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2018年4月25日 (水)

檜垣立哉『フーコー講義』

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〈人間の消滅〉
「人間」とは、つまり理性的で自由で民主的で個人主義的な「人間」とは絶対普遍の存在ではなく、それもまたひとつの時代の産物にすぎないのではないか。ある時代が過ぎれば、その時代において疑うことのできなかった発想が古びて語られなくなるように、「人間」もまた静かにその在り方を消していく、そうしたものでしかないのではないか。それは一種の救いの言葉でもあるのではないか。

60年代のヨーロッパは近代という壮大なプロジェクトへの『異議申し立て』の時代である。この時代を契機として、エコロジーにせよフェミニズムにせよ、あるいは植民地主義への生産にせよ、近代という「ヨーロッパの理想」に対し、それが含んでいる裏の問題点をはっきりさせるという議論が主流を占めていくことになる。その時代までのヨーロッパは(あるいはそれを導入した日本における思想的文脈は)、いかにしてヨーロッパ的な近代の理念と、それが可能にした民主主義的な政治やそこでのにんっげんの平等性を実現するのかを大きな課題としていた。ところが60年代には、すでにそうした言葉そのものが、実際にはいろいろな難問を孕んでいて、このままではとても先に進まないのではないかというような予感を、多くの人が抱いてしまっていた。(略)こうした思考は、近代が行きつく先に行きついてしまった、そうした感情とともに拡がりをみせていった。60年代のこうした発想が現在につながる「近代的なものの閉塞」という状況につながっていることは、体感的にはだいぶ薄れてしまったかもしれない。しかし理論的にはその問いは、われわれに突き付けられ続けている。近代という理念が、明確に正しいとはいえない状況が発生すると、ひとは自分がどう動いたらいいのかわかりにくくなる。そうした分かりにくさの中に我々はい続けている。そこにフーコーの「人間の消滅」という言葉がうまく調和してしまう。

 

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