« 2018年5月 | トップページ | 2018年7月 »
片麻痺(へんまひ)とも。急性の脳内循環障害により運動神経路が冒されたとき,反対側の手足・体幹・顔面筋が麻痺すること。原因は脳溢血(いっけつ),脳梗塞,脳腫瘍(しゅよう)など。最初2〜3日は弛緩(しかん)性麻痺,のち痙攣(けいれん)性麻痺となり,麻痺側に充血,チアノーゼ,発汗,皮膚温度の異常などを伴うことがある。また,ときに失語症を呈する。治療は,マッサージや電気療法などの理学療法や作業療法によるリハビリテーションなど。
丸山は民主主義というクラートス(支配)を支えるエートス(倫理)が日本にあるのかという問題を追究している。西洋では個人を救済するキリスト教のエートスを基礎にして、近代国家のクラートスが築かれた。ローマ教会は俗権と妥協して御用宗教となったが、プロテスタントはパウロ的な普遍主義を掲げて国家=教会と戦った。この矛盾が集約的にあらわれたのがドイツだった。ヘーゲルは国家理性が宗教の矛盾を統一すると考えたが、ニーチェは国家を「組織された非道徳性」と嘲笑した。ウェーバーはニーチェの影響を受け、国家は暴力装置であると規定したが、こうしたニヒリズムを突き詰めると「戦争において重要なのは正義ではなく勝利である」というヒトラーの論理に行き着く。しかし日本には、よくも悪くもキリスト教のような普遍主義は一度も根づかなかった。その代用品として戦前には天皇が使われたが、それは福田恆存も指摘したように、個人を救済するエートスをもたなかったため、敗戦とともに簡単に捨てられた。戦後は新たな代用品として絶対平和主義が使われたが、これは天皇よりリアリティのない空想だった。社会主義も人々を内面的に救済するエートスをもたないため、一度も多数派になることのないまま消えてしまった。しかし亜流リベラルはまだそれに気づかず、民主主義のクラートスを「動機の純粋性」のエートスで語る。集団的自衛権を認める安倍首相は「戦争を求める汚れた政治家」であり、それを阻止する朝日新聞は「平和を求める純粋な心」をもっている――これは丸山も後年に批判した「プリミティブな心情倫理」だが、それを捨てると戦後リベラルには何も残らないのだ。
「反政治」のかけ声と合意や全員一致の幻想は民主政治には致命的だと認識されるべきであり放棄されるべきである。政治的境界線の不在は政治的成熟の表象では決してなく民主政治を危殆に陥れる空洞化の徴候である。(ムフ『政治的なるものの再興』千葉眞ほか訳 日本経済評論社 1998年 p.11)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月29日
文学の表現するものとは、まさしく悪の極限の形態-なのだが、その悪こそ、私達に取って至高の価値を持つものだと私は考えている。しかしそうだからといって別に道徳の不在を主張しようというのではない。むしろこれは「超道徳」を要求するものである。-文学と悪-
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月29日
頓絶法(とんぜつほう、または黙説法、Aposiopesis)とは、語り手または作者が、何かの考えにとらわれて途中まで進めていた発言に間を置くか、発言をやめてしまう修辞技法のこと。語り手または作者が話を続ける気がなくなったか、できなくなった印象を読者に与える。語源はギリシャ語の ἀποσιώπησις(黙ってしまう)。古典作品でいえば、ウェルギリウスの『アエネイス』の中では、頓絶法が2100カ所使われている。
何者かあるいは何事かへのリアクションの連続。いわば関係の描写の結果として事後的にストーリーが生まれるのである。物語を「説明」することが演技の目的ではない。下手くそな読書感想文はとかく「あらすじ」を書きたがるが、そうではなくて「感想」=テクストへのリアクションを述べる「横顔」で、その視線の先をダイアローグ的に描写するのである。テクストの表層からしか情報を受け取れない「読者」にとっては、そのような記述はちんぷんかんぷんなつぶやきに見えるだろうが、そういう程度の「読者」は切り捨ててしまうしかない。水面の波紋で水中の生物を想像する感性を期待すべきであり、これを持たぬ者のために、持つ者の想像の機会を奪ってはならぬ。水面からその生物が顔を出す「オチ」に波紋は回収されない。それが理解できる読者とできない読者とがある両者はトレードオフの関係であり、どちらかを捨てねばならぬ。無論俺は迷わず後者を捨てる。
力が入らないのと脱力するのはまるで違う。むしろ力を入れるのと脱力するのは同じ事。
人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば「キリスト者は正しきを行い結果を神に委ねる」――か、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきとする責任倫理の準則に従い行為するかは底知れぬほど深い対立である。(ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳 岩波文庫 1980年 p.89)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月25日
M.ウェーバーが『職業としての政治』で用いた言葉。相対立する基本的な倫理的態度。心情倫理では,おのれの信じるがままに行為することが価値であり,その結果が悪くてもその責任は社会や神に帰せられる。責任倫理では,行為の結果について予見し,そのうえに立って行動し,結果には責任を負う。この2つの態度は,ウェーバーでは目的と手段の関係とからめて問題にされ,いかなる目的が危険な手段を正当化するかを決しうる倫理は存在しないとしつつ,両者の相補するところにあるべき姿をみている。倫理学的には,この2つは動機説と結果説の対立にほぼ応じる。
①【四ヵ月で全社員が入れ替わっても平気なアメリカ企業の謎】西欧の「契約に基づく組織」は、カトリック教会のそれを基盤にして、形成された。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月27日
われわれには、契約神という概念がないから、組織に宗教性を認めることはしない。<『日本資本主義の精神』
⑪私には、彼らに媚びて事実まで取り消せという気は全くない。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年6月26日
ただ虚報を出して日本人を誤らせ、その虚報を事実だと強弁して中国人を怒らすなら、世にこれ以上の愚行はない
と思うだけである。
重大な政治的不平等や経済的不平等は、低い地位にある人々が自他双方によって劣ったものとみなされるのを促すような社会的地位の不平等としばしば結びついている。(ジョン・ロールズ『公正としての正義 再説』田中成明ほか訳 岩波書店 2004年 p.230)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月25日
意見は公然の議論と公的な論争の過程で形成されるものなので、意見を形成する機会の存在しないところでは、大衆の気分と個人の気分というどちらも同じように移り気で信頼できない気分があるだけで、意見は存在しない。(アレント『革命について』清水速雄訳 ちくま学芸文庫 1995年 p.426)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月25日
ある記号の表現力は、それがある体系の一部分をなし、他の記号と共存していることに起因するのであって、神や自然によってある意味を指示すべく制定されたかもしれぬという点に由来するのではない。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年6月25日
まず一つの類型は、支配の正統性を古くから伝わる伝統や慣習に求める「伝統的支配」である。この支配は古代や中世の家父長や世襲君主などといった古くから伝わる伝統や慣習によって支配の権限を与えられた者への日常的な信頼に基づく。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年6月24日
経済社会の制度をめぐる主導的観念は、「適応を通ずる効率」、「革新を通ずる成長」、「連帯を通ずる正義」という形を通じて歴史的に変遷を遂げてきたが、これらの3つの間の整合性を問うことが、現代社会の基本的な経済問題に他ならない(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月24日
わたしの理解では、連帯とは、ばらばらで同質ではないにもかかわらず、お互いのためにともに立ち上がろうと決めた人びとの関係性のことである。(アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』岡野八代ほか訳 岩波書店 2014年 p.178)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月24日
子供の頃、よく祖母と一緒にイナゴ穫りに行ったもんだ。 今、腹筋と麻痺側の大臀筋から太腿にかけてが突っ張って痺れ、中にイナゴが詰まって羽を震わせてるみたいだ。切り裂いたら一斉に外に飛び立つのだろう。
「技法」とはある意味で本源的な受動性の否定である。しかしこの否定は、多様にそなわる堅固さに対しては作為として理解されうるし、そう理解されねばならない。-カントの人間学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月24日
血圧を下げる食べ物は「酢ピーナッツ バナナ酢 酢牛乳」
お酢の健康効果として代表的なのが、高めの血圧を下げる降圧作用です。今回は、お酢を毎日の食生活に取り入れやすくする酢ピーナッツ、バナナ酢、酢牛乳の作り方と効果について紹介します。【解説】小泉幸道(東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授)、岡田研吉(銀座・研医会診療所漢方科)、村上祥子(料理研究家・管理栄養士)お酢の主成分である酢酸には、血圧上昇にかかわるホルモン調節機構を、穏やかに抑制する作用があります。このホルモン系が活性化すると、血圧が上がるのですが、それをセーブしてくれるのです。
お酢を毎日とるために、お勧めなのが「酢牛乳」。リンゴ酢を使うとフルーティーになり、ハチミツを入れると、甘酸っぱいヨーグルトドリンクのようになります。お酢はカルシウムの吸収を促進する働きもあるので、牛乳といっしょにとることは、骨粗鬆症の予防にも効果的です。私も毎日、愛飲しています。
【解説】小泉幸道(東京農業大学応用生物科学部醸造科学科教授)
祖父母の死は、時期的にも子供たちの死の怖れや。 不安の覚醒と重なっていた。蒼ざめて眼を閉じている祖父母の顔。運動会のメダルをとっ てきたといって営めそやしてくれ、成績がたまによかったといって頭を撫でてくれた豊か な祖父の顔、また夜ごと股のあいだに妹をはさんで、温めてくれた祖母の身体の感触。そ れが寝たり起きたりの日々を送っているうちに、或る晩から突然に呼吸が荒くなったよう におもわれ、それ以後日眼覚めることも話すこともなかった。どれほどの苦痛が訪れ、ま たどれほどの無感覚が身体のどの部位を侵していたのか、子供たちにはまったく判らなか った。また身体を横たえたままに、呼吸する機械のように動かないのは、脳のどの部位が 死の打撃を受けつづけているのかも知らなかった。やがてほとんど呼吸も絶えだえになっ てくると、近親たちは綿にひたした水で祖父母の唇を潤した。かわるがわる子供たちも母 の言いつけで昼に綿をもっていった。それが何の意味なのかわからなかったが、別離の印 しだとみなしたのだ。この祖父母の別離(死別)の意味は、謎にみちていた。やがて呼吸 が止まった。その直前と直後とで何が変ったか、子供たちは理解はできなかったのだ。
M・フーコーは、幼時にわたしたちが体験した祖父母の瞑目や、呼吸の停止の内側で起 こっている「死」の位相の領域をはじめて記述してくれたとおもえる。M・フーコーは 『臨床医学の誕生』のなかで、この生体の死の微細な表情を、次のように記している。
これらの語るところは、死に対して生が浸透性を持っている、ということである。 ある病的状態がつづく場合、「死化」によって最初におかされる組織は、いつも栄養 が最も活発なところ(諸粘膜)である。次には諸器官の実質で、末期においては鍵や 腱膜である。こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散して
「 ・・・F13 J-L 、会するというような、か
M・フーコーは、幼時にわたしたちが体験した祖父母の瞑目や、呼吸の停止の内側で見 こっている「死」の位相の領域をはじめて記述してくれたとおもえる。M・フーコー は 『臨床医学の誕生』のなかで、この生体の死の微細な表情を、次のように記している。
これらの語るところは、死に対して生が浸透性を持っている、ということである。 ある病的状態がつづく場合、「死化」によって最初におかされる組織は、いつ栄養がが最も活発なところ(諸粘膜)である。次には諸器官の実質で、末期においては腱や腱膜である。こういう私大であるから、死は多様なものであり
腱膜である。こういう次第であるから、死は多様なものであり、時間の中に分散して いるものである。それを起点として時間が停止し、逆転するというような、かの絶対的、特権的時点はない。死は病そのものと同じように、多くのものが集まっている存在在であって、分析によって、時間と空間の中に配分されうるものなのである。少しず つ、あちこちで、結び目の一つ一つが切れ始める。少なくとも主な形においては、
体の生命が停止する。というのは、個人の死のずっと後まで、生命の小さな心がけ で頑張っているのを、今度は極く小さい、部分的な、いくつかの死がおそって、解体 させることになるからである。自然死においては、動物的な生命がまず消える。最初 に感覚の消滅、脳の衰弱、運動の減弱、筋肉の強進、その収縮性の減弱、腸管の準麻 癖、最後に心臓の鼓動の停止。この継続的な、いくつかの死の時間表に、空間的な表 を加えなくてはならない。それは生体の一点から他の点へと連鎖状にもろもろの死を ひきおこす相互作用の表である。これらの死は根本的な三中継所を持っている。つま り心臓と肺と脳である。心臓の死が脳の死をひきおこすのは神経路を経てではなく、
動脈網を介して(脳の生命を維持する運動の停止)、または血管を介して(脳を障害 し、圧迫し、その活動を妨げる黒い血液の運動停止、またはむしろ反対にこの血液の 逆流)行われるのだ、ということを証明することができる。
ブランショが人間の「死」を、人間存在の平等の原則と結びつけたかったように、M/フーコーは生体の「死」を微分的に内在的に領域化する方法によって、「生」と「病い」にたいしてそれらを同一のbq署から別別に照らし出す原理としたかった。
睡眠は死からの負債である。睡眠は生命を維持するために、死から借りるものである。
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年6月23日
われわれは、ある人が自分に災いを及ぼしたゆえに憎むこともある。だが、恐ろしいことに、自分にいかなる実害を加えなくともある人を憎むのである。(Xが私を傷つけたからではなく)「私がXを傷つけたからXが嫌いだ」と心情を吐露する人物をドストエフスキーは描いている。『哲学者とは何か』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月22日
地上のすべての卑劣なこと、醜悪なこと、凶暴的なことは「正義」の名のもとに行われてきた。いかに合理的であっても、理知的であっても、説得的であっても、愛情に満ちていても、自分を一方的に「正義」の側において、それ以外の者を非難し迫害する者は信用してはならない。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月22日
だから、リハビリをすると言われたときも、手術、入院に伴い低下した筋力等を日常生活が滞りなくできるレベルに回復させるという意味だと思っていた。
カロリー摂取しすぎじゃないかとも思える。
過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと堕ちていく存在者の背後で、また日々に解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。まるで情け容赦もない証人のように。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年6月22日
こうした自然法の二つの命令が全ての人間を拘束しているので、自然状態は無秩序状態にはならない。ロックは自然法に「人間の理性の教示」という意味と「神の意思の表明」という二つの意味を与えている。すなわち人間の理性と神の意志とが、自然法という媒介にして等号で結ばれていることになる。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月22日
幸や不幸はもういい。 どちらにもひとしく価値がある。 人生にはあきらかに 意味がある。 [出典:自虐の詩 業田良家]
— 人生が潤う名言bot (@zinseyutaka_bot) 2018年6月22日
人間が存在している意味はまったくないこと、同じように、私が生まれた意味もまったくないこと。だから、私の人生にも何の意味もないこと。真正のニヒリズムとは、こうした事実を誤魔化さずにひたすら直視することである。『観念的生活』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月22日
私は、(他人の行動という)自分がただ見ているにすぎないその行為を、言わば離れた所から生き、それを私の行為とし、それを自分で行い、また理解するわけです。『幼児の対人関係』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年6月22日
…労働の自然価格は、労働者とその家族の扶養に要する食物、必需品および便宜品の価格に依存している。食物および必需品の価格騰貴とともに、労働の自然価格は騰貴するだろう。それらの物の価格下落とともに、労働の自然価格は下落するだろう(D・リカードウ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月22日
「差別する自分」を頭から断罪する前に、「差別したい自分」と「差別したくない自分」とのせめぎ合いを正確に測定することが必要であろう。自分は眼の前のこの人を哀れんでいるのではないか? もう充分哀れんだから、早く消えてもらいたいのではないか?『差別感情の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月22日
国が何事もまったくしないという体制は、理論的に正当化することは不可能である。効果的な競争体制というものは、他のあらゆる体制と同様に、賢明に工夫され、絶えず調整され続けていく法的枠組みを必要とする。(F・A・ハイエク『隷属への道』西山千明訳 春秋社 2008年 p.46)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月21日
資本主義においては、経済的活動や成功や物質的獲得が、それ自身目的となる。経済的組織の発展への寄与や、資本の蓄積を、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となる。(フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社 1965年 p.127)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月22日
書くというやくざな営みをしながら、世間一般の幸福を追求するなどというのは虫がよすぎる。書くことによってほんの一握りの賛同者と膨大な批判者・無関心者が生まれることは必至のことである。それを丸ごと呑み込むとき、人は書き続けるようになる。『孤独について』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月21日
国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳 岩波文庫 1980年 p.9)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月21日
《スモモの木の下で冠をかぶりなおそうとして手を上げると、実を盗むのかと疑われるから、そこでは直すべきではないという意の、古楽府「君子行」から》人から疑いをかけられるような行いは避けるべきであるということのたとえ。→瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず →瓜田李下(かでんりか)
この国民意識の成立によって「一つの国家(state)は一つの国民(nation)を基盤として成り立つものである」という考えが浸透する。一つの国民を基盤として成立した国家のことを「国民国家(Nation State)」と呼ぶ。ここに三要素説における「(近代)国家」が初めて誕生した。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年6月20日
(仏:le Réel, le symbolique, l'imaginaire)とは、主にジャック・ラカンの精神分析理論で用いられる、人間にとっての世界の在り方ならびに分類。1974年から1975年にかけてのセミネール「R.S.I.」に詳述され、シェーマRSI(schéma RSI)と概括され、RSIと略称される。
現実界[編集]
ジークムント・フロイトの現実原則や、イマヌエル・カントの命題"ein leerer Gegenstand ohne Begriff"(「掴み得ぬ空虚な対象」。独語)などから敷衍した概念で、空虚で無根拠な、決して人間が触れたり所有したりすることのできない世界の客体的現実を言う。以下に記述する想像界にも象徴界にも属さない領域であり、例としてはトラウマや不安、現実における体験などで言及される。
ちなみに、フロイトの言う心的現実(英: Mental Reality)と、ラカンの言う現実(仏: le Réel)とは、まるで異なった概念なので注意を要する。
現実界と言語カンによれば、現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかない、という一見逆説的なテーゼが成り立つ。
一般的な理解のために単純化したモデルで例を示すと、たとえばある大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実を、言語という象徴的なものを以って描き出そうとしているわけである。ある証言者は、事件の決定的瞬間を語るかもしれないし、別の証言者は、事件の背景に隠された事情を語るかもしれない。こうして、あらゆる角度から証言がなされ、これらを集めてマスコミは「事件の全容を解明しよう」とする。しかし、その事件をすべての角度から語り尽くすのは、不可能である。現場にいたマスコミであっても、事件の一部分を体験していたに過ぎないのであり、言葉では事件をあくまでも断片的に大雑把に伝えることしかできないのである。
習慣がそもそもないからその面白さが理解できず、オリンピックもサッカーもいつもスルーなのだが、そんな俺を面白がらせないサッカーはダメだなんて毛ほども思わない。そこまで思い上がったバカではないから。
この「らへん」という言い方は、「ここらへん」「どこらへん」などの「らへん」の部分を取り出して、新たに別のことばに付けるようになったものだと考えられます。「ここらへん」は「ここら〔=このあたり〕」に「へん〔=~の場所〕」が連なったものですが、「ここら」もさらに「ここ+ら〔=だいたいそうだということを指し示す〕」のような構成を持っています。これを式のように表すと、
{(ここ+ら)+へん}
のようになります。これを、
{ここ+(ら+へん)
と解釈しなおし(こういう現象を「異分析」と呼びます)、「らへん」だけを取り出して、「渋谷らへんで遊ぶ」「まん中らへんにある」などのように場所を表す名詞の後ろに付けるようになったようです。
たとえば、次のような歌詞にも使われています。
「左胸らへんに ズキズキと ジャンクな時限爆弾 仕掛けてあるみたい」
(「ラブレストラン」(2005年)作詞:小竹正人 歌:藤井フミヤ)
ウェブ上で「改札らへんで待っている」という言い方についてアンケートをおこなってみたところ、39歳以下の層では「聞いたことがあるし、おかしいと思わない」という回答が最も多いのに対して、40歳より上の層では「聞いたことはあるが、おかしいと思う」が多く、また「聞いたことがなく、おかしいと思う」も少なくないことがわかりました。
使う場合の注意点は、この文章の最初らへんで述べたので、また読んでみてください。
Barro's debt neutrality 公債の償還するのを先送りし、借り換え債をどんどん発行していけば、現在の世代が死んでから現在の公債が償還される。世代の枠を考慮すると、リカードの中立命題は成立しない。この場合にも課税と公債の無差別を主張するのが、遺産による世代間での自発的な再配分効果を考慮する「バローの中立命題」である。バローは、親の世代が利他的な遺産動機をもつことで、子の効用=経済状態にも関心をもつことを指摘し、その結果、子の子である孫の世代、さらに孫の子であるひ孫の世代の効用にも関心をもつことを示した。これは、結局無限の先の世代のことまで間接的に関心をもつことを意味するから、いくら公債の償還が先送りされても、人びとは自らの生涯の間に償還があるときと同じように行動する。公債発行と償還のための課税が同一の世代の枠を超えても、公債の中立命題が成立する。
Ricard's debt neutrality 公債発行と公債償還が同一の世代に限定されているとき、ある一定の政府支出を公債発行と課税調達で賄うのでは、まったく同じ効果をもつという命題。課税調達のときと現在価値でみて同じ税金を支払うのであれば、公債発行と課税調達に実質的な差はない。この議論は「リカードの中立命題」とよばれている。人びとが生涯にわたる予算制約式に基づいて最適化行動をするかぎり、どの時点で課税されても税負担の現在価値は同じであって、生涯にわたる予算制約も同じとなる。課税と公債とではなんら相違はない。公債発行、あるいは財政赤字のマクロ的な効果がないという公債の中立命題が成立する
マイナス金利とは、民間の金融機関が中央銀行(日本では日銀)に預けている預金金利をマイナスにすることです。金利のマイナス化により、預金者が金利を支払うことになります。
日銀のマイナス金利政策は、2016年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」として導入されました。日銀のマイナス金利政策でマイナス金利が適用されるのは、金融機関が持つ日銀の当座預金のごく一部です。日銀はマイナス金利政策によって、金融機関が日銀に資金を預けたままにしておくと金利を支払わなければならなくすることで、金融機関が企業への貸し出しや投資に資金を回すように促し、経済活性化とデフレ脱却を目指しています。ヨーロッパでも、2017年6月現在 欧州中央銀行(ECB)やスイス、スウェーデン、デンマークの中央銀行などが既にマイナス金利政策を導入しています。いずれも民間の銀行と中央銀行との間で適用されています。
金利は、主に資金の需要と供給のバランスをもとに決まっています。お金の量が一定であれば、資金を借りたい人が多いとき(=需要が高いとき)には金利は上がり、少ないときには下がります。需要と供給が変化する要因には主として景気・物価・為替相場があげられます。
景気が良くなると人々の収入は増加し、消費や投資を活発化させる。これに対し、企業はより多くのモノやサービスが供給できるように、積極的に設備投資をするようになる。設備投資などにより、お金に対する需要が高まり、金利は上昇していく。景気が過熱気味になり、インフレになると、ますます資金需要が高まり、金利も上昇する。一方で、インフレの対応策として、中央銀行が金利を引き上げると、人々は預貯金にお金を回すようになり、モノやサービスへの購買意欲が減退してくる。その結果、モノが売れにくくなり、企業の売上が減ってくる。また、企業は、銀行からお金を借りにくくなるため、設備投資を控え、従業員の給料を抑えるようになり、個人消費も手控えられてくる。こうして景気が後退のきざしを見せはじめると、経済全体としてお金に対する需要が減ってくるので、金利は下がっていく。景気の悪化が行き過ぎ、デフレとなると、その対応策として、中央銀行は金利を引き下げる。その結果、消費や設備投資に資金が回りやすくなり、再び景気が回復してくる。このように景気循環によるお金の需給バランスにより、金利は上昇と下降を繰り返していく。※上記は景気と金利の循環の一般論を示したものであり、実際の市場では必ず一致するものではない。
己から出発して表明され得るような人間の本質、また、可能な認識すべての基礎であると同時に認識の可能な限界そのものの基礎でもあるような人間の本質を規定しようと試みる、その時から、人は誤謬推理の只中にいるのです。-哲学と真理-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月18日
今日を生きるわれわれには、後世の人間たちに備わる権利に由来し、この権利に呼応する仕方で、創始者としての義務が課せられている。……彼らの存在条件に影響を及ぼす行為について、われわれは責任を負わなければならない。(ヨナス『責任という原理』加藤尚武監訳 東信堂 2010年 p.73)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月18日
埋没費用(まいぼつひよう、英: sunk cost 〈サンクコスト〉)とは、事業や行為に投下した資金・労力のうち、事業や行為の撤退・縮小・中止をしても戻って来ない資金や労力のこと
8月の砂の熱さを足の裏に感じることなどもう一生ないのだろうな。かつては他人とアタリマエに共有できた経験の機会がことごとく奪われてしまった。
退院後、必死になって探したのが、20代の頃、妻と行った軽井沢で魚釣りをしたときの写真だった。何も釣れなかったし、妻はつまんなそーな顔をしてしゃがんでるのだけど、たとえばこれが有名なお祭りだったりしたら、わりとどうでもいい。そういういわばパブリックな記憶でなく、全くとるにたらないプライベートな「閉じた」j時間の共有の証であるから、愛おしく貴重に思ったのである。
仕込みナメんなって話だ。その程度の認識で何を一家言あるふうな態度が取れるのか。
それでは、需要曲線にはどんな特徴があるのか、見てきいま しょう。 価格が上昇するほど需要兄は小さくなり、価格が低下すれば需要址は
大き く な り ます。したがっ て、縦軸に価格、横軸に而要屈を取ると、需
要曲線は右下がりの曲線として描まけす。
通常、訴要曲線は右下がりですが、その形状はいろいろりあえます。たとえば 、右ページの図では直角の双訓線が描かれています。
可処分所得が増えるとリンゴの需要は増える
涌要は、家計の可処所分得(実際に梢牧に回せる所得)にも依存しま す。あなただって、貰っているお給料が増えて壊具介がよ くなると、いままで買 っていなかったモノを買いたくなるでしょ う。それと同じこと
です。
さきほ どのリンゴの例でいえば、可処分所得が削えとる、家計は\ r]:i じ
価格p
リンゴの価格が下がると需妻は増える需要Ex
(リンゴの数量)
価格であっても前よりもたくさんリンゴを買いたいと思 うで しょう 。 たとえばリン ゴの 価格が100円の場合、 3 個ではなく5 個買いたいと思 うよ うに なり、 価格が200円では 4 個、価格が300円では3 個買い たいと思 うと しましょう。 すると、Aの代わりにBのような価格と術要疫との
組み合わせが見られる ことになります。新しい需要曲線は古い垢要曲線よ りも 右上方に押し上げられています 。この需要曲線の移動を、需要曲
線のシフトといいます。
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"><p lang="ja" dir="ltr">③だが、実をいうとその態度こそ、戦争中の軍部の、フィリピン人に対する態度であったのである。<br><br>そして、そういう人達の基本的な態度は今も変らず、その対象が変っているにすぎない――<br><br>その事は前述の短い引用と本多勝一氏の日本軍への描写を対比すれば、誰の目にも明らかな事であろう。</p>— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) <a href="https://twitter.com/yamamoto7heiwar/status/1008261371203473408?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年6月17日</a></blockquote>
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
古いPCぜんぜん使い物にならん。
近いうち新しいデスクトップが来るので、仕事で使ってる諸々をそれに設定したら、今メインで使ってるPCを引退させて書き物専用機とし、書斎に引きこもってもらおう。
文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、他者への危害を防ぐためである場合に限られる。物質的にであれ精神的にであれ、相手にとって良いことだからというのは、干渉を正当化する十分な理由にはならない。(ミル『自由論』斉藤悦則訳 光文社古典新訳文庫 2012年 p.30)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月17日
相関関係があるだけでは因果関係があるとは断定できず、因果関係の前提に過ぎない[1]。「相関関係は因果関係を含意しない (Correlation does not imply causation)」は、科学や統計学で使われる語句で、2つの変数の相関が自動的に一方がもう一方の原因を意味するというわけではないことを強調したものである(もちろん、そのような関係がある場合を完全に否定するものではない)[2][3]。全く逆の言葉である「相関関係は因果関係を証明する (correlation proves causation)」は誤謬であり、同時に発生した2つの事象に因果関係を主張するものである。このような誤謬は虚偽の原因の誤謬(英: false cause)と呼ばれる(ラテン語では "cum hoc ergo propter hoc"、直訳すると「それとともに、そしてそれ故に」)。前後即因果の誤謬は、2つの事象に順序関係があることが前提であり、「虚偽の原因の誤謬」の一種である。
一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。(ミル『自由論』斉藤悦則訳 光文社古典新訳文庫 2012年 p.45)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月15日
自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは…自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金を充分にもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである(I・バーリン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月15日
私にとって決定的に重要なこと。私の思考にはただ一つの対象しかない。それは戯れだということ。その戯れの中で私の思考、私の思考という労働は無に帰する。-非-知と反抗-
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月15日
②しかし一つの法的基準の有無という点からこれを見れば「有」は「無」に優る。「悪法もまた法なり」という大日本帝国陸軍内部でこの言葉の妥当性を一つの実感としてつくづく感じたのは恐らく私だけではあるまい。「陸軍刑法」を「善法」だという者はあるまい。否、これこそ「悪法」の典型かも知れぬ。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年6月15日
…外的な善には道具とおなじように限界がある…。その外的善を限界をこえて多くもつならば、それは所有者に対して必然的に害をおよぼすか、あるいはなんの役にも立たなくなる。これに対して、魂にかかわるそれぞれの善は、勝れば勝るほど必然的に有用なものになる…(アリストテレス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月15日
⑱「百人斬り」を例にとれば「東京日日新聞」→東京の英字新聞→「リーダーズ・ダイジェスト」(?)→ティンパレー→「朝日新聞」のルートだが、他にも明らかにこれと同じ類型のものが見られる。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年6月14日
⑱「百人斬り」を例にとれば「東京日日新聞」→東京の英字新聞→「リーダーズ・ダイジェスト」(?)→ティンパレー→「朝日新聞」のルートだが、他にも明らかにこれと同じ類型のものが見られる。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年6月14日
仕事。眠い。入院中は毎朝6時にたたき起こされていた。それを思えばずいぶんゆっくりである。
で、四点杖による歩行訓練。一人でマンション敷地入口のベンチ付近まで。帰りに郵便物を取ってきた。トイレに行きたくなって引き返したのだけど、こうなると部屋が遠い。スマホが鳴ってたが、過剰なデキュウリティで、いちいちパスワードが必要。邪魔なだけ。
①中村大尉事件は、満州事変の直前に、満州で中村震太郎大尉と井杉延太郎曹長の二人が何者かに殺された事件である。
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年6月13日
従ってはっきりと日本人に被害がある。<『ある異常体験者の偏見』
何かルールブックに従ってやりとりされるんじゃない。
孤独は、幸福と平静な気持ちの、源泉であるから、孤独に耐える修行をすることを、若いころの主要な研究科目のひとつとすべきであろう
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年6月13日
生粋の官吏〔役人〕は……その本来の職分からいって政治をなすべきではなく、「行政」を――しかも何よりも非党派的に――なすべきである。(マックス・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳 岩波文庫 1980年 pp.40-41)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月13日
小説にあったのだかエッセイだったか忘れたが、朝起きたら、メモに一言、「冷蔵庫」と書いてあったという話を読んだことがある。前の晩、酒に酔って、冷蔵庫にかんする何かを思いついたのだろうが、それ以上のことは自分でもわからないという。
こういうことは俺にも覚えがあって、、執筆や稽古中、枕元に大学ノートを置き、閃いたlことをにメモするようにしている。たとえばそこに「冷蔵庫」と書かれてあったなら、今朝の俺は近未来の俺に向かって、「冷蔵庫」をヒントに何かを思い出させようとしているわけだ。それは必ずしも冷蔵庫が主題であるとは限らない。主人公が腰を痛めた理由について俺は考えていたのかもしれぬ。冷蔵庫に牛乳をしまおうとかがんだときに腰を痛めた、とか。そういう思いつきの断片を断片のまま記しておくわけだ。「牛乳」だったかもしれないし、ときにはオノマトペだったりもする。「ぐき」とか「ぴき」とか。これだって「言葉」であるい。理屈を超えたイメージもまた言葉に還元されるのだ。そしてこれがプロットの端緒になったりする。腰の痛みを和らげるための薬を買いに出かけた先で「事件」が起こったのかも知れない。事件が起こるかも、という虫の知らせで、薬を買いに行かなかったために事件に巻き込まれたのかも知れない。そういう展開の可能性を開くのである。
20世紀イギリスの哲学者バーリンは「自由」の概念について2つの異なる見解があると説明している。一つは「他者から制限されないこと」を以て自由だと考える「消極的自由」である。他者の身体や財を侵さない限り、各人のどのような自由をも許容すべしとするミルの「他者危害原理」もこの文脈に沿う。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年6月12日
⑥ノルマンディ作戦のとき逃亡したアメリカ兵が、フランス娘に匿われて十数年屋根裏に潜んでいた話、そして発見された時、恩赦するかしないかが問題になった事を新聞で読んだが、横井さんがもし自分の行動を敵前逃亡と考え、竹林をこのアメリカ兵の屋根裏と同様に見ていたら、内地へ送還されれば(続
— 山本七平bot(戦争編) (@yamamoto7heiwar) 2018年6月12日
嫌煙家にはその価値が理解できないし、下戸には酒の味がわからない。
夢の滴る海綿 私を深く沈めよ どうか私がもはや この涙しか知ることのないように 星 私は星だ おお 死 雷鳴の星 私の死を告げる狂った鐘 『内的体験』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月12日
私は、新たな関係を発見したり発明したりする為に己のセクシュアリテを用いるべきだ、と言いたいのです。ゲイであること、それは生成過程にあるということであり、更に、質問にお答えする為につけ加えるならば、同性愛者になるべきなのではなく、懸命にゲイになるべきなのです。-フーコーとの対話-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月12日
孤独にされると、愚者はたとえ美服をまとっていても、自分の貧しい個性の重圧から脱却できず、ただ溜息をつくばかり。すぐれた素質をもつ者は、孤独な貧しい環境にあっても、自分の思想を生かして充実した生活をおくることができる
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年6月12日
[フリードマンによって確立されたシカゴ学派の政策上の諸見解の第一として]…彼は…貨幣経済学の研究を復活させた。彼は貨幣数量説を利用し、経済行動の研究のみならず、ケインズ学派の強力な批判に生かすため、貨幣数量説に磨きをかけ拡張した(G・スティグラー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月12日
民主主義的な政府といえども、それが制限されていない場合は、自由主義的な政府ではありえない。というのも、それは政府の権威によっても侵害されえないものとしての独立もしくは自由の領域を尊重していないからである。(ジョン・グレイ『自由主義』藤原保信ほか訳 昭和堂 1991年 p.110)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月12日
…人々が、常に自分自身の利害を心得ているほどに完全無欠の知力を備えているとすれば、彼らは、同意に基づいて立てられ、社会の全成員によって十二分に検討され尽くした政府以外には服従することはなかっただろう。…このような理想状態もまた…人間性をはるかに越えた事がらである(D・ヒューム)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月12日
最も富裕な国というのは最大多数の高潔にして幸福な人間を養う国、最も富裕な人というのは自分自身の生の機能を極限まで完成させ、その人格と所有物の両方によって、他人の生の上にも最も広く役だつ影響力をもっている人をいうのである(J・ラスキン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月12日
われわれは完全に箱の<ウチ>に入っているのではなく、箱の<ソト>から箱を観察しているのでもない。箱の<ウチ>に「住みついて」おり、箱を「生きて」おりながら、たえず直接箱の<ソト>を観察し続けているような独特なねじれた存在者なのです。『時間を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月11日
私の予見するところ、時とともに〔デモクラシーの〕最大多数の平穏な支配をうちたてることに失敗するならば、われわれは遅かれ早かれ一人の人間の無制限の権力の下におかれることになるであろう。(トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻(下)松本礼二訳 岩波文庫 2005年 p.263)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月10日
誰も他人に近づくことはできないし、他人と同じ高さに達することもできない。生活のあらゆる分野に根を張ったヒエラルヒーは、人間が自分より上層の誰かに触れたり、見せかけではなく、心から、自分よりも下層の誰かに近づくことを許さないのである。
— エリアス・カネッティ (@Canetti_bot) 2018年6月10日
『オトカ』の予実表を眺めていた。「中止」してたらと思うとぞっとする。そう考えれば、赤字決算ではあったものの、制作的に上出来といえるんじゃないか。費用の内訳を見れば、しかしじゅうぶん黒字が見込める公演だった。戯曲賞も受けている作品で、いわば満を持しての上演なのにこんな動員数なんだな。プロデューサー失格である。ここいらが潮時ってことなのかもね。市場で淘汰されたのだ。それは受けいれねばならない。
⑦人間は願望をもって対象を見る。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月10日
筑波大学の大浜徹也助教授は、幕末から明治初期にかけての宣教師の手紙がこの点で実に面白いと言われた。
煙突の林立する当時の先進工業国イギリスから工業ゼロの日本に来ると、
「自然が豊かで、人々も豊かで、その心も豊かだ」
と見えるらしい。
ここで最も基本となる[自由主義の]原理は、われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということであり、この原理は、実際の適用に際してはほとんど無数のやり方がある(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月9日
貨幣は交換の必要性のなかから生み出されたものではない。それは人間の象徴作用の「過剰性」の産物であった。生存の必要からでもなく、人間の象徴作用がそれを生み出したのであり、「過剰なもの」こそが逆に、生存のための交換を可能とするのだ(佐伯啓思)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月9日
……政治家の功罪に対する批判もどこまでも彼の政策が現実にもたらした結果によって判断さるべきであり、彼の動機の善悪は少くも第一義的な問題とならない。政治家の責任は徹頭徹尾結果責任である。(丸山眞男「人間と政治」『政治の世界』松本礼二編注 岩波文庫 2014年 pp.45-46)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月9日
古典学派の遺産は科学的な部分と政策的な部分[自由貿易と自由放任]とから成り立っている。古典学派の大きな勝利と大きな敗北とは、前者よりも後者によって遥かによく説明されるといっても、決して誇張ではないだろう(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月8日
個々の存在はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。ある存在と他の存在との間には深淵があり、非連続性がある。この深淵は、たとえば私の話を聞いているあなた方と、あなた方に話をしている私との間にも在るのだ。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月8日
全世界がまるごと見えることはない。そのつど特定の区切られた光景が、私には見えるのであり、いま眼前の世界が見えるためには、この視野の背後に全世界が控えており、その残りの全世界が背後に後退し見えないことによって、この視野が見えるものとして現われているのです。『「私」の秘密』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月8日
主権者は、…[人間の不完全な知性では到底遂行不可能な]一つの義務、すなわち私人の勤労を監督し、それをその社会の利益にもっともかなった使途に向かわせるところのそれから、完全に解放される(A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月8日
[動ラ五(四)]
1 輪状に曲がって巻いている。とぐろを巻く。「―・っている蛇」
2 入り組んで複雑に絡み合っている。「老松の根が―・っている」
3 心に不平・不満・不安などがあって晴れ晴れしない。「不吉な予感が胸に―・る」
4 かがんでうずくまる。また、しっかりと根をはる。蟠踞 (ばんきょ) する。
「あたかも毘留遮那大仏が虚空に―・っているような雪峰で」〈河口慧海・チベット旅行記〉
5 盗んで自分のものとする。横領する。
「主人の金子 (きんす) を―・り」〈浄・歌念仏〉
指摘されることを、肥大したプライドが許さないのだろう。
自嘲による「自覚」のアリバイづくり。だがそんなのは「自覚」の内に入らないのだ。
この痛みに耐えて、恩着せがましい他人の好奇心を満たしてやる筋合いはない。それを平気で要求する。持ち前の独善性が己の無神経さを正当化するのだろう。関わらぬが吉である。
文献学者たちにとって、プラトンの評価は今なお高まりつつある。彼は、我々には、既に失われてしまったプラトン以前の哲学者たちの、膨大な著作の埋め合わせとしての価値を有するに違いない。-プラトン対話篇研究序説-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年6月7日
「何でも質問しなさい」という言葉がじつは大ウソであることを子どもたちは次第に全身で見抜いてゆく。そして、子どもたちは知らず知らずのうちに、むしろ「語らないほうが得」であることを学んでゆくのである。『うるさい日本の私』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月7日
特定の人について保護する責任のある者。親権者・扶養義務者のほか、交通事故の加害者、被保護者と契約している保育士、雇用主など。
[補説]無関係の第三者であっても、被保護者への保護を開始した者は保護責任者とみなされる。例えば、事故・災害などのけが人を引き取って搬送中の善意の一般人など。
政治的自由の価値は人格的自律の条件の配備にあり、人格的自律は適切な公共文化を維持する社会においてのみ実現されるから、一個人の自由は他者の自由に依存している。(ジョセフ・ラズ「リベラリズム・懐疑・民主制」『自由と権利』森際康友編 勁草書房 1996年 p.235)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月7日
身体は、必然的に「ここ」にあるのと同様、必然的に「今」実存している。それは決して「過去」となることはできない。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年6月7日
私が言いたいのは、正常化の権力、正常化の技術は、今日では学校制度や刑事制度の中で、仕事場や工場、役所など至る所で見出す一種の一般的な道具ではないかということです。-ラジオスコピー-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月7日
R・E・ルーカス(米, 1937-):合理的期待の仮定に基づいた「新しい古典派マクロ経済学」を提唱。また、政策によって構造パラメータが変化する可能性を示し従来的な計量経済学の手法を批判、大きな方法的転換を導いた。1987年ノーベル経済学賞授賞。主著『マクロ経済学のフロンティア』。
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月7日
百五十年来の西欧文化の最も根本的な特徴の一つとして、自律的な独立した活動としての哲学が消滅したということが挙げられます。[…]哲学が、今や大学教授の仕事に過ぎないものになったということです。-文学・狂気・社会-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月7日
アガンベンはハンナ・アーレントの理論におけるゾーエ(剥き出しの生・生物的な生)とビオス(社会的政治的生・生活形式における諸活動)、そしてとりわけビオス・ポリティコス(偉大な行動と高貴な言葉を生きること)についての思考を批判的に継承している また、フーコーは「近代が生政治を生み出した」と言ったが、アガンベンはこれを批判し、政治はその起源から生政治であったとする。アガンベンによれば、ローマ時代の特異な囚人「ホモ・サケル」とは、bios(ビオス、社会的・政治的生)を奪われ、zoe(ゾーエー、生物的な生)しか持たない存在であるという。アガンベンはそのような生を、ベンヤミンを受けて剥き出しの生と呼び、生政治はこの「剥き出しの生」を標的にしていると説いている。
この経済学が科学的性格[画一性]を帯びるようになったのは、ようやく人間が社会的存在となり、一致して一定の行動のパターンに従い、そのため、規則を守らない人たちが非社会的あるいは異常とみなされるようになってからである(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月7日
弱者は、よく社会のルールを守る。なぜなら、彼らが生き抜くには、みずからの欲望を押し殺し、しぶしぶ社会のルールに従うしか術がないからである。だから、彼らは善人になるしかない。善人とは、与えられた社会的ルールに、何の疑いをも持たずに従っている者なのだから。『善人ほど悪い奴はいない』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月6日
V. パレート(伊・仏, 1842-1923):パンタレオーニの影響下に経済学の研究を始め、序数的効用から有名なパレート最適を定義した。また彼は人文社会科学の統一分野としての社会学を提唱・研究し、その非合理的人間行為についての洞察はパーソンズにも影響を与えた。主著『経済学提要』(1906)他。
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月6日
それらの物[独占されている諸商品]の価格は、その自然価値とはなんらの必然的関係をもたない。しかし、競争下におかれていて、その分量をいかなる程度でも増加させうる商品の価格は、究極的には、需要供給の状態にではなく、その生産費の増減に依存するだろう(D・リカードウ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月6日
死の至上権が働く、姿を消す決意をして、ルーセルは、彼の実生活がその中で他人達に姿を現すだろう、空の貝殻を定着する。-ルーセル論-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月6日
ドウォーキンはまず現代平等論の多様な流れとその意義について、平等論の課題を社会内における何らかの重要な資源配分の平等性に限定する「資源主義」と、福利次元という次元で発生する不平等(人間の資質や能力上の格差)の解消を目指す「福利主義」という二つの立場に整理する。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月6日
理論的国民経済学は経済的行為にたいする実際的提案を取り扱うものではなく、人間が欲望満足に向けて先慮的行為を展開するにあたってその基礎となる諸条件を取り扱うものである(C・メンガー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月6日
T. J. サージェント(米, 1943-):合理的期待形成学派の一人。ウォーレスとともにルーカス型生産関数と合理的期待仮説を組み込んだモデルによって、裁量的貨幣政策が実物経済に対して無効だとするサージェント=ウォーレス命題を提唱した。
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月6日
マルクス主義は、欧州においてもそれ以外の世界にあっても、政治的運動なしには存在しえませんでした。より正確に言えば政党の存在を抜きにしては機能しえなかったのです。-世界認識の方法-マルクス主義をどう始末するか-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月6日
行動の必然性を前にして、初めて、自分に対していかなる権利をも認めようとしなかったカフカの誠実さが人の心に迫るものとなる。ジュネの諸作品からどのような教訓が生まれてくるにしても、彼を弁護しようとしたサルトルの論告は、とても受理されないものだろう。-文学と悪-
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月6日
戦争は決して政治の目標・目的ではなく、ましてその内容ではないが、ただ戦争は現実可能性として常に存在する前提であり、この前提が人間の行動・思考を独特な仕方で規定し、そのことを通じて特に政治的な態度を生む。(シュミット『政治的なものの概念』田中浩ほか訳 未來社 1970年 p.27)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月6日
⑯そこでペルシア湾に世界じゅうの石油資本が殺到するという結果を生じ、当時の記録を見ると、その直後にあの付近の海面は、世界の石油会社が利権を設定して網の目のように区切られてしまう。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月6日
強制には、私が行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。あなたが自分の目標の達成を他人にとって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ(I・バーリン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月5日
そうして得られる有用性でなく言葉の「運動」そのものの企てがすなわち文芸ってもんである。[ルーセルの著作において]端緒の偶然は作品の内部へ、発見のチャンスとしてではなく、与えられたものとしての語を破壊しかつ再構築する無数の可能性として再び送り込まれている。僥倖は実際上の所要その戯れではなく、絶滅の無限な、そして各瞬間ごとに更新される、出口なのだ。-ルーセル論-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月6日
男神話(男根主義)は、男の体内深くに根を下ろしている。そして興味ぶかいことに、弱い男ほど最後の砦として「男」を手放したくないのです。あらゆる点で女に負ける男でも、いやそういう男であるからこそ、「男」という点にしがみつき、「おれは男だ」という幻想に耽っていたい。『ぐれる!』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月5日
私がイヤなのは、わかる努力をしようともしない人のところへ、なぜわかっている人が降りていかなくてはいけないのかということです。無知な私にわかるように学者や専門家は話すべきだ――こうした要求を出す人が当然のようにのさばっている状況がある。『人生、しょせん気晴らし』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月5日
⑭意識の転換は商品の選択に現われるが、面白いのは、それはまず雑誌・書籍等に現われ、それまでのベストセラーがしばしば紙屑になる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月5日
例えば戦争中のベストセラー、大川周明の『日本二千六百年史』は、戦後、昭和21年になったら、どれだけ在庫があっても資産とは考えられない。これは紙屑である。
酒を飲んで踊った夜のことを思い出して楽しい気分になる-私はカップル達にまじって、たったひとりで百姓のように、半獣神のように、踊っていた。たったひとりで?実を言うと、哲学者-サルトル-と私の二人が、向かい合って、不条理のポトラッチの中で、踊っていたのだ。『好運への意志』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月5日
法も実践の中で自然淘汰され形成される。自生的秩序の法としての「ノモス」、特定の立法者組織の設計図に基づいて形成される「テシス」とを区別する。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月5日
ルソーの敵達が彼の周囲に持続させている沈黙は、彼について流布しているあらゆる忌まわしい噂を意味する。その噂を覆っている沈黙はそれらを組織している陰謀を意味する。この予め準備された陰謀を隠している沈黙は、それを主導している人たちの絶えざる用心を意味する。-ルソー『対話』への序文-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月5日
急性期の病棟にいた頃、芝居の本番はもちろん気になっていたのだけど、穴澤神社の湧水で麦茶をつくらなきゃ、本番に間に合わないって焦ってた。そんな約束は誰ともしてないのに謎である。
https://iko-yo.net/facilities/1788
⑩これはオイルショックの時、50年前後の時もそうだが、あの転換は単にオイルショックがあったから起きたとは言えない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月5日
ただこの場合に我々がしばしば予測を誤るのは…マスコミに誘導されるからである。
以上が外圧と内部的変化の要因で15年ごとに一つの転換を起している状態である。
ハイエクによると、これまでの歴史を顧みるに人間が社会や文明を創造したのは、社会制度や文明の設計に関連する単一の知識体系が存在したわけではなく、無数の各人に分散された知識の相互的な交流や活用によって社会制度や文明が形成されてきたのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月5日
わたしは、天皇毒殺の場面を描いた作家に自民党の政治家が、上演を祝って花輪を贈り、共産党によって支持されている前進座劇団が、みずからの立場をヒューマニズムの範囲にとどめておくため真山青果の作品にさえ鋏をいれる現状に苦笑した。
— 花田清輝BOT (@hanada_kiyoteru) 2018年6月5日
快楽に関するテキストはどうしても物足りない。快楽は要求という間接的な形を通してしか語れないので、二拍子の短い弁証法から出る訳にいかない。ドクサ(通念)世論と、パラドクサ(逆通念)、異議申し立ての二拍子だ。快楽とそれの検閲以外の第三項がかけている。第三項は後回しにされるのだ。
— 「エクリ」チュール / ǝɹn⊥IᴚʞƎ (@textbot) 2018年6月5日
②もちろん外圧があっても、日本の社会の意識を転換さすにいたっていない場合もあり、変化が、単に外圧だけで起ったとも考えにくい。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月5日
いわば既に醸成されていたものが外圧が契機で表面化するといえる。
例えば昭和4、5年、世界的なパニックが日本に波及してきて外圧として作用している。
⑩従って、大量生産ができないものは、対応はできない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月5日
典型的なものは土地である。
人口増に対応しうるだけの土地開発をしろといっても限度があり、車をつくるというような形で、宅地需要に対応していけない。
これは土地の高騰を生む。
血圧は一日中一定ではなく、運動や入浴時、痛みや興奮、ストレスがあったときなど活動や刺激、感情等によって一時的に上昇しています。また、1日の中でも変動しており(日内変動)、一般的には、夜寝ている間は低く、朝起きて活動を始めると心臓から送り出される血液量が増えるため、朝から昼にかけて自然に上がっていきます。しかし、早朝に血圧が急上昇してしまう場合があり(=早朝高血圧)現在注目されています。
早朝高血圧は、起床後1時間以内に家庭で測定した上の血圧が135mmHg以上、または下の血圧が85mmHg以上を基準として診断されます。
外来の診察室で測定すると正常で、治療を受けている場合でも血圧がうまくコントロールされているようにみえるため、見過ごされやすいと言われています。早朝に血圧が急上昇する方や、日によって血圧の上がり方が異なる方は血圧が非常に変動しやすいと考えられています。
とくに早朝には脳卒中や心筋梗塞などの発症が多く、早朝高血圧は脳や心臓、腎臓すべての心血管疾患のリスクと有意に関連していると言われています。また、これらの疾患は症状もなく気付かないうちに発症するため、非常に危険です。
なお、早朝高血圧は寒さも関係していることがあり、寒い朝は血管が収縮し血圧が上がりやすいため、特に危険です。運動は血圧を上げるため、寒い朝の実施は出来るだけ避けるなど注意が必要です。早朝高血圧が起こる原因早朝高血圧の原因はさまざまですが、次のようなケースが影響しています。
高血圧の服薬治療が不十分
降圧剤の効果が十分に得られておらず、薬の効果が翌日の朝まで持続していない。
糖尿病や腎臓病、睡眠時無呼吸症候群などの持病がある
自律神経の障害と関連があるため、夜間も血圧が下がらず早朝に高血圧の状態になりやすい。
いじめが起こると「自分がされたらどんなにつらいか考えなさい」というお説教ばかり聞こえる。そうではないのだ。自分がつらくない些細なことでも他人はつらいかもしれないのである。自分とは感受性がまったく異なっているかもしれないのである。『<対話>のない社会』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月5日
匿名批評家の愚かしくあつかましい言動は、国王のように「われわれ」と一人称複数形で話すこと。一人称単数形にするばかりでなく、「小生」という縮小詞を用いるべき
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年6月4日
⑬この点では60年代を探ってみてもほぼ同じなので80年代も同じと見てよいと思う。こう考えると80年代は”伝統的発想”に人々が戻っていくのか、逆に離れていくのか、これを見定める事が予測の焦点になってくる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年6月4日
これを見る為に統計を調べていくと明らかに伝統的な発想に戻っていく傾向が強い。
社会構造上のプロセスは、個人が選択する際、自身がもつ選択肢の種類と幅に違いを生みだす。社会構造の働きにより提起される社会正義の問題は、こうした構造で生じる個人の選択肢の種類や幅の違いが公正なのかどうかである。(ヤング『正義への責任』岡野八代ほか訳 岩波書店 2014年 p.80)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月3日
私はいないかもしれない! 過去は存在しないかもしれない! この世はすべて夢かもしれない! デカルトはこうした懐疑の嵐に吹き飛ばされそうになり、「我思う」にしがみついた。ヒュームは「私」さえ存在しないと覚った。ニーチェは嵐にまともに向き合い狂気に陥った。『哲学者とは何か』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月4日
カブの千枚漬けみたいなものを食べて妻が「箸休めにいいね」と言ったのだが、俺はBishのハシヤスメアツコを思い出してしまった。
その上、社会科学においては、精神的事象の協働が問題となるが、この精神的事象を、追体験しつつ「理解する」ことは、当然ながら、およそ精密自然認識の定式によって解決でき、また解決しようとしているのとは異なる、特殊な性質をそなえた課題である(M・ヴェーバー)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年6月4日
真に自分の言葉を獲得するには、絶対的に他人を経由しなければならない。他人を理解すること・他人から理解されることの絶望的なまでの難しさを通じて、つまりいかに言葉を尽くしてもわかり合えないという体験を通じて、ぼくたちははじめて自分の言葉を発見するのだ。『「哲学実技」のすすめ』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月4日
聖アウグスティヌスは、生殖器官と生殖機能の猥褻さについて苦しげに主張した。「私達は糞と尿の間から生まれるのだ」と彼は述べている。『エロティシズム』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年6月3日
論争家にとってゲームは、相手を発言する権利を持った主体として認めるということではなく、可能な対話の相手としては否定しさることにあり、その最終目標は、困難な真理に出来る限り近づくことではなく、彼が最初から振りかざしている正義に勝利させることです。-論争・政治・問題化-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月3日
国民〔ネーション〕とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である――そしてそれは、本来的に〔国境によって〕限定され、かつ主権的なもの〔最高の意思決定主体〕として想像される。(ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体』白石さやほか訳 NTT出版 1997年 p.24)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年6月3日
ystem Setup(BIOS) を起動するには、次の手順を実行します。1 です。 お使いのコンピュータの電源を入れるか、再起動します。
2 です。 プロンプトで Dell のロゴでの F2 、 f2 キーを押します。
f2 プロンプトはキー \'83\'7b ードが初期化されていることを示します。The F2 prompt indicates that the keyboard has initialized. このプロンプトは非常に迅速に表示されます。 プロンプトを \'95\'5c 示される前に F2 を押した場合はこのキーストロークは失われます。 長く待ちすぎて OS のロゴが表示されている場合は、 Microsoft Windows デスクトップが表示されるまでそのまま待機し、 次に、コンピュータをシャットダウンして、もう一度やり直し
「優しい」人、すなわち他人に自分に対する「優しさ」を求める人は、他人に過剰な要求をする。彼らはけっして他人に向かって直接自分が傷ついたことを語らない――なぜなら、それは他人を傷つけるから――が、自分を傷つけた他人を一方的に裁くことはやめない。『うるさい日本の私』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月3日
正義原理の保障する背景的正義の枠組みの下で個々人が自由に各自の善を追及できることを強調し、善の多様な追求を可能にする公正な枠組みを与えることである。この意味において正義原理は人々の欲求や選考の追求に制約を課し社会経済的な背景制度を評価する「アルキメデス的地点」を設定したと言える。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月3日
と、ありもしない因果関係を求めてしまう。
正義原理の社会的諸制度への適用は手続的正義の観念によって、分配における正義については純手続的正義の観念を用いて説明される。分配における正義については、純手続的正義の観念により分配過程において基本構造における背景的正義が維持されていればそれでよいとする。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月3日
過去もなく、未来もなく、一つの現在から別な現在へと堕ちていく存在者の背後で、また日々に解体され、剥げ落ち、死に向かって滑っていくこれらの音の背後で、メロディは常に変わらず、若々しく凛としている。まるで情け容赦もない証人のように。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年6月3日
多分人類の記憶は宇宙に一滴も残らないであろう。このことを実感して、夜の電車の中にすしづめになり家路を急ぐくたびれ果てたサラリーマンたちを、その上に揺らめく刺激的かつ下品な吊り広告を見ていると、すべてがガラス細工のようにもろくはかなく美しく見えてくるのです。『哲学の教科書』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月2日
https://medicalnote.jp/contents/150610-000004-PNNCLG
脳は前頭葉・側頭葉・頭頂葉・後頭葉などの大脳や脳幹、小脳など、場所によってさまざまな機能を持っています。そのため、どの部分で脳卒中が発生するかによって障害の程度や症状が変わってきます。
脳卒中における障害の代表的なものには、大きく分けて以下の7種類があります。
意識障害
麻痺・感覚障害
言語障害
嚥下障害
高次脳機能障害
精神障害
半側空間無視
https://medicalnote.jp/diseases/脳出血
脳出血を起こしてしまった場合の再発予防や、MRIで微小脳出血がみつかり今後脳出血を起こしかねない場合の一時予防は、血圧コントロールが不可欠です。目安としては、収縮期血圧を120程度に管理することが望ましいとされています。
〈批判〉とは、人が認識しうるもの、なすべきこと、希望しうることを決定するために、理性の使用が正当でありうる諸条件を定義することを役割とするものだ。錯覚とともに、教条主義と他律性とを生み出すのは理性の非正当的な使用なのだ。-啓蒙とは何か-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月2日
表象が物に帰属させられてはいないこと、つまり多様性が予め結合したかたちで主観に与えられてはいないことこそが、他人との諸表象のやり取りを常に可能にする。なぜなら主観はどのように触発されるかによっては規定されず、表象を合成することにおいて自らを規定しているのだから。-カントの人間学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月2日
みんなから「ジコチュー!」と言われた瞬間に蒼い顔をして逃げまどう、その弱さがいただけないのである。みんなに同調したくないのなら、その理由を理論的にしっかり築きあげる必要がある。しかも、自分がその結果いかなる不利益を被ろうとも、その道を行く覚悟がなければならない。『生きにくい…』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月2日
バイクの免許を取ったことがないので詳しいことは知らないが、倒れたバイクの引き起こしができるかどうかが、試験で見られると聞いたことがある。
何らかの事故で転倒したケースを想定しているわけだ。
事故のないよう安全運転すべき、というのはそのとおりだが、その価値観を一面的に強調しすぎることで、現実的な備えを怠ることを正当化してしまう。それどころか、備えるから事故が起きるなどというトンチンカンな話にもなる。
入院中に一度、ベッドの上に置いたままだったCDウォークマンを片付けようと手を伸ばしてバランスを崩し、病室の床に尻餅をついてしまった。べつに怪我したわけでもないのに妻に連絡が行ったり、なんだか大騒ぎになって、無断で車椅子から立ち上がるという「素行不良」とコケたドジが咎められたのだが、なんてくだらねえことをいつまでも言ってやがるのかと俺は思っていた。先日、家の蒲団にわざと倒れ込んでみた。そうして自力で立ち上がってみた。「バイクの引き起こし」は教習所でもやるのでしょう? それを俺は独学でやったわけ。必要だから。
革命の闘士はそろって深い男女関係にもつれ込む。無頼派はみんな女に溺れる。彼らは基本的に人恋しいのである。こうした人々は、社会の因習に反抗するほど社会的動物なのであり、絶えず他者と喧嘩をするくらいに人間が好きなのである。『カントの人間学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年6月1日
そこで社会の成員を決定的に従わせる最も安定的で効率的な手段は、社会の成員から自発的服従を獲得することである。そのためには成員たちからその決定を正しいと認めさせるような「正統性」が必要である。そうすれば彼らは決定に自発的に従うはずである。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年6月1日
労働-経済活動-が世界の歴史に姿を現したのは、人間が土地から自然発生的に生じたものを糧とするには余りにも数多くなってしまった日以後のことに他ならぬ。生存するのに必要な物を持たず幾人かが死に、他の多くの人々も、土地に働きかけようとしなかったなら死んでしまったに違いない。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年6月1日
意に反して自由を侵害されている人を助けたり、最低限の衣食住や教育を与えられていない子供を保護したりするのは政府の仕事ですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年6月1日
自由の基盤提供だからですっ!
それ以外の自由な大人に対する福祉については政府の仕事ではありません!
自分や自発的な他人や地域社会の仕事です!
ねっ!
出発間際にベジタリアンの彼女は 東京に残した恋人の事を思う訳だ そう 空港ロビーのサンドウィッチスタンド でも彼女はデリケートな女だから コーヒーミルの湯気のせいで サンフランシスコに行くのをやめるかもしれないね
ホブハウスのニューリベラル思想における「公共善」の概念は、確かに社会を構成する全ての個人の善を包含し権利を従属させるという側面がある。しかし諸個人は自己の様々な能力を主体的かつ相互的に発展させることによって「公共善」の実現に貢献することができるのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年6月1日
いまだに対話の糸口を探しているお粗末な状況で、アメリカに拉致問題を丸投げするとは‥‥。笑えない話だが、安倍総理にとって内心穏やかではない出来事は他にも起きていた。
北朝鮮に敵対行為などの理由で拘束され、長期間にわたって領事面会も拒否されていた3人のアメリカ人が、5月9日に解放されたのだ。拉致問題を取材するジャーナリストはこう話す。
「アメリカのポンペオ国務長官が今年の3月末に極秘訪朝すると、その後、5月にもう一度訪朝したタイミングで解放されました。この成果に米国内で“トランプ株”は上がったのですが、日本では拉致被害者家族を支援する関係者の間で、『アメリカは2回平壌に行っただけで交渉をまとめられたのに、なぜ日本政府は長きにわたって何もできないのか』と、安倍総理に不満の声が上がっています」
日米で歴然とした交渉能力の差を見せつけられ、これでは安倍総理が拉致問題を解決する気がないと思われても当然だった。
最近のコメント