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古代ギリシアの民主政治において,その声望および弁舌によって民会の決議に影響を与えて,政治を左右する者,つまり「民衆の指導者」を意味したのが原義であるが,現代では刺激的な弁舌,文章によって大衆を政治的に動員する扇動政治家をいう場合が多い。デマゴーグによって,特定の政治目的のために意図的に捏造され,流布される虚偽の情報がデマゴギーであって,一般にデマと略されている。
エラソーに絡んでくんなよ。
飯を食わなきゃいいという理屈。くだらない。
なんてものはたいてい「その方が自分にとって都合がいい」ってことに過ぎない。
■山本七平botまとめ/『虚構が事実として通用してしまう背景にあるもの』~「慣用的表現」と「一方的断定」の相互作用~ https://t.co/TtJ4GI9CpT
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月30日
よりすぐりよいものの中から、さらに選び抜かれたもの。えりすぐり。
まず車イスは歩行者でしょうか?それとも軽車両でしょうか?
答えは歩行者です。
次に電動車イスは歩行者になるでしょうか。
そうです。電動であっても車イスなので歩行者とみなされます。
したがって、走行する道は歩道です。
物理的に難儀なのだ。電子書籍を活用するか。
生産性はより少ない労力と投入物(インプット)でより多くの価値(アウトプット)を産みたいという人間の考えから生まれてきた概念である。リソースとリターンの関係性とも理解される。
生産性=アウトプット/インプットより少ないインプットからより多いアウトプットが得られるほど、より生産性が高いという関係にあることがわかる。
古河記念講堂(ふるかわきねんこうどう)は、北海道札幌市北区北9条西7丁目にある北海道大学構内の建造物である。日本国の有形文化財。 北海道大学内の施設であり、「古河講堂」とも呼ばれる。古河家寄付記念事業の寄付金によって建てられた教室の中で、唯一現存している建物。 足尾銅山で利益をあげていた古河財閥が足尾鉱山鉱毒事件の償いの意味を含めて寄贈した。
現在は文学研究科の校舎として使用しているため、内部に入れるのは北大関係者のみとなっている。外観は見学自由。
全体的にフランス・ルネサンス風にまとめられており、建物の各部に華麗な意匠が見られる [2]。 しかし外壁が下見板張りであったり、主棟が切妻造りになっているなどフランス・ルネサンス方式には見られない特徴が見られ、 様々な特徴を雑多に組み合わせたアメリカン・ヴィクトリアン様式であるともいわれている [3]。 中央に入り口があり、左右に翼部が伸びている構造を持つ。 文科省技師の新山平四郎が設計。 中央部にかつて時鐘が取り付けられていた小塔が設けられている。 林学教室だったことから随所に「林」という文字が施されている。 玄関中扉の欄干に「林」の文字がデザインされている。
1965年の大学施設配置図に初めて「古河講堂」と名付けられたが登録有形文化財答申の際に誤って「記念」と加えられ、現在に至る。
https://kotobank.jp/word/巧遅は拙速に如かず-496510
《「文章軌範」有字集小序から》仕事の出来がよくて遅いよりは、出来はわるくとも速いほうがよい。
論争家は前もって確保し決して自分が疑ってみようとはしない特権を身に纏って進み出る。論争家は戦争に参加し、その戦争を正義の企てにする権利を原理として所有している。彼が相手にしているのは真理を探求するパートナーではなく、[…]その存在自体が脅威的な敵対者です。-論争・政治・問題化-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年7月30日
論争家つうか、んなもん、詭弁家にすぎないけどね。
その芸のなさに辟易する。
単純化された図式にモノゴトを押し込めて考えたがる阿呆がなんだってこうも多いのだろうと思ったが、むしろ考えなしの阿呆が根拠に乏しい自説の正当化を図るために通俗的で単純化された図式のストーリーを活用したがるらしい。
通俗性と大衆性の区別は、もつとはつきりさせねばならぬが、これは簡単に通俗性とは、芸術的教養なき一般俗衆に、安価な興味と感激を強ふる体の要素を盛つたもので、大衆性とはかかる俗衆の意味でなく、階級としての一社会層の意欲並に好尚を目標とし、人間としての素朴にして健やかな感性に愬へ得る単純明朗な芸術的要素を主とするものであるとしておかう。
ところで、大衆的ならんとして、通俗性に陥ることがある如く、通俗的なるがために屡々陥るところの悲惨は、それが大衆的ならざることであり、同時に、真の意味の普遍性を失ふことである。
つき合わされるのが死ぬほど嫌いなんだよ。
平等と自由とは、同一の基礎的な価値観、すなわちすべての個人は、それ自体として究極的な目的とみなされなくてはならない、というひとつの楯の両面だ(M&R・フリードマン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年7月29日
使いにくくなってしまったんだ。
ゴミ回収業者をあれこれと比較検討していたのだな、ということがLINEの投稿でわかった。
マンションの役員をやったご近所さんと廊下で会って挨拶した。何年ぶりだろう? べつに用事があったわけでも、とくに会いたいと思っていたわけでもないけれども、こんな些細なことが嬉しい。
③しかしその「悪法」すら実質的になくなってしまうと、人は「正義」の名のもとに一種の集団ヒステリーによって簡単に殺されてしまうのである。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月29日
悪法でもやはり法には「法の保護」がありうる。
しかし「集団ヒステリーの保護」はありえない。
⑮従って虚報をごまかす為「目的語」がわざと省略してあれば、そこに非戦闘員という目的語を知らず知らずの内に挿入して読み込んでしまう。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月28日
常識からいって、これは当然のことなのである。
②本多記者の「殺人ゲーム」では、ベンダサン氏が指摘したように武器が欠落しており、武器を記入するとこの文章が成り立たなくなる訳だが、浅海特派員の「百人斬り競争」でも、ある言葉を故意に欠落させてあるのである。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月28日
それは「目的語」である。
『オトカ』のチラシに使う写真素材を探してるとき、たまたま見つけて立ち寄ったのだった。もう一度行ってみたいと思うけど、地面も舗装されてないし、ちょっと無理か。
道路が平らじゃなくて、車椅子だと難儀する。
レンタル屋にないんだよなあ。
アズノールとラシミールが出てきた。
どこへも行かないよ 君がうれしいと思う事 この手でたくさん あつめてあげる あいしてる
— moumoon 歌詞bot (@moumoon_lyric) 2018年7月27日
沁みるとか癒やされるいうより胸締め付けられる。 とてもいい歌。
視覚や触覚などの感覚には異常がないにもかかわらず、自分の身体やその部分を認知できない状態。頭頂葉の障害によって起こり、身体の両側に起こるものと、片側に起こるものがある。
後遺症は、脳出血によって脳の障害を受けた部位によって異なります。(脳出血・くも膜下出血・脳梗塞の後遺症は共通しています。)
1.運動の障害
脳出血の後遺症の中でも代表的な症状が片麻痺です。運動にかかわる神経が妨げられて片方の手足に麻痺が起こる状態です。損傷を受けた脳とは左右逆側の手足に麻痺が出現します。麻痺の程度は、軽度のものから重度のものまでさまざまです。軽度であれば完全に麻痺が回復する場合や機能的に問題がなくなる場合もあります。しかし、さまざまの程度の麻痺を残す場合があり、下肢の麻痺について述べると、歩行につえや歩行器を要したり、筋力を補完するための装具を要したり、移動に車いすを要する場合などがあります。
2.発声や嚥下(えんげ)の障害
脳出血により運動障害がおきるのは、四肢だけではありません。声を出したり、物を飲み込んだりする時に動くのどの筋肉も影響を受けることがあります。脳出血により喉の筋肉の動きが悪くなると、発声や嚥下がうまくできなくなり、いろいろな対策が必要になります。嚥下がうまくできないと、口に入れた食べ物やつばが気管支や肺に入ってしまい、生命にかかわる肺炎を起こす危険性があります。そのため、のどを通らずに食べ物を胃に入れるための「胃ろう」というチューブを腹の表面から胃に通すこともあります。
3.言語の障害
左脳に言語中枢があるため、左脳の脳出血により言語の理解や表出(話すこと、書くことなど)が不自由な失語症になることがあります。失語症の代表的なものを挙げると、他人が話すことは理解できるが自分が考えていることを流暢に話せない「ブローカー失語」や他人が話すことが理解できず自分が話す言葉が意味を成さない「ウエルニッケ失語」、言葉を理解することも話すことも出来ない「全失語」などがあります。
これらの失語症は、リハビリテーションにより改善することも多いので、じっくりとリハビリテーションに取り込むことが必要です。
スマホで時刻を確認すると4時55分。驚きはない。
入院中は、トイレに起きて、明け方だと思っていたら、食堂の時計が深夜十二時前を示していたり、なんてことがよくあった。部屋に窓がないからだ。
中に何か入っていると思うのだけど、何が入っているんだか、開けてみることすらできないからわからない。こんな己の存在を持てあましてしまう。
である事実は変えられない。ならばせめて少しでも軽い荷物になりたいと願う。
感嘆詞,感動詞とも呼ばれる。話し手が,驚き,喜び,悲しみなどの感情を,直接表現するときに用いる単語。日本語の「あっ」「やれやれ」などがそれにあたる。自然に口をついて出る言語音という性格をもつものが多いので,品詞としては周縁的位置を占めるが,各言語には,かなり固定して頻繁に用いられる間投詞が存在する。特に,かけ声や呼びかけ,挨拶語 (これらも間投詞に含めることがある) になるとそうである。文法的な性質としては,孤立的で他の文構成要素と統合されず,他の語を修飾したり他の語から修飾されたりしないことが特徴的である。
感応精神病一人の妄想がもう一人に感染し、複数人で同じ妄想を共有することが特徴である[1]。
同一の妄想を二人以上で共有する場合はfolie à trois(三人狂い)、folie à quatre(四人狂い)、folie en famille(家族狂い)、folie à plusieurs (多人数狂い)などとフランス語では呼ばれるが、英語または日本語では何人であっても「フォリアドゥ」と呼ばれる。精神医学における最新の分類では共有精神病性障害(DSM-IV、297.3)または誘導妄想性障害(ICD-10、F.24)の名称が使用されるが、一般的な文献では旧来の「フォリアドゥ」の名称が使用される。最初の症例は19世紀にフランスの精神科医 シャルル・ラゼーグ(fr:Charles Lasègue)とジャン=ピエール・ファルレ(fr:Jean-Pierre Falret)によって報告されたため、かつては「ラゼーグ・ファルレ症候群」(Lasegue-Falret syndrome)とも呼ばれた[2][3]。
日本では1904年に森田療法で知られる森田正馬が土佐のとある山村における犬神憑きの感染について報告した「精神病の感染」が初出。
赤ちゃんは全身に筋肉がついてくるとハイハイを始め、早いと生後7ヶ月頃からつかまり立ちをするようになります。
そして、生後8ヶ月頃から、テーブルやママの肩などを支えに、赤ちゃんは伝い歩きを始めます。
しかし、つかまり立ちや伝い歩きといった赤ちゃんの成長には個人差があります。
次のステップに進まずに、つかまり立ちを生後10ヶ月過ぎくらいまで、伝い歩きを1歳過ぎまでしている赤ちゃんも珍しくありませんよ。
つかまり立ちや伝い歩きなどが進むと、赤ちゃんはやっと支えなしで1人で立つことができるようになります。
そこから赤ちゃんの力だけで1歩踏み出すことができれば、歩く準備ができた証拠です。
更新したいんだ。
工事が7月28日(土)に決まった。
ドイツの詩人,植物学者。本名 Louis Charles Adélaïde Chamisso de Boncourt。フランス貴族の出身で,大革命のため9歳のとき家族とともにベルリンに亡命。軍人となり対ナポレオン戦争に参加。 1812年ベルリン大学で自然科学の研究を始め,14年ロマン的な作風のなかに写実的志向をひそめた小説『ペーター・シュレミールの不思議な物語』 Peter Schlemihls wundersame Geschichte (1814) で文名を確立した。 15~18年世界探検隊に加わり,大西洋,カムチャツカ,太平洋を航海し,『世界周航記』 Reise um die Welt (21) を残した。帰国後,ベルリン植物園監督をつとめた。その後もドイツ,フランスの間を往復して活躍,フンボルトの推薦で科学アカデミー会員となったとき,ハワイ語の研究論文を発表したほど多才であった。詩集『女の愛と生涯』 Frauenliebe und Frauenleben (30) はシューマンの作曲で有名。詩『ボンクール城』 Das Schloss Boncourt (27) は故郷の居城を追憶したもの。
これこれ以上何を失えば心は許されるの。
マリーナ・アブラモヴィッチ 彼女のパフォーマンスの多くは、ヨシップ・ブロズ・ティトーの共産主義体制からの解放など、社会・政治問題を提起するものである。自己の身体を表現手段にし、時に自身の生理学的限界を超えようとする手法をとる。1974年の「Rythme 5」では、ガソリンを燃やして共産主義の象徴である赤い星を作り、その炎のなかに横たわって政治的メッセージを表現しようとした。その際、酸素不足から意識をなくし、あやうく命を落としかけた。1975年にインスブルックで行った「Thomas Lips」では、自らの腹部に剃刀の刃で切りつけ、その傷で赤い星を描いた。この後、体に数十回にわたって鞭を打ち、十字架をかたどった氷の塊に全裸で横たわり続けた。この時も途中で意識を失い、危険を察知した観客にパフォーマンスを中断させられている。 また、文明という仮面の下に隠れた人間の暗部を浮き彫りにしようともしている。有名なものでは、1974年の実験的パフォーマンス「Rhythm 0」が挙げられる。アブラモヴィッチは観衆の前に身をさらし、観衆に72の道具(口紅、香水、はさみ、ナイフ、鞭、注射器など)を与え、6時間にわたって彼女の体に対して意のままにそれらの道具を使わせた。次第に観衆の自制心が薄れていき、彼女の服を引き裂く、叩く、血を飲むなどの欲動に走り始め、遂には装填した銃を身につけた男が彼女を脅かすまでにいたり、他の観客が止めに入ったほどだった。演者と観衆との係わり合いは、その後も彼女の作品の重要なモチーフのひとつとなっているが、観客にパフォーマンスを全面的にコントロールさせることはこれ以降なくなった[1]。 前述のウライとの二人組みで行ったパフォーマンスシリーズ「Relationworks」では、1988年の「The Great Wall Walk」と称したシリーズ最後の作品が最も話題になった。これは、万里の長城の両端からそれぞれ出発した二人が、3カ月かけて1000キロを歩き続け再会を果たすというものだった。
価値観が相対的なものにすぎないのだから、どんなに己の「正義」を強調したところで相対化されてしまうのは当然だ。その文脈上にアプリオリな「正義」などありゃしないのだ。
自分の側に「問題」があるとは考えないオメデタさよ。
円借款とは、開発途上国に対してインフラ整備などのために低利かつ長期の緩やかな条件で、開発資金を貸し付けるもの。貸し付けは独立行政法人国際協力機構(JICA)が日本政府の代わりに実施している。円借款は政府開発援助(ODA)の一部で、ODAの中にはほかに無償援助や技術協力が含まれる。かつての円借款(有償援助)は、海外経済協力基金(後の国際協力銀行)が行い、無償援助や技術援助は国際協力事業団(JICA)が行っていた。つまり、ルートが二つの機関に分かれてバラバラだった。
そのため、円借款と無償援助・技術協力を一本化する構想は以前からあったが、海外経済協力基金が大蔵省からの天下り先であったために実現しなかった。むしろ、大蔵省は海外経済協力基金をとられまいとして、これも有力な天下り先である日本輸出入銀行と統合させ国際協力銀行とし、実質的に二つの総裁ポストを温存したくらいだ。さらに、新たにできた国際協力銀行が円借款と国際金融業務を同時に行うこととなり、「経済援助と商業融資の混在」として国際社会で問題にもなった。
生産性は「アウトプット(産出量)をインプット(投入量)で割った」計算式で算出されます。
脳卒中や交通事故などによる脳の損傷が原因で、脳の機能のうち、言語や記憶、注意、情緒といった認知機能に起こる障害を高次脳機能障害と言います。注意が散漫になる、怒りっぽくなる、記憶が悪くなる、段取りが悪くなる、などの症状があり、全国に50万人くらいと推定されています。
http://www.keiman.co.jp/brain
民主主義が、確立したルールでは制御できないような、権力の使用を必然的に含む活動を行おうと決定するならば、まちがいなく民主主義そのものが恣意的な権力となるのである。(F・A・ハイエク『隷属への道』西山千明訳 春秋社 2008年 p.89)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年7月21日
作品を先回りして「読み」、ああじゃねえこうじゃねえと勝手に「提言」してくる。ナニサマのつもりだよ? バカじゃねえのか。
文学的な表現において,心象 imageを利用して,説明,記述をわかりやすくし,強調や誇張の効果をあげるために,類似した例や形容で表現すること。直喩 simile,隠喩 metaphor,換喩 metonymy,提喩 synecdoche,奇想 conceitなどに分けられる。〈譬喩〉とも書き,単に〈喩〉ともいう。なぞらえ,見立て,喩えを用いる言語表現の総称で,西洋レトリック用語の〈転義trope〉ないし〈転形scheme〉にほぼ相当する。すなわち,〈ある事物に対し別の事物の名称を与えること〉(アリストテレス)。以下のような種類がある。1.直喩(シミリsimile) 二つの事物の類似性の明示的な表現。〈カモシカのような脚〉。2.隠喩(暗喩,メタファーmetaphor) 二つの事物の類似性の暗示的な表現。〈言葉の錬金術〉。3.換喩(メトニミーmetonymy) 〈舌〉で雄弁を表すなど,ある事物の隣接する別語による表現。4.提喩(シネクドキsynecdoche) 〈帆〉で船を表すなど,部分をもって全体を,種をもって類(あるいはこの逆)を示す表現。5.諷喩(アレゴリーallegory) 隠喩の連続による表現で,ことわざに多用される。
一面的価値観に基づく「べき論」など、思い上がりも甚だしい。
と思い、ピタパタの公演履歴を調べた。
アトリエ第七秘密基地で『痕-KON-』をやったのが2014.10.10~13で、このときすでに『風待ち』@ブローダーハウスで使用する動画を撮り終えていて、空き時間に試写をしたのだから、2014年の夏だ。義母の七回忌だった。
理学療法室の窓から見えるなんてことない景色が,、近い将来、懐かしく思い出されるのだろうだろうと思って眺めていた。退院時に、写真を撮っておこうとしたのだけど時間がなかった。後日、病院名でググったら、グーグルマップであっさり写真が見つかった。
あんたの理屈でいえば、あんたへのその誹謗中傷も「ありがたいご忠告」ってことになるだろ。自分の口から出た言葉を自分自身に向けてみろよ。
新宿へ行こうとすると、空いてる各駅停車に乗せられる蓋然性が高いのだな。各駅停車で新宿は遠いぞ。 首都圏でさえこれである。 群馬への帰省なんて相当ハードル高い。
㉔自己を絶対化し、あるいは絶対化したものに自己を同定して拝跪を要求し、それに従わない者を鬼畜と規定し、ただただ討伐の対象としても話し合うべき相手とは規定しえない。
結局これが、フィリピンにおける日本軍の運命を決定したといえる。— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月16日
⑬言うまでもない事だが、同一主義者集団…の内部なら
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月17日
「反省をしろ」
「自己批判をしろ」
という言葉はある程度は成り立ちうる。
この場合はあくまでも「同一主義に基づく共通の尺度を相互にもっている」事が前提である。
ところが「商業軍国主義者」にはこの見境が全くなかった。
⑫反省の強要または自己批判の強要――これは同じ事と思うが、――は、いわば「拷問による自白」や「詐術もしくは誘導による自白」と同じで、その言葉自体が内に含む矛盾からは意味をなしていない。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月17日
高血圧の治療においては食塩制限が重要で,日本高血圧学会は1日6g未満を推奨しています。
http://www.jpnsh.jp/com_salt.html
一面的価値観に基づいてなんでもかんでも善悪に回収して自説を正当化しようとするから無理が生じるんだよ。
善くもないが悪いってほどでもないってことが世の中にはゴマンとあるんだよ。
われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義してくれているものを拾い上げる。(W・リップマン『世論』(上)掛川トミ子訳 岩波文庫 1987年 p.111)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年7月16日
しかし自分だけはそうではないという根拠不明の思い上がりをする者がある。そういうj自己相対化能力の欠如したのが、謎ルールに基づくきいたふうな「提言」(クソリプ)をし、相手を自説に従わせたがるのだ。
ビンスワンガーの『夢と実存』が夢の中に明らかに浮かび上がらせたのは、実存の運動が実存を病的主観性の内に疎外する心像と、実存が客観的歴史の家で己を完成する表現との決定的な分岐点を見出す根本的瞬間である。-ビンスワンガー『夢と実存』への序論-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年7月15日
ここにあるこれらは私のためのいくつもの階段であった。私はそれらを登って越えてきた。このために私はそれらの上を飛び越えてこなくてはならなかった。ところが、階段の方では、私がそこに腰を落ち着けて休息しようとしているのだと考えていたのである。……-偶像の黄昏-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年7月15日
そこから距離を取ってる自分をアピールしたいがための陳腐な露悪も
くだらないい自己愛の発露という点で同じである。
脳梗塞と脳出血は、ともに脳血管の異常によって起こる病気で、これらを合わせたものが一般に脳卒中といわれています。脳梗塞は昔は脳軟化といわれ、脳出血は脳溢血といわれていました。 脳卒中は日本の厚生省の統計では脳血管疾患として分類されています。以前は日本の国民病といわれるほど多いものでしたが、その後徐々に減少してきました。しかし現在も悪性新生物(癌)、心疾患、肺炎に続き、我が国の死因の第4位を占める重大な病気です。脳出血は脳内出血とくも膜下出血があります。
。脳出血は一般的には高血圧性脳出血を指しますが、若い人の脳出血は脳動静脈奇形(AVM)からの出血が多く、高血圧性脳出血とは全く違った病気です。高血圧性脳出血は高血圧と動脈硬化が起こる年齢、つまり50歳台から増えてきます。動脈硬化により脳の細い血管に変化が起こりそこから出血するものと考えられています。しかし日本では食生活の改善や降圧剤による高血圧の管理が行く届くようになり、重症の高血圧性脳出血は劇的に減少しました。高血圧性脳出血の起こる場所はほぼ決まっています。
大脳の中の方にある被殻(ひかく)に出血するものが最も多く全体の60%を占めます。次に多いのが視床(ししょう)出血で15%、小脳出血が10%、脳幹部の橋(きょう)という場所の出血が5-10%です。その他に大脳半球の表面に近い部分に出血する脳葉出血がありますが、これはAVMや脳動脈瘤の破裂、その他の血管奇形を伴うことが多く、また老人のアミロイド血管障害という病気のときもあり、高血圧性とは一概にいえません。出血部位の頻度は統計により違いますが、被殻出血がもっとも多いことには変りなく、最近では高齢者の視床出血が増えているようです。
脳出血は1日の内で血圧がもっとも高くなる朝10-12時頃に突然発症することが多く、発症から1-6時間ぐらいのうちに出血は止まりますが、30%は重症で、発症から一時間程度で意識障害が進行し、死に至るものもあります。
に基づく自説の絶対化。
その独善性に気づかぬ愚かさよ。
本当はわかってるの 明日などありゃしないと ふたり今を生きて 朽ち果て死に絶える
M.ウェーバーが『職業としての政治』で用いた言葉。相対立する基本的な倫理的態度。心情倫理では,おのれの信じるがままに行為することが価値であり,その結果が悪くてもその責任は社会や神に帰せられる。責任倫理では,行為の結果について予見し,そのうえに立って行動し,結果には責任を負う。この2つの態度は,ウェーバーでは目的と手段の関係とからめて問題にされ,いかなる目的が危険な手段を正当化するかを決しうる倫理は存在しないとしつつ,両者の相補するところにあるべき姿をみている。倫理学的には,この2つは動機説と結果説の対立にほぼ応じる。
アメリカ人の生活に広まる不平等を懸念する理由には、より重要なものがもう一つある。貧富の差があまりに大きいと、民主的な市民生活が必要とする連帯が損なわれるという理由だ。(マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』鬼澤忍訳 早川書房 2010年 p.342)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年7月13日
https://www.shikin-plan.net/category/1928730.html
定資産とは、一般的に 1 年以上の長期にわたって使用又は利用する目的で保有する資産をいい、法人税法では、棚卸資産、有価証券及び繰延資産以外の資産のうち次に掲げるものと規定されています。
①土地
②減価償却資産
③電話加入権
④上記の資産に準ずるもの
上記のうち、減価償却資産とそれ以外の非減価償却資産について資産内容によって区分されます。
過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと堕ちていく存在者の背後で、また日々に解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。まるで情け容赦もない証人のように。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年7月13日
さらにハイエクは「法の支配」は立憲主義的原理に組み込まれていると考えた。彼の思想における立憲主義とは、全ての権力を「原理」によって制限することである。その中でもとりわけ、権利保障と権力分立を重要視し、これらを盛り込んだ成分憲法典による立法権の制限が必要であるとする。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年7月13日
借りを妻にを作って一緒にどこかへ出かけたい。たいして面白くもないところでいいんだ。むしろそういう退屈な時間を共有したいんだ。
ハイエクにとって「自由な社会」とは共通の目的が存在しない多元社会のことである。このような状態の下で人々が平和的に共同するためには各人の所有を保障する法の存在が欠かせない。すなわち全ての人々の同一の自由を保障する「法の下の自由」の実現である。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年7月12日
傾斜地崩壊危険区域とは、がけ崩れにより相当数の居住者等に危害が生ずるおそれがある急傾斜地と、がけ崩れが助長・誘発されないようにするため、切土、盛土など一定の行為を制限する必要がある土地で、都道府県知事が指定した区域です(急傾斜地法3条)
「国家の三要素」とは、国境によって他国と明確に区分された固定的な領域と、領域内に定住し「同じ国家の一員である」という意識を共有する国民、国民を統率する独立した最高統治権力すなわち主権のことである。以上の三要素から国家が構成されるという考えを国家三要素説という。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年7月11日
chance(好運)はéchéance(何かが偶然に舞い込む事)と同じ語源(cadentia=落下)を持つ。chanceは、偶然にやってくるもの、落ち来るものなのだ。それは偶然の出来事、賽の落下である。このことから私は次のような滑稽な考えを抱く。即ち超キリスト教の提示だ!『好運』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年7月11日
ガンガンぶつけまくっている。動かぬのならいっそ切断してしまえればどんなに楽かと思う。
車椅子を軽量タイプに換えてもらった。
以下リンク先でお買い求めいただけます。(上演用台本は完売しました。戯曲の販売はリンク先にオンデマンド出版を委託しています。ピタパタでの取り扱いはございません)
http://www.web-matsumoto.com/cargo/display/details.cfm?gid=30015696
針小棒大、牽強付会による謎ルールの絶対化。こんなもんにはつきあうだけ時間の無駄である。
作家・演出家から公演の案内を頂いた。
観たいのは山々だけど、ちと無理だ。
一般に「道徳的価値」「美的価値」などと使用されるが,さまざまな意味をもっている。 (1) 哲学的には,人間主体の欲求や関心に対して対象のもつ意味をいい,それゆえ欲求や関心の度合いにより価値は相対的なものともなる。欲求や関心の種類に応じて,経済的,宗教的,理論的,道徳的などの価値に分けられる。古来,真,善,美,有用性などが哲学上の絶対価値とされてきた。経済学においては有用性の面から物の価値がはかられ,生存における直接的有用性から評価される使用価値と,他の財との相対関係においてもつ交換価値に分けられる。これらの価値の成立,諸価値の体系化を試みる学を価値論 (→価値学説 ) と呼び,価値一般,すなわち真善美などの絶対的価値との関係においてなされる判断を価値判断という。後者は事実判断に対する語。 (2) H.ラスウェルによれば,Aが価値Vに関し,これをBに対して付与ないし剥奪できるとき,AはBの行動様式を支配できるとされている。したがって価値は人間の行動を左右する規範的基準である。この意味で政治とは価値の権威的配分であるといえる。政治において配分される価値は経済的価値 (富) ,社会的価値 (名誉) ,権力という価値である。そしてこの配分の仕方が政策となる。
http://keishuku.jp/rehabili/kata.html
幸いにして痙縮の症状はないのだけど、自己流でストレッチしてるだけってのもちょっと心配で、だから専門のセラピストのマッサージを近所で受けたいとも思うわけだよ。
https://www.my-kaigo.com/pub/individual/byouki/cat8/0050.html
1.運動の障害
脳出血の後遺症の中でも代表的な症状が片麻痺です。運動にかかわる神経が妨げられて片方の手足に麻痺が起こる状態です。損傷を受けた脳とは左右逆側の手足に麻痺が出現します。麻痺の程度は、軽度のものから重度のものまでさまざまです。軽度であれば完全に麻痺が回復する場合や機能的に問題がなくなる場合もあります。しかし、さまざまの程度の麻痺を残す場合があり、下肢の麻痺について述べると、歩行につえや歩行器を要したり、筋力を補完するための装具を要したり、移動に車いすを要する場合などがあります。
2.発声や嚥下(えんげ)の障害
脳出血により運動障害がおきるのは、四肢だけではありません。声を出したり、物を飲み込んだりする時に動くのどの筋肉も影響を受けることがあります。脳出血により喉の筋肉の動きが悪くなると、発声や嚥下がうまくできなくなり、いろいろな対策が必要になります。嚥下がうまくできないと、口に入れた食べ物やつばが気管支や肺に入ってしまい、生命にかかわる肺炎を起こす危険性があります。そのため、のどを通らずに食べ物を胃に入れるための「胃ろう」というチューブを腹の表面から胃に通すこともあります。
3.言語の障害
左脳に言語中枢があるため、左脳の脳出血により言語の理解や表出(話すこと、書くことなど)が不自由な失語症になることがあります。失語症の代表的なものを挙げると、他人が話すことは理解できるが自分が考えていることを流暢に話せない「ブローカー失語」や他人が話すことが理解できず自分が話す言葉が意味を成さない「ウエルニッケ失語」、言葉を理解することも話すことも出来ない「全失語」などがあります。
これらの失語症は、リハビリテーションにより改善することも多いので、じっくりとリハビリテーションに取り込むことが必要です。
4.失認、失行
脳は、視覚や聴覚などさまざまな感覚により得られた周囲に関する情報を統合し、空間や状況を意識したり、状況を判断したり自らの行動をうまく行なうための調整をする機能を持っています。そのため、それらが損なわれた場合、失認、失行といった症状が現れます。
失認は大脳の一部が破壊されることで、感覚器は完全なのに、対象となる事物を認識できない状態で、失認でよくみられるのは、左半側空間失認です。自分からみた左側半分の空間が認識できず、左側にあるものを無視します。そのため、左にあるものにぶつかることや食事の際は食器の右半分のものだけを食べることがあります。失認がみられる場合、家族は患者さんが左側を認識できないということを念頭に入れて接することが大切です。
失行とは、手足などの筋肉が麻痺しているわけではないのに、ある行為がうまく行えなくなる症状です。例えば洋服を着られなくなる、コインをつまんで取り上げられなくなることなどがあります。
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1 手足。「肢体/下肢・義肢・四肢・前肢」
2 本体から分かれ出たもの。
国民〔ネーション〕とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に〔国境によって〕限定され、かつ主権的なもの〔最高の意思決定主体〕として想像される。(ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』白石さやほか訳 NTT出版 1997年 p.24)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年7月6日
パラノイア,妄想症とも呼ぶ。妄想体系が潜行的に発展する状態。そのほかの精神症状は伴わない。つまり,普段は思考意志,明晰で秩序のとれた行動を保っているが,いったん妄想が始ると,攻撃性,不機嫌,猜疑的な傾向が現れる。妄想体系は,基本的に被害か誇大かの2方向を示す。 19世紀にフランスで用いられたモノマニーという概念をさすこともある。これは部分的妄想ともいわれ,行動様式や妄想はきわだって病的であるが,他の面での障害はないものをさした。
戯れ言に付き合う余裕はないんだよ。
い【居辛い】[形] 気持ちが落ち着かない。(体の一部に小物体が触れるなどして)不快である。「目にごみが入ったみたいでいずい。」〈全〉
⑨一体なぜ、甚だ茫漠として明確でない自己の概念――というより妄想を絶対化するのか。
「アメリカはアジアの心を知らなかった」と言うなら、そう言う人は「アジアの心」とやらを本当に知っているのか。
そしてそれは、その心を探し求めて、全アジアを経めぐった上で形成された概念なのか?— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年7月6日
レコード盤に針を落とすプツッという音、楽曲の背後で鳴り続ける針と溝の作る音、それら雑音込みでの楽曲の味わい深さというのがある。そこから楽曲を取り除き、雑音のみを味わいたいといういわばフェティシズムだってあるわけだ。
「無感動とは、至上者であることを選んだ人間に適用される否定の精神である。それは言ってみれば、エネルギーの原因でもあり原理でもある。」(モーリス・ブランショ)
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年7月6日
病気やケガなどの治療のため、長期間にわたって安静状態を継続することにより、身体能力の大幅な低下や精神状態に悪影響をもたらす症状のことをいいます。
廃用症候群の進行は速く、特に高齢者はその現象が顕著です。1週間寝たままの状態を続けると、10~15%程度の筋力低下が見られることもあります。
さらに、気分的な落ち込みが顕著に現れてうつ状態になったり、前向きに取り組むやる気が減退したりと、精神的な機能低下も見られます。
似たような症状に「ロコモティブシンドローム」(運動器症候群、通称「ロコモ」)があります。
これは高齢化社会を迎え、国が「メタボリックシンドローム」(メタボ)の次に国民に浸透させようとしている言葉です。
ただし、ロコモは「足腰の衰えなどが原因で、日常生活に支障を来している状態」のことを指し、原因には主に「加齢による衰え」や「筋肉・関節・骨など運動器自体の病気やケガ」が挙げられます。したがって、廃用症候群とは異なるものです。
脳卒中や交通事故などによる脳の損傷が原因で、脳の機能のうち、言語や記憶、注意、情緒といった認知機能に起こる障害を高次脳機能障害と言います。注意が散漫になる、怒りっぽくなる、記憶が悪くなる、段取りが悪くなる、などの症状があり、全国に50万人くらいと推定されています。
高次脳機能障害の発症の原因は、8割が脳卒中(脳梗塞、脳出血、くも膜下出血などの脳血管障害)、1割が交通事故などの脳外傷によるものです。その他にも 脳炎、窒息や心筋梗塞から起こる低酸素脳症、脳腫瘍、てんかん、正常圧水頭症、パーキンソン病などによる脳の損傷で発症することもあります。
高次脳機能障害は外見からはわかりにくく、病院や診察室では気づかれずに、実際の生活や社会に戻って初めて問題が顕在化することが少なくなく、「見えない障害、隠れた障害」などとも言われます。
高次脳機能障害の診断は、症状の確認、それを説明できる頭部MRIやCTなどの画像所見、障害を裏付ける神経心理学的検査の結果などによって行われます。
を満たすために彼は利いたふうな口をききたいのだ。そのために対象を消費する。
文芸理論の用語。物語の意。1960年代、フランスの構造主義を中心に、文化における物語の役割についての関心が高まった。その過程で、「ストーリー」とは異なる文芸理論上の用語として「ナラティブ」という言葉が定着した。
物語に関する理論的探究は、アリストテレスの『詩学』にまでさかのぼることができるが、20世紀のロシア・フォルマリズム、および構造主義では、さかんに物語構造についての研究が行われて、やがてナラトロジーnarratology(物語学)という独立した分野を成立させるにいたった。ナラトロジーは、物語を、その物語内容storyと語り方narratingの双方から、またその相互作用において研究することを目的とし、物語を、始点、中間点、終点を備えた一体性をもった言葉の集合であり、何らかの事象の再現行為であると考える。例えば「水は二つの水素原子と一つの酸素原子からできている」という言明は、事実の叙述であって、時間的な経過をともなった事象の再現ではないが故に、物語ではない。一方、「やがて雨が降り出した」という文は定義上物語である。ナラトロジーは、主に詩や小説といった文芸作品を対象に精緻な分析を行うことで、時制、叙法、態といった多くの理論装置を生みだしたが、そこに共通しているのは、物語に普遍的な構造への関心、語り手の位置、語りが生みだす時間などへのこだわりである。論者によってその理論は大きく異なるとはいえ、総じて物語の内容以上に形式に注意を向けているといってよい。代表的な研究者としては、ロシアの民話が31の類型へと還元しうることを示したウラジミール・プロップVladimir Propp(1895―1970)、現象学的な観点からわれわれが時間を経験する形式として物語をとらえたポール・リクール、プルーストなどを素材に語りの構造がいかに作品の独自性を生みだすかを問題にしたジェラール・ジュネットなどが挙げられる。
しかしナラトロジーが、民話学、記号学、レビ・ストロースによる神話の構造分析など他領野の強い影響のもとに成立したように、ナラトロジーの影響も文芸理論の分野だけにはとどまらなかった。『物語の構造分析』Introduction l'analyse structurale des rcits(1966)を書いたロラン・バルトが、同時に『神話作用』Mythologies(1957)で消費社会に潜む多様なナラティブ(神話)のあり方を分析してみせたことが示すのは、ナラトロジーが当初から、言語に限らないあらゆる領域におけるナラティブを問題にしようとしていたことである。1970年代以降、文化を意識されないナラティブ(神話、イデオロギー)の集合としてとらえ、その機能のさまを明らかにしようという潮流が広がった。そこに広くみられたのが、人間はナラティブを受容することで、さらにナラティブを語ることで、自己と社会を分節化し、構造化していくのだという考え方である。こうした考えをナラトロジーの影響だけに帰することはできないし、必ずしもナラティブという言葉さえ共有されていたわけではないが、そこには広い意味でのナラティブに対する着目が存在した。ナラティブは、国民、エスニシティ、ジェンダーなどの成立に深く関わるとされた。つまり、特定のナラティブを通じて世界を認識することで、社会的な権力構造と主体の位置が構成されると考えられた。
歴史学では、ヘイドン・ホワイトHayden White(1928―2018)などが、歴史叙述はしばしばナラティブの形をとり、それは体制を擁護する働きをもつと論じた。歴史が多様な語り方の可能なナラティブにすぎないのかは意見の分かれるところだが、歴史学がナラティブとしての権力作用をもつという考えは広く受け入れられ、各国で勃興した歴史修正主義、すなわち国民国家の再興を志向する観点から歴史を読み替えていこうとする動きと関わって議論を呼んだ。これには、歴史が解釈(物語)を避けられないとしても、歴史家には事実の痕跡を通して「真実」を探究する義務があるというカルロ・ギンズブルグCarlo Ginzburg(1939― )のような立場も存在する。
精神医療の分野では、主体は社会的言説の作用であるという社会構成主義の影響のもと、ナラティブ・セラピーの考え方が関心を呼んだ。ナラティブ・セラピーは、家族やカップル内部でのナラティブを重視し、カウンセラーや自助グループのあいだでそのナラティブを書き換えていくことで、個人の行動パターンや自己認識をかえていこうとする。1990年代以降、ナラティブという概念はその輪郭を曖昧にしつつも、政治学、社会学、国民国家研究、カルチュラル・スタディーズといった分野に根をおろしている。[倉数 茂]
『ロラン・バルト著、篠沢秀夫訳『神話作用』(1967・現代思潮新社) ▽ロラン・バルト著、花輪光訳『物語の構造分析』(1979・みすず書房) ▽ウラジミール・プロップ著、北岡誠司・福田美智代訳『昔話の形態学』(1987・白馬書房) ▽ヘイドン・ホワイト著、原田大介訳「歴史における物語性の価値」(W・J・T・ミッチェル編、海老根宏・原田大介ほか訳『物語について』所収・1987・平凡社) ▽ポール・リクール著、久米博訳『時間と物語』1~3(1987~1990・新曜社) ▽ジェラール・ジュネット著、花輪光・和泉涼一訳『物語のディスクール――方法論の試み』(1991・水声社) ▽小森康永・野口裕二・野村直樹編著『ナラティヴ・セラピーの世界』(1999・日本評論社)』
各人が自分と身内のことを第一に考えている限り、保有物、財をめぐる争いが生じる可能性がある。勤労や幸運によって得た財は、他人に力ずくで奪われる恐れがある。しかし、もし「社会」を形成することでそれらの財を増やすことが出来れば、それは各自を「社会」形成へと強く動機づけることになる。社会のすべての成因が取り決め=黙約を結び、これらの外的な財の保有を固定し、幸運や勤労によって得るものを各人が平和に享受するに任せておく以外に、この目的を達する方法はない。「黙約」は意図的に成される「約束」ではない。同じ行為を反復している内に、そのことの利益に各人が次第に気づくことを通して毛形成される。利益を感じている人たちは、一定の規則に従って、自分の振る舞いを規制するようになる。相手も自分と同じようにふるまうであろうという前提の元で、相手がその材を保有している状態をお互いに認めるようになる。そうやって共通の感覚が形成され、それがお互いに認識されるようになった状態が「黙約」である。(ヒューム)
利益団体は団体の構成員の利益を維持推進するために、議会や政府に対して働きかけを行う。その際に利益団体が用いる戦術には議会や政府に直接働きかける方法と、広く国民世論に訴えかけることによって間接的に議会や政府を動かす方法という二種類の手段がある。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年7月3日
特定の人について保護する責任のある者。親権者・扶養義務者のほか、交通事故の加害者、被保護者と契約している保育士、雇用主など。
[補説]無関係の第三者であっても、被保護者への保護を開始した者は保護責任者とみなされる。例えば、事故・災害などのけが人を引き取って搬送中の善意の一般人など。
バークによると、国家とは祖先と子孫との間で結ばれた国民による歴史的契約の所産であり、かかる歴史的連続性がもたらした有機的秩序である。また「自由」も抽象的な自然権に由来するものではではなく祖先から相続した世襲財産と考えるべきであり、それは善き秩序と結びついた規律ある自由である。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年7月3日
過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと堕ちていく存在者の背後で、また日々に解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。まるで情け容赦もない証人のように。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年7月3日
バークによると社会契約論や自然権思想は現実世界の複雑性を無視した形而上学的抽象に過ぎず、それは政治の実践の場ではむしろ有害であり、人類の歴史から得られた道徳・政治的経験知としての「熟慮」こそ政治に必要なのである。バークは抽象的理念によって執政を試みるフランス革命を鋭く批判した。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年7月3日
運転に慣れていなかったり、違う車種に乗りかえて間もないときなどは、車両感覚(クルマの前後左右の距離感など)が正しくつかめていないことがあります。車両感覚をつかんでいれば、狭い道でのすれ違いや、車庫入れ・縦列駐車がとてもラクになります。
前方の車両感覚は、運転席側窓から見える停止線の延長線で判断。
矢印を書いた付箋などを使えば、助手席側の車両感覚を補助できる。
巻き込み事故や接触事故を避けるため、内輪差や外輪差にも注意。
病 世界の死 私は病だ 私は世界の死だ 心の中には静けさ 突然の強風を受ける私のこめかみは 死のため激しく脈打って 世界へ攻めゆく合図を打ち鳴らす すると星が黒くなって落ちてくる 私の立ち尽くした骸骨の中へ 『好運への意志』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年7月1日
幻肢痛(げんしつう、英: Phantom Pain)は、怪我や病気によって四肢を切断した患者の多くが体験する、難治性の疼痛[1]。ファントムペインともいう。
車両感覚車を運転する上で必要となる、車体の前後の長さや左右の幅、および車体の位置や向きなどに関する感覚。車幅についての感覚は車幅感覚ともいう。車体感覚。
事物や事象が意識から独立して客観的に存在するありよう。→観念性
https://kotobank.jp/word/実在性-521348
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