⑲そうなりますと、あらゆる現象を自分の判断だけで見ていく。その判断だけで相手に対する
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) September 30, 2018
ということになり、時には大変に困った状態も現出するわけです。
従って
ひとりよがりで同情心がない
ということになりますが、これが非常に面白いことに、一見同情心に見えるものもあるわけです。
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⑲そうなりますと、あらゆる現象を自分の判断だけで見ていく。その判断だけで相手に対する
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) September 30, 2018
ということになり、時には大変に困った状態も現出するわけです。
従って
ひとりよがりで同情心がない
ということになりますが、これが非常に面白いことに、一見同情心に見えるものもあるわけです。
⑤ああいう箱の中に入れられてカイロがなけりや寒かろうと、酸素を入れてある箱の中にカイロを入れる。
爆発して赤ちゃんが死んでしまった。
過失致死罪かなんかになりまして、まあ情状酌量になりましたけど、裁判官はこんないやな裁判はこれまでなかったという談話を発表してるんです。— 山本七平bot (@yamamoto7hei) September 30, 2018
⑥これはですね、自分の感情を充足する為の行為と、相手に同情するっていう事に区別がつかないからなんです。
なぜこういう事になってくるのか。
この二つがなぜ我々の社会ではっきり分かれないのか。
以上の例は事件が大きいですから眼を引きますけど、同じ事は実は年中行われているんです。— 山本七平bot (@yamamoto7hei) September 30, 2018
⑥これはですね、自分の感情を充足する為の行為と、相手に同情するっていう事に区別がつかないからなんです。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) September 30, 2018
なぜこういう事になってくるのか。
この二つがなぜ我々の社会ではっきり分かれないのか。
以上の例は事件が大きいですから眼を引きますけど、同じ事は実は年中行われているんです。
いい加減にしてもらいたいが、今俺が入院中でなくてよかった。この状況で妻と離ればなれだったら、心細く、かなりつらい。
以前はアタリマエにできていたことがことごとくできなくなったのだから、当然「常識」も変わってくるのである。
入院中は妻が、ゴム口を丸めてドーナツみたいにしてくれていた。おかげで片手でも一人で靴下を穿くことができた。今はもう、そういう「加工」なしで、なんとか穿けるようになった。
まわりを少し片付けたいのだけどモノの行き場がない。
玄関ポーチの門扉のフランス落としをしゃがんで上げ下げするのがとっても難儀である。
http://koujinou.net/kind/chui.php
高次脳機能障害のひとつとされ、交通事故で脳に損傷を受けた場合にも発症することがあります。
集中力が低下し、仕事や勉強を長く続けることが困難になったり、
外見的にもぼんやりすることが多くなったり、
周囲が呼びかけても返事をしないなどの変化が見られます。
また、同時に2つ以上のことが出来ない、考えられないなどの症状も見られます。
症状によって、以下の4種類の注意障害に分類されます。
全般性注意障害/容量性注意障害/持続性注意障害/選択性注意障害
どんどんバカになっていく気がする。
涙が出ないで目が乾燥することをドライアイ、口の中が乾燥することをドライマウスと呼びます。
更新したいんだ。
なのである。せいぜいひとに迷惑をかけぬように余生を送るのみ。
俺のものではないだろう。
できてる方だと思うのだけど一方で、悪い夢の中にいるような感じが拭えない。
自分の意思でコントロール(制御)できない神経です。
(ex. 汗をかく、鳥肌が立つ、瞳孔が縮まる、ヨダレが出る、顔が赤くなる、鼓動が早くなる…その他色々)
身体内部の情報や、外部の刺激を受けて、身体を正しく健康的に調節・制御する神経です。
当然、それらの神経は私たちの意思とは関係なく作動しています。
それに対して、「体性神経」(運動神経など)は自分の意思でコントロールできる神経です。
(ex. 手を曲げる、口を開ける、目を閉じる・・・などたくさん。)
2017.10.25稽古@高津市民第4
↓
飲み会@溝の口(歌野、柳沢)
↓
2017.10.27ローン借り換え実行
眺め、自分の命日が10月24日であったことを確認した。高津市民館の実習室で音出ししたのを覚えてるんだ。
少なくとも自分にとって実はかなりフィジカルな行為であったと思い知らされる。
アガンベンはハンナ・アーレントの理論におけるゾーエ(剥き出しの生・生物的な生)とビオス(社会的政治的生・生活形式における諸活動)、そしてとりわけビオス・ポリティコス(偉大な行動と高貴な言葉を生きること)についての思考を批判的に継承している また、フーコーは「近代が生政治を生み出した」と言ったが、アガンベンはこれを批判し、政治はその起源から生政治であったとする。アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、bios(ビオス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持たない存在であるという。アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いている。
やりたいことは概ねやり尽くしたんじゃないか。じゅうぶん幸せな人生だったといえる。
①半穣空間無視
半側空間無視とは、片側に置かれたものに気づかない、認識できない症状をいいます。通常この症状は、脳の 右半球を損傷することによる左半側空間無視であることがほとんどです。左側の半球の損傷に伴って起こる右側の半側空間無視というのはまれです。
具体例としては、歩いていて左側にある壁や障害物にぶつかったり、食事のときに皿の左半分を残したりしま す。また患者さんによっては、左側から話しかけられてもそれに反応せず、右側に回っていって話しかけられるとはじめて会話が成立するということもありま す。
②半側身体失認
半側身体失認は主に脳の右半球を損傷することによって左側に生じます。左側が麻痺していて歩行も ままならないの に麻痺を否認したり、逆に麻痺はないにもかかわらず左側の身体を使わなかったりします。たとえば通常であったら自然に動きがみられる左上肢を動かさない で、なんでも右側の上肢を使うといった症状が認められます。
ある運動や動作・行為の実行に際して、指示された実行内容が理解できていて、その運動や動作・行為を実行しよう とする意欲が十分あるにもかかわらず、指示された簡単な運動をぎこちなく拙劣に実行したり,物品や道具を不器用に使用したり誤って扱うなどの行為をする場 合には、失行症が考えられます。
失行症と診断するためには、指示された内容が理解できていること、そして指示された運動を実行したり物品や道具を扱ったりする側の上肢に運動障害や感覚 障害がないことが条件になります。
具体的な症状
日常生活の様々な運動や動作が全般的にできなくなるまたはぎこちなくなります。ハサミなどの日常的な道具をうまく使えなくなったり、使い方を間違ったり します。また、道具を組み合わせて使う場合に順所を間違えてしまいます。さらに、文字の形が崩れたり、正確に書けなくなり、服をうまく着られなくなると いったことが起こります。
大病したとき死んでたら今、妻にこんな苦労をかけることもなかったのにな。無駄に生き延びてしまった。
仕方がわからないんだ。
入れるってことは、出られるってことなんだ。
自身の腕の重さで肩が脱臼するように、
己の存在によって己が世界から外れてしまった。
記憶障害
物の置き場所を忘れる。
新しいできごとを覚えられない。
同じことを繰り返し質問する。
注意障害
ぼんやりしていて、ミスが多い。
ふたつのことを同時に行うと混乱する。
作業を長く続けられない。
遂行機能障害
自分で計画を立ててものごとを実行することができない。
人に指示してもらわないと何もできない。
約束の時間に間に合わない。
社会的行動障害
興奮する、暴力を振るう。
思い通りにならないと、大声を出す。
自己中心的になる。
これらの症状により、日常生活または社会生活に制約がある状態が高次脳機能障害です。
ちょうど一年前のラジオ番組を聴いている。台風情報に覚えがある。たった一年でいいから時を巻き戻すことができたならばと思う。
陳腐なたとえ話はもう結構。
償えるのか、それが分からないから困ってしまう。
ソシュール=丸山の〈コードなき差異〉:ソシュールが五段階にわたって行った〈西欧形而上学の記号学〉解体の結果明らかにされた、言語=意識=身体の深層に見出される〈差異〉のこと。表層意識において実体視される〈コード化された差異〉以前の差異。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年9月18日
退ける、そのコストがこっち持ちという理不尽。
ないのかと思っていたが、病院で会っているんだな。そうか。
https://kotobank.jp/word/図と地-542555
《figure and ground》心理学で、ある物が他の物を背景として全体の中から浮き上がって明瞭に知覚されるとき、前者を図といい、背景に退く物を地という。
視野に二つの領域が存在するとき、一方の領域には形だけが見え、もう一つの領域は背景を形成する。背景から分離して知覚される部分(形)を「図」といい、背景となるものを「地」という。「図と地」ということばを初めて使ったのは1912年デンマークの心理学者ルビンであり、これはゲシュタルト心理学の重要概念である。メロディーは際だって聞こえ、伴奏は背景に退いて知覚される。このように知覚経験の各側面に図と地が現れ、とくに視知覚において著しい。一般に図となる領域は、形と輪郭線とものの性質をもち、面が固い感じで位置が明確で浮き上がって見え、一方、地は、形も輪郭線ももたず材料的性質をもち、面が柔らかく定位不明確で図の背後に一様に広がって見える。
ソシュールは言葉の“概念とその具体的な存在形式”を厳密に考察した。そして “人間の持つ普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力、及びそれらの行動”をランガージュ(Langage)と呼び、色んな地域(言語共同体)での国語体をラング(Langue)と呼んだ。そしてラングは体系をなしている。ソシュールの意味する体系をなすラングとは、他(の単語)との関係において個(の単語)が意味を持つような相互依存型の体系である。そして言葉の状態とその変遷を、共時態と通時態という概念で解析した。(注1)
ソシュール言語学で重要な点は、言葉に依存しない概念も事物(もちろん、人間が知覚し把握する事物や概念)もないという考え方である。そして、『言葉の体系は、カオスのような連続体である“世界”に、人間が働きかける活動を通じて産み出され、それと同時にその連続体であった“世界”もその関係が反映されて不連続化し、概念化するという“相互異化活動”が言葉の働きである』(103頁)と要約される。つまり、言葉は既に存在する概念にたいする表現ではなく、言葉は表現であると同時に内容(概念)であるということである。ソシュールは、その表現をシニフィアン、内容(概念)をシニフィエと呼ぶ。両者は言葉のユニットの両面であり、統合的にシーニュと呼ぶ。
それを表出せぬ美意識はわかるけれども、そんな強さは持ち合わせてないよ。
取り替えてやることすらできないのだ。
眠れなかったり、急に涙が出たりすることはないかと入院中、病室を訪れたケアマネに訊かれた。「鬱」の症状の有無を評価するためだったのかもしれない。「不安などない」と俺はこたえた。それは障害受容の物語に回収されたようであるがそういうことじゃないんだ。そもそも「不安」なんてものは、「希望」を地とした図のパターン認知に過ぎないじゃないか。つまり「希望」の言い換えにすぎない。そんなものはとっくに絶望の津波が押し流したのだ。
今後生きていったらいいのか。それ以前にそもそも今、生きているのかという疑問。
我が身を日光の下に引きずり出した。
買い物にくっついていって、久しぶりに日の光を浴びた。
イギリスの哲学者 J.L.オースティンによって提唱され,J.R.サールらによって展開された言語論。従来の言語論が命題の真偽を主として問題にしてきたのに対し,文の発話は同時に行為の遂行となっていると指摘した。たとえば「約束する」と発話することは,すなわち「約束」という行為を行うことにほかならない。このように何かを語ることによって執行される行為を「発話内行為」という。
障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである、というのが筆者の定義である。」(上田[1980:209])
障害のある人々の多くは「自分は家族の足手まといで、社会の厄介者で、生きる資格のない人間だ」と自分を責め、あるいは「そうなるのではないか」と不安と恐怖をいだく。しかし実はこれが「障害者」に対する本人自身の偏見の産物にほかならないことは先に述べた通りである。しかし人間は強いもので、このどん底からも立ち直り、立ち上がってくる人が決して少なくない。これを援助することがリハビリテーションの重要な第4のアプローチ(前ページ参照)である。これを障害の受容と呼ぶ。これはよく「あきらめ」とまちがわれるが、実は正反対で、現実から目をそらさず、直視することができるようになることであり、障害の心理的克服に他ならない。その本質は障害についての価値観の転換である。他人との比較でしか意味のない(相対)的価値観から脱却して人間の様々なありかた(存在)そのものに価値を見出す存在(絶対)的価値観に到達することである。
動かぬもどかしさはもちろんあって、それプラス痛みや痺れで、ほとほとうんざりするのである。
運転免許の「返上」が制度としてあるのなら、選挙権も同様であってもおかしくないのじゃないか。返上したい気分なのだが。実際、投票に行くことさえ困難なのだから。
手足は普通に動いていたのだ。それが今は夢の中でも車椅子である。
後の昏睡状態から目覚めてしまったのがやはり間違だったという気がするな。
やはり妻の足手纏いになってしまうのである。開頭手術後の昏睡状態の夢の中で行く先をしくじったのだろう。三途の川の渡り方を心得ていなかった。
余分なもの、余剰がある、重複しているという意味だが、IT用語としては、主に余裕のある状態、二重化など、ポジティブな意味合いで使われることが多い。データ圧縮などにおいては、効率性の妨げになる余剰分を排除するという場合に本来の余剰、重複の意味で使われることもある。コンピュータシステムにおいては、耐障害性を高めるためにネットワークを含むシステム全体を二重化して予備システムを準備することを冗長化といい、冗長化によって信頼性、安全性を確保した状態を冗長性があるという。稼働中のシステムに障害が発生した際に瞬時に予備システムに切り替えることで損失を最小限に抑える「事業継続計画(BCP)」の一貫として構築されることも多く、実際のシステム構築にはクラスタリングなどの考え方により構築される。さらに大規模な災害対策(ディザスタリカバリ)としては、バックアップデータを遠隔地にするなどの工夫が必要となる。
一人でできることは一人でやってみようと思う。
限定されたことで相対的に世界が広くなった。ちょっと書斎で調べ物をと思っても、そこに辿り着くのさえ一仕事である。
ための前段階の手続きをするために、クリアしなきゃいけないハードルが残されている。
「主体性」「自主性」:言葉の意味の違い
この2つの言葉の大きな違いは「自分の頭で物事を考えるか、考えないか」にある。
「自主性」のある行動をとる場合は自分の頭で考えないが、「主体性」のある行動をとる場合は自分の頭で考えなければならない。しかし「自分の頭で考え」るとはどういうことなのか。身勝手な自説を謎ルールで正当化することじゃないはずだ。
他人に押しつけるための謎ルール。それを正当化するための針小棒大そして牽強付会。厚顔無恥も甚だしい。
何もできない。まるで赤ん坊である。正直己の存在を持てあましてしまう。
念願叶って家に帰れたのだ。これ以上何を望む資格があるか。
脱衣所兼洗面所で眼鏡を探す。確かにここに置いた記憶があるのだが…。しかしよくよく考えてみればそれは今朝、顔を洗ったときのことだ。結局、寝室に置いてある眼鏡ケースの中にあった。
病気・事故・殺害・自殺などにはよらない死。いわゆる老衰のこと。
普通の人には何でもない距離を移動するのが、普通じゃないから一仕事なのである。
気持ち悪かろう、という自覚はあるのだ。
一般的には,経済主体が与件の変化に伴い資源配分の変化を余儀なくされることによって被るコストのことを指すが,より限定的には,企業の投資行動における基本的な概念として用いられている。新古典派の静態的投資行動論においては,資本に対する需要は投資需要ではなくストックで表されている。 1960年代以降,こうした新古典派の投資行動論に調整コストの概念を導入することにより,企業の投資行動の理論の動学化を図る試みが相次いでなされ,現在に至っている。
さしたる目的もなく「偶然」に期待して妻とほっつき歩いた時間が懐かしく愛おしいのである。もう二度とそんな時間の使い方はできないのだ。
下北沢あたりを妻とぶらついた時間が懐かしく、愛おしい。
手が動かないんだな。意外だった。
一日も欠かすことなくリハビリを受けた結果がこれなのである。
肩が痛い。ぜんぜん珍しい現象ではないし、亜脱臼によるものと原因はわかりきってるのだから、医者が同じ事を何度も訊かないでくれよ。
哲学的人間学の立場から加えられる三つの人間の定義:死の不安に怯える動物ホモ・モルタリス(死すべきヒト)、夢をみる動物ホモ・ソムニアーンス(幻視のヒト)、歌う動物ホモ・カンターンス(詩と呪文を唱えるヒト)。-ホモ・モルタリス-
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年9月9日
主治医の話を総合すれば、ほとんど寝たきりに近い生活が想定されていたのだとわかる。そう考えれば現状でも上出来である。
脳卒中発症後に二次的に生じる痛みとして、麻痺した手足の筋肉の痛み、肩手症候群などがあります。まず筋肉の痛みは、関節を 動かそうとすると痛みがでることが特徴です。これは、主には筋肉などの軟部組織の拘縮(こうしゅく)している部分を伸ばされる、あるいは筋肉が過緊張の状 態にある場合に無理に急激に伸ばされことによって生じます。これには、筋肉や関節が固くならないように、1日数回、他動的に動かすことが必要です。入浴後 などに筋肉をマッサージなどでリラックスさせてから、ゆっくりと伸ばすこと、痛みが出ない範囲から徐々に拡大して下さい。また、脳卒中の特徴として姿勢に よって筋肉の緊張状態が異なりますので、仰向けなどリラックスした姿勢で行うことが良いです。無理に強引に行うことは別の損傷を伴う危険がありますので注 意してください。
次に肩手症候群ですが 、肩の亜脱臼を伴い、麻痺した側の肩や手の強い痛み、手の甲の腫れ・熱感、動かした時だけでなくじっと していても痛みがあることが特徴です。医師の治療を受けることが必要ですが、日常の生活の中で注意していくことも大事です。まず肩の亜脱臼とは、腕を肩関 節に支えている筋肉の麻痺によって、腕がそのまま肩にぶら下がるような格好になる状態です。肩にとっては非常に負担になり、その原因を取り除くことを、日 常生活の中で工夫しましょう。また、感覚障害を伴う場合や、麻痺した側に注意が向きにくくなる方もいますので(麻痺側の身体無視)、手の位置など見て確認 したりなど注意していくことが必要です。例えば、仰向けの姿勢で寝る時は麻痺のある側の肩の下に枕を置き、同様に腕・手も少し持ち上げてその枕の上に載せ る。車椅子に坐る場合は、備え付けのテーブルに手を載せる、あるいは掌を下にして膝の上に置く、歩く時は、肩への負担を減らすためにアームスリングや三角 巾で腕をつる(固定時間が長いと逆に苦痛を伴う場合があるので注意して下さい)などです。また見かけ上は腕や肩の問題でも、身体や足の姿勢すべてがこれに 影響を与えることも多く、身体を丸くしない、麻痺した側が後に引けないように注意しましょう。例えば、車椅子に座る場合は、身体に合った車椅子を選ぶこと が大切で、必要に応じて背もたれやクッションを用います。そしてできるだけ背筋を伸ばし、麻痺した足が外向きにならないように、また車椅子から身体が斜め にずり落ちないように注意しましょう。
又聞きだが、それらを総合すれば、ほとんど寝たきりの生活が想定されていたと思われる。だ。
自己の身体各部位とその相互の関係に関する概念的な図式。知覚像とは異なり,具体性,個別性をもたない。前後,左右,上下の主要な方向とそれに基づく構造をもち,運動感覚と触運動的ならびに視覚的な感性経験とがその形成の基盤になると考えられる。その時々の位置感覚が関係づけられる基準をなし,しかも固定したものではなく,四肢の運動とともに部分的に変化してゆく。幻肢はこの身体像によって生じるとされ,それが完全に形成されていない幼児では幻肢は認められないといわれている。
腹で受けるように、未来の閉ざされた人生を引き受けねばならない。
【目的】 左頭頂葉から後頭葉にかけての広範な出血後、多くの高次脳機能障害(軽度失語、観念運動失行・観念失行、構成障害、見当識障害、記憶障害、病識欠如、注意障害、右半側空間無視)を呈し、右片麻痺・感覚障害の程度に比べて重度の動作障害に至った患者を担当した。理学療法評価・脳画像所見を基に、この動作障害の背景には身体図式の障害があると仮説をたて理学療法介入を行った。その結果、動作の改善に至ったので考察を加え報告する。
【症例紹介および初期評価】 77歳女性、皮質下出血(左頭頂から後頭葉、一部前頭葉に小出血あり)であった。 運動麻痺はSIASmotor4,4,4,4,4、感覚障害はSIAStouch上肢3・下肢2、position上肢2・下肢1、膝立て動作の左右差は僅かであり、立体覚は保たれていた。体幹機能は、FACT9/20と四肢・体幹運動機能、感覚の障害は軽度であった。本症例の特徴としては、起居動作は可能であるものの、坐位から臥位となる際、枕に頭を合わせることが出来ず、ベッドの長軸に対し直角に横たわり修正しない、右下肢をベッドの外に残したまま気が付かないなどの様子がみられた。歩行形態は独歩であったが、数m歩くと揃え型歩行から右下肢が遅れ右前方へ転倒することが多かった。歩行中の右足の遅れや身体の傾きには転倒するまで気づくことができず、常に見守りから一部介助を要した。階段昇降は階段を目の前にすると、腰が引けた姿勢で手すりから両手を離すことが出来ず、一歩も踏み出せなかった。 視力・視野は概ね問題なかったが、ADLでは移動動作、食事、更衣、靴の着脱などで到達・把持障害を認め、介助が必要であった。上肢到達動作は、左上肢で行えば可能であり、対象物の相対的な位置関係は正答するが、右上肢を対象物まで正確に運ぶことが出来なかった。把持動作も、左上肢では可能であるものの、右上肢では対象物を把持する前に手指どうし、もしくは手掌が対象物に対し最適な距離・向きを形作っておらず、把持する準備が成されないまま動作が行われた。上肢と同様に右下肢にも到達障害がみられた。その結果、対象物の手前や左側での空振りが多く、行き過ぎてしまい対象物との衝突も度々見られた。対象物に触れることで修正は可能であった。到達・把持動作時には運動イメージとの違いを訴える発言が多く聞かれた。より速い動作を要求すると動作の正確性は著しく低下した。
【理学療法】 本症例における動作障害の主たる問題を身体図式の障害であると仮説をたてた。身体図式の再構築を期待し、四つ這い動作、くぐり動作、壁際歩行など視覚情報に加え体性感覚情報も利用できる身体活動を多く取り入れた。四つ這いで能動的に動くことで、両手両足支持による4点から多くの体性感覚情報が得られると考えた。平行棒の2つの棒に高低差を作ったくぐり動作では、棒をつかむことで視覚と体性感覚の両方を用いて棒の高さや自身と棒との奥行き感覚を測ることができ、視覚と体性感覚の感覚統合を促せると考えた。壁際歩行では、右手で壁を軽く触れた状態で壁と自分との距離を一定に保ちつつ歩行練習を行った。身体の傾きなど壁との距離が近づいた時には、壁にぶつかることで運動を修正するための情報になると考えた。体性感覚情報を利用した身体活動を通し、空間における自身の位置、対象物と自身との距離感を学習することで身体図式の再構築を促した。
【結果】 SIASposition下肢2、FACT11/20と僅かに下肢位置覚と体幹機能に改善がみられた。起居動作では、枕に頭を合わせベッドに添って寝るようになり、歩行は歩幅に左右差はあるものの交互型となり、ふらつきを自身で気づき修正できた。階段昇降は2足1段で手すりを使用することで可能となったが、段差の高さ・奥行きに対して正確に下肢を運ぶことは出来ず、代償および介助が必要であった。到達・把握障害の程度は改善され触覚による代償を用いてセルフケアは自立した。
【考察】 頭頂連合野は体性感覚野から触覚などの情報を受け、自分自身の認知に関与し、視覚野から空間感覚に関する情報を受け物体間や物体と自分自身との位置関係の認知に関与している。 本症例のADL場面では、運動麻痺や障害側の感覚障害よりも、枕に合わせて寝ることが出来ない、対象物にうまく手を伸ばせない、歩行時に足が遅れても気づかないといった特徴的な動作が目立った。これは、感覚検査で明らかになるような感覚ではなく意識に上らない感覚の障害であること、また非障害側も参加する全身的な動作障害であることから、障害側のいわゆる運動麻痺や感覚障害だけでは説明できず、身体図式に障害を来した状態と考えられた。理学療法介入により、身体図式が再構築されたことで動作改善に至ったと考える。
【説明と同意】 本報告にあたり、症例・ご家族に症例報告の意義を説明し同意を得た。
【はじめに】身体図式とは,自分の身体の姿勢や動きを制御する際にダイナミックに働く無意識のプロセスのことを言う。今回,半側空間無視の所見を認めないPusher現象を呈した症例を経験した。半側空間無視とPusher現象の関連性については過去に報告されているが,身体図式とPusher現象の関連性についての報告は少ない。我々はそこに着目し神経解剖学的に障害像を考察したので,本人・家族の了承を得たうえで報告する。
【症例紹介】86歳女性。平成18年1月29日脳梗塞(左被殻・内包)右片麻痺にて発症。2月2日よりPT開始。Br Stage上肢・手指・下肢4。感覚障害や注意障害,知的低下を認めた。坐位・立位・歩行といった姿勢・動作では非麻痺側で押す動作を認め,麻痺側への傾きを認めた(Pusher評価チャート合計5点)。
【仮説・考察】症例の特性として,姿勢制御に対して視覚情報により姿勢の傾きを認知することは可能であったが,体性感覚情報のみでは姿勢の傾きを認知することは出来なかった。このことから,感覚情報入力の乖離が身体図式を歪ませPusher現象として出現したのではないかと仮説を立てた。以下にこの感覚入力を含めた神経回路に焦点をあて,身体図式の形成と運動が調節されるプロセスを文献的な考察を加え,検証していく。
身体図式は,視床から内包を経由した体性感覚情報と外側膝状体を経由した視覚情報がそれぞれ頭頂連合野にて統合され形成される。この情報は,被殻を入り口とする大脳基底核内に伝達され運動調節に利用される(皮質-基底核ループ)。また視床から皮質を介さない感覚情報が辺縁系へ伝達され,過去の経験に基づく内部モデルの情報が基底核-辺縁系ループを介し,基底核の情報に反映される。ここまでに形成された情報が,補足運動野・運動野へ伝達され錐体路を経由し運動発現として出力される。このような神経解剖学的な事項に症例を重ねてみると,以下の3点が考察される。(1)内包障害により感覚障害を呈し,頭頂連合野にて歪んだ身体図式が形成されたこと。(2)大脳皮質からの入力部である被殻の障害により運動調節に支障をきたしたこと。(3)側頭葉・辺縁系における内部モデルの情報と基底核内への情報入力に差異が生じたこと。以上の重複した障害が身体軸の歪みを引き起こし,運動発現に至るプロセスに影響した為,Pusher現象として出現したと考える。
【おわりに】脳卒中片麻痺患者の障害像の理解において,病巣理解や神経解剖から仮説・根拠を立てて考察した。今回本症例の解釈に難考し,改めて仮説・検証・考察という過程を得る事や感覚統合などに着目しながら治療介入していくことが重要と考える。
じぶんが今椅子に座っていること、また、右足を左足の上に組んでいることをひとは観察によることなく直接知っている。あるいは、暗闇であってもじぶんが蚊に刺されれば、即座にその身体箇所に手のひらを持っていくことができる。このような場面で働いている身体に関わる潜在的な知覚の枠組みのことを、身体図式という。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/身体図式
が壊れている。
うまく説明できないが、イメージする自己の身体と現実のそれとの間に差異がある。そのあり方に秩序だった法則があるわけじゃない。だからうまく説明できないんだ。
エクリチュールとは、まさしく、文法上の種々の人称と言説の種々の起源とが、混じりあい、入り組み、見失われ、ついには標定しがたいものとなる空間にほかなりません。エクリチュールとは、人間(作者)の真実ではなく、言語活動の真実を示すものです。
— 「エクリ」チュール / ǝɹn⊥IᴚʞƎ (@textbot) September 8, 2018
入院中は曜日の感覚がなかった。
これを所詮は他人事の無気楽さで、どこかで聞きかじった高次脳機能障害の「物語」に回収したがる者もいたが、まったく的外れで不要な干渉である。そうじゃなくて、仕事や通院の必要によって、曜日の認識が要請されるのである。そんな構造はわかりきっていた。
労働とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行ない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年9月8日
ローマ時代の修辞家・クインティリアヌスは“Damnant quod non intelligunt”(人は自分が理解できない物事はダメなもの、間違ったことと決め付ける)と言ったが、まことに人間老いも若きも、わからないものは嫌なのである。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 8, 2018
のたとえば過去二回の勝負で、一度目はグー対グーで引き分け、二度目はグー対チョキで勝ったとする。次の相手は必ずパーを出すという事前情報が仮にあったとしても、じゃんけんの構造を理解していなければ「グーで負けなし」の実績を持っていることにより「グーが強い」という結論になってしまうだろう。
というが、「口に苦い」ことが「良薬」である証拠にはならないのだ。たぶん犬の糞だって口に苦いだろう。口に入れたことがないのでどんな味だか知らないが。
痛みや不自由さからの解放を夢見るほんの空想のつもりでも、妻にとっては精神的な負担になるし、他人からは鬱病の兆候を疑われかねない。だから迂闊に愚痴をいうことも許されないのだ。
話している時には、私は、自分のなすべき諸運動を表象するわけではない。ちょうど私の手が、私に差し出されたものを取るためにひとりでに動くように、私の全身体的装置が、語に追いつき語を発語しようと集まるのである。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) September 6, 2018
そうした諸々を分節化し劇として描写せんとしても理解できない者には一生理解できないんである。
停電が起こると、ポンプで透析に使用する水を汲み上げている施設では、水の供給がストップしてしまい透析が行えません。また、自家発電装置を備え付けている施設でも、瞬間停電がおこる場合があります。
そのとき、透析用監視装置(ベッドサイドコンソール)は無電源警報が発生しブザーが鳴る・または画面が消えブザーが鳴るなどします。瞬間停電の場合は、すぐに電気が復帰しブザーも消音します。完全に停電してしまって、送電の復旧が見込めない場合、透析用監視装置に内蔵されているバッテリー駆動モードに設定し、運転になっているか・血液ポンプ・シリンジポンプが動いているか確認します。バッテリー駆動を行っても、バッテリー残量が十分ではない場合があります。
その場合、透析ポンプに設置されているクランクを利用し、最低循環を維持できるよう手動でポンプを動かし透析中断が再開の指示を仰ぎます。その間、回路凝固が起こっていないか、患者のバイタルサインは正常を保っているか、常に確認を行う必要があります。
復旧後は透析条件が正しく設定されているか再確認します。
すらできない(麻痺側の手を床につけない)のだから赤ん坊以下である。こんな身体でひとに迷惑をかけながらいつまでも生きていたってしょうがない。
すべての国民の年々の労働は、その国民が年々消費する生活の必需品や便益品のすべてをその国民に供給するもともとの原資であって、それらのものはつねに、その労働の直接の生産物であるか、あるいはその生産物で他の諸国民から購入されるものである(A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) September 6, 2018
このようにして、貨幣の使用が始まった。それは、人間が腐らせることなしに保存できる何か耐久性のあるものであり、また、人々が、相互の同意によって、真に有用でありながら消滅する生活の必需品と交換に受け取るものである(J・ロック)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年9月6日
への対策は、塗り薬と湿布それから愚痴をこぼすくらいしかないのが実情だ。
ギターを弾いてた。マーシャルのアンプを歪ませて。
それを処理できていた以前の状態なら、行為を持続させる「根性」でなんとかなったが、無意識を意識的に分節化し、模倣している今では、そういうわけにはいかないのだ。
正直なところ、ただ生きているだけでもう疲れきってしまう。
脳は、視覚や聴覚などさまざまな感覚により得られた周囲に関する情報を統合し、空間や状況を意識したり、状況を判断したり自らの行動をうまく行なうための調整をする機能を持っています。そのため、それらが損なわれた場合、失認、失行といった症状が現れます。
失認は大脳の一部が破壊されることで、感覚器は完全なのに、対象となる事物を認識できない状態で、失認でよくみられるのは、左半側空間失認です。自分からみた左側半分の空間が認識できず、左側にあるものを無視します。そのため、左にあるものにぶつかることや食事の際は食器の右半分のものだけを食べることがあります。失認がみられる場合、家族は患者さんが左側を認識できないということを念頭に入れて接することが大切です。
失行とは、手足などの筋肉が麻痺しているわけではないのに、ある行為がうまく行えなくなる症状です。例えば洋服を着られなくなる、コインをつまんで取り上げられなくなることなどがあります。
「真理とはそれが無くてはある種の生物が生きていけないかもしれない誤謬である」といったのはニーチェであるが、このアフォリズムの力点は、「全ての真理が誤謬」というところにあるのではなく、誤謬であれ何であれ真理なしには「生きられない」というところにおかれている。『言葉・狂気・エロス』
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) September 5, 2018
思考が言葉でできているっていうのはこういうことさ。本質的性行為がエロティックたりうるための条件は、想像力による性的イメージの喚起であり、これを現出せしめるものは、言葉が生み出す自/他意識、時間・空間意識、死の意識、裸体・排泄事象に対する性的羞恥心、そしてとりわけ人間という動物が持つ一切の〈美意識〉であるといえよう。
— 丸山圭三郎 (@M_Keizaburo_bot) 2018年5月17日
を一口だけ、約一年ぶりに食べた。めちゃくちゃ美味い。
AHA の報告によると,脳卒中の5年以内の致死率は男性47%,女性51%
直接やり取りしていいものか悩む。グズが間に入ると鬱陶しいな。
手出しの出来ない状態で停滞してしまうより、ハナからやらない前提でこちらが自由に動ける状態の方がマシという発想(経験)に基づいて辿り着いたやり方だったのだ。
必要な情報は自ら取材してとってくるのか。だったらアンタの仕事は何よ? といいたくなるな。
5年生存率(5ねんせいぞんりつ)とは、ある疾患の予後を測るための医学的な指標である。
主として癌について用いられ、診断から5年経過後に生存している患者の比率を示す。治療効果判定のために使われることが多い。あくまでも集団としての患者群を対象とした指標であり、個々の患者の余命として単純に流用することはできない。また、疾患や研究によっては「1年生存率」、あるいは「10年生存率」といった任意の判定期間による統計も存在する。
多くの癌では、治療により癌が消失してから5年経過後までに再発がない場合を「治癒」と見做す。
最も5年生存率の低い癌として、膵癌が知られている。膵癌では、初期症状が腹痛や体重減少などで早期発見が他の癌と比べ困難である。
なお、がんの終生再発率とは直接の関係にはない。あくまで診断後、治療による寛解をみて、その寛解が患者にもたらした余命延長効果を、特定年数後の時点で計測した数値に過ぎない。
生は死の否定である。死の断罪であり、死の排除である。こうした死に対する反応は、人類において最も強く、死の恐怖は単に存在の消滅に結び付けられるばかりでなく、また死者の肉体を生の普遍的な醗酵に返す腐敗にも結び付けられる。『エロティシズム』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年9月3日
に基づく陳腐な物語をドヤ顔で。
みっともないことである。
認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で[1]、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。
自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい[2]、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる[3][2][4]。「正常化の偏見」[5]、「恒常性バイアス」とも言う。
「年末」を睨んだ行政手続き関係のメールが届く。
インフレというのは物価が年々上昇していくことです。インフレ経済下では、商品の値段が年々上昇していくので「欲しい物は早く買ってしまおう」という心理が、国民に働きます。すると商品が沢山売れるので、企業が沢山儲かります。企業が儲かれば、その分従業員の給料も増やせますし、旺盛な需要に応えるために雇用も増えることになります。すると国民には「毎年給料も上がっているから、欲しい物をどんどん買っても大丈夫だ!」と楽観的になれますから、さらに商品が売れやすくなり・・・というように、経済が好循環するのです。
逆にデフレ経済下では、物の値段が年々下がっていくので、消費者は無理に買おうとせず、貯蓄に回します。すると企業は業績が悪化するので、賃金カットやリストラが増えます。そうなれば、さらに個人が財布のひもを固くするから、ますます消費が落ち込む・・・というように「負の連鎖」が繰り返されるのです。ですから、デフレで経済が発展することなど絶対ありえないのです。
日本以外の国では、必ず物価上昇率はプラスです。実は日本以外の全ての国では、公式・非公式含めて必ずインフレターゲットを定めています。アメリカも明文化はしていないものの、FRBが適正なインフレ率に定めるよう努力していることは、世界の常識です。
杖歩行で郵便物を取りに行ったよ。大仕事じゃ。共用廊下を歩きながら管理組合の理事長時代、水捌けが悪いという報告を住人から受けて廊下に腹ばいになり、排水溝に手を突っ込んで泥を掻き出したことを思い出す。もう二度とあんなマネはできない。
偽善と等価である。本人は偽善から身を引き剥がしたつもりでいるのかもしれないが、まったく浅はかなことである。
クリニックとは、ルネサンス以来初めて、一つの学問と実践とを、眼差しという唯一の知覚の上に築くとした試みである。その前提として病の可能性というものが何の疑問もなく仮定されている。つまり、その可視性は眼差しと見られたものとの間の共通な構造であると仮定されている。-臨床医学の誕生-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年9月1日
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