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2018年9月15日 (土)

障害受容

障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである、というのが筆者の定義である。」(上田[1980:209])
障害のある人々の多くは「自分は家族の足手まといで、社会の厄介者で、生きる資格のない人間だ」と自分を責め、あるいは「そうなるのではないか」と不安と恐怖をいだく。しかし実はこれが「障害者」に対する本人自身の偏見の産物にほかならないことは先に述べた通りである。しかし人間は強いもので、このどん底からも立ち直り、立ち上がってくる人が決して少なくない。これを援助することがリハビリテーションの重要な第4のアプローチ(前ページ参照)である。これを障害の受容と呼ぶ。これはよく「あきらめ」とまちがわれるが、実は正反対で、現実から目をそらさず、直視することができるようになることであり、障害の心理的克服に他ならない。その本質は障害についての価値観の転換である。他人との比較でしか意味のない(相対)的価値観から脱却して人間の様々なありかた(存在)そのものに価値を見出す存在(絶対)的価値観に到達することである。
しかしやはり諦めが肝腎なんじゃないか。「あきらめ」なしに「価値観の転換」などあり得るか。
べつに偏見でもなんでもなく、実感として、こんな身体でいつまでも生きていたってしょうがないと思ってしまう。家族の足手纏いになっているのも事実だろう。だからって積極的に死にたいとも思わないが、今度死神が訪れたら抗うつもりはない。そんな「気力は残されてないのだ。
Sinigami

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