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退院から4ヶ月以上たった。それだけの時間があればいろんなことが落ち着いているだろうと入院中には思っていたが、蓋を開けてみれば、案外そうでもない。
■山本七平botまとめ/『一知半解人のハッスル』 https://t.co/wGqiz7eXyy
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年8月31日
もはやすっかり夢の中でも車椅子である。
分の腕や足の数が増えてしまったと感じる症状のことです。実は、人間の「体のイメージ」は脳 が作っています。例えば自分の身体の片側半分が無いと感じたり(半側身体失認)、切断されてすでにない腕がまだ存在していていつまでも痛いと感じてしまう (幻肢痛)などの症状は脳が原因で起こることはよく知られております。しかし、手足の数が増えてしまうという症状があり、それが脳の異常で起こるというこ とは知りませんでした。私が読んだ本には前頭葉の脳梗塞で3本目の腕が体から生えていると感じられるようになった女性の話が載っていました。もちろん、そ の3本目の腕は見えません。ところが目を向けていなければ、1分ほど前に自分の左腕のあった位置に、3本目の腕があるように感じられるそうです。たとえ ば、本当の左腕を椅子の肘掛けの上に置いていて、次いでこの左腕を机の上に移動しても、3本目の腕がまだ肘掛けの上に置いてあるように感じられるとのこと です。実際にそちらに目を向けると、この3本目の腕の感覚は消失します。時に下肢も3本になってしまうそうです。私が「余剰幻肢」という症状を知って驚い た訳は、脳外科医になった頃に受け持った脳挫傷の女性を思い出したからです。この女性は時々「3本目の脚が痛いです」と言っておられました。当時の私は 「3本目の足などあり得ない」と一笑に付してしまったことを、今では恥ずかしく思います。
食堂が閉鎖した際のヒトコマが鮮明で、妻からの情報であるのは間違いないのだが、話を聴いたのだったかメールを読んだのだったか覚えていない。
工作なんか、元気な頃だったら自分で簡単にできたのになあと思うことしばしば。だけど、そもそも元気だったら必要のない工作なのだ。
データが消えた模様。やってられん。
だがそのことと、絶望を持てあますのは全く別の話で両立するだろう。
何もできなくなってしまったが、そのもどかしさ、情けなさは自力で引き受けるしかないのだ。
いれるのも一苦労である。
と問われると困ってしまう。実際のところ「元気」の定義による。
座椅子が思ってたのと違う。中書きをよく読まなかったのが悪いのだろうが、分かるように書いてくれよって思う。
の修復に時間を取られた。
友人とした約束がまだ果たせていない。いくつかのハードルがある。来月中にはそのひとつが超えられる見込み。
関係を維持する必要があるのか。答えははっきりしている。そんなもん、ありゃしないのだ。
書いてろよってなことをエラソーに。
USN、身体失認、病態失認、motor neglect、失語、ゲルストマン症候群、失行などなどその他多数の高次脳機能障害。名は知られているかもしれないが、臨床現場ではメジャーな症状を除けばまだまだ認知障害、注意障害の一語で括られてしまう現状。ここを越えていきたいというみんなとの問題意識の共有
— Keisuke Nakata (@ke_suke17) 2018年6月29日
変更になったのなら 知らせて欲しいよ。こっちは起きてるだけでもしんどいんだからさ。
私たちが字を書いたり、箸で食事をしたり、階段を上ったりする運動、これらはすべて「随意(ずいい)運動」と呼ばれています。
随意運動の中枢は大脳皮質の運動野(中心前回)というところにあります。ここから皮質脊髄路(錐体路)と呼ばれる神経線維が出発して、延髄のところで交叉した後に脊髄内を下降し、脊髄の前核細胞で神経線維を交換して末梢神経となり、支配する筋肉にまで達しています。
ちょっとややこしい話になってしまいましたね。
でもここで覚えておいて欲しいのは、随意運動の命令は脳から出発して脊髄・末梢神経を経由して筋肉に伝えられるために、運動機能の障害は「脳」「脊髄」「末梢神経」そして「筋肉」のいずれも障害でも起こりうるということです。
さらに全身の病気でも運動麻痺が起きることがあります。
ですから運動麻痺の患者さまを診察するときは、全身の病気か局所の病気か、局所の病気としたら「脳」「脊髄」「末梢神経」あるいは「筋肉」のどこで障害されているのか常に考えながら診察しています。
ttp://blogos.com/article/130049/
むしろ憲法9条の存在こそが護憲派・改憲派双方の自己矛盾と欺瞞を生み、本格的な安全保障論議を妨げてきたと思われます。さらには、立憲民主主義に照らして、そもそも憲法で安全保障政策を定めることは正しいのかという、本質的な問題にもほとんど目が向けられてきませんでした。
私は二十年来の持論として「9条削除論」を唱えてきましたが(『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』〔毎日新聞出版〕、「9条削除で真の『護憲』を」〔「論座」2005年6月号〕など)、誤解曲解もふくめ、議論の全体像が伝わっているとはなかなか言いがたい。
私の議論は、国際社会における武力行使はどこまで正当化可能か、そして民主主義において憲法とはどんな役割を果たすのか、といった法哲学に基づくもので、まっとうなリベラリズムに立脚するものだと自負しています。今回はできるだけわかりやすく、「なぜ9条は削除すべきなのか」を論じてみたいと思います。
学生演劇をしてる夢。
狭義(きょうぎ)の医療・介護の現場で「リハビリテーション」という言葉を使用した場合、病気やけがで動きの鈍くなった筋肉などに働きかけ、従来の動作に近づけることを指します。
このため「完全に元の状態に戻すこと」を最終目的にするのではなく、「その人に合った生活に近づけるための治療やトレーニング全般」がリハビリテーションの目的とされています。
今日は消防点検でした。無事終了した模様。
ありもしない自己批評性を偽装してんのかと失笑。どんだけ自己愛の塊なのか。
仕事が一段落。
今年の正月に病院から一日だけ帰宅してメールの返信やら何やらをしたいという希望は果たせなかった。3月に一泊の「外泊」、4月の頭に家屋調査のため日帰り「外出」の帰宅、4月21日に退院して今に至るわけだが、日が暮れても家に居続けていい幸せ。
経験が一般的,客観的であるのに対し,体験は個別 (特殊) 的,主観的であるとされる。ドイツ語の Erlebnisという言葉の歴史は比較的新しく,19世紀なかばに伝記の分野などに使用されたが,この言葉が哲学的に深められたのは W.ディルタイにおいてである。彼によれば,体験は体験-表現-了解という彼の生の哲学の図式の一項として歴史性,社会性とのつながりが強調され,なかでも芸術はこの図式連関を端的に表わすものとされた。 E.フッサールでは最初,解釈学的現象学の立場から体験は志向的体験として記述されたが,次に構成的現象学の立場から体験は先験的体験の流れとして現象学的時間の流れとの関係において考察された。
生物体、とくに人間が感覚や内省を通じて得るもの、およびその獲得の過程をいう。体験とほぼ同義だが、体験よりも間接的、公共的、理知的な含みをもつ。より正確な定義はきわめて多様だが、経験の成立の説明(因果発生的定義)は、今日では心理学や大脳生理学その他の諸科学の立場からくだされる。
しかし、経験は認識や知識の一要因であるから、哲学的にも古来、認識論の根本概念であった。とりわけ近世以降、観察や実験を重視する科学の方法や理論が発展し、認識論が哲学の中心課題となるにつれて、「経験」は活発な議論の的となり、また「経験論」の有力な傾向が生まれた。経験をめぐる認識論の根本問題は、一方では経験が多少とも主観的、相対的であるのに、他方では、経験を一部に含む学問理論などの知識が客観的、必然的、公共的であるという事実をいかに説明するかにあり、次のような諸説に分かれる。
(1)近代理性論や一般に観念論の立場は、知識の確実性の根拠を理性や先験的基準に求めて、経験を知識における消極的契機と考える。
(2)逆に経験論は、経験を全認識の源泉と考えるが、その結果、知識の確実性を疑う懐疑主義、相対主義に陥る危険がある。
(3)カントは認識の起源および所与(しょよ)として経験を不可欠と考えながらも、知識の必然性の根拠を主観の先天的形成に求めて、両者の不可分な結合である現象界を学的理論の領域と考え、理性論、経験論の総合を試みた。
(4)現代実証主義の「感覚与件(よけん)」やプラグマティストのW・ジェームズの「純粋経験」などから明らかなように、現代経験論は、一方で個人的、個別的な所与である経験を理論的極限と考える。そして他方では、学的理論もそこから抽出、構成される記号体系として、経験を超えるものではなく、その必然性も先験的根拠にではなく、経験理解のための仮説、規則、要請などとしての拘束力に求められるべきだと考える。[杖下隆英]
[参照項目] | 経験論
麻痺の回復は一般的に、発症から2~3ヶ月あたりがピークとされています。その後は緩やかな回復を辿り、発症から6ヶ月~1年でほぼ打ち切り状態に。
つまり半年を過ぎた時点で麻痺が残っている場合、そこから完治することはほぼ不可能といえます。
Activities of Daily Livingのことで、ADLのAはアクティビティー(動作)、DLはデイリーリビング(日常生活)を指します。日常生活を送るために最低限必要な日常的な動作で、「起居動作・移乗・移動・食事・更衣・排泄・入浴・整容」動作のことです。
バカのひとつ覚えみたいに自説の正しさを強調。
メールでした友人との約束を果たさなくちゃ。
「経験」というのは
実際に見たり、聞いたり、行ったりすることそれによって得られた知識や技能などのこと
という意味を持ちます。経験の場合は、「見たり聞いたりしたこと」を通じて、その人の血肉となり、身に付くものがある場合に使います。「体験」というのは、自分で実際に見たり経験することまた、その経験という意味を持ちます。体験の場合は、「その人の行為や実地での見聞」という、
「体験そのもの」がフォーカスされる傾向があります。
最初、また親指の爪が伸びて人差し指の腹に食い込んでいるのかと思ったがそうじゃなかった。内側からくる痛み。末梢神経に関係あるのだろうか。痺れの延長線上にあるような。日々、身体が逃げ場のない奇妙な痛みに包囲されていく。
今日は届くハズなんだがなあ、とエントランスの郵便受けを確認に行く。車椅子でなく杖歩行で。けっこうな時間をかけて。
理事会で一緒だったAさんと帰りのエレベーターで一緒になった。こんな姿になってしまったのを見られて、なんだかすごく恥ずかしかった。
https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1552104964
自律神経系には相異なる性格をもつ交感神経と副交感神経がある.これらは,感覚器,呼吸器,循環器,消化器,泌尿器,生殖器,皮膚および血管等の平滑筋に分布し,無意識下の反射機構を介して生体の恒常性維持に重要な役割を果している.その中枢は視床下部,脳幹部にあって,より上位の中枢と,脊髄レベルに存在する反射中枢との間に複雑な統合調節機能を営んでいる.
なんか興味がないしどうだっていいんだよ。
人生も終わるのだ。今は余生を生きている。
ぶら下がってる死体のようなこの腕が自分のものとは思えない。この感覚が余剰幻肢のベースになってるんじゃないかという気がする。
https://bsd.neuroinf.jp/wiki/幻肢痛
四肢切断後の患者が、失った四肢が存在するような錯覚(phantom limb awareness)や失った四肢が存在していた空間に温冷感や痺れ感などの感覚(phantom sensation)を知覚する現象を幻肢と総称する。幻肢は四肢切断でなくても、脳卒中、脊髄損傷や末梢神経損傷などの運動麻痺や感覚遮断によっても発症し、これらは余剰幻肢と呼ばれる。また、乳房や陰茎、眼球などの切除後にも幻身体は現れる。幻肢に痛みを感じる現象を特に幻肢痛と呼ぶ。
債務であるか否かは俺の判断次第なのだけど、その結果、やはり債務なのである。
かろうじて生の証である。
③議論・解釈による構造化
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年8月21日
「メタファー」何かを連想させるような言説は人々に問題を強く印象付ける。暗喩。
「ストーリーライン」複雑な現象を理解するため、ある程度単純化させた物語。問題の構造化は必ずしも中立的ではなく、特定の言説が影響を与えていることが多い。
切ってもらった。いつもありがとう。
片麻痺(へんまひ)とも。急性の脳内循環障害により運動神経路が冒されたとき,反対側の手足・体幹・顔面筋が麻痺すること。原因は脳溢血(いっけつ),脳梗塞,脳腫瘍(しゅよう)など。最初2〜3日は弛緩(しかん)性麻痺,のち痙攣(けいれん)性麻痺となり,麻痺側に充血,チアノーゼ,発汗,皮膚温度の異常などを伴うことがある。また,ときに失語症を呈する。治療は,マッサージや電気療法などの理学療法や作業療法によるリハビリテーションなど
上肢および下肢の、左右どちらかの側だけが麻痺した状態。大脳皮質から頸髄(けいずい)までの障害によって生じ、脳出血などの場合、首から上は反対側に麻痺が起こる。半身不随。
https://kotobank.jp/word/片麻痺-44984
妻に対してどんだけ謝罪してもし足りない。
腕の痛みを誤魔化しながら仕事なのだ。
なのである。そこに駅舎と線路は残されてあっても。いくら待っても汽車はやってこないのだ。
「希望」の美名のもと、限られたリソースを無駄に食い潰してしまう。
車椅子に取り付けてもらった。ありがとう。
何かをしたいだとかいうう欲求は、すべて妻の負担になってしまうからできるだけない方がいい。
「国家の統治制化」についての図(拙いものですがどうぞ) pic.twitter.com/yrv6jgArx5
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2015年10月1日
井上達夫教授は「改憲派も護憲派も欺瞞だらけだ」とし、特に護憲派について、9条護持論は憲法を守るどころか公然と蹂躙し、自衛隊という戦力を事実上是認しながら、その憲法的統制を不可能にする最悪事態を固守している、と批判する。「私生児に対して『認知は絶対にしない』と言いながら、いざとなったら自分を守れという父親だ」という例えも交えた。
加えて批判は改憲派にも及び、5月の「安倍加憲案」は改憲案の名にも値しない、これでは「戦力でない実力組織としての自衛隊」という欺瞞を憲法で固定化することになり、さらに自衛隊を律する戦力統制規範を憲法に盛り込めないことも重大な問題だ、と指摘する。国際法を遵守できない
この「戦力統制規範」の問題については、PKO(国連平和維持活動)に現場で携わってきた伊勢崎賢治教授が、国際法の観点から指摘した。
いわく、1999年の国連事務総長告示は、PKO活動において国連自身が紛争の当事者になることを宣言したもの。これはつまりPKO派遣部隊が「交戦」することを容認したものであり、その行為は「戦争のルール」である国際人道法に縛られることになる。つまり、国際人道法違反は「戦争犯罪」として裁かれなければならない。またPKO部隊として外国に駐留するため、国連と受け入れ国の間で「兵力地位協定」が結ばれるが、派遣部隊による一般犯罪行為の裁判権は派遣国にある。
ところが日本はどうか。自衛隊を憲法で「戦力」と認めていないから、当然その戦力を律する法律もない。だからPKO部隊として派遣されている時に戦争犯罪があっても、任務中に事故があっても、日本にはこれを裁く法律も法廷もない。これこそ非常識で、非人道的ではないか。しかもこの現実に何の反応もしない国民とはいったい何なのか――。
足はしもやけになったみたいに感覚が鈍い。尻から太腿にかけては中にイナゴがいっぱいつまって一斉に羽ばたいてるみたいに痺れている。
出られるときはできるだけ外に出たい。手間をかけさせてしまうのが心苦しいけれど。
自転車を粗大ゴミに出すことにした。乗らないのに持っていても駐輪場の使用料ばかりかかってしまうので。ひとに譲る予定だったが、それも意外と調整コストがかかる。しかしいろんなものがゴミになっていくなあ。
保護責任者遺棄罪の客体である要保護者とは、「老年、幼年、身体障害者、病者」とあります。す。
座椅子を交換してもらった。お尻が痛くない。快適。
常に覆われているようだ。
自己の自己への関係においてしか、政治的権力に対する抵抗点、第一にして窮極の抵抗点は存在しないとすれば、自己の倫理を構成することはおそらく緊急かつ根本的な課題であり、政治的にも不可欠な課題である。-主体の解釈学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年8月19日
https://ironna.jp/article/8689
村本君の発言の裏に、ある種の愚民観を感じるのね。国民はよく分からないからとか。君は一見、国民の目線に立っているようだけど、実は、上から目線で見ている。(自衛隊・安保の存在が、戦力の保有・行使を禁じた憲法9条2項に反することは)ちゃんと説明すれば小学生でも分かる。これ(愚民観)は護憲派と同じ。(護憲派は)憲法改正プロセスはなんとしても発動させたくない。なんとなれば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出てくる、日本は軍国主義に走る、と。日本の国民を信用していない。そして、より重要なことだが、憲法改正プロセスを発動させて、自衛隊・安保の現実と9条との矛盾の抜本的解決につき、国民投票で国民の審判を仰ぐ機会を国民に提供することをかたくなに拒否し続けてきた護憲派論客こそが、まさにこのような愚民観に立って、国民の憲法改正権力の発動を封じ込めてきたことを指摘したのである。彼ら護憲派は、愚民である国民に国民投票などさせたら、ひどいことになるぞ、9条だけが愚民たる国民が軍国主義へと暴走することの歯止めになっているのだ、と主張している。
べつに何でもないこのことが俺にとっては大仕事なんである。
普段PCの前に座りっぱなしだから、外に連れ出して貰えるのは嬉しい。けれど、車椅子だから妻の手を煩わせてしまう。それが心苦しい。
紛れて俺の存在自体がうやむやに消えてなくなったらどんなに楽だろう。
ホモ・ディアレクティクスとは即ち、出発と回帰と時間の存在、己の真理を失いそして啓示にうたれてそれを再発見する動物、自己に対して余外者でありつつ再び身内に戻る者である。-狂気、作品の不在-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年8月18日
遅からず死ぬことになるであろうもの、既に我々の内で死につつある(そしてこの死こそが現在の我々の言葉を動かしているのだが)、それこそはホモ・ディアレクティクス(対話する人間、弁証法的人間)というものなのだ。-狂気、作品の不在-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年8月18日
辿り着いた結末をそう簡単に「理解」されてたまるかって思いはある。
また行きたいし、監督とも話したいけれど、駅からいつもの会場までの道のりと、入口の階段を思うと、まずその段階で相当難しいなと思う。昔、劇団第七病棟の公演で、チラシの地図を頼りに、会場を探して見知らぬ町を彷徨ったのが懐かしく思い出される。あんな体験ももう二度とできないのだ。
書斎へ移動
㉒昭和22年、フィリピンから帰って最初に私が感じた事はその事であった。
多くの人は進駐軍に拝跪し、土下座して、僅か二年前の自分の姿を全く忘れたように自己をアメリカと心情的に同定して、戦前の日本人を「劣れる亜日本人」と蔑視していた。
これはまさに「反省力なき事」である。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年8月15日
マハトマ・ガンディー(=マハートマー・ガーンディー)として知られるインド独立の父。「マハートマー(महात्मा)」とは「偉大なる魂」という意味で、インドの詩聖タゴールから贈られたとされているガンディーの尊称である(自治連盟の創設者、アニー・ベザントが最初に言い出したとの説もある[1])。また、インドでは親しみをこめて「バープー」(बापू:「父親」の意味)とも呼ばれている。なお、インディラ・ガンジーとの血縁性は一切無い。[2]。 1937年から1948年にかけて、計5回ノーベル平和賞の候補になったが[3]、受賞には至っていない[4]。ガンディーの誕生日にちなみ、インドで毎年10月2日は「ガンディー記念日」(गांधी जयंती、ガーンディー・ジャヤンティー)という国民の休日となっており、2007年6月の国連総会では、この日を国際非暴力デーという国際デーとすることが決議された。
『ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かゝって
完全な死体となるのである』
と寺山修司は言った。
…政治権力とは、固有権の調整と維持とのために、死刑、従って、当然それ以下のあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、また、その法を執行し、外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも、すべて、公共善のためだけにそれを行う権利である…(J・ロック)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年8月15日
バンテリンで誤魔化しながら仕事。
牽強付会な屁理屈で、通俗道徳を盾に謎ルールを正当化。
元気と言えないこともないけど、「元気」の定義による。
人間の欲望満足と因果的な連環におかれうる物をわれわれは効用物と呼び、われわれがこの因果連関を認識し、同時にそれらの物をわれわれの欲望を満足させるために実際に用いる力が備わっているかぎり、それを財と名付ける(C・メンガー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年8月14日
感覚障害とはわかりにくい「深部知覚障害」と呼ばれるものもあります。深部知覚とは、文字通り体の深い感覚です。圧力を感じる、振動を感じる、自分の指の関節の動きを感じる-などが相当します。圧力や振動は何となく理解しやすいかもしれませんが、指の関節を感じるといわれてもピンと来ないかもしれません。
目をつむった状態で誰かに指を軽くつまんでもらって、どの指をつままれているか分かりますか。正常な感覚があれば容易に判断がつきますが、「深部知覚障害」があると分かりにくくなります。もちろん足にも症状は出ます。ひどくなると地面を踏みしめる感覚が低下します。
目の機能が正常であれば、周囲の物との距離をはかることができるので、立って歩くこともできます。しかし目をつむると視力による補助が消えてしまうので、バランスがとれなくなります。
認知症に似ている認知障害が後遺症として出ることもあります。
認知障害はあらゆることに対して、普通の感覚を失ってしまうという怖い後遺症です。空間を認識できなくなる、モノの名前を思い出せない、迷子になるなど認知症にとてもよく似た症状で、自分の病気も理解できなくなることもあります。
半側空間無視とは、片側に置かれたものに気づかない、認識できない症状をいいます。通常この症状は、脳の 右半球を損傷することによる左半側空間無視であることがほとんどです。左側の半球の損傷に伴って起こる右側の半側空間無視というのはまれです。
具体例としては、歩いていて左側にある壁や障害物にぶつかったり、食事のときに皿の左半分を残したりしま す。また患者さんによっては、左側から話しかけられてもそれに反応せず、右側に回っていって話しかけられるとはじめて会話が成立するということもありま す。半側身体失認
半側身体失認は主に脳の右半球を損傷することによって左側に生じます。左側が麻痺していて歩行も ままならないの に麻痺を否認したり、逆に麻痺はないにもかかわらず左側の身体を使わなかったりします。たとえば通常であったら自然に動きがみられる左上肢を動かさない で、なんでも右側の上肢を使うといった症状が認められます。
ジェント(英: Djent) は、プログレッシブ・メタルより派生したヘヴィメタルのジャンルの一つ。[1][2]。2000年代初期にメシュガーのギタリスト、フレドリック・トーデンダル (Fredrik Thordendal) による造語として発生[要出典]し、ペリフェリーのミーシャ・マンソー(Misha Mansoor、デビュー前からインターネットフォーラムへの投稿等で知られていた)によってインターネットを通じて一般的になった[3]。
7弦ギターもしくは8弦ギターの低音弦上でのパワーコードとブリッジミュート(倍音を抑え、低音を強調するために用いられる奏法)によって得られる独特なディストーションサウンドを擬声語として表したものである[4]。主に旧来の6弦ギターとサウンドの違いを指す意味で用いられるが、かなりカジュアルな用いられ方もされ、その指す所は本来の意味から離れ一定でなくなりつつある[
紙ばさみ、書類入れのこと。転じて、個人や企業が所有する金融資産の組み合わせのことを指す。
退院してからもう4ヶ月になる。4ヶ月もすればいろんなことがもっと落ち着いてるかとも思ったが意外とそうでもないね。
今月中にはとりあえず新作の執筆に入りたい。ハコガキだけでも手が得けて仕掛中の状態にしておかないと、アンテナが働かない。
「アンタのためよコレ分かってんの? わざわざそんな役目買ってんの。いいことしか言わないその辺の人と違ってあえて叱ってんの」
による不自由さから自分から活動せず、他人との接触を避けるようになると、廃用症候群が悪化して寝たきりになることや、楽しみを感じることも減り、うつや認知症の悪化を招くことがあります。
M.ウェーバーが『職業としての政治』で用いた言葉。相対立する基本的な倫理的態度。心情倫理では,おのれの信じるがままに行為することが価値であり,その結果が悪くてもその責任は社会や神に帰せられる。責任倫理では,行為の結果について予見し,そのうえに立って行動し,結果には責任を負う。この2つの態度は,ウェーバーでは目的と手段の関係とからめて問題にされ,いかなる目的が危険な手段を正当化するかを決しうる倫理は存在しないとしつつ,両者の相補するところにあるべき姿をみている。倫理学的には,この2つは動機説と結果説の対立にほぼ応じる。
勘定科目に番号ふって整列かけて表をぶつければ一瞬で終わりじゃないかと、そういうことを桐で日常的にやってたから思ってしまうのだけど、エクセルじゃできないのかな。できそうな気がするのだが。
脳は、視覚や聴覚などさまざまな感覚により得られた周囲に関する情報を統合し、空間や状況を意識したり、状況を判断したり自らの行動をうまく行なうための調整をする機能を持っています。そのため、それらが損なわれた場合、失認、失行といった症状が現れます。
失認は大脳の一部が破壊されることで、感覚器は完全なのに、対象となる事物を認識できない状態で、失認でよくみられるのは、左半側空間失認です。自分からみた左側半分の空間が認識できず、左側にあるものを無視します。そのため、左にあるものにぶつかることや食事の際は食器の右半分のものだけを食べることがあります。失認がみられる場合、家族は患者さんが左側を認識できないということを念頭に入れて接することが大切です。
失行とは、手足などの筋肉が麻痺しているわけではないのに、ある行為がうまく行えなくなる症状です。例えば洋服を着られなくなる、コインをつまんで取り上げられなくなることなどがあります。
駅長が主人公。変わり果てた姿で久しぶりにこの村へ帰ってくる。駅は昔の面影を残しながらも廃線による廃駅と化し、ここでいくら待っても汽車は二度とやってこないのだ。
詩人の去った後のある日、駅のホームで駅長はまた青猫を見かけた。思わず追いかけ、線路に降りたところ、汽車に頭をぶつけ、半身麻痺の身体となった。今は町の大学病院に入院している。バーのママが付き添ってくれている。腕時計が止まってしまい、昔なじみの時計屋なら直せるんじゃないかと思って、ここまできた。時計屋に時計を渡した後、隣町でママの友人の個展に二人で顔を出す予定だった。大通りに出て車を拾おうと提案するママ。しかし駅長は汽車にこだわる。実現可能性のない「希望」のために、、二人の予定(未来)を反故にしてしまうことになるのだ。そのことことを時計屋に窘められる。
物理的に撤去されていないことを根拠に、
【ショック期】
・受傷してすぐの段階で、障害が残る可能性などが分かっていないことから、比較的平穏な心理状態。
【否認期】
・治療が一段落して、自分の身体状況などにも目が向くようになってくるが、自分に障害が残ることを認めていない時期。
【混乱期】
・障害を受け止めることができず、他人に感情をぶつけたり、他人を責めたりする。抑うつ反応を示し、自殺を考えることもある、混乱を示す段階。
【努力期】
・怒りをぶつけたり、絶望しても問題解決にはならない、自ら努力することも必要と気づきはじめる時期。
【受容期】
・現実を受け止め、残された機能の活用や価値の転換がはかられていく時期。
次に肩手症候群ですが 、肩の亜脱臼を伴い、麻痺した側の肩や手の強い痛み、手の甲の腫れ・熱感、動かした時だけでなくじっと していても痛みがあることが特徴です。医師の治療を受けることが必要ですが、日常の生活の中で注意していくことも大事です。まず肩の亜脱臼とは、腕を肩関 節に支えている筋肉の麻痺によって、腕がそのまま肩にぶら下がるような格好になる状態です。肩にとっては非常に負担になり、その原因を取り除くことを、日 常生活の中で工夫しましょう。また、感覚障害を伴う場合や、麻痺した側に注意が向きにくくなる方もいますので(麻痺側の身体無視)、手の位置など見て確認 したりなど注意していくことが必要です。例えば、仰向けの姿勢で寝る時は麻痺のある側の肩の下に枕を置き、同様に腕・手も少し持ち上げてその枕の上に載せ る。車椅子に坐る場合は、備え付けのテーブルに手を載せる、あるいは掌を下にして膝の上に置く、歩く時は、肩への負担を減らすためにアームスリングや三角 巾で腕をつる(固定時間が長いと逆に苦痛を伴う場合があるので注意して下さい)などです。また見かけ上は腕や肩の問題でも、身体や足の姿勢すべてがこれに 影響を与えることも多く、身体を丸くしない、麻痺した側が後に引けないように注意しましょう。例えば、車椅子に座る場合は、身体に合った車椅子を選ぶこと が大切で、必要に応じて背もたれやクッションを用います。そしてできるだけ背筋を伸ばし、麻痺した足が外向きにならないように、また車椅子から身体が斜め にずり落ちないように注意しましょう。
明大前、駒場東大、川崎市多摩区を歩き回り、撮影したのでした。公演が2013年4月だから、撮影は2012年の冬か。あれからもう6年も経ったのだな。
仕事の後、杖歩行でエントランスへ。郵便受けを確認、というのは口実で、一人で歩行練習である。廊下が雨で濡れていてちょっと怖かった。
つまらぬ揚げ足取り。しかもトンチンカンで揚げ足とれてないし。
ベネフィットをもたらすわけでもないくせに、自意識過剰で調整コストばかり嵩むやつなどとは、誰だって組みたくないのである。
一面的な正義の押しつけが障害受容を阻害する。
障害を持った方が様々な過程や段階を辿って、障害を受け入れることを指す。
例えば、交通事故により身体の一部を失ったり、なんらかの理由で社会生活を営む上で必要な能力を失った場合に、人間は一時的な混乱状態に陥ってしまう。それから様々な過程や段階を辿って、その障害を含めて自分自身であることを認め「現在の自分」を受け入れることが障害受容である。
決して、障害を持ってしまったことにより、自分の人生や将来を諦めたり悲観することが障害受容ではない。
これについては、「集団」としてみた多くの研究から、ほぼ6か月までで回復が終了する、ということが「常識」とされ、医療制度上も、6か月以降は維持期とされています。保険「医療」を行う中では、一定の原則が必要ですから、多くの医者がこの基準通りに紋切り型に説明することが少なくないのだと思います。(栗本慎一郎さんは御著書の中でこのような態度を批判されておりました。)また、数年にも渡って、麻痺した手の回復を願う気持ちはよくわかりますが、残った機能を向上させる(例えば利き手交換など)ことに全く目を向けず、そのうち仕事も退職して、病院を転々とすることは、患者さんのためにもならない、と医者が考えるのは悪意があってのことではないと思います。右片麻痺になった書道家が、右手の回復をある時期にあきらめ、左手でもう一度書道をめざし、再度の個展を開いた、という新聞記事が昔ありました。失った機能にこだわることは、人間ですから当然ですし、大切なことではありますが、こだわりつつも残存機能も強化していく方法の方が、患者さん自身にとってメリットも大きく、デメリットを防ぐことにもなると思います。半年のリハビリで、片手動作を習得し、1年後に職場復帰した人と、医学的にはほとんど絶望的な手の回復を願って、2年も病院を転々とした人と、発症後2年の時点での様子を比較すれば、一目瞭然だと思います。「障害の受容」という言葉は、やや安易に聞こえますが、要するに障害をもった状態で最大限前向きに考える「価値の転換」が重要だということです。(もちろん、そんなに簡単なことではありませんし、ある日突然そうなるものではないことは、多くの脳卒中の方のリハビリ経過をみた経験からよくわかっております。)
ここで一つお断りしておかなければならないことは、医学的にみた回復が一定の限界がある中でもさまざまであるということ、さらに、同じ回復の患者さんでも、その希望や期待が千差万別であるということです。ですから、お一人お一人の回復が本当にいつまでなのか、そして、その患者さんの期待していることがどこまでなのかをリハビリ医は見極め、適切な説明をすべきだと思います。たとえば、発症後6か月であっても、もう少し肘が曲がるようになれば買い物などでも助かるのに、と言われる患者さんに対しては、1~2ヶ月の作業療法をやってみましょうか、と言える場合もありますが、ピアノが弾けるようになりたい、と言われた場合には、それは全く無理でしょう、と言わざるを得ないと思います。医学的にはわずかな回復が、患者さんにとってはとても役に立つこともありますし、逆に、医者がすごくよくなったでしょう、と言っても、患者さんにとって、全く無意味であることもあるわけです。
ただし、だからといって研究を怠っているわけではありません。全く腕に動きがない場合は別ですが、ある程度動かせるが「うまく」動かせない程度の方に対して、「残存機能」は麻痺していない方(反対側)の腕、だけではなく、麻痺した腕の中(本当は脳の中)にもあると考えていますです。また、脳は学習する回路ですから、障害があるなりの腕の動かし方を脳が学習する能力があるのではないか、と考えています。個人的には、あまりにも早期にあきらめることには反対です。特に、肩から手先まである程度動かせるけれども、筋緊張が高まったり、動作がぎこちない患者さんの場合、いろいろな課題をこなすことによって、手を使いやすくなるのではないか、と考えています。確かに、反対の健常な手でやった方が、早く解決する場合もあるかもしれませんが、それは問題の本質を取り違えている議論だと思います。
以上、上肢を中心に述べてきましたが、下肢についてもほぼ同様です。ただし、急性期の病院で、十分なリハビリを受けてない場合、廃用症候群(使わなかったことによる筋力低下とか拘縮(関節の固まり)など)を起こしていますので、逆にその時点ではじめてリハビリを受けるのであれば、回復の「余地」がある、ということになります。また、ある程度、歩けるようになった方の場合、慢性期であっても、筋力や体力の面で向上しますので、リハビリの意味はあると思います。
肩の鈍痛のほか,運動が制限され,進行すると外旋運動が害される。痛みは頸部から腕にまで及び,手は赤くはれ,手指の伸展,屈曲が完全にはできなくなる。いわゆる交感性異栄養症の特徴である四肢末梢部の疼痛 (とうつう) ,灼熱感や,関節周辺部の圧痛,腫脹 (しゅちょう) や浮腫を伴い,手指末端は冷感,チアノーゼを呈することもある。冠不全,狭心症,脳血管障害,石灰化腱炎など比較的高齢者に多く見られる疾患が引き金となって起こる。症状の軽い例では自然治癒の傾向があるので,リハビリテーション,温熱療法,ステロイド剤関節注入などを行なう。
舞台の裏方・大道具さんが、
釘やなぐりなどを入れるために腰にぶら下げている道具袋のことを「ガチ袋」と言います。
所詮は他人事の気楽さで、わかりもしねえくせにきいたふうなことを抜かす娯楽の材料として
消費される筋合いはないんだよ。
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月曜日~金曜日の午前8時30分~午後5時(祝休日、12月29日~1月3日除く)
動ラ五(四)]
1 輪状に曲がって巻いている。とぐろを巻く。「―・っている蛇」
2 入り組んで複雑に絡み合っている。「老松の根が―・っている」
3 心に不平・不満・不安などがあって晴れ晴れしない。「不吉な予感が胸に―・る」
4 かがんでうずくまる。また、しっかりと根をはる。蟠踞 (ばんきょ) する。
「あたかも毘留遮那大仏が虚空に―・っているような雪峰で」〈河口慧海・チベット旅行記〉
5 盗んで自分のものとする。横領する。
「主人の金子 (きんす) を―・り」〈浄・歌念仏〉
セザンヌは、若い頃の作品では表情を描こうと努力したが、それゆえに彼は表情を逸してしまった。彼がその後少しずつ学んでいったのは、表情が物そのものの言語であり、物の布置から生まれるという事だった。彼の絵画は、物や顔の相貌を感性的布置の復原によって取り戻す試みである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年8月4日
というけれど、規則正しく寝不足の日々が続いたのである。
死の淵をのぞき込むほど深く長い眠りを貪りたかったのだ。
⑥同じように洗剤騒動の時、メーカーは少しも売り惜しみをしていないし、減産をしている訳でない事をいかに論証しても無駄であった事を、ある会社の社長が「あれにはホトホト弱り果てた」といった口調で話された事があった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年8月4日
⑤戦時中もそうであったが、この事は戦後も変っていない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年8月4日
「大躍進」の時、桶谷繁雄氏が…中国の土法製鋼で鉄ができる筈がない事を論証したところ、総攻撃にあった経験を記しておられる。冶金学者の科学的技術的専門的論証は誰も信用せず、土法高炉が立ち並ぶ壮大な写真に人々は反応する訳である。
妻がしてくれた。嬉しい。ささやかな「未来」が設定されたから。
睡眠は死からの負債である。睡眠は生命を維持するために、死から借りるものである。
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2016年1月4日
代々木から新宿郵便局へ、なんてことを昔は日常的にやっていたのだ。
経済全体が複雑になるほど、我々はますます諸個人の知識の分業に頼らざるをえなくなる。そして諸個人の独立した営みは、その遂行に必要な情報を提供する価格機構という非人格的なメカニズムによって、総合的に調整されるのである。(ハイエク『隷属への道』西山千明訳 春秋社 2008年 p.60)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年8月2日
ギターのスケール練習したように、深夜にひっそり自立歩行の練習をしている。
半側空間無視は,右半球損傷に伴いやすく,損傷大脳半球と反対側の刺激を無視する症状で ある。臨床症状の特徴は,顔や視線が健側を向いている,患側にいる人に気づかない,患側の食事 の食べ残しで気づくことが多い。また読字・書字障害や談話障害などもみられる。半側空間無視の 検査にはBehavioural Inattention TestやCatherine Bergego Scaleなどがある。発現機序には,注意 障害説,方向性運動低下説,表象障害説などがある。また左視野の刺激もプライミング刺激が認め られ,ある程度まで脳内で処理されている。責任病巣は,中大脳動脈,後大脳動脈,前大脳動脈領 域,視床などがある。リハビリテーションは,左側へ注意をうながす訓練や代償を用いた訓練など が報告されている。その要点は,左側にとらわれずに感情的交流を工夫すること,刺激方法に工夫 を入れること,意欲を高めることなどである。これらの注意点を理解した上で,リハビリテーショ ンチームで適切に対応すべきである。
腕の重さは意外にも重いので、麻痺した腕が重力に従って垂れ下がっている状態は、
脱臼をいっそう悪くさせてしまうリスクがあります。ですからその予防のためにも、筋
力を維持・向上させる必要があります。次に、脱臼しやすい肢位について説明致します。肩関節は、解剖学的に外旋(がいせん:野球選手がボールを投げるようなフォーム)と
伸展(腕を後方へ引くような動き)は脱臼のリスクがさらに高まります。日々のリハメニューで下に押し付けられているということですが、筋肉の腱(けん:筋
肉を骨に結びつける組織)が伸びて痛めてしまう場合もありますので、過度に押し付け
るのは避けた方が良いかと思われます。かといって動かさないと関節拘縮(こうしゅく)といって、関節が固まってしまうこと
もあるので脱臼リスクのない方向へ動かすことを推奨致します。動かす方向としては上
記した外旋や伸展方向以外になります。最後にスリングの使用をお薦めいたします。スリングとは脱臼しないように固定するも
のです。固定しておけば脱臼を防ぐことができますし、当人様も腕を吊っているので、
安楽な肢位をとることが出来ます。スリングは福祉用具の専門店にてご購入いただける
かと思います。
残り火だけじゃとても寒すぎる ひとりぼっちじゃ なお辛すぎる
チラシだったり、台本だったり、図面だったりは、深夜、セブンイレブンに持ち込んでメール便で発送したもんです。
⑪いうまでもなくこれは、自己の絶対化と討論の拒否である。
そしてこの自己絶対化は、まず自己の掲げる(もしくは「売る「思想」乃至は「個人」を絶対化し、それへの批判を許さないことによって自己を絶対化し、自己の基準を一方的に相手に強要するために行われる。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年8月1日
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