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2018年9月

2018年9月30日 (日)

また台風

いい加減にしてもらいたいが、今俺が入院中でなくてよかった。この状況で妻と離ればなれだったら、心細く、かなりつらい。

トレジャーファクトリー稲城若葉台店

東京都稲城市若葉台2-1-1

常識

以前はアタリマエにできていたことがことごとくできなくなったのだから、当然「常識」も変わってくるのである。

靴下

入院中は妻が、ゴム口を丸めてドーナツみたいにしてくれていた。おかげで片手でも一人で靴下を穿くことができた。今はもう、そういう「加工」なしで、なんとか穿けるようになった。

言葉における存在の彼方 : メルロ=ポンティ・デリダ・レヴィナスの思考をもとに

夢を見た。

「どうする? まっすぐ帰る? それともどっかで飯でも食ってく?」などと友達と話しながら新宿の街を歩き回っている。
かつてはあたりまえにあったことだが、今は決してあり得ない。単に歩けないということだけじゃなく、決定を保留したまま行動を継続し、「偶然」に期待するっていう選択肢がない。
今日で9月も終わり。来月には俺の「一周忌」である。最近は夢の中でも車椅子であることが多く、健康だった頃の「日常」の感覚がどんどん失われつつある。かつての自分にとってリアリティを感じたことが今の自分には感じられない。明らかにリアリティの質が変わったのである。

Namida

2018年9月29日 (土)

一年前の今日

すでに稽古していたんだな。写真はせんがわリハ室。何度ここへ通ったか知れない。まさかこれが最後の公演になるとは思いもしなかった。
2017929

雨の中

妻が買い物から帰ってきた。
以前は俺の仕事だったのに、今じゃ傘を差しかけてやることすらできないのだ。
情けない。
Namida

仕事机の

まわりを少し片付けたいのだけどモノの行き場がない。

多少の雨など

以前だったら何でもなかった。いつもと同じく大荷物で稽古に出かけたもんである。が、今はちょっとの雨とちょっとの風で家の中に閉じ込められてしまう。閉じこもる家があるだけマシであるが。
Harinezumi

夢を見た

病室に畳を敷いた平台が持ち込まれる。
その上で裸足でいたら、不安定で危ないから靴を履けと看護師が言う。だったえらこんな平台、撤去してくれよ。

フランス落とし

玄関ポーチの門扉のフランス落としをしゃがんで上げ下げするのがとっても難儀である。

明日が土曜、明後日は日曜

だから今日、9月の仕事を〆て先方に報告。来月はもう10月だ。じきに俺の「一周忌」になる。早いなあ。
Omoumarina

2018年9月28日 (金)

藪塚温泉

若葉台駅

2010.8@北大

20108

合同墓地

1990百貨劇場

1990_4

1997.1下北沢駅前劇場

19971

Photo

家族葬@川崎

20180928@京王稲田堤

Keioinadadutumi

駐輪場使用申込み

受付の表がエントランス掲示板に貼り出されていて、そうか、もうそんな季節かと思う。さらにいえば、表の雛型は私が会計理事時代にエクセルで作成したものであり、懐かしく思う。もう、理事の仕事も、もうできないだろう。

昨年は病室らか妻に指示を出して、駐輪場使用許可のシールを自転車に貼ってもらったりしたが、すでに自転車を廃棄した(ので、今年は申込台数ゼロである。

Usamarina

2018年9月26日 (水)

エクリチュール

文学上の概念。「書くこと」「書かれたもの」さらには「書かれた言語」などを意味する。批評家 R.バルトによると,言語 (ラング) は作家の活動する場を限定し,文体は作家の体質に内在するものであって,ともに作家の意志に無関係であるが,その中間に,作家が意識的に選択する1つの形態的実体エクリチュールがあり,それによって作家は彼自身になるのだとしている。この概念はフランスのヌーボー・ロマンの作家たちや,雑誌『テル・ケル』 (1960創刊) を中心とするグループによって,さらに発展させられている。

障害受容過程

【ショック期】
・受傷してすぐの段階で、障害が残る可能性などが分かっていないことから、比較的平穏な心理状態。
【否認期】
・治療が一段落して、自分の身体状況などにも目が向くようになってくるが、自分に障害が残ることを認めていない時期。
【混乱期】
・障害を受け止めることができず、他人に感情をぶつけたり、他人を責めたりする。抑うつ反応を示し、自殺を考えることもある、混乱を示す段階。
【努力期】
・怒りをぶつけたり、絶望しても問題解決にはならない、自ら努力することも必要と気づきはじめる時期。
【受容期】
・現実を受け止め、残された機能の活用や価値の転換がはかられていく時期。

事故物件

「基本的には、入居者が亡くなる場所となった物件を指します。亡くなる原因はさまざまですが、大別すると『殺人』『自殺』『自然死』の3種類です。ただし、この3種類を同等に『事故物件』と扱うべきか否か、基準は極めて曖昧(あいまい)です。例えば、凄惨な殺人事件に巻き込まれて亡くなったとなれば、当面の間は間違いなく事故物件扱いになります。かたや家族で暮らしていて、おばあちゃんが急に具合が悪くなって突然死してしまい、すぐに発見された場合、家族の一員が寿命で亡くなるのは普通のことなので、事故物件と認定しないと思います」

障害受容 ( 克服)と希死 念慮

装具

入院中につくったが退院後、まったくつかっていない。
Sogu

社会的身体図式

つまらない揚げ足取りで世直し気取りか。
どんだけ影響力があるつもりなんだ?
社会的身体図式とでもいうべき自己イメージがぶっ壊れてるんじゃないか。
Jin008

注意障害

http://koujinou.net/kind/chui.php

高次脳機能障害のひとつとされ、交通事故で脳に損傷を受けた場合にも発症することがあります。
集中力が低下し、仕事や勉強を長く続けることが困難になったり、
外見的にもぼんやりすることが多くなったり、
周囲が呼びかけても返事をしないなどの変化が見られます。
また、同時に2つ以上のことが出来ない、考えられないなどの症状も見られます。
症状によって、以下の4種類の注意障害に分類されます。
全般性注意障害/容量性注意障害/持続性注意障害/選択性注意障害

今日は寒いくらい

だから、長袖のパーカーをはおった。入院中に着ていたもの。
季節が一周したのだ。
Moaparker

ディスクール

言語学用語。「言説」「言述」と訳されることもある。抽象的な体系としてのラングに対する概念で,一つのメッセージを形成する言語表現の総体をさす。言語学者 E.バンベニストは,記号を単位とする閉じられた「ラングの言語学」を批判して,文を重視する「ディスクールの言語学」を提唱した。
英語ではdiscourse。フランス語の原義は〈談話〉〈話〉といった意味であるが,特に現代思想の術語として〈言述〉〈言説〉と訳される。(1)単語や文ではなく,文の集合体を言語単位としてみる言語学の概念。(2)エミール・バンブニストの理論に基づく。発話の主体や発話行為,発話の状況など,コミュニケーションの場との関係のなかで捉えられた言語記号体。ディスクール=テクスト+コンテクストと公式化できる。言語記号を社会的・文化的視点から考察するときに有効。(3)M.フーコーの概念。真理と非真理とを決定する知的言語記号(言表)の集合体。認識の基盤を形成し,何が真理であるかを認定するもので,政治的・制度的な権力作用と結びつくとともに権力を行使するもの。その起源と系譜は歴史的に検証可能であり,その作業がニーチェの系譜学から学んだ〈考古学〉。J.ラカンによる,シニフィアンと主体の欲望の対象との関係からするディスクールの4分類(〈主人〉〈大学人〉〈ヒステリー患者〉〈精神分析家〉)も知られる。文学批評や文化研究では(2)と(3)の意味が一般的。

2018年9月25日 (火)

失認/失行


脳は、視覚や聴覚などさまざまな感覚により得られた周囲に関する情報を統合し、空間や状況を意識したり、状況を判断したり自らの行動をうまく行なうための調整をする機能を持っています。そのため、それらが損なわれた場合、失認、失行といった症状が現れます。
 失認は大脳の一部が破壊されることで、感覚器は完全なのに、対象となる事物を認識できない状態で、失認でよくみられるのは、左半側空間失認です。自分からみた左側半分の空間が認識できず、左側にあるものを無視します。そのため、左にあるものにぶつかることや食事の際は食器の右半分のものだけを食べることがあります。失認がみられる場合、家族は患者さんが左側を認識できないということを念頭に入れて接することが大切です。
 失行とは、手足などの筋肉が麻痺しているわけではないのに、ある行為がうまく行えなくなる症状です。例えば洋服を着られなくなる、コインをつまんで取り上げられなくなることなどがあります。

中枢神経系

神経系の中で、全神経の統合・支配など中枢的役割を果たしている部分。末梢(まっしょう)神経系の受けた刺激をとらえて音声・運動・反射などを指令する。脊椎動物では脳と脊髄、無脊椎動物では神経節の一部をいう。

本を購入

ラカンにかんするややこしい本だから、いつ読めるかわからないけれども。

可塑性

の細胞は一度死んでしまうと元には戻りませんが、脳には可塑性という能力があります。これは、脳の神経細胞が新たに経路を作ったり、失われた細胞の役割を他の細胞が担おうとする能力のことを指します。この可塑性という能力を最大限に生かすためにリハビリテーションは行われます。発症直後の症状が重度の場合は、後遺症も残りやすいですが、長期的ににリハビリテーションを行うことで、少しずつ脳の神経細胞に刺激を与え変化をもたらし回復する期待は持たれています。しかし、広範な脳幹出血などにより意識障害が長く続く場合は、その後重い後遺症が残ることがあります。

脳卒中患者 の 自律神経障害

なんだか

どんどんバカになっていく気がする。

ディスクール

ディスクール(フランス語: discours)は、言語・文化・社会を論じる際の専門用語としては[1]、「書かれたこと」や「言われたこと」といった、言語で表現された内容の総体を意味する概念である。英語では"discourse"が相当し[1]、日本語では意訳して言説(げんせつ)の語を当てることが多い。
当初は言語学において考え出された概念であったが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』および『知の考古学(英語版)』を経て、哲学や社会学でも用いられるようになった。批評用語としての「ディスクール」はフーコーが託した意味を引き継いで使われることが多く、単なる言語表現ではなく、制度や権力と結びつき、現実を反映するとともに現実を創造する言語表現であり、制度的権力のネットワークとされる。
フランス語における意味は物事や考えを言葉で説明することであり、フランス語の普通名詞としては「演説」「論述」などの意味も持つ。しかし、日本語において「ディスクール」が使われる場合は、ミシェル・フーコー的な「言語表現の総体」を意味することが多い。
フーコーによれば、言語によってなされた個々の表現は「エノンセ」(énoncé、言表)と呼ばれ、ディスクールはこのエノンセの総体である。そしてディスクールは、無意識のうちに制度や権力と不可分に結びついており、抑圧・排除・差別などといった制度的権力の構図を内包している。また、ディスクール自体は多くの人間による言表の集合であるために個々の言表における作品性や著作性といった要素はあまり問題とされない。これに対してユルゲン・ハーバーマスは、「理想的な対話状況」によって権力性を切り離すことが可能であると説いた。またエドワード・サイードは、「オリエンタリズムに関しては」という限定の上ではあるが、ディスクールに著作家自身の特徴を見て取れると著書『オリエンタリズム』で主張している。

マリーナ・アブラモヴィッチ

1974年の「Rythme 5」では、ガソリンを燃やして共産主義の象徴である赤い星を作り、その炎のなかに横たわって政治的メッセージを表現しようとした。その際、酸素不足から意識をなくし、あやうく命を落としかけた。1975年にインスブルックで行った「Thomas Lips」では、自らの腹部に剃刀の刃で切りつけ、その傷で赤い星を描いた。この後、体に数十回にわたって鞭を打ち、十字架をかたどった氷の塊に全裸で横たわり続けた。この時も途中で意識を失い、危険を察知した観客にパフォーマンスを中断させられている。
また、文明という仮面の下に隠れた人間の暗部を浮き彫りにしようともしている。有名なものでは、1974年の実験的パフォーマンス「Rhythm 0」が挙げられる。アブラモヴィッチは観衆の前に身をさらし、観衆に72の道具(口紅、香水、はさみ、ナイフ、鞭、注射器など)を与え、6時間にわたって彼女の体に対して意のままにそれらの道具を使わせた。次第に観衆の自制心が薄れていき、彼女の服を引き裂く、叩く、血を飲むなどの欲動に走り始め、遂には装填した銃を身につけた男が彼女を脅かすまでにいたり、他の観客が止めに入ったほどだった。演者と観衆との係わり合いは、その後も彼女の作品の重要なモチーフのひとつとなっているが、観客にパフォーマンスを全面的にコントロールさせることはこれ以降なくなった。

ランガージュ

ソシュールの用語。彼は,人間のもつ普遍的な言語能力,シンボル活動をランガージュ (言葉) と呼び,これをその社会的側面であるラング (言語) と個人的側面であるパロール (言行為) とに分けた。ラングは社会制度でありパロールの条件であるが,歴史的にはパロールによってラングが変革されることもある。のちに A.マルティネは,ラングを「コード」,パロールを「メッセージ」の概念に代えた。

二重分節

人類の有する自然言語には、知的意味を担った最小の単位であるモネーム(記号素)と、それ自身には意味をもたないが、知的意味の区別に有意な最小単位であるフォネーム(音素)の二種が必ず備わっているとする、フランスのマルティネの学説。前者を第一次分節、後者を第二次分節と呼ぶ。
言語学の用語。フランスの言語学者A.マルティネの言語理論の根幹をなす認識。人間の言語は多くの観察によってこの二重分節をそなえていることが知られ,また人間の言語に課せられた基本的な要請からいっても,そこには二重分節構造がぜひ必要であると考えられる。 人間の言語に課せられた基本的な要請としては,まず〈多様性〉の問題がある。人間の言語は次々と生じる新たな表現の必要を満たさなくてはならない。そこから無限の多様性の要請が出てくる。

身体図式

じぶんが今椅子に座っていること、また、右足を左足の上に組んでいることをひとは観察によることなく直接知っている。あるいは、暗闇であってもじぶんが蚊に刺されれば、即座にその身体箇所に手のひらを持っていくことができる。このような場面で働いている身体に関わる潜在的な知覚の枠組みのことを、身体図式という。
身体図式という術語は、心理学、神経科学、哲学、ロボティクスで広く用いられ、心や意識の身体性、感覚運動統合を論じる上で重要な概念である。一方で異分野間、研究者間で身体図式の確立した定義について合意が得られていない。これまでのところ、身体図式には次のような特徴があると言われている。身体図式は、
再帰的な意識、自覚を必要としない。身体運動を意識下で調整している主体である。したがって、ひとが身体図式に対して顕在的な知識を持っているとは限らない。
サル、ヒトの脳に共通して、大脳皮質の頭頂葉連合野および運動前野が身体図式に関わっている。ヒトでは特に頭頂連合野の損傷によって、身体図式の障害が起こる。
身体図式は変容する(可塑性を持つ)。日常的には、ある道具の使用に熟達すると、私たちは道具を持っている手そのものではなく「道具の先端」で対象を感じがちである。身体図式は感覚運動学習の結果、あるいは実験的に作り出された錯覚によって、一時的に変容させることもできる。

涙が出ない

涙が出ないで目が乾燥することをドライアイ、口の中が乾燥することをドライマウスと呼びます。

 こうした症状は、降圧剤や抗うつ剤などの薬が原因で起こることがあります。

知っておきたい!よく使う敬語

人間機械論

フランスの唯物論哲学者ジュリアン・ド・ラ・メトリの著書。 1747年刊。 18世紀唯物論の代表作。デカルトの動物機械論の延長上に位置し,人間と動物との根本的違いを認めず,魂は脳の物質的組織の一部であり,人間はこの動力によって動かされる機械であるとの徹底した機械論的唯物論を展開した。この立場から著者は,生を愛し死を恐れないエピクロス的な徳と自然への愛情を引出している。

知神経リハビリテーション

認知神経リハビリテーション
認知神経リハビリテーションでは運動は行為です。
現実との相互作用のために構築される行為なのです。
そしてそれは「知る」こと、つまり世界に意味を与えることを目的としています。
行為を計画し構築していく中のひとつの要素として筋収縮があるのです。
こうした視点に立つと、情報の受容表面という身体の本来の役割が見えてきます。
情報の受容表面として現実との対話を行うのです。
身体の存在は経験の重要な核なのです。
これが可能になるためには、脳の予測機構の存在が必要になります。
予測機構が希求する相互作用の意味を決定し、
予測されたものと実際に知覚されたものの比較を行います。
こうすることで、運動が「知る」ことにつながるのです。
だからそれは経験から生まれ、生きる経験を規定していくのです。
経験は言語によって表現することも可能です。
そのことを、患者の観察や病理の解釈
あるいは訓練を組み立てる場面で考慮していくことが必要です。
訓練
ですから訓練は問題という形で提示されています。

人間の運動、メルロ=ポンティからの再出発

2010年4月、日本認知運動療法研究会は日本認知神経リハビリテーション学会に名称変更しました。これは2009年の総会で承認を受けた定款第一条の変更です。
しかし、「認知運動療法」という言葉を使用しないわけではありません。認知運動療法ベーシック・アドバンス・マスターコースや認知運動療法アカデミアの名称はこれまでと同様です。
 今後、「認知神経リハビリテーション」は人間の精神と身体とを分離しないリハビリテーション治療を目指すという意味で広く深く使用する言葉として、「認知運動療法」は認知神経リハビリテーションにおける治療手段を意味する言葉として区別することになります。
つまり、今回の名称変更は、狭義のリハビリテーション治療における認知運動療法の世界(患者-セラピスト関係)から、身体、脳、心、医療者、家族、文化、制度、社会など、人間を取り巻く世界全体に意識の志向性を広げた、新しい認知神経リハビリテーションの世界へと旅立つ、我々の意志を反映したものとして御理解頂ければ幸いです。
 名称変更に伴い、2010年7月9-11日の高知での学会は「第11回日本認知神経リハビリテーション学会学術集会」として開催します。テーマは「人間の運動」です。
人間の運動を治療してゆくためには、人間機械論を批判し、人間の運動のアイデンティティを探求してゆく必要があります。人間の運動のアイデンティティとは何でしょうか? 外部観察的には道具を使用する手や直立二足歩行する足の機能的な進化でしょう。内部観察的には知覚、注意、記憶、言語、運動イメージ、情動などの多様性でしょう。しかし、その最大の特徴は「自らを改変する」ということです。運動によって自らの脳の生物学的変化(ニューロンレベルでの可塑性)を引き起こすということです。人間の運動システムは、身体と環境との相互作用によって自らの脳を改変し、環境との物理的な関係性(反射の支配)から脱却し、環境との認知的な関係性(反射の制御)を多様化させてゆくのです。そして、その多様化を生み出すことによって選択の可能性を爆発的に増加させ、運動の自由度を獲得しているのです。
 会員の皆様に認知神経リハビリテーションの核となる言葉を捧げます。
レオナルド・ダ・ヴィンチは「運動はあらゆるものの源である」と、フッサールは「運動は認知の母である」と、ルリアは「運動は認知過程の最後の鎖である」と述べています。そして、メルロ=ポンティは「身体は意味生成の根源である」と述べ、ペルフェッティは「運動とは認知である」と述べています。つまり、運動とは「Knowing」、すなわち「知ること」を意味しま

深部感覚障害

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jkpt/6/0/6_0_39/_pdf/-char/en

手足が、今「”ここ”にある」ということ -深部感覚障害の検査をめぐって

身体空間への知覚と注意
 空間には「身体空間(身体図式)、身体周辺空間(近位空間)、身体外空間(遠位空間)」がある。また、私は「私の身体」として実存している。そして、いつも私の身体は空間の中心点にいる。
 つまり、私の身体は「そこ」でも、「あそこ」でもなく、いつも「ここ」にいる。しかし、「ここ」とは「どこ」なのか?
 リハビリテーションの臨床には、自分の身体のある部分が「ここにある」ということがわからない患者たちが大勢いる。もちろん、目で見れば自分の身体が「どこにある」のかはわかる。たとえば、片麻痺患者が椅子に座っている時に、目で見れば麻痺側の足が「どこにある」のはわかる。しかし、目を閉じると、足が「ここにある」という感じはしない。それにもかかわらず、現在の多くのセラピストは、椅子から立ち上がるという行為を患者に要求する。患者は上手く立ち上がることはできない。なぜなら、足の位置がわからない、膝に対してどの位置に足があるかわからない、足と接触している床の状態がわからない、体重をどこに荷重すればよいかがわからない、立つためにどのように筋を収縮すべきかがわからないので、結果的に患者は立つことはできないし、歩くこともできない場合が多い。片麻痺患者は椅子から上手く起立することが出来ない。立位が保持できない。歩行を再獲得させることが出来ない。その背後に「深部感覚(位置覚・運動覚)」の障害が潜んでいる。セラピストはまず、動作の前に、身体空間への知覚と注意を促し、「ここ」とは「どこ」なのかを教えなければならないだろう。
深部感覚とは何か?
 人間は自分自身を感じる。自己の身体の動きを感じ取ることができる。この身体の存在、姿勢、手足の位置や方向、全身の動きなどを感じ取る機能を「深部感覚(deep sensation)」という。
 深部感覚は関節包、靭帯、筋に起源をもつ感覚であり、皮膚に起源をもつ「表在感覚」とは区別される。両者を区別したのはHead(1905)である。深部感覚は「運動感覚(kinesthesia)」、表在感覚は「皮膚感覚skin sensation」と呼ばれる。
 深部感覚には「位置覚」、「運動覚」、「筋感覚」がある。「位置覚(sense of joint position)」は静止状態での四肢の空間的位置の認識のことである。「運動覚(sense of movement)」は関節運動に伴う四肢の方向や距離(関節角度)といった、体幹や四肢の空間における相対的な位置関係の認識である。「筋感覚(muscle sense)」は筋収縮に伴う筋の張力(sense of muscle contraction)、力の入れ具合としての努力感覚(sense of force)、関節の動きに対する物理的な抵抗感(sense of resistance)、重量感(sense of weight)などの複合感覚であり、シェリントンによって自己固有受容感覚(proprioception)と名づけられている1)。
深部感覚の脱失
 深部感覚の喪失による運動障害の歴史は19世紀まで遡ることができる。1811年に顔面神経麻痺で有名なベル(Bell)は、皮膚に存在する感覚神経が表在感覚の機能を有することを最初に指摘した。また、1938年にミューラーは感覚神経が特定の物理的刺激に対して特異的に反応し、特定の感覚をひき起こすと考えた(low of specific energies)。そして、1836年に脊髄の反射研究で有名なマーシャル・ホール(Marshall Hall)は脊髄癆患者(神経梅毒による脊髄後索の病理)を初めて報告した。その患者は暗がりにおいて姿勢の不安定性が増加すると苦情を訴えた。しかしながら、彼はこの特異的な症状または徴候を発展させなかった。
 そして、1840年にモーリッツ・ロンベルグ(Romberg)は、現在世界的に認識されている脊髄癆(脊髄後索に損害を与えている梅毒に起因する疾患)のロンベルグ徴候について報告した。彼は、脊髄癆患者の診断に“ロンベルグ試験”が有効であることを提案した。これは立位で両上肢を前方に出し、開眼時と閉眼時の姿勢動揺の差異を観察するという検査である。当時流行していた神経梅毒に起因する脊髄癆患者では、脊髄後索の障害によって閉眼時の動揺が顕著であった。ロンベルグは患者の症状を次のように記載している。
足の感覚は、立っているか、歩くか、横になる際に無くなる。そして、患者はあたかも柔らかい毛で包まれているかのような感覚がする。地面からの抵抗は感じられない。
歩行は不安定に始まる。患者は、より大きな力で彼の足を床に置く。個々に保つ彼の眼は彼の行動がより不安定になるのを防止するように彼は感じる。
もし患者が垂直姿勢において眼を閉じるように命令された場合、彼はすぐによろめいて左右にスイングする。
患者の歩行の不安定性は暗がりでより動揺するが、他の運動麻痺ではこうした症状は観察されない。
眼を閉じることによる不安定性(感覚性運動失調)は、下肢と足の位置覚の喪失に関係しており、通常その情報を提供するために視力を使用することで代償される。
閉眼もしくは暗がりにある時、四肢の位置覚の喪失は不安定性の原因となり、患者は時々転倒する。
 また、1858年にドゥシャンヌ(Duchenne)は“進行性移動失調”の症例を報告した。彼の観察によれば、脊髄癆を有する患者には視力を失う傾向があり、進行的に悪化する運動失調症状を伴う。脊髄癆における運動失調の最初の詳細な記載は、このドゥシェンヌの報告である。
 以後、歩行の不安定を呈している患者において、脊髄性失調症と小脳性失調症の鑑別のためにロンベルグ試験は臨床で使われるようになった。その後、1890年にフレンケル(Frenkel)が”フレンケル体操”と呼ばれる運動療法を提案した。1921年には、ギラン・バレー(Guillain)は、急激に発現する急性脊髄癆性失調が、早めの適切な治療によって完全に回復する可逆的なタイプがあると報告した。同じ頃、フールニエは、歩行の不安定性を呈している失調症に対する”フールニエ・エクササイズ(突然の、そして思いがけない運動の認識を基礎にした訓練)”を報告した。
 20世紀の臨床神経学において、脊柱後索の異常を診断するためにロンベルグ試験は使われるようになった。今日でもその重要性は高く評価されている2)
深部感覚の変容や喪失
 深部感覚障害は脊髄後索の病変(脊髄癆)のみでなく、脳卒中片麻痺、脳性麻痺、脊髄損傷、脊髄後索病変、末梢神経損傷、運動器損傷(関節包、靭帯、筋の損傷)などさまざまな疾患においても出現する。これらの疾患においても関節包、靭帯、筋の感覚受容器から脊髄後索や視床を経て脳の感覚野に向かう上行性の神経線維の情報伝達障害を来たし、上肢、下肢、個々の関節レベルなどさまざまなタイプの深部感覚障害が発生する。患者は自己の身体の「運動感覚の変容や喪失」によって運動機能の調整が上手くできなくなる。日常生活動作や行為の著しい能力低下を来たす。
サックスの「左足をとりもどすまで」より
 さらに、深部感覚の変容や喪失は運動器疾患(整形外科疾患)においても発生することがある。医師で作家でもあるオリバー・サックス(Sacks)は「左足を取りもどすまで」という本(第5章:ふたたび一歩をふみだすまで)に、そうした状況の困難さを自分自身の経験として綴っている。それは車椅子でリハビリテーション訓練室に来て、はじめて車椅子から立ち上って歩行訓練をする時の経験である3)。
 私は立ち上がった、というより立たされた。体格のよい二人の理学療法士にかかえあげられ、立たされたのである。もちろん自分でも、与えられた二本の頑丈な松葉杖をたよりに、懸命に立とうとはした。松葉杖をつかって立つのは奇妙な感じで恐ろしかった。まっすぐ前を見ていると、左足がどこにあるのかさっぱりわからない、だいいち、左足がたしかにあるという気がしなかった。下を見ずにはいられない。視覚が重要だったからだ。見おろすと、一瞬、右足のとなりにある「物体」が自分の左足とは思えなかった。どうしても自分のからだの一部とは思えない。体重をかけたり、使ったりすることなど思いもよらなかった。私は、両足でというより、松葉杖と理学療法士に支えられてじっと立って、いや立たされていたのである。奇妙でかなり恐ろしい静止状態。重大なことがまさにおきようとする息詰まるような静止状態だった。
 身動きがとれず立ちすくんでいると、元気に声が聞こえてきた。
「さあ、サックス先生。そんなふうに立ったままではだめです。片足で立っているコウノトリみたいですよ。もう片方もつかわなくてはいけません。左足にも体重をかけて」「もう片方? そんなものがあっただろうか」私はそう聞きたいくらいだった。いったいどうやって歩けというのだ。腰からだらりとぶらさがっている幽霊のようなぶよぶよのかたまり、「無」を支えにして、いったいどうやって立てというのだ。動くどころの話ではない。
チョークでてきた殻のようなギプスで守られている、奇妙な付属物。たとえそれがからだを支えることができるとしても、歩き方を忘れてしまっているのにどうやって歩いたらいいのだろう?
「さあ、先生!」理学療法士たちはせきたてる。「はじめなくてはだめです」はじめるだって!どうやって?できるものか。だが、やらなければならない。
 左足にじかに体重をかけることはできなかった。――何と恐ろしい。考えることすらできない。できることといえば、右足を上げることだ。そうすれば、左足とよばれている物体は、いやおうなく体重を支えなくてはならないだろう。でなければ、倒れてしまうかどちらかだ。私は右足を上げた。
 突然、なんの前ぶれもなく、私は奇妙なめまいに襲われた。床がはるか遠くにあるかと思うと十センチほどまで迫ってくる。部屋が急に傾き、中心線を軸に回転する。なんということだ。わけがわからず恐ろしかった。倒れそうな気がして、私は理学療法士にむかって叫んだ。
「支えてください。支えて! 倒れそうだ」
「さあ落ち着いて。下を見ないで正面を見て」理学療法士たちは言った。
臨床における深部感覚の詳細な検査
 ロンベルグ試験は小脳性失調症と脊髄性失調症の鑑別診断に利用される。しかしながら、片麻痺などの深部感覚障害の検査(四肢の位置覚や運動覚の検査)としては「模倣検査」が一般的である。これは次のような手順で行う。
背臥位または座位で患者を閉眼させる
セラピストが患側の手足をある方向に他動的にゆっくりと動かして止める
患者は健側の手足を同じ空間的な位置に持ってくる(模倣)
その左右の手足の位置の異常(差異)から深部感覚障害の程度を判定する
 リハビリテーションの臨床では、こうした手順で深部感覚障害の有無を肩、肘、前腕、手首、手指、股、膝、足、足指について検査する。だが、それは深部感覚の「量的」な検査に過ぎないように思える。この程度の検査では「脱失」、「鈍磨」、「正常」しかわからない。つまり、これではまだ「粗大」であり、もっと「詳細」に検査する必要がある。
 認知神経リハビリテーションでは「空間問題(手足の運動の方向、距離、形態)」を提示して訓練をするが、その際には体性感覚(表在感覚・深部感覚)の評価を詳細に行っておく必要がある。そうでなければ適切な難易度に対応した空間問題(自己中心座標系)を設定できないし、深部感覚の再教育による細分化や回復を図ることはできない。
 また、近年、ペルフェッティ(Perfetti)が提案しているように、深部感覚は空間認知(cognition of space)にきわめて重要である4)。したがって、深部感覚の検査は次のような手順に沿って行うべきである。
[深部感覚の詳細な検査]
関節運動の有無、始まりと終わりが認識できるか?
 →動き始めた瞬間と止まった瞬間がわかるか?
単関節運動のマッチング(模倣・比較照合)ができるか?
 →角度の差異を量的に観察(左右比較)
多関節運動のマッチング(模倣・比較照合)ができるか?
 →どの関節において差異が大きいか(左右比較)
どの方向に関節が動いたか識別(方向・距離)できるか?
 →自己中心座標系(正中線、肩、肘などに対する手の動きなど)
 →環境中心座標系(部屋の窓の方向への手の動きなど)
複数の関節の空間的な関係性が理解できるか?
 →上下、前後、左右の関係が認識できるか?
 →姿勢の空間アライメントの認識ができるか?
関節運動の順序(シィークエンス)と速度が認識できるか?
 →どの順番で関節が動いたか?
 →どの程度のスピードで動いたか?
関節運動と触覚の「機能面(接触面)」変化
 →関節運動による物体への皮膚の接触面の変化が予測できるか?
関節運動に伴う筋緊張の出現を認識できるか?
 →伸張反射の出現
 →放散反応の出現
日常生活における行為との関係性(差異と類似)
 →どの行為の記憶の運動覚と類似しているか?
 →どの現実の行為の運動覚と類似しているか?
深部感覚の異常をどのように一人称言語記述するか?
 →三人称言語記述
 →一人称言語記述
 このように臨床で詳細に観察(検査)することにより、患者の深部感覚(位置覚・運動覚)がどのように喪失・変容しているかが理解できる。もし、セラピストが詳細に検査しなければ、「深部感覚障害(脱失・鈍磨)があるので行為が上手くできない」で終わってしまう。セラピストは、そこで終わらせてはならない。「どのように深部感覚が障害されているのか」を明らかにすることで治療の可能性が生まれる。
深部感覚は「行為の質(quality of action)」に貢献している
 先日、肩関節の運動覚が脱失している片麻痺患者に遭遇した。通常の検査では脱失で終わりである。どの方向に肩関節を他動的に動かしてもまったく認識できない。しかし、患者はピアノを弾いていた。そこで自分が発表会でピアノを弾く時の姿勢と上肢の位置をイメージさせた。その状態で肩関節を他動的に動かすと、その上肢の位置はイメージとは違うと答えた。これは患者の脳の中には深部感覚としての「身体図式」が残っていることを示唆している。
 あるいは、脊髄のブラウン・セカード症候群で、一側の下肢の深部感覚が脱失しているにも関わらず、歩行時に下肢(足部)の位置を目で確認しなくても歩ける患者にも遭遇した。深部感覚には筋感覚もあり、筋感覚で運動や体重を認識している可能性もある。
 深部感覚は四肢の位置や運動の認識だけでなく、重さの認識にも関与している。マクロスキーは「重さの感覚」を五感につづく「第六感」と呼んでいる。深部感覚が「行為の質(QOA)」に貢献していることは間違いない。
深部感覚は「未知の感覚」である
 1840年に、ロンベルグは深部感覚障害の検査と診断学的な推論を導入した。彼は革新的な神経科医であった。それから既に175年の歳月が流れている。しかし、現在のリハビリテーションの臨床は、まだ深部感覚障害を詳細に検査していない。近年のペルフェッティの提案は臨床場面にまったく浸透していない。それでは運動麻痺は回復しないだろう。そして、日常生活動作も改善しないだろう。患者の身体を理解することはできないだろう。
 深部感覚はまだまだ「未知な感覚」である。セラピストは、運動制御における深部感覚の重要性を頭だけで理解してもだめだ。実際に詳細な観察や検査を通して、その不思議さを実感すべきである。その先に認知神経リハビリテーションの訓練がある。セラピストは、深部感覚障害を有する患者に手足が今「”ここ”にある」ことを教えるべきである。
文献

感覚障害

【はじめに】体性感覚は円滑な動作の遂行と深く関わっている.Gibsonは知覚と運動は円環するものであるとし,運動と知覚は切り離せないものと述べている.脳卒中片麻痺患者で感覚が重度に障害されると動作の円滑性が無くなり,さらには代償運動につながる可能性が大きい.しかし,臨床場面では運動障害に比して感覚障害は軽視されることが多い.演者は感覚障害を改善することが,運動機能回復を改善するうえでも重要と考える.そこで今回重度感覚障害を呈した脳卒中片麻痺患者に対して,脳は感覚をボトムアップによって意味付け(知覚)すると同時に過去の経験により生成されたイメージによってトップダウンに意味付け(知覚)しているという仮説をもとに,訓練を考案し比較的良好な結果を得たので報告する.<BR>【症例紹介】50歳代(男性)診断名:右被殻出血(平成20年1月発症)障害名:左片麻痺.左下肢Br.stage:3.感覚障害:表在覚(1/10)深部感覚は重度鈍麻,知覚テストでは圧覚(三種類の硬度の異なるスポンジの識別困難),関節位置覚(関節の位置の方向,角度の識別困難)は左膝から末梢は足底も含めて低下していた.立ち上がり動作時は非麻痺側下肢への過剰な荷重が認められた.また歩行においても非麻痺側優位の歩容で足底接地時には足底を床に叩きつけるような歩容を呈していた.症例は足底の接地感が無いと述べた.なお本発表は症例の同意を得て行った.<BR>【病態解釈と訓練】本症例は上記のような代償運動を呈していた.代償運動の原因としては感覚の障害に加えて注意機能の変質により足底からの触・圧情報を的確に選択(知覚)することが困難になった結果,生じているものではないかと考えた.訓練としては硬度の異なるスポンジ3種類を用いて足底での識別課題を行った.またこの時にどの部位にどのタイミングでどのような情報に注意を向け,さらに非麻痺側でスポンジの硬度の各々を過去の身体経験から何に例えられるか思考した後に麻痺側で十分にそのイメージの予測を立て比較照合する課題を実施した.<BR>【結果および考察】症例は当初足底に置かれたスポンジの3種類の識別が困難であった.そこで上記のようにどの部位にどのようなタイミングでどのような情報に注意を向け,過去の知覚イメージも用いて課題を実施していった結果,圧覚の知覚が向上し3種類のスポンジの識別が可能となった.立ち上がり動作,歩容においても麻痺側への荷重量が向上した動作が可能となった.森岡によると脳は過去の知覚経験により生成されたイメージによって知覚を生み出していると述べている.本症例においても当初は単に圧を識別する課題では識別困難であったが,過去の身体経験に基づき注意機能の援助をした結果知覚が向上し,代償動作が抑制された結果,歩容や立ち上がり動作が改善したと考えた.

降圧剤の副作用

降圧剤には種類がいくつかあり、現在の主流は前出のARBやカルシウム拮抗薬だ。これらの薬剤には炎症を抑える作用がある。
「免疫反応は、病原体や体内にできた異物から体を守るための防御システム。炎症は、免疫反応の重要な要素で、体にできた傷を治す働きです。ARBやカルシウム拮抗薬は炎症を抑制するので、これを飲むと炎症が目立たなくなり、一時的に健康になったかのようにみえる。しかし傷を治すための反応が起きないということは、傷を放置しているということですから、いろいろと不都合なことが起きます」(浜医師)
その1つが「がん」である。
「がんとはいわば体内にできる異物。免疫が正常に働いていれば、仮にがん細胞が生まれても小さいうちに排除できる。しかしARBやカルシウム拮抗薬を飲んでいると免疫が抑制されてしまうので、がんになりやすい」(浜医師)
感染症が全身に広がって死に至る「敗血症」も、免疫不全によって起こる。さらには高齢者が血圧を薬で無理やり下げた場合、脳に栄養や酸素が行きわたらず、認知症になりやすいという説もあるのだ。

2018年9月24日 (月)

思い出を

更新したいんだ。

死んだも同然

なのである。せいぜいひとに迷惑をかけぬように余生を送るのみ。

一周忌

来月、俺の一周忌である。「一周忌」という言い方はヘンな気もするが、死んだも同然であるから、いいのだこれで。半年間の入院は永遠のように感じたが過ぎてしまえば早いものである。

2018年9月23日 (日)

俺の死は

俺のものではないだろう。

障害受容は

できてる方だと思うのだけど一方で、悪い夢の中にいるような感じが拭えない。

彼岸

彼岸(ひがん)とは、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。

ランガージュ

ソシュールの用語。彼は,人間のもつ普遍的な言語能力,シンボル活動をランガージュ (言葉) と呼び,これをその社会的側面であるラング (言語) と個人的側面であるパロール (言行為) とに分けた。ラングは社会制度でありパロールの条件であるが,歴史的にはパロールによってラングが変革されることもある。のちに A.マルティネは,ラングを「コード」,パロールを「メッセージ」の概念に代えた。

知覚の現象学

https://youtu.be/FS-wefaeQT8

2018年9月22日 (土)

自律神経

自分の意思でコントロール(制御)できない神経です。
(ex. 汗をかく、鳥肌が立つ、瞳孔が縮まる、ヨダレが出る、顔が赤くなる、鼓動が早くなる…その他色々)
身体内部の情報や、外部の刺激を受けて、身体を正しく健康的に調節・制御する神経です。
当然、それらの神経は私たちの意思とは関係なく作動しています。
それに対して、「体性神経」(運動神経など)は自分の意思でコントロールできる神経です。
(ex. 手を曲げる、口を開ける、目を閉じる・・・などたくさん。)

2010.8

20108

備忘録

2017.10.25稽古@高津市民第4

飲み会@溝の口(歌野、柳沢)

入院(のり来院、タクシー領収書に日付あり)

2017.10.27ローン借り換え実行

昨年の稽古スケジュールを

眺め、自分の命日が10月24日であったことを確認した。高津市民館の実習室で音出ししたのを覚えてるんだ。

脳血管障害・脳卒中のリハビリ

足の麻痺やしびれと言った運動障害や感覚障害、言語障害、高次脳機能障害などが起こります。発症後数週間~数ヶ月間に、傷付いた脳の自然回復に伴って軽減することもあります。しかし多くの患者さんでは、後遺症のため、日常生活動作、移動や歩行、コミュニケーションが以前のようにできなくなってしまいます。
 損なわれた機能を取り戻し、生活障害を克服するために、リハビリテーションを行います。障害されずに残っている機能を十分に生かし、できるだけ自立した質の高い生活を目指します。リハビリ専門医の下で、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士がチームとなって障害に応じた訓練計画を立てます。
 理学療法士は、歩行の自立を目標にさまざまな訓練をします。作業療法士は、日常生活動作の自立を図るための訓練をします。言語聴覚士は、日常でのコミュニケーションができるように訓練し、嚥下障害を含む食事のトラブルに対する訓練をします。看護婦は、訓練で改善しつつある起居動作、歩行や日常生活動作を生活で生かせるように手助けします。 

感覚障害

知覚の異常や感覚の鈍麻など感覚神経の異常反応を生じる障害。触覚、痛覚、温度覚、振動覚、位置覚など感覚の鈍化、痺れや痛み、筋力・統制力の低下を生じる運動感覚の失調や逃避反射の喪失などが症状とされる。

戯曲を書くということが

少なくとも自分にとって実はかなりフィジカルな行為であったと思い知らされる。

2018年9月21日 (金)

新作執筆のための資料

ということで、気になる本を買いあさっている。けれどもなかなか読むことができない。

Harinezumi

ビオスとゾーエー

アガンベンはハンナ・アーレントの理論におけるゾーエ(剥き出しの生・生物的な生)とビオス(社会的政治的生・生活形式における諸活動)、そしてとりわけビオス・ポリティコス(偉大な行動と高貴な言葉を生きること)についての思考を批判的に継承している また、フーコーは「近代が生政治を生み出した」と言ったが、アガンベンはこれを批判し、政治はその起源から生政治であったとする。アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、bios(ビオス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持たない存在であるという。アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いている。

ゾーエ-およびビオスの分析

振り返ってみれば

やりたいことは概ねやり尽くしたんじゃないか。じゅうぶん幸せな人生だったといえる。

半空間無視・半側身体失認

①半穣空間無視
 半側空間無視とは、片側に置かれたものに気づかない、認識できない症状をいいます。通常この症状は、脳の 右半球を損傷することによる左半側空間無視であることがほとんどです。左側の半球の損傷に伴って起こる右側の半側空間無視というのはまれです。
 具体例としては、歩いていて左側にある壁や障害物にぶつかったり、食事のときに皿の左半分を残したりしま す。また患者さんによっては、左側から話しかけられてもそれに反応せず、右側に回っていって話しかけられるとはじめて会話が成立するということもありま す。
②半側身体失認
 半側身体失認は主に脳の右半球を損傷することによって左側に生じます。左側が麻痺していて歩行も ままならないの に麻痺を否認したり、逆に麻痺はないにもかかわらず左側の身体を使わなかったりします。たとえば通常であったら自然に動きがみられる左上肢を動かさない で、なんでも右側の上肢を使うといった症状が認められます。

ある運動や動作・行為の実行に際して、指示された実行内容が理解できていて、その運動や動作・行為を実行しよう とする意欲が十分あるにもかかわらず、指示された簡単な運動をぎこちなく拙劣に実行したり,物品や道具を不器用に使用したり誤って扱うなどの行為をする場 合には、失行症が考えられます。
 失行症と診断するためには、指示された内容が理解できていること、そして指示された運動を実行したり物品や道具を扱ったりする側の上肢に運動障害や感覚 障害がないことが条件になります。
具体的な症状
 日常生活の様々な運動や動作が全般的にできなくなるまたはぎこちなくなります。ハサミなどの日常的な道具をうまく使えなくなったり、使い方を間違ったり します。また、道具を組み合わせて使う場合に順所を間違えてしまいます。さらに、文字の形が崩れたり、正確に書けなくなり、服をうまく着られなくなると いったことが起こります。

芥川龍之介『歯車』

www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/40_15151.html

失語症・高次脳機能障害学研究のすすめ

幻視

https://www.dipex-j.org/dementia/topic/symptom/komaru/487.html

三十歳で

大病したとき死んでたら今、妻にこんな苦労をかけることもなかったのにな。無駄に生き延びてしまった。

2018年9月20日 (木)

償いの

仕方がわからないんだ。

西陣心中

昔さんざん探しまくってようやく渋谷のツタヤで見つけて借りたのだった。
Nishijin

お風呂に

入れるってことは、出られるってことなんだ。

今日は脚の調子がよくないから

お風呂に入れないな。
Namida

原因にして結果

自身の腕の重さで肩が脱臼するように、
己の存在によって己が世界から外れてしまった。

2018年9月19日 (水)

高次脳機能障害

記憶障害
物の置き場所を忘れる。
新しいできごとを覚えられない。
同じことを繰り返し質問する。
注意障害
ぼんやりしていて、ミスが多い。
ふたつのことを同時に行うと混乱する。
作業を長く続けられない。
遂行機能障害
自分で計画を立ててものごとを実行することができない。
人に指示してもらわないと何もできない。
約束の時間に間に合わない。
社会的行動障害
興奮する、暴力を振るう。
思い通りにならないと、大声を出す。
自己中心的になる。
これらの症状により、日常生活または社会生活に制約がある状態が高次脳機能障害です。

写生文

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/796_43612.html

感覚障害

運動神経同様、感覚神経にも経路が存在します。感覚神経は脊髄あるいは延髄で交叉し大脳まで上行していきます。そのため、感覚神経が脳内で損傷された場合も一般的には反対側に感覚障害の症状が現れます。感覚神経は脳出血を発症しやすい視床と呼ばれる部分を中継地点とし、大脳へと経路を伸ばしています。そのため、視床出血を起こすと感覚障害が出現しやすいです。また最も脳出血を起こしやすい部位である被殻と呼ばれる部分が出血を起こした場合も感覚障害が現れることは多いです。その理由としては、被殻のそばには内包と呼ばれる部分があり、この内包にも感覚神経線維が通っていることから感覚障害を引き起こしてしまうのです。感覚障害を起こすと、冷たい・温かいという感覚がわからなくなる、触られてもわからない、痛みがわかりにくくなる、自分の手足の位置が目をつぶるとわからなくなるといった症状が現れます。

以前には

決してなかったタイプのミスをやたらにやらかしている。明らかにバカになったと感じる。ひとに迷惑かけてばかり。情けなくて泣けてくる。

Namida

留守番

仕事しながら。
以前にはなかったタイプのミスをやらかしている。
明らかにバカになっている。

厳密にいえば「違法」アップロードである

ちょうど一年前のラジオ番組を聴いている。台風情報に覚えがある。たった一年でいいから時を巻き戻すことができたならばと思う。

そのチョイスがとくに構造を際立たせるわけでもない

陳腐なたとえ話はもう結構。

どうすれば

償えるのか、それが分からないから困ってしまう。

2018年9月18日 (火)

友人との食事会の約束を

当初は夏までにと思っていたが果たせなかった。来月の「一周忌」までには果たしたいと思うが、どうもそれも怪しいな。
もう約束を反故にはしたくないのし、彼らには明確な債務もあるわけなんだが。
Namida_2

不要な干渉を

退ける、そのコストがこっち持ちという理不尽。

面識は

ないのかと思っていたが、病院で会っているんだな。そうか。

図と地

https://kotobank.jp/word/図と地-542555

《figure and ground》心理学で、ある物が他の物を背景として全体の中から浮き上がって明瞭に知覚されるとき、前者を図といい、背景に退く物を地という。

視野に二つの領域が存在するとき、一方の領域には形だけが見え、もう一つの領域は背景を形成する。背景から分離して知覚される部分(形)を「図」といい、背景となるものを「地」という。「図と地」ということばを初めて使ったのは1912年デンマークの心理学者ルビンであり、これはゲシュタルト心理学の重要概念である。メロディーは際だって聞こえ、伴奏は背景に退いて知覚される。このように知覚経験の各側面に図と地が現れ、とくに視知覚において著しい。一般に図となる領域は、形と輪郭線とものの性質をもち、面が固い感じで位置が明確で浮き上がって見え、一方、地は、形も輪郭線ももたず材料的性質をもち、面が柔らかく定位不明確で図の背後に一様に広がって見える。

ランガージュ/ラング/パロール

言語学の用語。言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが、一般言語学をめぐる議論のなかで区別した、言葉の三つの契機。ランガージュ(言語活動)とは、言語をはじめとする記号をつくり出し使用することを可能にするさまざまな能力およびそれによって実現される活動を指す。この能力、活動には、発声、調音など言語の運用に直接関係するもののほか、抽象やカテゴリー化といった論理的なものも含まれる。これに対して個々の社会のなかで、記号のつくり方や結び付け方、あるいは個々の記号の意味領域などをめぐる規則(いわゆる文法や語彙)が制度化されたものをラング(言語)という。フランス語や日本語といった各国語や、方言といった単位がこれにあたる。さらにこのラングという枠組みのなかでランガージュを機能させることにより実現する、具体的に発せられた個々の言葉がパロール(言)とよばれた。のちにフランスの言語学者A・マルティネAndr Martinet(1908―1999)は、両者の関係をコード(送り手と受け手のあいだで共有されている記号の構成規則)とメッセージ(コードにもとづいて構成・解説される記号)の関係になぞらえている。ただしラングはけっして一方的にパロールを規制するばかりではなく、実現したパロールの側から影響を受けて変化するものでもあるという、相互依存的な関係にあると考えられていた。
 ソシュールによるこの区別は、言語学の対象を厳密に規定しようとする彼の努力のなかに位置づけることができる。19世紀の比較言語学では、さまざまな言語の比較を通じて、それらのあいだの親族関係を解明する作業が進められていたが、各国語という伝統的な文法学の枠組みを超えたその作業のなかでは、言語をめぐる思考が陥りがちな、とりわけ言語を実在としてとらえることから来る混乱が明らかになった。ソシュールの死後弟子の手により編纂され出版された『一般言語学講義』Cours de linguistique gnrale(1916)はこの3区分を導入した上で、個人的、偶然的なパロールとは区別された社会的、本質的なラングをこそ言語学本来の対象として規定し、ある時点での体系を記述する共時言語学とその時間のなかでの変化をとりあげる通時言語学との区別を提示した。これは言語体系の静的な構造にまず注目する20世紀の構造主義言語学の流れをつくることになる。ただしソシュール自身は、パロールをその発声といった物理的、生理的側面と選択や結合といった精神的、心理的な側面にわけた上で、この後者の意味でのパロールの言語学をも構想していた。そもそもランガージュ/ラング/パロールの3区分は、言葉を一つの固定した実在としてではなく、複合的契機からなる力動的、弁証法的なプロセスのなかでとらえることを可能にするものであり、こうしたとらえ方はメルロ・ポンティやラカンらによって継承発展させられた。[原 和之]
『フェルディナン・ド・ソシュール著、小林英夫訳『一般言語学講義』(1972・岩波書店) ▽丸山圭三郎著『ソシュールの思想』(1981・岩波書店) ▽丸山圭三郎編『ソシュール小事典』(1985・大修館書店)』

ソシュール的な「言葉」

ソシュールは言葉の“概念とその具体的な存在形式”を厳密に考察した。そして “人間の持つ普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力、及びそれらの行動”をランガージュ(Langage)と呼び、色んな地域(言語共同体)での国語体をラング(Langue)と呼んだ。そしてラングは体系をなしている。ソシュールの意味する体系をなすラングとは、他(の単語)との関係において個(の単語)が意味を持つような相互依存型の体系である。そして言葉の状態とその変遷を、共時態と通時態という概念で解析した。(注1)
 ソシュール言語学で重要な点は、言葉に依存しない概念も事物(もちろん、人間が知覚し把握する事物や概念)もないという考え方である。そして、『言葉の体系は、カオスのような連続体である“世界”に、人間が働きかける活動を通じて産み出され、それと同時にその連続体であった“世界”もその関係が反映されて不連続化し、概念化するという“相互異化活動”が言葉の働きである』(103頁)と要約される。つまり、言葉は既に存在する概念にたいする表現ではなく、言葉は表現であると同時に内容(概念)であるということである。ソシュールは、その表現をシニフィアン、内容(概念)をシニフィエと呼ぶ。両者は言葉のユニットの両面であり、統合的にシーニュと呼ぶ。

2018年9月17日 (月)

痛くても

それを表出せぬ美意識はわかるけれども、そんな強さは持ち合わせてないよ。

蛍光灯を

取り替えてやることすらできないのだ。

パラフレニア

https://www.jstage.jst.go.jp/article/apr/20/1/20_1_4/_article/-char/ja/

不安で

眠れなかったり、急に涙が出たりすることはないかと入院中、病室を訪れたケアマネに訊かれた。「鬱」の症状の有無を評価するためだったのかもしれない。「不安などない」と俺はこたえた。それは障害受容の物語に回収されたようであるがそういうことじゃないんだ。そもそも「不安」なんてものは、「希望」を地とした図のパターン認知に過ぎないじゃないか。つまり「希望」の言い換えにすぎない。そんなものはとっくに絶望の津波が押し流したのだ。

感覚鈍麻とアイデンティティ喪失の神経科学

https://susumu-akashi.com/2018/04/who_wasnt_there/

どのようにして

今後生きていったらいいのか。それ以前にそもそも今、生きているのかという疑問。

痺れが

堆積して層を成し、その層の隙間から痛みがにじみ出す感じなんだ。
Namida

図と地の分化

対象の形を知覚するためには、対象を背景から分離し、まとまりとして取り出す必要がある。これを図と地の分化と呼ぶ。まとまりのある形として見える部分を図と呼び、その図の背景となっている部分を地と呼ぶ。図と地の分化が生じたとき、次のような特徴を持つ。
図は形を持ち、地は形を持たない。図と地の反転が生じても、両方が同時に形を持つことはない。
図と地を区切る境界線は、図の方に属しているように知覚される。
図は手前に浮き出ているように知覚され、地は背後に広がっているように知覚される。
また、見ている対象に複数の図があれば、それらがまとまりをもって知覚されることがある。このまとまりを知覚的群化、または群化と呼ぶ。図のまとまり方には、以下のような法則性があり、ゲシュタルトの法則とも呼ばれる。
近接の要因…距離の近いものは1つの形にまとまって見える。
類同の要因…形や色などが似ているもの同士は、まとまって見える。
閉合の要因…閉じた領域を作っているものは、まとまって見える。
よい連続の要因…連続した形やパターンをつくっているものは、まとまって見える。
共通運命の要因…一緒に動いたり変化したりするものは、まとまって見える。
経験の要因…過去の経験によって関連付けられている者同士は、まとまって見える。

月に一度

薬をもらいに近所のクリニックへ行く。
前はタクシーを使っていたが、最近は徒歩で(というか、妻に車椅子を押してもらって)約一駅分の距離を行く。今度はそうでなしに、電車を利用してみようかと計画中。うまくいくといいのだが。

2018年9月16日 (日)

煎餅布団を干すように

我が身を日光の下に引きずり出した。

スーパーでの買い物に

くっついていった。久しぶりの日光浴も兼ねて。以前は毎日、自分でここにに来ていたのだと、惣菜売り場で涙がこみ上げてきた。

日光浴

買い物にくっついていって、久しぶりに日の光を浴びた。

肩の亜脱臼対策

としてアームスリングをしているが、重い鞄をずっと肩にかけているようだ。
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たたんで部屋にしまってある車椅子を一人で出してセッティング。
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大山街道ふるさと館


ここは過去に何度も稽古場として使わせてもらった。
懐かしく思い出される。
もう一度行ってみたいものだが、ちょっと無理だな。駅からはそんなに遠くはないが、途中に歩道もないし。

来月の

スケジュールをカレンダーに書き込む。仕事の予定や薬をもらいに行く日など。
早いもので、来月24日で、俺の「一周忌」である。
再会を約束した友人とはまだ約束が果たせずにいる。

2018年9月15日 (土)

言語行為論

イギリスの哲学者 J.L.オースティンによって提唱され,J.R.サールらによって展開された言語論。従来の言語論が命題の真偽を主として問題にしてきたのに対し,文の発話は同時に行為の遂行となっていると指摘した。たとえば「約束する」と発話することは,すなわち「約束」という行為を行うことにほかならない。このように何かを語ることによって執行される行為を「発話内行為」という。
「発話」の形態には「発話しない=沈黙」も含まれるのである。ナラティブにも関係してくる話だと思う。

障害受容

障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである、というのが筆者の定義である。」(上田[1980:209])
障害のある人々の多くは「自分は家族の足手まといで、社会の厄介者で、生きる資格のない人間だ」と自分を責め、あるいは「そうなるのではないか」と不安と恐怖をいだく。しかし実はこれが「障害者」に対する本人自身の偏見の産物にほかならないことは先に述べた通りである。しかし人間は強いもので、このどん底からも立ち直り、立ち上がってくる人が決して少なくない。これを援助することがリハビリテーションの重要な第4のアプローチ(前ページ参照)である。これを障害の受容と呼ぶ。これはよく「あきらめ」とまちがわれるが、実は正反対で、現実から目をそらさず、直視することができるようになることであり、障害の心理的克服に他ならない。その本質は障害についての価値観の転換である。他人との比較でしか意味のない(相対)的価値観から脱却して人間の様々なありかた(存在)そのものに価値を見出す存在(絶対)的価値観に到達することである。
しかしやはり諦めが肝腎なんじゃないか。「あきらめ」なしに「価値観の転換」などあり得るか。
べつに偏見でもなんでもなく、実感として、こんな身体でいつまでも生きていたってしょうがないと思ってしまう。家族の足手纏いになっているのも事実だろう。だからって積極的に死にたいとも思わないが、今度死神が訪れたら抗うつもりはない。そんな「気力は残されてないのだ。
Sinigami

身体失認

「shintaishitsunin.pdf」をダウンロード

手足の

動かぬもどかしさはもちろんあって、それプラス痛みや痺れで、ほとほとうんざりするのである。

些細な計画だけれども、

思い描いていた計画が頓挫するそのこと自体がけっこうこたえる。

外傷性脳損傷

三途の川

返上

運転免許の「返上」が制度としてあるのなら、選挙権も同様であってもおかしくないのじゃないか。返上したい気分なのだが。実際、投票に行くことさえ困難なのだから。

昏睡状態の夢の中では

手足は普通に動いていたのだ。それが今は夢の中でも車椅子である。

意識障害

開頭手術

後の昏睡状態から目覚めてしまったのがやはり間違だったという気がするな。

俺の存在それじたいが

やはり妻の足手纏いになってしまうのである。開頭手術後の昏睡状態の夢の中で行く先をしくじったのだろう。三途の川の渡り方を心得ていなかった。

冗長性

余分なもの、余剰がある、重複しているという意味だが、IT用語としては、主に余裕のある状態、二重化など、ポジティブな意味合いで使われることが多い。
データ圧縮などにおいては、効率性の妨げになる余剰分を排除するという場合に本来の余剰、重複の意味で使われることもある。
コンピュータシステムにおいては、耐障害性を高めるためにネットワークを含むシステム全体を二重化して予備システムを準備することを冗長化といい、冗長化によって信頼性、安全性を確保した状態を冗長性があるという。
稼働中のシステムに障害が発生した際に瞬時に予備システムに切り替えることで損失を最小限に抑える「事業継続計画(BCP)」の一貫として構築されることも多く、実際のシステム構築にはクラスタリングなどの考え方により構築される。
さらに大規模な災害対策(ディザスタリカバリ)としては、バックアップデータを遠隔地にするなどの工夫が必要となる。

制度がそれを阻まないなら

一人でできることは一人でやってみようと思う。

行動範囲が

限定されたことで相対的に世界が広くなった。ちょっと書斎で調べ物をと思っても、そこに辿り着くのさえ一仕事である。

行政手続きの

ための前段階の手続きをするために、クリアしなきゃいけないハードルが残されている。

観念連合

ある観念とある観念とが結びつくこと。また、その結びついたもの。連想。

主体性/自主性

「主体性」「自主性」:言葉の意味の違い
 この2つの言葉の大きな違いは「自分の頭で物事を考えるか、考えないか」にある。
 「自主性」のある行動をとる場合は自分の頭で考えないが、「主体性」のある行動をとる場合は自分の頭で考えなければならない。
しかし「自分の頭で考え」るとはどういうことなのか。身勝手な自説を謎ルールで正当化することじゃないはずだ。

自説を正当化し

他人に押しつけるための謎ルール。それを正当化するための針小棒大そして牽強付会。厚顔無恥も甚だしい。

2018年9月14日 (金)

一人じゃ

何もできない。まるで赤ん坊である。正直己の存在を持てあましてしまう。

おやすみ

念願叶って家に帰れたのだ。これ以上何を望む資格があるか。

風呂上がりに

脱衣所兼洗面所で眼鏡を探す。確かにここに置いた記憶があるのだが…。しかしよくよく考えてみればそれは今朝、顔を洗ったときのことだ。結局、寝室に置いてある眼鏡ケースの中にあった。

自然死

病気・事故・殺害・自殺などにはよらない死。いわゆる老衰のこと。

日曜大工に

挑戦しなきゃならない。以前なら何てことない簡単な作業だが、半分死んだような今の自分には難しい。妻の助けを借りる。それでも無理なら友人を呼ぶことにする。
ほんとうに何もできなくなってしまった。言っても詮なきことだけれども。
Namida

居間からトイレまでの

普通の人には何でもない距離を移動するのが、普通じゃないから一仕事なのである。

ここんとこ

寝不足が続いてたから、不足分を取り返すように寝まくった。
Moa

2018年9月13日 (木)

バカみたいだし

気持ち悪かろう、という自覚はあるのだ。

調整コスト

一般的には,経済主体が与件の変化に伴い資源配分の変化を余儀なくされることによって被るコストのことを指すが,より限定的には,企業の投資行動における基本的な概念として用いられている。新古典派の静態的投資行動論においては,資本に対する需要は投資需要ではなくストックで表されている。 1960年代以降,こうした新古典派の投資行動論に調整コストの概念を導入することにより,企業の投資行動の理論の動学化を図る試みが相次いでなされ,現在に至っている。

絶望の深さは

入院中の方が遙かに深く、底が見えない状態だった。
それに比べりゃ今は「幸福」といっていいくらいである。

下北沢あたりを

さしたる目的もなく「偶然」に期待して妻とほっつき歩いた時間が懐かしく愛おしいのである。もう二度とそんな時間の使い方はできないのだ。

さしたる目的もなく

下北沢あたりを妻とぶらついた時間が懐かしく、愛おしい。

可処分時間

が大いに減ったのだ。朝起きて、まず靴下を穿くのも一苦労だし、スマホを手に持って仕事机まで移動するのが一仕事である。そういう意味で相対的に忙しくなったのだ。不要な干渉に構っているヒマはない。

2018年9月12日 (水)

足より

手が動かないんだな。意外だった。

何にでも

イッチョカミで
賢しらに振る舞わないと死んでしまう病なんだろう。

予定では

今頃クリアしてるはずだった「課題」が積み残されたままだ。「日常」は遠い。
Marina0903

4時間睡眠で

仕事開始。眠い。以前はこんなことはしょっちゅうで、仮眠のパッチワークで帳尻を合わせていた。しかしそれを可能にしていた前提条件が崩れたのだ。

2018年9月11日 (火)

椎症の患者さんは、指先の感覚が鈍くなっているため、必要以上に物を強く握ってしまうことがわかりました。
また、発症から1週間経っていない脳卒中の患者さんは、親指と人差し指が等しい把持力(はじりょく)、つまり物を握ったときに離さないようにする力を保てず、空間で物を保持できません。通常は同じ場所に同じ力をかけ続けることで物を保持できるのですが、脳卒中の急性期の患者さんは、力をかける場所がぶれてしまうからです。この力をかける場所を圧中心点といいます。これらのケースは、把持力や圧中心点にかかる力を数値化する研究により判明しました。

いわゆる

ぶん回しの不格好な歩行(そうなるにはそれなりの理由があるんだ)でも、ヘンに「自然」な歩みを真似てバランスを崩し事故になるより遙かにマシってもんじゃないか。

Marina0903

忙しくしている妻に代わって

夕飯の用意をしてやることも俺にはできないのだ。
Nero

火とガラス

がめっちゃ怖いんだ。
Namida

自己防衛

する必要がある。疲れ果ててしまわぬよう.
せいぜい自らその手間を召喚せぬように注意しなければ。
Harinezumi

入院中の半年間

一日も欠かすことなくリハビリを受けた結果がこれなのである。

爪先を

思い通りに持ち上げることさえできれば、踵から足がつけるし、スタスタ歩くことができるんだがなあ。
Marinaganbare

社会リハビリテーションの目標

社会リハビリテーションの目標として、われわれは、“社会に機能する能力(Social functioning abilities)の獲得と達成”ということを受け入れて来た。“社会機能能力の獲得/達成”とは何であろうか、
 その意味には2つある。
1.行動と活動であること
2.それは社会活動(social action)を意味し、その行動は環境条件との相互作用(Interaction)の中にあるか又は共にある社会行動である。社会リハビリテーションを以て何故援助するかというのは、障害者が自らの社会の中で豊かで満足のいく相互作用を育成させるためである。また生活状態とは、最適の相互作用を達成させるための他者と対等の権利と機会の行使であると考えている。この平等性は生活上の責任性を他の人々と対等に受け入れることをも含んでいるものである。
 社会に機能する能力を身につけることに関して、障害者には次の2つの人格的基礎機能が必要とされる。その一は、人の個人的能力と機能が最大限育成されていること、第二は豊かで対等の相互作用を持ちうる人間的成熟に至っていること。
 物理的環境を作りかえての社会全体の改造は社会発達のための基本的土台を作ることでもある。コミュニティ・プランニング、法律、経済資源の活用、そして、公衆の態度は、様々の生活状況や、リハビリティー(訳者注:リハビリテーションをする人即ち障害者のこと)の問題のような相異なる人々のニーズに柔軟に対応するものでなくてはならない。
 もし我々が、特殊性(specificity)を理解しようとするならば、私はあえて言いたいが、社会リハビリテーションの特異性(uniqueness)をこれらの基本的事実を念頭において、組織化しなければならない。社会リハビリテーションの過程の中で、それらは資源と異なった手段の枠組を形成することであろう。その社会リハビリテーションというものは、社会に機能する能力を得ていくための1つの手段(mean)であり方法(method)であるのである。われわれは、また社会リハビリテーションが1つの過程であることを記憶せねばならない:それは、どこから始り、何れかの時にどこかで終るものなのである。

2018年9月10日 (月)

腕が重い

肩が痛い。ぜんぜん珍しい現象ではないし、亜脱臼によるものと原因はわかりきってるのだから、医者が同じ事を何度も訊かないでくれよ。

20180910

病院へ薬をもらいに行き、ファミレスでお昼。
20180910

2018年9月 9日 (日)

又聞きした

主治医の話を総合すれば、ほとんど寝たきりに近い生活が想定されていたのだとわかる。そう考えれば現状でも上出来である。

脳卒中の痛み

脳卒中発症後に二次的に生じる痛みとして、麻痺した手足の筋肉の痛み、肩手症候群などがあります。まず筋肉の痛みは、関節を 動かそうとすると痛みがでることが特徴です。これは、主には筋肉などの軟部組織の拘縮(こうしゅく)している部分を伸ばされる、あるいは筋肉が過緊張の状 態にある場合に無理に急激に伸ばされことによって生じます。これには、筋肉や関節が固くならないように、1日数回、他動的に動かすことが必要です。入浴後 などに筋肉をマッサージなどでリラックスさせてから、ゆっくりと伸ばすこと、痛みが出ない範囲から徐々に拡大して下さい。また、脳卒中の特徴として姿勢に よって筋肉の緊張状態が異なりますので、仰向けなどリラックスした姿勢で行うことが良いです。無理に強引に行うことは別の損傷を伴う危険がありますので注 意してください。
次に肩手症候群ですが 、肩の亜脱臼を伴い、麻痺した側の肩や手の強い痛み、手の甲の腫れ・熱感、動かした時だけでなくじっと していても痛みがあることが特徴です。医師の治療を受けることが必要ですが、日常の生活の中で注意していくことも大事です。まず肩の亜脱臼とは、腕を肩関 節に支えている筋肉の麻痺によって、腕がそのまま肩にぶら下がるような格好になる状態です。肩にとっては非常に負担になり、その原因を取り除くことを、日 常生活の中で工夫しましょう。また、感覚障害を伴う場合や、麻痺した側に注意が向きにくくなる方もいますので(麻痺側の身体無視)、手の位置など見て確認 したりなど注意していくことが必要です。例えば、仰向けの姿勢で寝る時は麻痺のある側の肩の下に枕を置き、同様に腕・手も少し持ち上げてその枕の上に載せ る。車椅子に坐る場合は、備え付けのテーブルに手を載せる、あるいは掌を下にして膝の上に置く、歩く時は、肩への負担を減らすためにアームスリングや三角 巾で腕をつる(固定時間が長いと逆に苦痛を伴う場合があるので注意して下さい)などです。また見かけ上は腕や肩の問題でも、身体や足の姿勢すべてがこれに 影響を与えることも多く、身体を丸くしない、麻痺した側が後に引けないように注意しましょう。例えば、車椅子に座る場合は、身体に合った車椅子を選ぶこと が大切で、必要に応じて背もたれやクッションを用います。そしてできるだけ背筋を伸ばし、麻痺した足が外向きにならないように、また車椅子から身体が斜め にずり落ちないように注意しましょう。

患側の

手足の痺れや痛みも難儀だけれど、それを補うために健側の手足に余計な負担がかかり、こちら側にも痛みや怠さが生じているのである。
どうすりゃいいんだか。

Namida

脳卒中片麻痺患者における肩関節痛の特徴と原因

主治医の話の

又聞きだが、それらを総合すれば、ほとんど寝たきりの生活が想定されていたと思われる。だ。

身体像

自己の身体各部位とその相互の関係に関する概念的な図式。知覚像とは異なり,具体性,個別性をもたない。前後,左右,上下の主要な方向とそれに基づく構造をもち,運動感覚と触運動的ならびに視覚的な感性経験とがその形成の基盤になると考えられる。その時々の位置感覚が関係づけられる基準をなし,しかも固定したものではなく,四肢の運動とともに部分的に変化してゆく。幻肢はこの身体像によって生じるとされ,それが完全に形成されていない幼児では幻肢は認められないといわれている。

身体図式

精神医学・哲学用語。16世紀の外科医アンブロワーズ・パレの報告やデカルトの『省察』に登場する幻肢という現象がある。これは四肢やその他の身体部分を喪失したひとに起こる錯覚で、失われた身体部分がいまだ現存するかのように感じられるものである。幻肢を経験するひとは、ないはずの手に痛みを覚えたり、ないはずの足で立ち上がろうとしたりする。幻肢についての報告やアリストテレス以来知られている自己像幻視から、物理的に実在する身体とは必ずしも一致しない身体表象や体勢をわれわれがもっていることが知られており、こうしたことが「身体図式」概念の成立する背景となった。
 身体図式には複数の学問分野にまたがって多様な定義が与えられているため、それを一義的に規定することはむずかしい。歴史的には、フランスの臨床医学者ピエール・ボニエPierre Bonnier(1861―1918)が眩暈(げんうん)患者に見られる身体像の変化を「図式喪失aschematie」と呼び、「図式」という概念を身体との関連で初めて用いている。またイギリスの神経学者ヘンリー・ヘッドHenry Head(1861―1940)とアイルランドの神経学者ゴードン・M・ホームズGordon Morgan Holmes(1876―1965)は、大脳損傷に起因する感覚障害を説明するために「体位図式postural scheme」なる概念を導入した。連合主義的な定義を採用するヘッドらによれば、姿勢や運動の諸々の変化は、個々の要素を加算するようにこの体位図式に連合的に記録されていく。したがってこの図式は可塑性をもつものであり、変化する姿勢や運動を測るための連合的に組織化された規準である。と同時に、この図式には触覚刺激等が身体表面のどこにあるかを定位する働きをもつものもある。これらのおかげで、自己の身体を越えて手にもった道具の端にまで姿勢、運動、位置についての認識を投射することができる。体位図式は、身体全体や部分に対する空間的な自己イメージを形づくるだけでなく、身体と道具とを有機的につなぐ役割ももつ。また、彼らは体位図式を大脳損傷によって失われる生理学的なものとみなした。ヘッドらにヒントを得て「身体図式Krperschema」という概念を初めて使用したのは、旧チェコスロバキアの神経学者、精神科医アルノルト・ピックArnold Pick(1851―1924)である。ただし、ピックは身体の個々の感覚様態に対応するような図式を想定していた。ピックやヘッドらの図式概念をうけたオーストリア出身でアメリカの神経学者パウル・F・シルダーPaul Ferdinand Schilder(1886―1940)は、身体図式とは個々人が自己についてもつ空間像であり、身体の諸部分とそれら身体各部相互の空間的関係を含んでいると定義した。
 哲学の領域で特にこの概念に注目したのは、現象学者のメルロ・ポンティである。メルロ・ポンティは、シルダーの身体図式がヘッドらの連合主義的なそれを越えるゲシュタルト的なものであると評価する。ゲシュタルト的な定義によれば、様々な身体経験の連合が身体の空間的自己イメージの統一である身体図式を形成するのではなく、身体図式をもつことによる感覚―運動的統一がそれらの連合を可能ならしめている。ただし、この定義もそうした統一がどのように可能になるかを説明していない。そこでメルロ・ポンティは、身体図式についての実存的な定義を提出する。ここでの実存existenceは、いまここの自己を越え出ていくこと、すなわち脱自extaseという意味に重なる。以上のように、身体図式はダイナミックなものであるとされるが、具体的には身体がいまなしている行為やこれからなす行為にむかってとるダイナミックな体勢として「わたし」に現れるということを表現したものである。つまり、身体図式がゲシュタルト的統一性をもつのも、身体が世界にむかって何らかの目的を達成するために自らを脱して行為するからである。こうして身体図式は、身体の空間的統一性だけでなく、世界と身体との有機的な関係を成立させるものととらえられた。「身体図式は、身体が世界内存在であることのひとつの表現である」(メルロ・ポンティ『知覚の現象学』)といわれるゆえんである。

横になったら

楽かといえば、そうでもないから逃げ場がない。
Ganbare

ドッヂボールを

腹で受けるように、未来の閉ざされた人生を引き受けねばならない。

身体図式の再構築

【目的】 左頭頂葉から後頭葉にかけての広範な出血後、多くの高次脳機能障害(軽度失語、観念運動失行・観念失行、構成障害、見当識障害、記憶障害、病識欠如、注意障害、右半側空間無視)を呈し、右片麻痺・感覚障害の程度に比べて重度の動作障害に至った患者を担当した。理学療法評価・脳画像所見を基に、この動作障害の背景には身体図式の障害があると仮説をたて理学療法介入を行った。その結果、動作の改善に至ったので考察を加え報告する。
【症例紹介および初期評価】 77歳女性、皮質下出血(左頭頂から後頭葉、一部前頭葉に小出血あり)であった。 運動麻痺はSIASmotor4,4,4,4,4、感覚障害はSIAStouch上肢3・下肢2、position上肢2・下肢1、膝立て動作の左右差は僅かであり、立体覚は保たれていた。体幹機能は、FACT9/20と四肢・体幹運動機能、感覚の障害は軽度であった。本症例の特徴としては、起居動作は可能であるものの、坐位から臥位となる際、枕に頭を合わせることが出来ず、ベッドの長軸に対し直角に横たわり修正しない、右下肢をベッドの外に残したまま気が付かないなどの様子がみられた。歩行形態は独歩であったが、数m歩くと揃え型歩行から右下肢が遅れ右前方へ転倒することが多かった。歩行中の右足の遅れや身体の傾きには転倒するまで気づくことができず、常に見守りから一部介助を要した。階段昇降は階段を目の前にすると、腰が引けた姿勢で手すりから両手を離すことが出来ず、一歩も踏み出せなかった。 視力・視野は概ね問題なかったが、ADLでは移動動作、食事、更衣、靴の着脱などで到達・把持障害を認め、介助が必要であった。上肢到達動作は、左上肢で行えば可能であり、対象物の相対的な位置関係は正答するが、右上肢を対象物まで正確に運ぶことが出来なかった。把持動作も、左上肢では可能であるものの、右上肢では対象物を把持する前に手指どうし、もしくは手掌が対象物に対し最適な距離・向きを形作っておらず、把持する準備が成されないまま動作が行われた。上肢と同様に右下肢にも到達障害がみられた。その結果、対象物の手前や左側での空振りが多く、行き過ぎてしまい対象物との衝突も度々見られた。対象物に触れることで修正は可能であった。到達・把持動作時には運動イメージとの違いを訴える発言が多く聞かれた。より速い動作を要求すると動作の正確性は著しく低下した。
【理学療法】 本症例における動作障害の主たる問題を身体図式の障害であると仮説をたてた。身体図式の再構築を期待し、四つ這い動作、くぐり動作、壁際歩行など視覚情報に加え体性感覚情報も利用できる身体活動を多く取り入れた。四つ這いで能動的に動くことで、両手両足支持による4点から多くの体性感覚情報が得られると考えた。平行棒の2つの棒に高低差を作ったくぐり動作では、棒をつかむことで視覚と体性感覚の両方を用いて棒の高さや自身と棒との奥行き感覚を測ることができ、視覚と体性感覚の感覚統合を促せると考えた。壁際歩行では、右手で壁を軽く触れた状態で壁と自分との距離を一定に保ちつつ歩行練習を行った。身体の傾きなど壁との距離が近づいた時には、壁にぶつかることで運動を修正するための情報になると考えた。体性感覚情報を利用した身体活動を通し、空間における自身の位置、対象物と自身との距離感を学習することで身体図式の再構築を促した。
【結果】 SIASposition下肢2、FACT11/20と僅かに下肢位置覚と体幹機能に改善がみられた。起居動作では、枕に頭を合わせベッドに添って寝るようになり、歩行は歩幅に左右差はあるものの交互型となり、ふらつきを自身で気づき修正できた。階段昇降は2足1段で手すりを使用することで可能となったが、段差の高さ・奥行きに対して正確に下肢を運ぶことは出来ず、代償および介助が必要であった。到達・把握障害の程度は改善され触覚による代償を用いてセルフケアは自立した。
【考察】  頭頂連合野は体性感覚野から触覚などの情報を受け、自分自身の認知に関与し、視覚野から空間感覚に関する情報を受け物体間や物体と自分自身との位置関係の認知に関与している。 本症例のADL場面では、運動麻痺や障害側の感覚障害よりも、枕に合わせて寝ることが出来ない、対象物にうまく手を伸ばせない、歩行時に足が遅れても気づかないといった特徴的な動作が目立った。これは、感覚検査で明らかになるような感覚ではなく意識に上らない感覚の障害であること、また非障害側も参加する全身的な動作障害であることから、障害側のいわゆる運動麻痺や感覚障害だけでは説明できず、身体図式に障害を来した状態と考えられた。理学療法介入により、身体図式が再構築されたことで動作改善に至ったと考える。
【説明と同意】  本報告にあたり、症例・ご家族に症例報告の意義を説明し同意を得た。

身体図式


【はじめに】身体図式とは,自分の身体の姿勢や動きを制御する際にダイナミックに働く無意識のプロセスのことを言う。今回,半側空間無視の所見を認めないPusher現象を呈した症例を経験した。半側空間無視とPusher現象の関連性については過去に報告されているが,身体図式とPusher現象の関連性についての報告は少ない。我々はそこに着目し神経解剖学的に障害像を考察したので,本人・家族の了承を得たうえで報告する。
【症例紹介】86歳女性。平成18年1月29日脳梗塞(左被殻・内包)右片麻痺にて発症。2月2日よりPT開始。Br Stage上肢・手指・下肢4。感覚障害や注意障害,知的低下を認めた。坐位・立位・歩行といった姿勢・動作では非麻痺側で押す動作を認め,麻痺側への傾きを認めた(Pusher評価チャート合計5点)。
【仮説・考察】症例の特性として,姿勢制御に対して視覚情報により姿勢の傾きを認知することは可能であったが,体性感覚情報のみでは姿勢の傾きを認知することは出来なかった。このことから,感覚情報入力の乖離が身体図式を歪ませPusher現象として出現したのではないかと仮説を立てた。以下にこの感覚入力を含めた神経回路に焦点をあて,身体図式の形成と運動が調節されるプロセスを文献的な考察を加え,検証していく。
身体図式は,視床から内包を経由した体性感覚情報と外側膝状体を経由した視覚情報がそれぞれ頭頂連合野にて統合され形成される。この情報は,被殻を入り口とする大脳基底核内に伝達され運動調節に利用される(皮質-基底核ループ)。また視床から皮質を介さない感覚情報が辺縁系へ伝達され,過去の経験に基づく内部モデルの情報が基底核-辺縁系ループを介し,基底核の情報に反映される。ここまでに形成された情報が,補足運動野・運動野へ伝達され錐体路を経由し運動発現として出力される。このような神経解剖学的な事項に症例を重ねてみると,以下の3点が考察される。(1)内包障害により感覚障害を呈し,頭頂連合野にて歪んだ身体図式が形成されたこと。(2)大脳皮質からの入力部である被殻の障害により運動調節に支障をきたしたこと。(3)側頭葉・辺縁系における内部モデルの情報と基底核内への情報入力に差異が生じたこと。以上の重複した障害が身体軸の歪みを引き起こし,運動発現に至るプロセスに影響した為,Pusher現象として出現したと考える。
【おわりに】脳卒中片麻痺患者の障害像の理解において,病巣理解や神経解剖から仮説・根拠を立てて考察した。今回本症例の解釈に難考し,改めて仮説・検証・考察という過程を得る事や感覚統合などに着目しながら治療介入していくことが重要と考える。

身体図式

じぶんが今椅子に座っていること、また、右足を左足の上に組んでいることをひとは観察によることなく直接知っている。あるいは、暗闇であってもじぶんが蚊に刺されれば、即座にその身体箇所に手のひらを持っていくことができる。このような場面で働いている身体に関わる潜在的な知覚の枠組みのことを、身体図式という。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/身体図式
が壊れている。
イメージする自己の身体と現実のそれとの間に差異がある。そのありように秩序だった法則があるわけじゃない。だからうまく説明できないのだが。

身体イメージ

が壊れている。
うまく説明できないが、イメージする自己の身体と現実のそれとの間に差異がある。そのあり方に秩序だった法則があるわけじゃない。だからうまく説明できないんだ。

2018年9月 8日 (土)

20180908

薬をもらうためクリニックへ行ったがまさかの休診。
帰りに予定していたファミレスでの食事は強行。
20180908

今日は土曜日。

入院中は曜日の感覚がなかった。
これを所詮は他人事の無気楽さで、どこかで聞きかじった高次脳機能障害の「物語」に回収したがる者もいたが、まったく的外れで不要な干渉である。そうじゃなくて、仕事や通院の必要によって、曜日の認識が要請されるのである。そんな構造はわかりきっていた。

わからねえなら黙って通り過ぎりゃあよさそうなもんだが、肥大した自己愛がそれを妨げる。一家言持ったコンシューマーの気取りできいたふうなことをぬかさずにはいられない。そうしないと自尊新が保てないのだろう。だがそんな戯れ言に耳を貸すヒマも筋合いもこちらにはないのである。

2018年9月 7日 (金)

入院中に

地震があった。もしも揺れが大きくなってもこのままベッドに寝ていようと思った。ここで人生を終えるのが合理的な選択と思えた。

じゃんけん

のたとえば過去二回の勝負で、一度目はグー対グーで引き分け、二度目はグー対チョキで勝ったとする。次の相手は必ずパーを出すという事前情報が仮にあったとしても、じゃんけんの構造を理解していなければ「グーで負けなし」の実績を持っていることにより「グーが強い」という結論になってしまうだろう。

良薬は口に苦し

というが、「口に苦い」ことが「良薬」である証拠にはならないのだ。たぶん犬の糞だって口に苦いだろう。口に入れたことがないのでどんな味だか知らないが。

こちらとしては

痛みや不自由さからの解放を夢見るほんの空想のつもりでも、妻にとっては精神的な負担になるし、他人からは鬱病の兆候を疑われかねない。だから迂闊に愚痴をいうことも許されないのだ。

2018年9月 6日 (木)

そうした諸々を分節化し劇として描写せんとしても理解できない者には一生理解できないんである。

停電になったら透析室はどうなるのか

停電が起こると、ポンプで透析に使用する水を汲み上げている施設では、水の供給がストップしてしまい透析が行えません。
また、自家発電装置を備え付けている施設でも、瞬間停電がおこる場合があります。
そのとき、透析用監視装置(ベッドサイドコンソール)は無電源警報が発生しブザーが鳴る・または画面が消えブザーが鳴るなどします。
瞬間停電の場合は、すぐに電気が復帰しブザーも消音します。完全に停電してしまって、送電の復旧が見込めない場合、透析用監視装置に内蔵されているバッテリー駆動モードに設定し、運転になっているか・血液ポンプ・シリンジポンプが動いているか確認します。
バッテリー駆動を行っても、バッテリー残量が十分ではない場合があります。
その場合、透析ポンプに設置されているクランクを利用し、最低循環を維持できるよう手動でポンプを動かし透析中断が再開の指示を仰ぎます。
その間、回路凝固が起こっていないか、患者のバイタルサインは正常を保っているか、常に確認を行う必要があります。
復旧後は透析条件が正しく設定されているか再確認します。

はじめて一人で

マンションの外に出られた。距離を伸ばして駅まで行けるようにしなくちゃ。
Harinezumi

ハイハイ

すらできない(麻痺側の手を床につけない)のだから赤ん坊以下である。こんな身体でひとに迷惑をかけながらいつまでも生きていたってしょうがない。

身体の痛み

への対策は、塗り薬と湿布それから愚痴をこぼすくらいしかないのが実情だ。

手の麻痺の回復傾向

夢の中で

ギターを弾いてた。マーシャルのアンプを歪ませて。

2018年9月 5日 (水)

動かぬ腕が

何の役にも立たぬくせにいっちょまえに痛むのである
Namida_3

ほとんど無意識の領域で

それを処理できていた以前の状態なら、行為を持続させる「根性」でなんとかなったが、無意識を意識的に分節化し、模倣している今では、そういうわけにはいかないのだ。
正直なところ、ただ生きているだけでもう疲れきってしまう。

失認・失行

脳は、視覚や聴覚などさまざまな感覚により得られた周囲に関する情報を統合し、空間や状況を意識したり、状況を判断したり自らの行動をうまく行なうための調整をする機能を持っています。そのため、それらが損なわれた場合、失認、失行といった症状が現れます。
 失認は大脳の一部が破壊されることで、感覚器は完全なのに、対象となる事物を認識できない状態で、失認でよくみられるのは、左半側空間失認です。自分からみた左側半分の空間が認識できず、左側にあるものを無視します。そのため、左にあるものにぶつかることや食事の際は食器の右半分のものだけを食べることがあります。失認がみられる場合、家族は患者さんが左側を認識できないということを念頭に入れて接することが大切です。
 失行とは、手足などの筋肉が麻痺しているわけではないのに、ある行為がうまく行えなくなる症状です。例えば洋服を着られなくなる、コインをつまんで取り上げられなくなることなどがあります。

粗大ゴミを出したり

銀行間の資金移動をしたりは、以前は完全に俺の仕事だったわけだが、そんなことすら何もできなくなってしまったんだ。
Namida_2

ゾーエ-およびビオスの分析

http://greek-philosophy.org/ja/files/2016/03/論集-2016-廣野.pdf

思考が言葉でできているっていうのはこういうことさ。

毎年、この季節になると、

札幌で出演した野外劇のことをいまだに思い出すんだ。舞台稽古で、装置が風を受けて流されるのを必死になって押し返した。

因果応報

というし、これもきっと何かの報いなのだろう。何の報いか知らないが。
Sinigami_2

カップヌードル

を一口だけ、約一年ぶりに食べた。めちゃくちゃ美味い。

2018年9月 4日 (火)

5年生存率

AHA の報告によると,脳卒中の5年以内の致死率は男性47%,女性51%
俺のやらかした病の5年生存率はざっと50%というところであるらしい。
来月には発症から一周年てことになる。半年間の入院があんなに長く感じたのに、振り返ってみれば一年なんてすぐだ。
あと四年以内に「同期」の二人に一人が死ぬってわけか。言い換えれば1/2の確率で俺は4年後にこの世にいないってことか。
まあ、こんな身体になって「余生」が長く続くのも何の罰ゲームかって感じではあるのだが。
 

 

業者と

直接やり取りしていいものか悩む。グズが間に入ると鬱陶しいな。

仕事を抱え込まれて

手出しの出来ない状態で停滞してしまうより、ハナからやらない前提でこちらが自由に動ける状態の方がマシという発想(経験)に基づいて辿り着いたやり方だったのだ。

結局

必要な情報は自ら取材してとってくるのか。だったらアンタの仕事は何よ? といいたくなるな。

2018年9月 3日 (月)

5年生存率

5年生存率(5ねんせいぞんりつ)とは、ある疾患の予後を測るための医学的な指標である。
主として癌について用いられ、診断から5年経過後に生存している患者の比率を示す。治療効果判定のために使われることが多い。あくまでも集団としての患者群を対象とした指標であり、個々の患者の余命として単純に流用することはできない。また、疾患や研究によっては「1年生存率」、あるいは「10年生存率」といった任意の判定期間による統計も存在する。
多くの癌では、治療により癌が消失してから5年経過後までに再発がない場合を「治癒」と見做す。
最も5年生存率の低い癌として、膵癌が知られている。膵癌では、初期症状が腹痛や体重減少などで早期発見が他の癌と比べ困難である。
なお、がんの終生再発率とは直接の関係にはない。あくまで診断後、治療による寛解をみて、その寛解が患者にもたらした余命延長効果を、特定年数後の時点で計測した数値に過ぎない。

2010.8旭川

Scan20108

2009.8札幌

Scan20098_2Scan2009829

夢を見た。

都立大学駅前の坂道を車椅子で上っている。この先にあるめぐろパーシモンホールと同一建物内にある稽古場に向かっているらしい。
なぜここなのかと目覚めて思う。過去に何度か使用したが、そう思い入れのある場所ってわけでもない。

通俗的な憶測

に基づく陳腐な物語をドヤ顔で。
みっともないことである。

2018年9月 2日 (日)

正常性バイアス(せいじょうせいバイアス、英: Normalcy bias)

認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で[1]、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。
自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい[2]、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる[3][2][4]。「正常化の偏見」[5]、「恒常性バイアス」とも言う。

書斎の


Art

PCに新しいプリンタをつないだ。 とりあえず、近くにあった本をスキャンしてみた。 できたね。これで執筆のための物理的環境はほぼ整った。

あれは確か

あそこにしまってあるはず、と入院中に思い、退院しさえすれば確認できると思っていたことが、身体が動かないために容易にできない。
Namida

早くも

「年末」を睨んだ行政手続き関係のメールが届く。

古典的自由主義

https://ja.wikipedia.org/wiki/古典的自由主義

主要先進国(G7)の物価上昇率

インフレというのは物価が年々上昇していくことです。インフレ経済下では、商品の値段が年々上昇していくので「欲しい物は早く買ってしまおう」という心理が、国民に働きます。すると商品が沢山売れるので、企業が沢山儲かります。企業が儲かれば、その分従業員の給料も増やせますし、旺盛な需要に応えるために雇用も増えることになります。すると国民には「毎年給料も上がっているから、欲しい物をどんどん買っても大丈夫だ!」と楽観的になれますから、さらに商品が売れやすくなり・・・というように、経済が好循環するのです。
逆にデフレ経済下では、物の値段が年々下がっていくので、消費者は無理に買おうとせず、貯蓄に回します。すると企業は業績が悪化するので、賃金カットやリストラが増えます。そうなれば、さらに個人が財布のひもを固くするから、ますます消費が落ち込む・・・というように「負の連鎖」が繰り返されるのです。ですから、デフレで経済が発展することなど絶対ありえないのです。
日本以外の国では、必ず物価上昇率はプラスです。実は日本以外の全ての国では、公式・非公式含めて必ずインフレターゲットを定めています。アメリカも明文化はしていないものの、FRBが適正なインフレ率に定めるよう努力していることは、世界の常識です。

2018年9月 1日 (土)

ボディイメージ

エントランスまで

杖歩行で郵便物を取りに行ったよ。大仕事じゃ。共用廊下を歩きながら管理組合の理事長時代、水捌けが悪いという報告を住人から受けて廊下に腹ばいになり、排水溝に手を突っ込んで泥を掻き出したことを思い出す。もう二度とあんなマネはできない。

陳腐な露悪は

偽善と等価である。本人は偽善から身を引き剥がしたつもりでいるのかもしれないが、まったく浅はかなことである。

お隣さんが

つい先日、引っ越しの挨拶に来たばかりなのに、もう売りに出されているらしい。どうやら投資用に購入した模様。

Sinigami

9月

になってしまった。来月には「入院記念日」がやってくる。
こんな身体であと何年生きねばならぬのだろうか。しんどいな。
正直そう思ってしまう。

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