象的

「抽象」とは、
「他との共通点に着目し、一般的な観念にまとめること」
を言います。

2018年10月11日 (木)

顔面神経マヒの症状:


 顔面神経マヒは通常、顔面のどちらか半分に起こります。症状は、顔の半分が意のままに動かないということで、その結果眼を閉じることができない、片方の口角が下垂する、口から水がこぼれる、などの現象がみられます。眼が閉じないために眼を痛めることは勿論、容貌に関わることなので非常にストレスになることでしょう。
 その他、この病気の症状として、マヒのある側の舌半分の味覚がなくなることや、涙の出が悪いことなどがあげられます。

自律神経

作用が相反する2つの神経すなわち交感神経と副交感神経に分類されます。脳や脊髄には自律神経の中枢があり、それぞれ近くの末梢神経に自律神経線維を送っています。
自律神経は一言でいうと、内臓、血管などの働きをコントロールし、体内の環境を整える神経です。
自律神経は、すべての内臓、全身の血管や分泌腺を支配しています。
知覚・運動神経と違って、私たちの意思とは関係なく独立して働いているので、内臓や血管を私たちの意思で自由に動かす事は出来ません。
反対に、意識しなくても呼吸をしたり、食べたものを消化するため胃を動かしたり、体温を維持するため汗をかいたりするのは、自律神経があるからです。
自律神経には、交感神経(起きている時の神経・緊張している時の神経)と副交感神経(寝ている時の神経・リラックスしている時の神経)があります。
この二つは、一つの器官に対して互いに相反する働きをしています。

2018年10月10日 (水)

ディスクール

英語ではdiscourse。フランス語の原義は〈談話〉〈話〉といった意味であるが,特に現代思想の術語として〈言述〉〈言説〉と訳される。(1)単語や文ではなく,文の集合体を言語単位としてみる言語学の概念。(2)エミール・バンブニストの理論に基づく。発話の主体や発話行為,発話の状況など,コミュニケーションの場との関係のなかで捉えられた言語記号体。ディスクール=テクスト+コンテクストと公式化できる。言語記号を社会的・文化的視点から考察するときに有効。(3)M.フーコーの概念。真理と非真理とを決定する知的言語記号(言表)の集合体。認識の基盤を形成し,何が真理であるかを認定するもので,政治的・制度的な権力作用と結びつくとともに権力を行使するもの。その起源と系譜は歴史的に検証可能であり,その作業がニーチェの系譜学から学んだ〈考古学〉。J.ラカンによる,シニフィアンと主体の欲望の対象との関係からするディスクールの4分類(〈主人〉〈大学人〉〈ヒステリー患者〉〈精神分析家〉)も知られる。文学批評や文化研究では(2)と(3)の意味が一般的。

焼肉きんぐ 狛江店

http://www.yakiniku-king.jp/sys/Shop/index/434

狛江市東和泉1丁目34−28

泣き言になるけれど

正直、あのまま終わっていればどんなに楽だったろうと思ってしまう。実際、「終わった」も同然なのだ。

菅氏は、安倍首相の追悼の辞を代読。「基地負担の軽減に向けて一つ一つ確実に結果を出していく決意だ。県民の気持ちに寄り添いながら沖縄の振興・発展に全力を尽くす」と読み上げた。会場からは「うそつき」「帰れ」などの声が上がった。
毎年報じられる沖縄の「荒れた成人式」と通底するものを感じる。共産党的心情倫理がこれを正当化するのだろう。

2018年10月 9日 (火)

約束

をするのが怖い。
守れる確信が持てないんだ。

袖を通す

衣服を着る。特に、はじめてその衣服を着ることにいう。「新しいスーツに―・す」
つまり未着用のうちはまだ「袖」以前の単なる布の筒で、それを着る身体との関係で、はじめて服の部位が規定されて「通る」ってことなんだろう。俺の憶測だが。

恩着せがましい

何が「利用していい」だ。思い上がりも甚だしい何の利用価値があるものか。

心情倫理

ってやつはつまり、前提条件の変化に目を配るなんてこともなく思考停止し、ただ己の信念に従って無責任に一面的価値観を強調してればいいのだから、楽ちんなのだ。

債務はもとより

それが債権であっても、過大な調整コストがこちら持ちなら、関係を解消した方がマシなのである。

春と修羅

あいつをどうやって殺してやろうか
自分の意識に上らせない、すなわち黙殺すればいいのである。

真実

何か確固とした「真実」というものがあって、人の目に触れると都合の悪い者がいるからってヴェールがかけられている。それを引っ剥がす勇気さえあれば、「真実」がありのままの姿を現す、という素朴な世界観なのだろう。「観る」ということがどういうことか、メルロポンティ的な問いを己に向けてしたこともない、あらかじめ構造化された己の視線に疑いを差し挟むことのないその手の単細胞にはつき合いきれませんの。

2018年10月 8日 (月)

わだかまる

複雑に絡み合っている。「老松の根が―・っている」
3 心に不平・不満・不安などがあって晴れ晴れしない。「不吉な予感が胸に―・る」
4 かがんでうずくまる。また、しっかりと根をはる。蟠踞 (ばんきょ) する。
「あたかも毘留遮那大仏が虚空に―・っているような雪峰で」〈河口慧海・チベット旅行記〉
5 盗んで自分のものとする。横領する。
「主人の金子 (きんす) を―・り」〈浄・歌念仏〉

サルトル

以前一緒に

芝居を作った女優が出るよその芝居を、そのうちいつか観に行こうと思っているうち、それが叶わぬ身体になってしまった。あのとき観ておくんだったと後悔してる。「いつか」はこないこともあるんだ。

ジェンガ

ジェンガはイギリスで開発されたテーブルゲームで、直方体のブロックで組み上げたタワーから片手で1つずつブロックを抜き取って、最上段へ積み上げていくというものです。
「ジェンガ」とは、スワヒリ語で「組み立てる」という意味の「クジェンガ」という言葉から来ています。
日本では1988年にタカラトミーから発売され、ブームにもなりました。いかにタワーを倒さずに積み上げることができるかを競う、ハラハラドキドキ盛り上がるゲームですよ。

塑性

可塑性ともいう。固体が弾性限度 (→比例限度 ) をこえた大きい力を受けて変形するとき,力を除いてもその変形がもとに戻らないで残ってしまう性質。この変形を塑性変形または永久変形という。特に,金属などを引伸ばして針金にするときの塑性を延性,たたき広げて箔にするときの塑性を展性という。塑性変形は力が弾性限度をこえれば生じるが,降伏点をこえればさらに著しい。塑性は温度によってかなりの影響を受ける。粘土のように降伏点の応力が小さいものは塑性変形しやすく,塑性体と呼ばれる。樹脂のような高分子物質も塑性体で,熱や圧力を加えて塑性変形させて成形することができる合成樹脂を一般にプラスチックと呼ぶ。

書斎

が物置状態だったのを、結構なお金をかけて片付け、新しいデスクトップPCを設置して、プリンターも繋いだ。そうしてとりあえず書き始めたワードの原稿をクラウド上に保管して、居間のPCでも推敲可能となった。
居間のPCに繋ぎ直したプリンターで印字実験。できた。
とりあえず、執筆再開できる環境は整った。
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パニック障害

http://www.myclinic.ne.jp/imobile/contents/medicalinfo/gsk/top_mental/mental_002/mdcl_info.html

パニック障害は、突然起こる激しい動悸や発汗、頻脈(ひんみゃく:脈拍が異常に多い状態)、ふるえ、息苦しさ、胸部の不快感、めまいといった体の異常と共に、このままでは死んでしまうというような強い不安感に襲われる病気です。
 この発作は、「パニック発作」といわれ10分くらいから長くても1時間以内にはおさまります。
 初めてのパニック発作で、救急車を呼んで病院に運び込まれる場合もありますが、医師の診察を受ける頃には発作は消え、血液検査や心電図検査をしても異常はみられず、時には気のせいなどと言われることもあります。
 パニック障害の特徴は、検査をしても身体的な異常は見当らないのに、パニック発作を繰り返すことです。


 脳の中には、脳内神経伝達物質といわれる物質が数種類あり、外界からの刺激に対応して、さまざまな働きをしています。
 パニック障害が起こる原因は、恐怖や不安に関係している神経伝達物質「ノルアドレナリン」と、興奮を抑える神経伝達物質「セロトニン」とのバランスが崩れるためと考えられています。これについて詳しいことはわかっていませんが、脳内のセロトニンが増加する治療を行うと、パニック障害の改善がみられることから推測されています。

先日、電車に乗った時に感じた不安/心細さの延長に、これがあるのではなかろうかって気がするな。

2018年10月 7日 (日)

死亡の判定・定義

どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。養老孟司は次のように指摘した。
生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない。

煙草

胸の辺りにわだかまってるざわついたものを、煙で絡め取って吐き出したいんだ。

くしゃみ

の反動で転倒してしまった。まったく情けない。

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後遺症

脳卒中発作(のうそっちゅうほっさ)がおこった時点では、その症状が回復可能かどうかはわかりません。
 70歳以上のお年寄りは、訓練を受けても回復が思わしくないことが多く、とくに重度の失語症(しつごしょう)、半側失認(はんそくしつにん)(まひしている側の事物を認識することができない)、失禁(しっきん)をともなっている場合は、まひなどが回復しない傾向があります。
■手足のまひ
 1か月以内に手足をいくらかでも自分で動かせるようになった場合は、以前のように動かせるようになる可能性があります。
 6か月たっても完全に回復しないときは、健康なときと同じ状態にもどれないことが多いのですが、その後6か月は、訓練しだいで、少しはよくなる可能性があります。
 1年たつと、まひがそのままの状態で固定し、訓練してもそれ以上に回復する可能性はなくなります。
 ふつう、肩の周辺よりも手先のほうが回復の度合いが悪く、また、手に比べて足のほうが先に回復します。
 発作時に手足がまったく動かない場合、手(とくに手先)のほうは回復しなくても、足のほうは補装具の使用で歩けるようになることが多いものです。
https://kotobank.jp/word/治る後遺症、治らない後遺症-792811

2018年10月 6日 (土)

爪が手に食い込んで

痛むのかと思ったがそうではないな。内側からだ。

「希望」という美名のもとに

実現可能性を排除してしまうってことがあるんだ。

2009.5

20095

1993年伊豆旅行

Izu

2008.12@草津

200812

雑種地

不動産登記法では、地目について次のように規定されています。
「地目は、土地の主たる用途により、田・畑・宅地・塩田・鉱泉地・池沼・山林・牧場・原野・墓地・境内地・運河用地・ため池・堤・井溝・保安林・公衆用道路・公園・雑種地に区分して定める」
しかも雑種地以外の地目については、どういう土地なのかを細かく定められているのに対して、雑種地では「以上のいずれにも該当しない土地」と規定されています。

リハビリの目的

そもそもリハビリとは何でしょうか。元通りに暮らせるようになることが理想とはいえ、誰もがそうなれるとは限りません。少し考え方を変えてみましょう。体の機能の衰えを例にするなら、視力が落ちた場合にはどうしますか? たいていの人が、目のリハビリに励むのではなく、メガネやコンタクトレンズで補うはずです。このように身体機能の衰えを何かでカバーすることを「外的代償」と呼びます。また、文字を大きくすることもできますね。この様なアプローチを、環境調整といいます。リハビリの本来の目的は、できる範囲でその人らしく生活をエンジョイできるようにすることです。障がいが治らないなら、そしてそれをカバーしてくれる外的代償や環境調整があるなら、どんどん使えばよいのです。

https://yumenavi.info/lecture.aspx?GNKCD=g002842

それを可能にする環境整備の第一としていわゆる「障害受容」があるのだろう。
それって現実に限りある人生のリソースを適正に配分し、己を未来に開くということだ。

不要な干渉と

陳腐な言説を呼び込まぬように気をつけなければ。

2018年10月 5日 (金)

勘違いされているリハビリテーション


 リハビリと言えば、まず思い浮かぶのは何でしょうか。松葉杖をつきながら、あるいは支え棒につかまりながら、歩けるよう一生懸命に努力する、そんな歩行訓練のイメージをもっているのではないでしょうか。もちろんこれもリハビリ(運動機能回復訓練)の一例です。しかし本来のリハビリには背景にもっと幅の広い考え方があります。
そういうマンガチックというかテレビドラマ的な紋切り型のイメージが正確な理解を妨げているのは確かだろう。そういう通俗イメージが奇妙な精神論を正当化し、その一面的価値観の強調が障害受容=人生のリソースの分配の適正化を阻害するのである。そしてその「結果」は阻害した当人にはどうでもよいこと(所詮は他人事なのである)で、動機の純粋性(キヨキココロ)が陳腐な精神論を正当化するのである。

リハビリテーションには優先順位が必要

リハビリは目的を明確にして取り組むことが大切です。リハビリをした結果で生活が快適になるという目的です。必要以上のリハビリは、本人にとって苦しいだけで本末転倒です。家庭の事情などでリハビリ後も病院暮らしが予想される場合、一人でトイレに行くことや食事をすることは、快適に生きていくためにできたほうがよいでしょう。けれども着替えは、指を細かく動かせなくてボタンをはめただけで半日疲れてしまうなら、看護師に任せてもよいのではないでしょうか。その人はボタンをはめるために生きているわけではないのですから。
 リハビリの目的、どの程度の訓練にまで取り組むかを決めるには、このように対象となる人の個人的な生活を踏まえて考える必要があるのです。
そもそもリハビリの目的とは何でしょうか。元通りに暮らせるようになることが理想とはいえ、誰もがそうなれるとは限りません。少し考え方を変えてみましょう。体の機能の衰えを例にするなら、視力が落ちた場合にはどうしますか? たいていの人が、目のリハビリに励むのではなく、メガネやコンタクトレンズで補うはずです。このように身体機能の衰えを何かでカバーすることを「外的代償」と呼びます。また、文字を大きくすることもできますね。この様なアプローチを、環境調整といいます。リハビリの本来の目的は、できる範囲でその人らしく生活をエンジョイできるようにすることです。障がいが治らないなら、そしてそれをカバーしてくれる外的代償や環境調整があるなら、どんどん使えばよいのです。

図と地

《figure and ground》心理学で、ある物が他の物を背景として全体の中から浮き上がって明瞭に知覚されるとき、前者を図といい、背景に退く物を地という。

症状固定

後遺障害等級認定は、傷病が治った時以降に行ないます。治った時とは、医学上一般に承認された治療方法をもってしてもその効果が期待できず、残存する 症状が自然的経過によって到達すると認められる最終の状態に達したことをいい、これを症状固定といいます。
わかりやすく言い換えますと、後遺症がそれ以上はよくならない状態に落ち着いた時のことをいいます。 治療を行うとしばらくは楽になるが、またすぐに戻ってしまい、長期的に見れば快方には向かっていない状態も症状固定とされます。 「治った」といっても後遺症が残らずに治ったという意味ではないことに注意してください。
いつ頃を症状固定にしたらよいかは患者ごとに判断すべきことで、その傷病ごとに一律な期間が決まっているわけではありません。 症状固定をいつにするかということは、一般的には医師の意見を尊重して決められます。 具体的には、むち打ち症などでは、治療に行った後は少し調子がいいが、すぐまた元に戻ってしまうというような一進一退の状態が続く場合は、 症状固定とされます。骨折の場合は骨癒合が得られたときとされることが多いですが、関節近くの骨折等で機能障害がある場合は、リハビリが終了した時点を 症状固定とすることが多いです。

試行錯誤

にだって費用が発生するわけだ。
トンチンカンな回り道をされるとその分、ムダが出るわけで、それは避けたかったわけ。

神経の可塑性

神経系は外界の刺激などによって常に機能的、構造的な変化を起こしており、この性質を一般に“可塑性"と呼んでいる。神経の可塑性は大きく3つに分けられる。1つ目は脳が発生していく時や発達していく段階にみられる可塑性。2つ目は老化や障害を受けた時などに神経の機能単位が消失するが、それが補填・回復されていく場合。3つ目は記憶や学習などの高次の神経機能が営まれるための基盤となっているシナプスの可塑性(synaptic plasticity)である。特に神経科学にとっては3つ目が重要で、その機構についても徐々に明らかにされている。記憶には、短期記憶と長期記憶があるが、短期記憶は主にシナプスでの伝達効率の変化により、長期記憶はシナプス結合の数や形態の変化により達せられると考えられる。

危機管理

ができてなかったということになるのだろうが、実際に起こったべつの危機を回避するための次善の策が、自分で仕事を抱え込むあのスタイルだったのだ。何しろ黙ってたらタイムスケジュールひとつ出てこなかったのだから。

ハズ

「改めて言わなくてもわかっているハズ」というのだった。何度も現場を経験しているし、と。
しかし、不文律を経験から学びとらないのが、無能の無能たる所以じゃないか。

ゲシュタルト心理学

ゲシュタルト心理学(ゲシュタルトしんりがく、Gestalt Psychology)とは、心理学の一学派。人間の精神を、部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶ。
ゲシュタルト心理学は、ヴントを中心とした要素主義・構成主義の心理学に対する反論として、20世紀初頭にドイツにて提起された経緯を持つ。精神分析学や行動主義心理学に比べると、元々の心理学に近いと言える。
特にユダヤ系の学者が多かった事などもあって、ナチスが台頭してきた時代に、同学派の主要な心理学者の大部分がアメリカに亡命した(例外的にヴォルフガング・ケーラーのみはバルト・ドイツ人出身)。
その後、同学派の考え方は知覚心理学、社会心理学、認知心理学などに受け継がれた。自然科学的・実験主義的アプローチや、全体性の考察に力学の概念を取り入れた事など、現代の心理学に与えた影響は大きい。
日本の研究者では、ケーラーのもとで学んだ佐久間鼎などがいる。言語学者でもあった佐久間は発音にもこだわり、より原語の発音に近い「ゲシタルト」と称した。現在でも、「ゲシュタルト心理学」ではなく「ゲシタルト心理学」という語を用いる研究者もいる。

2018年10月 4日 (木)

仮眠

深夜作業前に少し仮眠を取った。以前はそれで徹夜して翌昼、仕事の合間にキレギレに眠るということをやっていた。そして夜は稽古だったり。今はもうとても無理である。

合祀墓

https://合祀墓.jp/?gclid=EAIaIQobChMI-rX5utrs3QIVTCQrCh3GZABGEAAYASAAEgJnVfD_BwE

トイレ動作

トイレ動作には「トイレまでの移動動作」「立位動作」「衣服をおろす動作」「座る動作」「立ち上がる動作」「衣服を着る動作」という6動作が必要になります。また、「立位動作」には体の方向を変える動作も必要であり、トイレ動作だけで多くの動きをしなければなりません。
立ち上がるための手すりの位置は便座に座り腕を伸ばした状態で肘が少し曲がるくらいに設置します。立ち座りしやすい位置が便座付近なのか、前方なのかによって手すりの種類が変わってきますので、動作をシミュレーションしながら選定を行っていきましょう。車いすでトイレに侵入するのか、扉に入る前に車いすから立ち上がり、自分の足で侵入するのかによっても変わります。
また、トイレの扉が外開きであれば、扉が邪魔で出入りしにくい場合もあります。介護保険の住宅改修では扉の入れ替えも可能なことがあるので、考慮しておきましょう。ドアノブもひねる物より持ち手が大きいほうが支えやすいです。

「諦めたらおしまい」

などと所詮は他人事の気楽さで通俗的な価値観を口にしたがる者があるが、それが少年ジャンプ的にアプリオリな正義だと思っているのだろう。だが一方で「諦めが肝腎」てことがあるだろう。
言葉遊びをしてるんじゃない。それなくして「障害受容」なんてありえないと思うからだ。
たとえば「自立歩行」にこだわって車椅子を退けていたら、実生活での己の行動範囲を狭めてしまう。リハビリそれ自体が目的になって、本末転倒だ。要するに限りある人生のリソースをどう配分するかって話なんだ。その前提として受け入れがたい現実を受け入れる必要がある。

知覚の現象学

若い頃には小劇場の桟敷席で、舞台にかぶりつきで貪るように芝居を観たものだ。その頃の己の眼差しの圧力を思い出す。

悪循環

できないから任せられないし、任せられないから決してできるようにはならないという悪循環。

Harinezumi

とりあえず

短い距離だが電車に乗ることができた。繁華街まで足を伸ばして、友人との「ご飯」の約束を果たしたい。「今度飯でも」っていうセンスのない社交辞令に回収されるような陳腐な関係でありたくないんだ。
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2018年10月 3日 (水)

ファンヒーター

https://item.rakuten.co.jp/tansu/3840002400/

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退院後初の電車。とりあえず矢野口~稲田堤まで一駅だけ。
Photo

自虐ネタ

の軽口が妻を傷つけ、苦しめてしまう。それはやはり無神経ってことなんだろう。

ミホちゃん

若林さんに説教される春日さん。 うーん、身につまされる。

2018年10月 2日 (火)

スリング

をつけないと、腕の重さに肩が耐えられない。

ランスルー

https://kotobank.jp/word/ランスルー-656763

レビ放送で、本番と全く同じに行う通し稽古。舞台におけるゲネプロにあたる。

ゲネとはべつにランスルーってことを学生演劇のとき言ってたな。ざっくり通すことをそう呼んでた。まあ用語の定義は団体ごとに結構まちまちだったりするからね。

電車に乗って

若葉台へ行きたいんだ。
実際的な買い物の用事はもちろん、電車に乗るという経験も得たい。それから、個人的に思い出深い土地だから、妻と二人で行きたいんだ。けど、日程の約束はできないという。実のところそれは俺も一緒だ。だいたい明日、生きて目覚める保証だってないんだ。大袈裟でなく。そういう意味では、先の約束なんか何もできない。
Cup

フレスポ 若葉台

身体の痛みを

風に流してしまえればいいのにな。
Namida_2

水泳

に一時期凝っていて、山の上の市営プールに自転車(先日粗大ゴミに出した)で通ったものだが、あれはいつのことだったろう? 何かの執筆中だった記憶はある。「何か」が何であるかがわかれば自ずと「いつ」かも見当がつくのだけれど。

Namida

2018年10月 1日 (月)

新作の

ワンシーンを考えついた。実際に「書いた」わけではないのだけれど、文字に起こす一歩手前まで。
Photo

積み上がらない

会話にどっと疲れる。今まで何をきいていたんだ? と言いたくなる。
Harinezumi_2

分別

居間でつまみ読みした本を書斎の本棚に片付ける。分類し、整理し、つまり分別するわけだけど、それよりまず、物理的な移動が困難なのである。

Harinezumi

毎朝

電池を取り替えて
ポメラでつくった文章を転送せずとも

こうして直接PCで書き込めるのだからありがたいことである。
Omoumarina

inu『飯喰うな』

「禁煙運動」という危うい社会実験

アポリア

ギリシア語で場所に関しては通路のないこと,事物については解決の方途が見出せないことから生じる困難を意味する。特にプラトンの場合,ディアロゴスにおいてロゴスの展開から必然的に生じる行きづまりを意味し,アリストテレスにおいては,ある問題に関して2つの同様に成立する対立した合理的な見解に直面することをいう。一般的には,解決できない難問をさす。

価値観の転倒

みたいなつもりなのか何なのか、しかしその実、やってることは無神経で陳腐なレトリックの遊戯による自己陶酔=言葉遊びなんだから、そんなもん、キレていいだろう。
Sinigami_2

対照実験

ある条件の効果を調べるために、他の条件は全く同じにして、その条件のみを除いて行う実験。除いたときと除かないときの結果を比較する。医療や統計学では対照試験ともいう。コントロール実験。空(くう)試験。ブランクテスト
ある因子(物質,刺激,温度,食物など)の作用を調べてみる実験の際,研究しようとする因子以外はすべてこの実験と同じ条件にした実験を並行して行い,両実験の結果を比較することが必要である。この後者の実験を対照実験という。対照実験を行わないと,実験で得られた結果がほんとうにその因子の作用によるものかどうか確信が得られない。とくに生物についての実験の場合には,研究対象が複雑であるため,生物の遺伝的系統,育てた条件,実験時の条件などすべてのことについて厳密に同じ条件にした対照実験がなければ,実験はほとんど無意味に等しい。

掃除機

かけてみたんだ。右手でホースを掴んでしまうと、身体を壁で支えるのに小指だけとかになって骨折しそうで怖い。せめて両手がつかえたらなと思う。

10月1日

というわけで9月も終わり、今日から10月、今月25日が俺の「命日」でつまり、じきに「一周忌」になる。過ぎてしまえば早いものだ。
 昨夜は札幌にいる夢を見た。住んでいるのか旅なのか。たぶん後者らしい。帰りの飛行機の段取りを気にしていたから。夢の中では車椅子じゃなかった。夢の中くらい五体満足でいたって罰は当たらぬと思うけれども一方で、障害受容を拒む気持ちの表れなのではないか、とも思ってしまう。
Sinigami

幻肢・幻肢痛を通してみる身体知覚

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