幻覚や神話を創りだすものは、生きられた空間の狭まりであり、諸事物が我々の身体内に根を張る事であり、対象の目も眩むような近さであり、人間と世界の連帯性であって、これは日常的な知覚とか客観的思考によって抑圧されているものであり、哲学的思考が再発見するものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年5月31日
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幻覚や神話を創りだすものは、生きられた空間の狭まりであり、諸事物が我々の身体内に根を張る事であり、対象の目も眩むような近さであり、人間と世界の連帯性であって、これは日常的な知覚とか客観的思考によって抑圧されているものであり、哲学的思考が再発見するものなのである。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年5月31日
パスカルをもち出すまでもなく、すべての人は死刑囚であるという喩えはどこまでも真実だと思います。すべての人は生まれた瞬間に「百年のうちに死刑は執行される、しかしその方法は伝えない」という残酷きわまりない有罪判決を受けるのです。『「死」を哲学する』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月31日
90年代初頭に巻き起こったシューゲイザーとは、ジーザス・アンド・メリー・チェインを源流とするムーヴメントのことで、〈Shoe=靴+Gazer=見る人〉をいう意味そのままに、下を向きながら轟音ギターを掻き鳴らすUKロックの一部分の総称。轟音ギターと言ってもただうるさいだけでなく、幾重にも重なったフィードバック・ノイズの荒波の中にある繊細なメロディーや、深いエコーとリヴァーブの掛かったヴォーカルなど、浮遊感溢れるエンジニアリングも特徴のひとつで、〈メランコリック〉〈憂鬱〉という内省的な言葉がキーワードになっていた。時代的にも音楽的にも近しいシーンであった〈ハッピーヴァレー〉や〈マッドチェスター〉と同様の不思議なジャンル名は、メディアがでっち上げたジャンルというのが一般的な見解で、当時のアーティストのインタヴューでも怒りを伴った発言がたびたび聞かれた。
ともあれ、そんなシューゲイザー・シーンの代表的なアーティストには、90年代だけでなく20世紀を代表する名盤のひとつ、『Loveless』で確固たる地位を築いたマイ・ブラディ・ヴァレンタインを筆頭に、立て続けにリリースしたシングルにより一気にシーンの中心に躍り出たライド(メンバーだったアンディ・ベルは現在オアシスのベーシスト)、長らく廃盤でプレミアのついていた名盤『Whirlpool』が今年ついにリイシューされて話題を呼んでいるチャプターハウスが挙げられる。このあたりのバンドは〈シューゲイザー御三家〉と言っても差し支えないだろう。他にも、スロウダイヴやラッシュ、ペイル・セインツ、スワーヴドライバー、ブラインド・ミスター・ジョーンズ、カーヴといったバンドがこのシーンを賑わしていた。
そして90年代の日本でも、〈新世代バンド〉なんて呼ばれ方でフォロワー的なバンドが数多く出現。PAINT IN WATERCOLOUR、WHITE COME COMEといったバンドが人気を集めたほか、マンチェスター~インディー・ダンス寄りではあるものの、まさかの再結成を果たして今秋には新作までリリースする予定のVENUS PETERが当時の日本のシーンでは代表格とされている。下北沢のZOO、吉祥寺のBAR DROP、恵比寿のCOLORSといったクラブでも、週末ともなればかなりの人数が押し寄せて大盛り上りを見せた。
その後、ニルヴァーナなどのUSグランジ・シーンが台頭して、次第に勢力は衰えていく。しかし、ムーヴメントとしては非常に短命であったものの、前述した『Loveless』を筆頭に、現在活躍するエレクトロニカ系のアーティストなどがその影響を公言しているのも興味深い。
こうした人格の自己決定能力に基づく「人格の成長」こそリベラリズムを支える第二の基礎であり、第一の基礎である「人間の究極的同一性」と併せて、全ての人間はほぼ同一に自己決定能力を持ち、この能力を発展させることによって人格の成長を図ることができるとホブハウスは考えていた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月31日
マイノリティを押しつぶす加害性、それにもかかわらずそれに気づかない鈍感さ……ああ、嫌いだ、嫌いだ! こうした人は「いい人」なので、その暴力性を訴えても、何のことかわからない。『私の嫌いな10の人びと』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月30日
浅はかな者が、その暴力性・欺瞞からてっとりばやく身を引き剥がした気になれるのが露悪という方法である。
なんてもののはたいてい、己の過去の(積極的な)忘却と、同世代への観察眼の欠如に支えられている。そうして
「最近の若者は」とオッサンオバサンが説教するとき、自分が若い頃のことを棚上げにするからまるで説得力がないし、そもそも「最近の若者」一般の価値観などというものは、どこを探したってありはしないのだ。その世代に支配的なある種のパラダイムはむろん存在するだろうが、多くの場合、判断の根拠を「世代」という属性に求めるという通俗的かつ牽強付会なフィクションに過ぎない。
ある拘留者は我々にこう書いてきました、「囚人は果てしない社会的攻撃傾向の対象なのだ」と。これは政治犯に関することではないので、この言葉遣いは人を驚かせることでしょう-でも残念なことですが、この指摘は恐ろしいまでに真実なのです。-監獄についての調査、沈黙の鉄格子を打ち破ろう-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月30日
私は世界を惑乱させる 私は死につつあるのだ 私は世界を忘れ 世界を埋葬する 私の骨の墓穴の中へ ああ不在者の しゃれこうべの 私の目 希望 ああ私の木馬よ 暗闇の中の巨人よ 一頭の木馬にまたがった あの巨人 あれは 私なのだ 『好運への意志』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年5月30日
私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をすることがない。何も受け取らないし、何も与えることはない。独学者はものの数にも入らない。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年5月30日
『精神現象学』は、円環を完結させるべき二つの運動を合成している。即ち、自分自身の(人間的自己の)認識の段階的完了がその一つ、もう一つは、知識を完了させる(そしてそれによって己の中の個別性を破壊し、従って自己自身の否定を完了し、絶対知となる)この自己が、全一者(神)となることだ。
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年5月30日
マルクスは、「人間の社会化」が全利害の調和を自動的に生み出すだろうという結論を引き出した点はただしかった。そして、すべての経済理論の根底にある「共産主義の虚構」を現実に樹立すべきだと提案したとき、マルクスは自由主義者である彼の教師たちより勇気があったにすぎない(H・アーレント)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月30日
ってのは何事かを成し遂げた実績の総和であって、ポテンシャルの自己申告でもなきゃ、他者を鮮やかに見下すことでもねえから。
人間は、みずからそう考えるところのものであるのみならず、みずから望むところのものであり、実存してのちにみずから考えるところのもの、実存への飛躍ののちにみずから望むところのもの、であるにすぎない。人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない。-実存主義はヒューマニズムである
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年5月29日
と言やぁ最近の野次馬妙に偉そうな空気が充満
一銭たりとも払わず気分だけは一家言持ったコンシューマー
生物有機体においては、成長に伴い内部における組織と器官の分化が生じ、組織と器官が相互依存関係を増大させることによって生命が維持される。社会においても規模の拡大に伴い内部における組織や集団の分化が生じ、組織や集団が相互依存関係を増大させることによって人間関係が維持されるのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月29日
上手く反論できない場合に議論相手の属性を決めつけ相手の意見を矮小化すること
⑥《しかもその答えはまるで口を合わせたように直接の殺し合いの話になると、よく憶えていない、話したくない、殺したかも…と言葉を濁し、最後にその時は悪いと思っていなかった、判断するゆとりさえもなかったが今では…とくる。まるでパターンだ。どれもがもっともらしい言い逃れのパターンである》
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月29日
Ca拮抗薬
局所性浮腫(むくみ)主に、足首、足の甲、下腿、まぶた、手指など、頭痛、ほてり感、動悸など
ACE阻害薬
空咳(からせき)、口の中・のど・まぶたなどの突然の腫れ(血管浮腫)、高カリウム血症など
ARB
ACE阻害薬の特徴を併せ持つが空咳(からせき)の副作用がほとんどない薬
利尿薬
電解質異常(低ナトリウム血症、低カリウム血症、高カリウム血症など)、脱水、高尿酸血症(痛風発作の原因)、血糖値の上昇(耐糖能障害)、血液中での脂質の異常、など
β遮断薬
徐脈(脈が遅くなる不整脈)、気管支ぜんそくの悪化、糖尿病・脂質異常症の悪化
[かつて]自由という言葉は圧政からの自由、つまり他者のどんな恣意的な圧力からもあらゆる個人が自由でなければならないことを意味していたのであり、従属を強いられている権力者たちの命令に従うことしか許されない束縛から、すべての個人を解き放つことを意味していた。(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月29日
そして私はただ一つしかなすべき返答をもたなかった。「君は自由だ。選びたまえ。つまり創りたまえ」と。いかなる一般道徳も、何をなすべきかを指示することはできない。この世界に指標はないのである。-実存主義はヒューマニズムである
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年5月29日
風に当たりたいと思うが、段差を超えることができない。
供犠(犠牲)は熱狂であり、共通労働組織を構成する個々人の内奥性がその中で取り戻される。暴力がその原理である。だが、時空の面で労働がそれ(暴力)を制限する。共通物を結合し合わせるその解放は、俗なる時間の労働の中に彼らを縛り付ける。『呪われた部分』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年5月29日
現在への己れの帰属を問うとは、ある教養やある伝統への己れの帰属を問うことではない。ただ単に一般的な人間の共同体への己れの帰属を問うことでもない。ある種の〈我々〉、即ち自らの現在性によって特徴付けられているような文化的な一総体へと関わるような〈我々〉への己れの帰属を問うことなのだ。
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月29日
スペンサーは19世紀後半のイギリスにおいて「総合哲学体系」と称する思想体系を構築し、自然科学から人文社会科学に至り「進化の概念」に基づく議論を展開した。スペンサーによる社会進化論は欧米の社会理論を席巻し、「包括的で影響力のある大きな一つの表現を創造」した。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月29日
居間まで遠い。
とくに朝は身体がこわばっているから。
脚が重い。股関節が痛む。
光景の方向付けに重要なのは、客観的空間内の物としての実際にあるがままの私の身体ではなく、可能な活動の系としての私の身体であり、その現象的な<場>が自分の任務や状況によって決定される潜勢的身体なのである。私の身体はそれがそこで何かをしなければならないその場所に在る。『知覚の現象学』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年5月29日
…政治権力とは、固有権の調整と維持とのために、死刑、従って、当然それ以下のあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、また、その法を執行し、外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも、すべて、公共善のためだけにそれを行う権利である…(J・ロック)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月27日
ある種の居心地の悪さというのは描写の対象になる。稀にそれが理解できぬ者があるが、そんなの相手にしてもしょうがない。下手に言い分に耳を傾けて表現を中途半端にするより、きっぱり捨てるべきだ。トレードオフである。
つまりここで政策評価が見たいのはアウトプット(実施活動の量)ではなくアウトカム(実施活動の成果)なのである。pic.twitter.com/PCjv9kqL2Q
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月27日
……意志を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが、理解されなければならない。なぜなら、この制度においては、各人は、他人に課する条件に必然的に自分も従うからである。(ルソー『社会契約論』桑原武夫ほか訳 岩波文庫 1954年 p.51)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月26日
「フリーライダー」とは、(a)費用拡散・便益拡散 の時に、自分はコストを払わず他人の払ったコストによって生じた利益を享受しようとする者のことである。この点、公共政策の成果はその実現に努力したものだけではなく、同じ条件を持つ集団全てに及ぶためフリーライダーが生じやすい。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月27日
人びとが何を手に入れるべきかを「公平」という基準で決定しなければならないとすれば、何が「公平」かを、誰が決定するのか(M&R・フリードマン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月27日
あるものの経済的有用性は、ただそのもの自身によるだけでなく、そのものを使用することができ、またそれを使用するであろう人々の数によるのである。…物質的効用はすべて、それと相対的な人間の能力に依存するのである(J・ラスキン)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月27日
…すべての共同体はなんらかの善を目標にするのであるが、それらのうちでも最高の共同体、他のすべてを包括する共同体は、あらゆる善のうち最高の善のために、最大の努力をもってそれを目指すものである。これが国家と呼ばれるもの、すなわち国家共同体にほかならない(アリストテレス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月27日
㉑同じことをした言論機関もあるが、もちろんこの傾向は、あらゆる機関から家族・個人にまで及んでいる。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月27日
こういう場合、その大学や機関等の記す「戦中史」や「回想記」は、たとえ「直後にその場」という「現地性」と「同時性」を備えていても、信頼できる歴史でも記録でもない。
⑳しかし、その大学がその教授を総長に迎え、大学自体をその総長と固定することによって、自分の過去を再構成し、あたかも大学自体がその総長同様に被害者であったかの如き態度をとって、そのまま存続した。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月27日
⑲それは時には自己の責任を回避するため、一切を軍部に転嫁し、これを徹底的に罵倒するという形になったり、自分や自分の所属する機関を被害者に仕立てるという形になっている。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月27日
ある大学は軍部に追われた教授を総長に迎えた。
軍部に追われたというが、実際は、彼を追い出したのは大学である。
⑱従って当時の多くの人の記述に見られるのが、新しい時代に順応するための自己正当化の手段としての、過去の再構成である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月27日
⑰”終戦”は単に日本が戦争に敗れたというだけでなく、一つの革命だった。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月27日
昨日までの英雄は一転して民族の敵となった。
同時にすぐさま新しい独裁者が、軍事占領に基づく絶対の権威をもって戦後”民主主義”を推しすすめていた。
諸個人の監視、その性向に関する診断、その心的構造や固有の病理の分類といった一連の規律的技術の全体が、安全メカニズムのもとで繁殖し、まさそれが安全メカニズムを機能させている。-安全・領土・人口-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月27日
多くの場合、私の思考は言葉に結びつかないので、もやもやしたままだ。それは曖昧でおかしな形を描いて、呑み込まれていく。そしてたちまち私はそれを忘れてしまう。『嘔吐』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年5月27日
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/中曽根元首相日本再建に寄与「喜び」-%ef%bc%91%ef%bc%90%ef%bc%90歳コメント/ar-AAxQm4Z中曽根氏は、太平洋戦争や敗戦、戦後の経済発展に触れ、「敗戦を機に政治の世界に身を投じたが、日本の再興再建のために国民と働くことができたのはこの上ない喜びだ」と述べた。また、一貫して訴えてきた憲法改正については「与野党を問わず、国民世論の喚起と真に国民参加となる憲法の実現を目指し、国家の基本たるこの課題に真剣に取り組むことを期待している」と議論の進展を求めた。
ここで最も基本となる[自由主義の]原理は、われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということであり、この原理は、実際の適用に際してはほとんど無数のやり方がある(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月27日
かれは、ひどくアンモラルな態度で、おのれの旺盛な好奇心のおもむくがままに、舌なめずりをしながら、なんにでも食いついていくのだ。
— 花田清輝BOT (@hanada_kiyoteru) 2018年5月27日
批評は、思考の意味や作品の価値を精神医学的な還元から守ろうとするそのときに、相反する方法によりながら同じ結果に達している。批評はひとつの範例をつくる、すなわちひとつのケースを(『エクリチュールと差異』)
— デリダbot (@J_Derrida_Bot) 2018年5月26日
撮影したビデオファイルはprivate/avchd/bdmv/streamの中
世話を焼きたい人とは、自分が世話を焼きたい人に、世話を焼きたいときだけ、世話を焼く人です。彼らが、それはすべて自分の自己満足のためだと自覚してくれればいいのですが、おうおうにして相手に「感謝」を求める。『私の嫌いな10の人びと』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年3月24日
㉒その見方を確立するため対象を虚構化する。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月26日
しかし実体としての対象は、どうしても「心的秩序」通りに片づかない。
すると
「社会の壁は厚かった」
などと言って自分の気持を片づけるわけだが、軍事行動ではこれが、自分を、自軍を、本当に片づけるという形になってしまう。
⑳――他人には乱雑と見えても。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月26日
「片づける」
I副官もこの言葉を口にしたが、これは実に不思議な言葉である。
自分の「見方」に従って対象と自己を秩序づけるの意味であろうが、自分の娘が結婚する事を「娘を片づける」と言い、また「片づいてくれないと気持が片づかない」とも言い、(続
どうやら語彙体系の中に、外形は同一なのに正反対の意味を備えているような言語がいくつかあるらしい。例えば「ブルジョワジー」は歴史的、進歩主義的な存在として見なされるときは良きものとなるが、担保を取って安全な立場にいるものとしては悪しきものとなる。
— 「エクリ」チュール / ǝɹn⊥IᴚʞƎ (@textbot) 2018年5月26日
⑲それは自己の「見方」の絶対化・神聖化であり、見方の違う者は排除し、自分の見方に同調する者としか口をきかなくなる、という状態である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月26日
そして自分の「見方」にだけ従って、あらゆる問題を片づける。
そう、たとえ鉄パイプをふるうにしても、確かに何もかも徹底的に片づけている。
過去が「再現」できるのだから、過去はどこかに保存されているはずだ、という誤解からタイムトラベルという壮大なおとぎ話が生ずる。過去へは絶対に戻れない。なぜなら、「戻る」とは空間における場所に戻るのであって、過去とは空間的場所ではないからである。『明るいニヒリズム』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月25日
今朝、テレビを見ていたら「仲間で費用を出し合って石碑を建てた」とか言っていて、言わんとすることはわかるのだけど、仲間でお金を出し合って費用を負担したんだろう、あるいは費用を仲間で分担したとか。費用を出し合うっておかしくねえか?と思ってしまった。
エフェクター、アンプを売却。案の定二束三文だったが廃棄するより遙かにマシだ。
https://kotobank.jp/word/幻肢痛-492109
すでに切断された手や足がまだあるように思われ、痛みを感じる状態。
に留守電機能みたいなのがあり、身体が不自由ですぐに出ることができないから、しょっちゅうこれに切り替わってしまい、かえって不便。
財務省が23日に国会に提出した森友学園との国有地取引をめぐる交渉記録で、同学園の籠池泰典前理事長と諄子夫人が、応対した近畿財務局の職員らにたびたび悪態をついたり、激高したりしていたことが分かった。特に諄子夫人に傾向が強く、近畿財務局側は対応に苦慮したとみられる。
「あんたら、いじわるや。死んだら地獄に行くぞ」「もう止(や)めだ。鬼、悪魔。あんたらばちあたるで」「お前らは信用できない。子供にも祟(たた)るぞ」
当時の国家論は、集団生活を成立させる機能として国家を作ったという社会契約説や、国家とはブルジョワジーが自分の既得権益を守るために作った暴力装置であるというレーニン的な国家論が一般的であった。つまり、国家とはルール体系であり、機能性を重視したシステムなのである。しかし、吉本は、国家とは共同の幻想であると説く。人間は、詩や文学を創るように、国家と言うフィクションを空想し、創造したのである。これはルイ・アルチュセールのイデオロギー装置論に似ている。人間は自分の創り出したフィクションである共同幻想に対して、時に敬意を、時に親和を、そして時に恐怖を覚える。特に、原始的な宗教国家ではこれは顕著である。その共同体で、触れたら死ぬと言い伝えられている呪術的な物体に触れたら、自分で本当に死ぬと思い込み、心的に自殺すると言う現象も起こりうる。個人主義の発達した現代でも、自己幻想は愛国心やナショナリズムと言う形で、共同幻想に侵食されている。共同幻想の解体、自己幻想の共同幻想からの自立は、現在でもラジカルな本質的課題であると吉本は指摘している。
ジェンダーはそこから多様な行為が導かれる安定したアイデンティティや行為体の場と解釈すべきではない。ジェンダーはひそかに時を通じて構築され様式的な反復行為により外的空間に設定されるアイデンティティなのだ。(バトラー『ジェンダー・トラブル』竹村和子訳 青土社 1999年 p.247)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月24日
「なあ、おまえ」と語り出したら要注意。「ほんとうにおまえのために迷惑しているぞ」と言うのならわかる。「もうあきれてものが言えない」と言うのならわかる。しかし「おまえ、それじゃ生きていけないぞ」という説教の臭いを発し出したら、そんな奴は蹴飛ばしていいのです。『私の嫌いな10の言葉』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年3月12日
サンクコストとは、既に回収が不可能であるコストを意味します。
サンクコストは英語で「Sunk Cost」と言います。Sunkとは沈むという意味であり、沈んでしまって取り返すことのできない状態であることを示しています。ですので、サンクコストは「埋没コスト」と呼ぶこともあります。
サンクコストの「コスト」は日本語の費用に当たります。お金の費用や、労力などの人的コストです。ンクコストは、わかりやすい言葉で言うと、「どうやっても取り返すことのできないコスト」となります。すでに支払ってしまった費用、取り返すことのできない過去の時間はサンクコストの対象です。あなたがスタジアムに到着して前売りチケットを忘れたと気づいた時、忘れたチケットは何をしても取り返すことができません。つまり、忘れたチケットに費やしたコストは、スタジアムに到着したあなたにとってどうやっても取り戻すことができないため、明らかにサンクコストです。
ですので、スタジアムに到着して当日券を買うかどうかの意思決定に1枚目のチケットのコストについては無視すべきです。新たなチケットの購入という意思決定にサンクコストは全く関係がないからです。戻ってこない費用のことを、サンクコスト(埋没費用)と言います。ファイナンスや経済学ではよく使われる用語です。
サンク(Sunk)とは「Sink:沈む」の完了形で、サンクコスト(Sunk Cost)とは「沈んでしまってすでに回収が不可能な費用」を指しています。
これから何かをする時には、サンクコストを気にする必要はないのですが、多くの人はサンクコストに引きずられて、未来の判断を誤ってしまう傾向があります。
このような心理現象は、経済学ではサンクコスト効果、行動経済学ではコンコルド効果と呼ばれます。どちらも意味は同じです。
例えば、1800円を支払って観始めた映画がつまらなく感じたとします。
「つまらない」と感じたなら、すぐに映画館を出れば別の楽しい時間を過ごせる可能性がありますよね。ですが多くの人は、「支払った1800円がもったいない」と感じて、つまらないのに最後まで映画を観ようとしてしまいます。
支払った1800円は何をしても戻ってこないのに、未来の判断に影響を与えてしまうんですね。
⑪この奇妙な分裂的状態もまた徳川時代からつづいている。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月24日
そして内的規範と外的規範を共に律する聖天子らしきものが出現したのが、帝国憲法と教育勅語を下布した明治天皇のときであったろう。
片付いたら執筆を開始しよう。いつになることやら。
根本原則では自ら決定した法則に従い行為せよという個人の自発性、主体性と普遍化可能性が言い表されている。自らの利益欲求に支配されずに自ら決定した道徳法則に従ってこそ人間は自由になれるのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月24日
文庫本用のスリムラックを買い、これで片付くぞと思っていたのだが、すぐにいっぱいになってしまい、焼け石に水。
本棚とソファベッドを購入。今日、届いた。本棚はさっそく妻が組み立ててくれた。が、ベッドはまだ。友人の力を借りるつもり。居間の蛍光灯もLEDに交換しようと購入済み。
…人々が、常に自分自身の利害を心得ているほどに完全無欠の知力を備えているとすれば、彼らは、同意に基づいて立てられ、社会の全成員によって十二分に検討され尽くした政府以外には服従することはなかっただろう。…このような理想状態もまた…人間性をはるかに越えた事がらである(D・ヒューム)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月23日
[古典派の第二公準(労働供給の公準)=]一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月23日
[古典派の第二公準(労働供給の公準)=]一定の労働量が雇用されている場合、賃金の効用はその雇用量の限界不効用に等しい(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月23日
ランス語で〈書くこと〉〈書かれたもの〉の意味。1960年代フランスでM.ブランショやR.バルト,J.デリダらによって,主体の自覚的な意味作用を超えた言語の自律性と他者性を強調する,哲学・文学批評上の重要な概念となった。バルトの《零度のエクリチュール》(1957年)は,個々の作品を超えた特定の時代の文学作品に共通する傾向として,デリダの《エクリチュールと差異》(1967年),《グラマトロジーについて》(1967年)は,つねに他者性の痕跡をとどめた文字言語として,この概念に注目している。
ショーペンハウアーの場合に見られる、ああした病的で危険な同情の鬱積に、それが一思いに吹き飛ぶように、一撃くれてやるような、そうした手段を、我々は実際、生の本能から探し出さなければなるまい。-偶像の黄昏-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年5月23日
人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば「キリスト者は正しきを行い結果を神に委ねる」――か、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきとする責任倫理の準則に従い行為するかは底知れぬほど深い対立である。(ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳 岩波文庫 1980年 p.89)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月22日
その人の語る言葉が、どれだけ個人の色彩を保っているかが重要なのだ。その人の言葉はその人から出て、しらずしらずのうちにその人に逆流してその人のうちに住み着く。その人の血を肉を作ってゆく。『悪について』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月23日
「今年も最後の花火になったな」とした方が日本語の収まりとしてはいいだろうし、仮にそうしても語られている事実関係は一緒である。譜割を買えなくとも歌えなくはないむしろ歌いやすいかも知れない。けれども、主人公(視点人物)の身に起こったことを時系列で整理すればまず、最後の花火が上がったのである。それを目にした体験が、「(去年もそうであったように)今年も」という思いを召喚するのだ。そのようにしてゆるやかな因果関係を示しつつ、またた、あえて言葉をきしませることで、そのノイズが、物語の表層的なプロットに回収されることなく、主人公の心理描写にもなっている。単に事実関係を伝達すればいいってもんじゃないのである。新聞記事じゃあるまいし。ここいらのことは川端『雪国』の「そこは」問題にも通底する。それが文芸ってもんである。
A. クルノー(仏, 1801-77):数理経済学の先駆者。ワルラスやマーシャルに影響を与え、そのクルノー均衡のアイディアはナッシュ均衡の先駆として捉えられる。極大化問題に微積分を初めて採用し、独占理論や複占理論を構築した。主著『富の理論の数学的原理に関する研究』(1838)等。
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月22日
ヘヴィメタルを聴けばただの雑音にしか聞こえないだろう。ピッキングハーモニクスとハウリングの違いも認識できないはずだ。できなきゃできないで黙って通り過ぎればいいものを、なぜそんなことをする「必要」が?とか言いわずにおれぬ愚か者がある。
作品と精神錯乱を結びつける言葉の結合は、とても頻繁に見かけられるが[…]奇妙で野蛮な言葉の結合です。精神錯乱の中には作品はありえません。ただ、言語はその根底から作品を可能にしているのですが、言語が更に作品を狂気の経験的な空間に対して開くことはありえます。-ルソー『対話』への序文-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月22日
時間認識は徹底的に「想起」という作用を中心に成立し、「想起している時」が現在であり「想起の対象の時」が過去である。よって、想起能力のないものは時間の認識能力もない。過去を形成する能力のないものは時間認識能力もない。『時間論』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月22日
私は何気なく本を読みはじめ少し考えてみたりするだけであるが、突然、幾つかの語が私を目覚めさせ、火がつき、様々の考えが燃え上がり、本の中には私を無関心のままにしておくような物は何もなくなり、火は、読書の行為によってそこに投げ入れられる全ての物を燃料にして燃え盛るのだ。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年5月22日
哲学のみではない。一般に議論が有益であるためには、相手に勝とうとする気持ちを押し殺さねばならず、自説にしがみつこうとする態度を振り捨てねばならない。そして、これが誰にとっても(政治家の醜態を嘲笑する人にとっても)とりわけ難しいことなのだ。『生きにくい…』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月22日
定まらぬ話にはつき合わないよ。疲れてしまうから。
市場は良いものを残し悪いものを淘汰するんですよっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月22日
もちろん短期的には完璧ではありませんけど、長期的にはそういう傾向を有していますっ!
わたしはロクシタンの化粧品を愛用してますけど、わたしが良いものだと思ってるからですっ!
特に香りがね!
情報を止めて仕事が滞るのが大嫌いなんだ。その滞った時間にリスクが含まれている。
いかなる政治権力であろうと、それが政治権力である限り人間の良心の自由な判断をふみにじり、価値の多元性を平板化し是に強制的な編成を押しつける危険性から全く免れてはいないのである。(丸山眞男「人間と政治」『政治の世界』松本礼二編注 岩波文庫 2014年 pp.62-63)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月21日
でLEDシーリングライトとベッドと本棚を購入。
商品の価値は,その商品の生産に費やされる社会的必要労働量により決定されるとする学説。等価交換の説明もこれを基礎にしてなされる。労働を富の父であるとした W.ペティに始り,A.スミス,D.リカードらにより発展させられ,K.マルクスによってそれまでの理論的欠陥が克服されて完成をみた。彼は労働と労働力を明確に区別して剰余価値の源泉である剰余労働を抽出し,利潤は剰余価値が転化したものにほかならず,商品の生産価格は商品の価値が転化したものにほかならないことを原理的に解明した。
社会に関してはレヴィ=ストロースが、無意識に関してはラカンが、意味というものが恐らくある種の表層的な作用、煌きか泡沫のようなものにすぎぬこと、そして、我々を深層において横断し、我々以前にあって、時と空間の中で我々を支えているのがシステムであるのを明かした。-シャプサルとの対談-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月21日
ベニヤ板にアルミホイルを貼る作業をしている。
ほんらいそういうのは俺の仕事なのだが。ほんとうに何の役にも立たぬ人間になってしまった。
ベンサムはこれを厳しく批判する。自然法の内容は不明確で、それ自体がアナーキーな性格を持つものである。フランス革命期のあの混乱は何であったのか、と。また自然法に基づいて裁判を行うとその不明確さゆえに予測・計算可能性を侵害してしまい裁判官に立法権を付与することにも繋がると論じた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月21日
は、5月20日だから、終わったんだな。じきに議事録が届くだろう。今年はさすがに欠席させてもらった。会場まで行くだけでもしんどいし。ほんと何もできなくなってしまったよ。
自殺をどう考えるかについては古典的自由主義の間でも意見がわかれてるんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月21日
妹たちは個人の自由っていうことが多いですけど......わたしは迷ってます。
たしかに自由ですけど、生命は自由の基盤ですから。
古典的自由主義者に自殺に反対の人が多いのは英国保守の影響もありますねっ!
[ポジティブな社会保障に向けて、]社会保障は、社会的実践における人間の能力の拡大、すなわち生の機会の拡大とその成果の達成に向けて積極的に貢献するものとして、ダイナミックな目標を持たなければならない(塩野谷祐一)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月21日
ガンガンぶつけまくって痛い。
「生の価値。」-生は一つの特殊な場合であり、全ての生存が是認されなければならず、生のみが是認されてはならない、-是認の原理とは、生を説明しうるがごとき原理のことである。生は何ものかのための手段に過ぎない。即ち、生は権力の生長形式の表現である。-権力への意志-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年5月21日
思い通りに行かなくて、悔しいというか情けない。
それで些細なことで泣けてくる。
ジョン・ロックによって自然法論が理論化されて以降、司法の政界においても裁判官が自然法に基づいた判決を下すようになっていた。法は理性の命令であるから自然法に合致してのみ正しい法であり、自然法から直接判決を下すことすら可能だと論じられていたのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月21日
自由主義は困っている人を見捨てろとは言ってないんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月21日
線引きをして画一的な強制力を働かせる政府よりも家族や友人やコミュニティなど身近で柔軟な社会の役割だと言ってるんです。
それに困ったことになる自由も人にはあるので、その自由を行使したい人を強制的に助けてはいけませんよねっ!
○○すべきでない。という命題①がそのとき理にかなったものであったとしても、環境すなわちそれが成立する前提が変われば、むしろ○○するのが合理的ということはありうるのだ。しかし、命題①を原理主義的に盲信すれば、理を置き去りにして合理的選択肢を捨象してしまうのだ。そうして「間違う」のである。
あまりにもゆっくり。まあ、たまにはいいか。身体のあちこちが痛い。
博士論文の審査委員会の反対質問の一つは私が『愚神[狂気]礼賛』を行おうとしているのでは、というものでした。そうではないのです。私は、狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそだということを言いたかったのです…。-狂気は社会の中でしか存在しない-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月21日
買い取ってもらう算段。
博士論文の審査委員会の反対質問の一つは私が『愚神[狂気]礼賛』を行おうとしているのでは、というものでした。そうではないのです。私は、狂気が科学の対象となったのは、狂気が古来から持っていた権力を奪われたからこそだということを言いたかったのです…。-狂気は社会の中でしか存在しない-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月21日
ヘーゲルによると人間の根源的なあり方は「欲望」であり市民社会は物を通じて相互関係にあるが、人間の欲望は相手を承認するわけではなく単に利用するだけだとする。欲望は「所有」として顕れるが、それを保護するために法や権利が主張される。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月20日
何もできなくて嫌になる。
次のように言うことができます。政治家とは異なるやり方で政治に携わるということ、それは、出来る限りの、誠実さをもって、革命が望ましいものであるかどうかを知ろうと試みることであり、政治を倒壊させる可能性の潜んでいる巣窟を探索することである、と。-性の王権に抗して-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月20日
この場から立ち去ることを妨げていないのだ。さっさとどこへでも好きなところへ行けばいいだろう。
資本主義においては、経済的活動や成功や物質的獲得が、それ自身目的となる。経済的組織の発展への寄与や、資本の蓄積を、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となる。(フロム『自由からの逃走』日高六郎訳 東京創元社 1965年 p.127)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月19日
https://kotobank.jp/word/浮き足立つ・浮足立つ-209268恐れや不安を感じて逃げ腰になる。落ち着きがなくなる。 「敵の攻撃に-・つ」 「解散の気配に議員たちは-・った」
LEDに交換すべく、発注
アルシーヴの分析は一つの特権的な領域を含んでいる。それは即ち、我々に近接していると同時に我々の現在性とは異なるものとして、我々の現在を取り囲み、その上に張り出して、それをその他性において示すような時間の縁である。それは、我々の外で、我々の境界を確定するものなのだ。-知の考古学-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月19日
出ない。降圧剤の副作用だろうか?
http://president.jp/articles/-/24029?page=2「年齢とともに血圧が高くなるのは自然なこと」と松本医師はいう。「年をとれば血管は硬くなる(動脈硬化)。弾力を失った血管は拡張・収縮しにくくなるので、体のすみずみまで血液を送り込むのが難しくなります。そこで心臓は血圧を上げて、血流をよくします」それでは本当のところ、血圧はいくつまでなら安心なのか。浜医師は、「上は180、下は110まで大丈夫。これは各種の疫学調査から明らかです」と断言する。松本医師は、「やはり上は年齢プラス90が目安。しかしそれを大幅に超えた状態がずっと続くのでなければ気にしなくていい」という。降圧剤には種類がいくつかあり、現在の主流は前出のARBやカルシウム拮抗薬だ。これらの薬剤には炎症を抑える作用がある。
「免疫反応は、病原体や体内にできた異物から体を守るための防御システム。炎症は、免疫反応の重要な要素で、体にできた傷を治す働きです。ARBやカルシウム拮抗薬は炎症を抑制するので、これを飲むと炎症が目立たなくなり、一時的に健康になったかのようにみえる。しかし傷を治すための反応が起きないということは、傷を放置しているということですから、いろいろと不都合なことが起きます」(浜医師)
その1つが「がん」である。
「がんとはいわば体内にできる異物。免疫が正常に働いていれば、仮にがん細胞が生まれても小さいうちに排除できる。しかしARBやカルシウム拮抗薬を飲んでいると免疫が抑制されてしまうので、がんになりやすい」(浜医師)
感染症が全身に広がって死に至る「敗血症」も、免疫不全によって起こる。さらには高齢者が血圧を薬で無理やり下げた場合、脳に栄養や酸素が行きわたらず、認知症になりやすいという説もあるのだ。
商品の価値は,その商品の生産に費やされる社会的必要労働量により決定されるとする学説。等価交換の説明もこれを基礎にしてなされる。労働を富の父であるとした W.ペティに始り,A.スミス,D.リカードらにより発展させられ,K.マルクスによってそれまでの理論的欠陥が克服されて完成をみた。彼は労働と労働力を明確に区別して剰余価値の源泉である剰余労働を抽出し,利潤は剰余価値が転化したものにほかならず,商品の生産価格は商品の価値が転化したものにほかならないことを原理的に解明した。
気持ちが落ち着かず、幽霊になったような気持ち。ひょっとして、なったのか?
ヒドイっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月19日
再分配たんがわたしのこと市場原理主義って言ってくるんです。わたし、市場が完璧だなんて思ったことありません。誰もコントロールできないので個人の自由な行動に委ねてリスクを分散させるんです。
政府が市場を完全に把握して適切に介入できるっていう方が原理主義ですよねっ!
意味
「有用性」と言う言葉の意味は、広い意味で何かに対して「役に立つ」「使える」と言う意味で使う言葉になります。実際に使ってみて良かった、実際に使ったら欠かす事ができない存在になった、と言う意味で使用される事が多く、実際に使ってみた後に使う事が多くあります。
「有効性」の意味
「有効性」と言う言葉の意味は、その方法や道具を使用することにより、置かれた状況を解決するためや、ある目標においてそれを達成する事ができるかどうかと言うのを基準にして、使用するかどうかを決める時に使用する言葉です。例えば、風邪薬と言うのは風邪を治すために使う物ですが、風邪薬は風邪を治す事ができないと有効と言われるようにはなりません。なので、「有効性」と言う言葉の意味は、ある目的を果たす事ができるかどうか。と言うのにあります。そして、主観性よりも客観的な視点から立って使われる事が多く、データーや各種結果などを参考にした結果を意味して「有効性」と表現する事が多くあります。ただ、意味が似ていると判断されているのか、「有用性」の代わりとして使用している人もいるので、混合して使われていると言う事を覚えておきましょう。
労働が対象の形をとること、それが疎外としてあらわれるのだが、この疎外は、労働者が対象を生産すればするほど、所有できる対象はそれだけ少なくなり、かれは自分の生み出した資本にそれだけ大きく支配される、という形で進行する(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月19日
芸術の唯一の起源は理念の認識であり、芸術の唯一の目標はこの認識の伝達である。
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月19日
政府の仕事は、刑罰と報償によって、社会の幸福を促進することである。(ベンサム「道徳および立法の諸原理序説」関嘉彦責任編集『世界の名著49』中央公論社 1979年 p.148)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月18日
改修工事の済んだ風呂で、シャワー。さっぱり。使いやすくなった。風呂上がりに炭酸水で水分補給。
[かつて自由は圧政からの自由を意味していたが、]社会主義が主張するようになった「新しい自由」は、(客観的)必然性という言葉で表現されるような範囲……をどんな例外もなく制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月18日
[かつて自由は圧政からの自由を意味していたが、]社会主義が主張するようになった「新しい自由」は、(客観的)必然性という言葉で表現されるような範囲……をどんな例外もなく制限してきた環境的な諸条件による制約からも、人々を解放することを約束するものであった(F・A・ハイエク)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月18日
私たちの血圧が年とともに上がるのは、おおむね老化という自然現象によるものです。
私たちの血管は加齢によって細くなり、弾力がなくなってきます。そのぶん、血液を押し流す圧力を高めないと、血液の流れが悪くなるのです。
つまり、加齢とともに血圧が上昇するのは、体が血流をスムーズに保とうとする適応反応といえます。ですから、基準値を少し超えたからといって、すぐに薬(降圧剤)を飲むのは考えものなのです。
というのは、硬くなった血管に弾力がなくなることで、血流が滞るので、体はわざわざ血圧を上げているわけです。それを薬で無理に下げれば、体の隅々まで栄養や酸素が行き届かなくなります。その結果、さまざまな症状に悩まされるようになるのです。
自分が神を殺したと告示するのは、自らの言語、自らの思考、自らの笑いを既に死んだ神の空間に置きつつ、また、神を殺し、自らの実存がこの虐殺の自由と決定を包んでいる、そのようなものとして自らを示す、末人なのではないか?こうして末人は神の死よりも古いと同時に若いものとなる。-言葉と物-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月18日
さっきラジオで言っていた、『自分は無宗教で神様も仏様も信じてない、だけどお地蔵さんを蹴れるかっていうと無理だし賞味期限切れのおにぎりを踏めるかっていうと無理』という話、とても大事な気がする。 そういうのが根っこにあるものとして暮らすけど、たまにそれが無い人に出会うと怖いと感じる。
— ずーぽこ (@Zoo_YZF_R1) 2018年5月16日
⑦今もこういった虚報が横行しているのかどうか、それは私は知らない。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月18日
しかし、もし横行しているなら、おそらく同じ原則に基づいていると思うから、まずこの原則を追究してみようと思う。
しあわせになりたいなあ。えへっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月18日
なれるかどうかはわたし次第ですねっ!
だってわたしにとって何がしあわせかはわたしにしかわからないんですからっ!
だからヘンな方向に行っちゃうかもしれない強引な手助けはいらないから、わたしがすることの邪魔はしないでほしいなあって思います。
だめ?
利益集約機能とは具体的課題として表出された多種多様で相互対立するニーズを調整統合し、それらを実行可能な政策選択肢にまとめて国民に提示する機能である。特に現代大衆国家において政党は主に利益集約機能を担い、利益団体が主に利益表出機能を担っている。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月18日
政府の任務とは、立法府が制定した平等な法律を公平に執行することによって国家設立の契約に参加した人々=人民の自然権を保障することである。それゆえ政府の権限 は当然のことながら人民の自然権の保証という目的によって限定され、人民各人の内面・精神的な問題に介入することは許されない。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月18日
…労働の自然価格は、労働者とその家族の扶養に要する食物、必需品および便宜品の価格に依存している。食物および必需品の価格騰貴とともに、労働の自然価格は騰貴するだろう。それらの物の価格下落とともに、労働の自然価格は下落するだろう(D・リカードウ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月18日
政治哲学の根本問題は、いやしくも何らかの国家がなければならないのかどうかにあり、この問題は国家がいかに組織さるべきかの問題に先行する。なぜ無政府状態〔アナーキー〕にしておかないのか。(ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳 木鐸社 2012年 p.4)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月18日
政党の媒介的機能は更に細かく「利益表出機能」「利益集約機能」「政治的補充機能」の3つに分けられる。利益表出機能とは国民の中に潜在している曖昧で抽象的なニーズを具体的な課題に転換して政治的決定に反映させる機能のことである。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月18日
安定していないこと。それこそが世界がここにこうして存在するときの定まった形なのだ。
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月18日
https://ja.wikipedia.org/wiki/公共
公共(こうきょう)とは、私 (private) や個 (individual) に対置される概念で、英語のパブリック (public) を翻訳した言葉。
公共とは社会全体に関すること[1]を取り扱う上において利用される用語であるが必ずしも抽象・理念的なものではなく、「私」や「個」と相互補完的な概念である。例えば、村に一つの井戸を村人総出で掘って共同利用することは、きわめて公共性の高い活動であり、結果として、個人にも私人[2]にも恩恵をもたらす。ある種の協働や個人的なおこないが不特定多数の他人に、結果として広く利益をもたらすような状況はしばしば観察され、それらの類型がしばしば「公益」「公共行為」と見なされる。
しかし井戸の例では、井戸を掘ることが個人で井戸を私有することを否定するわけではない。個人私有よりも共同所有の方が合理的であるという個々人の合意が形成された場合に、はじめて共同井戸が成立する。「公共」の立場からは、「私」や「個」の利益を追求したとしても、全体の利益を考えた方が結局は合理的であるという結論にたどり着くという場合「公共」が成立するのであり、最初から全体の利益を優先して、個人や私人を意図的に信頼・重視しない全体主義とは異なる。
このことはヨーロッパにおける共同体の成立に個人主義が前提となったことの証左でもある(社会的ジレンマ参照)。河川・湖沼や交通機関など個人私有よりも共同所有が合理的と考えられるものを国や地方自治体の所有として共同管理するのも同様の考え方である。共同体(たとえば国、都道府県、市町村など)の構成員、参加者としての個人を、私人としての個人と区別する意味で、市民、公民 (citizen) と呼ぶ。国会議員、県会議員、市町村会議員は市民の共通利益を代弁するために公選された役人 (public elected officials) であり、公務員は市民の利益に奉仕する公僕 (civil servant, public servant) である。また、市民が共通の関心を有する出来事を知ったり、本来、議員や公務員の活動を監視するための情報媒体であったマスメディアは公器 (public organ) と呼ばれ、強い公共性が要請される。
交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところにしたがって、絶えず変化する…関係として、現れる(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月15日
今日は仕事もないのでゆっくり9時起床。 でもお風呂場の改修工事があるそうだ。なぜか頭の中で、くるりの『ばらの花』が鳴っている。
…経済法則はとりわけ、道徳的規定のような要請では決してない。経済法則はいかなる理想をも現実に対立させるものではなく、単に現実の事象の形像でなければならない(J・A・シュンペーター)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月17日
人間は一人であれ多数であれ、ほかの成人に向かって、〈あなたは自分の生活で自分がやりたいことを自分の都合でやりたいようにやってはならない〉と言う権限などない。(ミル『自由論』斉藤悦則訳 光文社古典新訳文庫 2012年 p.185)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月17日
独創的で非凡な、場合によっては不朽でさえある思想を抱くためには、しばらくの間世界と事物に対して没交渉になり、まったく新しい未知の姿で現れてくるようにせよ
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月17日
人の意見には反論しないほうがよい。変なことを信じている人の考えを変えようとしたら、何年経ってもケリがつかない。人の感情を害するのは簡単だが、人を矯正するのは、相当難しい
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月17日
芸術は構成や技巧、つまり空間や外界への巧妙なかかわり方ではない。それはまことに、ヘルメス・トリスメギストスの言う「光の声とも思われた言葉なき叫び」なのである。そしてこの叫びは、それが一度聞かれるや、通常の視覚の内に眠れる力、生誕以前の秘密を呼び醒ますのだ。『眼と精神』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年5月17日
ロックは、人間は自然に対して己の労働を投下することによって私有財産を無限に増やすことができると主張した。しかし、労働の成果であっても自分が利用できる以上の大量のものを所有し結果それを腐敗・無駄にすることは神の意志に反する、と私有財産の形成には一定の限界があると述べた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月17日
ロックは、人間は自然に対して己の労働を投下することによって私有財産を無限に増やすことができると主張した。しかし、労働の成果であっても自分が利用できる以上の大量のものを所有し結果それを腐敗・無駄にすることは神の意志に反する、と私有財産の形成には一定の限界があると述べた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月17日
ありやなしやの因果関係をプロットにした陳腐な物語に他人を回収しようとする、その手を払いのけなけりゃ。
[古典派の第一公準(労働需要の公準)=]賃金は労働の[価値]限界生産物に等しい(J・M・ケインズ)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月17日
古典的自由主義は18世紀末から19世紀にかけて政治的な自由主義と経済的な自由主義の融合によって理論化されたんですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月17日
ロックせんせー、アダム・スミスせんせー、モンテスキューせんせー、ヒュームせんせー、ヴォルテールせんせー、リカードせんせーたちの功績ですねっ!
「予防医学」に名を借り、「健康」を理由に掲げてアレコレの政策をやる政権は、勢い人間の選別・差別に走る。喫煙者を非人間扱いし、弾圧する動きが鳩山政権でも加速している。すでに1箱100円の値上げに踏み切り、さらにこの2月18日、厚労省は飲食店など公共の場所での全面禁煙を打ち出した。首相・鳩山は言う。
「国民のみなさんの御健康をお守りする意味でも、そうさせていただくのは良いことだと思います」
例によって敬語過剰の言葉使いには虫酸が走る。ホンネは40兆円を割った税収見込みの穴埋めだが、「健康」を理由にするところがアブナイ。笑顔のファシズムだ。
賢明な人は、苦痛や不快感から解放されようと努力し、できるだけ困難に遭遇せずにすむ、静かでゆったりした、つつましい暮らしを求める
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月17日
自分を不愉快にさせる蓋然性の高い相手を遠ざけるくらいの努力は必要だろう。
私が他人の言うことを聞いている時、私は発音された音の聴覚的知覚をもっているのだと言ってはならないのであって、むしろ言述が私のなかでおのれを語っているのである。『世界の散文』
— メルロ゠ポンティbot (@merleaupontybot) 2018年5月17日
過ぎたことに腹を立てたり、未来のことを心配したりして、せっかくのよい現在のひとときをしりぞけ、あるいは軽率にもこれを台なしにするのは、全く愚かな話である
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月17日
⑯聖書の相対化の世界がどのようなものか。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月17日
そしてその相対化の世界すら、日本に持ちこまれるとその相対性が消されて、一つの絶対性を付与され、臨在感的把握の対象とされてしまうかを、次に二例ほどあげて説明しよう。
日本は良いといわれている方向にみんな一斉に向かってしまう。自発的に言論統一している。私が日本社会で最も嫌いなのは、みずからが何が善か何が悪かを見極めようとせず、どんな悪でもいったん良いこととされると、それに対して疑いを持たないことです https://t.co/jtiVs6o70f
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月16日
私のどの分析も、人間の生活[存在]に関する普遍的必然という観念に対立するものです。私の分析は制度が持っている恣意性を明らかにし、我々が今尚いかなる自由の空間を享受することができるか、どのくらいの変化を今尚生み出すことができるかを明らかにするのです。-真理・権力・自己-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月16日
⑧言うまでもないが、会議内と会議外の異なった議決の発生は、前にのべた「空気の支配下におけるジグザグ型相対化」の一種である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月16日
そしてこのことは、人間は、自らのうちに対立を含む矛盾した存在であることが、「空気の変化」という形で、時間別に表われていることを示すにすぎない。
ホッブズの社会契約論は国家を地縁に基づいて形成された自然な共同体ではなく、人間の作為に基づいて形成された「結社」として捉えるという新たな視点を切り開いた。言い換えれば彼は国家を自然に存在するものではなく、人為的に創られたものだと発想したのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月16日
[自然的自由の体系における主権者の義務の三つ目は]…どのような個人または少数の個人にとっても、その設立と維持がけっして利益になりえないような、特定の公共事業と特定の公共機関を設立し維持する義務…[である](A・スミス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月16日
③議会は内閣に対する不信任決議権を持ち、内閣は議会に対する解散権を持つ。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月16日
④内閣は国務に関して議会に責任を負うが国民に対しては負わない。
⑤内閣は法案提出権を持つが、法案拒否権は持たない。
⑥首相は自分が所属する政党の中から閣僚を選んで内閣を組織する。
想像に反して、色彩と鮮明さに欠けた、ただ太陽で射てつけられ、炸裂する輝きを帯びた空の下で、そして時として、それは現実のものとは思えぬ様相を呈しだす。けだし光線の炸裂と、熱気の集中は官能の解放を、紛れもなく肉体の柔らかい湿りを連想させるからだ。『眼球譚』
— ジョルジュ・バタイユ (@G_Bataille_jp) 2018年5月16日
建設的なのとそうじゃないのとあるんだよ。
四苦八苦してるところにヤフオクで買った本が届く。
人間には理性がないという思想と人間理性は万能だという思想の間で自由主義は生まれました。前者は権威主義で後者は社会主義です。どちらも権威や計画で人を縛りつけます。
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月16日
人間にはささやかな理性はあるけど万能ではない。だから各人のことは各人に任せよう。これが自由主義の基礎ですねっ!
母の日当日、投稿者は午前中のうちに姑にお祝いの電話をかけたのだが…
「まず、母の日になったと同時に(0時の意味)『お母様、いつもご苦労様です』とお祝いの電話を一本入れるのが筋だし、朝9時に言ってくるとは何事!!! もう、母の日になってから9時間が過ぎてますよ! 非常識!」
と、叱責されてしまったという。
ある人について考えを変えなければならない時、我々は、それによって自分が味わう不愉快を容赦無く彼のせいにする。-善悪の彼岸-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年5月16日
申し訳なさとが体内に満ちて鼻から出そう。
才人は、誰も射ることのできない的を射る
— ショーペンハウアー名言集 (@Schopenhauer0) 2018年5月16日
天才は、誰にも見えない的を射る
ホッブズは共通権力を通じて相互契約によって成立した政治社会のことを「コモンウェルス」と呼んだ。ホッブズは人々から力と意志を譲渡された代理人のことを「主権 者」と呼び、人々の力を合成して創出した絶対権力のことを「主権」と呼んだ。一方で代理人=主権者以外の人々は「臣民」と呼んだ。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月16日
ガソリンだとしたら吐き出す煙草の煙は排気ガスってところか。さしずめ廃車寸前の軽自動車である。 けれど、ひと一人を乗せてまだなんとか動く。減価償却は済んでいて残存簿価は「思い出」だけだから、市場での価値はない。それが俺である。
私はいっぺんに多くの物事を知ろうとは思わない。-叡智は、認識に対しても、限界線を設けている。-偶像の黄昏-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年5月15日
政府の存在理由は自由の基礎的条件の整備ですっ!
— 古典的自由主義たん (@cl_liberalism) 2018年5月15日
だからそれを超える仕事はできません。してはいけないんです。
その規約が立憲主義的憲法で政府を監視するシステムが民主制ですっ!
民主制は人を幸せにするためにあるんじゃありませんよ!
個人と市場を政府から守るためにあるんです!
ねっ!
民主主義が、確立したルールでは制御できないような、権力の使用を必然的に含む活動を行おうと決定するならば、まちがいなく民主主義そのものが恣意的な権力となるのである。(F・A・ハイエク『隷属への道』西山千明訳 春秋社 2008年 p.89)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月15日
①われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。
— 山本七平bot (@yamamoto7hei) 2018年5月15日
「忠君愛国」から「正直ものがバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その″空気″で支配されてきた。<『「空気」の研究』
ってことになるんだろうか。トイカメラ用の充電池を買ってみたがうまくいかず、フツーの電池を買い直すことに。あーあ。
我々は、一見単純な「私」という代名詞の用法の背後に隠れているものを、一つ残らず解放しなくてはならない。主体、この複雑で脆弱なものは、語ることの非常に難しいものですが、それなしでは我々が語ることのできないものなのです。-精神分析の「解放者」、ラカン-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月15日
医者に行き処方してもらった薬ができたというので、薬局に妻が取りに行ってくれた。自分で行けないのが情けないし心苦しい。
デカルトは万物を「精神」と「物体」に峻別し、精神の主要な属性は思惟=考えることであり、物体の主要な属性は延長=拡がりを持つことであると主張した。デカルト にとって自然は精神を持たない物体のみから構成されているのであり、自然現象は物体の間における因果関係によって説明できるのである。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月15日
キリスト教徒たちはギリシアの神々の頭や腕を破壊したし、宗教改革家たちや革命家たちが聖像を危険な高所から引きずりおろすこともあったが、かれらが破壊しようとした石が、あまりに堅いために、その目的を半分しか達成できぬ場合もしばしばあった。
— エリアス・カネッティ (@Canetti_bot) 2018年5月14日
かつて教育の主要な機能の一つは、個人の形成は社会における彼の位置の決定を伴うということでした。今日では、これは「教育は、個人が好みに応じて自らを変えることを可能にする」と理解しなければならない。これは教育の「恒久的」提供が可能であるという条件でのみ可能なことだ。-覆面の哲学者-
— ミシェル・フーコー (@M_Foucault_jp) 2018年5月15日
ホッブズにとって哲学とは、理性に基づく正しい推論=計算によって得られる因果関係についての知識である。この定義は、伝統的な哲学の定義の枠組みを超えおり、自分の確立した「自然哲学(自然科学)」「道徳哲学(心理科学)」「政治哲学(社会科学)」の3つの学問体系を科学であると認識していた。
— 思想史たん (@shisoshi_tan) 2018年5月15日
ある人の何者であるかは、彼の才能が衰える時にいたって――つまり、彼が自分に何ができるかを見せられなくなるときにはじめて、暴露されるようになる。才能とても一つの化粧であり、化粧はまた隠蔽である。-善悪の彼岸-
— フリードリヒ・ニーチェ (@F_W_N_jp) 2018年5月15日
<死>はそこにいない時こそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。この老婦人がお墓の石に変身してしまうことは不快なことではなかった。それはミサの時にパンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。『言葉』
— サルトルbot (@jpsartre_bot) 2018年5月14日
労働が対象の形をとること、それが疎外としてあらわれるのだが、この疎外は、労働者が対象を生産すればするほど、所有できる対象はそれだけ少なくなり、かれは自分の生み出した資本にそれだけ大きく支配される、という形で進行する(K・マルクス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月14日
「政治的有効感」とは自分の政治行為が政治過程に対して何らかの影響を与えているという意識である。現代大衆社会では行政機構の肥大化や政治過程の複雑化が進行しており、政治についてある程度理解している者は自分の政治行為が政治過程に対して影響を与えることができないと考える。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月14日
…すべての共同体はなんらかの善を目標にするのであるが、それらのうちでも最高の共同体、他のすべてを包括する共同体は、あらゆる善のうち最高の善のために、最大の努力をもってそれを目指すものである。これが国家と呼ばれるもの、すなわち国家共同体にほかならない(アリストテレス)
— 経済思想bot (@historyofecon) 2018年5月14日
をするようになったから、体重の増加が心配だ。
ビジュアルのことは今さらどうでもいいが、重いと移動する(させる)のが難儀なのだ。
私はあのとき「Aを選ばないこともできたはずだ」という信念を抱くからこそ、私はAを自由に選んだと了解しているのです。つまり、自由とは、みずから実現したある過去の意図的行為に対して、「そうしないこともできたはずだ」(他行為可能)という信念とともに生じてくる。『後悔と自責の哲学』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年5月14日
正義とは、諸々の競合する利害や対立する要求が存在すると仮定され、そして、人々がお互いに自分の権利を主張しあうと想定されている場合の、実践の徳性なのである。(ジョン・ロールズ「公正としての正義」同『公正としての正義』田中成明編訳 木鐸社 1979年 p.44)
— 政治哲学bot (@seiji_tetsugaku) 2018年5月12日
中国の文化大革命で紅衛兵や労働者が,劉少奇の支配下におかれた党や政府機関に対する奪権闘争のなかで使ったスローガン。「謀反には道理がある」という意味であるが,「マルクス主義の道理はいろいろあるが,要するに一言でいえば,謀反には道理があるということである」という 1939年の毛沢東の言葉が原典とみられる。「造反」とは元来,農民蜂起などの場合に使われた伝統的な用語であり,封建時代にいわれた「造反無道」 (謀反は人間の道に反する) の言葉を毛沢東が「造反有理」と言い代えたのである。既成組織の破壊,幹部のつるし上げなどに使われたが,日本の大学闘争でもよく使用されたスローガンである。
今日は朝から管理会社による排水管清掃でした。マンション住まいの人間にとっては日常的な些細なイベントだけど、入院による半年の「空白」がこれを異化してしまう。妻が対応してくれた。がんらいこういうのは全部俺の仕事だったのだが。
政治権力とは、一定の領域内において合法的な暴力装置を独占し、その領域内の全ての住民に対して行使することのできる権力である。政治権力は人間の最も基本的な価値である生命の安全と身体の自由を合法的に剥奪できると言う点において最も危険な権力だと言える。
— 現代政治理論くん (@Seiji_Riron) 2018年5月11日
端的にいって余計なお世話だバカヤロウ(http://www.kasi-time.com/item-52785.htmll)ってこと。こんなバカ丸出しの説教を自ら披瀝する二重の愚かさ。「謝罪」ったって何に対する謝罪かも自覚してないだろう。
誰も他人に近づくことはできないし、他人と同じ高さに達することもできない。生活のあらゆる分野に根を張ったヒエラルヒーは、人間が自分より上層の誰かに触れたり、見せかけではなく、心から、自分よりも下層の誰かに近づくことを許さないのである。
— エリアス・カネッティ (@Canetti_bot) 2018年5月9日
https://medley.life/news/56d650d0267e7f13008b8663/
脳の細胞は一度死んでしまうと元には戻りませんが、脳には可塑性という能力があります。これは、脳の神経細胞が新たに経路を作ったり、失われた細胞の役割を他の細胞が担おうとする能力のことを指します。この可塑性という能力を最大限に生かすためにリハビリテーションは行われます。発症直後の症状が重度の場合は、後遺症も残りやすいですが、長期的ににリハビリテーションを行うことで、少しずつ脳の神経細胞に刺激を与え変化をもたらし回復する期待は持たれています。しかし、広範な脳幹出血などにより意識障害が長く続く場合は、その後重い後遺症が残ることがあります。
脳出血の症状は、その発症部位と出血範囲により様々で、運動麻痺以外にも高次脳機能障害や眼球運動障害、協調運動障害などの症状が現れることもあります。脳出血を発症した後は早期にリハビリテーションを開始することが有効で後遺症を少しでも軽減させることに繋がります。
偽善と等価
年末から年始にかけてマホの不調が続いた。新年早々、妻がドコモショップで機種変更して病室に届けてくれたのだが、そいつがまたすぐ不調。でもそれは俺がいけなかったようで、初期化して今も使い続けてる。しかし、いかんせん料金が高いので、格安スマホに乗り換えたい。ただ、前述のようなう経緯があるから端末はこのままにしておきたいのだ。思い出は唯物的。
「おまえのためを思って言っている」という言葉を吐く人は限りなく鈍感です。こちらの気持ちを正確に察知して言っていることは稀で(ほとんどなく)、自分の気持ちを押しつけているだけなのですから。しかも、「よいこと」をしているという思い上がりがある。『私の嫌いな10の言葉』
— 中島義道 bot (@yoshimichi_bot) 2018年4月12日
まったくそのとおりだよ。 理解者を装いながら理解するつもりなんかハナからなく、「さすがによく見てますねね」とかなんとか、賞賛の言葉を欲しがる自己愛の塊なのだ。
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