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2017年8月13日 (日)

民主主義?

 
リンク先の中日新聞で高畑勲がいっている。
『民主主義は日本で成熟したでしょうか。空気を読んで流れに乗ってしまいやすい点は変わっていないのではないですか。』
 
それはそのとおりだろう。ワイドショウ的な付和雷同。イワシの群れに個人の思考はない。ギョーカイ内で高畑勲的な言説がステレオタイプとなっているのもそういう力学によるものだ。
イワシの群れの行動は制御不能。どういう理由でどっちに進むのか誰にも説明できない。ただ意味不明な「結果」だけが残るのである。それが危険であるという指摘を私はずっとしている。
   
ルソーがいうところの全体意思。これを定量的に正当化する手続きが民主主義であると私は考える。殴り合いでも声のでかさでもなく「個人」の意思を表明する手段は今のところ選挙しかない。「清き一票」の「清さ」は、そのプロセスに不正がないことで担保される。投票者の動機の純粋性のことではない。
  
しかし高畑はこういうのである。
『結局投票でしか意思表示ができないし政権に反対する勉強会やデモに参加する人の輪がどんどん広がっているとは感じにくい。』
 
いったいこの人は「民主主義」を何だと思っているのだろうか?
翻って言えば、こうした動機の純粋性を満足させる「運動」こそが民主主義であると高畑的な人らは信じて疑わないのである。
その信念を成立させるためには、前提として『国民対政府という構図で政府に全ての悪をおしつける』児童ブンガクが必要なのだ。
 
「清く正しく美しく」ありたい(そのように周囲の人間に承認されたい)と願う芸術界隈の人間にとって、己の思考の怠慢を動機の純粋性(自己申告!)で補えるこの善悪二項対立の世界観はじつに都合がいい。
通俗的な憂国のポーズでアベが悪いとか言っておけばいいのだ。
私に言わせれば卑怯者である。芸術は思考停止を正当化する装置ではない。

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