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2017年9月

2017年9月26日 (火)

墓場の運動会

日経の調査で安倍内閣の支持率は50%になったそうです。
これってマスコミ主導で誕生した民主党政権がすぐに馬脚をあらわし、短命で終わったのと表裏一体の構造じゃないですか。
 
マスコミ報道によって安倍政権の支持率は急落した。
連日、「モリカケ」で「疑惑」を煽りまくったからだ。
しかし半年たっても何も出てこない。
そりゃそうだ。そもそも朝日新聞のお家芸・捏造なのだから。
 
それでも、朝日・毎日・東京的なるメディアは「説明が足りない」「疑惑は深まった」として衆議院の解散を迫り、いざそうなれば「疑惑隠し」とやりつづけている。
フツーに知性のある国民ならば、こうした「報道」に対して、こいつらアホちゃうかとなる。
 
2017年は新聞が自殺した年として記憶されるだろう。実感として、ここまでひどいのってなかった。
死者にも生きる権利(?)はあるのだろうが、そんなものにつき合う義務はこちらにはない。勝手に墓場で運動会でもしていることだ。

2017年9月25日 (月)

思考停止

芸術は思考停止を正当化するツールじゃないんですよ。

うやむや

ところで文書を朝日に持ち込んだのが前川さんではないかという話はどうなったんですかね? そして持ち込んだ本人が第三者を装って「文書は本物です」と証言したんじゃないかという疑惑。
朝日のような大新聞がまさかとは思いますけれども、万が一、倒閣を目的にそんなやり方をしていたとしたら報道機関の自殺なのだから、うやむやにしないで追及してください。

芸術家猥褻か

芸術家がよくする「猥褻か芸術か」という議論がありますね。私はそれ自体が無意味であると思っています。「芸術」だったら何だというのか。治外法権だとでもいうのだろうか? 猥褻な芸術だってあるんですよ。文科省の検定を通って美術の教科書に載るのが「芸術」じゃないんだ。
翻って、人の頭の中に留まる限り、それがどんなに卑猥だろうと、ヘイトだろうと「自由」です。それが社会の中で外形化したとき、つまり他者との関係においてはじめて制約を受ける対象になるんですよ。

通俗道徳

通俗道徳に回収されない芝居を書いています。その程度の矜恃は私にもある。

廃屋

80年代の終わりというか90年代のはじめに北大演劇研究会が札幌の街道沿いの廃屋でやや大がかりな公演をしました。当時私は別の劇団に所属しており、稽古の帰りに観に行きました。
 
建物の内側も外側も改造しまくってました。劇団第七病棟みたいなノリですね。大家との直接交渉だそうで、「行政」なんか噛んでない。たぶん消防署からは何か言われたと思いますが。
 
当時は札幌に芝居専用の劇場ってなかったんです。だから私が学生演劇に足を踏み入れた時も、まず先輩に言われたことは公演できそうな廃屋を探せってこと。芝居ってそういうもんだと思ってました。クラーク会館のホールとかじゃダメなわけ。新劇じゃねえんだと。
  
とくに札幌なんか行政によって計画された「お行儀のいい」町並みなわけで、その「隙間」にそういう「異形」を出現させることじたいが、結果として「公」への批評になっていました。
で、演研の主要メンバーのうちの一人はその後、しれっと富士銀行とかに就職したそうです。いいんですよ、それで。

泥をかぶる

己の「崇高」な理念を披瀝したがる人間より、ちゃんと泥をかぶれる人間こそ評価されるべきでしょ。何が「悲しい、悔しい」だ。バカめ。

ホッケ

ホッケをはじめて食ったのは札幌駅北口の居酒屋兼食堂ででした。よく覚えてる。けど、いつだろう? 受験のとき? でも宿は南口だったんですよね。大通の近く。
 
雪が降ったら困るからってんで試験の二日前に札幌入りしたんでした。そしたらヒマで。今さら勉強してもしょうがねえしってんで、時計台とか道庁とか観に行きました。ついでに試験会場の下見も。ついでってことはないが。
 
試験会場が代ゼミだったんです。それは確かに駅の北口で、そのとき食ったのかなあ。ま、いつでもいいんですけど。

作文コンクール

高校生の時、なんかの作文コンクールで学年代表になりました。
内容の詳細は忘れましたが「考えること/感じること」の二項対立で後者に軍配を上げるというJポップ的(せいぜいブルーハーツ的)なものだった記憶はあります。
 
職員会議で決まったそうで「そういうことだから」と担任の先生に言われ、校正のため現国の先生を訪れました。
すると先生は「こんなのどこがいいのかわからない。俺は認めない」と言うわけです。
 
もしも今、私が彼の立場だったら、彼と同じ事を言うと思います。

事故物件

いつかこのことは戯曲でちゃんと描きたいなと、もう何年も思ってるんですが、なかなかうまくいきません。
書きたきゃ好きに書けばいいだろ、作者なんだから、と思うかもしれませんが、登場人物にいきなり「九条があ」とか「集団的自衛権があ」とか「共謀罪があ」とか言わせて平気なタイプのオメデタイ書き手ではないんです、私は。あなたと違うんです((C)福田康夫)。
  
「事故物件」の切り口で「宗教」というか死生観みたいなもんと「経済」のなんたるかが同時に描けるような気がするんですよね。
たとえば私がマンションの自室で自殺する。するとこの部屋の市場での価値はうんと下がってしまう。物理的にどんなに綺麗にしても価値は完全には回復しない。
「価値」って何か?
 
あと、不動産の価値(マルクスっぽく言えば交換価値)が下がることにより、残された妻(まり菜じゃない方)がこの部屋を転売できなくなることを私が心配している。
そのとき私はすでに死んでいるのだから、関係ないといえば関係ない。関係ないという認識すらできない。残された妻を気にかけているのはあくまで生前の私。「遺書」と同じ構造ですね。これが私のいう「宗教」です。
  
事故物件なんて、そうと知らなきゃべつに何でもないわけです。「知っている」から妄想がかきたてられて己の価値判断に影響するのだし、それが自分だけに固有の価値観ではなく、少なくとも日本の市場で一般に共有されているということを「知っている」私が、残された妻を「遺書」的に心配するわけです。
 
そうした「私」は「あなた」でもある。「あなた」は「彼」でもあり、「彼」は「彼女」でもあり、そうやって共有された観念(ドゥルーズっぽくいえばリゾーム的な)が「公共」だったり、ナショナリズムだったりにつながっている。そんなふうに思うわけです。

男女別学

一方、亀田温子・十文字学園女子大名誉教授(ジェンダーと教育)は「建学の精神に基づく私立と違い、公の制度である公立高が性別を理由に入学資格を与えないことは社会的公正さを欠く。男女別学が残ることは、多様性を認め合う力が必要とされるこれからの社会に適するのか」と疑問を呈する。
んじゃ私は「これからの社会に適」しない高校で学んじまったんですかね。
この名誉教授は「男女別学」が存在する多様性を認めてないじゃないか。アホか。
 
群馬じゃたとえば前橋高校に入れる学力の女子は前橋女子高校に行くんですよ。高崎、太田、桐生、渋川、沼田、全部一緒。何の「社会的公正さを欠く」か。
むろん生徒数の減少が将来、男子校・女子校の統合を要請することはあり得るだろう。だが、それとこれとは別の話だ。
 
公立でダメだというなら私立もダメだ。「建学の精神に基づく私立と違い」などというのは屁理屈じゃないか。「建学の精神」があれば「多様性を認め合う力が必要とされ」ないのか?
だいたい自分の肩書が「女子大名誉教授」じゃないか。何の冗談か。そこをまず共学化してみろよ。曲がりなりにも学者なら少しは考えてものを言え。

民進党の終わり

やはり「モリカケ」が民進党を決定的に終わらせたね。
「追及」を称賛する声に彼らは包まれていたはずだったが、その集団には大きな「外部」があったのだ。支持率の低下でそのことに気づかねばおかしい。
さらに事実が明らかになるにつけ、そもそもこの「疑惑」が朝日新聞の捏造だとハッキリした。「このやろう、また嘘ついたのか!」と怒らなきゃいけない局面で、しかしすでに彼らと「共犯者」であった民進党は、もう戻れない。そして事実の方を曲げようとしたわけだ。
こんな連中に未来などあるわけがない。

2017年9月12日 (火)

電波オークション 政府が導入検討

『各事業者の負担額の適正性にも議論があり、経済評論家の上念司氏は「電波は国民の共有財産だ。携帯電話事業者に比べ、放送局の電波使用量は低い額に設定されている」と指摘する。』
 
そのとおりでしょ。「使用量」は「使用料」の誤植だと思いますが。
じゃあ放送局の電波使用料が低い額に設定されているのはなぜか? 
放送法遵守のコストと相殺されるという考え方なんじゃないの? 
ところが放送法などまったくの有名無実であることが「加計問題」でハッキリした。となれば、ほんらい支払われるべき料金との差額が放送局にネコババされていることになる。
これを市場原理によって正そうというわけだ。何の問題がある? 
  
『電波オークションは電波の周波数の一定期間の利用権を競争入札で決める方式で、経済協力開発機構(OECD)加盟国の米国や英国、フランス、ドイツなど先進国で実施されている。』
  
いつも「海外ではー」っていってる出羽守はすべからく賛成すべし。

2017年9月 5日 (火)

ステレオタイプ

たとえば医者は白衣を着ていて頭がいいというステレオタイプ。
白衣を着ておらず頭の悪い医者だって現実には存在するのだろうが、劇中ではそれは「個性」となりえない。
逆説的な言い方になるけれど、ステレオタイプを回避するにはむしろ積極的にステレオタイプを目指すのが有効だ。それは逃げ水みたいに決して辿り着けやしない。必ず差異が生じる。
その差異が魅力的であるか、否か。それを判別し、取捨選択する。そうやって「個性」ができあがる。

手癖

劇場で一番観たくないものは俳優の手癖の披露だ。

ラーメン屋

ラーメン屋でちょっとした酒盛りをしている客が「すいませーん、すいませーん」と店員を呼ぶ。
ややあってカウンターから出てきた店員がその客の傍らまで行き「はい」。
ちーがーうーだろー! 
「すいませーん」が聞こえているかいないかが客はわからないんだよ。だからカウンターの中で「はーい」とこたえてやれば、客は店員の次のアクションを黙って待つことができるの。「聞こえてますよ」って意味だよ「はーい」は。

こころ

国語の教科書に『こころ』が載ってた記憶がありません。で、後に読みましたけれども『こころ』が名作だとは思いません。やっぱ『夢十夜』が好きですよ。第一夜で泣いてしまう。
それはともかく、義務教育で一番大事なのは国語です。これはもう断言します。
文法やなんかは大人になったら忘れてしまって当然なんです。けれども、一度そこを通っていれば指摘されたら理解できる。翻っていえば、通ってないと一生理解できないんですよ。

コンビニ

「あと、キャスターマイルドとエコー」
「キャスターマイルドのエコー」
「いや、キャスターマイルド『と』」
「と?」
「キャスターマイルドをひとつとエコーをひとつ」
「ああ、キャスターマイルドとエコー。おひとつずつでいいですか?」
だからそう言ってんじゃん!
 

稽古

できるだけ効率的に稽古したい。精神論でなく。動機の純粋性の強調は創造の怠慢を正当化しない。

今回も稽古場は調布市と川崎市。調布の稽古場は狭いのでバミリもしないつもり。準備、撤収の時間ももったいないし。
調布で煮詰めたものを川崎で整える感じか。
 ...
全10場。稽古するシーンはあらかじめ決めてある。シーンに関係のある人だけ稽古場にくれば良い。むろん、自分がそのシーンに出ていなくとも、劇構造的に関連していることはあるのだし、それを観て演技プランに反映させたいと思うのならば見学すれば良い。よそはどうだか知らないが、うちはずっとそういうやり方。

昔、アシスタントの大学生に「明日からもう来なくていい」と言い渡したことがあった。単に終了時間を待つ者が混じると稽古場の温度が下がる。創造を阻害する。むしろ居なくて良い。

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